ドラマ(国内・海外)

2012年7月17日 (火)

犬も歩けば弾にあたる シャーロック

 タイトルの「犬も歩けば弾に当たる」は、シャーロック・ホームズ雑学百科(1983年)に収録されている、ファンによるファンのためのカルタの一説です(もちろん、バスカヴィル家の犬のことですね)。

423_2

 この本は、日本シャーロックホームズ協会(JSHC)会員が「分担執筆」したホームズ百科事典の力作で、物語中に出てくる小道具、人物やヴィクトリア朝文化にかかわる事物などを取り上げて、項目ごとに、ある時は専門的にまたある時は軽いジョークで解説しています。

 数あるシャーロックホームズ(以下SH)の研究本の中でも、わたしが一番好きな本で、当時、JSHCの会員であったわたしは、京都下鴨神社裏の下宿で、安い丸パンにタマネギの薄切りを挟んだだけのブローチェ(オランダのサンドイッチのことです)をほおばりながら、何度も読み返したものでした。

 SHのファンを、一般にシャーロッキアンと呼びますが、彼らのいう、コナン・ドイル自身によって書かれた長短60のSHの物語、いわゆる「聖典(キャノン)」を底本に、「自分自身の専門分野」を切り口にして、さまざまな論文(と呼んで良いほどの出来です)が、それこそ世界中のシャーロッキアンに書かれています。

 ベアリング・グールドしかり、エイドリアン・ドイルしかり、長沼博士しかり。

 この「SH雑学百科」では、イラスト付きの見開き2ページで、「鉄道」「拳銃」「犬」など、様々な「自分の得意分野」によって、SHを、ロンドンを、そして絢爛(けんらん)豪華であったビクトリア朝大英帝国を解説することで、その時代そのものを浮き彫りにしています。


 話は変わって――

 聖典(キャノン)以外に、ファンがそれぞれのセンスで描いたSH物語をパスティーシュと呼びます。

 古今、様々な人々によってSHのパスティーシュは作られました。



 昨日より、NHK-BSプレミアムで、英国のドラマ「シャーロック」が三夜連続の集中放送されています。

424_2

 作品自体は2010年制作らしいですが、寡聞にしてわたしは知りませんでした。

 このドラマの特徴はパスティーシュであること、つまりSHを「そのまま現代に生きる探偵」として描いていることです。

 これまでのパスティーシュに多かった、「ワトソンの隠された手記が見つかった」(だいたいは、古びた皮箱などを、ワトソンの子孫が見つけることが多いのですが)や「ホームズの魂が現代に転生した」といった、オカルティックな設定をやめ、


『ストレート』に『完全にビクトリア朝色』を排して、ワトソン、モリアーティ、ハドソン夫人、レストレイド警部など登場人物名はそのままに、現代に生きるSHを描こうとしているのですね。

 これまでは、エイドリアン・ドイル(だったかな)の有名な言葉「わたしたちがSHを愛するのは、彼の生きた時代、大ビクトリア朝を愛するからだ」で表現されるように、


 早朝のロンドン、ガス灯が霧に煙る中、指笛を鳴らしハンサム(二輪馬車)に乗り込み、「チャリングクロス駅!」と御者に告げ――

「いまからなら特別列車が仕立てられる。それなら奴らに追いつけるはずだ」

などとワトソンに語る――といったシチュエーションが、SHだったわけです。


 そういった、些末(さまつ)でありながら重要な小道具をすべて排し、知りたい情報はスマートフォンで調べてしまう若きシャーロック、出会った事件を戦争によるPTSP脱出のためにセラピストから勧められた「ブログに書く」ワトソン、という現代っ子(死語?)カタギな二人の人間関係を軸に、ドラマは描かれます。


 ドルチェ・エ・ガッバーナのタイトなシャツに細身のジャケット、ベルスタッフのコートを粋に着こなし、ロンドンの町で、例の、背の高い黒塗りキャブ(タクシー)に乗り込むホームズ。

 颯爽とはしているものの、世間的には変人扱いされ(まあ、現代では当然でしょう)、あまつさえ(聖典では)大好物だったパイプすら、「いまのロンドンではタバコも吸えない」とグチりながら、巨大なニコチン・パッチを腕に張らねばなりません。

 そのセリフを聞いて、レストレードが、「私もだ」といって袖をまくり、これもまた巨大なニコチン・パッチを見せるのはご愛敬ですが。

 第一話において、戦場で負傷したワトソンが、「傷痍軍人年金だけでロンドンで暮らすのは無理だ」と思った矢先に、ルームシェアの相手としてSHを紹介され、その場で、「アフガニスタン?それともイラク?」と尋ねられるのは原作通りです。

 まあ、原作で、記念すべきSHの第一声とされているのは、

「アフガニスタンに居られたんですね」

だったのですが。


 それにしても、期せずして、というか、堂々巡りというか、100年以上前のビクトリア朝時代と同じ、アフガニスタンという戦場でワトソンが負傷しているのには、制作者も苦笑したことでしょう。

 (大)英帝国何やってんだよ!

 SHが、女性嫌いと、その気取った物腰、男とのルームシェアを言い出したことから、世間からだけでなく、ワトソンからすらもゲイだと思われているのもご愛敬です。

 制作、脚本のスティーブ・モファットとマーク・ガティスは――

425

 あの『史上最高のSH役者』(原作挿絵画家のシドニー・パジットの描くSHそっくりという意味で)としてファンの間では有名な、『映画マイフェアレディで、主人公に恋するフレディを演じ、「On The Street Where You Live (君住む街)」を歌った(後に口パクだったとカミング・アウト)』ジェレミー・ブレット演じる、「BBC制作のシャーロック・ホームズ」シリーズを子供の頃から見続け、影響を受け、それをベースに今回の現代版「シャーロック」を作ったといいます。

426

 だからなのか、ところどころ、J・ブレット演じるSHに似た雰囲気を感じることがあります。

 同じ、現代英国のドラマでも「トーチウッド」のご都合主義、馬鹿さ加減とは一線を画した「シャーロック」、お時間があれば、ご覧になってください。

 ちなみに、今回の三夜連続放映は、近日放送される「シャーロック2」に先駆けてのものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年5月25日 (金)

難しい現在のヒロイン像? ~BIONIC WOMAN~

 huluの項で書きましたが、わたしの知らない間に、バイオニック・ジェミーのリメイク;BIONIC WOMANが放映されていました。

 現在、huluでは、そのファースト・シーズンを観ることができます。

イメージ 1

 しかし、その内容自体はあまり面白くありません。

 観ているうちに、次の回へ進むのが苦痛になるのですね。

 簡単にいえば、スーパーパワーを持つ義手義足をつけさせられた一般女性が、望まぬ大事件に立ち向かわせられる、というありがちなハナシなのですが、オリジナルと違い、義手義足が生体素材ともいうべき半生物のものになっていたり(ターミネーター4の感覚でしょうか?金属の骨と生身の肉……)、拒絶反応を抑えるためにナノ・テクノロジーを使っていたり、人工組織に埋め込まれたコンピューターが戦闘の反応を学習して、闘うたびに強くなったり、と、設定そのものはおもしろくなってはいるのですが、大きな問題があって物語にのめり込めないのですね。

