コミック感想

2012年4月30日 (月)

志村ぁ~うしろーじゃない!  ~ドリフターズ~

 今回は「ドリフターズ」について書きます。

 ドリフターズといっても、「志村ぁうしろー」のドリフではありません。

 ズッコケ(ドリフト)ではなく、この世界から、漂流(ドリフト)させられた漂流者(ドリフターズ)=歴史上の有名人たちが、エルフ(妖精)の暮らす世界で闘う話です。

 漫画家、平野耕太が月刊漫画雑誌『ヤングキングアワーズ』に、2009年6月号から連載していて、いまコミックスが二巻でています。

Photo

  内容について、もう少し詳しく書きましょう。

 エルフの暮らす異世界に流れ着くものには、大別して二種類の人種がいて、そのひとつが「漂流者(ドリフターズ)」と呼ばれ、他方が「廃棄物(エンズ)」と呼ばれています。

 ドリフターズとして流れてくるものは、闘って死んだものの、それなりの充実感を持っていたものが多く、エンズとしてやってくるのは、晴らしきれない恨みを抱えて死んでしまったものがほとんどです。

 つまり、ドリフターズは、戦士としての矜持(プライド)をまだ持ち続けている者たちで、エンズは、人を世界を憎みきっている魔物に近い者たちなのです。

 例)
 ドリフターズ:織田信長、那須与一
 エンズ:ジャンヌ・ダルク、土方歳三、ジルドレ、アナスタシア、ラスプーチン

 え、織田信長と那須与一?

 いやいや、それどころか、ハンニバルとスキピオまでいるんですから、ドリフの世界は歴史の偉人オール・キャストといった様相を呈しています。


 ストーリー的に、主人公は関ヶ原で死んだ島津豊久です。

 戦いに傷つき、戦場を彷徨っているうち、急に闇と霧に包まれ、気がつくと、異境の世界にいたというわけです。

 その豊久を助けたのが、同じドリフターズである、那須与一(女性と見まがうばかりの美貌)と本能寺で隻眼となった信長でした。

 この信長のキャラクターが特に良いんですね。

 魔王と恐れられたあげく、家臣に裏切られ謀殺された彼を、呪いの塊であるエンズではなく、ドリフターズとして扱うところに、作者のセンスの良さが感じられます。

 その上、「俺は何もかも自分でやろうとして失敗してここにいる、だから、俺たちの大将はお前がなれ」と、トップの座を豊久にゆずり、自分は参謀としてドリフターズとエルフの軍隊を動かすのです。

 歴史上の著名人物を集めた「オール・スターキャスト」で、何かをさせる、というのは、モノ書きなら誰でも一度は思いつきますが、それを魅力的に書くのは、なかなか難しいものです。

 それを、作者は、主人公を島津豊久という、まあ、あまり我々の記憶にない(知る人ぞ知る)侍に設定し、(実は本当に描きたい)織田信長をワキにまわして好きに動かし、読む者を飽きさせないストーリー展開にすることに成功しています。

 ちょっと、デフォルメしましたが、上の画像を見てもわかるように、洋服に近い赤色の島津の戦闘服に身を包んだ豊久が、弓の名手として名高いエルフたちを遙かにしのぐ、天才射手の美形、那須与一や、魔王信長を従えて、怒りと憎しみと呪いの塊になっているエンズたちと合戦を繰り広げるストーリーは、かなり魅力的です。

 というわけで、「ドリフターズ」

 話としては、まだまだ序盤ではありますが、うまくすると、この先、魅力的な異世界群雄割拠モノ?の作品に化ける可能性があると楽しみにしている作品です。

 みなさんも、一度、お読みになってはいかがでしょうか?

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2012年4月28日 (土)

ダメな兄貴とトンデル弟 ~宇宙兄弟~

Utyuu

テレビアニメ            http://www.ytv.co.jp/uchukyodai/
 名前のとおり、これは兄弟の話である。

 さらにタイトルのとおり、二人は宇宙を目指している。


 子供の頃、共にUFOを目撃し、それをきっかけに宇宙を目指した兄弟。

 しかし、20年を経て、二人の立場は大きく違ったものになっていた。

 兄ムッタは、大手自動車会社に務めていたものの、上司に頭突きをカマして馘首(クビ)に、弟ヒビトは、NASAで、月面基地を作るライトスタッフ(恵まれた資質)として、研修中。

 これは痛い。現実によくある話であるから。

 幼い頃は、数年の年の差が、無限とも思える能力の差を生む。
 だから、わずか三年ばかり年長でも、兄は万能の兄として、弟を指導し叱咤できる。

 しかし、やがて、二人が成長し、数年の年の差が、あまり関係なくなったころ(原作で中学生になった頃)になると、純粋に能力差によって、二人の間に差が出来てしまうのだ。

 作者の小山宙哉は、作中で、「弟に追い越されてしまった」兄の悲哀をコミカルに描きつつ、それが純粋な能力差ではなく、常に弟を指導する万能者としての兄たろうとするあまり、失敗を恐れ、チャレンジをしなくなってしまったためだ、と説明する。

 おそらく、現実にもそういったことは良くあるのだろう。完璧であろうとするあまりの怯懦(きょうだ)が。

 コミックは、現在20巻近く出ているが、最初の10巻は、「弟において行かれた」兄の悲哀と、それを取り戻すためにJAXAの宇宙飛行士募集に応募し(というか、弟に勧められ、母親が勝手に志願書を送った)、選抜試験と面接を勝ち上がっていく、兄の成功物語が描かれている。

 もちろん、数十歩進んでいる弟は、さらに前を歩き、兄が最終選抜される頃には、日本人で初めて月に立つことになる。
 このコミックが、アニメ化、映画化される理由の一つは、主人公ムッタのヒロイックでない、コミカルな性格と人柄の良さが心地よいのと、おそらくは取材によって得られた「現実に則したであろう」宇宙飛行士の選抜試験が興味深く、実生活に活かせる教訓に満ちたものであるからなのだとわたしは思う。

 そう「宇宙兄弟」は、啓蒙書の一面を持っているのだ。

 そして、内容自体は、「何者でもなかったひとりの挫折者」が、再び立ち上がり、栄光を勝ち取っていく成功物語でもある。

 いま現在で、コミック17巻が発売されているが、この時点で、弟ヒビトは、宇宙飛行士として挫折の危機に瀕している。

 兄は例によって、まだ弟の数十歩後を歩いている、が着実にアストロノート(宇宙飛行士)としての道を進み続けている。

 この先、物語がどこまでいくかはわからない。

 月面基地の建設を兄弟で行う場面で終わるのか、さらにその先の、有人火星探査の入り口まで描くのか。

 一瞬の不運と油断が死を招く、危険なシーンが連続する宇宙空間が舞台だ。

 願わくば、兄弟のうち、どちらも欠けることなく無事に地球に帰って来て欲しい。

 そう思わせる、作者の魅力的なキャラクターはさすがである。

 どうか、トボケタ味のエリートたちをうまく描き続けることを祈りたい。

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2011年8月12日 (金)

コミックであるには過剰過ぎる野心 パンプキン・シザース(ラスト)

 和田慎二、小松左京氏の訃報もあって、しばらく間があきましたが、前に書いた、「パンプキンシザーズ」の続きです。
 もうお忘れかもしれませんが、よろしければお読み下さい。

Ps_5

 コミックスの十巻を超えたあたりから、カウプランあるいはカウプラン機関という名前が頻繁(ひんぱん)に出るようになります。
 この「カウプラン」こそが、オーランドに「脳改造」を施した張本人です。
 実際の名前はカウプラン教授といい、帝国において、もはや伝説となった天才発明家です。

 幼少時から、あらゆる学問に精通し、革新的な道具を多数発明した真の天才。
 カウプラン教授は、戦後、突如として行方をくらましたため、いまや、彼の断片的な発明・研究は「宿題」呼ばれ、多くの科学者たちから、到達すべき目標とされ研究されているのです。
 その才能があまりに突出していたために、発表当時は、それが何を意味するかわからなかった発明・着想が、後に技術が追いついた時にサブマリン特許となって、科学の進歩を妨げる原因となることがあるほどです。
 サブマリン特許については
こちらを参考にしてもらうとして、月刊とはいえ、少年誌のコミックで、「サブマリン特許」を使って、天才科学者の功罪を語る作品を、他にわたしは知りません。
 白眉なのは、先月にマガジンに掲載された、ある科学者がカウプラン教授について語る演説です。
少し長いですが、限りなき敬愛と尊敬をこめつつ、抜粋しましょう。

