アニメーション感想

2016年2月 5日 (金)

すべてのオトコの夢、最強!  ~ワンパンマン~

 たとえ、どれほど平和主義者であろうと、その本能の中に、オトコというものは(そしてある種の女性にも)「強くあれ!」という願望を持つものです。

 そのひとつの究極の夢が、いかなる強大な敵であろうとも、たった一発のパンチで打ち倒すことができる、つまり「ノックアウト バイ ワンパンチ」 = ワンパンマンなのです。

 ワンパンマン!

 Web漫画から登場したヒーロー。

 そのネーミング、スキンヘッド、そして「お約束のマント」を見たときに「やられた」と思いました。

 そのテがあったのか!

 ピンぼけ発言を覚悟して言わせてもらうと、ワンパンマンは、そのネーミングを出発点として、あの国民的ヒーロー(若者の幼年期を含めるとして)アンパンマンの完全なネガいや鏡像、投影なのです。

 そりゃあアナタ、アンパンマンは頭を空腹の人に食べさせるし、その頭をとりかえることでパワーをチャージできる、頭は禿げているのではなく、アンパンなのだから毛がないのは当然で、孤独ではなく、ジャムおじさんもバタコさんもクッキーさえいる、と孤独なサイタマとはまるで違うのですが、その根底にある「正義」なるもののとらえ方が似ているのですね。

 まずは、オープニング・テーマを。

 「Runner」っぽいところもありますが、なに、「もはや、すべての音は出尽くした(言ったのはジョン・レノンでしたか)」のですから、感じが似てるなんて問題ではありません。

 なかなかの名曲です。

 

ワンパンマンオープニング

 間違いました。こっちはカヴァーです。しかし、彼の英語のシャウトがすきなんですよ。

 もちろん作詞・作曲者の本家、・影山ヒロノブ氏による歌も好きです。こちらです。↓

 とにかくワンパンマン=サイタマは強い。

 若い頃はともかく、ワンパンマンとなってからは、OPソングにあるように連戦連勝・史上最強、なのですが、強くなるにつれて戦闘中の精神の高揚などを感じられなくなっています。

 それはまるで、A.C.クラークの「地球幼年期の終わり」における、次世代の生命に進化「してしまった」子どもたち、感情を失い、ゆらゆらと地上に立っている子どもたちとどこかしら似たところがあるほどです。

 確かに、サイタマの押しかけ弟子、サイボーグのジェノスをして「次元が違う」と言わしめた強さは、もう別次元の生き物です。

 これが、もともとのワンパンマンです。

 100話を超える連載のすべてを読むことができます。

 是非、読んでみてください。

 決して、うまいとは言えない漫画ですが、そのツボを押さえた迫力とストーリーテリングの巧みさはわかっていただけると思います。

やがて、WEBコミック「ワンパンマン」は「アイシールド21」の漫画家、村田雄介の目にとまり、彼がONE氏にアプローチ、やがて二人のコラボレーション作品として、「となりのヤングジャンプ」での連載(ここで読むことができます)となるのですが、

 そのあたりの経緯は、「誕生秘話」を読んでいただくとして……

 先ほどの、「強くなりすぎた男」の原作者自身による解釈は「(勝てそうにない相手に)立ち向かう熱さに作者である僕も含めてみんなが夢中になるんじゃないか、本当はサイタマ自身もそういう状況が大好きなのに、最強であるがゆえにその熱さを取り上げられてしまったんです」ということらしいのです。

 どんな敵でもワンパンチ一発でやっつける主人公、しかし普段は風采のあがらないスーパーの特売日にキュウキュウとする凡夫、という、青春の一時期に中二病にかかった者ならば(そうでなくても)簡単に思いつける設定ながら、その難しさは、話を持続させるために、つまりワンパンマンの偉大さを示し続けるために、敵がどんどん強大になり続けなければならない、つまり敵の「インフレ化」が止まらないことにあります。

 「リングにかけろ!」が、「魁!!男塾」が、連載の終盤で、熱烈なファンすら息苦しくさせてしまったのはソコなのですから。

 しかし、上記インタビューで、その点を指摘され、ONE氏は「難しいという意識を持ったことはなく、人から指摘されて初めて、『この設定のまま長く進めていくのって難しいのか?』と気づいた」らしいのですから、わたしなどとは才能が違うのでしょう。

 もう数十年前に、石森章太郎氏(当時)が(おそらく、サイボーグ009の取材でベトナムへ行かれ、単行本に、その時耳にした「サソリと蛙の歌」を挿入していた頃)、正義とは何か、立場が変われば正義も変わるのだ、的な、「メンドクサイ」問題提起をされて以来、その問題は、「ゼットマン」や「コンクリート・レボルティオ」果ては、形を変えて「進撃の巨人」へ受け継がれました。

 もっと以前の存在だった、月光仮面は「正義の味方」(正義そのものではなく)として、最初からそれらの問題をクリアしていたのですが………

 その点、アンパンマンやワンパンマンに、正義に対するブレはありません。

 まあ、アンパンマンは、対象年齢が幼児だから当たり前だ、といわれると一言もありませんが、ワンパンマンも、サイタマにブレはないのです。

 サイタマはブレませんが、他のヒーローがブレてしまう。

 後に、まるで強くなれなかったサイタマのような拳闘家ガロウが現れると、彼はヒーロー狩りをしつつ、「怪人がどれほど努力しても、ヒーローに勝てないのは理不尽だ。だったらオレが最強の怪人になってヒーローをやっつける!」などと、メンドくさいことを言い出すのですね。

 まるで、「人々はヒーローが守る、ではヒーローは誰が守るのだ?」という、まるでコンクリート・レボルティオ~超人幻想~のようなメンドくささです(え、全く違う?超人幻想についてはまた別項で)。

 やがて、ガロウは、より強いヒーローたちと闘い傷つくうち、るろうに剣心(リメイクではない)の志々雄真(シシオマコト)のように、人間の限界を超えて容姿は悪魔に近づき……

 当然のように、サイタマにやっつけられてしまいます。

 そして、サイタマによって、ガロウは、「弱者を救うヒーローを目指しながら強くなりきれないが故に怪人になろうとしていた」と、身体のみならず気持ちすら真っ二つにされてしまうのです。

 サイタマが、例のノホホンとした顔でブッタ斬ってしまうのですね。

 ワンパンマンは、まったくブレません。

 そして、それで良いのです。

 人は正義にはなれない、せいぜい「正義の味方」程度になるのが関の山なのですから。

 そして、ガロウの目指した、そして、おそらくサイタマの正義は「弱者を救うこと」。

 ここで、哲学思考に目覚めたコドモなら、「弱者同士の争いだったらどうするの」などといいだすでしょう。いや、考えることを放棄して、YAHOO知恵袋で質問するかもしれない。