 ここからは個人的かつ偏見感想になってしまいます。
 要するにヒロインのキャラクターに魅力がないのですね。

 いかにも現在のアメリカ、いや世界中の現代女性にありがちな(それすら男の目から見たステレオ・タイプの思いこみかもしれませんが)、自己主張の強い、自己犠牲をあまり見せたがらない、謙虚さにかけ乱暴で粗雑な態度をとる「ダメな男を女性にしたような」タイプの女性像ですから。

 なにも、男にとって都合の良い、大人しく従順な女性をみたいといっているのではありません。

 しかし、バイオニック学者の恋人とともに事故にあい、彼女の命と身体を救うためにバイオニック手術をほどこした恋人を突き飛ばして怪我をさせ、彼が殺されると、いきなり他の男をトイレにさそって性行為におよぼうとし、養ってはいるのものの、自分勝手な都合で妹を支配しようとする主人公は、それこそ「どこにでもいる」「一般女性の共感を呼びそうな」女性像かもしれませんが、ヒロインとしてみればまるで魅力がないのです。
 その点で、途中からコンセプトがグダグダになって、シーズン2で事実上の打ち切りとなってしまったターミネーター:サラ・コナー・クロニクルズのサラの方が、戦闘者と平和主義者、女と母、勇者と臆病者を混在させた、殉教者に似た性格でヒロインとしての魅力がありました。

 サラは、決して男の目線から見た「都合のよい女」ではありません。

 それどころか、我の強い、いわゆる「イヤな女」といってもよい性格です。

 それが息子を守り世界を守る、地球の聖母としての役割ゆえの行動なのだなぁ、と納得がいく設定とエピソードが積み重ねられていることで、一転、魅力的なキャラクターになっているのです。

 新バイオニック・ジェミーは、そういったエピソードもなしに、伏線もなしに、いきなり自分勝手なヤング・レディとして、映画版ララ・クロフトのようにガサツな女として登場し暴れるから魅力的に見えないのですね。

 付け加えておけば、線が細く、か弱そうな初代バイオニックウーマン、リンゼイ・ワグナーとはまったく違う、いかにも肉食系のごっついアゴしたガウガウ女(いわゆるブルネットのヤンキー顔、アゴが割れてる感じ)キャスティングにも問題があるのでしょう。
 だって、弱そうな女性がスーパーパワーを持つ意外感は面白いですが、ゴツイ感じの(まあ、身体的にはやせているのでしょうが)女性が、壁をブチ破ったって意外感もなにも感じませんからね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年3月 8日 (木)

ちょっと惜しかったB級SF フジテレビ「O-PARTS~オーパーツ~」

 先日、放映された、四夜連続深夜番組「O-PARTS~オーパーツ~」を観ました。

Op1

            いや、これはオレオではなく、本当のオーパーツ↑

「O-PARTS~オーパーツ~」公式サイト(あらすじの詳細、画像などはすべてここ↓にあります)
  http://www.fujitv.co.jp/O-PARTS/index.html

 何かの予告で観て、四夜連続、チープそうなSF映像、そして、まったく知らない役者陣(どこかでカンジャニとか書かれてましたが、そもそも、その人たちを知らない)と、マイナス要素が多すぎて、かえって興味が惹かれ、録り捨て用のトルネで録画してあったものを観たのです。

 はっきりいって、最初は辛かった。

 例によって、イカニモな、自己中心的かつ自己主張過多な登場人物たちが(そうじゃなかった若者は早々に退場!)叫シーンが多い。

 富野ヨシユキがガンダム以降流行らせ、アンノがエヴァンゲリオン(ヲンか?)で一応完成させた「巻き込まれ型僕ちゃんヒーロー自己主張す」のパターンですね。

 すぐ声高に「オレたち仲間じゃないか」なんていうのも、気味が悪いったらありゃしない。

 今の若い人に尋ねてみたいけど、本当に、ジッサイ、みんなで「仲間」「ナカマ」って確認しあって仲良しぶるものなのかなぁ。

 もしそうなら、それはかなり歪んだ教育のタマモノのような気がする。

 なんというか、自己中心的、利己的な主張と、「ナカマ」って叫ぶと、なんとなく仲良くなると言う設定にギャップがありすぎるんだな。

 少年あるいは青年コミックスなどを読んでも、あまり違和感がないけれど、たまに日本のドラマ(映画含む)を観ると、この人たちいったいどうしたんだろう、と思ってしまうことが多い。

 最近観たものでは、「インシテミル」「彼岸島」なんかがそうだった(まあ、最近の映画でもないし、「彼岸島」は原作コミックでもそのコトバが鼻につきますが)。

 これって、上記コミックスは男性向けで、ドラマは、視聴者がほとんど女性という、対象者の性差の問題なのかな。

 でも、女の子が、「仲間」「ナカマ」って連呼するのは、ちょっとあり得ないように思う。

 いったい、どこで、日本のドラマはこんな風に作るんだ、という風潮ができたのだろう。

 あるいは……

 そうか、これらのパターンは、中・高校生向けのドラマによくある言動なのかも。

 義務教育に近い、学校教育に関わっている世代の子供たち。

ということは、やはり学校教育が原因かな。

 コミックスは、読者層に大人も入るから違和感が少ないのか?

 ともあれ、全体としてみると、この物語は、それほど悪いデキではなかったような気がします。

 特に、ヒロインの扱いがうまかった。

 実験用のモルモットとして、徹底的に傷つけられた存在として、政府を恨みながらも、人そのものを憎むことができない「善良さを持つ生き物」としての描き方が良い。

 未来から来る暗殺者、といえばターミネーターが有名ですが、それに、先祖・子孫という「血縁同士なればこその共感性」を加えたのも良かった。

 オリジナルとクローンの恋、というのは、わたしも思いついて、三十年前に「由良」という作品で書きましたが(自作小説にあります)、なかなか魅力的な設定なんですよね。

 そりゃあ、なんで未来から来た暗殺者集団が、毎回、電子レンジよろしく、マイクロ・ウェーブを使ったショボい間接攻撃方法しか取らないの?とか、何で、物質の交換転送ができるなら、遠距離からターゲットを狙って、比較的大きな物体と交換(例えばペコちゃん人形とか)し、体の大部分を取り去ってしまえば、あっさりと殺すことができるのに、やらないのか、どうして怪人二十面相*(ルパンというべきか?)のように日付のみならず時刻まで予告するのか(しかも、その理由も要領を得ない*)、という欠点はありますが、物語全体の流れは悪くない。

--------------------------------------------------------------------------------

 *最近になって、初めて「二十面相の娘」を読んだので、つい二十面相、といってしまいます(「二十面相の娘」については、別項にて書く予定)。

 *物語中では、テロリストはそういう示威行為的な行動をするものだ、と言っていたけど、何か違和感が残ります。

--------------------------------------------------------------------------------

 しかし、やはり気になったのが演出面。

 電磁波の生体への影響は、少しでも電磁波をかじったものなら知っていますが、眼球の白濁、つまり目が煮えて白くなるという症状になって現れるのです。

 そのくらいは映像表現として出して欲しかった。
 目から血を流させる、なんて安っぽい方法をとらずにね。

 「オーパーツ」の総評、ヒトコトで言えば、シノプシス(あらすじ)は悪くないけど、演出がヘボかった、ということになるかな。

 最後のオチといい、爆弾の処理方法といい、観るべきところは多かったのに残念でした。

 プロットとして、ターミネーター、リターナー、僕の彼女はサイボーグあたりに影響を受けた作品でしょう。

 安易に、SF「映画」からではなく、ちょっとハードなSF「小説」からインスパイアされていれば、もっと歯ごたえのある作品になったのではないか、と思います。

「マンガを描くのに、マンガから得た知識で描くな」
とは、よくいわれることですから。

 まぁ、そんな難しい作品にしてしまうと、企画が通らないんでしょうがね。

 ともかく、オーパーツ、最後まで通してご覧になられるなら、DVD化された際に借りてご覧になられても良いかと思いますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月31日 (火)

