銀幕のこと(映画感想)

2016年2月21日 (日)

コロしてもいい奴 ~最強ゾンビハンター~

 映画専門チャンネルを何気なく流していると、いつの間にか、この作品が始まり……唐突に終わっていました。

 タイトルのとおり、ゾンビ映画です。劇中ではイーターという呼称でよんでいましたが、ま、内容はゾンビですね(ZOMBIEだから、本来の発音は、昔風のソンビィー?)。

 わたしの好きな邦画「Zアイランド」でも、言っていましたが、ゾンビは分類すると、宇宙線(あるいは何かの軍事実験による放射線)が降り注いで生まれるもの(ナイト・オブ・ザ・リビングデッドあるいはカジノゾンビ系)と、ウイルスによって生まれるもの(バイオハザード初期型系)、寄生虫による動きが素早くバイク乗車できる系(バイオハザード4型)などがあるのですが(劇中では、「速いやつ」「遅いやつ」とも分類)、この「最強~」は、新型合成麻薬をキメ過ぎるとなってしまうタイプのようで、動きは早いものの、乗り物は使えないというゾンビ設定のようでした。

Zombie

 上のポスターでも分かるように、ド真ん中で斧をかついだ男ダニー・トレホ(メキシカンの筋肉オヤジ、B級ゾンビ映画の定番:フロム・ダスク・ティル・ドーン、マチェーテ他出演多数)がトップ・クレジット、しかしながら主演は、トレホの半分の大きさもないマーティン・コッピング↓です。

 なかなかの二枚目なのですが……

Zombi2

 お約束の、ヒロインとのB級お色気シーンで裸になると、腹回りが妙にぶよぶよタプタプなんですね。トレホの「老いてまだまだ筋肉質!」な身体と比較すると、どうにも情けない気がします。

 余談ながら、日本の男性役者のほとんどが、裸になると貧相な身体でがっかりするのに対して、(筋肉信仰のある)英米役者は、その多くが、しっかりと筋肉の乗った良い身体をしていることが多いですね。

 先に見たキングスマンでも、エグジー役のタロン・エガートンが、ぱっと見、こんなトッポイ(死語?)ギャングを怖がる弱っちい小僧風なのに↓、

174722

 脱いだら、はち切れんばかりの筋骨隆々さで、スーツを着ても似合わないほどであったので、驚くよりも、違和感を感じてしまいました。

 とりあえず、ダニー・トレホの勇姿を拝める予告をどうぞ。

 しかし、ゾンビ映画は、もはや一大ジャンルとして、大盛況の様相を呈していますね。

 マトリックスのトリニティ(キャリー=アン・モス)主演の、50年代黄金期のアメリカが舞台のコメディ・ゾンビ映画「ゾンビーノ」や、

 ワシントンD.C.のホテルで見た「ドーン・オブ・ザ・デッド」↓

 それ以外にもブラッド・ピット主演の超大作「ワールド・ウォーZ」や(ウは宇宙船のウ、ならぬZはゾンビのZ!)、

 この映画のオチは、「オオカミは病気の獣の肉を食べない」的なハナシで、なんだかハナをつままれたような気分になった記憶があります。


 少し傍系の超B級映画「アンダーグラウンド」(同名の名作映画もあるから注意)、

 ハズしがちに見えて、実は直球勝負の品川ヒロシ監督、哀川翔主演「Zアイランド」など、いろいろありますね。

  予告をごらんになればわかるように、(ゾンビ映画にはお約束の)親子愛あり、自己犠牲あり、ちょっとだけお色気あり、と手堅い一品に仕上がっています。

 そういえば、哀川翔は、かつて浅野忠信と組んで「東京ゾンビ」という佳作にもでていました。

 「カジノ・ゾンビ」は、ラスベガスでゾンビ状態が勃発したらどうなるか、という話で、ヒロインが、性格の悪い悪女というのが目新しいところです(わたしは好きです)。

 

 上でも紹介した「Zアイランド」では、鶴見辰吾が、「娘のためにオレは死ぬ!」という、近々公開のシュワルツェネッガー主演の「マギー」↓みたいな役どころを印象的に演じていましたね。

 自覚はないものの、わたしはゾンビモノが好きなのでしょう。

 いや、わたしだけではなく、世間の人もだいたい好きでしょう、と、思っていたら……

 「ワールド・ウォーZ」については、広告でおもしろい話があるんですね。

 ポスターでも予告でも、この映画が、ゾンビ映画であることを見せないようにしていたというのです。

 わたしは、公開時の様子を知らなかったのですが、つまりゾンビ映画であることを喧伝(けんでん)してしまうと、観客動員に響いてしまうと考えられたのですね。

 え、ということは、ゾンビって、日本では人気がないの?

 わたしなどは、「ゾンビ」モノであると知れば、とりあえず、いかにB級臭が漂っても、観る映画の候補にしてしまうのですが……(って、ゾンビモノが好きってことですよね。自覚がないなんて、よく言うヨナー)。

 そういえば、ケビン・コスナー主演の「ワイアット・アープ」も、西部劇であることが伏せられて宣伝されていたそうです。

 って、そもそもワイアット・アープ、ドク・ホリディ、クラントン兄弟、いやOK牧場(OK Corral)の名前を知らない人がいるというのが不思議なのですが、ともかく、二枚目俳優コスナーの名につられて映画館に足を運んだ女性が、「これって西部劇だったんだ」とノタマッタそうな……


 そのように、日本の一部に(いや、わたし以外の良識ある日本人のほとんど、か?)ゾンビ映画を好まぬ勢力はあるにせよ、ハリウッドのA級B級を含めてのゾンビ映画の隆盛を考えれば、世にゾンビ映画の種は尽きマジ、アメリカ人の多くはゾンビが好きなのでしょう。

 そこで、なぜゾンビ映画を好む人がいるかを、わたしなりの偏った考えでまとめると……


●その1

 「ヒトは(本能的に)悪い奴がバッタバッタとやられるところを見たいモノなのだ」

 非難を覚悟で書かせてもらえば、ピンはショッカーの戦闘員、魔神ドルゲのアントマンからキリは、桃太郎侍の斬られ役まで、主人公によって、「寄らば斬るぞ」とバッタバッタと千切っては投げ、チギッテは投げ~と、情けも問答も無用に殺される場面に、なぜか我々、いやわたしは、胸がスクところがあるのは確かです。

 ハリウッド映画においても、かつては、インディアン(無知によるひどい呼び名ですが)、つまり本当のアメリカ人(ネイティブ・アメリカン)を、白人ばかりの騎兵隊が、スプリングフィールドやコルトなどの「進んだ」兵器で、トマホークなどの(原始的で劣った)武器を用いて意味不明におそってくる(もちろん侵略者を撃退するためです)野蛮人な彼らを片っ端から撃ち殺すのが当たり前の「西部劇」が大量に作られたものでした。

 あるいは、奇声をあげてバンザイアタック(特攻)を繰り返す(んなワケはないでしょう)、頭のおかしい極東蛮族を蹴散らす米軍プロパガンダ映画なども作られました。

 しかし、今や、彼らネイティブや肌の黄色いアジア人にも人権があることが常識となって、オオッピラにそんな映画は撮ることができなくなった。

 しかし、殺しまくるカタストロフ映画の需要は絶対にある。

 どうするべきか?