 考えるまでもない。ヒーローは無視するのです。

 ヒーローが関知するのは、「圧倒的力」を持つ怪人その他によって、一方的にいたぶられる弱者を救うことですから。

  以前、格闘技漫画について誰かが言っていました。

 かつて「グラップラー刃牙」で、作者の板垣恵介氏が、プロレスの英雄としてアントニオ猪木ではなく、ジャイアント馬場を選んだ時、「それが、彼(板垣恵介氏)の格闘技のスタンスなのだとわかった」と。

 なるほど、と思いました。

 つまり、何かの分野で、誰かを理想として挙げるなら、誰を選ぶかによって、その人の、その分野におけるスタンス、性癖、嗜好、ベクトルがわかってしまうということです。

 ちびまるこちゃんの花輪君がハゲたような風采ですが、ワンパンマンがアンパンマンを(冗談めかしたスタイルの拝借だっとしても)ベースにしているというのが、ワンパンマンの本質のような気がしています。

 アンパンマンも「弱い者の味方」というスタンスからブレないヒーローですから。

 マントを羽織っているものの空は飛べず、バッタのようにハイジャンプをするのも初期のスーパーマンに似て愉快です。

 あとは、サイタマが、いったいどのようにして、史上最強の肉体を手に入れたか、ですが、それは原作の中で示唆されていましたね。神らしき存在が。

 サイボーグ009でもそうでしたが、強さインフレの行き着く先は神になってしいますから、やがては、無敵のサイタマも「神との闘い」で、一敗汚泥にまみれることになるのかもしれません。

 先のオープニング・テーマの日本語歌詞のように。

 その時が来るまで(来るかどうかはわかりませんが)、わたしはワンパンマンの熱心な読者でいることでしょう。

 願わくば、かつてドラえもんの幻の最終回(タイムパラドックス版ではなく)で囁かれたような「トレーニング中の事故にあって昏睡状態にあるサイタマの脳内劇場」的なオチにはなりませんように。強すぎる主人公だけに、ソコまで心配してしまうのです。



p.s.

 そうそう、アニメ版のエンディングテーマについても書いておかねばなりません。あの森口博子の「星より先に見つけてあげる」です。歌っている人もレトロ(褒めてるんです)なら、曲、アレンジも懐かしく大好きです。まるで、70年代後半~80年代前半に帰った気分になりますね。

 でも 歌のうまい人だったんですね。わたしの中では「バラドル」の印象しかなかったもので。

p.p.s

 それと、最後にもうひとつ。

 作者の心のなかにある「本当のヒーロー」像は、無免ライダーなのだと思います。

 彼は強くなれなかったサイタマ。でも気持ちの折れないヒーローである。

 アニメーション制作者もそれはわかっているようで、opラストのキメシーンで、(顔は写らず立ちコギする後ろ姿のみですが)、ジェノスや音速のソニック!ら重要なキャラとともに描いているのはさすがです。

 上で、強くなれなかったサイタマ、と書きましたが、強くなって「しまった」サイタマが、弱いままならどうであったのかを考えるのはあまり意味がないことなのかもしれません。

 あるいは、ヒーローをあきらめて、サラリーマンになっているかもしれない。

 だから、one氏は、弱いままヒーローであり続けるライダーを描きたかった。

 ある意味、彼はサイタマの鏡像であるから。

 最近、パワーのインフレ化が進んで、無免ライダーの登場は少なくなっているのが残念です。

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2012年7月 1日 (日)

結局きみは何をいいたかったのかね 〜峰不二子という女・最終話〜

 本当なら、今日のテーマは、ハイデガーとフッサールの師弟関係、あるいは、ハイデガーとワグナーのナチスに対する関わりかた、または――

 のをあある とおあある やわあ
 「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
 「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのです。」(萩原朔太郎「遺伝」)

 ギリシア、スペインのような欧州だけでなく、アメリカ経済がいかに病んでいるかについて、書こうと思っていたのですが、時期というか、旬を逃してはいけないので、不本意ながら、最終回を迎えたアニメ「峰不二子という女」について書こうと思います。


 先週末に最終回を迎えたこのアニメ、観終わって最初に思ったのは、

「なるほど、そういうトコロに落ち着かせましたか、しかし――だとすると、結局、今回の話はいったいなんだったのかね」

でした。

 以後、ネタバレをしてしまいますので、自分で番組を観て楽しもうと思っておられる方は、お読みにならないでください。

 

















 ざっくりいって、ぶっちゃけたはなし、いや結局のところ、今回の峰不二子は、しばらく前に、フロイライン・オイレ教団の「フラフラの秘宝」を盗むため、ルイス・アルメイダの館にメイドとして潜入したところを逆に捉えられ、彼の開発した「高度な洗脳による記憶の改竄(かいざん)」によって、ありもしない記憶をうめこまれただけ、だったのですね。

 視聴者を惑わせるためだけに制作者側が持ち出してきた、思わせぶりな、まるっきりできそこないのイッツ・ア・スモールワールド似のカラクリ人形による「みーねーふーじーこー」の大合唱や……


 あるいは、世界中で誘拐され、不二子に似せた姿に変えられた娘たちは、物語のシノプシスにはなんの関係もない、視聴者をミスリードするためだけに設けられた「あざとい」仕掛けにすぎなかった。


 で、「なぜ、黒幕は、そんな、ヤヤコシイことまでしてしまったのか」といえば、アルメイダによって本当に人体実験された、主任研究者のdaughter(ドーター:娘)「アイーダちゃん」が、記憶を捏造され改造され改竄されて、廃人同様になった頭で、「そうしたい」と考えたからだ、だなんて……


 もう制作者たちは、ストーリーを構成するのを放棄したと考えるほかはないですね。


 だいたい、このアニメは、ドイツ語と英語をゴッチャに使い過ぎて気持ち悪い。

 娘をフロイラインと呼ぶなら、女の子はdaughter(ドーター)ではなく、die Tochter(トホター)と呼ぶべきでしょう。

 麻薬の事故のために消滅した町の名が、ドイツ人なら知らぬもののない道化者「
Till Eulenspiegel(ティル・オイレンシュピーゲル)」からとっているのも、なんだか気持ち悪いしなぁ。

385_3               ティルオイレンシュピーゲル

 で、最後は、この数ヶ月の記憶の改竄なんてどうでもいいの、わたしは、結局、わたしのやりたいように生きてきただけだから――


 が、結論ですか?

 で、ラストに、ファンサービス(になってないけど)として、ルパン三世の「不二子ちゅぁーん」というシャウトでおわりぃ?


