小説感想

2012年2月21日 (火)

あざといドンデン返しは是か非か? ~コフィン・ダンサー~

 このところ、アニメやフィギュアなど、柔らかめ?の話が続いたので、久しぶりに本の話をします。

 この年始に、どこの局であったか、地上波民放深夜枠で映画「ボーン・コレクター」(1999年制作)を放映していました。

 主演:デンゼル・ワシントン(若々しい!)、アンジェリーナ・ジョリー(ほぼ映画初主演の初々しさ)

 これについては、別項で書こうと思いますが、ご存じない方のために、ざっと説明すると、優秀な捜査官であったリンカーン・ライム(デンゼル・ワシントン)は、捜査中の事故で脊椎を損傷し、首から上と片方の指先だけしか動かせない身体になってしまう。

 しかし、頭脳の明晰さはそのままで、彼は、ベッドに寝たまま、持ち込まれる様々な物証(情報じゃないところがミソ)をもとに、緻密な推理を組み立て、犯人を追い詰めるのだった。

 その彼の「身体の一部」として、実際に現場に出向き、掃除機をかけて細かい物証を収集する若き美貌の女性捜査官アメリア(アンジェリーナ・ジョリー)との出会いを描いたのが「ボーンコレクター」でした。

 そのシリーズ二巻目が、この「コフィン・ダンサー」です。

 題名の由来は、今回の犯人である、決して姿を現さない正体不明の殺し屋の、唯一判明している特徴が、腕に彫られた「棺桶(コフィン)の前で踊り子が踊る」図柄のタトゥだからです。

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 オビに書かれた惹句(コピー)↑でもわかるように、この犯人も、精神が壊れかけた異常者っぽいですね。

 まあ、実際そうなんです。

 ディーヴァーは、ちょっと異常を来した犯人(ミスリード用のオトコだとしても)が好きなんですね。

 しかし、作家ジェフリー・ディーヴァーの、一番の特徴は、その『あざとい』とさえ言える、というか、『エエ加減にせぇや』というほどの「無理矢理っぽい」ラストの大ドンデン返しなんですね。

 だから、コフィン・ダンサーも、目に見える「それらしい犯人」以外に、さらに隠れた犯人がいるわけです。

 あ、これって、別にネタバレにはなりませんよ。

 だって、また別項で紹介するつもりの、ディーヴァーの「悪魔の涙」もそうだし、まあ、彼のほとんどの作品がそうなんですから。

 だから、結局、犯人っぽくない人物の中から真犯人を捜すわけですが、これが、当たらない。

 そこが、ディーヴァーのディーヴァーたる所以なのでしょうが、何度も繰り返されると、だんだんハナについてきますね。

 まあ、多くの人は、この「やられたぁ」感を感じたくて、ディーヴァーの作品を読んでいるような気がしますが……

 普段、わたしは、翻訳された不自然な文章(二、三十年ほど前に比べたらマシになりました)が、あまり好きではないので、外国の訳本はあまり読まないのですが、このシリーズの訳者に関していえば、あまり妙な言い回しを使わない人なので、読みやすいと思います。

 美しくない、変な日本語を読まされるぐらいなら、米アマゾンのサイトで、英語版テキスト・データを買って、iPad2のキンドルアプリで読んだ方がましです。

 おかしな訳より、英語の方がよほど意味がわかりやすい。

 しかし……

 余談ながら、書いておくと、

 昨年、アップル社が、必ずアップルストア経由でないと、ブックデータを買えないように規約を変えたため、以前は可能だった、iアプリから直截アマゾンサイトのデータを買うことができなくなってしまいました。

 その結果、ブラウザを使って米アマゾンのサイトに行き、あらかじめデータを購入(だいたい5ドル程度です)しておいて、あとからiアプリを開いてiPad2にダウンロードする、という二段構えの面倒くさいシステムになってしまいました。

 そろそろキンドルを買うべきかもしれませんね。

 ともあれ、この現代の「隅の老人」「鬼警部アイアンサイド」「ママ」ともいえる安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)リンカーン・ライムと、凄腕の殺し屋コフィン・ダンサーとの戦いは、読んで損はしないと思います。

 本の体裁として、ハードカバーなら450ページ一冊(1857円)、文庫なら上下の二分冊なので、わたしはハードカバーをアマゾンで買いました。

 いずれは自炊して、電子化することになると思いますが、ハードカバーはカットしにくいのですね。

 ついでに書いておくと、リンカーン・ライムシリーズは、

1.ボーン・コレクター
2.コフィン・ダンサー
3.エンプティー・チェア
4.石の猿
5.魔術師(イリュージョニスト)
6.12番目のカード
7.ウォッチメイカー
8.ソウル・コレクター
9.The Burning Wire(未訳)

の9冊が刊行されています。

 ディーヴァーは、安楽椅子探偵ライム以外にも、文字から人格を特定する筆跡鑑定人キンケイド(悪魔の涙)、仕草からウソを見抜くキャサリン・ダンスなど、数人のヒーロー、ヒロインを生みだし、作品によっては、それぞれのシリーズにクロスオーバー出演させることもあります。

 実際には、キャサリン・ダンスは、ライムシリーズのウォッチメイカーで脇役として登場し、人気があったため、スピンオフの形で「スリーピング・ドール」という作品が書かれシリーズ化したわけですが。

 ディーヴァー作品は長編なので、読むのはちょっと、という方は、上記映画「ボーン」・コレクター」から入られるのも良いかも知れません。 

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2010年2月 2日 (火)

20世紀青年は去っていった サリンジャー死す

 サリンジャーが亡くなりましたね。

 サリンジャーといえば、The Catcher in the Ryeの作者ということになるのでしょうが、実をいうと「ライ麦畑でつかまえて」という作品には、とりたてて感想がありません。
 あれは、わたしの中では、ダザイ作品やカミュの「異邦人」あたりと同列に並べられているのですね。

 なんというか、なんだかよく分からないヒトが主人公の話。

 まじめな愛好者にとっては、トンデモない話ですが、まあ、個人的にはそうです。

 おそらく、わたしには、彼らの発するメッセージを受け取るチャンネルが欠けているのでしょう。その能力がない。

 しかし、The Catcher in the Ryeには、特別な思い入れがあります。

 それは、わたしが中学生の頃に読んだある書物にこう書かれていたからです。

 配偶者を求めております。

・ごく贅沢に育てられたひと
・ただし貧乏を恐れないひと
・気品、匂う如くであること
・しかも愛らしい顔だち
・エロチックな肢体をあわせ持ち
・巧みに楽器を奏し(ただしハーモニカ、ウクレレ、マンドリンは除外す)
・バロック音楽を愛し
・明るく、かつ控え目な性格で
・アンマがうまく(これは大事だ!)
・天涯孤独であるか、ないしはごくごく魅力的な家族をもち、(美しい姉や妹たち)
・ルーの下着、エルメスのハンド・バッグ、ジュールダンの靴を愛用し

・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が一番好きな小説で

↑これです。

・片言まじりの外国語を話し
・当然酒を飲み
・料理に巧みでありながら
・なぜか、カツパン、牛肉の大和煮、などの下賤なものに弱点を持ち
・猫を愛し
・お化粧を必要とせず
・頭がいいけれどばかなところがあり
・ばかではあるが愚かではなく
・まだ自分が美人であることに気づいていなく
・伊丹十三が世界で一番えらいと思っている
・私よりふたまわり年下の少女

 文中にあるように、これは伊丹十三、31歳当時のエッセイ「女たちよ!」に書かれた文章なのですが、この中の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ってのが、当時のわたしには、なんだかよく分からず、でも、かくも魅力的(男が考える自分勝手な魅力ですが)な女性が読むのだから、すてきな小説に違いない、と思ってすぐ手に入れて読んでみたのですが……というトコロです。

 伊丹氏は、別なエッセイで、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を原書で読む女性が良い、とも書いていますね。

 なんだかよくわからないと書きながら、わたしも原書をもっていますし、それも読みましたが……やはりダメでした。

 訃報に接した日本の文学者は、

「文学的にはもう死んだと思っていた。生物学的な死が追いついた気がする」

と、学者的に突き放したコメントを発しています。

 あるいは、愛憎(もっとたくさん書いてくれよっていう)半ばする気持ちがいわせた言葉なのでしょうか。

 ともあれ、ご冥福をお祈りいたします。

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2009年11月25日 (水)

