頭のよくなる勉強法

2009年2月 9日 (月)

立って勉強する

 最近の研究で明らかになったように「筋力をつけると学力はアップ」します。

 つまり、何かを学習するのに、筋力トレーニングをするのは有効だということです。


 しかしながら、そんなに一朝一夕には筋肉はつきません。

 一週間後、あるいは三日後に必要な勉強に、付け焼き刃の筋トレは間に合わないのです。

 こんな時は「シンクロ・マッスル学習」を行うようにします。

 これは、何かを暗記したり学習したりする際に、機械的単純運動をする、という方法です。

 たとえば、部屋を歩き回りながら、あるいは軽くスクワットをしながら暗記を行うわけです。

 特に、暗記の際は、声に出して自分の声を骨伝導で耳にしながら行うと効果的です。


 また、何かについて考える時、歩くのはかなり有効です。

 さすがに、暗記をする時は危ないので室内で行うべきだと思いますが、それ以外なら、散歩することは非常に効果的なのです。

 カントや西田幾多郎だって、だてに散歩しつつ瞑想していたわけではありません。
(時間に正確なカントが毎日散歩に行くのをみて人々は時計を合わせ、西田幾多郎が歩いた京都南禅寺→銀閣寺間の道は、哲学者の小径と呼ばれるようになりました)

 わたしの経験でも、小説のプロットやブログの内容を考えるために、行きつけの本屋まで早足で20分の距離を往復すると、驚くほどいろいろな考えが浮かぶのは確かです。


 そういった運動が面倒であれば、立って学習するだけでも効果的です。

 わたしも、よくグランドピアノの上にノートパソコンを置いて、立ったままブログを書いています。

 経験的に、立ったまま文章を打つと、座って行う作業の1.5倍ほどの効率があるようです。

 ぜひ、お試しください。

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2009年1月 7日 (水)

クイズ・ヘキサゴンよりヘキサフレックス

正月に実家へ帰った時、クイズ「ヘキサゴン(??)」(スペシャル番組)をやっていたので、おせちを食べながら観る機会を得た。

 ペンタゴンなら少しは知っているが、ヘキサゴンの知識は皆無のまま最後まで観たが、内容自体はナカナカ面白く、人々の心を掴むお手本みたいな番組構成とMCは参考になった。

 ただ、どこがヘキサ(6)ゴン(カッケイ)なのか分からなかったので、姉に尋ねると、「ヘキサっぽいことやゴンっぽいこともやっていた」と断言したのだった。

 彼女は、よく地上波バラエティを観ているのだ。
 
 おそらく視聴率を求めるあまり、小刻みに軌道修正をしたのだろうな。

 なんて、わたしが書くまでもなく皆さんはご存じなんでしょうね。

 わたしはあまりバラエティ番組を観ないのでわからないのです。
(バラエティで観るのは、テレビ東京系の「新説日本ミステリー」だけ。あれはいい!なぜそう思うかは別項で)


 個人的には、同じヘキサなら、芸能人が答えるクイズでアタマを鍛えるよりは、科学トイHEXAFLEX(ヘキサフレックス)を楽しんだ方が、良いような気がします。↓


 構造は単純明快、ピアノ線をパイプで繋いだだけのものです。

 が、単純なものほど奥は深い




 こんなふうに、イロイロと形を変えて遊ぶのですが、なかなかうまくいきません。

 しかしながら、製品紹介文にあるように「ミステリアスなパターンの『連続』変化には普遍的魅力」があります。

 販売サイトのレビューにもありますが、商品自体はチャチっぽく見えて、ちょっと高くね?という感じがするものの、触り始めると「不思議」と1時間ぐらいすぐに経ってしまうのですね。

 気持ちを落ち着かせるのにも向いているような気がします。

 やりすぎで疲れたら「机上のアートになる」というのも、なかなか良い。

 知人がやってきて、「それなに?」と尋ねたらこっちのもの。

 優越感タップリに紹介しつつ、様々な形に変化……できない、ナカナカに難しいのですよ。

 どこかで見かけられたら、ぜひ触ってみてください。

 ハリガネをクキクキする感触は、馴染むとなかなか良いものですから。

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2009年1月 1日 (木)