ゲゲゲの黄金の日々

 連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」も佳境に入ってきました。

 赤貧(今は誰も使いませんね)洗う如き生活をしている時は、我が身につまされて、よく観ていましたが、豊かになってからは、、あまり真剣に観ていません。

 話はちょっと横道にそれて……これは別項で書こうと思っていますが、先日、日本橋にでかけたおり、「禁断の惑星」のロビー貯金箱を叩き売りの値段で手に入れました。

 連日、ディスプレイの前に置いて悦に入っています。

 そこで、この機会に、映画を見直そうとDVDを探すうち、「のんのんばぁとオレ」を見つけました。

170

 何年か前に、スカイパーフェクトで放映していたものです。

 ご存知のように、これは、漫画家、水木しげる氏が少年時代を描いた原作を、1991年にNHKがドラマ化した作品です。

 さっそく全五話を一息に観かえしてしまいました。

171

 母役をもたいまさこ、父役を岸部一徳が好演しています。

 番組冒頭、まだ矍鑠(かくしゃく)として元気な水木しげる氏自らが登場し、当時の思い出を語りながら物語へと誘います。

 今は知らず、かつて男の子にとって、少年時代は、ある意味ユートピアでした。

 その半ズボンのポケットの中には、綺麗なガラス玉、なにか得体のしれない動物の骨、独楽回しの糸の切れ端と共に、遊びのエネルギーがいっぱいにつまっている。

 その過剰なエネルギーと好奇心が、時にトカゲや蛙の面白半分の解剖などの、同世代の(いや、世間全般のかな)女の子たちのマユをひそめさせる行為につながるのです。

 いまだ、明確な自我の目覚めを得ず、したがって、それゆえの孤独を知らず、たえず胸を軽く押されるようなメランコリィを知らない黄金の日々。

「のんのんばぁとオレ」は、正しく少年の、その幸福な世界を描いています。

「のんのん」つまり神様をまつる民間の拝み屋のお婆さん、だからのんのんばぁ。

 山田 昌さんが好演しています。

 当時からその仕事だけでは食い詰めて、水木しげるの家に臨時に雇われ、家政婦のような仕事をしつつ、彼女は、少年たちに、さまざまな妖怪や不可思議な出来事と共に、教養ではなく、経験から得たヤルベキコト・ヤッテハナラヌコトを伝えていくのです。

 また「この親にしてこの子あり」の夢想家の父や母、結核の転地療養のためにやってきた遠縁の女の子との関わりを交えつつ物語は進んでいきます。

 子供たちは、毎日のように隣村の子供たちと戦争ゴッコをくりかえしていますが、いまだ戦時色は強くなく、田舎の村の雰囲気は自由です。

 その中で、少年は逃亡中の強盗犯と出会い、少し年上の女の子に淡い恋心を持ちます。

 強盗で思い出しました。

 わたしの祖母は、山口県の青海島(オウミジマ)という離島(現在は橋が架かっています)の出身ですが、八歳の時に山賊にあったことがあるそうです。

 十二歳の姉を頭に、三人の女の子だけで、島から仙崎(本州側)にある本家に引き出物を受け取りにいった帰りのことだそうです。

 祖母の家は、本州からみて島の反対側にあるので、行きは家の前の海岸から舟に乗り込んで送ったもらったのですが、帰りは、何かの用事で遅くなってしまい、同じ場所まで送り届けるというのを断って、本州側の浜につけてもらったそうです。

 なぜ、祖母たちが舟を断り、大人たちがそれを許したのかは聞き逃しましたが、とにかく島を縦断して家に帰る途中に、彼女たちは山賊にあったのです。

 夜道を、提灯を掲げて歩くうち、うしろから「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。
 まだ子供だった祖母が
「呼んでいるから返事をしないと」
というのを、年の長で、危険を感じ取った長姉が
「返事なんかしないで、急いで歩くの」
と急かせているところへ、ぱっとその山賊が飛び出してきた!

 お腹の大きな女性を連れて。

 ザンバラ髪に真っ黒な顔、大きな体、恐怖による誇張と錯覚は混じっているでしょうが、心理的には、正しく鬼に出会ったような恐怖だったでしょう。

 子供心に、妙に恐ろしく、またリアルに感じたのは、その山賊がひとりではなく、妊娠中の、同じように真っ黒な顔をした女性を連れていた、という点でした。

 今なら色々と想像できます。

 何らかの事情があって島に逃げ込んだ夫婦が、食べ物に困って、道行く子供を脅かしたのでしょう。

 結局、祖母たちは、引き出物を放り出して、命からがら家に帰ったそうです。

 一応、翌日に山狩りが行われたそうですが、何も見つけることはできなかった。

 まあ、祖母が死んで20年近く、100年ほど前の事ですから、そんなこともあったのでしょう。

 こういった話を、さまざまな声色を使い分けて、ゲゲゲの女房の祖母やのんのんばぁのように、祖母は寝物語に話してくれました。

「のんのんばぁとオレ」の時代は、それより十数年後の話です。

 祖母は恐がりだったため、のんのんばぁのように妖怪や怪奇話はしませんでしたが、当時の「科学と合理主義という信仰」を持たない人々にとっては、妖怪や不可思議な出来事は事実として存在していたのでしょう。

 いまだって同じような出来事は起こっているはず。

 しかし、現代人は、宗教よりちょっとだけ再現性のある、科学技術信仰に、闇雲に陥っているためそれが見えないだけなのでしょう。

 まあ、わたし自身、根っからの鈍感、凡夫、俗物であるためか、幽霊も見えず、霊も見ず、心霊写真も撮ることができず、金縛りにもあわず幽体離脱も経験せず、UFOも目撃せずUMA(未確認動物:ツチノコなど)も見たことがないのですが……

 物語中で、のんのんばぁの語るコトバが素晴らしい。

 おそらく、原作者、水木しげるの記憶に肉付けされたセリフなのでしょうが、押しつけがましくない、妖怪を用いた軽やかで重い言葉。

 ここで、わたしのつたない文章で再現するのは止めておきます。

 機会があれば、ぜひ、ホンモノをごらんになってください。

「おまえが正しいと考えることをやりなさい」と、子供へ責任を丸投げする、親と教育機関の共同謀議である、ゆとり教育とはまるで違う教育がそこにはあります。

 同時に、イラン映画「運動靴と赤い金魚」で感じた、強大な『子供力』を目の当たりにする、元気のでるドラマです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年6月20日 (日)

信じる力(ゲゲゲの女房とヘンリー・ダーガー)

 今回は「信じる力」について書きます。

 コミックやアニメ、あるいは若者向けライトノベルでよく使われる『耳触り』(耳障りでなく)の良い意味ではなく、もっと苦しく、切なく、血を吐くような気持ちで使う方の「信じる力」です。