 そこで登場したのが、救いの”神”としての「ゾンビ」です。

 ゾンビなら、どんなにむごい殺し方をしても大丈夫。

 だって、もう死んでいるんですから。

 

 コブラじゃないけれど、「もうそれ以上死ぬことはあるまい」ですよ。

 さっきまで人格者だった人物が、ゾンビになったとたんに襲いかかってくるというのも、絶望的コペ転(死語?)で、いっそ爽快です。

 人間である時に、悪人だったヤツがゾンビになったら、それこそケンタイ(オオッピラ)にブチ殺すことができる。

 まるで、読売巨人軍の「番場蛮」↓のように、鼻の穴をふくらませて、「あーイー気持ち」な気分ですよ(意味不明)。

Banba

 そういった、イケナイ衝動が自分の中にあるのは分かる。

 だから、そういった衝動を、映画やゲームで代償させてスッキリするのは良いコトなのではないかとも思うのですが、逆に、寝た子を起こす、そういった映像や刺激を提供するのはイカンのではないか、という意見も分かります。

 これは難しい問題です。



●その2

「誰もいないくなったショッピング・モールや店舗で、(罪悪感なしに)品物を取り放題に奪い去る爽快感を得たい!」

 ゾンビ映画のほとんどすべてに、「生きていくため」に「仕方なく」、ゾンビだけがウロツク巨大ショッピング・モール(このシチュエーションを最初に考えたのはドーン・オブ・ザデッドだと思いますが、ウマイ考えです)や高級店、あるいはスーパーに入り込み、空のカートに品物を取り放題にとって回る「王侯貴族的買い物」(ショボい王侯ですが)シーンがあります。

 これが、まあ、(おもに米国の中下流階級の)庶民の夢なのでしょうか(日本のゾンビものでこのシチュエーションは見たことがないような気がします)。

●その3

先走って上で書いてしまいましたが、

「ゾンビ化という「一瞬の立場の転回」の恐怖が「恐ろしくも魅力的」で、それを見たい。

 愛しかった、恋しかった、尊敬していた人々が、たったの「ひと噛み」で、こっち側から「向こう側」にいってしまって、自分を襲う敵になってしまう恐怖は、恐ろしくも魅力的であるのでしょう。

 自分自身も、いつ向こう側にいってしまうか分からない訳ですから。

 これを逆に描いたのが、「Xメン ファイナル・デシジョン」でした。

 クライマックスで、超能力者同士が戦う中、「超能力を治療する薬(つまり能力を奪う)」を仕込んだ弾丸が飛び交って、それに当たった者たちが、ツキモノが落ちたみたいにションボリとなってしまうんですね。

 あれはあれで、恐ろしいシチュエーションでした。


 とりあえず、3つほど、ゾンビ映画隆盛(ホントなのか?)の理由を考えましたが、もっと、ほかにあるでしょうし、それほど単純ではないかも知れません。


 ただひとついえるのは、今後も増え続けるであろう「Z映画」を、わたしは見続けるだろうということです。

p.s.

 ああ、そうだ。

 「最強ゾンビハンター」の予告を観てから本編をごらんになったあなたは、キョーガクの事実を知ることになると思います。

 この映画の予告・コピーの、カリオストロ公爵的な「言うことやることすべてウソ!」というジジツを!

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2016年2月15日 (月)

実写はベツモノ ~進撃の巨人(しょのいち)~

 

 この作品については、原作は一通り目を通していますが、それほど好みではないので、特に映画を観るつもりはありませんでした。

 しかし、あまり映画の評判がよろしくないので、逆に興味をもって、先にレンタルされた「進撃の巨人~反撃の狼煙(ノロシ)~」の三話分を観て、そのクドサにゲンナリしたものの、映画なら~狼煙~よりトクサツがましなんじゃネ!と思って先週、ブルーレイを借りてきて観てしまいました。

 そして、以下はそれについての感想なのですが、この際、進撃~について考えていることも少し書かせてもらおうと思います。

 まず、原作についてですが……

 巨人という自然災害にも似た「絶対災害状況」に人々を投げ込んで、その反応を記そうとする、そういった手法自体は、よくあるものだし悪くないと思います。

 例えていえば、バイオレンス・ジャック冒頭の関東大震災勃発場面などですね。

 まあ、永井豪畢生(ひっせい)の傑作シーン(とわたしは思っているのです)と比較するのは酷だとしても、地獄に棲むといわれる巨大な人呑鬼(じんどんき=人喰い鬼)を、SF設定で未来に持ってきて、さらに群れで出現させ、多数のヒトが「生きながらにして喰われる」というショッキングな画でアイキャッチするという手法は、ご存じの通り、日本だけではなく世界的にも通用して大人気になったわけですから、素晴らしい考えであったと思います。

 まあ、個人的に、画の迫力や緊迫感、恐怖感は、今やギャクマンガの様相を呈してきた「彼岸島」シリーズの初期の巨大オニ出現の方が上だと思いますが……

 一時、指摘された、人間側がとる「戦略上のアナ(あり得ない戦術)」は、気にはなりますが、それは仕方がないと思います。作者は万能ではありませんから、準備不足もあれば得手不得手もある。

 それより、わたしにとって「進撃~」を苦手作品にしてしまったのは、ところどころに散在する観ていてキツくクドい描写、たとえば、ハンジの意味不明なオーバー・アクションやサシャのイモ頬張りシーンなどですね。

 あのように、学者が研究熱心のあまり狂ったようにオーバー・アクションになるなんて、(ギャグマンガを、ただ真似るデキの悪いコントか、クドウカンクロウの映画でしか観ない)実際には病的でない限りほとんどないので、それほどまでに、キャラクターのかき分け(あるいはキャラを立たせること)は難しいのだなあ、と気の毒になります。

 いや、もちろん、オーバーアクションをウリにしている小劇団ならばいいんですよ。わたしは好きではありませんが。
 世界の雰囲気(セカイカン、ではなくね)が、オーバーアクションで統一されているなら。
 他の人間がフツウに話しているのに、突然、ハンジだけがテンション高くて違和感が強すぎるのですね。
あの映画の流れの中で、実写的にそれはいらないでしょう。

 サシャが芋を飯を腹一杯喰いたいがために、ほぼ口減らしとして軍に入れられるのは、実際に、先の大戦の貧農などでもままあったようですからわかります(もっとも、現実においては、入隊後は、ホメられ育った世代には信じられない、漢字一字で書けば「無理編にゲンコツと書く」といわれたほどの人格否定、鉄拳制裁オンパレードだったわけですから、進撃ワールドとは違いますが)。

 それはおそらく大食漢、つまり漢(オトコ)だったから、ありえた訳で、女性にその役を振るのは、男女平等の未来軍といえども、なんとなく違和感がある。

 いや、美しい少女が、無心に握り飯を口いっぱい頬張って食べ続けるシーンは、かつてNHKの山本周五郎短編集などでも印象的に使われてましたし、あるいは、作者諫山創氏も、そういったものから影響を受けて、ある種ガス抜き的な役割として(本来は、シリアスさをますために使うべきだと思いますが)原作に配置したのだとおもうのですが、実写化にそれはいらないでしょう。

 ほら、忙しいのに、カレーを口いっぱい頬張ってるのは、モモレンジャーではなくキレンジャーだったじゃないですか(って、ゴレンジャーもよく知らないくのに知ったかぶり)

 しかし、なんといっても、わたしに決定的な違和感を感じさせたのは、巨人襲来という絶対状況に陥った人々の反応です。

 信じられないほど恐ろしいモノがやってきた。

 人間の力では対抗できない、あそこで喰われている、こちらでも喰われた、だったら、他人のことなんか気にしてらんねぇ、どけどけ、早く建物に逃げ込め、逃げ込んだら、すぐに戸を閉めろ、他人のことなど知ったことか、誰だって我が身が可愛いんだ。

 子供連れの女性を押し退け、老人を蹴り倒し、目を血走らせて、丈夫な建物へ飛び込む。

 こういった安易でステレオタイプな人間不信への決めつけ描写が不快で到底受け入れることができないのです。

 安っぽい、人間性を蔑む描写は、自分の狭い了見と浅薄(せんぱく)な経験を基に、頭の中だけで恐怖を想像し、人々の動きをシミュレートする幼い思考の発露です。

 現実は、そんな安っぽく単純なものではありません。

 みなさん、お忘れですか?