文魂理才のススメ 〜年頭にあたって〜

 血液型のはなしを書こうと思いましたが、その前に、2009年の始まりにあたって、最近、考えていることを少しだけまとめておこうと思います。

 まだ、完全に、まとまっていませんので、ホコロビがあるかもしれませんがお許しを。



 先日、このブログでも書いた「イマドキの子供とかけて……」にも関係しているはなしです。

 ご存じのように、明治期、国民の教育において「和魂洋才」なるものが唱えられたことがあります。

 日本のココロ海外の技術とでも申しましょうか。


 本年冒頭にあたって、わたしが提唱するのは「文魂理才」です。

 和魂洋才と比較すれば、すぐにおわかりと思いますが「文化系の魂に理系の知識」ということです。

 なぜ「理魂文才」ではなく「文魂理才」なのか?

 もちろん、両方とも大切で必要だと思います。

 しかし、どちらがより必要かと考えたら「文魂理才」になりました。


 日常生活においても同様ですが、特に専門研究の分野で「文魂理才」が必要な気がします。


 理科系の人間は、際限ない試行錯誤一瞬のヒラメキによって研究を行いますが、特に「ヒラメキ」の部分で幅広い知識と人間理解が役に立つと考えます。


 対して文化系の人間は、仕事で、人生で、様々な判断をするとき、生き物が複雑な化学反応の結果としての生命体であり、あるいは建築物が素材の剛性の組み合わせによって卵の殻のように薄い地殻の上に、危うく建っていることを忘れがちのように、わたしには思えます。

 もっと悪いことに、忘れているのではなく無視している場合さえある。

 自分の体が内臓器官の集合体であることすら忘れている人も多い気がします。

 病気になった時に初めて、自分も家族も、そして他者もイキモノであったと気づく。

 まるで、社会生物である自分の頭だけが、宙に浮かんで生活している感覚です。

 その感覚で、政治や経済、哲学を語るのは、大きな間違いだとわたしは思います。

 科学的理解なくして、人間理解も、人間の行動の結果である経済も法律も理解できないと思うからです。


 少し話はちがいますが、下世話な話をすれば、政治を語り、経済を研究し、人生を喝破(かっぱ)する知性ある人々の多くが、醜く太った体躯をしているのは、決して「忙しくて運動するヒマがない」からでなく、生化学の塊である肉体に対する根底理解が欠けているからです。

 日本の経済の行方が分かっても、過労による肝臓の負担が、自分の命を縮めるという実感がない。

 もちろん、ここで、わたしは健康に対する研究者の無精のみを取り上げている訳ではありません。

 人生を生きていく上で、不完全とはいえ、人類が今まで手にしてきた科学知識を学ぶことは、必要不可欠だと思うのです。

 簿記の記載や登記の方法、経理や法律の立法は、人間が作り出した便宜上の規則に過ぎません。

 しかし、科学は、この次元の、この速度系の宇宙においては普遍の法則を体系化したものです。

 19世紀以前の中世ならともかく、21世紀にあって、それを知らずして人を扱ってはならないと思うのです。(中世には魔女狩りなどのオロカな行いもありました)


 そこまで大上段にふりかざさずとも、わたしの周りを見渡しても、文系の頭に理系の知識を持っているモノの方が、ずっと面白い。

 もともと理数系で、「努力してコクゴの成績を上げた」という人間より、興味の幅が広く哲学的思索が深いような気がします。



 ちょっと横道にそれますが、よく理科系で文化系の例として、医者で作家の名が挙げられます。

 森鴎外しかり、北杜夫しかり、渡辺淳一しかり。

 北杜夫などは、父親(斎藤茂吉)から「絶対理科系」の厳命を受けて医者にならされたようなので、少し違うと思いますが、わたしは、基本的に「医者で作家」の人々は理魂和才だと思うのです。(例外はあるでしょうが)

