血液型のはなしを書こうと思いましたが、その前に、2009年の始まりにあたって、最近、考えていることを少しだけまとめておこうと思います。
まだ、完全に、まとまっていませんので、ホコロビがあるかもしれませんがお許しを。
先日、このブログでも書いた「イマドキの子供とかけて……」にも関係しているはなしです。
ご存じのように、明治期、国民の教育において「和魂洋才」なるものが唱えられたことがあります。
日本のココロに海外の技術とでも申しましょうか。
本年冒頭にあたって、わたしが提唱するのは「文魂理才」です。
和魂洋才と比較すれば、すぐにおわかりと思いますが「文化系の魂に理系の知識」ということです。
なぜ「理魂文才」ではなく「文魂理才」なのか?
もちろん、両方とも大切で必要だと思います。
しかし、どちらがより必要かと考えたら「文魂理才」になりました。
日常生活においても同様ですが、特に専門研究の分野で「文魂理才」が必要な気がします。
理科系の人間は、際限ない試行錯誤と一瞬のヒラメキによって研究を行いますが、特に「ヒラメキ」の部分で幅広い知識と人間理解が役に立つと考えます。
対して文化系の人間は、仕事で、人生で、様々な判断をするとき、生き物が複雑な化学反応の結果としての生命体であり、あるいは建築物が素材の剛性の組み合わせによって卵の殻のように薄い地殻の上に、危うく建っていることを忘れがちのように、わたしには思えます。
もっと悪いことに、忘れているのではなく無視している場合さえある。
自分の体が内臓器官の集合体であることすら忘れている人も多い気がします。
病気になった時に初めて、自分も家族も、そして他者もイキモノであったと気づく。
まるで、社会生物である自分の頭だけが、宙に浮かんで生活している感覚です。
その感覚で、政治や経済、哲学を語るのは、大きな間違いだとわたしは思います。
科学的理解なくして、人間理解も、人間の行動の結果である経済も法律も理解できないと思うからです。
少し話はちがいますが、下世話な話をすれば、政治を語り、経済を研究し、人生を喝破(かっぱ)する知性ある人々の多くが、醜く太った体躯をしているのは、決して「忙しくて運動するヒマがない」からでなく、生化学の塊である肉体に対する根底理解が欠けているからです。
日本の経済の行方が分かっても、過労による肝臓の負担が、自分の命を縮めるという実感がない。
もちろん、ここで、わたしは健康に対する研究者の無精のみを取り上げている訳ではありません。
人生を生きていく上で、不完全とはいえ、人類が今まで手にしてきた科学知識を学ぶことは、必要不可欠だと思うのです。
簿記の記載や登記の方法、経理や法律の立法は、人間が作り出した便宜上の規則に過ぎません。
しかし、科学は、この次元の、この速度系の宇宙においては普遍の法則を体系化したものです。
19世紀以前の中世ならともかく、21世紀にあって、それを知らずして人を扱ってはならないと思うのです。(中世には魔女狩りなどのオロカな行いもありました)
そこまで大上段にふりかざさずとも、わたしの周りを見渡しても、文系の頭に理系の知識を持っているモノの方が、ずっと面白い。
もともと理数系で、「努力してコクゴの成績を上げた」という人間より、興味の幅が広く哲学的思索が深いような気がします。
ちょっと横道にそれますが、よく理科系で文化系の例として、医者で作家の名が挙げられます。
森鴎外しかり、北杜夫しかり、渡辺淳一しかり。
北杜夫などは、父親(斎藤茂吉)から「絶対理科系」の厳命を受けて医者にならされたようなので、少し違うと思いますが、わたしは、基本的に「医者で作家」の人々は理魂和才だと思うのです。(例外はあるでしょうが)
僧侶と医者は、人の生死にダイレクトに関わっています。
生老病死(しょうろうびょうし)に関わると、人生を深く思索するようになります。(例の首相に「生老病死」「老若男女」を読ませたいですね)
死は、人の最大の哲学命題です。
それを間近に目にすると、書かねばならないキモチがわき起こるとおもうのです。
わたしは、もっと看護士や介護士から作家が輩出されても良いと思っているのですが……
以上、まとめると、わたしは「文魂理才」、数学や理科などが好きでなくとも、知識として学習することをオススメします。
大人になってからでも。
だいたい、十代ごときで勉強に好き嫌いをつけて学習課目を絞るなんてもったいない。
よほどの適性と能力、それに運がなければ、大学以前に勉強が面白くなるなんてことは、ほとんどないように思います。
十代の勉強など、学問のトバクチに立ったばかりで、より深く先に進むための道具の使い方を学んでいるに過ぎないからです。
もちろん、適性としても、能力的にも、勉強が肌に合わない人もいる。
勉強よりも、職人として手作業の得意な人もいるでしょう。
そういった人は、違う道を選べきです(それでも、基礎的な学力は必要だと思いますが)。
そのためには、個人の意識だけでなく、社会的な法整備なども必要になるでしょう。
ブルーカラー及び職人に対する賃金の最低保障などの。
個人的に、外科手術などは、「現実の作業をする人オペレーター」と「それを指示するドクター」の分業制が良いと考えています。
手術(英語では正しくオペレーション)は、精妙な作業です。
運動能力と反射神経を要する。
勉強のできる医者に、それらふたつを兼ね備えているよう要望するのは酷でしょう。
彼らには、得意の勉強能力を使って、医学の知識と研究をしてもらえば良いのですから。
わたし自身は、おそらく文化系の人間だと思います。
理数系、とくに数学は苦手でした。
今、思えば、良い教師に恵まれなかったこともあったでしょうが、本当に適性があれば問題がなかったでしょうから、やはり向いていなかったのでしょう。
理系にすすみ、周りにリカケイとして生まれてきたような友人を持つと、その気持ちがつよくなりました。
しかし、曲がりなりにも理科系に進んで、不完全な体系ではあるものの、ここ50年で急速に進歩を遂げた現代科学を知り、数式とグラフと数値から結果を予測できるようになって良かったと思っています。
少しは科学が分かるようになった。
逆に、そういった知識を持たず、ただセルラー(携帯電話)を持たされ、整数論の基礎も知らぬままネットで暗号を使わされると、心中に漠たる不安が起こるのではないかと思うのです。
100年前とは違い、矢継ぎ早(やつぎばや)に新たな科学技術を用いて新製品が打ち出されてきます。
「ただ使うことができれば良い」というスタンスのままでは、心のスミで「ダマシにあうのではないか」と無意識に考えて不安が蓄積されていくのではないでしょうか。
不安の蓄積は精神を蝕む可能性があります。
それが、昨今のキレる人々の原因だ、などとはいいませんが、知識を持つことで、不安が少なくなるのは良いことではないでしょうか。
その意味で、人文系の職業につく人も基礎的な科学知識を持つべきだと思うのです。
というわけで、2009年、わたしは「文魂理才」をオススメします。