 多くの映像が残っている、あの恐ろしい津波が襲ってきた時に、人々は、他人を押し退けて自分の身を守りましたか?

 中にはそういったこともあったでしょう。

 しかし、その多くは違った。

 事実は、歴史が証明しています。

 ベトナム戦争では、ベトナム人の子供を守って仲間に撃たれた米兵もいる。

 平常時の自分の醜い部分を見つめ、それを拡大することで、極限状態のヒトの行動を描こうとすると、どうしても、中二病臭い、というより、薄っぺらな人間不信描写になるのですね。

 個人的に、緊急時に、「奇妙に利他的な行動をとってしまう」ことがあるのが、「ヒトの恐ろしさである」とわたしは思っているので、緊急時に泣き、叫び、喚き、ヒトを押し退け、と平常時に想像できるストーリーは、なんとも浅薄すぎるように思うのです。

 どうにもペラペラに見える。

 同じ極限状態なら、先の彼岸島シリーズの方が遙かに肉迫して感じますね。

 もちろん、何度かそういったことが続き、優しく頼もしく、人を助ける人が、何人も目の前で巨人に喰われるのを見ることで、「善人なのは立派だけど、俺は、ああはなりたくない」と、利己主義を固めることもあるでしょうし、太平洋戦争の戦中・戦後の動乱期にはそういったことも多かったでしょう。

 しかし、進撃の巨人は、「最初の一撃目」で、それを出すからいけない。

 それをするから、残酷描写も、深みのない薄っぺらな虚仮(コケ)脅かしに見えて、萎えてしまうのです。

 だから、好きになれなかった。

 その中にあって、唯一、共感できたのは、幼い頃に、エレンとその家族によって助けられた数少ない日系人(それとも、はっきり日本人だった?)ヒロイン、ミカサの「どんな時でもエレンを守る」という鉄の意志と、それを支える筋肉と反射神経、運動能力の高さ動きの美しさです。口数が少ないのもいい。

 あたかも、TOS(スタートレック・オリジナル・シリーズ)で、カーク船長を、陰で密かに支え続けるバルカン星人のスポック副長のモデルが日本の武士であったように(だからスポックも身体能力が高く、口数が少ない)。

 さらにいえば、わたしにとっての松本零士最高傑作「セクサロイド」のユキ7号のように。

「シマ、わたしの愛しい人、私も日本の女……あなたは私が守る」

 もちろん、旧弊な男女意識を持つエレンは「男が女に守られるなんて御免だ」派ですから、現実的に能力差からミカサに救われることが続いてフラストレーションが溜まったころに、例の「エレン巨人化」が起きるわけです。

 ここに至って、特殊能力で力関係逆転化。

 ま、もちろんそんなに単純ではないのは、読まれた方はご存じでしょうが。

 しかし、流れ、設定、つまりキモとしてはそういったところでしょう。

 それが、ところが、なんたることか……これも映画をごらんになられた方はご存じでしょうが、映画では、ミカサの心情がまるで違っているのです。

 もう、言い尽くされているでしょうから、手短に書きますが(できるかどうかココロモトナイけれど)……

 ざっくばらんにいえば、最初は恋人どうしでキスもする仲なれど、巨人襲来時「押すない突くない(河内音頭ふう)」「赤んぼ守れ」で、やっさもっさしているうちに、結果的にエレンがミカサを見捨てたことに。

 二年後、行方不明だったミカサが戦士として成長しカムバック。

 コンサートで綿飴を作るしか能がなかったピエール滝は酔っぱらいに……(ウソ)

 すっかり汚物を見る目でエレンを見るミカサ。服を引っ張りあげるとワキバラには巨人のハガタが……

 ハダカにハガタ、うまい!

 は、ともかくとして、あの「死んでもあなたを守る」派だった原作ミカサが「汚物目」ミカサに改変ですよ。

 いったいどんな力が、監督、樋口真嗣氏と脚本を書いた町村智宏氏&渡辺雄介氏にかかったのでしょう。

 いずれにせよ、彼らに、その改変を行わせたものたちは万死に値すると思います。

まさか、

「オトコに尽くすオンナなんてダサ古いし、女性がピカピカする時代にはそぐわない(政府与党のマニフェストにあった女性がカガヤク~は、いつのまにか一億総活躍~にとって代われれましたが)、これからは、アクション映画でも、女性が主役で好きにオトコを選べるのよ」

という趣旨でイケ、とか誰かいったのか?

 だったら、ほかのオリジナル作品を作れ!

 「快進撃の兄シキシマ」とかね。

 進撃~の唯一の美点を消したらなにも残らんだろうが~

 わたしですら、そんな感想を抱いたのですから、熱心なファンにとって、その心痛いかばかりか、お怒りお察しします。

 ま、映画の感想は、そんなところですね。

 まこと、物語の映画化は、運が90パーセント超です。

 監督、脚本、プロデューサー、スタッフ、役者、そのどれが欠けても、こんなふうになってしまう。

 うまく映像化できても、そのデキは、原作比60パーセントどまり。

 その逆は、ほぼ皆無(というか、その時、映画は原作と別作品扱いとなる)。

 すまじきモノは宮仕え、ならぬアニメ原作の実写化、ということでしょうか。


p.s.

 そうそう、辛口評論で知られる町山氏が、自身の脚本による本作についてどう思っているかをまとめたサイトがあったので、紹介しておきます。

町山智浩は実写版『進撃の巨人』をどのように評価しているのか?

 まあ、町山氏が映画公開時にいいわけめいた事をしたのは、ナンだと思いますが、彼にとってみれば、初の長編映画脚本執筆で「狂犬に噛まれた」ようなものなんでしょうね。

「反撃の狼煙(第三話)」のバカップルのクドスギル話を撮るような、作品とはベクトルの違う監督と、「俺にとってはアニメが本物なンで、実写は好きにやってください、あ、でも、これとこれとこれは原作と変えてヨ」などと、わがまま言い放題の原作者、原作の流れを理解してない制作者のヨコヤリ、などの板挟みになって身動きがとれなくなった。

 それと、少し驚いたのは、町山氏が、「あの(素晴らしい)映画のこのシーンとこのシーンと、このシーンを翻案して使った(つまりパクった)」と言っているらしいことですね。

 わたしも、小説を書いたりしますが、その時に「あの映画のこのシーンを使おう」なんて、決してしません。
 どちらかといえば、その雰囲気を残しながらも、違うテイストで話をつくろうとしますし、それがもの作りの人間としての、最低限のルールだと思うのですね。

 いっそ、クエンティン・タランティーノのように、過去作品へのオマージュのあまり、切り貼り作家として認知され、突き抜ければよいのですが、駆け出し脚本家(批評家としては中堅でも)中途半端にそういった作品の切り貼りシーンを挿入するのは卑怯だと思います。

 その作品を観た人が、なんとなく、あの映画のあのシーンの影響をうけてるの「カモ」と思うのがよいさじ加減だと思うのです。

 まして、作品の評判の悪さを見越して、あらかじめ「自分は」こういった意図で脚本を書いた、と言い出すのは、すくなくとも「ものを作る」人の態度ではないでしょう。

 まあ、ひとの作品でメシをくう評論家としてはぴったりの態度、なのかもしれませんが。

 そういった、(自分だけが勝手に思っているものを含めて)良い過去作品を、自作品に引用する理由は二つあると思います。

 ひとつは、オリジナルが最高のシーン・演出だから、ぜひ再利用して、同じ感動を自分の作品で味わってほしい、「ん?オリジナリティ?んなもん、面白ければインだよー。だってこれはいいシーンなんだから」という気持から使ってしまった、

 もう一つは、自分の作品に自信がないために、名作の焼き直しを使い。「え、これってあの作品のあのシーンを使ってるんだよ、だから、その良さをわからないヤツがおかしいんだ」と、作品の良さを正当化するために使う。

 と、自分で書いていて、そんなバカモノがいるはずがないと気づいて書くのをやめました。

 じゃあ、これを基(ベース)に脚本書きました、って、どういう思考経路で口にするんだろう?