世にあふれるオルタネティブ 〜女か虎か〜

「二者択一」、英語で「An alternative」と呼ばれる行為あるいはそれについて書かれた書物が世の中には種々(しゅじゅ)存在します。

 曰く、「あれかこれか」(セーレン・キェルケゴール)、「紙か髪か」(小松左京)、「生か死か」(映画その他多数)、そして「女か虎か」――



 キェルケゴールについては、その神サマ中心の彼の哲学思想よりも、彼の父ミカエルが自分のバチあたりな行いで、七人の子供全てがキリストが磔にされた(といわれている)34歳で死んでしまうと思いこみ、そう教えながら育ててしまったため(実際、長男とセーレン以外は34歳まで生きていない)、キェルケゴールは34歳の誕生日を迎えたときに、それが信じられず教会へ自分の誕生日を調べに行った、なんていう逸話の方が好きですね。



 「紙か髪か」は、小松左京氏のジョーク(たぶん)SF短編小説です。
 火星からやってきた細菌に放射線を当てたところ、あらゆる紙をボロボロにする性質をもって世界中に広がってしまった。
 記録媒体として未だ重要な紙を失うわけにはいかない。
 しかし、紙を救う方法はある。
 だが、その方法を使うと、紙のかわりに髪がなくなってしまうのだ。
 ドーする?
 結構、究極っぽいオルタネティブ。だが、案外、薄毛の人には歓迎されるかも……



「生か死か」は、1960年代の映画のキャッチコピーによく使われていますが、そういった惹句(じゃっく)的に使われる生死ではなく、まさしく「死の匂い」を嗅ぎ「死の味」を味わったという意味で、わたしの記憶に残るのは、かのフョードル・ドストエフスキーです。

 そう、「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」のドストエフスキーですね。

 ご存じの方も多いと思いますが、彼は、とある空想的社会主義サークルの会員となったため、1849年、官憲に逮捕され、銃殺刑の死刑判決を受けてしまいます。

 そして「死刑直前」に皇帝からの特赦が与えられ、からくも死の淵から生還し五年間のシベリア送りとなるのです。

 死の匂い?
 味?

 ご存じない方は幸せです。

 そう、死には匂いと味があります。
 わたしは、これまでに何度かそれを味わいました。
 一度は山で、もう一度は車で。

 身も蓋もないイイカタをすれば、恐怖によるアドレナリンと脳内物質の分泌によって、現実にはあり得ない匂いと味を感じるということなのでしょう。



 そして「女か虎か」……

 世界的に著名なリドル・ストーリーです。

 まあ、普通に答えを考えれば、そんなもの比較にもなりません。

 選ぶのは、モチロン女、というか女性に決まっています。

 もし「女か猫か」と問われたら……個人的には困りますが。


 いったい誰がこんな事をいいだしたのでしょう?
 
 二択の例として、いや究極の選択としての故事成語なのか?
 あるいは言い出しっぺがいるのか?
 
 結論からいえば、作者はいます。
 「女か虎か」は、もともと小説なのです。

 米国の作家、フランク・ストックトン(Frank Richard Stockton)が1884年に書いたのですが、その短編"The Lady, or the Tiger?"が、あまりに有名になり過ぎて、不幸にも彼の他の著作はほとんど覚えられていないようです。

 ストーリーの全文は以下に掲載されているので、読んでみてください。少し古くさい英語ですが、それほど難しくはありませんし、なかなかの美文です。



 老婆心ながら、内容を、自分勝手かつ大雑把に要約すると……


 昔々(つまりこれは寓話なのですね)、あるところに、半ば野蛮な国の王がいた。
 
 その性格、振る舞いは、つきあいのあるラテンの国々のおかげで、半ば洗練されてきているものの、まだまだ野蛮の域を出ておらず、強大な権力と相まって、日々、自由気ままな生活を送っているのだった。

 彼には自慢の場所がある。円形闘技場だ。

 そこは、格闘の場所であると同時に裁判所であり死刑場でもある。

 普段、些末(さまつ)な事件には無関心の王であるが、時に、彼の気を引くほどの大きな事件も起こる。

 その際、王は被告を闘技場に引き出して、玉座の反対側にある、ふたつの巨大な扉のどちらかを開けよ、との命を下すのだ。

 満場の観衆が固唾を飲んで見守る中、扉は開かれ、被告は、ふたつのうち、どちらかの運命をたどることになる。

 すなわち、女か虎か……

 片方の扉の奥には、腹を空かせた獰猛な虎が閉じこめられ、もう片方の扉の奥には、王自らが由緒正しい家臣の中から選んだ、被告の地位にもっともふさわしい愛らしい女性が待ち受けている。

 そう、王は自然の気まぐれに被告人の罪を決めさせるのだ。

 女性を選んだ場合、被告が清廉潔白であったことが証明されたわけであるから、彼は、その聡明な女性と娶(めあわ)されることになる。

 その際、すでに男に妻や子供がいようが許嫁(いいなずけ)があろうが、おかまいなしに。

 それが野蛮かつ万能である王の決定であるがゆえに。



 王には娘がいた。あでやかで美しく、その性格は父同様、情熱的かつ尊大である……
 当然のことながら、王は王女を溺愛した。

 やがて、王女はひとりの男に恋をした。

 男は美丈夫で勇猛果敢な若者だった。

 ふたりの密かで甘やかな恋は数ヶ月間続いたが、いずれ王の知れるところとなり、若者は捉えられ闘技場に引き出された。

 王国の掌中の玉ともいうべき宝に手を出した若者は、闘技場に集まった誰の目にも、罪人であった。

 王は叫んだ。「どちらかの扉を選べ」と。

「女か虎か」


 それに先立つこと、王女は、持って生まれた聡明さと黄金と女の意思によって、かつて誰もが知り得なかった秘密を手に入れた。

 すなわち、どちらの扉に虎が、女がいるのか、を。
 
 だが、同時に王女は知ってしまった。

 頬を染め顔を輝かせ、扉が開くのを待つ女が誰であるかを。

 無実を勝ち取った若者が手に入れるのは、王宮の中でも比類無いほどに美しく愛らしい娘であった。
 王女は、この者を憎んでいた。
 これまで幾度となく、この美しい娘が、己が愛人に憧れの眼差しを向けるのを見た、否、見たように思った。
 それだけでなく、その眼差しは時に受け入れられ、返されたことさえあったのではないのか?
 二人が話をしているのを見かけたことがある。ほんの一瞬ではあったが……だが、多くを語るには充分な時間だ。たいしたことのない話題であったのかも知れぬ。誰が知ろう?
 愛らしい顔をしながら、王女の想い人に眼をあげるような娘だ。
 連綿と野蛮な血を祖先から受け継いた王女は、その血の激しさをもって、静かな扉の向こうで頬を染め、震える娘を憎んだのだった。


 振り返って王女を見つめた若者は、その瞳の中に、彼女が首尾良くやった証を見た。
 かねて彼が期待したとおりに。

「どちらだ?」無言にして一瞬の問いが投げかけられ、瞬時に王女は答えを返した。
 クッションの上に置かれた右手で右を指し示したのだ。

 若者は向きを変え、毅然と、そして颯爽と無人の闘技場を歩き、右の扉を開けた。


 さて、扉から現れたのは女だったのか、虎だったのか、と作者は問いかける。

 若者が捕まって以来、目覚めている時も夢の中でさえ、獰猛な牙の待ち受ける扉を恋人が開ける瞬間に恐怖して、王女は、何度その顔を両の手に埋めたことだろう。

 だが、それより王女が頻繁に思い浮かべるのは、もう一つの扉を開く場合だ。

 女の扉を開き、若者の顔に天にも昇るかのような喜びの表情が浮かぶことを思うと、王女は髪を掻きむしり、その心は苦悶に引き裂かれる。

 女のもとに駆け寄る恋人の姿が見える。女の頬は上気し、その瞳は勝ち誇っている。
 群衆は二人を祝福し、その歓喜の声は王女の絶望の叫びなどかき消してしまうだろう。

 いっそ瞬時の死を受け入れ、来世あるいは祝福された場所で王女を待つ方が、彼のためではあるまいか。

 だが、あのおぞましい虎を、悲鳴や流される血を思うと……

 王女の決断がどうであったかは、軽々(けいけい)に扱われてはならない。また、わたし(作者)がこれに答えられる唯一の人間である、と自惚れるつもりもない。

 よって、わたしはそれを読者に委ねることにする。

 開いた扉から出てきたのはどちらだったのだろう。


 ――女か虎か……



 以上です。

 いやあ、美文体、というか、寓話っていうのは良いですねぇ。
 訳して書いていて楽しくなってくる。

 それはともかく、この、「ぷつり」と断ち切られたような物語は、発表当時から様々な論争を引き起こしました。

 単純に考えれば、答えはふたつ。

 女か虎か。

 しかし、王女の立場から見れば、答えは四つある。

・若者に虎の扉を示し、愛人の虎の手にかかるを見て自らも命を絶つ。
・若者に虎の扉を示し、昂然(こうぜん)と頭(こうべ)を掲げて愛人の死するを見守る。

・若者に女の扉を示し、二人の手をつなぐを見て自ら命を絶つ。
・若者に女の扉を示し、二人の手をつなぐを毅然と見守る。

 さて、どうでしょう?