第60話 3日目:カウプラン奇譚

 カウプランとはなんなのか。
 カウプランは人間だ。我々と同じただの人間だ。
 そして我々と違い、本当の天才だった。
 幼少の頃より異様な速度であらゆる学問を吸収した彼に軍の技術部が接触した。
 実際に会って言葉を交わし、軍は思い知った「こいつは今までの技術者と違う」
彼との問答は、おとぎ話に出てくる「何でも答える鏡」「何でも見通す水晶玉」だった。
カウプランに知らぬことはなく、解けぬことはなかった……
 軍はその能力を最大限に発揮させるべく、彼個人のために開発研究の場を提供した。
 それが、カウプラン機関。国の用意した魔術師の庵(いおり)……
 戦に勝つために、たびたび庵を訪ね、助言をもとめる国の使い。
「より早く、より遠く、より強く敵を撃てる」そんな武器はないか、との問いに、魔術師は魔法の杖の作り方を教えた。

 それぞれの時代に応じた「ふさわしい技術の水準」というものがある。
 木と石の加工がやっとの水準であれば、複雑な金属機構など思いつけない。
思いついたとしても夢見事と嘲笑されるだけだ。
 『技術開発』とは手の届く範囲のものを組み合わせ、積み上げて足場を築き、迷走しながら一段上へと上っていく行為だ。
 だが、
 カウプランは逆だった。
「正解」(上)からその時代の水準に降りてくる!

 パーツの一つ一つ……例えば、『銃身』なら、

「我々には「銃身」の制作などできない」
『ではその設備を考案してやろう』
「その設備を作る技術すらない」
『設備を作る道具も設計してやろう』
「その道具を作れるほど金属技術が発達していない」

『銃身』という言葉も……いや『銃』という概念すら不確かな時だ。
実際にはまだ命名されていない『名なしの技術』
その『名なし』が我々の理解できるところまで……
 我々の――技術水準の水面にまで降りてきた時、『それ』は名を得、実在権を得る。
――例えですよね?
 本当に先込め式より前にボルト・アクションを発案していたわけでは……
 カウプランはただの人間だ。全知全能の神ではない。
 この世の物質・法則全てを知っていたわけではない。
 あくまで自分の中の知識と理論を組み合わせて、自分の思い描く『正解』から降りてくるだけだ。
 あと一歩というところで足がかりが尽きることもある。
 我々の水準と接さず、結実しなかった技術案は ”保留”となる。
 そして次は、一段二段とグレードを下げたところから降りてくる。
 今度は我々の水準に届くように。
 それこそ、先程言った『先込め銃』……「これなら今のキミ達でも作れるだろう?」と。
 一つ――お伺いしてよろしいですか? 
”保留”となった後奏なり設計図なりは――
『カウプランの宿題』と称され――いくつかはカウプラン機関に秘匿され、いくつかは製法諸国特許庁に送られた。
 それが、現在、我々技術者を苦しめているカウプラン特許(パテント)の正体だ。
 つまり……我々個人のアイデアがどうこうではなく……我々全体が技術水準を上げれば上げるほど……”知識や知恵の水面”を上げれば上げるほど……
 カウプランが上から下ろした根に接触し――カウプランの特許(パテント)が発動する――!!
 これは、先に書いた、いわゆる「サブマリン特許」ですね。
 このように、戦争アクションコミックで、サブマリン特許を物語の大きな柱に据えるという異常さ、過剰さがカボチャバサミの魅力なのです。

 ――確かに天才はいると思います。それでも、その神がかった頭脳をもってしても――結局、個人の力である以上、限界があるのではないかと。「満天の星空」といえども、実際には星と星のスキマがあるように、カウプランの技術が、全世界の技術者達の空を完全に覆い尽くすなんてありえないんじゃないでしょうか?
 そのスキマを縫って発芽してみせる新技術もあるのではないですか?

 若者らしい、活力のある意見だ。しかし、技術には――流れや道筋というものがある。開発の系統樹と言ってもいい。
 その所々になる果実が「新技術」という結晶。
 カウプランはその果実に、気の向くまま特許(パテント)というツバをつけた。
 我々がその樹の根本に辿り着いた時、すでにあらゆる所がツバにまみれていたわけだ。
 技術が道筋である以上、次の新技術に至るためには、必ずそのツバのついたポイントを通るハメになる。
 いわば関所だ。誰も逃れられん。

(中略)

 ここで、わたしは、カウプラン特許による弊害について明確にしておきたい。
 先に述べた、「先込め式銃よりボルト・アクション銃が前というのは不自然」
 そういった順序の推測ができるのは幸運な例だ。

 では、『間隔の推測』はどうだろうか。
 (旧タイプの)先込め式銃の登場から(現行の)ボルト・アクション銃の登場まで10年。
 しかし、私はすくなくとも、その倍、数十年の時を要するのが自然だと考えている。
 それが、私の考える「カウプラン特許の弊害」だ。

 技術と技術の間隔に疑念を持てなくなる。

 技術と技術の間には関連がある。
 連鎖・反発、蓄積……また、見比べることで、新たなる発見もある。
 リボルバー(輪動弾倉)などのように。

 しかし、現行の特許法では、『技術を単体で囲い込み、技術同士の関連を断ってしまって』いる。

 始めから完成品。そう、神が空から地上へ、おもちゃ箱をひっくり返したかのように。
 次々と”完成品だけ”を渡され――その間(かん)に蓄積されるべきものを十分に考察できないでいる。

 この数十年で、道具も衣食住も、生活の全てがガラリと変わった。
 これは自然な間隔なのだろうか?
 我が身を取り巻く万物に対して、その登場の間隔を、ことによったら順序すらも、我々は見誤っているのではないか?
 いま、この世界が、どれほど、カウプランが気まぐれに落とした完成品(オモチャ)であふれかえっているか――

 (始めに)カウプランの呼称には三つの意味があるといった。
  私は、そこに4つめの意味を付け加えたいと思う。

 『カウプラン文明』
 たった一人の男が創り出し、いま世界に蔓延している文明の名だ。

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 いま、こうして、文字として書いているうちに、なんとなく「銀魂」が脳裏に思い浮かびました。
 ご存じの方は、お分かりでしょう。
つまり強制的に、進歩した(と思われている)科学技術を受け入れざるを得なかった幕末の日本にも、P.S.(パンプキン・シザーズ)の世界と似たところがあるのですね。

 圧倒的大質量の科学(だけではない)西洋文明の総体によって、国の文化が押し流され、もみくちゃにされ、便利な技術についてきたガイコクの「生活常識」「見識」によって、連綿と続いた倫理観、道徳観、風習までもが変えられてしまった国。

 なんだ、結局、P.S.って日本のことじゃないの。
 ただ、カウプラン文明に席捲(せっけん)された、カボチャバサミ世界と日本の違いは、上記博士が指摘した「ひとりの天才による科学進化の不自然な飛び石化」が、日本にやって来た西洋文明には無かったということでしょう。

 少なくとも西洋科学文明は、シーケンシャル(連続)であったからです。
 さて、いかがでしょう?
 パンプキン・シザーズ。
 今のところは、わたし好みの展開ではあるのですが……
 世界を広げようとするあまり、群像劇化する様相を見せる時もあって、その点が少々心配なのですが(「コミック・ドラマの群像化による弊害」については、また別項で)、今の、このスタンスを崩さずにストーリーを発展させてくれるよう祈っています。
 絵柄が少し読みにくい点もあり、好みは別れると思いますが、まあ、世の中には、(小さい声で)「進撃の巨人」と(もっともっと小さい声で)「ワンピース」の画を容認し、ついていける人が多くいるのですから、おそらく大丈夫でしょう。

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2011年7月16日 (土)