 わからないなぁ。


 ちなみに、町田氏と仲の良いライムスター宇多丸氏がどう評価しているかは、ココでまとめられてます。

 わたしの文章などより、映画の演出、音響、演技などについて、細かく指摘されていてよっぽど勉強になりますねぇ……映画駄作化の町田氏の責任追求はカラッキシですが。

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2016年2月 9日 (火)

惜しい!  ~ファンタスティック・フォー~




 この作品は、昨今、流行の「リブートもの」です。

 個人的には、この過去作品の「リブート化」なるものと、その言い回しが好きではありません。

 

 

【リブート】

リブートは、シリーズにとって核となる要素とコンセプトを整理することで、あらゆる「不可欠でない要素」を取り除く事を可能にし、シリーズをやり直す手法である。リブート作品は、シリーズの初期タイトルをあまり知らない消費者にも簡単に触れることができる


と、いうことらしいのですが、不可欠でない要素」を取り除くって、何なんですか?

 わたしは、「細部にこそ神が宿る」「枝葉末節がその作品にフィギュア(綾)を与える」と信じたいものなので、どうにも信用ができない。

 要は、かつての名作を、今フウに改変してシリーズの初期タイトルをあまり知らない消費者を取り込みたいだけなんでしょ、って思ってしまうのですね。

今回の「ファンタスティック・フォー」も、幼少時に観た「宇宙忍者ゴームズ」↓、

宇宙忍者ゴームズ

 そして、実写映画化され、続編も作られた前シリーズ↓の人気にあやかって作られたリブートモノなのです

 便宜上、今回の作品を「ファンタスティック・フォー(リブート)」と表記することにします。

 ああ、そうだ。これまで書かずに来ましたが、これは明記しておくことにしました。

「本ブログの映画感想はネタバレ全開で書いております。また、偏った視点による感想が多いので、読まれたことで気分を害される方にはあらかじめ謝罪しておきます」

 さて、「ファンタスティック・フォー(リブート)」を観ました。

 あの、アキラへのオマージュたっぷりの佳作「クロニクル」の作者ジョシュ・トランクの作品であり、ゴームズいやファンタスティック・フォーのリーダー、リードと「ムッシュムラムラ~」岩石人間ガンロック(=THE THING)ベンが幼なじみ(確か原作コミックでは大学の同期だけ)であるという設定から、クロニクルのような友情物語を期待しつつ………

 もともとは、映画館で観ようと思っていたのですが、評判がいまひとつだったので、見送っていたのです。

 実際に視聴してみると……やはり皆さんの評判は正しい。

人間関係の描き方もイマイチですし、多くの方が指摘されているように、戦闘シーンで、突然異世界に移動してしまうのも制作者側のご都合主義丸出しでどうにもノレない。

 しかし、いろいろと良いところもあるのです。

 はじめに期待したように、ゴームズとガンロックが小学校以来の幼なじみで、後の巨人ガンロック(=ベン)の方が小柄というのがいい!

 そして、ベンが小柄ながらイキがよく、インテリのゴームズを常にサポートし守る姿勢も好ましい。

 だからこそ、一緒に異次元移動マシンを開発したヴィクター・ドゥームの

「アポロを月に送った科学者の名は残らないが、月に行ったアームストロングの名前と言葉は歴史に残った」

という言葉に触発されて、リードが、わざわざベンを呼び寄せ一緒に異次元へ行こうとする気持ちはよくわかる。

 夜中に突然呼び出されたベンが、驚きながら、

「俺はボディーガードだから一緒に行くよ」

と二つ返事するのも、後の事故を考えると悲しくなります。

 やがて事故が起こり……いや、他のメンバーは良いんですよ。

 身体がゴムのように伸びたり、透明になったりバリアを張ったり、意図的に発火したり空を飛んだり、カッコいいじゃないですか。

 でも、ベン、ガンロックは違う。醜い岩石の巨人です。

 ハルクに似ていますが、ハルクなら、まだブルース博士でいられる時間がある。

 でもガンロック(シャレの効いた日本語名とは違い、本当の英語名はTHE THINGですよ!)は、いつもいつの時でもオールウェイズ岩人間。

 おそらく、マーベルのスーパーヒーローの中でも、最低のシチュエーションでしょう。

 事故の後、異世界から帰ったガンロック(ベン)は、ゴームズ(リード)を恨みます。

 当然でしょう。わざわざ出かけなければ、怪物にならずにすんだ上に、リードは見かけはフツウなんですから。

 しかし、しかしね。ここでベンには、自制してほしかった。

 悔しい、辛い、文句を言いたいけれど、あえて運命を甘受するという態度を示してほしかった(現実ではなく映画ですから)。

 そういった状況であれば、なおさらリードはベンを元に戻すために、死にものぐるいで闘うことになる、そういうシチュエーションがほしかったのですね。

 さっきは文句を言って当然と書きましたが、最後は自分で行くと決断したのでしょう?

 誘った奴が悪いって、それは覚悟がなさ過ぎる。

 そういった点を微調整すれば、今のような酷評はなかったかもしれません。

 悪玉のヴィクターの性格設定が不明瞭なのも残念です。

 ヒューマントーチを黒人おっとアフリカ系アメリカ人にするのは、今のハヤリで良いとしても、紅一点のスーをコソボ難民に設定するのは、なんだかアザトサを感じてしまいます。

 容姿の点でも、前作でスーを演じたメキシコ系アメリカ人の血を引くジェシカ・アルバのほうが魅力的だったように思います。

 現在の評価から考えて、おそらく続編は作られないでしょうが、弔いの気持ち?でDVD(ブルーレイ)レンタルを借りてごらんになっても良いかもしれません。

続きを読む "惜しい!  ~ファンタスティック・フォー~"

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2016年2月 4日 (木)

マナーが紳士をつくる  ~キングスマン~

  しばらく前のことですが、マシュー・ボーン監督のキングスマンを観ました。

 スタイリッシュな現代の英国スパイを描いた佳作です。

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  まず、真の主人公ハリー・ハートを演じるコリン・ファースがいいですね。

  しっかりした筋肉に支えられたスーツのシルエットもよいし。

  とても、「リピーテッド」の狂信的な男と同じ俳優が演じているとは思えません。

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 とはいえ、物静かな中に狂気を感じさせる微妙な表情は健在ですし、物語の中でも、精神をコントロールされたとはいえ、卓越した戦闘能力で数十人の村人を殺害しながらも、その重みにつぶされずに、事実として冷静に受け止め留演技は、彼ならでは、といえるものかもしれません。

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 世界的IT企業を作り上げ、環境対策にも熱心だったリッチモンド・ヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン:写真中央)は、ある時期、人類の未来に絶望し、野球帽をかぶって、人同士を殺し合わせ、人類抹殺(人口を減らす)を計画しはじめます。