 ああ、この言葉を、若者向けの「カッコイイ」意味で使えたらどんなに良いだろう……

 あれ、なんだか気持ちがネガティブになってるぞ。

 陰気な話になるかもしれないので、そんなハナシが苦手な人は、これ以上お読みにならないでください。

 さて、どこから書きましょうか。

 まず、わたしもイイ年なので、自分の小説のなかで、斜(はす)に構えた言い方でなく、真っ直ぐな使い方で、登場人物に「『信じる力』が大切だ」と断言させることは、もはやできなくなっています。

 んなもん、信じたってダメなもんはダメだって、長く生きてりゃ、イヤってほど分かってくるからです。

 「信じる力」にはいろいろありますが、特に「自分の能力を信じる力」は、儚い(はかない)ものです。

 「にんべんにユメ」とかいて「儚い」と読ませるのは、腹がたちますが、まさしく言い得ていますねぇ。

 「現実の重み」というクソ野郎は、時にキレイゴトを見事に吹き飛ばして跡形もなくしてしまうモノです。

 「現実の重み」、その中で特に苦しいのは、「時間の経過」と恥ずかしながら「カネ」です。

 こんなことは、もう、とうに分かっていたことですし、今さら書くことではないと思ったのですが、最近、すっかりカサブタになってしまったと思っていたブブンをえぐるような話をいくつか観てしまったので、こんな話を書き出してしまいました。

 そのうちのひとつは、現在、日本放送協会で毎朝放送している「ゲゲゲの女房」です。

155

 そもそもは、頼まれて録画していたのですが、チェックがてら目を通すうち、隻腕(せきわん)の水木氏(向井理氏)が出てきてからは、特に、夫婦が赤貧洗うごとき生活をするようになってからは、身もだえするような気持ちで毎日観てしまっています。

 戦傷(せんしょう)による隻腕、40を過ぎて廃(すた)れつつある「貸本マンガ」(わたしが子供の頃はもうなかったなぁ)の作家として、全く売れない漫画を書き続ける水木氏を観ていると胸をかきむしられます。

 もう観たくない。

 でも観てしまう。そして、こう考えてしまう。

「この気持ちを本当にわかるのは、わたしを含めて日本の人口のごく一部だろうなぁ」

 まあ、そう考えた時点で、すでにこの考えは間違っているのですがね、おそらく。

 水木氏の少年時代については、かつてこのブログでも、「のんのんばぁとオレ」(正・続)で書いたことがあるように記憶しています。

 その時にも書きましたが、昔、あの番組を観て恐ろしく思ったのはのは、あれほどエネルギッシュで生気にみちあふれていた子供が、大人になって戦争で片腕を失ってしまうという運命の過酷さ、非常さを感じたからです。

 その点は、わたしもトシをとったので、誤解を恐れずにいわせていただければ、「彼はただ腕を無くしただけで、不便になるけれど人としてなんら変わってしまったわけではないのだ」と思えるようになりました。

 しかし、もうひとつ、これも誤解を恐れずに書かせてもらえれば、

「利き腕でない方の腕を失ったという事実」

 こそが、水木氏にある種の「呪い」をかけてしまったように、わたしには思えてならないのです。

 ここでいう「呪い」とは、「そのことが無謀な挑戦に対する自信の核」になるということです。

 水木氏の自伝をお読みになった方、夫人の「ゲゲゲの女房」でもいい、あるいは、今、番組をご覧になられている方なら、わかっていただけるでしょう。

 世は高度経済成長期、日本全国、人手不足で、いわゆる「金の卵」と呼ばれた集団就職の青少年たちが次々と都会にやってきて、「働く気さえあれば、貧しくとも食っていくことはできた時代」です。

 片腕というハンディはあっても、「とにかく食べて、妻子を養っていくのだ」という決断をすれば、少なくとも鼻紙を買う金すらない生活にはならない。

 でも、氏はマンガを書いて生計をたてようとする。

 「信じる力」が強いのです。

 そして、その裏には、明確には表現されていませんが、

「あの南方から生きて帰り、腕を失いながら、それが利き腕ではなかった」

という事実が、

「だからこそ、生きて描かねばならないのだ」

という「信じる力」の核になっているような気がします。

 番組の感想などでは、

「あの、豊かになりつつある時代に、あんな貧乏はないよ」

というものがありました。

 これについては、はっきり反論させてもらいます。

「時代じゃネェんだよ。そりゃ、世間の流れを見て、世間を追いかけ、世間に流されて、世間が働くなら働く、引きこもりがゆるされるなら引きこもるってヤツがいう言葉だ。そんなふうに、右見て左見る人間なら、テキトーに働いて生活だけは確保できる。でも、そんな風に生きない、生きられない人間(下記参照)にとっては、世間も時代も関係なく、つねに生活は赤貧なんだよ!」

と。

 言い換えればこういうことです。

「人間にはふた通りある。時代に生きる人間と時代と関係なく生きる人間の」

「働きながら描けばいいじゃないですか、みんなそうしているんだし」

 そう書かれる方も多い。

 実際、その通りです。正しい。

 でも、おそらく水木氏はそう考えていない。

 いや、氏だけでなく、多くの赤貧に身をおいたマンガ家、作家たちはそう考えなかったはずです。

 言葉にするしないの差こそあれ、彼らの気持ちの中には、

「生活を確保して、その合間に書くような作品に『魂が込められるかよ』」(*)

 という気持ちがあるのです。

 青臭い考え方、そして見方をかえれば、現実から逃避する「生活無能力者」の逃げ口上に過ぎないのですがね。

 しかし、これは極小の小さい声でいわせてもらいたいのですが、

「作家になってからも他に仕事を持っている兼業作家(たとえ著名作家でも)の作品になんて、ロクなものがねぇよ」

というのが、わたしの個人的見解です。

 上記(*)のように考えているクリエイターたちが、トシをとって、「もうこんなことをしていてはダメだ、子供も大きくなってきたし身の振り方を考えよう」と、世間一般いうところの「正業」(いいねぇこの呼び方、完全にヒトをバカにしている)に就くと、その後は、いくつかのパターンに分かれます。

 そう、失敗し続ければ、どれほど強い精神力をもっている人間でも、やがては折れるのです。

 何度やってもダメ。

 自分でも不安になりつつも、さらに「信じる力」を奮い立たせてようとしても、やがて自分を信じている者の目に、不安と不信の色が浮かぶのが分かる。

 それが、生活苦から、すがるような色になると、もうダメです。

 折れます。折れるのです。

1.「信じる力」が折れて、もう書けなくなり、余生を小説、漫画と関係なく過ごす。

2.まだ信じて書き続けるが、その生産量は低下し駄作をレンパツ。さらにトシをとって、流行作家をコキおろす、漫画や小説が趣味のジジイになる。

 これに、「仕事の合間に書いた作品が、水木氏のように40を過ぎてから突然認められて、大ブレイクする」なんて項目を加えたいのですが、ほぼあり得ないので書きません。

 私的(してき)な考えでは、赤貧の中書き続けたものの、時間(つまり寄る年波)と積み重なる失敗の波状攻撃に、ついに、気持ちが「折れた」人が「正業」に就きながら、作品を書き続けることなど、ほとんどできないと思います。