 監督や脚本家は、しめしめ、これで、うまく後のルパンシリーズの不二子へ繋(つな)げることができた、なんて悦に入ってるんじゃないだろうなぁ。


 まあ、結果的に、病的な出自の峰不二子、というセンは、なんとか避けることができたのですが、そのかわり、どうしようもないご都合主義だらけの話になってしまいましたね。


 結論からいえば、監督以下は、こういいたかったのでしょう。



 彼女は、生まれて峰不二子になったのではない、

                    峰不二子として生まれてきたのだ




 まさか、彼らは、それでうまく話を「シメ」に持っていったとは思ってないでしょうねぇ。

 いずれにせよ、この作品は、ルパンシリーズの異端、黒歴史系に所属するのは間違いないところでしょう。残念です。

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2012年6月23日 (土)

さらば愛しき魔女再び ~峰不二子という女~

 以前に、紹介した深夜アニメ「峰不二子という女」

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が、いよいよ佳境に入り、もうすぐ最終回を迎えます。

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 ワイルドで悪党のちょっと若いルパン、峰不二子を無垢の存在と勘違いし、あげくに女装までさせられる石川五右衛門、冷酷で権威主義的なエリート官憲(原作では東大を首席卒業)の銭形警部。

 第二シーズン以降のテレビシリーズ(赤ジャケットルパンです)と変わらないのは、相変わらず全てに甘い次元大介だけで、他は大幅なキャラクタ変更がなされた今回のシリーズは、思った通り賛否両論あるようです。

 もちろん、今回の作品は、原作の雰囲気を色濃く残した『大人向け』の作品ですから、それはそれでよいでしょう。

 ルパン三世という、巨大な作品群となったアニメ海に、一石を投じる意味では、悪くはない――が……

 「が」、です。ここからは個人的な感想に入ります。

 なんか違うんですよねぇ。

 峰不二子が、いわゆる性にだらしない女みたいに描くのはいい。
 誰かが書いていました。
 「若い頃なんだから、それぐらいやって、結果的に良い女になったんだろ」

 そりゃあ、そうでしょう。

 しかし、セクシーな描写が「病的なセクシー」だと気味が悪いんですねぇ。

 たとえば、緑ジャケットルパン(今回もそうですが):アニメ・ファースト・シーズンのワンシーン。

 峰不二子とルパンは、花畑で抱き合うと見せかけ、不二子はルパンの懐のワルサーを抜き、ルパンは不二子のスカートを引き上げて太もものホルスターに隠した銃を抜き、お互いの銃で、自分たちを狙う敵を撃ち殺します――ルパン三世の記念碑的なストーリー第三話「さらば愛しき魔女」でのシーン。

 この時のお色気は、まさしく直球の色気で、この回のヒロインが孤島に咲く花から生成される麻薬なしでは生きられない悲劇の「魔女」であることなど吹き飛ばすほどセクシーなシーンでした。

 「魔女」は病的でしたが、不二子のお色気は健康的なのですね。

 あるいは、峰不二子のかつての恋人で殺し屋のブーンが、不二子を奪いにくる「殺し屋はブルースを歌う」

 銃で撃たれ傷ついた不二子は、熱にうかされても色気があります。

 なぜならば、彼女の精神が(犯罪的ではあるものの)健全であるからです。


 なにが不気味かって、薬物などで精神を病んだ人間が剥き出しにする「歪んだ性欲」ほど不気味なものはありません。

 たとえば、麻薬で精神を蝕まれた女性が、薬の快感で身もだえしていたとして、それに色気を覚えるものでしょうか?


 よく「健康的なお色気」などといいますね。

 安易な表現であまり好きではないのですが、たしかに、お色気は健康的なほうがいい。

 翻(ひるがえ)って、今回の峰不二子を考えると、いやぁ、サイテーなほどに病的なんですね。

 子供の頃から、医療マフィアの実験施設で、麻薬の人体実験をされていた、というんですから、もう、どう判断したら良いのやら。

 あげく、自分と同じように、監禁され、虐待され、未来を奪われた(生きたアートにするべく全身に刺青をされた)女に対しては、近親憎悪のカタマリとなって、本当に殺そうと、「すわった目で」狂ったようにシュマイザー(古い?とにかくサブマシンガン)を撃ちまくるなんて。


 いったい、作者はどこから来てどこに向かおうとしているのでしょうか?

 いや、どこから来ているかはわかります。

 当然、アニメ、ファーストシーズンの先に紹介した「さらば愛しき魔女」から来ているのです。

 孤島の花から作られる麻薬、その人体実験にされた美しき魔女。もう、これ以外にないでしょう。

 だったら、パイカル(ファース・トシーズン第二話「魔術師と呼ばれた男」)出せや~

 と、大人げないこともいいたくなりますが……まあ、それはそれとして。


 かつて、作家の大藪春彦氏が、「ぼくは、固有名詞で女を語りたくない。たとえば、バルドーのような女、という表現は使いたくないんだ」と言っていました。

 まあ、わたしも、「誰々のような」という表現で、女性を描いたことはないと思いますが、それでも現時点で、五十代以下の道行く人に、ある女性を説明するのに、「峰不二子のような女」といえば、ほとんど一致した女性像が頭に浮かぶのではないでしょうか?

 それほど、峰不二子というキャラクターは、人々の脳に焼き付いている。


 なんだか、今回のアニメシリーズの女性監督の考えが、「これまでの不二子像を打ち砕き」「今まで誰も見たことのない不二子像を見せてやる」という点に向かい過ぎているような気がするのです。

 今まで誰も見たことのない、知らない峰不二子の「一面」なら、いくらでも見せてください。

 たとえば、逃走中に撃たれて傷ついたところを助けてくれ、かくまってくれた男が、今度は逆に病に倒れたので、若妻のようにかいがいしく世話をし、病が一段落して、男が感謝と愛のしるしに指輪を渡した時、やってきた追っ手を返り討ちにし……

「やっぱり駄目ね、わたしの手にはコルトの重みがしっくりくるもの。針とハサミより。でも、これでやっと退屈な奥さんの演技から解放されるわ。ああ、せいせいした」

 なんて憎まれ口を叩いて男のもとを去って行き――

 アジトに帰って「胸元から取り出した」指輪を眺めながら、「こんな小さなダイアの指輪は見たことがないわ」
 なんて鼻で笑いながら、一番大切な物をいれておく宝石箱の隅に放り込んで鍵をかける――

 なんて一面をね。

 だれが、クスリで幻覚三昧、人格操作までされ、金持ち伯爵のオモチャとしてスゴした人格破綻者の峰不二子を見たいと思うのでしょう。


 今回の峰不二子には、いまならHULUで観ることができる数少ない日本映画、松田優作の「野獣死すべし」(先に書いた大藪春彦の代表作です)を映画館で観た時の感想と同じ違和感を感じるのですね。