 ね、だからオルタネティブは面白い。

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2009年10月29日 (木)

地獄にSF 〜シェイヨルという星〜

 いつものように夜道を歩いていて、ふと「地獄」という言葉が浮かんだ。

 なぜかはわからない。

 商業的な思惑から、業界が無理矢理、根付かせようとしているハロウィーンの季節だからか、落語「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」の演者である桂米朝が文化勲章を受けたことで記憶が刺激されたからなのか……

 彼の語る「陽気な地獄」には随分と助けられた。

 米朝の落語を聞く以前、おそらく十四、五の頃まで、わたしの持つ地獄のイメージは、ダンテの神曲にあるInferno(インフェルノ:地獄篇)あるいはPurgatorio(プルガトーリオ:煉獄篇)などの宗教色の強い場所ではなく、コードウェイナー・スミスの描くSF「惑星シェイヨル」で描かれた世界だった。

 今回は、人によっては、少々気持ち悪い話になるかもしれないので、そういうのが苦手は人は読まないでください。


 警告はしましたよ。


「シェイヨル」こそはSFをバックボーンにもつ本当の地獄だった。

 これは考えると、なかなかに凄いことのように思われる。

 なぜならば、作家、高橋克彦氏がいうように、物事は「説明不可能な事柄ほど恐ろしい」からだ。

 SFは、その性格として「つい説明をしてしまう」から恐ろしくなりにくい。

 いっそ説明も何もなく、

「二階で音がした。不審に思って階段を上がり、箪笥の引き出しを開けたとたん、あっと叫んで腰を抜かした。引き出し一杯に、去年死んだおばあちゃんが詰まっていて、こちらを向いて、小声でにゃあにゃあ言っていたからだ」

 なんて話が恐ろしいのだ。


 「リング」というホラーはご存じだろう。その続編の「らせん」も。

 しかし、原作が好きで読まれた方はともかく、映画で「リング」シリーズを観た方は、リング三部作の最終話「ループ」をご存じないはずだ。

「バイオレンスジャック、終わってみればデビルマン」という格言?と同じで、「リング・らせん」終わってみれば「ハードSF」だからホラーとして映画化はされていない。

 おそらく、鈴木光司は基本的にSF畑の人なのだろう。

 理屈のなさ故に恐ろしいホラーと現実とに整合性を持たせようとして、ループをSFにしてしまった。しかも、かなりスペクタクルなハードSFに。

 それ故、ループの映画化は二重の意味でできないのだ。

 作るのに金がかかり作っても売れない。

 告白すると、わたしは「ループ」が好きだ。

 ある意味、わたしの「リトル・バスタード」と似た作品だから。


 ともかく「シェイヨルという星」

 ご存じの方も多いだろうが、作者コードウェイナー・スミスは1960年前後に多くの作品を残したSF作家だ。

 アラン・スミシーなど、他の多くのスミス系著名人同様、彼の名も偽名で、本名をポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー といい、ジョン・ホプキンズ大学の社会学の教授だった。政府関係の仕事もしていたらしい。

 彼の代表作はというと、「人類補完機構シリーズ」(もちろんエヴァンゲリヲンの元ネタ)ということになるのだろうが、わたしが最初に読んだ(そして一番影響を受けた)のは「シェイヨルという星(A Planet Named Shayol:1961)」だった。

 彼の作品を、おそらく、わたしは古本で買ったジュディス・メリル編の「年刊SF傑作選」あたりで読んだのだと思うのだが記憶が定かではない。

 しかし、作品の内容は、はっきりと記憶している。

 遠い未来(あるいは過去か)、宇宙を皇帝が支配する世界で、ひとりの男が惑星シェイヨルに送られてくる。

 皇帝の暗殺を企てて失敗し逮捕された男だ。

 シェイヨルは非常にユニークな星で、かつ流刑星だ。そして地獄でもある。

 子供のころのわたしにとって、その地獄ぶりは、仏教で説かれる「等活地獄」や「叫喚地獄」「焦熱地獄」「無間地獄」より恐ろしかった。


 宇宙ステーションで、惑星へ投下される彼に医療措置をほどこしながら、看護婦は快楽波発生ヘルメットを彼にかぶせ、自分もかぶる。

 そして、快感にロレツのまわらない舌で、こう彼に告げるのだ。

「こうでもしないと、ここでの生活は耐えられない。これから二年の勤務のうちに、地上基地からあんたの体の部分がいくらでも送られてくる。わたしはあんたの首に十回お目にかからなければならないかもしれないんだ」

 意味がわからないだけに恐ろしい。

 続いてやってきた医者は、即座に看護婦を追い出し、ヘルメットを脱がせて彼に尋ねる。

「君が望むなら、下におりる前に精神を破壊してあげるがね。目を奪っても良い」

「それは必要なのか?」

「わたしが君の立場なら、そうするね。下のあすこは……かなりひどいよ」

 結局、彼は断り、そのまま惑星に降ろされる。

 地上基地には、牛をもとにして造られた誠実な人造人間ビディカートがいて、彼に、シェイヨル以外では違法とされるほど強力な麻薬:スーパー・コンダミンを打って地上に送り出そうとする。

「君の苦痛を緩和するためだ」といいながら。

 この、「麻薬を使って痛みを和らげる」というあたりで、わたしはスミスが、ヒッピームーブメントから抜け出してきたヤク中あがりだと思っていたのだった。
 今になって考えると、発表年が1961年なので、ヴェトナムの北爆(1965)は、まだ行われておらず、ヒッピー(そして彼らが使った麻薬)は関係なかった。
 
 基地の窓から牛男ビディカートと共に見る外の景色は想像を絶するものだった。

 まず、6階建てのビルほどもある足が遠くに見える。
 事故で、最初にこの星に不時着した船長の巨大化した足なのだという。
 600年たっても、まだ健在なのだ。

 体の大部分が「ドロモゾア」化しているが、人間としての意識はまだ少し残っているらしい、と牛男。

「スーパー・コンダミンを6cc与えると彼はわたしに鼻息で答える。はじめての人間は、火山の爆発と思うだろう。君は運がいい。わたしは君の友だちだしクスリもある。世話はわたしがして、君は楽しむだけだ」

 男が叫ぶ。

「嘘だ。処刑日に、見せしめとして放送していた悲鳴はどこから聞こえるのだ。なぜ医者が、脳の機能をとめたり目をとったりしてやろうというのだ!」

「大したことはないよ」とビディカート。

「ドロモゾアにぶつかると、君は飛び上がるだろう。体にあたらしい部分、頭や腎臓や手や足が生えてきた時、びっくりするだろう。外に出て、たった一度で38本の手が生えた男がいた。わたしはそれを全部とって冷凍して上に送る」

 シェイヨルで刈り取られた体のパーツは、銀河中に送られ、手術用の生体部品として使われているのだ。

 やがて、牛男によって基地外に送り出された男は惑星に足を踏み出す。

 しばらく歩くと、足にチクリとした痛みを感じ、手でそれを払いのけたとたん『まるで天が崩れ落ちてきたみたい』に痛みに体を襲われた。

 ドロモゾアだ。それが生物なのかウイルスなのか光子生物なのか何もわからない。

 ただ、惑星上には「ドロモゾア」が存在し、それが人間の体に苦痛を与え変化させるのだ。

 苦悶する男に声をかけてくる人々。

 鼻がふたつ並んである以外は普通の男、額から赤ん坊のような柔肌の指が房になってぶら下がっている女……

 やがて、男の体にも異変が生じ、さまざまな「外にくっついていてはいけない器官」が男の表皮にぶら下がり始めると、牛男がもってくる麻薬と体に生えた余分なパーツを切り取ってもらうことだけが楽しみになってくる。