あいつは最後までマンガって奴と関わっていたかったんだ

 その人は、不思議の国のアリスが好きだった。

 早くから、フランケンシュタイン(の創造になる怪物)を、無垢な魂を持つ、外見上の怪物として取り上げた。

 人の性格の多面性を、善と悪の混在する「二重人格」という型に落とし込んで、多くの傑作を生み出した。

 父と子の触れあいを、理想化された牧歌的情景の中で優しく描いた。

 同様に、熊を擬人化した「森の生活」物語で、人間関係の綾を見せてくれた。

 悪行を「悪」として斬り捨てるのではなく、それを自覚しながら堂々と「悪」を行うことを肯定し、その上で、悪行に対する「怒り」を持って、主人公に打ち砕かせた。

 つまり、その人は、軽々に「正義」を口にしなかった。

 その人は、眼球に対して、深い感情(おそらく愛憎半ばする)を持っていた(その気持ちが、いくつかの名作と登場人物?を生み出した)。

 その人は、あまりSF作品を描かなかった(わずかに残る作品のひとつに、ドンキホーテを主題にした佳作がある)。

 また、その人は、忍者を愛した。

 神話世界を愛し、王の王たる王、生まれながらの王についての、確たる信念を持っていた。

 その人の主人公の多くは、もともと優しい性格ながら、激しく(人と人生そのものに)裏切られルが故に復讐を誓い、力をつけ、復讐を果たした後に死にゆく者たちだった。

 その人は、少女漫画家だった。

 男性だった。

 特徴のある髭をはやし、自分のことを「髭クマ」と呼んでいた。

 その人はパイプを愛した。喫煙を愛した。

 故に、主人公の多くにパイプを与え、くわえ煙草をくゆらさせた。

 その人は2011年7月5日に急逝した。まだ若かった。

 死ぬまで、作品を書き続けた現役の作家だった。

 わたしは、子供のころ、姉のコミックで、彼の作品に触れて以来の、彼の崇拝者で、これからもその気持ちは変わらない。

 わたしは、彼の登場人物の真っ直ぐに立つ姿が好きだった(たとえそれが悪行を為す姿であったとしても)。

 訃報に接する数日前、どういうわけか「超少女明日香」と「ピグマリオ」「朱雀の紋章」を読み返したくなって、全巻読み終わったばかりだった。

 さようなら、和田慎二氏。

 わたしは、剛柔併せ持つ、あなたの作品が好きだった。

 世間的には「スケバン刑事」のみがクローズアップされた感があるが、それだけで終わる作家ではなかった。

 特に、「朱雀の紋章」は、月刊誌掲載時に読んで決定的な影響を受けた作品で、今でも、かならず、映像化されねばならない名作だと確信しています。

 最後に、氏が、ドン・キホーテをモチーフにして描いた佳作。

 老月面基地司令官が、ヒロインを守って、基地に激突する巨大水晶に向かって体当たりをする「騎士よ!」から、エピローグのヒロインの独白を……

 あたしは信じない。あの人たちはきっと生きている。だれよりも強いあなたたちが死ぬはずはないもの。

 はてしない遍歴の旅の第一歩を踏み出した証を私に見せるため

 てはじめに、竜を一匹退治してくださったのでしょう?

 いま、はるかに宇宙を翔けているのでしょう?

 ドン・キホーテ……わが最愛の騎士よ……

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2011年6月10日 (金)

コミックであるには過剰過ぎる野心 パンプキン・シザース

 いま、わたしが注目しているコミックは、なんといっても、少年ジャンプ連載の「ニューとんち番長」こと「奇怪噺 花咲一休」です――

 というのは冗談ですが、頓智(とんち)をストーリーのギミックとする、いわゆる「使い古された」「誰もが一度は思いつくものの、形にするのは難しい」手法をどのように料理していくのか興味はあります。

 それほど、並の才能では、頓智(とんち)をテーマにコミックを描くのは難しい。

 頓智ではなく、心理戦なら簡単にドラマにできます。

 しかし、その質を維持するのは難しい。

 デスノートやなんとかゲームのように、わかりやすい心理戦を劇中に取り入れて人気を博したコミックもありましたが、その人気は一過性でした。(デスノートなど、後半部分は明らかに蛇足だったでしょう)

 駆け引き、心理戦だけをドラマにするつもりなら、単なる万引きですらドラマになる。

 人は、そういった分かりやすい緊張感が好きなものです。

 気を抜くと、すぐにただの言葉遊びに堕落する「頓智」をドラマの中心に据えるのは至難の業なのです。

 案の定「花咲一休」は、少年ジャンプ誌上、掲載ページがどんどん後ろになってきています。

 まさかの十週打ち切り……

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 いまわたしが、もっとも「気になっている」コミックは「陸軍情報部第3課 パンプキン・シザーズ」です。

 月刊マガジンに連載中のこの作品ですが、何年か前に、GONZOによってアニメーション化も行われたため、一定の認知度はあると思います。

 けれども、アニメ化の段階では、まだこの作品の「核」とも呼ぶべき部分が顔を出していません。

 今回は、パンプキン・シザーズの特異さ、過剰さについて書いてみようと思います。

 上でも書いたように、パンプキン・シザーズは、現在も月刊マガジンに連載中のコミックです。

 現在、15巻まで出ています。2006年にはアニメ化もされました。

 しかし、今現在、たまたま雑誌を手にとって、パラパラとページをめくったところで、ほとんどの方は見過ごしてしまうことでしょう。

 それほど、(現在の)マガジン誌上での扱いは低い。巻頭カラーもなければ、大きな扉絵もない。電話帳なみに分厚い月刊マガジンの、後ろから数えた方が早いページにひっそりと掲載されているだけです。

 しかし、いったん読み始めると、その作品世界は、特異でなかなかに深い。

 舞台となるのは、我々の世界に似た異世界、第二次大戦直後のヨーロッパあたりを舞台にしたパラレル・ワールド物語です。

 大戦後の荒廃した帝国内を復興させる(という名目で)設立された陸軍情報部第3課・通称「パンプキン・シザーズ」の活躍がメインのストーリーとなります。

 停戦後、3年を経ても戦火の傷は癒えず、元軍人が夜盗化し、難民は街にあふれ、貧困と危険が日常化しています。

 国中にたまった不満を解消するための「ガス抜き」として(あるいは、復興を名目に、他方面で使う予算をぶんどるために)、名ばかりの組織として編成されたのが、戦災復興の専門部隊、陸軍情報部第3課です。

 ボスである3課長、ハンクス大尉は「お茶の水ハゲ」のしょぼくれたオヤジですが、戦時中はなかなかのキレ者で、非情な行為も多く行ったことが、1課長などの口から語られたりします。

「おまえは、戦時中の行いを償いたいのだろうが、それは無理だ」と。

 わたしの見るところ、ハンクスの役回りは、パトレイバーの後藤隊長ですね。

 カミソリ後藤。

 個人的には、こういったパトレイバーで確立された、「組織内で、上下のマサツに苦しみながら行う正義の味方バナシ」は好きではないのですが、「パンプキン・シザーズ」には、それだけでとどまらない魅力がある。

 ハンクス大尉の下にいるのが、実働隊長:アリス・L・マルヴィン少尉で、彼女が事実上のヒロインです。

 アリスは、帝国内に残る貴族の中でもトップクラスに位置する、拝命十三貴族(皇室会議に列席を許された貴族)であるマルヴィン家三姉妹の末妹です。

 かつて「帝国の英雄」と称えられた祖父に憧れて育ち、二人の姉が嫁いだ後は、自分こそが祖父の志をついで帝国を守るのだ、と士官養成所に入学したものの、卒業する前に停戦を迎えて、一時的にガッカリしたものの、すぐに気持ちを切り替えて戦後復興に命をかける、ホットな、いや熱すぎるお嬢さんです。

 ヒロインらしく金髪碧眼の美形で、剣の腕は一流といってよく、まあステレオタイプといえば、そのまんまヒロインっぽいキャラクター。

 しかし、直情径行かつ良くも悪くも世間知らずで大貴族のお嬢様であるアリスが、様々な体験をするうちに形作っていく「復興」「軍の役割」「貴族の生き方」についての考えは、折りにふれて、その真っ直ぐな視線とともに披露され、これがまたなかなか良いのです!

 アリスは、いわゆる貴族らしい貴族、王の王たる王として描かれています。

 このあたりは、作者岩永亮太郎の持つ貴族観が彼女で示されているのでしょう。

 わたしもこういった設定は嫌いではありませんが、ちょっと激しすぎて鼻につくところもあります。

 しかし、甘ちゃんで真っ直ぐであるがゆえに、脆弱でもろいアリスが、悲惨な現実を前にして、精神的貴族(魔少年ビーティーより)らしく、逃げず、臆せず、柔軟な解答を見つけていく過程は、それだけでひとつの作品になるほどの質量がある。

「世の中に立ちはだかる壁は硬い。それはハロウィーンに使われるカボチャの皮のように分厚く手に負えないものだ。ならば、われわれは、その皮に穴を開けて細工するカボチャバサミになろう。パンプキン・シザーズに!」

 エエじゃないですか!