 それを阻止するために、父同様キングスマン候補になるのが、エグジー(タロン・エガートン:写真右)です。

 かつて、彼の父は、キングスメン最終試験で、ハリーを救って死んでいるのです。

 ただ、難をいえば、エグジーの肉体が鍛えられ過ぎているような気がすることですね。スーツが似合わないほどに。

 あと、キングスマンの候補になるほどの夫を選んだエグジーの母が、後に、言動からみてチンピラ・ギャングと思しき男の愛人になっているのが不思議ではありますが、それは「そういったことはよくあるんだよ」、というマシュー・ボーン監督の意思表示なのかもしれません。

 彼女が夫を選んだのではなく夫によって選ばれただけだった。立派な男だが女性を見る目がないということもよくあることだ、ということなのでしょう(もちろん素晴らしい女性だが男を見る目だけはない、ということもよくある)。

 最後に、カモシカの義足(刀)を持つ暗殺者ガゼルもなかなか魅力的です。

 義足でありながら、健常者以上の戦闘力を持つ彼女を見て、2011年の世界陸上で健常者とともに400メートルを走ったオスカー・ピトリウスを思い出しました。

 ガゼル(カモシカ)ではありませんが。刃(ブレード)のように薄い義足の素晴らしい弾力性を使って健常者以上の早さを誇り、故にブレードランナーと呼ばれ、他の競技者から「あれは反則では」と言わしめたオスカーは、最後は妻殺しの殺人者として告発されてしまいました。

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 ラストの誘拐された王女との絡みなど、多少、下品な表現があるのはキック・アスの監督ならでは、です。

 いろいろ癖はありますが、スタイリッシュなスパイ・ギミック、戦闘シーン等、観て損はない映画だと思います。

 そうそう、首に仕掛けられた爆弾が爆発して人々の頭が吹っ飛ぶシーンが、妙にイメージ化、ソフト化、ソフィスティケーティッドされていたのには笑ってしまいました。

 キック・アスの監督だから、まとも?に、もっと多くの血が流れると思っていたのです。

 ここらで予告編を↓

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2016年1月29日 (金)

ひょっとしたら最強? ~アントマン~

 この作品、数ヶ月前に劇場へ観に行っていながら、そのことをすっかり忘れていました。
 今回、レンタルが開始されたようなので、思い出して書いてみることにします。
 わたしたちの世代なら、アントマンといえば、悪の手先として奇声を発する、顔にぐるぐる渦巻きを描かれた下部戦闘員でした↓。

Baoromu_2

 超人バロム1 怪人ドルゲの戦闘員アントマン
 しかし予告↓を観ればわかるように、

 この「アントマン」は、その他大勢、いわゆるモブキャラではありません。
 
 今回のアントマンは、犯罪者なのです。

 って、ドルゲの戦闘員とあまりかわらない気が……

 いえいえ、バロム1のアントマンが、マグマ大使の「人間もどき」の焼き直しであるのに対し、今回のアントマンは、犯罪者ではありますが、その罪は義侠心から生まれた犯罪であり、妻を知人の男に奪われたものの、いまも大事に思う愛娘(まなむすめ)のキャシーのために、更正しようと努力する善良パパなのです。

 だから、マーベルのヒーローになることができる。

 今回のアントマン(スコット・ラング)は(予告をみれば自明なように)拡大、縮小が自在なスーツを着用しています。

 1.5センチの男はヒーローになれるか?

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 映画の日本版キャッチコピー(ヤクルトとコラボレーションしていたようで、映画館でクリアファイルをもらいました)ですが、いかにアリやカブトムシなみにパワーがあっても、それではヒーローになることは不可能です。

 アニメ「ミクロイドZ」--いや、それはチャンピオン連載時の手塚治虫による原作のタイトルでした。アニメ化時は「ミクロイドS」ですね(ZがSに変わったのは、スポンサーがセイコー:服部時計店なのに、ZだとライバルのCITIZENを彷彿させるからダメという大人の事情)。

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 ともかく、ミクロイドのヤンマやアゲハやマメゾウのように、身体が小さいままなら、いかにすぐれた武器を持っていようとも、強いとは思えない。実際彼らは弱かった。

 体重が軽いからです。

 ん?しかし、開発者の説明によると、E.ハミルトンのキャプテン・フューチャーの時代から言われていたように、「モノを小さくするために原子間の距離を縮めている」ようなので、大きさはともかく、質量(オモサ)は同じということですね。

 だから、元のサイズのパワーを1.5センチになっても維持していて、人を殺すことも可能、だそうですが……その設定は少し安易すぎますね。

 それだと、後で出てくるファルコンとの戦闘で、彼の風によって吹き飛ばされるのがおかしい。身長1.5センチ、体重90キロの存在が、少々の風で吹き飛ぶはずが無いのですから。

 実際、映画を観ていても、それほどパワーがあるようにも見えない。

 やっぱり、アントマン弱そう!

 しかし、光速エスパーならゆっくりと、ウルトラセブンでさえ、巨大・縮小化する際にはある程度ラグ・タイムが存在する「体格変化」を、このアントマンは一瞬で行えるのです。

 こうなると、生物相手なら、ほぼ無敵となります。

 縮小化して体内に飛び込んで元のサイズにもどるだけで、殺傷することができるからです(実際に映画でも類似のことをやっています)。

 「身体を縮小することで攻撃をかわし、もとに戻して殴る」、という変形ヒット・アンド・アウェイも効果的です。

 スーツ開発者、ピム博士を演じるマイケル・ダグラスが、すっかり老けてしまったのは、ロマンシング・ストーンを劇場で観た世代としては少し悲しいですね(もうひとりの主人公、白いドレスのワシャウスキーC・ターナーはもっとすごいことになっていそうですが……)。

 体を縮小化ということから、まず「ミクロの決死圏」、そして「ミクロキッズ」を思い出したのですが、1990年頃に、原作者スタン・リーが映画化を考えていたそうですが、当時ディズニーが「ミクロキッズ」を作り始めていたので実現できなかったそうです。

 そう考えると、マーベル映画化人気の波に乗って、ついでに作られた作品ではなかったのですね。

 あと、この映画を観ることで、日本の政府がいうところの「再チャレンジの国」であるアメリカでも、やはり犯罪者の更正は難しいのがよくわかりました。経歴を知られた途端にクビになったりする。

 ムショ帰り差別によって困っている犯罪者に、その特殊技術を欲しがって、もとの犯罪者仲間が近づいてくるのはお決まりですが、アントマンで近づいてくるルイス、デイッブ、カートは、どちらかというと、96時間の独身バーベキュー仲間(実は戦友)に似た感じですね。

 途中、「アベンジャーズ」のファルコンと闘うのは、少し蛇足な気もしましたが、空を舞うファルコンと大小自在のアントマンの戦闘は見応えありました。

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 ラスト近く、制御を失って際限なく縮小し、原子レベルを超えて小さくなる……という設定は、ありがちではありますが、原始によってできている身体が原始より小さくなるって、どういうこと?と、タイム・パラドックスならぬ、サイズ・パラドックスを感じてしまいます。

 まあ、これもお約束の「ご都合主義的な起死回生」策で復活するのはマーベルらしい決着のつけかたでしたが。

 残念なのは、アントマンと、部下のアリたちとの(感情的な)関係がよくわからないことです。

 馬代わりにまたがる羽アリとの間に、何らかの信頼関係があるのはわかるのですが、それが、どういう感情に基づく(虫には感情などないという、作り手の判断かもしれませんが)のかが不明ですし(カガクテキに操っているだけというには献身的に見える)、その他大勢のモブ・アリによる、魁!男塾の「万人橋」のように、つながって橋をかけるシーンでも、アリの気持ちもスコットの気持ちもはっきりわからないため感情移入ができないのです。

 ただ、エンディングで、アントマンの「キャプテン・アメリカ」への出演が示唆されるのは、うれしい驚きでした。もう少し、アントマンの拡縮自在のアクションを観ていたいと思ったからです。