 遅く速く、時間は速さを変えながら流れていく。

 ショイヨルは不死の星で、人造人間の牛男も年をとらないのだ。

 シェイヨルには多層になった恐怖が横たわっている。


1.いつ、ドロモゾア(恐ろしい痛み)に襲われるかわからない恐怖。

2.自分の体がどう変形するか分からない恐怖。

3.苦痛と恐怖から逃れるために麻薬漬けになり、あげく時間の概念を無くし、麻薬のない一分を永遠に、数百年すら一瞬に感じる恐怖。


 やがて、男は先代皇帝に連なる女性と親しくなる。

 彼女は、政変でこの地に流されていたのだ。

 麻薬が切れかつドロモゾアが来ない短い時間を通じて、ふたりは(もはや人間の形をしていないが)恋に落ちる。

 そして数百年が経ち、事件が起こる……



 以上でわかるように、シェイヨルは、コードウェイナー・スミスが、SF手法で擬似的に造りだした地獄だ。

 小説中では、ラストに思わぬ展開があって、ハッピーエンドらしく物語は終わるのだが、なぜ、こんな話を思い出したか考えてみるに、最近、読み散らしている京極夏彦氏の作品の影響があるようだ。

「魍魎の筺」で美少女の肉体を破壊し、「狂骨の夢」で麻薬(と脳損傷)による記憶置換を行い……

 そういったプロットが、わたしには、彼が中世・現代の様々なアイテムを使いつつ「地獄」を現出させようとしているように思えたのだ。

 以前、ここで彼の作風を、蘊蓄(うんちく)の羅列を詭弁(きべん)的に配置して長文化しただけのもの、と評したことがある。

 その印象は変わらないし、世の多くの長編小説と同様に、本来、短編で終わることが可能な、いや終わるべきところを、あまり必要性を感じない迂遠な回り道を行ってページ数だけを増やしている点は評価できない。

 もっとすっきりした流れにしたら……だが、もしそうしたら、文章量で誤魔化しているプロットのアラが丸見えになってしまうから、それもできないのだろう。

 誤解を恐れずいえば、小説は短編の方が難しい。

 長編で、きれいな作品を書くのはさらに難しいのだが、多くの長編は、その美しさに挑戦するがゆえに長い作品を書くのではなく、短編で表れようとするプロットの破綻を隠蔽するために言葉を増やし、かつ一冊の本にしたいという出版社の意向もあって長編化されているように見える。


 最後に、なぜ批判的に評しながら、京極氏の作品を読んでいるかと問われたら……

 彼の描く主人公も、フロイトが嫌いにも関わらず、知らなければ批判できないという理由でフロイトに詳しいという設定になっているから、と答えたいが、有り体にいえば、嗜好自体が自分に近いからなのかもしれない。

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2009年10月19日 (月)

ボクシング・美少女 〜「魍魎の筺」(京極夏彦)〜

 週末、例によって、夜中の散歩に出たついでに寄ったGEOで、普段は滅多に観ない邦画をまとめてみようと、いくつかレンタルしてきました。

 その中に「姑獲鳥(うぶめ)の夏」と「魍魎の筺(もうりょうのはこ)」がありました。

 ともに京極夏彦氏原作の映画化で、キャストが有名どころな上、「姑獲鳥〜」は、当たり外れはあるにせよ、個人的に好きな実相寺昭雄監督の作品なので、ちょっと楽しみだったのです。

 すぐに観ました。

 結論からいうと、まあハズシ気味かなぁ、というところですね。

 実相寺監督の暴走なのか、原作が原因なのかわかりません。

 「20ヶ月体内にとどまる赤子」なんてのは想像妊娠以外のなにものでもないな、と思っていたらその通りだったのと、多重人格者の殺人、見たくないものは見えない故の死体消失など、プロットからいえば笑止な設定の連続の作品でした。

 あと、南紀白浜エネルギーランドにあるトリック・アートハウス同様の錯覚道が出てきたのには笑いました。偶然できた錯覚道を通るたびに目が回る男、というのは結構面白い設定ですね。


 次に「魍魎の筺」を観ました。




 レンタル店では、確か、ロングセラー(売ってないけど)と書いてあって、ランキング4位ぐらいの棚においてありました(3位の棚にあった「リアル鬼ごっこ」については別記)。

 観始めて、すぐにひどい違和感を感じました。

 こりゃあ、どう贔屓目(ひいきめ)にみても日本じゃないぜ。

 山も、川も建物も、そして道ばたに生える植物の植生も、「絶対に日本のものじゃない」のが明らかなのに、登場人物たちが、しゃあしゃあと日本として演じていることに、不愉快を通り越して気分がわるくなってしまいました。

 あとで、昭和20年代の日本を再現するために、中国ロケを敢行したことを知りましたが、あれじゃあ、全編セットか背景オールCGの方がましだったと思います。

 それに、クドウカンクロウが出ていたのにも、ちょっと引いてしまいました。

 わたしは彼が苦手なんです。役者としても、ドラマの作り手としても。

 三文コントの漫画実写化然とした大げさな身振りを観ると鳥肌が立ってしまいます。

 漫才ではなく、コントのお笑い芸人を好きな若い女性たちなら、彼の演出を許せるのかもしれませんが、わたしには無理です。

 役者としての彼は……なんとなく映画ブリキの太鼓のオスカル(ダーフィト・ベンネン)に似ているように思えてさらに苦手です

 その意味では、今回の役柄は適役だったのかも知れませんね。


 「ブリキの太鼓」自体は大好きな映画です。
 ギュンター・グラスのダンツィヒ三部作の最後を飾る名作。
 子供の声、ドイツ語で回想されるフリークスな人生。
 魅力的です。何度観かえしたかわからないほどに。
 それだけに、同じフォルカー・シュレンドルフ監督の次作「魔王」には少し失望しました。




 「姑獲鳥〜」もそうでしたが、単に知識の羅列を並べ替えただけのようなプロットはつらい。

 世代的にも近い京極氏が何に影響を受け、何を組み合わせてああいったストーリーにしたかが透けて見えてしまいます。


 なんて原作のダイジェストである映画だけみても、京極氏のストーリーは分からないのですがね。

 そこで、さっそく原作を買ってきました。

 文庫を買ったのですが、それでも噂通りのデカさでした(たしか枕と呼ばれているんでしたっけ?)。

 敬愛する東海林さだお氏の総集文庫本「なんたってショージくん」より文庫一冊分薄いだけです(って、ショージくんどんだけ分厚いの!)。

 すぐに読みました。

 読みやすくて良い文章です。彼は文章がうまい。

 しかし、内容は、やはり知っている知識の羅列のオンパレード感は否めず、若者向けの教養小説の枠をでていないように思えました。


 ある程度、似たような知識のある者にとっては、「残酷小説」の姿を借りつつ、持ち合わせの知識を組み合わせる寄せ木細工的で無駄に長い小説、という感じを受てしまうのですね。

 まあ、好みの問題でしょう。


 わたしは、常に「今まで読んだことのないような作品が読みたい」のです。
 その意味で、京極氏の作品には少し失望しました。
 まあ、失望したくないから、今まで読まなかったのですが。

 本歌を知らず引用された歌に感動する経験浅い歌詠みのように、あるいは過去の名曲を知らず、それらから影響を受けて組み合わせたJ-POPに感動する若者のように、京極氏の作品は、底深い日本文学(大正期SF含む)と神秘知識あるいは哲学談義に馴染みが薄い人たちにとっての、そういったものへの「トバクチ」として読むのが正解のようです(科学は駄目です。京極氏は科学者ではないから。もともと彼はデザイナーですね)。

 その意味で、ちょっと重みは足りない気がしますが、恐怖感を煽るのがうまい高橋克彦氏の作品群とは趣を異にしますね。同じ「箱神」をあつかっても、高橋氏の作品はずっと恐ろしい。

 あるいは、真の意味での博覧強記、世界に数名しか存在しないといわれている「博物学者」のひとりである荒俣宏氏の知識量とも少し違いますね(氏が編纂した「世界神秘学辞典」は長らくわたしのバイブルの一つでした)。



「筺にみっしりとつまった女の体」てぇのは岩手県の山間部に伝わる箱神(ハコガミ)と映画「ボクシング・ヘレナ」(1993年)からインスパイアされたのでしょう(そういえば、オンバコさまというご神体も出てきましたね)。

「魍魎の筺」の成立が1995年であり、ボクシング・ヘレナの公開が1993年ですから、時期的にもぴったりですね。
 ああ、ボクシングは殴り合うボクシングではなくて、箱詰めの意味です。
 当時、「美しい女性の四肢を切断して箱に詰める」ショッキングさから、主演が決定していたキム・ベイシンガーが降板したことも話題になりました。
 まあ、結局、主演を変えて撮られた映画は、とんでもない夢オチで、おはなしにならない駄作でしたが……