 僧侶と医者は、人の生死にダイレクトに関わっています。

 生老病死(しょうろうびょうし)に関わると、人生を深く思索するようになります。(例の首相に「生老病死」「老若男女」を読ませたいですね)

 死は、人の最大の哲学命題です。

 それを間近に目にすると、書かねばならないキモチがわき起こるとおもうのです。

 わたしは、もっと看護士や介護士から作家が輩出されても良いと思っているのですが……



 以上、まとめると、わたしは「文魂理才」、数学や理科などが好きでなくとも、知識として学習することをオススメします。

大人になってからでも。


 だいたい、十代ごときで勉強に好き嫌いをつけて学習課目を絞るなんてもったいない。

 よほどの適性と能力、それに運がなければ、大学以前に勉強が面白くなるなんてことは、ほとんどないように思います。

 十代の勉強など、学問のトバクチに立ったばかりで、より深く先に進むための道具の使い方を学んでいるに過ぎないからです。

 もちろん、適性としても、能力的にも、勉強が肌に合わない人もいる。

 勉強よりも、職人として手作業の得意な人もいるでしょう。

 そういった人は、違う道を選べきです(それでも、基礎的な学力は必要だと思いますが)。

 そのためには、個人の意識だけでなく、社会的な法整備なども必要になるでしょう。
 ブルーカラー及び職人に対する賃金の最低保障などの。


 個人的に、外科手術などは、「現実の作業をする人オペレーター」と「それを指示するドクター」の分業制が良いと考えています。

 手術(英語では正しくオペレーション)は、精妙な作業です。

 運動能力と反射神経を要する。

 勉強のできる医者に、それらふたつを兼ね備えているよう要望するのは酷でしょう。

 彼らには、得意の勉強能力を使って、医学の知識と研究をしてもらえば良いのですから。


 わたし自身は、おそらく文化系の人間だと思います。

 理数系、とくに数学は苦手でした。

 今、思えば、良い教師に恵まれなかったこともあったでしょうが、本当に適性があれば問題がなかったでしょうから、やはり向いていなかったのでしょう。

 理系にすすみ、周りにリカケイとして生まれてきたような友人を持つと、その気持ちがつよくなりました。

 しかし、曲がりなりにも理科系に進んで、不完全な体系ではあるものの、ここ50年で急速に進歩を遂げた現代科学を知り、数式とグラフと数値から結果を予測できるようになって良かったと思っています。

 少しは科学が分かるようになった。

 逆に、そういった知識を持たず、ただセルラー(携帯電話)を持たされ、整数論の基礎も知らぬままネットで暗号を使わされると、心中に漠たる不安が起こるのではないかと思うのです。

 100年前とは違い、矢継ぎ早(やつぎばや)に新たな科学技術を用いて新製品が打ち出されてきます。

 「ただ使うことができれば良い」というスタンスのままでは、心のスミで「ダマシにあうのではないか」と無意識に考えて不安が蓄積されていくのではないでしょうか。

 不安の蓄積は精神を蝕む可能性があります。

 それが、昨今のキレる人々の原因だ、などとはいいませんが、知識を持つことで、不安が少なくなるのは良いことではないでしょうか。

 その意味で、人文系の職業につく人も基礎的な科学知識を持つべきだと思うのです。


 というわけで、2009年、わたしは「文魂理才」をオススメします。

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2008年10月19日 (日)

The younger,the better. 〜第二言語学習〜

「子供は、本当に乾いた砂なのか?」

 みなさんは、どうお考えですか?

 砂といっても、味気ないとか、小粒であるといった例えではありません。

 多くの親たちが持っている、

「子供は、幼いほど、乾いた砂が水を吸収するかのように何でも学習することができる」

という考えの中で使われる「砂」です。

 つまり、The younger,the better. 