 人によっては、アリのような細かいものが、多数うごめく映像が苦手な方もおられるでしょう。

 そういった「ウジャウジャ」感に耐性がおありならば、ごらんになって損はない作品だと思います。

 自称、格闘のプロであるピム博士の娘のパンチが、まるで腰の入っていない「マトリックス式キアヌ・パンチ」なのも、しばらくすれば慣れてきます。


   

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持たざる者の叛乱 ~予告犯~

 「明日の予告を教えてやる!」
 それが、予告犯シンブンシのキメ台詞です。

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 ここからは、映画を観られたことを前提として書かせていただきます。
とりあえず、予告です。
 
 映画「予告犯」は、力なきものの世界に対する抵抗いや要求の物語です。
 ネットを使って犯罪予告を発信し、実行する。
 法律では白黒をつけられないが、確かに悪いことをした者を裁き、それをネット中継する。
 ツイッターで、暴行をうけた女性に「ウカウカついていくからいけないんじゃネ」といった男はシンブンシから元気玉をブチ込まれる。
 ネット利用してターゲットを選び、制裁シーンをネット中継する、とは、いかにもイマドキの若者が行う反逆です。
 被る仮面がシンブンシであるのもいいですね。
 彼らによけいなものに金をかける余裕はないからです。
 
 それに、公器を唱い、雑誌はともかく自分たちだけは軽減税率に食い込んで記者の年収一千万を守ろうとする大手新聞を使って素顔を隠すことこそ「持たざる者」のすることでしょう。
 しかし、一見、世の中に対する不満を、他者へ制裁を加えることで晴らしているように見える彼らの行動には、隠された目的があった。
 映画を観られた方ならご存じであるように、それは、若くして死んでしまった彼らの友人ヒョロ:ネルソン・カトー・リカルテの骨を、会いたがっていた行方知れずの父のもとに届けることです。
 人によっては、ゲイツがコトの顛末(リカルテを父のもとに届ける)を確認しないまま死んでしまうのは無責任だし、あり得ないような気がすると言っていますが、それは、持たざるものの現実を知らない人間の意見ではないかと思います。
 刑事:吉野絵理香も絞り出すように言っていました。
 「なぜ、他人に頼らなかったのか?」と。
 犯罪を犯し自殺するくらいなら「なんでもできる」はずだと。
 しかし、それは映画の中でゲイツの幻に言わせているように「そう思えるだけ幸せ」なのです。
 十等星程度の明るさでも、未来に光が見え、守るべき家族、立場、矜持がほんの少しでもあったなら、彼女の言葉は正しいでしょう。
 しかし、彼には何も無かった。頼るべき何ものも無かった。
 ゲイツは頼らなかったのではなく頼ることができなかったのです。
 おそらく、彼は他人に頼るには、他者に絶望し過ぎていたのでしょう。
 他人に絶望し、自分に絶望し、未来に絶望した男。
 ゲイツのただ一つの望みは、ビデオで言っていたように「友達がほしい」でした。
 産廃作業所で知り合った仲間たちと「友達」になって、彼の夢はかないましたが、その友達のひとりヒョロが、父に会いたいと言い残して死亡し、その死を愚弄した産廃業者の石田清志を激昂したメタボが殺した時に、彼の絶望はピークに達したのでしょう。
 今までも順風な人生からは逸脱していたけれど、これで俺の人生は「もう」終わったと。
 この「終わった」という絶望感は、味わったものにしかわからない。
 ああ、終わった。
 もう自分には何もない……
 過去には何も残らず、未来に光明は見えず、寂寥の孤独があるのみ。
 本当は、そんなことはないのですが、今までぶつかってきた世間の壁の厚さと、人の世の薄情さが、それ以外の気持ちを生み出させないのです。
 その気持ちはわかる。本当にわかります。
 わたしも、大きく頷いてその絶望の流れに身を任せたくなることが頻繁にある。
 が、その気持ちの流れに逆らい、足を踏みしめて、あえて「それは間違っている」といいたいのです。
 刑事吉野とは違う意味で。
 蓮っ葉(本来女性用ですが)な言い方をすれば、ゲイツは、誰でもよいから、つきあう女を見つければよかったのですよ。(問題発言を承知でいわせてもらえば)顔もプロポーションも、いや性格すら問わず誰でもよいから。
 多くの男は、そばに女性がいるだけで、その体温を感じるだけで、生きる希望になり得るのですから。
 でも、彼は恋人を持たず、子供を作らず、いやそれどころか、おそらくは不犯のまま逝くことを選んでしまった。
 誰かひとりでも良いから、暖かく接してくれる人物に出会えば、彼の未来は変わっていたかもしれない。
 世の中は冷たいだけではないという反例をひとつ手に入れさえすれば。
 「反例」、それはなにも哲学的な命題を否定するだけのものではありません。
 白いカラスを一羽目にするだけで、カラスは黒いという人の心象風景も一変してしまうのですから。
 とはいえ、ゲイツ(たち)は、産廃管理人をオリエント急行殺人事件のように全員で殺し、そろって自殺しようとして……最後にやることを思いついたのです。
 はじめに書いたように、ネルソン・カトー・リカルテの父親を捜し出し、彼の骨を渡すこと。
 そして、その後に死ぬ。
 つまり、少なくともゲイツの中では、自殺することは決定事項で変更はないのです。
 持てる能力と、インターネットカフェ店長用のワンタイム・パスワードを使って、できるかぎり、最後の目標に近づくだけです。
 おそらくは、そのついでに、自分たちが生きた証として、シンブンシとして、社会に爪痕を残そうと、「予告犯」というキャラクターを作り出したのでしょう。
 正体を隠し、企業倫理を忘れた食品会社に火を放ち不埒な男に鉄槌を下し、政治家の命をねらうことで、警察のみならず、公安を巻き込んでネルソン・カトー・リカルデについて調べさせた。
 繰り返しますが、ことゲイツに関していえば、彼はすでに生ける死人であり、その猶予期間の間に、リカルデの父親を国家機関を使って探させただけなのです。
 やれることをやったあとで、実際にどうなるかは問題ではない。
 要するに、死ぬ前の自己満足に過ぎないのですから。
 さらに、一度は共に死のうと誓った仲間たちの、生への強い執着を知った彼は、仲間には黙って、自分ひとりが主犯になるように策を立て実行します。
 しかし、彼自身の死への覚悟は何も変わりません。
 自分が死ぬことで、仲間の罪が軽くなるのも計算のうちです。
 ただ、原作とは違って、刑事たちに「奥田に脅かされてやったんだろう」と言わせて、国家権力がすっかり騙されたような演出をしてしまったのは失敗だったように思います。
 警察はそれほど馬鹿ではありませんから。
 映画を観たあとで、WOWWOW制作の「予告犯 ーTHE PAINー」も観ました。
 東山紀之主演の、ネット上で裁判を行う異色作です。時系列としては、映画版のしばらく後の話でしょうか。
 映画ほどの感動はありませんが、これもなかなかの力作です。
 公式サイトはこちらです。

DVD


コミックス(全3巻)