 先の見えない中で、自分だけを信じて赤貧に耐え、作品を書き続ける辛さは、経験しないとわからないものです。

 まあ、しかし、考えてみれば、こんなことは、普通の人たちには関係ないことですね。

 好きで「自分を信じ」、「自分に賭け」て、ダメだったんですから、他人が気に掛けることでもない。

 案外、本人たちは楽しいんですよ。血は流れてますがね。

 「運」「時代とのマッチング」最後に「わずかな才能」が揃わないと、世に出るのは難しいものなんですから。

 というのが、ひとつ目です。

154

 二つめが、ヘンリー・ダーガー(1982-1973)です。

 ご存じでしょうか。

 彼は、おそらく世界一有名で無名な作家(クリエイター?)です。

 これについては、映画(ドキュメント)「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)を観てもらえればすぐにわかるのですが、カンタンに映画のコピーを引用しておくと、

「病院の掃除夫で貧しい老人、と誰もが関心を示さず、大家や隣人以外ほとんど接触をもたなかった独居の男性が81才で亡くなった。
 部屋を片付けようとした大家夫人は、おびただしい数量の絵画や執筆物を発見し驚嘆する。孤高のヘンリー・ダーガーの生涯と、その作品を隣人のインタビューを交え、紹介するドキュメンタリー。
 専門教育を受けず、公開する意思なく制作された作品群が、様々な研究対象となり注目されるヘンリー・ダーガー。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン-20世紀美術とアウトサイダー・アート」展で初公開され、緻密で独特な世界観と、絵巻状の絵画の鮮やかな色彩感覚などが大きな反響を呼んだ」

 彼は、いったい何を信じていたのでしょうか?

「信じる力」はあったのでしょうか?

 上記の「公開する意思なく制作された作品群」というのがなんだか恐ろしいですね。

 死後に残されたのが、「おびただしい作品群」ではなく、日本でよくあるように「大金」であれば、これほど考えさせられることはなかったのですが……

 機会があれば、この映画

「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)

 監督            ジェシカ・ユー
 音楽            ジェフ・ピエール
 ナレーション       ラリー・パイン
                ダコタ・ファニング

をご覧になってください。

 現在も、多くの研究者が、彼を研究し続けています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月17日 (木)

結末が分かっている哀しさ クローンウォーズ

 始めは、「あまり怖くねーなー パラノーマル・アクティビティ」というタイトルで書こうと思っていたのですが、どうも悪口になってしまいそうなので、というか、もうタイトルで褒めてないのは丸わかりなのですが、それは次にまわすとして、今回は「スターウォーズ・クローンウォーズ」について書くことにします。

 この作品については、以前、本ブログで書いたことがあります。

 現在、シーズン2がNHKハイビジョンで放送されているところです。

 実写映画版のキャラクタをもとに極端にデフォルメされたCGには好悪が別れるところだと思いますが、絵柄を気にせずに観ると、これがなかなか良い作品なのです。

 実を申せば、わたしはスターウォーズ・シリーズが好きではありませんでした。

 最初の三部作(いわゆるエピソード4-6)は、映画館で観るどころか、つい最近まで内容は知っていても、どれひとつとして最後まで通して観たことなどありませんでした。

 エピソード1(ファントム・メナス)は、CGの出来が知りたくて、レンタルして観たのですが、あのジャージャーとかいう馬みたいな顔をしたイキモノがクド過ぎて、すっかり辟易(へきえき)してしまいましたしね。

 そのあと、これもデフォルメされまくった、五分だった十分だったかのショートアニメ版スターウォーズ(タイトルはたしか「クローン大戦」)を、どこかで放送していたのを見かけたのですが、駄作でした。

 しかし、今回のCG版クローンウオーズは違います。

 なんといっても、後のダース・ベーダー、アナキン・スカイウォーカーの言動が良い。
 彼と彼の師であるオビ=ワン・ケノービの洒脱(しゃだつ)な関係も……

 おかげで、今さらながら映画「エピソード2,3」を続けて観てしまいました。

 そして、物語の結末を観て、ふたりが命をかけた殺し合いをすることを知ってしまっただけに、クローン大戦における絶大な信頼関係、丁々発止のやりとりが、なおさら見ていて楽しく悲しくなってしまいました。

 ケノービとアナキンの師弟関係が、そのままアナキンと彼の弟子=女性パダ・ワンのアソータ・カノとの関係にオーバーラップされるという演出もニクい限りです。

 主人公アナキン・スカイウォーカーは、オビワンには兄弟子(同時に師匠)として尊敬と信頼、そして彼に認めてもらいたい故(そして多分に持って生まれた性格から)の無謀さを示しながら、同時に自分のパダ・ワン(弟子)であるアソータには、大いなる愛情と信頼と大らかさを持って接しているのです。

 アナキンが勇敢であればあるほど、共和国に誠実であればあるほど、そして自分の師匠と弟子に愛情の無垢さを示すほど、観ているのが辛くなる。

 有り体にいえば、映画のアナキンは役者の個性もあって、それほど魅力的ではありませんでした。

 いや、今は、演出が悪かった、といっておきましょう。

 しかし、クローンウォーズは違います。

「これほど勇敢で立派で高潔な英雄が、なぜ?」

 と思わせるエピソードがテンコモリなんですね。

 このCGシリーズには、もうひとり(もう一種類?)主人公がいます。

 タイトルにあるクローンたちです。

 だいたいね、おかしいと思うでしょう?

 古い時代のエピソード1-3では、最新型のロボットが、どんどん兵士として登場しているのに、時代の下ったエピソード4-6では、出てくるロボットは、どう見てもキグルミのC3POとドラム缶型のR2D2だけ、白い鎧を着た人間兵士たちが主戦力として出てくるんですから。

 そりゃ、映画の制作された時代を考えれば当たり前なんですが、「世界観としてはおかしい。整合つけろ!」と思っていたら、見事に整合させてしまったんですね。

 あの白いヨロイを着ていた兵士たちは、全部同じ顔をしたクローン兵だったんですから。

 やられたなぁ。

 エピソード1-3そしてクローンウォーズで描かれるロボットは、そのほとんどが、歯に衣着せず言えば「低脳」です。

 バカばっかり。

 返事も「ラジャラジャ」ですしね。

 聴いていてカンに触る。

 それに反して、高名なバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の遺伝子から作られたクローン兵士たちは、全員が知的で勇敢です(そして同じ体格と同じ顔をしている!)。

 スターウォーズをご存じの方なら周知のごとく、勇敢で誠実な彼らも、最後は生み出された時から仕込まれていた「コントロール暗示」によって、共和国とジェダイ・ナイツを裏切り、帝国の兵士になってしまいます。

 そのため、アナキンと同じく、彼らの活躍は観ていて悲しくなる。

 しかし、CGクローンウォーズでは、まだ彼らは裏切っていません。

 誠実で勇敢、皆が同じクローンであることを誇りに思いながらも、個性を出すために、髪を金髪に染め、入れ墨をし、話し方を変える。

 これまでに、何度となく「無目的に戦う空しさ」を指摘するエピソードが積み重ねられ、彼らだけでなく、観ているわたしたちでさえ、クローンたちを無理矢理戦わせている共和国が悪いんじゃないの、と思えるようになりました(まあ、もともとクローン兵を作ったのは、ジェダイの敵、シスだったわけですが)。