 その時、一緒に映画を観た友人(彼も大藪春彦の作品のファンでした)の第一声は、
「伊達邦彦も、とうとう精神病にされてしまったなぁ」

でしたから。

 あるいは――

 面白い話があります。

 男性は、片言で日本語を話す女性に好意を持ちやすい、というのですね。

 個人的には「言語不明瞭な人間」は苦手なのですが、意識して世間をみると、確かにそう考える人は多いようです。

 古くは欧陽菲菲やアグネスチャン、新しくは……知らないですが、片言の日本語で話す女性を好む男性は多い。

 それは、自分より不得意なものがある(この場合は日本語を話すこと)女性に対して、男性が簡単に優越感を持つことができるから、という理由らしいですが、本当なのかなぁ。

 どうもわたしにはよく分かりません。

 峰不二子に関しても、これまでの彼女は、パーフェクトな美人でした。
 頭もよく、時たま見せる、ちょっとしたドジさ加減も彼女の魅力を高めるスパイスにしか過ぎないほどの完成度。

 しかし、今回の不二子は、もう駄目です。

 精神はボロボロ、小娘(いや、実際、まだ若いのですが)のように、ぴーぴー、キャーキャー叫ぶだけで、個人的には、まったく魅力を感じません。

 しかし、人によっては、やっとフジコが自分の手の届くところまで降りてきてくれた、と感じる人もいるし、そう思わせるのが、今回の制作者の意図である……のかな、わからなくなってきました。


 もっとも、これまでの峰不二子も、宝石や現金、偽札の原板に目がないという弱点はもっていましたから、あまりかわらないかも――いややっぱり違いますね。


 最後にもうひとつ別な考えを述べて終わります。


 峰不二子を主役にした作品、と聞いて、最初に頭に浮かんだのは、「今の世の中で、それが通るの?」という考えでした。

 だって、ファーストシーズン以外の峰不二子像は、基本的に、セクシー女性キャラとしての役割だったでしょう。

 とにかく、視聴率を上げたければ、由美かおるの入浴シーンだ、的な。

 胸の大きく開いたドレスあるいは膝上30センチのミニスカートを見せるトルソーとしてのオンナ。

 そういった、かつてノーマ・ジーン(マリリン・モンロー)が演じさせられた、本来の彼女の性格とは違う、精神を無視した肉体だけの存在、女性をただの快楽の道具としてあつかうヒロイン像は、現代女性からの共感は得られないでしょう。

 だったら、峰不二子を、自分ではどうしようもない子供のころの不運から麻薬患者となり、人生を蹂躙(じゅうりん)された悲劇もデッチあげ、その呪われた軛(くびき)を断ち切って自由に生き、逆に男を翻弄する「ガラスの顎を持つヒロイン」として描いた方が、イマフウだと。

 いやいや、まさか本作の監督は、そんな計算高いことをしていないでしょう。

 監督が女流だと思うと、すぐにこういうヨコシマな考えにいたるからいけません。



 まあ、最終回を観てみないと評価はできませんが、現段階の「峰不二子という女」を一言でいえば、

「『さらば愛しき魔女』の呪いから逃れられない不健康なヒロイン」

ということになりましょうか。

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2012年4月29日 (日)

もし原作を知らずんば…… ~峰不二子という女~

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 今、毎水曜深夜に、怪しげなアニメが放映されています。

 その名も「LUPIN The Third 峰不二子という女」    公式サイトhttp://fujiko.tv/

 あの、ルパン三世からスピンオフしたアニメです。

 主役は峰不二子ですから、ルパンが出ない週もあります。

 現在のところ、第四回まで放映されています。

 登場キャラクターで紹介すると、

 一話 ルパン
 二話 次元大輔
 三話 石川五右衛門
 四話 銭形警部

 一話では、若きルパン三世との初めての出会いを描き、
 二話では、次元大輔の恋の現場に居合わせ
 三話では、五右衛門の斬鉄剣に服を切り裂かれ
 四話では、ファントム オブ オペラをモチーフに、銭形警部との絡みを描く。

 観始めると、まずオープニングでドギモを抜かれます。

 さすが深夜番組。「嵐が丘」のモノローグをバックに、全裸の峰不二子が駆け回るエロティックさ。

 内容も、青年誌連載の、モンキー・パンチ原作のルパン三世に近いテイストとなっています。

 だから、もちろん、峰不二子は、『女の武器』を使いまくり!

 女流監督の作品ですが、男が描いたら、「ステロタイプの女性観」「女性蔑視」と叩かれかねないほどの内容です。

 登場する男たちも、その誰もが「女に弱い」(性的な意味で)キャラクターになっています。

 例えば、銭形警部などは、オコチャマ用にデフォルメされた赤ジャケ(ット)ルパンでは、女性が苦手なタイプに描かれていましたが、第四話では、不二子と性的関係を持つ描写すらされているのですね。

 これは、特に赤ジャケ・ルパンファンにはつらいものがあるでしょう。

 ファースト・シーズンの緑ジャケ(ット)ルパンを知っている方なら、五右衛門が、すっかり不二子の色香に騙されて「不二子ちゃん」などと言っても、違和感なく聞くことができるでしょう。

 なんせ、五右衛門登場の回では、「不二子ちゃんはそれがしのガールフレンド」などと言っているくらいですから。

 しかし、大塚周夫版五右衛門でなく、井上真樹夫五右衛門のファンだと、それは許せないでしょうね。

 次元大介だけが、かろうじてTVアニメの性格を保っているように見えます。

 作品の雰囲気は、ファースト・シーズンに似た無国籍なテイストで、好感がもてますし、陰影がついた画面も、個人的には好みです。

 銭形が「昭和ヒトケタ人情派」ではなく、非常な感じなのも良いですし、彼を慕う美形の青年もイイ感じです。

 ストーリーも、第三話はともかく、その他のものは、なかなかヒネリが効いていて面白い。

 第四話のファントムも、映画「ファントム オブ パラダイス」に似た仮面を被っているうえ、最後のどんでん返しも悪くないように思えました。

 四話までで、一通りメイン・キャラクターの顔見せが終わったため、五話以降を、どういう展開にもっていくのかが楽しみです。

 おそらく、他のキャラクター同士の邂逅(であい)を描くのだとは思いますが。

 とにかく、もし原作を知らなければ、今回のアニメ化で突然ルパン三世のメイン・キャラクターたちの性格が変わった、なんでこんなバカなものをつくるのか、と怒り出してしまうかもしれませんが、個人的には、こういったアダルト感の豊かなアニメは好きです。


 実は、私は、ルパンのファースト・シーズンの始まった日のことを覚えてます。

 当時は、まだ子供だったのですが、その日の新聞のテレビ紹介欄に、はっきりと「大人のアニメあらわる」と書かれていたのです。

 つまり、ルパン三世は、もともと、こういったテイストの「大人のアニメ」だったのですね。

 その意味で、今回の「峰不二子という女」は、正統な先祖返り作品といえるのかもしれません。

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2012年1月15日 (日)