 もっとも、女性をトルソーにするというのは横溝正史なども使っていましたし、そういう心理的な不気味さなら、やはり乱歩の「人間椅子」や「蟲」の方が上ですね。

 キショク悪さだけでいえば、飴村 行氏の「粘膜人間」のほうがずっと上ですし。
 (受賞作を読んだ家族から、縁を切るといわれたとかいわれなかったとか……)

 あと「車窓から箱に外の景色を見せる」というのは、まんま江戸川乱歩の「押繪と旅する男」ですね。

 そして、本来、その時代に存在しえない科学知識、昭和20年代に登場する戦争マッドサイエンティストたち(鉄人28号やその他戦後に多く表れたスーパーマシンのほとんどは、戦時中、軍部によって開発されています)は、その原型を、戦前の海野十三(うんのじゅうざ:SF作家、ほとんどの作品は青空文庫にて無料で読むことができます)の作品にみることができます。

 それとも「アンバランス」「ウルトラQ」「怪奇大作戦」など、テレビドラマクラスのマッドサイエンティストのニオイもします。
 氏の怪奇嗜好の入り口はそのあたりでしょうか?
 あるいは、東宝のいわゆる変身人間シリーズ、八千草薫の美しさが際だつ「ガス人間第一号」あたりかもしれません。狂った科学者の雰囲気ではこちらの方が近そうですね。

 落ちぶれた日本舞踊の家元と、彼女を愛するあまりガス人間と化した体を使って、金を貢ぎつづける男(土屋嘉男が好演)。
 ラストの、現れたガス人間を恐れて、誰もいなくなった舞台で、独り、彼のために踊り続ける八千草薫の美しさは必見です。
 この作品は、彼女の美しさ(そしてそのオリエンタリズム)ゆえ、アメリカでも大ヒットを記録し、向こうでの上映を前提として続編「フランケンシュタイン対ガス人間」が企画されたほどです(結局はお流れになりましたが)。

 あらあら、また暴走してしまいました。

 京極氏は、もともと、そして今もデザイナーです。

 だからこそ、妖怪や魑魅魍魎の絵柄から興味をもたれて、その方の知識も蓄えられたのでしょう。
 年齢からいって、案外、水木しげる氏の作品あたりが導入だったのかもしれませんね。


 主人公の、妙にもってまわった台詞は、とどのつまりは誘導による心理操作に過ぎませんし、おそらく、わたしにとって、主人公が再々用いる「詭弁」がコツコツと胸にあたって、かなり不愉快なのですね。

「これが探偵小説なら偶然はアンフェアだが、現実はほぼ偶然で出来上がっている。もし、一万回実験が成功しても、一万一回目には失敗するかもしれない、以下ずっと失敗するかもしれない。つまり実験は偶然一万回だけうまくいったのかもしれないんだ」

 科学者、あるいは少しでも科学の訓練を受けた者の吐く台詞ではありません。

 ただの詭弁です。そして彼はこうして場の主導権を握ろうとする。

 より正確にいえば、主人公が、自分の廻りに配された頭の悪い人間に対して、得々と詭弁を用いて煙に巻くというのが、京極氏のこの作品での手法なのです(他のは読んでいないので知りません)。

 前にどこかで書いたかもしれませんが、小説(ミステリは特に)のドラマツルギーで、もっともやってはいけないのは、犯人をマヌケに描く、ということです。

 それでは緊迫感は生まれない。

 付け加えれば、犯人だけでなく、主人公のまわりの人間をマヌケに描くのもアンフェアですね。
 まわりを「バカもの揃い」にして、ウソをつく主人公を持ち上げる、というのは、つまり素直な読者をバカにしているのと同様です。

 同じ詭弁探偵なら、笠井潔氏の探偵ヤブキカケルの「本質直感」を利用した(つまり詭弁にもちいた)哲学的探偵手法のほうがずっと好感が持てます。


 終盤、主人公を通して語られる認知論も、とくに目新しいものではありません。

 プロット自体は、研究資金を得るために、列車事故にあった巨額の財産相続者の少女を死なせるわけにはいかず、戦中の技術を使ってその延命を図ったマッドサイエンティストと、そこから盗み出された箱詰めの美少女(いかにも乱歩的だ)を、目にした犯人が、それにとらわれ、同じものを作ろうと殺人をくりかえす、という、薄い文庫一冊程度のものでした。

 作家が博覧強記の知識を持つのはあたりまえ。
 
 しかし、単純にそれを組み合わせて小説を組み立てる、つまり出典丸わかりは興ざめです。

 知識の垂れ流しで枚数を稼いでも仕方がない。

 出版社の要望にそうように、本のカサを増やす能力も流行作家には必要なのでしょうが。

 まあ、少なくとも、その知識を喜ぶ読者がいれば商売にはなりますね。

 いけない。いけない。

 先日も書いたように、悪いことを書くと的外れが多くなります。


 ただでさえ耐荷重量オーバーが気になる自作書架に、文庫とはいえ、あの大きさのものが増えたことに対するカンシャクが文字になってしまいました。

 前評判の高さに、期待していたのにがっかりしたこともあります。

 あの厚さで、あの内容じゃひきあわないよ。

 内容はともかく、ウンチクのきっかけ、知識のトバクチとなるお話であることは確かなようです。

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2009年10月14日 (水)

矛盾を孕んだラジオ・ドラマの小説化 〜「告白」(湊かなえ)〜

 人間、怒ってはいけません。

 だからといって、リョーカン和尚みたいにいつもニコニコ笑っている……あ、これは『雨ニモマケズ』だった、子供の頃の記憶で、わたしは『雨ニモマケズ』と『漂泊者の歌』は暗唱できるのです(あとボーイスカウトの掟も……)、いや、つまりニコニコしているだけで良いとは思っていません。

 怒るべき時には怒るべきです。

 若者なをもて怒髪天を衝く、いはんや老人をや……

 と「老人正機(ウソ)」っぽくなってしまいますが、つまりわたしは怒っている老人が好きなのすね。ニコニコしている年寄りは、どうも怪しい。

 だから、わたしは、映画「スカイクロラ」のスピンオフである「スッキリクロラ」(本編より好きです)で語られる箴言(しんげん:戒めのコトバ)

「老人は、大抵さみしそうな顔をしながら、復讐の機会を窺っている」

が好きなのですよ。


 個人的にはアドレナリンが体内を駆けめぐる感覚は好きですし、生きている実感は、穏やかな時より激情の時にこそ感じられると思っています。


 あれ、いつの間にか、最初に書いたことと反対のことを力説していますね、アブナイアブナイ……

 まあ、怒る時にもTPOが必要だということですね。

 怒りは内燃機関に投入されたニトロと同じ働きをします。
 暴走して、シリンダー内部やエンジンそのものを傷つけてしまう。

 さらに、人は一度口から出したコトバを引っ込めることはできない。

 そう、人は、怒りというパワー・ブーストの暴走の中で、往々にしてマチガイを犯してしまうのです。

 だから、このブログでも、人や作品の気に入らない点をとりあげるのではなく、なるべく良いところを取り上げるように努力はしているのですが……なかなか思い通りにはいきませんね。

 それでも悪口はいけません。

 なぜなら、人は欠点をあげつらう時、往々にして間違いを冒すからです。

 褒めている時、人は過ちを冒さない。

 けなす時に、的外れな間違いを冒すのです。

 その原因は、おそらく上でも書いた、悪口をいっている間に思考が暴走してしまうからでしょう。




 さて、今回とりあげるのは、湊かなえ氏の「告白」です。

 随分前に手に入れて、これについて書きたいと思っていたのですが、どういうわけか、書くことがためらわれてなりませんでした。

 どうしてだろう?