DVD 予告犯 ペイン

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やせ我慢は美徳それとも悪? ~母と暮らせば~

 わたしは、映画とは、日常と違うものを見聞きし、2時間ばかりの時間だけでも、辛き浮き世の憂さ晴らしをするためのものだと考えています。
 ですから、気分が暗くなるような、精神を病んだ人物ばかりが登場するような映画はなるべく避け、そういった小説も極力読まないようにしています。
 戦争映画は基本的に観ません。
 かつての景気の良い(一方的な見方による)勧善懲悪戦争映画なら娯楽作品として観ることもありますが、最近の、小難しく悲惨な戦争映画(一時流行ったベトナム戦争ものや、ユダヤ人迫害に関するもの)、とりわけ負け戦の映画はいけません。
 日本の戦後は敗戦で始まったのですから、当然、邦画の戦争映画は負け戦ばかりです。(1945年、日本は「敗戦」したのに、いまは「終戦」と表されることが多いですね。敗と終ではまるで意味合いが違うのですが)
 とまれ、負け戦を観て楽しい気分になどなるはずはありませんから、わたしは邦画の戦争映画はほとんど観ないのです。
 終戦がまだ昔話でない1950,60年代には、「兵隊やくざシリーズ」や「愚連隊西へ」などのパワーのある破天荒な戦争映画もありましたが、戦後が遠のく(という表現は、妙な気がします。いまも戦後なのだから)につれて、あの苦しさ辛さ忘れまじ、の気持ちが強くなりすぎたためか、1950年代より悲惨な戦中・戦後映画が多くなったような気がします。
 これは奇妙なことです。戦後すぐの頃は、実際に家族を亡くし戦闘に加わっていた人々が大勢いたはずなのに。
 戦争の現実を知っているからこそ、戦後の苦しさも含めて、それを吹き飛ばすパワーが必要であったのでしょうか。
 あるいは、そのころの高度経済成長期の高揚感と相まって、「景気の良い」戦争映画が作られたのかもしれません。
 ともかく、わたしは戦争がらみの邦画は好んでは観ないのです。
 近年は、戦後70年の節目前後ということで、邦画では戦中戦後映画が多くつくられていますが、それらも観るつもりはまったくありませんでした……が、
 今回、付き添いで、「母と暮らせば」を観にいくことになってしまいました。

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 事前の情報として知っていたのは、戦争で死んだ息子が亡霊(幽霊?)となって母の元に帰ってくる話、ということだけだったので、ハムレットよろしく青白い顔をした息子が母親と陰気な会話を交わすのか、いや、「男はつらいよ」の山田洋次監督だから、もっとコメディタッチに仕上げ、「異人たちとの夏」風にするのかも、とりあえず我慢して観るしかあるまい、と思いつつ、椅子に座りました。
 そして2時間後……
 泣きました。
 泣いてしまいました。
 しかし、その涙は戦争の悲惨さ(おもに長崎原爆投下の)によるものではありません。
 胸に重く響いたのは、ひとりの女性の「やせ我慢の生き様」でした。
 山田洋次監督の 「母と暮らせば」は、幽霊とその母との交流を描くスーパーナチュラルな話ではなく、ひとり残されて、辛くて苦しくて寂しい女性が、それでも人に頼らず「やせ我慢」して、醜く生きることを拒み、身を潔く処する映画でした。
 さらに誤解を恐れずいってしまうと、この映画は、戦争によって愛する者すべてを失った女性が、最後に残った「身内」、息子の婚約者を自分から解放し、自身をも孤独から解放するために、息子の幽霊を「作り出す」話なのです。
 わたしは、やせ我慢を描く話が大好きです。
 小松左京氏の作品で一番好きなのは「やせ我慢の系譜」だし、なにより「ハードボイルド」とは、やせ我慢の二つ名であるのですから。
 上で、母が息子の幽霊を作り出した、と書きました。
 この映画は、幽霊の息子と母との交流を描く話ではありますが、幽霊は実在しません。
 息子が蓄音機を聴くところや、ラストの描写(子供が幽霊に気づくところ)など、幽霊を肯定するような描写はありますが、「母と暮らせば」において、幽霊は母親の内部にのみ存在するのです。
 それは、死後三年を経て、息子生存の希望をなくし、自分を犠牲にして義母に尽くそうとする息子の許嫁を解放した女性が、「モウコレデヨイダロウ」と自分の生に区切りをつけるために、脳内に生み出した影なのでしょう。
 もうすこし踏み込んで書けば、主人公の母親はキリスト者であり、自殺することはできないため、死を自分のもとへ引き寄せる一助として息子の幽霊を生み出した、とみることもできます。
 さらに、後ろめたさを感じながら、つい弱さから手を出していた闇物資をあきらめるためにも、幻の息子の叱責が必要だったのでしょう。
 この映画は、現代日本では禁じられていることを、ふたつ破っています。
 「過度に我慢すること」と「自裁すること」
 今の時代、「我慢はしちゃだめだよ。自分をさらけ出しなさい」「決して自分で死を選んではいけない」は、定番フレーズです。
 しかし、夫を亡くし、長男を南方で亡くし、最後に残った次男を長崎の原爆投下で亡くし、唯一自分が頼れる許嫁を手放さなければならなかった女性。
 周囲の人々は優しくはあるけれど、皆、生きることに精一杯で、彼女にまで気を配ることはできないが故の孤独。
 それでも、彼女は泣き言をいわず、ひとり赤ん坊をとりあげ(彼女は産婆なのです)、部屋を片付け生活を続けます。
 しかし、日々絶望は深まっていきます。
 その身は潔く行きたいけれど、このまま生きれば、世間に泣き言を言い、生活に負けてしまうこともあるだろう。
 優しくしてくれる、生活力のある闇屋の男に身を任せることもあるかもしれない。
 放射能の影響か、体調も悪い。
 そんな彼女が自分の生に区切りをつけるため、あるいは体調不良による死の予感を感じたからこそ、人生の最後に笑顔を取り戻すために息子の幽霊を生み出した……
 それが「母と暮らせば」という映画ではないでしょうか。
 ラストの展開と演出は、少し宗教色が強すぎるとも思いましたが、わたしは、人が死ぬ間際に見る極楽浄土は、脳において最後まで機能する部分が見せる幻覚だと信じる者なので、ああいったこともあるだろうと納得できます。
 しかしながら……
 もし、手塚治虫の「ブラックジャック」のエピソードのように、彼女が、その身体に、同時に爆発にあった家族の手足を移植されていたなら、一人で暮らしながらも、手に話しかけ、足に話しかけ、内臓に話しかけながら、ひっそりと暮らしていけたかもしれないと思うと、つくづく人は孤独では生きていけないのだという思いを強くしました。
 基本的に、お茶の間で、母と息子の二人に昔話を語らせるものがたりなので、二人劇としての舞台化に向いていると思います。

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どこにも行かず永遠にそばにいて ~EVA(エヴァ)~

 EVAは、2011年スペインの映画です。

 詳細に関してはこちらを観ていただくとして……

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 主人公アレックスが、雪の街に帰ってくるところから映画は始まります。
 全体に白い感じのする美しい映像が好みです(雪の街だから当然ですが)。
 冷たく美しいスペインのサンタ・イレーネ。
 しかし、なにより心を奪われたのは、天才ロボット学者である主人公(2041年の近未来の話なのです)が連れているガトー(猫)グリスです。
 グリスは、ただの猫ではありません。
 自律型(非合法だそうです)ロボットのプロトタイプとして彼がつくったロボット・ガトーなのです。
 雪の寒さをものともせず、優雅に気ままに、そして軽やかに金属性の体をくねらせて主人公のあとをついていくペット。