今は昔の力強き歌詞 ~マイティ・ハーキュリー~

 トシのせいか、最近は涙もろくなっていけません。

 先日も、何気なくYOUTUBEに自作ラジオ・ドラマをアップロードをする合間に目に付いた「懐かしのアニメ」に、涙ボーダとなってしまいました。

 そのアニメとは「マイティ・ハーキュリー」カナダ制作のアニメーションです。

 1963年の放送ですから、当然リアルタイムでは観ていませんが、おそらく再放送で目にしたことがあったのでしょう。

 内容自体は、ギリシア神話のヘラクレス(英語読みでハーキュリー、オフレンチではエルキュール:ポアロってヘラクレス・ポアロだったんだ!)が、半人半馬の少年の助けの求めに応じてオリュンポスからやってきて、悪人をブッとばす、という簡単な話なのですが……

 オープニングの曲を聴いて胸をうたれたのです。

 当時の海外アニメとしては珍しく?日本人による作曲に差し替えられておらず、歌詞だけが日本語になっているのですが、これがイイ!

 短いけれど最高。

 どことなくギリシア風で(ドコがっていわれたら困るんですが…ゾルバ風というかZ風というか、日曜はダメよ風というか……←「そこらへんはナゾってことで、カンベンして~」)短く、ダイナミックでコードもいい。

 とりあえずお聞きください。

 しかし、その時点では涙は出てきませんでした。

 思いついて、米国TUBEでオリジナルを聴いたところ……そのカッコ良さに涙がとまらなくなったのですね。

 これです↓

 始めに書いたように、わたしは、子供の頃にこのアニメを観た記憶が定かではないので、これはノスタルジーではありません。

 なぜなんだろう?

 だけど何度か聴くうちに、ああ、わかりました。

 歌詞がいいんですね。

 ストレートで力強く、今のほとんどの若者の歌詞と違い「詩」になっている。美しく韻をふんで!

 だから歌手も気持ちよさそうに歌っているのですよ。

 書き起こしてみました。
(後の訳は適当です。英語の語感を日本語には替えられないので)

The Mighty Hercules

 Hercules hero of song and story
 Hercules winner of ancient glory
 fighting for the right
 fighting with his might
 with a strength to tend
 ordinary men
 Hercules people are safe when near him
 Hercules only the evil fear him
 softness in his eyes
 iron in his thighs
 virtue in his heart
 fire in every part
 of the Mighty Hercules

 ハーキュリー 歌と物語の中のヒーロー
 ハーキュリー 太古の栄光につつまれた勝者

 正義のために闘う
 その力をもって
 強さで普通の者を助けるために

 ハーキュリー その側にいる時 人々は安堵し
 ハーキュリー 悪者は恐怖する

 双眸(そうぼう)は柔らかく
 双脚は鋼鉄のごとし

 ハートには美徳を
 身体すべてが燃えている

 それがマイティ・ハーキュリー

 ホント、英語で歌うとサイコーに気持ちいい。

 ちなみに、日本の歌詞はこれだそうです↓(日本語は聞き取れなかったので調べました)

「マイティハーキュリィ」 
  作詞/松坂直美 
  作曲/Sharp Les Winston・Single Ton Win
  編曲/武市昌久
 ハーキュリィ 力は強く
 ハーキュリィ 正義の味方
 悪い奴を こらしめて
 世界中を 明るくする
 ハーキュリィ 力は強く
 ハーキュリィ ぼくらの味方
 風のように 空をとんで
 あばれ回る あーマイティハーキュリィ

 出典:ユピテルレコード「僕達は忘れない!」YL95-1001~4(1983)

 悪くはないし、曲に合わせて翻訳する難しさは、わたしも「荒城の月」や「花」の英詞訳をしたことがあるのでわかるつもりですが、もう少し、なんとかならなかったのかなぁ。

 つまり、個人的に、歌う曲は押韻していたほうがすきなのですね。

 そして、おそらく、すべてにおいて斜(ハス)に構える風潮が定着した現代では、このようなストレートな歌詞は作れないのでしょう。

 その意味で、ギリシア神話に題材を得た子供向けのアニメであったとしても、こういった真っ直ぐな歌詞が書けた時代はそれだけで幸せだったのかもしれません。

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2010年1月 2日 (土)

コブラふたたび: 今夜11時30分よりBS11にて放送

 今夜、2010年1月2日23時30分。

 数年前より、生誕?30周年記念と称して、数度にわけてオリジナルビデオとして製作されてきた「コブラ」が、声優も新たに(コブラのみ、アーマロイド・レディは同じ)放送が始まります。

 それに合わせて「サイコガン」「タイムドライブ」も借りて来て観ました。

 同時に「GIジョー」も借りましたが、やはり「コブラ」の方が観やすいですね(ジョーについては別に書きます)。

 寺沢武一の作品は、個人的には、今ではちょっとレトロな「ゴクウ」の方が好みなのですが「コブラ」も好きです。

 内容は、オリジナルではなく、「シバの鍵」だそうですが、今から楽しみにしています。

 OVAを観て気づきました。

 コブラは、若いころは渋い色のコスチュームで、年をとってから赤い服に替わっているのですね、

 この辺、ルパン三世に似たところがあります――若づくり?

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2009年9月 2日 (水)

ですが……なので……だからどうよ 真マジンガー

 書きたいことは山のようにあるのに、気がつけば、いつの間にか二週間近くブログ更新ができませんでした。

 それは、わたしが選挙運動に邁進していたから……なわけはなく、ただ怠慢だっただけです。


 ヒマヒマに、「ルナティック・ドール」以前のハナシのプロットを作ったり、時代物を書いてはいますが、そんなことはいいわけにはなりません。


 まあ、わたしの偏ったはなしを待っている人は、ほとんどいないでしょうから問題はないでしょう。



 さて、久しぶりの更新なので、テンションをあげていきます。



 ですが……


 なんて、唐突に「逆接」を持ち出す言葉の使い方をしているのを、最近よく見かけます。

 スポーツ選手たちや芸能人だけでなく、言葉が専門のはずのアナウンサーまでもが使っているからタチが悪い。

 そういえば、先日、某女性党首も使っていたなぁ。


 しかしながら、突然「ですが」といわれても、「(ナニユエ)ですが」なのかがわからない。

 妙に紋切(もんき)り型であるだけに、耳にひっかかりますね。



 なので……


 これも、よく使われている。


 ある事柄を述べて一呼吸置き、「ですが」「なので」と続ける。

 本来ならば、「そういったわけで」「もちろんそれはそうなのですが」と丁寧にいうべきところを、短い言葉でつないでしまう。


 わたしは、最近まで、地上波テレビはほとんど観なかったので、あまり自信をもって断言はできないのですが、こういった言い方を、はっきりと意識的に使い始めたのは、今川泰宏監版「ジャイアントロボ」においてだったように思います。