 時に、自らの「戦うためだけに生まれた命」を疑問に思って軍を脱走し、辺境惑星で家庭を持つクローンも出てきます。

153

 あるいは、帝国に通じる者も。

 こういった、細かいクローン兵士についてのエピソードを、織物でも織るように重厚に積み重ねながら、全100話を目指してシリーズは進んでいます。

 ああ、今、気づきました。

 スターウォーズとは、誠実で勇敢、高潔であった一人のジェダイと数万(数十万?)のクローン兵たちが、心ならずも「変節」してしまう哀しさを描いた物語だったのですね。

 もっとも、クローンウォーズでは、まだアナキンもクローン兵たちも、素晴らしいサムライ=ジェダイであり、誠実な兵士として描かれています。

 というより、後の悲劇を盛り上げるために、ことさら彼らの素晴らしい人格を描いているのが「クローンウォーズ」なのでしょう。

 手法としては、少々「あざとさ」を感じますが、それを忘れてストーリーだけを観れば、本当に、高潔な人々の戦いを、すっきりと楽しめる良いシリーズだと思います。

 機会があれば、デフォルメされた画を気にせずにご覧ください。

 

 

「高潔なジェダイと兵士たちは、最後にどうなるの?」

「変節し、裏切ってしまうんだ」

「じゃ、ぼくたちは」

「なに?」

「変わってしまう?」

「それはわからない」

「では、ぼくたち、最後はどうなるの?」

「それなら分かる」

「どうなるの?」

「みんな死ぬ」

「なんだ。結末だけは、わかってるんだ」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 4日 (木)

サカモトに聞け! 10年前の龍馬伝 「サカモト」

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が話題になっているようです。

 大河では、北大路錦也主演での「竜馬がゆく」以来42年ぶりの「リョウマ」の話です。
 わたしの母校は、なぜか図書冊数の極端に少ない学校だったのですが、「竜馬がゆく」の司馬遼太郎の出身校だったため、彼の作品だけは豊富にあり、「竜馬がゆく」も、文庫でない四分冊のハードカバーで図書室で読みました。

 その時の感想は、スゴイヒトだったんだなぁ、という感じですね。

 しかし、心酔するところまでいかなかった。

 司馬氏の作品で、わたしが一番好きなのは、「風神の門」の霧隠才蔵なのです。

 氏が、当時の日本の高度経済成長の中、自らの能力を使って広々と世を渡っていくサラリーマン(技術者としての)の理想を、戦乱の世の天才忍者に託して描いた佳作です。

 あ、たった今気づきましたが、司馬氏のリョウマはメスの竜だったんですね。

 以前、このブログでも書きましたが、「龍」は指が五本の雄♂のリュウを表し、中国皇帝のみが使えるモノです。それ以外の者は雌♀の「竜」を使わなければなりませんでした。下手に使うと死刑になる……

 もちろん、坂本龍馬は嫌いではありません。

 学生時代には、通学電車を途中下車して、伏見の寺田屋にもいきましたし、仕事で高知に行った時は、まだ健在だった闘犬ミュージアムに寄った帰りに、龍馬像を見て、龍馬記念館にも行きました。

 文庫八巻(だったね)とハードカバー四巻も持っています。

 ほとんど読み返していませんが……

 突然ですが、基本的にわたしは四コマ漫画が好きです。

 恥ずかしながら、自分でもいくつかタブレットで書いて、音楽工房のサイトに掲載したこともある。

 おそらく、あの「ジョハキュウ」ならぬ「起承転結」のストーリーテリングが好きなのでしょう。

 だから、四コマ漫画作家にも、かなり批判的な目を向けてしまいます。

 数ある四コマ(あるいは二列8コマ)マンガの作者で一番好きなのが、山科けいすけ氏です。

053

 彼の「キントトハウス」は、わたしのマンガ・バイブルでもあります。
 わたし以外でも、この作品の影響を受けた現役作家もかなりいるのではないかな。

 今、一部で評判の「秘密結社鷹の爪」や「天体戦士サンレッド」なども、キントトの「世界服を企むお人好しの総統」の影響を受けているハズ。

 いや、今回はキントトハウスの話ではありません。

049_4

 その山科氏が10年ほど前に描いたのが「サカモト」↑です(現在絶版中)。

 復刊ドットコムでも、かなり多くの復刊希望がよせられているようす。

 内容は、いわずと知れたサカモト、こと坂本龍馬が、幕末の英雄たちとおりなすコントギャグなのですが……

 これが、幕末ファンにとっては、ちょっとつらい。

・アバタ面で肥満、殺人狂の沖田。

・その沖田のもち肌の体を狙っている土方。

・その土方に抱かれたがっている毛むくじゃらの近藤。

・薩摩の世界的な大きさと自分のキン*マの大きさしか気にしない、ゴワゴワばっかり行っているセゴドン(西郷隆盛)。

・目鼻立ちはキリッとしているものの、丸顔で、妙な変装ばかりしている桂小五郎。

・異人から手に入れた空想本の話(ガリバーだのムー大陸だの)を真実だと思いこんで、サカモトや西郷にファンタジーを教える勝海舟など。

具体的にはこんなカンジです↓(当たり障りのないところを)。

051_4

 実をいうと、こういうのは好きです。

 あまり、みんながもてはやすと、他意はないのですが、からかってみたくなるのですね。

 そんなにスゴイヒトだったの?って。

 1000年、2000年前の人物ならわからない。
 だって、残っている資料が少なすぎる。

 おまけに、そのほとんどが「勝者から見たこっちがヒーロー歴史」だし、そうでなければ「敗者から見た呪詛にまみれた歴史」のどちらかだから。

 
 でも、明治維新なら、少しは資料がある。

 当時のひとの多くは字が書けたし、教育もされていた。

 だから、記録は、かなり残っているはずです。

 もちろん、勝者による都合のよい歴史の改竄(かいざん)は行われているでしょう。

 しかし、ある人物を評価するのは、公の記録だけではない。

 ここでもう一つ余談を。

 わたしは個人的に、俵 万智(たわら まち)という歌人が好きです。少なくとも上手い歌詠みだと思う。

 一応、自分でも少しは歌を詠みますし作詞もするので、彼女のコトバのセンスというのがデビュー当時から気になっているのです。

 しかしながら、個人的には驚きなのですが、どうも、アノ世界では、もうひとつ彼女の評価は高くない気がします。

 キワモノ的に扱われているというか……正統でないというか。

 しかし、そんなことは関係ない。

 なぜなら、わたしには、強大かつ不動の指針があるから。
 (ここからは少し極言モードに入ります)

 それは筒井康隆氏です。

 まあ、本当のトコロ、筒井氏の作品の「全作品が最高!」かというと、そうではありません。

 若い頃の短編は面白いし好きですが、あまりにスラップスティック(ドタバタ)な作品(五郎八航空とか)は、読んでいて目が痛くなって、疲れてしまうからです。

 しかし、氏の天才性については疑うところがない。

 かつて、氏を評して、井上ひさし氏が、

「筒井氏は、文壇というトラックを、他の作家と一緒になってクルクルと走っています。時にケンケンをしたり、後ろ向きに走ったり、アカンベェをしたり、必死の形相で走っている他の作家と違って、余裕を持って走っているように見えます、が」