 オビには、
「週間文春'08年ミステリーベスト10 第1位」
「この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー 第2位」
「このミステリーがすごい!09年版 第4位」
などと、錚々(そうそう)たる単語が踊っています。

 もともとは、小説推理新人賞の受賞作(一章)で、それに二章〜六章を付け加えて一冊の本にした作品だそうです。

 前評判の良さに手に入れたこの作品ですが(それにわたしがとれなかった賞の受賞作ですし)、読み始めてすぐに、後悔しはじめました。

 文体が一人称だったからです(主人公目線の文章表記「わたしは〜」という書き方ですね)。

 以前に、どこかで書いたことがあるかもしれませんが、もうずっと以前、小説を書き始めたころ、わたしは「三人称小説」を書くことができませんでした。

 一人称しか使えなかった。

 いわゆる「視点の固定化・移動」「神の目」といったテクニックを使いこなせなかったのです。

 時間をかけて書き続けるうちに、なんとか扱えるようになったような気がしますが、まだ自信がありません。

 そういった理由もあって、人の文章を読むとき、その文章スタイルが気になるのです。


 一人称なら、自分の目からみた事象、自分の考えだけを詳細に書き、他者の行動にはフィルターをかけて、もっともらしい謎にすることができます。

 ミステリも簡単にかける。

 だって、自分以外の登場人物が、事実を知っていながら、黙っているだけで、スゴイ謎があるように書けるじゃないですか。

 この間までやっていた、テレビドラマ「トライアングル」なんぞは、その最たるものでしたね。

 正直にいって、わたしは登場人物が「黙っているだけで生じる謎」を扱うプロット、そして、それを簡単に実現できる「一人称小説」というのが好きではありません。


 だからこそ、一般的に「良い一人称小説」を書くのは難しい、といわれるのです。

「黙秘ミステリ」的安易な道に走らず、クイーンの「Yの悲劇」的奇策に走らないで意表をつく作品にするのは容易ではありません。


 しかし「告白」は一人称で語ってしまった。その結果は、読めばおわかりになると思います。


 もうひとつ、わたしは(舞台・あるいはラジオドラマ)脚本家の書く小説、というのもあまり好きではありません(『彼らの書く小説』がです)。
 
 特にミステリには(もちろん、その全てということではありませんが)欠点が多すぎます。

 舞台という、シチュエーション・ミステリ(限られた舞台設定のなかでのミステリ)で培われた思考ゆえか、彼らが書くプロットは、ミステリとしては、穴だらけの我田引水的な論理に終始することが多いように思えるのです。

 舞台でよく使われる、朗々たる独白を用いれば、一人称小説は比較的簡単にかけるでしょうし、ラジオドラマなどの脚本(わたしも書きますが)は、容易に一人称小説に変更できます。

 そして、脚本家転向組の作家が増えていく。

 こういったことの根底には「脚本では喰えない」という理由があります。

 脚本は、舞台にかけられないと日の目をみませんが、小説にすれば、それだけで商品になり得るからです。

 そういった考えもあってか、以前にもまして脚本家の書く小説がたくさん世にでるようになっていますが、その多くが文章文体にクセがあり、プロットに無理があるような気がするのです。

 湊かなえ氏の略歴をみると、やはり彼女も、もともと脚本畑の人でした(もちろん、多くの脚本家同様、かつては文章を書いていたのでしょうが)。

 「告白」も、いかにも、はじめはラジオドラマの脚本として書いて、急遽小説にしました感のある文章です。

 第一章が、教師による現実味の薄い「恫喝」で終わり、

 第二章以下、「わたし」を生徒あるいは生徒の姉弟の目線に変えつつ、連作として六章のラストまで持っていくのですが、末節にこだわった、粘着質な、いやはっきりいってキショクワルイ人間関係と、じめついた思考回路は好みの問題だから仕方がないとしても、ミステリとして読んだ場合、あり得ない起きえないシチュエーションの連続で、読むのが辛くなってきます。

 少なくとも自分じゃ、あんなプロットは作ることはできないなぁ。

 読まれた方ならお分かりでしょうが、ある秘密を知ったクラスの全員が、家族およびクラス外の友達あるいは「掲示板」にさえ、何ヶ月にもわたって一切その秘密を漏らさない、なんてことがあるでしょうか?

 それは、論理の穴というより致命的な欠陥ですね。
 よく出版社の担当が許したなぁ。


 一過性のラジオドラマ(あるいはテレビドラマ)なら許されても、小説として上梓(じょうし:出版の意)するのは困難な作品のように思えるのですね。

 まあ、いずれにせよ、この作品も映画化(あるいは、ちょっと下がってテレビドラマ化?)はされることでしょう。特に、一過性のテレビドラマなら、そのドラマチック性で良い評価を得ることができるかもしれません。


 あれ、上の書き方って悪口っぽくみえますね。しかもちょっと怒っているような。
 

 わかった、この作品について書けば悪口になるから、書くのがためらわれていたんだ。


 えーと、「告白」
 後味は悪いですが、スーと読み終える分には、面白いところもある作品ですよ。

 以上、告白させていただきました……けど、的外れ、かな?

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2009年10月 6日 (火)

小説なんて簡単さ 〜「ジェネラル・ルージュの伝説」〜




 海堂尊「ジェネラル・ルージュの伝説」を読んだ。

 小説に「著者近況エッセイ」をくっつけた合本だ。

 裏を読めば、というか作者も認めているが、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」に便乗して出版社から書かされた中編の「かさ」を増やすためにエッセイを加えてハードカバーにしたということだろう。

 相変わらず、小説の文章は読みにくく、ナルシシズム気味な表現が多用されるため、ナナメ読みできただけだった。(氏の小説文章は、なんとなく女性的、マニッシュというか、どこかカマッポイところがある)

 興味をひかれたのはエッセイの方だ(こちらはマスキュリンな文章)。

 ほぼ、小説と同分量のエッセイに、これまで書いた小説の裏話が彼の生活変化とあわせて書き連ねられている。

 氏は、その中で、二つほど気になることを書いていた。

 ひとつは、彼が、自身の作品群を「虚数空間を統一した作品にしたもので、同様のことをした作家はいない(あるいは自分の知る限りほとんどいない)」と書いていることだ。

 虚数云々は、理系を自認する作者が、鬼面ヒトを驚かす体(てい)で、ブンカケイ読者を煙(けむ)に巻くことだけが目的で使った、何ら意味のないハッタリではあるが(実際、わたしには彼が何をいっているのかわからない。複素数球面のことか?だとするとさらに意味不明)要は、「ある特定の仮想世界で、自分の書くあらゆる登場人物が、同時に生活している。自分はそれ以外の世界を書かない。だから、違う作品で以前の主人公が脇役で登場することがある」ということらしい。

 しかし、ざっと考えても、そういった体裁をとる作品を書く作家は、彼以外に十指にあまるほどいる。

 皆さんも、「主人公が変わっても、物語世界が同じで、登場人物がカブる作品を書く作家」なんていくらでも思いつくことができるでしょう?

 まあ、これは海堂氏の思いこみだから仕方ないとして、もうひとつ気になったのは、彼の創作技法についての言及だ。


 本文中、氏がブルーバックスから「死因不明社会」を出した時の話が載っている。
 (ご存じのようにブルーバックスは科学系ノンフィクション)

 面白いので引用してみよう。

「執筆はキツかった。科学系の文章を書くことは、フィクションの系の数倍大変だ。フィクションはつじつまが合わなくなったら、自分で新たな点を打てる。現実の科学ではできない。かつて基礎実験し、PCRという実験でそこにこの領域バンドが出れば世紀の大発見なのにと、思ったことが幾度あったか。それと比べたらフィクションのつじつま合わせなんて朝飯前だ。そんな状態に慣れた私は、ストイックに事実をつきあわせて書くことが難しい体質になっていた(要は、作家はいいかげんな詐欺師だ、ということだ)」

 これには納得できた。
 わたしも常々そう思っていたからだ。

 氏の書くとおり、フィクションは、ある意味簡単だ。
 好きなように辻褄があわせられる。
 たしか、東野圭吾氏も同様のことを書いていた記憶がある。

 困ったら、新しい登場人物を出したり、始めは、そこになかった自動車を通りにおいておけばいい。そして、うしろの方を、それにあわせてちょこちょこっと書き換えて、ハイ、できあがり。

 理系のニンゲンは、だいたい同じように考えるものかもしれない。

 しかし、問題は、わたしが書いた「ある意味簡単だ」ということだ。

 世の中の、あらゆることには、それぞれに抜け道がある。ラクができる。ごまかせる。
 そして、多くのヒトは、その多寡(たか)はともかく、そういった「妥協」と妥協しながら生きているのだ。

 だが、いやしくも、自分を好んでくれる読者の財布から、千円以上(ハードカバーの場合)出費させようとする作家であるなら、思いつきのプロットを、辻褄あわせのトリックで読ませ続けてはいけない。