 この作品に影響を受けた芸能人が使いだした言葉を、ある程度英語教育を受けた人が、but、soの日本語訳的に近いことを面白がり、かつ押韻(おういん)したようなテンポも気に入って使うようになり広まったのではないか、と個人的に推測しているのです。


 まあ、少なくとも、わたし自身は使わないし、使いたくはありませんが。




 映画なり、ドラマなり、アニメなりが、成功するということは、ある意味、そのハナシから何らかの言葉が流行語になるということがあります。

 だから、時に制作者たちは、意図的に変わった表現を役者に使わせてみせる。

 さすがに「コールセンターの恋人」でとってつけたように使われる「ということです」は流行らないでしょうが。


 しかし、わたしに関していえば、その作品が「自分の中で本当に立った作品であるかどうか」は、その作品をヒトコトで代表させることができるモノが存在するかどうかにかかっています。

 特に、特撮やアニメなどではその傾向が強い。

 たとえば「ライダー・キック」

 これはいわずと知れた仮面ライダーです。

 ライダーには、「ヘンシン!」というものもありますが、これは、あまりにも亜流を生み出したために「ヘンシン」だけで仮面ライダーを特定できなくなってしまいました。

 「デッビール」といえば「デビルマン」(テレビ版)。

 まあ、変身時のかけ声や、必殺技発動時の叫びが多いわけです。

 おかげで、黎明期(れいめいき)の番組によっては、はじめは無言で技を出していたのに、途中から技名を叫ぶようになったものも多いようです。


 逆におたずねしましょう。

 ベルトといえば? まあ「ライダーベルト(仮面ライダー)」でしょう。

「科学忍法火の鳥」といえば「ガッチャマン」

「愛のムチ」といえば「ゼンダマン」

「オリハルコン」といえば「海のトリトン」かな。


 では「ロケットパンチ」といえば? これはもう間違いなく「マジンガーZ」です。

 さあ、やっと今回のテーマにたどり着きました。

 今、土曜日の深夜に、さきの今川監督の「マジンガーZ」のリメイク「真マジンガー」が放映されています。

 第一回のタイトルが「大団円」(つまりエピローグ)。

 ドクターヘルが死に、(原作通りに)ブロッケン伯爵とアシュラ男爵が同時に散って、ゴーゴン大公が吠え、金色に輝く全能神ゼウス(Zマジンガー)までが登場するというムチャクチャぶり。

 原作者の永井豪自信をして「予想もしない展開で楽しみ」といわしめた力業(ちからわざ)です。

 今回のシリーズで、何が一番すばらしいかというと、「あばりし一家」の菊之助(知っている人だけ頷いて)の年をとった姿(ハレンチ学園の最終回で登場する老婆姿の十兵衛と同じ)である「お菊さん」が異常な反応速度を持つ超人として現れること……ではなくて、クール・ビューティーである金髪アンドロイドのガミアが裸エプロン姿を披露する……ことでもなくて、マジンガーZ自身を「巨大な一本のロケットパンチに変形させる」というアイデアです。

 これで「中身はどうあれ」、このシリーズの成功は八割方決まったようなものです。

 マジンガーといえばロケットパンチ、ロケットパンチといえばマジンガーですから。

 だからこそ、「ふつうじゃあり得ない」、巨大ロボット自身を、もっと巨大なゼウス神の片腕の大きさのロケットパンチにしてしまう、という発想がすばらしい。

 しかも、大空はばたく紅の翼:ジェット・スクランダーではなく、ゼウス神の腕から作られた神の翼:ゴッド・スクランダーが変形して、「ビッグバン・パンチ」(ジャイアント・ロボにおける中将長官が命と引き替えに撃つ無敵のパンチと同じ名前)になるのですから。

 原作では、はっきりと描かれなかったはずの「なぜミケーネに巨大ロボットが眠っていたのか」ということの説明として、今川監督は、太古の昔、地球は、宇宙を二分する勢力の戦争における補給基地(惑星)だった、という設定になっており、ドサクサに紛れて地球を支配しようとした小役人(つまり「神という名の巨大ロボット」の頭脳になれるほど功績をあげていない、ただのミケーネ人)、ゴーゴン大公と二人の男女に分かれていた頃のあしゅら男爵から、ゼウス神がたったひとりで地球を守ったのだという設定をとっています。

 ゴーゴンはともかく、さすがに、あしゅら男爵が、もともと「トリスタンとイゾルデ」という夫婦だったという設定には笑ってしまいましたが(ワーグナーですか)……


 超人好きの今川氏によって、衝撃波すら手から発するようになったあしゅら男爵や、バイオレンス・ジャックに登場する小柄な「ジム・マジンガ」を呪術師ピグマン子爵としているのも吉。

 微妙に世界観の違う役者を多数とりこみつつ、自分の世界観を貫くのは、今川氏の真骨頂といえます。


 最近の放映で、暴走したマジンガーの変形した姿が「あの」魔王ダンテであったことも特筆しておかねばなりません。


 と、このように、多くの永井豪作品を組み合わせて作られている「真マジンガー」ですが、それゆえの懸念もあります。


 まさか、バイオレンスジャックみたいに、「終わってみればデビルマン」じゃないよね、という懸念が。


 そうならないように祈りながら、最終回までの数話を待っているこのごろです。

(ちなみに、わたしは田舎に住んでいるので、直接テレビ放映は視聴できません。放映終了直後から一週間行われるバンダイチャンネルのネット配信
http://www.b-ch.com/
で観ています。第一回はいつでも視聴可能)


 なろうことなら、最終回までに「アニマル・ケダマン」を出してほしいなぁ。

 ですが……

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2009年7月14日 (火)

ジェダイって強かったんだ! 〜クローン・ウオーズ〜

 今、某ハイビジョン放送で、スター・ウオーズ「クローン・ウオーズ」(ああややこしい)を放映しています。





 2008年公開映画の続編となる3DCGアニメーションで全100話構成の予定だといわれています。

 実のところ、どちらかというと、わたしはスタートレックのファンで(先日ディアゴスティーニの「週間スタートレック」をコンプリートしました。あらためて計算すると数年感に15万円をつぎ込んだことになります!)、スターウオーズについてはほとんど興味がありませんでした。

 かの、アーサー.C.クラークに「スターウオーズの宇宙空間で爆発音が聞こえるのはかまわないんだよ。わたしはあの映画の大ファンだから」と言わしめた映画ではあるものの、最初の公開時(エピソード4)から、ストーリーに魅力を感じなかったので、一度も映画館に足を運んだことはありません。