 そう、「が」、なんです。井上氏は続けます。

「実は、筒井氏は、そのトラックを、すでに何周も先に周回して、その上で、凡百の作家に混じって、彼らをからかいながら、変わった走りを見せているだけなのです」

 けだし名言です。筒井氏の天才性を言い得ている。

 その筒井氏が、ほんの数作だけ、はっきりと他作家のパロディと分かる作品を書いています。

「バブリング創世記」
「日本以外全部沈没」
「カラダ記念日」

 「バブリング創世記」は、いわずもがな、聖書のパロディです。

052

 ジャズ・スキャットで使われる、「シュビドゥバ」などを使った創世記。

「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドンドコドンとドンタカタを生む……」

 聖書の作者(複数でしょうが)が、天才であることは言を俟(ま)ちません。

「日本以外~」は、この間映画化されました。作者、小松左京氏の才能も語る必要はないでしょう。

 そして、「カラダ記念日」

 サラダ記念日のパロディであることはいうまでもありませんが、その内容がスゴイ。俵氏のすべての歌をパロディにしながら、読み続けると、詠み手がやくざの親分であることが、じんわり浮かび上がってくるという仕掛けが施されているのですから。

 いや、何がいいたいかというと、凡庸な同人や歌グループたちが、いかに事実を隠そうとしても、天才は天才を知り、そのことを世に知らしめようとする、ということなんです。

 筒井氏がパロディを書いたという時点で、その作者の才能は信じられる。

 同様のことが、明治という近代でも起こったはずではないでしょうか。

 幕末には綺羅星(キラボシ)の如く傑物(ケツブツ)が登場しました。

 死んだ者も多いが、生き残った者もまた多い。

 彼らが、本当にサカモトという人物を認めていたなら、時の政府が、いかに薩長同盟が一介の浪人によって為されたということを隠蔽しようとしても、世の中に広まっていくはずでしょう。

 しかし、実際には、サカモトの名は、一時、あまり世の表に出なくなります。

 早くに(池田屋で)死んだ吉田稔麿や北添佶摩、宮部鼎蔵の名が残り続けていたのに。
 まあ、はっきりと攘夷志士として死んだ勝者の側の人間と、土佐藩という微妙な立ち位置のサカモトを同列に扱うことはできないでしょうが。

 ともあれ、時間の流れで、サカモトは見直され、評価され、歴史上の傑物となりました。

 おそらく、偉人の一人であったことは間違いないのでしょう。

050_4

 山科氏の「サカモト」は、あの「燃えていたアツイ時代」への愛情の発露であると思いますので、わたしは、今こそ、全二巻が復刊されて、日の目をみることを渇望しているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 6日 (月)

あの手この手で視聴率アップ  〜Mr.Brain〜


 ある事情があって、月に一度は、日本の主要ドラマを通して観ます。

 先日も、チェックを兼ねて「魔女裁判」「婚カツ!」「ぼくの妹」「クイズショウ」「白い春」「夜光の階段」「Mr.BRAIN」などをざっと観ましたが、その中で、いくつか気になったことがあったので書いておくことにします。

 まず、「婚カツ!」(フジ)です。(同じ曜日ではないものの)「コンカツ・リカツ」(NHK)という裏番組を背負っての放映ですが、この二つの番組は、タイトルこそ、ハヤリの言葉を使っていますが、テーマ設定のスタンスは、まるで違います。

 まあNHKが真正面から「コンカツ(そして離婚活動:リカツ)」をとらえ、フジがタイトルのみ「婚カツ」を拝借し、内容は、トシの離れた女の子との草食系男子(ってイミワカランが)の恋愛物語を作った……なんて評価は、ちょっと調べればみんな書いていることなので、違うアプローチをしてみます。

 それは、男脳の好むドラマと女脳の好むドラマの違い、ということです。
 つまり、「婚カツ!」は、(すべてではありませんが)主要脚本家が男性で、「コンカツ・リカツ」は脚本や主要スタッフが女性なんですね。

 最近、日本のテレビドラマを観る時に行っているアソビがあります。

 それは、前情報なしにドラマを観て、脚本が男性か女性かを予想するということです。
 そうすると分かってくるのは、どちらがよいかではなくて(もちろん、どちらが好みか、ということはありますが)、明らかに顕著な差があるということです。

 たとえば、女性が男(現在の恋人)に待たされるシーンがあるとします。

 女性の脚本なら、ヒロインが男を待ち続ける確率はかなり低い。もし、待っているとしても、ずっと待ち続けるのではなく、必ずそこに、何かイベントをいれます。

 たとえば、知人に出会わせたり(密かに憧れている男であることが多い)、携帯電話に、友人から着信があったり……

 しかし、男性の脚本なら、まず、女性は何もせずにずっと待ち続ける。

 つまり、性差による願望の違いが脚本に現れるのですね。

 視聴率的には、NHK的まじめな「コンカツ」より、少し捻った(というか、空想的な)「婚カツ!」の方に軍配が上がったようです。
 フジの方は、エンディング・テーマが懐かしいシュガーの「ウエディング・ベル」……と思ったら、パフィのカバーでした。オリジナルを使えばいいのに。

 「僕の妹」は、まあ、これも草食系優柔不断男子が主人公のドラマですね。
 前半は、大学病院権力抗争ミステリ仕立てだったのが、徐々に恋愛モノになり、それはそれでなかなか盛り上がっていたのに、最終回が完全な肩すかしでガッカリしました。


 「クイズショウ」については項を改めて書きますが、今、ここで書きたいのは、なんといっても「Mr.Brain」です。

 わたしは、日本のドラマを観始めてまだ日が浅く、役者の名前もよく知らないぐらいなのですが、これほど、あざとく視聴率を稼ぎに来た番組は、他に知りません。

 タイトルとテーマを、今ハヤリの「脳」にし、脳科学者による「犯罪」操作を軸にすることで、知識欲のある層と二時間ドラマファンを取り込み、主要キャストを人気アイドルと大物系で占め、番組開始時期を4月からズラすことで、マンネリ感のある他ドラマからあたらしモノ好きな視聴者を引き込み、第二話放送日(土曜日)の昼間には、先週放送された第一話をさっそく再放送して二話に飛びつかせる。

 さらに、一話を放映時間の半ばで終わらせ、残り半分の時間を次の事件のオープニングとして使うことで次週の視聴予約を確保する。

 なんというか「アメリカ的な」というか「脳科学を応用した、的な」というか、指摘されれば、そういう言い逃れのできそうな、姑息な手段のオンパレードの作品です。

 まあ、放送終了後には、これだけの視聴率を稼いだのは「脳の特性を使った」からです、とでもいいたいのでしょうが、如何せん物語の内容が「二時間サスペンスにとってつけたような脳学者の分析を加味しただけ」のお粗末なものですから、その程度のテコ入れではどうしようもならないようです。

 本当に、まだよく分かっていない分野(脳科学)をドラマ化する難しさを、スタッフはよく分かったことでしょう。

 あと、Mr.Brainのテーマ曲は、これも懐かしいヴァン・ヘイレンのJumpです。

 以前、ドラマやバラエティーで、中島みゆきや浜田省吾などの曲が多く使われた時に、友人が、「昔ファンだった人物が偉くなって、自分の一存で曲の選定ができる立場になったからだろう」といっていましたが、それからすると、Brainの制作者の中に、ヴァン・ヘイレンの熱烈なファンがいるということになりますね。

 もう少し後だったら、M.ジャクソンの「ビリー・ジーン」あたりだったのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

ブレる正義の視点 〜HEROES〜




 もう、随分前から書こうと思っていたのですが、「スターゲイト」「Dr.House」「クローンウオーズ」、「HEROES1-3」など、個人的に残しておきたい海外テレビドラマの感想(評論でなく)が、どんどんたまってきたので、見切り発車ながら少しずつ書いていくことにします。