 が、それでもまだ、それはパンプキン・シザーズの特異点ではありません。

 もう少し話を勧めましょう。

 物語は、とある郊外の街の復興作業中に、アリスがひとりの大男と出会うところから始まります。

 彼こそが、この作品の「ほぼ主人公」ランデル・オーランドです。

 戦時中は、その存在すらはっきりと確認されたことのない部隊、不可視の9番(インヴィジブル・ナイン)と恐れられた、改造兵器部隊の生き残りです。

 顔に大きな、いわゆるサンマ傷(ハーロックのような)をもつ大男ながら、普段は温厚で虫も殺せないオーランドは、腰につけた青いランタンを点(とも)したとたん、誰もが恐怖を感じずにはいられない「戦車」に対してですら生身で立ち向かい、爆撃を避けず、戦車によじ登り、一番装甲の弱いハッチに、人間が扱う限界である「13ミリ口径」の対戦車拳銃、通称「ドア・ノッカー」を押し当ててゼロ距離射撃を行う超人(というより異常人)になります。

 一般に、コミック「パンプキン・シザーズ」の大まかな話の流れは、

1.復興指令を受けて第三課が出向く。
2.マルヴィンたちがピンチになる。
3.オーランドがランタンを点して、テキを倒す

というパターンなのですが、もちろん単純な英雄物語ではありません。

 オーランドは、体こそデカイものの超人ではないからです。

 ただ、恐怖を、何らかの方法で一時的に麻痺させて戦うだけの男。

 戦車を一切恐れずに近づいてくるために、通常の射撃方法では捉えることができずに、砲弾の直撃こそは喰らいませんが、薄いコートだけが防御手段であるために、戦闘後は常に満身創痍です。

 こんなのはヒーローじゃない。

 第三課には、女たらしオレルドや生真面目マーチスといった他の個性的なメンバーもいて、それぞれにドラマをつくってはいますが、だいたいの物語のパターンは、上記1-3の繰り返しでした。

 そう、でした、です。

 お待たせしました。

 ここからが、本当に書きたかったことです。

 コミックスの十巻を超えたあたりから、カウプランあるいはカウプラン機関という名前が頻繁(ひんぱん)に出るようになります。

 この「カウプラン」こそが、オーランドに「脳改造」を施した張本人です。

 実際の名前はカウプラン教授。

 帝国における、もはや伝説となった天才発明家です。

 幼少時から、あらゆる学問に精通し、革新的な道具を多数発明した真の天才。

 カウプラン教授は、戦後、突如として行方をくらましたため、いまや、彼の断片的な発明・研究は「宿題」呼ばれ、多くの科学者たちから、到達すべき目標とされ研究されているのです。

 その才能があまりに突出していたために、発表当時は、それが何を意味するかわからなかった発明・着想が、後に技術が追いついた時にサブマリン特許となって、科学の進歩を妨げる原因となることがあるほどです。

 サブマリン特許についてはこちらを参考にしてもらうとして、月刊とはいえ、少年誌のコミックで、「サブマリン特許」を使って、天才科学者の功罪を語る作品を、他にわたしは知りません。

 白眉なのは、先月にマガジンに掲載された、ある科学者がカウプラン教授について語る演説です。

少し長いですが、限りなき敬愛をと尊敬をこめつつ、抜粋しましょう。

第60話 3日目:カウプラン奇譚

カウプランとはなんなのか。

カウプランは人間だ。我々と同じただの人間だ。

そして我々と違い、本当の天才だった。

幼少の頃より異様な速度であらゆる学問を吸収した彼に軍の技術部が接触した。

実際に会って言葉を交わし、軍は思い知った「こいつは今までの技術者と違う」
彼との問答は、おとぎ話に出てくる「何でも答える鏡」「何でも見通す水晶玉」だった。
カウプランに知らぬことはなく、解けぬことはなかった……

軍はその能力を最大限に発揮させるべく、彼個人のために開発研究の場を提供した。

それが、カウプラン機関。国の用意した魔術師の庵(いおり)……

戦に勝つために、たびたび庵を訪ね、助言をもとめる国の使い。

「より早くより遠くより強く敵を討てる」そんな武器はないか、との問いに、魔術師は、魔法の杖の作り方を教えた。

おかしいかね?

それぞれの時代に応じた「ふさわしい技術の水準」というものがある。

木と石の加工がやっとの水準であれば、複雑な金属機構など思いつけない。
思いついたとしても夢見事と嘲笑されるだけだ。

『技術開発』とは手の届く範囲のものを組み合わせ、積み上げて足場を築き、迷走しながら一段上へと上っていく行為だ。

だが、

カウプランは逆だった。

「正解」(上)からその時代の水準に降りてくる!

パーツの一つ一つ……例えば、『銃身』なら、

「我々には「銃身」の制作などできない」

「ではその設備を考案してやろう」

「その設備を作る技術すらない」

「設備を作る道具も設計してやろう」

「その道具を作れるほど金属技術が発達していない」

『銃身』という言葉も……いや『銃』という概念すら不確かな時だ。
実際にはまだ命名されていない『名なしの技術』
その『名なし』が我々の理解できるところまで……

 我々の――技術水準の水面にまで降りてきた時、『それ』は名を得、実在権を得る。

――例えですよね?
 本当に先込め式より前にボルト・アクションを発案していたわけでは……

カウプランはただの人間だ。全知全能の神ではない。

この予の物質・法則全てを知っていたわけではない。

 あくまで自分の中の知識と理論を組み合わせて、自分の思い描く『正解』から降りてくるだけだ。

 あと一歩というところで足がかりが尽きることもある。

 我々の水準と接さず、結実しなかった技術案は ”保留”となる。

 そして次は、一段二段とグレードを下げたところから降りてくる。
 今度は我々の水準に届くように。

 それこそ、先程言った『先込め銃』……「これなら今のキミ達でも作れるだろう?」と。

 一つ――お伺いしてよろしいですか? 
”保留”となった後奏なり設計図なりは――

『カウプランの宿題』と称され――いくつかはカウプラン機関に秘匿され、いくつかは製法諸国特許庁に送られた。

 それが、現在、我々技術者を苦しめているカウプラン特許(パテント)の正体だ。

 つまり……我々個人のアイデアがどうこうではなく……我々全体が技術水準を上げれば上げるほど……”知識や知恵の水面”を上げれば上げるほど……

 カウプランが上から下ろした根に接触し――カウプランの特許(パテント)が発動する――!!

 これは、先に書いた、いわゆる「サブマリン特許」ですね。

 戦争アクションコミックで、サブマリン特許を物語の大きな柱に据えるという、過剰さが、カボチャバサミの魅力なのです。

 長くなったので、項を替えてあと少し引用を続けます。

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2010年10月10日 (日)

「棺覆ッテノチ定マル」ものとの戦い 「NARUTO」

 沢木耕太郎氏が、そのエッセイの中で、若き日の山本周五郎が、出版社に務めて働きながらも、毎日のように「小説を書けない」といっては「ワレ仕事セズ」と嘆き、日記を書き忘れたといっては「今日モ仕事セズ」と悲しみ、書いたら書いたで、自分の理想とする高みに「トウテイ到達セヌ出来」であると嘆いていた、と記しています。

 その気持ちは、よく分かります。

 わたしも、口に糊(のり)するために日々働いてはいるのですが、それが本当の仕事であるとは到底思えないからです。

 周五郎的な意味でいえば、このブログも、わたしにとって「仕事」のひとつなのですが、これも周五郎同様「仕事セズ」の状態が続いています。

 さて、久々の書き込みだというのにコミックの話で恐縮ですが、今日はマンガ、しかも、ひどくメジャーな「NARUTO」について書こうと思います。

 本来なら、フランスおけるロマの人々の問題、イジプシャン(エジプト人)がナマッて「ジプシー」と呼ばれた流浪の民を追放しようとする、自身ユダヤ系ハンガリー移民二世の「ニコラ・サルコジ」フランス大統領の心理状態についてや、ハンガリー西部におけるアルミナ(アルミニウムの原料)工場の汚泥池氾濫(はんらん)を、当初は対岸の火事として眺めていたフランス人が、ドナウ川に赤泥が流れ込んだ途端に、流域の作物汚染を案じて大きく報道で取り上げ始めた件、あるいは例の尖閣諸島における民主党の対応のトロさ(代表選の最中であったために他の全てが後回しにされたとされる)や、マスコミ(と一部の人々の思惑)に誘導された平均年齢30歳素人集団によって導き出された小沢強制起訴議決が、果たして公判を維持できるか、という問題について書きたいのですが、とりあえず、今は「NARUTO」です。