 さすがにテレビ放映されたものはいくつか観ました。

 当時、映像はすごいと思いましたがストーリーに惹かれはしませんでした。

 ステレオタイプの英雄モノ、しかも程度の低い西洋チャンバラにしか思えなかったのです。

 「ジェダイ」というものが、何かわかりにくかったということもあります。

 英国における円卓の騎士のように、たいして強くはないものの名前だけが残っている英雄の子孫、みたいに思っていたのですね。

 それが、時代設定がエピソード1にもどり、エピソード2になったころから、ジェダイの騎士のスーパーマンぶりが、わたしの好みにあってきました。


 特に、オールCG化された宮沢総理、じゃなくてヨーダの超人ぶりには目を見張らされました。


 そして、このCGシリーズです。

 これに先立つ前作の、いかにもアメリカンコミックのようなショート・アニメーションシリーズは特に面白いとは思いませんでしたが、30分の尺でCG化された本作品では、まさしくジェダイナイツはスーパーマンです。

 超能力を使って空を飛びレーザーを跳ね返し、もうほとんど無敵です。

 もっとこういった感じで映画を作ってくれたら、スターウオーズファンになっていたのに、と少しばかり残念です。

 相変わらず、デフォルメされたCGではあるのですが↓、




映画ほど悪相ではないにせよ、なかなかアナキンのワル顔(今のところ正義の味方で良いヤツです)が決まっています。

 とくに、後のダースベーダー:アナキンに、女性のパダワン(弟子?):アソーカ・タノが登場するのが良いですね。




 このシリーズに続く(という設定の)映画では、アソーカは出ていなかったように記憶しているので、その経緯も今後の100話で描かれるのでしょう。

 いかな絶対絶命のピンチになっても、涼しい顔で冗談をいいつつ肩をすくめる、オビ・ワンとアナキンの師弟コンビはかなり魅力的です。

 人やドロイドはCGの限界か、動きが軽すぎて嘘くさいのですが、巨大戦艦などのCGは、細部までクリアな映像でなかなかのものです。

 というわけで、今後の展開に期待したいと思います。

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2009年6月14日 (日)

東のエデン 〜高貴なる身分にともなう義務〜

 ターミネーター4やスタートレック、あと魔球についても書きたかったのだが、週末にやってきた友人が持ってきたアニメについて書きたくなってしまった。



 そのタイトルは「東のエデン」。シリーズ構成は「攻殻機動隊シリーズ(テレビ版)」の神山健治。

 一見してわかるように、タイトルのモトネタは「エデンの東」で、いわゆる「ノーブレス・オブリージュ(高貴な身分にともなう義務)」を果たすべく選ばれた人々の奮闘話だ。





 キャッチフレーズは、

「この国の"空気"に戦いを挑んだひとりの男の子と、彼を見守った女の子の、たった11日間の物語」



 この放送途中の番組について、総括めいたハナシをするのはよしておこう。というより、そんなことはしない方がよいだろうな。無駄だから。


 だから、この作品のシリーズ構成者、神山健治の思考の流れ、というか源流というか、「如何にしてこのモノガタリができつつあるのか」を、わたしなりに考えてみようと思う。

 まあ、思考のソース自体が、ざっと通し見しただけの本編だけなので、ヌケ、勘違い、浅慮などあろうかと思うが、番組放映後に制作予定されているらしい完結編映画用の、自分なりの備忘録として記録しておくものなのでお許し願いたい。



 さて、何から書こうか?

 まず、このハナシを知らない人のために、モノガタリのアウトラインを。

 持って回った劇的手法はうっちゃって、とりあえず内容のみを書くと、時は現在(厳密には2010年)トコロは日本。

 ある日本のカネモチが、特殊な携帯電話を作って、それなりに日本の現状に不満を抱く老若男女12人にそれを渡したことでハナシは始まる。

 その電話には特殊ボタンがあって、それを押すと、コンセルジュ(コンシェルジュっていい方は気取り過ぎててイヤだ)のジュイスという女性(実は人工知能らしい)につながり、自分の望みを口頭で伝えると、一度に実現可能なものは即受理して実現、複雑なものは細分化してシーケンスにしたがって実行、結果的に同等の効果を実現してくれる。

 いわゆる「魔法の杖」たる携帯電話を渡された人々のドタバタを描くハナシだ。

 魔法の杖がユニコーンの角ではなく、フェニックスの羽でもないのが現代的だ。


 ただし、この魔法の携帯電話には、ふたつの大きな矛盾がくっついている。

 ひとつは、選ばれた12人(セレソンと呼ばれる)は、「日本を正しき方向へ導く」ことが義務づけられていることと、その予算がたかだか100億円ということだ。

 およそ、ひとりの人間が、金の力だけで一国を変えることはできない(ただし外国による圧力を利用し、マスメディアを使った広域アジテーションを併用すれば、ある程度は可能か?)し、さらにその予算が「たった」100億では、何もできない。

 多少でも政治に興味があるなら、日本という(経済的、人口的に)巨大な国家が、その身を少し震わすだけで、1000億や1兆は吹っ飛んでしまうことは周知の事実だろう。

 100億は個人にとっては大金だろうが、国が相手だとハナクソにもならない。

 しかし、このことを逆に考えると、「たった」100億をいかに効果的に使って、巨大な龍を踊らせることができるか、という面白い思考実験にはなる。


 セレソンたちは、以下のルールに縛られている。

 1.任務を途中放棄し逃亡した場合
 2.長期にわたりノブレス携帯を使用せず何の成果も挙げられなかった場合
 3.100億円を個人の欲望に使用し続けた場合
 4.国(日本)を救う目的が果たせぬまま残金が0円になった場合
 5.最初に義務を果たしたセレソンが現れた後、その一人以外セレソンは全て自動的に殺される。


 物語冒頭、主人公の青年は、ワシントンD.C.で記憶喪失状態で登場する。

 物語のナゾを簡単に案出するために記憶喪失を用いるのは少しイージーな気がするし、その上、後に判明する、ある装置を使ってわざと記憶を失ったその理由が、脆弱すぎてどうにも感情移入ができにくい。

 日本に帰る途中、彼は、去年から、日本に十発を越えるミサイルが打ち込まれていることを知り、自分の持ち物、写真などから、自分がその事件とニート2万人失踪事件(殺害されたという説あり)の犯人ではないかとおそれるが、実際は、彼こそが、それら大災害の被害を最小限に食い止めるために孤軍奮闘していたことが後にわかる。

 やがて、記憶を失う前の彼を知る他のセレソンが、次々と彼の前に姿を現すようになる……

 というのが、だいたいの梗概(こうがい)だ。

 で、上で述べたように、どうしてこんなハナシになったかを考えてみる。


 まず、タイトルたるシステム「東のエデン」


 作中では、大学生たちが作り出した「画像認識応用型自動検索エンジン」を表している。

 ヒトコトでいえば、携帯電話で写真を撮って、それを検索文字列代わりに、検索にかけると自動的にネット上の画像データと比較して、その説明を表示するプログラムだ。

 これこそは、かつて神山健治が、攻殻機動隊で描いた、すべての人々がネットにつながり、知りたい情報を瞬時に自動検索する、自分用に特化され検索エンジンのプロトタイプとなるべきものだろう。