 科学レポートと違って、「簡単にグラフにプロットできるから(点を打てるから)」こそ、プロット(あらすじ)に凝らなければならないのだ。

 そりゃあ、ろくな読書量もない、本ばなれした人々を相手にして、興味本位に本を買ってもらうだけなら、既存の有名作品(古典)に似たあらすじをちょっと現代風テイストに変えて書けば良いかもしれない。

 しかし、わたしを含め、おそらく多くの雑文家は、今まで誰も書いたことのない「あらすじ」をひとつでも産み出してから死にたい、と常々考えているに違いない。

 氏が、賞に応募した「チームバチスタの崩壊」で何度も推敲(すいこう)を繰り返したことは知っている。
 だが、その後、多数執筆されている作品の多くの内容は、残念ながら練られたものであるとは思えない。

 売れることを前提条件に出版社から執筆依頼されるのだから、あまり凝ったプロットにできず、辻褄をあわせのトリックを、読書家なら「ドコカデヨンダハナシダナ」と思うような「既存の素晴らしいあらすじ」で書き飛ばしてしまうのはわかるのだが……

 そんな書き方をしていれば、やがて、手痛いしっぺ返しをくらうことになるかもしれない。

 十代、二十代でデビューした作家のように経験でなく感性で書いていると、ライターズ・ブロック(つまり書き詰まり)を起こしやすい。


 反対に、ある程度歳をとってからデビューする作家は、デビュー後数年は多作であることが多い。

 それは、書くべきネタが経験の中で蓄積されているからだ。

 しかし、ネタは無尽蔵ではない。

 おや、と思った「きっかけネタ」を、自分の中で昇華させ、知識を自分を触媒として変化させて、物語グラフの未知の場所に「点を打つ」ようにならなければ、早晩、ライターズ・ブロックに陥ってしまうだろう。

 あるいは、そういった「創作作業に対する侮辱的ルーティンワーク」すらこなせる強靱なハートの持ち主なら、名前のみで、そこそこ売れる駄作を書き続ける老人作家になりはてるかもしれない。

 ご存じのように、海堂氏は現役の医療従事者だ。 

 彼のような「二足のわらじ作家」には、売れなく、書けなくなったら、もといた場所に戻ればよいという、よくいえば余裕、わるくいえば腰掛け的イイカゲンさがある。

 そのお気楽気分が、良いほうに向かっている間は、彼の作品は売れ続けるのかもしれない

p.s.

 気になったことが、もうひとつあった。

 文中に、海堂さんに10の質問というコーナーがある。
 いかにも、自分が聞いて欲しいことを質問させている、というカンジなのだが、その中で、彼は「文体がころころ変わるといわれますが」という質問に答えていた。

 面白いので引用してみよう。

「実は作品によって、意図して文体を変えている。デビュー当初は、最初の七作すべて文体を変え、七色の変化球作家という渾名をもらおうと目論んだ。ところが実際は誰もそう評価してくれず、文体が安定しない変な新人、という意図に反したレッテルをちょうだいしてしまった」

 あの文体って、毎回変わってたんだ!
 その全部が読みにくいというのがすごい。



p.p.s

 もうひとつおまけを。

 よく、新聞記事で、社会派作家(これもイミワカンネー)と称する人々に、昨今の世相や政策を尋ねるものがある。

 しかし、皆さんおそらくご存じのように、概(おおむ)ね、彼らの答えはピンボケで、的外れのものが多い。

 その理由こそが、海堂氏が上で書いている「現実社会と違ってショーセツでは好きなところに点が打てる」からなのだ。

 いつも、手前味噌に好きなトコロに点をうって、現実社会のデータをそこに貼り付けて、社会派小説をデッチ上げている作家(もちろん例外はある)に、動かしようのない社会の分析と今後の予測を尋ねても、イミガナイことに、早く記者たちも気づくべきだと思うのだが……

 あるいは、新聞社側も、そんなことは分かりつつ、紙面を埋め、知名度で顧客の気をひくための客寄せパンダとして、名のある社会派作家に登場願っているのかもしれない。

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2009年7月 4日 (土)

新世紀から新生へ 〜エヴァンゲリヲン 序〜




 夜、珍しく事務所に来ていた顧客が帰った後、何気なくつけたテレビから、いきなり男の子の(女性の声優だが)ナキゴトが聞こえてきて驚いた。

 が、すぐに、映画の公開にあわせて、前作をテレビ放映して観客動員を上げようという、例の作戦にのっとってエヴァンゲリヲンを放映していることを思い出した。

 そういえば、昼に会った薬学科の大学生が、エヴァの良さを熱っぽく友達に語るのを聞いてくすぐったく感じたことも思い出す。

「ガンダムで感動するのは甘い」という彼の言葉を青臭く感じるのは、おそらくわたしもトシをとったということなのだろう。(わたし自身はガンダム・シリーズを良く思ったことは一度もないのだが……)


 ああ、はじめに断っておくが、わたしはエヴァンゲリオンという作品が、あまり好きではないので、ファンの方は以下の文章を読まないで欲しい。



 エヴァンゲリオンに関しては、以前に流行った時に、この(わたしにとっては)なんだかあまり気持ちよくない作品のどこが良いのか考えてみたことがある。

 制作者サイドの思考の流れ方なら、なんとなくわかる。

 エヴァンゲリオン以前に、庵野秀明氏が作った「ふしぎのうみのナディア」(漢字がないのでひらがな表記)で、地球にやってきた宇宙人が最初に作った人間のプロトタイプ、アダムという名の巨人が出てくる。

 プロトタイプだけに「現存するヒト」のように小型化できず巨人になってしまった、という設定は、きわめてイカしたハナシで、最終回近くで出すには惜しいプロットだと庵野氏も考えたのだろう。

 だから、巨大なアダムを使って、別なハナシを作りたくなった。

 ナディアでは、いい加減に使ってしまったものの、アダムといえば旧訳聖書の世界。

 旧約聖書ならば、アダムよりアダムの肋骨から作られたエヴァの方が断然ツカえるし面白い。

 だって、アダムの一部から作られながら、ヘビにソソノカされてアダムを騙し、知恵の実を食べさせてしまうのがエヴァなのだから。
(自作小説にもあるように、個人的には「リリン」の方が好きですが)

 ならば、いっそキリスト神秘主義の知識を借りて世界観を深めてしまおう。

 人類の味方チームのコンピュータは、三博士の名前をつけて、やってくる敵は使徒と呼ぼう。

 死海文書もギミックに使おう。ファティマの予言は……やめておこうか。

 ああ、そうだ。現在の世界観と「地続き」にしないために天変地異を起こしておこう。
 大地震で文明崩壊……じゃバイオレンスジャックだから、なんだかわからないバクハツで、新しい世界観をもった時代にしてやれ、名称は……セカンドインパクト!

 という感じだろうか。

 石川球太の「巨人獣」じゃあるまいし、巨大人間を操って闘うのは、ヒロイズムが疼かないから、やはり生物兵器に人が乗り込んで闘うことにしよう。

 その際、主人公は、オレオレ出しゃばりタイプじゃなく、内省的な巻き込まれ主人公にしたほうが、ハナシが立つだろう。

 ヒーローには仲間が必要、男性を惹きつけるなら、男女の比率は2対1、しかも女性のタイプは正反対にするべきだろうな。

 そのうちのひとりは、口数の少ないクール・ビューティーにして、ついでに怪我もさせて包帯少女にしてしまうか。

 わたしは、個人的に、元気いっぱいの健康的な女性が好きだが、男に、怪我をして包帯を巻かれた女性に惹かれる部分があるらしいのはわかる。


 と、そこまでは納得もいくのだが、不思議なのは、どうして登場人物の多くを、神経症がかった性格にしなければならなかったのか、ということだ。

 まあ、結果的に、オープニング曲のヒットと相まって、大ヒットとなったわけだから、その選択は正解だったわけだが、登場人物の多くが、重度軽度の差はあるにせよ、神経症にかかっているような作品は楽しんで観ることなどできない。


 ただ、漏れ聞く情報によると、今回の映画版は、すでに新世紀(21世紀)になってしまったために、かつての「新世紀エヴァンゲリオン」から「新世紀」の文字がとれ、特に第二話「破」からは、新キャラクターの登場および新展開も行い、エンターティンメント指向の強いエピローグを迎える、とのことなので、少しは期待しても良いかもしれない。


 くれぐれも、よくわからないヤヤコシイ展開だけは止してほしい。

 意味不明なことを、難解そうにみせるのも。


 せめて、過去のテレビ版でタイトルのみをパクッた「世界の中心で愛を叫んだ獣」(ハーラン・エリスン作)のように、パンドラの箱のSF的解釈を試みようとするほどの意欲は見せて欲しいものだ。
(当時、庵野はハーラン・エリスンの作品を読んだことがなかったらしい。その上、観たことはないが日本のドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」は、エリスンではなく、エヴァのタイトルをパクったものだという。世も末だ)