 ああ、ちょっとだけ付け加えるなら、もしフランス人が、ロマの人々を排除するなら、かの有名な、フランス語で「ジプシー」を意味するタバコ「ル・ジタン」も廃止すべきでしょうね。

 さらに付け加えると、個人的に、小沢氏が有罪であろうがなかろうが、あまり興味は無いのですが、現在、様々な問題が噴出しつつあるとはいえ、明らかに手柄を立てたがっていた専門家集団の検察が「起訴デキズ」と判断したものを、素人が、マスコミによる風評と顔が嫌いだからという理由で強制起訴しても、裁判を続けることはできないんじゃないかな。

 まあ、それはそれでいい。

 疑問に思えば、権力者であろうと、市井(しせい)の意見で起訴できるのは良い面もあるからです。

 問題は、それが、いったん起訴すれば有罪率99パーセント(正確な数字は忘れました、だいたいこの程度だったはず)を誇る、日本の「大」検察サマが起訴したのと同じ扱いで、起訴=犯人、つまり、即刻小沢氏の議員辞職を叫ぶヤカラがいることでしょう。

「推定無罪」(裁判で有罪が確定するまでは無罪としてアツカウ)は裁判の大原則なのですから。

 まあ、こういった「常識」が通用しないのも、検察と裁判官が自らの無謬(むびゅう)性(マチガイノナイコト)を振りかざして、「当然、尊重されなければならないこと」を踏みにじり続けた結果なのだから仕方がないでしょうが……

 ともかく、今回は「NARUTO」です。

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 ご存じのように、この作品は、少年ジャンプに連載されています。

 基本的に、マンガは、たまにコミック喫茶に出かけてまとめ読みをするのが常なのですが、「NARUTO」のペイン編に関していえば、単行本を買って、揃えてしまいました。

 思えば、ジャンプで目を通すのは、今やNARUTOと銀魂だけになってしまいました……

 アカラサマな群像劇である「ブリーチ」は読むのがちょっと辛いですし(「みーんな主人公」ってセンスはオタメゴカシ臭がして好きではありません)、敵のスゴサの描写が凄すぎて、具体的にどれだけスゴイのか分からないという表現手法にはついていけません。

 「ワンピース」には、深みが感じられず、どこか薄い感じがしてしまい没入できませんし、個人的に胸の大きすぎる女性は苦手なので、胸のオバケ化した女性キャラが跋扈(ばっこ)するコチカメも読まなくなりました。

 わたしが好きな作品は、読んでいて、コツコツと「引っかかる」というか「当たる」ところがある作品なのです。

 その点、NARUTOはいい。

 大筋において、ド根性ズッコケ少年ヒーロー物路線に分類される作品ですが、ところどころ、コツコツと胸に当たるところがある。

 ご存じの方も多いでしょうが、内容について、一応説明しておくと、「NARUTO」は、架空世界(あるいは遠過去、遠未来)における忍者の物語です。

 主人公のうずまきナルトは、尾獣(びじゅう)と称される、精神エネルギー体を体に封印され、人々から忌み嫌われる少年として登場します。

 これまで語られた話から察するに、「NARUTO」の大筋は、少年が持ち前の明るさとド根性で苦境をはね除け、自分の里の長「火影(ほかげ)」になり、忍者世界をひとつにまとめ上げる英雄になる、という話でしょう、たぶん。

 そして、彼のもう一つの目的は、子供の頃からのライバル、うちはサスケを、入り込んでしまった悪の道から救い出すことです。

 サスケは、敬愛していた天才忍者の兄イタチが一族を皆殺しにし、去り際に「俺を殺してみろ」といい残して去ったため、兄を殺すそのためだけに生きています。

 後に、それが里の上層部の命令であり(とされていますが、これもフェイクでしょう)、イタチは弟の命を守って死んでいったことが判明します。

 そのことを知ったサスケは、復讐のために里を全滅させることを誓うのです。

 サスケの、純粋であるが故のガキっぽい反応は、比較的長く人生を見てきたわたしにとっては、浅薄(せんぱく)で愚かで無意味に思えるのですが、まあ、それは仕方がない。

 個人的には、ヒネクレながらも、もう少し、ハスに構えて世の中を見るキャラクターが好きなのですが、純粋で清らかであるが故に、逆の振幅に振れてしまうという設定自体は納得できるからです。

 ナルトの師匠にあたる自来也(じらいや)が、ナルトにおけるサスケ同様、悪に走った友人のオロチマルを救い出そうとしながら果たせなかった、という二重構造もよく出来ています。

 特に、かつて自来也の弟子であったナガトが、世の中の悲劇・苦痛に耐えかねてペインとなり、自来也を殺し、ナルトに「突然愛する者を奪われる苦痛(ペイン)」を与えながらも、ナルトに感化されて、改心し死んでいくという「ペイン編」は、これまでの話の中では白眉(はくび)といって良い出来でした。

 が、わたしにとって、コツンと来るのは、そこではありません。

 ナルトが、修行の途中で、物語世界における精神エネルギー「チャクラ」について教えを受ける場面があります。

 各忍者の性質が、火・風・水・土・雷というカテゴリに属し、それぞれに優劣があることを教わるのですが、ナルトが「風」に属することを知った先輩忍者が、

「サスケは火と雷を使う。火は風に強いが雷は風に弱い、良かったな」

というのに答えて、

「俺たち相性が良かったんだ」

とナルトはいうのです。

 ナルトが、サスケを倒す可能性があることを喜んで、そういったと考えた忍者が、

「その通りだ、もし、お前が『土』の性質なら大変なことになっていたぞ」

というと、ナルトは暗い目をして、

「いや、俺の風と、サスケの火を合わせれば、強い武器になったんだな、と思って……」

 こういった、なんと書いたらよいのか、「気合いの抜き方」が「NARUTO」にはところどころあって、わたしはそれに惹きつけられるのです。

 あと、「棺覆ッテノチ定マル」(ヒツギオオッテノチサダマル)という言葉がありますね。

 人の値打ちは死んで初めて確定する、といった意味ですが、わたしにとって、これは別な意味を持ちます。

 つまり、人の人に対する影響力は、死んでしまった時点で永遠に固定化される、という意味です。

 具体的にいえば「あしたのジョー」における力石徹でしょうか。

 その人の死によって、生き残った人間の生き方が決まってしまうことがある。

 力石が死んだあと、ジョーは、力石のために放浪し、力石のためにカムバックし、力石のために死んでいきます(結果として、ですが)。

 つまり、実のところ、矢吹ジョーは、すでに力石といっしょに死んでしまっていたのです。

 あとは久沓(クグツ)のように、死者に操られて余生を送っていた。

 「NARUTO」にもそういった側面があります。

 特に、それは、サスケにストレートに表れますが、ナルトにも同じ「死者による影響」は発生します。

 師匠の自来也が残した「憎しみのない世界を作れ」という遺言、「お前を信じ、夢を託そう」といって死んでいった兄弟子ペイン、記憶の中で「お前ならやれる」と伝えた父、四代目火影……

 現実の世界にもそういった事柄は当然あり、そういった死者のメッセージ、重圧、影響力を、うまくコントロールしながら、日々を生きていくのが、年の功であり、世知であり、うまい「痛みのいなしかた」なのでしょう。

 そういった「死者のシバリ」のコントロールを含め、今後、ナルトがどのような道を歩むのか、わたしは、しばらく見守りたいと思っているのです。

 あ、そうだ、最後に思い出したことがあるので付け加えておきます。

 今度の、「検察官逮捕劇」で、いくつか笑えることがありましたが、その最たるものが、あれほどかたくなに可視化に反対していた検察官が、自分が捕まって取り調べを受ける側になったとたんに、可視化を要求しだしたということがあります。

 さすがに、長らく不可視でやってきた側にいただけに、不可視取り調べをやられたら、いかに自分が不利になるかをよく知っているということでしょう。

 この一事をとっても、「取り調べの可視化はなされなければならない」ということがよくわかりますね。

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2010年8月 5日 (木)

生まれかわった超人 「バビル2世 ザ・リターナー」

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 いやぁ、買った買った、買っちゃいました。

 バビル二世愛蔵版全9巻

 なじみの古本屋が完全閉店記念で半額セールをやっていたので、書庫が膨れあがるのを覚悟で手に入れてしまいました。

 夜の散歩の途中だったので、かなりな重さの愛蔵版を簡易リュックに詰め込んで、とっとと4キロ余りを歩いて家に帰りました。

 しかし、なぜに今更「バビル二世」?