 これなどは、米SF作家J.P.ホーガンが「未来の二つの顔」で、「星を継ぐもの三部作」で活躍する人工知能ゾラックの雛形の成立過程を描いてみせたことに、どことなく似ている。


 さらに、このアニメは国家の安泰?を揺るがしかねない「多数の人々」についての問題提起も行っている。


 攻殻機動隊では、外国の治安悪化と政府の「エエかっこしい」から受け入れた「難民」たちが、東京湾上に作り出した海上都市を国家的問題として取り上げていたが、2010年程度の日本では、問題となるほどの難民は存在しないため、神山はニートを同様の集団として扱おうとしている。



 そして、セレソンたちの何人かは、案の定、「日本を正しい方向へ導く」ために安直なフェニックス作戦(かぶらや命名)を行おうと画策している。

 これは、神山の師匠筋である押井が映画「パトレイバー2」で竹中直人演じる自衛隊関係者に語らせている「日本を一度、焦土と化して火の鳥のように再生させる」計画と同じだ。

 人工的な災害で人減らしをし、ダウンサイジングした小さな国家としてのやり直しを謀る……実行可能であるだけに、その安直な発想は鼻につくが、反面効果的ではあるだろう。

 一方、オトナの視点でこの作品を見て、興行的にウマイと思うのは、鋼の錬金術師の「等価交換」同様、(あまり意味は無いものの)ワンフレーズで物語を代表させる言葉を定着させたことだ。

「ノ(ウ)ブレス オブリージュ」あるいはAIのジュイスが最後に付加する「ノウブレス オビリージュ 今後も世界の救世主たらんことを」などは、DVDのCMなどでも使いやすく、そして、おそらくは、若者たちが、これまであまり知らなかったフレーズとして、以後、ジョーク的に使われることになるのだろうな。

 願わくば、彼らがその本来の意味に気づいて、その意義に目覚めんことを……

 なんせハガレンの「等価交換」の時はひどかったモンな。
 「等価交換」を、あたかも熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)のように考えて、同じ「マス」でないとイレカエが効かないといった誤った使い方をして得々としている子供たちのなんと多かったことか。まあ、そう思わせた制作者側も悪いのだが。


 それはともかく、

 この物語で面白いのは、セレソンたちが、何に金を使っているかが、他のセレソンたちに筒抜けであるということだ。

 だからこそ、主人公の青年は、他のセレソンによるミサイル攻撃による被害を、先回りして最小限にできたのだ。
(しかし、現状の日本のシステムでは仕方がないとはいえ、防衛システムコンピュータのハッキングを利用してミサイルを誤射させる、レイバー2の頃から進歩していない方法を使ったことは少し悲しい)

 その意味でも、主催者は、このゲーム(と主人公は思っている)を、お遊びとしてとらえている可能性が高いともいえる。


 それにしても、いくら考えても、たかが100億を渡して「日本を導け」とは常軌を逸している。

 複数のセレソンが協力して資金をあわせてるならまだしも(それでも1000億程度だ)、成功した一人以外すべて死、というシバリがそれを不可能にしている。


 今後、この物語がどこに進むかはわからないが、おそらくは、ダウンサイジングを目指すグループたちと、それを防ごうとする主人公の青年との戦いが主になっていくのだろう。

 そして、最後には、全てを束ねるフィクサー、亜東才蔵あるいは彼の残した精神的亡霊との闘い、ということになるのだろうな。

 なぜなら、主人公の滝沢 朗は、若き日の後藤隊長(パトレイバー)いや、より正確には、公安9課の荒巻大輔課長(攻殻機動隊)に他ならないのだから……

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2009年3月 8日 (日)

大人になったら……




「子供は小さい大人ではなく、子供という異人種なのだ」という認識は、近代になってからの共通認識に近いものだと思いますが、身近な子供について、現在の彼らが異人種で、突然「オトナ」に変身するとなどとは、到底、わたしには思えません。

 やはり、彼らは、今の面影、考え方を保ちながら、大きくなっていくと思うのです。

 もちろん、人生を変えるような衝撃的経験をすれば、オトナになって、「昔の面影がないなぁ」ということになるでしょうが、そうでなければ、オトナはあくまでコドモの延長線上の生き物です。


 だからこそ、しばらくあっていない子供と何年か経って会うのは、楽しみでもあり不安でもあるのですね。


 そこいらに居る子供(失礼!)ですらそうなのです。


 まして、その子供が「独特の人物」であれば、期待と不安はいや増してしまうに違いありません。


 昨日、2007年制作のOVA「鬼公子閻魔」を借りてきました。

 「ドロロンえん魔くん」のアダルトバージョンです。

 確か、初版コミックの最終話にも、大人になった閻魔がでてきていたと思いますが、設定はそれとだいたい同じです。


 ドロロンにあった「コミカルさ」を廃して、妙にワルっぽいえん魔と意地の悪そうな雪子姫、悪党面のカパエルが登場します。画像↑参照


 出てくる事件も陰惨なものばかり。

 なんというか、リメイクされた「妖怪人間ベム」っぽい作りなのですね。

 全四巻、観てみましたが、あまり面白くはありませんでした。



 わたしが個人的に期待しているのは、荒木飛呂彦氏の「魔少年BT(ビーティー)」です。

 ご存じの方も多いでしょうが、荒木氏は、コミックに、大人BTのラフ・スケッチを書いているのです。

 それが、どことなく、あのディオ・ブランドーに似ていて、ひどく魅力的に見えるのですね。

 荒木氏はもう、過去の「波紋」や「手品トリック」(これは今も作中に使っていますが)とは決別して、あらゆることをネタにできる「スタンド」能力に夢中のようですから、バオー来訪者(スミレ大人版)もBT(大人版)も、書かれることはないでしょう。


 ただ……多くのキョショーたちが陥った、自分が生み出した全てのキャラを「連環」させたくなる衝動に荒木氏がとりつかれてしまえば、ひょっとしたら、そういったキャラクタを見ることができるかもしれません。


 自分が、別々の作品で作り出したキャラクタが、実は、一つの世界で一緒に活動していたことにする、アレです。

 そういった、オールスター作品が、本当の意味で面白いかどうかはわかりませんが。

 やっぱり、作家生活の最後に、「オレが作った世界はひとつだったんだ。スゴイぜオレ」と、自分の作り出した世界全てを肯定したくなるんだろうなぁ。



 その昔、友人がいった「至言」をわたしははっきり覚えています。

「バイオレンス・ジャック、終わって見ればデビルマン〜終わって見ればデビルマン〜」

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