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 アレックスは、ある事情から故郷スペインを捨て、長らくオーストラリアで暮らしていたものの、大学の恩師から、彼が大学を去る時に残していった自律型ロボットの研究案を実施する(人間らしい感情を作り出す)ために呼び戻されました。
 いったん大学に寄って、研究は自宅ですると宣言した彼は、科学者であった両親がなくなったあと空き家になっていた生家(すばらしく魅力的な半地下の研究室がある!)に帰ります。
 感心したのは、グリスが庭を横切る際に小さな墓に気づき、少し首を傾げて通り過ぎる演出です。
 その、いかにも子供が作ったような素朴な墓には「グリス」と書いてありました。
 家に入ると、暖炉の上の写真立てには、アレックスとダヴィッドらしき子供が猫を抱いている写真が……
 グリスは、アレックスが子供の時に飼っていた猫だったのですね。
 だから、彼は、自身の研究分野である自律型ロボット(自らの意志で気ままに動くロボット)のプロトタイプに猫を選んで、いつもつれて歩いているのです。
 この「死なない猫」、いつまでも気ままにわがままに側にいてくれる相棒、抱きしめても、その内部に命の砂時計が落ちる音を感じてしまって悲しくなる生身の猫とは違う安心感のある猫、この存在がわたしにはうれしかったのです。
 確かにその後に登場するタイトルの少女EVAも、わがままでコケティッシュで魅力的ですが、人間がコケットさで(グリスが雌であろうとなかろうと)猫にかなうはずもなく、どちらかを選べと言われたら、わたしは迷わず猫をとります。
 物語は、今や弟を超えてロボット研究の第一人者になった兄ダヴィッドと、かつての恋人ラナ、そしてその娘であることがわかったEVAを軸に進み……
 悲劇的に幕を閉じます。
 エンディングに、どことなくアシモフの「I,robot」の「うそつき」の影響を感じました。
 余談ながら、兄ダヴィッドの設計になる執事ロボット・マックスも魅力的です。
 弟は、天才的なセンスで未来の生物「自律型ロボット」を作ろうとし、一方、兄は実用的で堅実な執事ロボットを完成させていたのですね。
 あと、大学におけるロボット実験の描写も魅力的で、自立(自律ではなく!)ロボットを研究した学生時代を思い出しました。(もちろん、わたしの実験など児戯にも等しいものでしたが)
 わたしも、映画の中で使われた、ホログラムで空中投影されたクリスタルのようなニューロンブロックを組み合わせて神経プログラムをつくりたかった。
 スペイン映画は久しぶりに観ましたが、スペイン語の響きは美しくて良いですね。
 英語や日本語(それと少しドイツ語も)は会話と意思疎通の手段ですが、スペイン語はイタリア語に似て(実際似ていますが)、音楽的でいかにもガイコクゴという感じがして好みです。

 予告編を張っておきます。


 


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2016年1月28日 (木)

寝れば消える  ~リピーテッド~

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 アウトドア派の合い言葉「焼けば食える」に似ていますが、そんな話ではありません。
 エイリアン、プロメテウスのリドリー・スコット監督、ニコール・キッドマン主演、英国王のスピーチ、キングスマンのコリン・ファースが脇を固めるミステリー映画です。
 タイトルからわかるように(原題は「眠りにつく前に」ですが)、一日が過ぎて、一晩眠ると前日の記憶を忘れる高次脳機能障害の女性が主人公の映画です。

 予告を張っておきます。




 ブルーレイで観ましたが、結論からいうと、なんとも物足りない映画でした。

なぜ、面識のない精神科医が、お節介にも自分から彼女に接触し、ビデオカメラではなく、パナソニック製LUMIXカメラを渡し、その動画機能でビデオ撮影をさせるのか?

 研究のため、というだけでは納得がいきません。原作ではもっと詳しい説明がなされているのかもしれませんが。映画ではわからない。
 とにかく、92分という短尺のせいか、至るところが舌足らずの印象をうけました。

 最後に、もう一度、驚愕の大どんでん返し(って若い人にはわかるかな)があると思っていたのに、とんだ肩すかしの映画でした。

 ただ……

「わたしの記憶は寝れば消えてしまう。わたしは40歳、もう人生の半分は生きてしまった……」とカメラのビデオに語りかけるキッドマンの演技はよかった。

 なによりもまず最初に、「美しい」という形容をつけられ続けたニコール・キッドマンが、美しさは充分残しながらも「もう人性の半分は過ぎた」中年女性を「演じ」つつ、「実際」に加齢による年齢を感じさせるのが少しもの悲しくなる映画です。

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江戸ラブ ~百日紅~

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 百日紅 ~Miss Hokusai ~ 公式サイト
 以前、池波正太郎氏を指して、祖母が若き頃を生き、幼かった彼に話し聞かせてくれた「江戸の世相」のカプセル化を、狂おしいまでの情熱でもって行った作家と書きました。
 今回、紹介する「百日紅」もそういった作品のひとつです。
 作者の杉浦日向子は、NHKで放送された「コメディーお江戸でござる」の江戸風俗解説者として知られた漫画家で、死の数ヶ月前に、病を得て番組を降板する時すら、「念願だった豪華客船で世界一周旅行に行ってきます」と洒落っけを示した数寄者です。
 そういった作者の描く原作を「クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲」の原恵一監督が撮ったのが「百日紅」です。
 主人公は葛飾北斎の娘お栄(応為)です。
 百日紅は、東海道五十三次を描く十数年前、まだ五十過ぎの北斎と、その娘の二十三歳のお栄との破天荒な絵師の暮らしぶりを描く作品……ではなく、原監督の狙いは、彼らの目と生活を通じて「生きた」江戸の世界を描くことでした。
 夏から始まり、秋、冬、春、と江戸の四季を経験する。
 暑いときは暑いなりに、寒いときは寒いなり、気候のよいときは、思い切りのびをして。
 江戸の風物を織り込みながら、原監督は、北斎とその娘の生活を描いていきます。
 その合間に、体が弱く、生まれつき盲目の妹、お猶(なお)との交流があり、そして、そこにあることが当然であるかのように、自然に描かれる怪異現象。
 これは、原監督の考えではなく、もともとの作者の考えなのでしょう。
 江戸時代には、日常のすぐとなりに怪異現が共存していたのです。
 わたしもそう思います。
 物が燃え、星が光り、物体が上から下に落下するのは物理現象ですが、幽霊が、見え聞こえるのは認知現象ですから。
 皆が「それが存在する」という共通認識を持った世界なら、人々の間に「それ」は存在するのです。
 たとえば、誰かが部屋の隅を指さし、「ほら、あそこに何かいる」と叫ぶと、その場にいた人々には、なにか茫洋としたものが見えます。
 さらに「赤い着物を着て小さな子供よ」と言葉を継げば、ぼんやりとした固まりは、その言葉通りに、小さな子供の形をとるでしょう。
 いや、これは、昔は、人の感覚を誰かの言葉でミスリードできるということを言ってるのではありません。
 もちろん、意図的にそうすることは可能だったでしょうし、それを使って人心を掌握するものもいたでしょう。新興宗教のように。
 しかし、そういった意図はなくとも、皆の間に共通の「怪異認識」が根強くあれば、何かのきっかけで、それが発動し、用意に怪異現象が実在してしまうのです。
 つまり、現代とは違い(と信じたいですが)、江戸時代には、ごく自然に妖怪が存在した。
 ですから、江戸時代を描写するのに、安易に、現代の科学万能主義者を登場させてはいけないと思うのです。 主人公あるいは登場人物の「先進性」を示して、キャラクターを立てたいがゆえに、まるで現代人がタイムスリップしたような言動をとらせるのは、安易すぎると思うのです。
 その点、「百日紅」では、主人公を含めて、怪異現象は自明のものとして容認されています。
 それが、存在するものとして恐れず共存していくのです。
 「百日紅」は、江戸の風景、風物詩ともに、さまざまに現れる怪奇も楽しめる映画です。
 
 最後に、下の「予告編」でも言っていますが、
「どうってことない暮らしだけど、結構楽しくやってる……」
 昨日を振り返らず、明日を憂えず、今日ある些細なことを楽しむ。
 これこそが、政変、天変地異、流行病、不安だらけの近世を生きた江戸庶民の本音だったのでしょう。
 この作品は、人との死別も含めて、日々を楽しむ「最良の江戸」を示してくれるよい作品だと思います。




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