 もちろん理由はあります。

 猿(ウッキー)間違えた、去る2010年3月10日より、ヤングチャンピオン誌上で、野口 賢氏の描く、正統続編版「バビル二世 ザ・リターナー」が始まったからです。

 これがなかなよろしい……が、その前に!

 最近手に入れて読んだ、ちくまプリマー新書、岡田斗司夫著「世界征服は可能か」の影響も無視できません。

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 これは、現実的に世界征服は可能か、もしできるなら「その際に注意すべきこと」を大まじめに考察したお遊び本です。

 その中で、オタキング岡田氏は、「何でも自分でやってしまおうとするワンマン社長型」の秘密結社首領の典型例として、バビル二世のライバル、ヨミ様の名をあげていました。

 もう決して若くないのに(はっきりとした年齢はわかりませんが、高校生のバビル二世に比べれば明らかにダブルエイジ以上)、正当なバビル一世の後継者として選ばれた(つまり自分より能力が上の)バビル二世と肉弾戦で戦い、すっかり疲れて寝込んでいるところを、(若さゆえか)素早く回復したバビル二世とその「しもべ」によって基地が攻撃され、あわてふためいた部下に叩き起こされて、目の下に隈を作りつつ「よっこらしょ」と戦いにでていくヨミ様は、何もかも一人で決めてやってきた「零細ワンマン社長」以外のなにものでもないのだ、と、人間的にはあまり好きではありませんが、相変わらず岡田氏のヨミは鋭い!

 しかし、わたしも(元祖)バビル二世を読んだのは、もう数十年前のこと(アニメは観たことがありません)で細かいことは忘れてしまっています。

 そこで、今回の愛蔵版の出番となるわけです。

 おかげで、「バビル二世 ザ・リターナー」で、再び登場する(自称腕利き諜報員)伊賀野氏の若き姿も見ることができたし、岡田氏が、働き過ぎ中小企業社長的ヨミ様と呼ぶ理由も納得できました。

 しかし、改めて読み返すと、いかに、ヨミ様が部下思いの良い上司だったかということに感銘を受けますね。

 戦略的に部下を見捨てざるを得ないことがあっても、あくまで彼の顔には苦痛の色がある。

 つまり、部下と会社(結社)に愛情を持っている。

 だからこそ、孤軍奮闘する。

 してしまう。

「俺が頑張らないと会社は潰れる」という恐怖感が、彼を突き動かす原動力なのだ、と岡田氏はいうのです。

 ホントのところ、「あなた一人がいなくたって、会社は微動だにもしませんよ」というのが、一般的に悲しい現実ですが、ヨミ様の場合は違う。

 彼がいないと、本当に、彼の帝国、あれ、なんて名前だったっけ?

 ひょっとして名前がなかった……

 あれは、壊滅してしまうことでしょう。

 それだから、大人になった読者は、ヨミ様が疲れ知らずの3つのしもべ(ロデム・ロプロス・ポセイドン)と、決して裏切らない高性能AIで動く無敵の要塞、バベルの塔を欲しがる気持ちがわかるのです。

 とまあ、元祖のはなしはこれぐらいにして……

 今回の「ザ・リターナー」、新生バビル二世は、初代バビル二世より遙かに能力が上がっています。

 頭を吹っ飛ばされても、腕を消滅されても、数秒で回復するモンスター。

 それが、リニューアル・バビル二世です。

 いわゆる能力のデフレ現象が生じているんですね。

 まるで、満月期の犬神明です(「ウルフガイ」こっちも再度コミック化されて連載中ですね)。

 さらに、三つのしもべも大きく変わっています。

 まず、黒豹ロデムが、若い男の姿をとっているのが新しい。

 戦いを前にしたバビルとの会話で、彼?彼女?は故郷の星への憧憬を口にします。

「この戦いが終われば、わたしも故郷の星に帰りたい」と。

 おまけに、ロプロスとポセイドンは二回りほど大きくなって、完全ロボットではなく、有機体とのハイブリッド生命体という扱いのようです。

 前回からは、いよいよヨミ様が登場しました。

 あ、なんだか若い!

 おまけに長髪!

 今度のヨミ様は、ワーカホリックじゃないだろうなぁ。

 野口賢の画は、ヘタウマを越え……はっきりいって、線が多すぎてヘタクソなのですが、それが、なんだか良い感じに登場人物にミステリアス感を与えています。

 コミックスも先日発売されました。

 ぜひ、いちどご覧になってください。

 ちなみに、今度の「リターナー」は、どうやら、タイムライン上「別物」とされている「その名は101」と、ヨミがツギハギだらけの老人として醜く蘇る「バビル2世 第四部」の両方の続編という扱いのようです。

 作品をより深く理解するためには、その双方を読み返された方が良いかもしれません。

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2010年7月22日 (木)

まだまだ終わらない冒険 「海皇紀」

 まず、最初にお聞きしましょう。

 長生きしたいですか?

 巷(ちまた)では、

「生きとし生けるものは、すべて、一分一秒でも長く生きたいものだ」

といわれています。

 これが、まあ、わからなくはないですが、 個人的には、あまりピンとこない。

 わたしは、イイ年をして、まだ頭の中がガキのせいか、あるいは、見届けなければならない子や孫(はまだ無理か?)がいないためか、石にかじりついてでも長生きしたいとは思わないからです。

 じゃあ、こっちから死ににいくか?と問われたら、もちろん、そんなことはしませんが。

 イタイのは嫌ですからね。

 ひとつには、父親が幾度も大病を患い、あげく声を失い脳梗塞で体が麻痺しながら、何年も生き続けたのをみてしまったため、それはそれで立派な生き方だとは思いながらも、QOL(クオリティ オブ ライフ)をそこなってまで生きることには懐疑的(かいぎてき)だからです。

 長生きをすると、そういった生き方になる可能性が高くなる。

 それに………

 わたしには、90歳を超える知人が何人かいます。

 感覚的に、ある程度、健康に恵まれれば、男女とも85歳くらいまでは、生きることが可能なようです。

 しかし、90歳越えは難しい。

80代と90代には大きな壁がある。

 これを越えるには、よほど、持って生まれた長命力に恵まれなければなりません。

 個人的な感触ですが。

 彼、彼女たちの多くは、頭も体も達者で元気いっぱいなのですが、そのほとんど全員が、

「知り合いのほとんどが、先に死んでしまって寂しい。長生き『してしまった』ことが、こんなに孤独だとは思わなかった」

と、嘆きます。

 もちろん、老人用の施設や集会所行けば、年下ながら友だちもいるでしょう。

 しかし、いわゆる「Same Generations memories」、同世代記憶を共有する友人がいない。

 みんな、壁を越えられず先に逝ってしまった。

 その孤独を、どうすれば、いなすことができるのか?

 通俗ないいかたですが、内面が豊かであれば、独りになっても「やるべき仕事、作業」を持つことができて、孤独に耽溺(たんでき)しなくてすむ。

 和歌を詠む、詩を作る、茶華道に没頭するなどね。

 それがなければ、情報の溢れるこの時代、もうどこにもそんなものはないのに、見たことのない景色、食べたことのない食べものをもとめて、旅行と美食を繰り返すことになる。

 働くだけの今までの人生はマチガイだった、これからが本当の人生なのに、時間が少ない、と焦りながら。

 でも、もし、あなたが英雄だったら大丈夫。

 なんでも、英雄とは、

「歴史に大きな痕跡を残し、悲劇的末路を迎える者」

 だそうですから。

 しかし、もし、希代の英雄が誰よりも長生きしてしまったら?

 戦いの中ではなく、戦後、年をとって平和のうちに死ぬことになったら?

 彼は英雄の資格を失ってしまうのでしょうか?