 まずは「HEROES」から。

 以前にどこかで書いたと思いますが、HEROESを最初に観ようと思ったのは、某放送局の「石(ノ)森章太郎特番」で、誰かが「今、流行っているHEROESも、とどのつまりは『サイボーグ009』に影響を受けて作られているわけですから」といっているのを聞いたからだった。

 その真偽はさておき、実際に観てみると、確かに、それぞれの能力者がそれぞれのチカラを使って、それぞれの思う『悪』と戦うという点では、似たところはあるが、どちらかといえば、HEROESは群像劇の色合いが強く、いかにもアメリカ的に、それぞれが自分勝手に動いているという印象がある。

 どうせなら、映画「ファンタスティック・フォー(かつてのアニメ邦題『宇宙忍者ゴームズ』)」あるいは「インクレディブルズ(オープニングタイトルは『Mr.インクレディブル』だが、エンディング・タイトルは家族で闘うためにこうなった)」のように、それぞれが、強大な敵と闘うために同時に能力を合わせたほうが、より009的であっただろう。

 確かに、1stシーズンのラストで、Gロボの「静かなる中将」のごとき人間核爆弾と化したピーターを抱いて空を飛ぶ兄のネイサン・ペトレリは、009を抱いて大気圏を落下しながら「どこに落ちたい」と尋ねた002そっくりだし、3rdシーズンで出てくる高速女は009の加速装置の魅力的な映像化だ。




 とはいえ、他者の超能力を模倣するピーターの能力はXメンのローグから着想を得たものだろうし、不死身のクレア・ベネットは、ウルヴァリンから生まれたのだろう。
 心を読み幻覚を見せることのできるマット・バークマンは、年代からいうとナルトの影響すら受けているかもしれない。

 さすがに、3rdシーズンで、今まで「能力」を嫌悪するかのように振る舞っていた「ただの人間」モヒンダー・スレシュ博士(彼はギルモア博士の立ち位置だと思っていた)が、突如超能力者になる物質を体内に打ち込んで暴力的になり、壁を上り、性欲まで強くなって、まるで、あのなつかしのブランドル・フライ(映画『ザ・フライ』)そっくりになってしまったのには、どう反応してよいかわからなかった。

 おまけに薬の過反応で、顔までブランドル・フェイス(フライが流行った時、キャンプで蚊に顔を刺されるとそういって友人たちと笑ったものだ)になったのには、唖然とさせられた。

 まさか、ヒロによって歴史が変わらず、時間線がこのままで、モヒンダーが死んだあと、恋人の超能力者マヤがハエの子供を産む、なんてオチはないでしょうねぇ。

 それじゃ「ザ・フライ」パクリ過ぎ!クローネンバーグに殺される。


 と、まあ、テレビシリーズに極端なオリジナリティを求めても仕方はないのでしょうが、途中で脚本家のストがあったとはいえHEROESの迷走ぶりには目を覆うものがあります。

 しかし、なんといっても、HEROESにおける、一番の問題は『奇をてらうあまり、主人公たちの性格を豹変させすぎる』ことです。

 物語を作る上で、心がけなければならないのは、一人の人物に一つのキャラクターにする、ことですが、HEROES(特に3rdシーズン)ではそれが守られていません。

 もちろん、二重人格という設定を使えば、この限りではありませんし、実際、HEROESでも、二重人格の怪力女性ニキが出ていました。(さすがに制作者も彼女の演技をうっとおしく思ったのか、2ndのラストでニキは殺されてしまいました)

 問題なのは、二重人格でもないのに、数年経つだけで性格が豹変することです。

 ヒロやピーターに時空を操らせるのは勝手ですが、彼が、タイムジャンプするたび、味方が敵に、敵が味方になるのは、視聴者の集中力を削ぐ効果以外にはないような気がするのです。

 視聴者、読者を驚かそうと思ったら、ラスト付近まで実直に作っておいて、最期に一気にひっくり返さないと効果はないのですから。


 この調子では、HEROESは、到底、長寿番組にはなり得ません。

 別項で書こうと思っている「SFテレビドラマ最長番組」としてギネス登録された「スターゲイト」では、洗脳などの正統な理由なく登場人物の人格は変わりません。

 だから、ファンは安心してドラマに埋没し、結局は、それが長い人気を生み出すのです。

 HEROESも「鬼面人を驚かす」といった体(てい)筋立てはやめて、もう少しストレートな話を組み立てた方が良いでしょう。

 老婆心ながら、そう思います。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

アメリカが求める聖母 サラ・コナー クロニクルズ




 スタートレックについて書くつもりでしたが、スカイパーフェクトTVで始まった(もうシーズン2がDVD発売されていますが)「サラ・コナー クロニクルズ シーズン1」(以下、クロニクルズと表記)を観たので、先頃、書いた映画に関連して少し追記します。

 T4の項でも書いたとおり、有識者の間ではT3は無かったものとすることが常識化していると思いますが、クロニクルズも、T3以前、T2後数年を経た時代から始まります。

 ジョンとサラ親子は、スカイネットではなく(T2でスカイネットの芽はつまれました)、サイバーダイン研究所破壊およびスカイネットの開発者(予定)ダイソン殺害の主犯として警察から逃亡を続けていましたが、やはりというか、そうでないと話にならない、というか、未来からやって来たターミネーターに襲われます。

 それを救ったのが、上の写真にある女性型ターミネーター・キャメロン(ってどういうセンスのネーミング?)です。

 まあ、そういったシノプシスはともかく、このテレビシリーズを、単なる映画の派生作品以上のものにしているのは、いちウェイトレスに過ぎなかったサラ・コナーという女性が、カイル・リースとの出会い、つまり歴史の力で聖母にされてしまった悲劇を描いているからです。

 だからこそ、この作品は、サラ・コナーのクロニクルズと呼ばれているのですね。

 そして、サラ以上に不幸なのは、母から「あなたこそが人類の希望」「英雄」と言い続けられるジョン・コナー少年です。

 自分で考えても、多少のネットワークの知識はあるにせよ(T2で描かれてましたね)、女の子にモテるわけでもなく、仲間の人気者でもない、そもそも、警察の眼を逃れ引っ越しをくりかえす彼に仲間ができるわけがない。

 やりきれない孤独を、未来から来た女性型ターミネーターに告げると、キャメロンは不思議そうな顔で答えます。

「あなたは、未来では、いつも大勢の人に囲まれている」

 こんな言葉は、ジョンを憂鬱にするだけで何の救いにもなりはしません。

 英雄としての自覚のない彼は、再び未来からの刺客が現れたことで、絶望しているサラに、「自分は英雄ではない、英雄なのはきっと母さんなんだ」と安易に責任を委譲しようとします。

 まだ息子が「ダメ」であることを再確認させられたサラは、絶望の涙を拭いて再び立ち上がらざるをえなくなるのです。

 サラ・コナーのクロニクルズ(年代記)の始まりです。

 わたしには、「宗教的な意味の聖母」を失いかけている米国が求めた新たな聖母(歌手のマドンナじゃないよ)こそが、サラ・コナーなのではないかと思えてなりません。

 今度の聖母が、平和を求めながら、銃を撃ち、傷つき、血を流す女性であるのは、ある意味、数度の負け戦と100年ぶりの内地への攻撃(テロリズム)および経済的疲弊を連続で体験したアメリカが、自分を守ってくれる母を求めているからなのかも知れませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)