 そして観た者は、心して作品を判断してほしい。

 見かけ上の難解さをありがたがるのは、自分が単純であることの証明にしかならないのだから。


 私のおすすめ:
世界の中心で愛を叫んだけもの (ハヤカワ文庫 SF エ 4-1)

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2009年6月 5日 (金)

神がウソつかはるわけあらへんし……

 しばらく前に「方言で読む日本国憲法前文」の話をしましたが、法律文に限らず、世にある様々な文章の多くは標準語で書かれています。

 海外で著(あらわ)された古今の名著も然り。

 古(いにしえ)の賢人によって語られる人生の真理も、主に東京という一地方の方言である「標準語」で語られると、地方に住む我々にとっては少し遠く感じてしまいます(現在の「標準語」は江戸本来の言葉である「てやんでぇ」とも違うわけですが)。

 そこで、タイトルです。

 今、大阪で「神がウソつかはるわけあらへんし…」と始まる「ソクラテスの弁明 関西弁訳」(北口裕泰訳・PARCO出版)が売れているそうです。




 この文章を読んで、かつて、大塩平八郎や浅野内匠頭・大石内蔵助といった歴史的大物たちの話し言葉について考えていたことを思い出しました。


 歴史モノに限らず、小説を書くときに迷うのは、「方言で書くべきか、標準語にするべきか」です。

 大塩平八郎は大阪の人間ですから、

「このままやったら、世の中が駄目になるんや。せやからワシらがなんとかせなならん」

と、反乱を起こしているはずでし、同じく関西の人間である大石内蔵助は、

「浅野家再興の成り行きを見るまでは、焦った行いをしたらあかんのや。仇を討つのは、その後でええ」

と、家臣を抑えていたことでしょうが、世のドラマを観ると、もう判で押したように、皆標準語で話していますね。


 基本的に、関西言語は役者にとってイントネーションが難しいからでしょうが、小説においても、彼らが標準語で話していると妙な気持ちがします。


 何かの文学賞に応募する時なども、「方言を使うか否か」は難しい判断となります。

 あまり方言を激しく使うと、下読みの段階で選者に弾かれることがあるからですね。

 標準語に慣れた選考人は、同じレベルの作品が並んでいたら、読みやすい文章を選んでしまいますからね。

 その方言がうまく文章と内容にマッチするように使うなら有効だと思いますが。

 しかし、憲法前文方言化でも少し書きましたが、おらが言葉で語られると、自分たちの血肉と化して文章が入ってくるような気がするのですね。


『ソクラテスの弁明 関西弁訳』

 訳者の北口氏は、わたしが学生の頃熱中し、大学図書館で何度も全集七巻を借り、CD全集も揃え、幾度となく独演会に出かけた、桂米朝の語り口を手本に『無知の知』をソクラテスに語らせています。

 結果として、非常に魅力的で分かりやすい訳本に仕上がりました。

 関西地方の方は哲学知識を増やすために、それ以外の地方の方は岩波の標準語版と読み比べるのも面白いかもしれません。


 私のおすすめ:
ソクラテスの弁明 関西弁訳

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2009年5月24日 (日)

モチモチの木

 少し前になりますが、今月16日(2009.0516)に切り絵作家、滝平二郎氏が亡くなりました。

 氏の作品では、なんといっても児童文学作家の故斉藤隆介氏との共作「ベロ出しチョンマ」と「モチモチの木」が有名です。

 特に「モチモチの木」は、大好きな作品で、わたしが「100万回生きたねこ」と並んで三冊だけもっている絵本の一冊でもあります。

 しかし、わたしが、この作品を最初に読んだのは、大人になって随分たってからのことでした。

 小学生の時に、すでに学校推薦図書として、廊下にポスターなどが貼られていたのですが、暗い絵柄となんだか分からないタイトルに、読む気がおこらなかったためです。

 大人になってから読んで、すぐにトリコになりました。

 おそらく皆さんご存じでしょうが、一応紹介しておきます。


 峠の猟師小屋で、じさまとふたりぐらしの気弱な少年豆太。
 小屋の前に立っているデッカイ木は、秋になると餅の材料になる実を降らしてくれるから豆太は「モチモチの木」と名付けている。
 昼間はなんてことのない木だが、夜になると、空いっぱいに広げた枝が、お化けの手に見えて、豆太は、ひとりでションベンにもいけない。
 だから、寝ているじさまを起こして、いっしょに外に行ってもらうのだ。
 ある夜、じさまはいった。
「シモ月二十日のウシミツにゃア、モチモチの木に火がともる」
 勇気のある子供だけがそれを見ることができると聞いて、豆太は自分じゃ無理だとつぶやいて、はじめっからあきらめると、ふとんに潜り込んで、じさまのタバコくさいむねン中にハナをおしつけて、宵の口から寝てしまった……が。

 夜中に具合の悪くなったじさまを助けるために、豆太は夜の山道へ飛び出す。
 季節は冬。
 霜が足にかみついて血が出た。
 いたくて、さむくて、こわかったけれど、少年は走り続けた。
 大好きなじさまの死んじまうほうが、もっと、こわかったから……


 この表紙の画を見てください。↓




 今の世なら、

「じさま、カレーシュウすっからどっかいけ!」

 といわれるのでしょが、昔の、寄る辺ない少年にとって、ただひとり頼りのじさまは、そのたばこ臭い体臭すら安心のもとなのだと、まさしくそれがわかる画です。

 そして、夜のモチモチの木の恐ろしさ↓





 両親が共働きであったため、小学校低学年の頃のわたしは、いつも祖母と一緒でした。
 いわゆる「おばあちゃん子」になるのかも知れませんが、わたしの祖母は、大人にして大人にあらず、花札やすり鉢転がし(巨大なすり鉢の上からコインを転がして下になったコインを取る遊技)といったゲームで、孫と本気でケンカするような人だったので、どちらかというと、ずっと年の離れた姉のような存在でした。

 そして、彼女は常にひとりではなかった。

 昼過ぎに学校から帰ってくると、わたしの家は、さながらサロンと化して、常時4〜5人の老人たちが、男も女もタバコの煙を噴き上げつつ(キセル煙草を吸っている人もいたなぁ)、花札などの遊興に興じていました。

 それがすごく楽しかった。ありていにいって、わたしは彼らが好きだったのです。

 今と違って?ヒネた子供だったわたしは、彼らが言葉の端々で語る経験談が大好きでした。


 明治生まれの老人たちが語る話には、勝った戦争あり負けたイクサあり、華やかな大正時代の記憶あり、夫を息子を失った悲しみもありました。

 その頃のわたしは、生意気にも、彼らこそが自分の知らないスゴい経験と記憶をパッケージされた生きたカプセルなのだと考えていたのです。

 その考えは今も変わっていません。

 わたしが、どうも今の老人たちに深みがたりないように思え、それほど好きでないのは、自分同様戦争を知らず、戦争といえば受験戦争だけで過度の権利意識をふりかざす同類ゆえの近親憎悪なのかも知れません。

 つまり、こどもの頃のわたしは老人が好きだった。

 気に入らなかったのは、老人たちが、わたしが大きくなるにつれて、ひとり、ふたりと家に現れなくなったかと思うと、すぐにあの世へ行ってしまうことでした。

 内容と経験のいっぱいつまった老人たちの余命は短かかった。

 だからこそ、モチモチの木で描かれる、壮年ではない、老人による子供への愛と子供の思慕、そして、「それを失う恐怖による勇気」が分かるような気がするのかもしれません。



 実際に、滝平氏の描く「モチモチの木」がどんな画であったのかは、絵本「モチモチの木」の後書きに作者斉藤氏が添えている文章が言い尽くしていると思いますので、ここで引用させていただきます。


 格調高く、描写は的確で、情熱は沈潜し、しかもそれだからこそなつかしい無限の抒情がうたわれている。
ガシーンと、太い柱を惜しげもなく使った昔の家のようだ。柱々は代々の暮しに磨きぬかれて黒光りしている。その家に天から雪が降る。雪にはみなかげがあって、ボウとふしぎな光りににじんでいる。
 この『モチモチの木』は、そういう絵本だ。


 私のおすすめ:
モチモチの木 /斎藤隆介/作 滝平二郎/絵 [本]

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