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 月刊少年マガジン連載の「海皇紀」が12年間の連載を終了しました。

「修羅の門」「修羅の刻(とき)」の作者、川原正敏の海洋伝奇?小説です。

 修羅シリーズは格闘漫画で、時代を現代においた「門」と、過去においた「刻(とき)」のニ種類があります。

 川原氏は、画は、それほど上手ではありませんが、ストーリーテリング能力は素晴らしい。

 次から次へと、際限なくアイデアが湧き出ているように見える。

 そうして、それぞれの登場人物に詰め込まれたエピソード(漫画内で描かれる、描かれないに関わらず)が物語に深みを与えます。

 個人的には、数千年の歴史を持つという暗殺拳、武器を使わず、無手(むて)で人を殺す技を極めたとされる『陸奥圓命流(むつえんめいりゅう)』が、過去の歴史上の著名人たち(宮本武蔵、土方歳三、沖田総司)と、いかに関わったかを描いた「修羅の刻」が好きでした。

 あとがきで、作者が、

「歴史上の人物、特に幕末の土方、沖田、坂本龍馬のことを考えると、意味もなく模造刀を取り出して、暗い部屋の中で構えてしまう」

と書いているのを読んで、深い共感に胸を打たれたこともあります。

 さて、海皇紀。

 最初の数ページを読めばおわかりになると思いますが、一見、大航海時代以前の海洋冒険モノのように見えます。

 しかし、実は、今を下ること二千数百年後の遠未来(あるいはスターウォーズのように、過去の話かもしれないけれど)の話です。

 帆船で海を支配する「海の一族」にあって、トリックスター的に自由きままに事件に顔を突っ込む影船八番艦の艦長が、一代の英雄、ファン・ガンマ・ビゼンです。

 常に自信に満ち、悠揚迫らず ( ゆうようせまらず )、幻の日本刀を携え、誰も見たことのない体術を使う英雄。

 魔術のように風を読み、手足のように帆船を操る海の男。

 彼が、陸の覇王(はおう)、「海皇紀」における信長的存在、カザル・シェイ・ロンに王の器を見てとって、海から彼の世界平定を支援するというのが、「海皇紀」の大枠(おおわく)です。

 ご存知のように、乱れた世を平定するには、二通りの方法があります。

 すなわち、孟子が説くところの、王道と覇道。

 王道とは、真の王が行う政治。
 その徳をもって、ホンモノの仁政を行うために、小国であってもあなどられず、国から争いがなくなる

 覇道とは、王が武力を使ったニセモノの仁政を用いて国を治めるやり方。
 王に徳がないため、ナメられないためにバックに強大な武力を必要とする。どこかの建国200年あまりの国に似てますね。

 少しスジは違いますが、織田信長などはこちらにあたります。

 しかし、かつて世界を治めた国がありながら、経年劣化で、そのシステムが壊れ、世の中が千々(ちぢ)に乱れた時は、武力ある賢王によって覇道が行われ、素早く世の中をまとめるのもひとつの方法です。

 その意味で、ファンは、カザル・シェイ・ロンを認め、海から彼をバックアップしたのでしょう。

 あと、細かいことですが、タイトルが海皇「紀」であるのに、ストーリー中に、かの銀河英雄伝のように「後の史実家によると~」風の紋切り型の記述はほとんどありませんでした。

 はたして、「紀」と「伝」の違いなのか?

 もっとも、海皇紀は、最終回に明確になるように、登場人物の一人である、古(いにしえ)の「カガク」の知識を受け継ぐ女性メルターザが、回想録の形式で書いたもの、とされているため、「伝」こそがふさわしいのかもしれません。

 後世の歴史家が文献を紐解(ひもと)きながら、当時を想像してかいた史書ではなく、正に、その時代を生きた女性が、自分の印象と記憶のままに記した物語、そう考えれば、ファンが女性に関して淡白すぎるように見える理由もわかります。

明らかに、メルターザもファンに好意を持っていたため、彼女は、女にだらしないファンを想像できなかった、あるいは知らなかったに違いありません。

案外、男の目からみると、カタイ男も女に弱かったりするものですがね。

 全45巻(予定)いずれにせよ、大作です。

 先に書いたように、作者の頭のなかには、ストーリーがあふれています。

 倒すべき敵(たとえそれが過去の科学兵器を使う最大級の敵であっても)がいなくなってからも、まだまだ作者の頭の中では戦い足りない。

 だから、書く。

 物語が終わってからも、どんどん書く。

 しかも文字で!

 主要な登場人物、一人ひとりについて、彼、彼女らが、この物語の後、どのような人生を歩み、そしてどのように死んでいくのかを、細かく文字で書いてしまうのだ。

 主要な登場人物たちは、そのほとんどが、幸せな晩年を過ごし、元気に死んでいく。

 なかでも特筆すべきなのは、物語のなかでも、明らかにヒロインの位置を占めていた、マイア・スアル・オンタネラです。

 その言動から、おそらく、ファンは彼女に好意を持っていたでしょう。

 物語の最終盤、瀕死の重症を負った彼女は、『いつまでも年をとらない』ファンの母マリシーユ・ビゼンから、怪我を治し人を長命にする薬(ナノマシン)を打たれます。

 その後、ファンは、もうひとつの海の部族ジーゴ・サナリアの首長の娘、褐色の肌をした大柄の美女、アグナ・メラ・ジーゴと結婚し、子供をもうける。

 部族間の絆を強めるための、ある意味政略結婚です。

 あきらかにアグナはファンのことを好きですが、ファンはマイアの方が好みに見える。

 通常のドラマツルギーでは、アグナが身を引き、マイアとファンが結ばれ、めでたしめでたし、となるはずのところ、作者は、あっさりとアグナとファンを結婚させてしまいます。

 そして数十年後、ナノマシンの影響で、いつまでも若いままのマイアを、いまわの際に枕元に呼び寄せたアグナは、まだ若さを保つファンとマイアを引き合わせ、一緒に住むように命じたのちに息をひきとるのです。

 ペテン師(アグナは、いつもファンのことをそう呼んでいた)には、妻がふたりぐらいいるだろう、と。

 おそらく、川原氏は、英雄に恋した女性たちの、誰一人として泣かせることができなかったのでしょう。

 逃げといえば逃げですが、まあこういう終わりかたもまた良いと思えます。

 そして、ファンは死ぬ。

 自分を慕い、自分のために死にたいと後をついてきた部下たちに、誰独り非業の死をとげさせず、彼らのベッドの上での最期を看取った後で、彼は、愛する八番艦のデッキの上で、立ったまま大往生をとげるのです。

齢(よわい)101歳。

 おそらく、あれほどの大冒険をくぐりぬけた英雄の(と呼ぶべきか)中では、飛び抜けた長命だったでしょう。

 強い精神力を持つ彼でさえ、その最期の瞬間には、「とうとう俺が最後のひとりになってしまった」と寂しそうにつぶやきます。

 あるいは、紛れもない英雄であるにもかかわらず、「英雄として悲劇のうちに非業の死をとげず生き延びてしまった悲哀」を、その瞬間、彼は感じたのかもしれません。

「海皇紀」機会があれば、お読みください。

 エピソード別に幾つかの章に別れているので、他の大作コミックにくらべて比較的読みやすいと思います。

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2010年5月12日 (水)

懐かしく優しい同人の味 小林嵩人 「FROG'S TRIP」

荒木飛呂彦氏の「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」を読もうと、ウルトラジャンプ5月号を開くと、印象的な絵柄とストーリーの作品が掲載されていました。

 それは、小林嵩人(たかひと)という作家の「FROG'S TRIP」です↓。

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 なんだか、懐かしい絵柄、穏やかな作風で、古き良き同人の薫りがする作品です。

 世界観は「中世のおとぎばなし」で、登場人物は、悪い魔女と、その怒りにふれて猫や木そしてカエルに変えられた人々というわかりやすい話です。

 町にやって来た巨大カエル↑(自称若くて美人)から、「魔女にかけられた呪いをとくために自分にキスをしてくれ」と頼まれた大工のアルは、彼女?と一緒に魔女の館へと旅に出ます。

 旅の途中で、カエル同様、様々な呪いをかけられた連中と道連れになりつつ、ついにアルは魔女の館に到着します。

 そこで、彼は……

という話なのですが、短い話ながら二転三転するストーリーも、あったかいエンディングもわたしの好みです。

 読み終わって、ほっとする話なのがイイ。

 例によって、この作品で佳作なら、大賞はもっとスゴイのだろうな?なんて思うと、案外そうじゃないんですよね、ダイタイ。

 大賞より佳作の方が「佳作」が多い。

 画の好みで、評価が別れたのだろうなぁ。

 おそらく、大賞はもっと線のすくないマンガ絵のヤツでしょうなぁ(みてないけどさ)。

 まあ、こんなふうに感じたのは滝沢洋一氏の「チポーは猫」以来です(調べてみると91年だった。感隔世!)。

 機会があれば、お読み下さい。

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2009年11月 6日 (金)

ツーハンは思わぬプレゼント 〜「火の鳥」「ブッダ」〜

 かつて、敬愛する東海林さだお氏が、そのエッセイの中で「ツーハンは自分に対するプレゼントである」と宣言されたことがあります。

 もちろん、ここでいうツーハンとは、「もう!ツーハンお見限り。どこかヨソに良い子ができたんじゃないのォ」のツーハンではなく、通信販売のツーハンのことです(東海林氏談)。


 わたしも、コンピュータの周辺機器購入などでは、よくツーハンを利用します。

 さすがに、格安マザーやバルク品のHDやメモリ、コンデンサやトランジスタなどの細かい電子部品は電気街に足を運んで買いますが、おおまかな相場の決まっているものは、ツーハンがベンリです。

 なぜ、ツーハンが自分に対するプレゼントなのかというと、まあ、皆さんおわかりでしょう。

 ネットなどで注文をしておいて、あとは忙しさにかまけて、そのことを失念した頃に、ピンポンの音、はっとツーハンを思い出して、いそいそと認印をもって玄関に出て行くその瞬間こそは、まるで誰かにプレゼントしてもらった気分、というわけですね。

 最近は、前日、午後3時頃までに注文すると、「24時間以内に発送」で、翌日の昼過ぎに商品が届くので忘れる暇もないのですが。

 同時に、東海林氏は、ゲンブツを見ないで購入するツーハンの危険性として、いくつか失敗談を披露されています。

 カッコイイ!と思って買ったロシア製の腕時計が、実際に届いてみると、腕どころか、腹に巻く腹時計クラスの巨大さだったため、よろめきながら過去にいくつかあった失敗商品の眠る押し入れに運び入れるのだった、とかね。

 昔は、そういった「ヤバイツーハンモノ」は、雑誌の裏表紙などに掲載されていました。

 今も、友人が好んで話をするのは、動物の雄雌(しゆう:つまりオスメス)を見分ける「大仏の首」(仏像の首だったか?)です。


 わたしが欲しかったのは、ロケット型ラジオでした。

 後年、大人になってから「腕時計型ラジオ」というのを買いましたが、実際に届くと、これがまたデカかった。

 今思えば、それは初代X-BOXを「エエデザインじゃないの」と思って見に行った店頭で、あのデカサを見せられた時の衝撃に勝るとも劣らぬものだったなぁ。


 いやいや、長々と今まで書いて申し訳ありませんが、今回はツーハンの話をするつもりはありません。


 今、スカイパーフェクトで「ソウ」一挙放映をやっています。

 ソウ1は、以前に録画してDVD化してあったような気がしたので、あまり観る気も無かったのですが、現在「ソウ6」が劇場公開中で、それほどまでに根強い人気の秘密は何かと確認したくなって、2〜4を録画しておこうと思ったのです。


 録画準備に入ってから、もしかしたら1は、MPEG2データで観ただけで、もう消去してしまったかもしれないと思い直し、DVD入りの段ボールが山と積まれた倉庫に入って調べてみました。

 結局、「ソウ1」は見つかりませんでしたが、代わりにいろいろと面白いものが出てきました。

 なかでも驚いたのは、DVDの段ボールに混じって、コミックの段ボールが出てきたことです。

 基本的に、映像と書物(コミック含)は分けて保存しているのですが、なにかの拍子に混じってしまったのでしょう。

 その段ボールには、文庫版「火の鳥」と「ブッダ」と「青春の尻尾」、スキマに「11人いる!」と「修羅雪姫」が入っていました。

 テーマに統一性が、あるんだか皆無なのか、よくわからないパッケージですね。

 「11人いる!」は続編の「東の地平西の永遠」とともに、オリジナル版が書架に並んでいるので、おそらく間違って重複買いしたものでしょう。

 それより、驚いたのは、自分が手塚治虫氏の「火の鳥」を全巻持っていたことです。




「ブッダ」は覚えていたのですが、「火の鳥」は、「復活編」と「未来編」のみを大判で持っていると思っていたため、これまで何度も、書店で手にとって買うかどうか迷ったあげく、踏ん切りがつかずにいたのです。

 忘れたつもりでいて、どこかに記憶の片鱗が残っていたのでしょうか?

 ともかく、いくつかのエピソードを除いて、すっかり内容を忘れていたので、ブッダともども箱の中のコミック全てを一気読みしました。

 そして、これぞ正しく「奇貨」なり。

 「奇貨居くべし」、いやつまり、これらの作品についての覚え書きをブログで書いておこうと思ったのですね。

 わたしにとって、ツーハン以上の「思わぬプレゼント」になったのでした。





 手塚氏の捉える仏教史観の発露「ブッダ」は、ある意味わたしの背骨に入っている思想でもあります。
 あえていえば、シャーリプトラ(舎利子)の姿形が、わたしの考えていたものと少し違っていましたが……

 「ブッダ」の中の重要なエピソードのひとつ、ブッダが鹿に教えを説き、初めて人に説法をしたサルナートは、わたしがインドで体を壊す前日に訪れた地でした。

 宿を出て、英語のほとんど通じない人々とともに、独りバスに乗り込んで、運転手に「サルナート!」と叫ぶと、満員の乗客のほとんどが、「わかった、わかった」と身振りで示し、実際に数十分たってバスが停まると、ほとんど乗客全員が一斉に「ここだ、ここだ」とヒンディで教えてくれました。

 当時、サルナートでは遺跡を発掘中で、大きな(身長3メートルほどでしょうか)極彩色のブッダが、これも大きな弟子たちと車座になっている像が設置されていました。

 たまたま「暑期」と呼ばれる最も暑い時期だったので、太陽の下は焼け付くように高温でしたが、日陰に入ると、湿度の低さもあってかなり過ごしやすく、おそらくブッダも、日中は日陰で涼をとっていたのだろうなぁ、と感銘を受けたことを思い出します。


「火の鳥」については、多くの人に書き尽くされた感があり、今さらわたしの書くことはありません。

 ただ、「復活編」の、損傷した脳を人工タンパク質で修復した主人公が、景色はもとのまま認識しながらも、生物だけを怪物のように知覚するという、理屈にはあっていなくても「体感的」に納得できる設定は、とても凡百なわたしには思いつけるものではないと思いました。いや、今も思っています。

 子供の頃、初めて「復活編」を読んだわたしにとって衝撃的だったのは、主人公が、小川のせせらぎを聴きながら、そのほとりで心を開き、恋人のロボットチヒロとつかの間の逢瀬を楽しんでいた場所が、普通の男(作業員)の目によって、溶鉱炉の鉄が流れる危険な工場内部であることわかった瞬間でした。

 あれは恐ろしかった。

 それ以前の、あからさまに人が岩のカタマリに見えていた時より遙かに恐ろしく、そして哀しい。
 一見、人間に見える主人公が、その精神構造が、すでに人間ではなくなっていることを如実に示した瞬間だったからです。


「青春の尻尾」は、個人的に、なんだか妙に好きな「少年の町ZF(ゼフ)」と同じ小池一夫、平野仁コンビの佳作です。

 ZFは宇宙人による人類消滅モノの一つですが、「〜尻尾」は、天界の桃を食べた諸葛亮孔明の話です。
 例によって、第三エピソードあたりから、小池氏一流の「物語終わらない無限ループ」に入って尻つぼみになるのですが、孔明が桃を食べるエピソードまでは素晴らしかった。

「修羅雪姫」は、映画化もされたと思いますが、小池一夫氏と「同棲時代」の上村一夫氏の明治を修羅に生きる女性のストーリーです。

 無期刑になった女性が、シャバでの恨みをはらすために、看守や説教坊主を片っ端から誘惑して子供を身ごもり、その子に望みを託して死んでいく。やがて成長したその娘は……

 という話は有名だと思いますが、わたしが、今回読み返してみて、改めて感銘をうけたのは、あとがきにある故上村氏が語るエピソードでした。


 プレイボーイ誌で連載が決まったので、顔合わせを兼ねて上村氏は小池氏と夜のバァをハシゴした。
 そのおり、仕事はほったらかしにして酒に酔った上村氏は、最近知ったウォルト・ディズニー・プロのアニメーターが作ったというブルーフィルム(今でいうエロビデオ?)の話をする。
 そこでは白雪姫が七人の侏儒(コビト)によって、性的暴力を受けるのだ。

 それから、2、3日たって、小池氏から届いた新連載の原作は、タイトルを「修羅雪姫」といった。

 上村氏は、「自分は、打ち合わせと称してタダ酒を飲んで、ヨタ話をしていただけなのに、小池氏は、しっかりと次回作の打ち合わせをしていたのだ」と感心する。



 真偽はともかく、ある作品が出来上がる過程を、いやきっかけを示す話として面白いですね。

「11人いる!」については……長くなるのでやめましょう。

 個人的には、この作品からスピンオフしたギャグマンガ「スペース・ストリート」が好みです。

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