 それを信じて、たくさんの親が、子供に、ピアノ、ヴァイオリン、習字、そろばんは、さすがに少ないでしょうが、語学、特に英語を習わせています。

 まるで、自分が、そうしてもらえなかったことへの当てつけのように、幼児にナライゴトをさせているのを見ると、イマドキの子供って大変だなぁとかわいそうになります。

 とくに、英語の習得については、親の心の中に、自分がそうしてもらっていたら、何はなくとも、すぐに使えるスキルがあって後の人生が楽だったのに、という後悔めいた気持ちと、子供が、中学になった時に、わざわざ英語で苦労する必要がなくなる、という、二本柱が後押しして、習い事熱はさらにヒートアップするようです。

 これがヴァイオリンやピアノの場合だと、たとえ習わせても、よほど才能がないと、趣味にはなっても人生の大きな柱、つまり職業にはならないと考えるためか、熱はそれほど高くなりません。

 ここで、最初の疑問に戻ります。

 本当に、子供は乾いた砂のように何でも吸収するのか?

 わかりやすく、語学に絞って考えてみます。

 ここで、臨海期仮説(critical period hypothesis)という考えを引っぱり出しましょう。

 語学を身につける、母国語として自由自在に使えるようになるためには学習時期があり、それを過ぎたら不可能になる、という考えです。

 多くの親は、これを信じて子供に語学を学ばせています。

 たしかに、母国語(第一言語)として、使っているという気持ちすら持たずに使用できる能力を習得するという点では、臨海期仮説は有効です。

 ですが、外国語(第二言語)の習得となると、結構イイ大人になっても充分に可能であることは、数多くの例で証明されています。

 ここで、第二言語の習得とは、「コミュニケーション」の手段としての言語利用ができる、という意味です。

 つまり第二言語の学習において、臨海期仮説は有効ではありません。

 思いついたら、いつでも語学学習は可能なのです。

 ただ、その時点での環境が、習得度に大きく作用してきます。

 海外に住んでいるように、習得希望言語(英語など)が、日常的にしょっちゅう耳に入ってくる場合(外国環境と名付けます)は、「学習しているという意識なし」で、英語を獲得することができます。
 この場合は、年齢が若ければ若いほど有利でしょう。

 反対に、日本国内に住んで、一日のほとんどを日本語に囲まれて暮らしている場合(国内環境と呼びましょう)は、自然に外国語が耳に入ってくる、ということは考えられません。

 この場合は、「学習を意識して」語学習得を目指さなければなりませんが、そうなると動機づけの弱い幼児より、やらねばならないのだ、と自分を納得させられる大人の方が有利だということになります。

 子供はすぐに飽きて、集中力、持続力を欠いてしまうからです。

 さて、ヤラネバナラヌと決意した大人ですが、やはり外国環境の方が語学習得には有利です。

 そのためには、国内にいながら外国環境に近づける努力をしなければなりません。

 環境は、まあいろいろできるでしょう。
 普段から英語をポータブルプレイヤーで耳に流し込む。
 独り言を英語でつぶやく。
 英語を学びたいもの同士、英語で会話する
 英会話学校に通う。
など。

 わたしが外国に住む知人(日本人)たちから聞いたことから判断すると、一番大切なのは、

「それを使わなければ生活(仕事)していけない、という差し迫った必要性(Urgent Need)」 

です。

 そのため、定期的に近場の英語文化圏を中心に、飛行機の往復切符(できれば30日FIX程度の)をもって、ひとり旅をするのも良いでしょう。2,3日でもかまわないと思います。

 そこでは、道をたずねるのも、ホテルにチェックインするのも、ケンカすることにも切実な語学の必要性が生じるからです。

 肝心なのは、普段の学習時に、常にそういった差し迫った状況を頭に思い浮かべながら、ただ機械的に、単語とパターン会話の組み合わせで英語を話すのではなく、「ホントウニツタエタイコト」を英語で表す、表現者としての自分を意識しながら学ぶことです。

 あれ、随分始めのテーマからずれました。
 子供は砂なのか、でしたね。

 わたしは、「ヒトは、その思考を、習得する第一言語によって規定される」のではないかと考えています。

 言語はすなわち文化であるから。

 まあ、規定というと少しきついですから、なんとなく言葉のシバリにあっているということですね。

 日本語のように、文の最後に肯定否定がくる言語を使う国民は、優柔不断気味で、雰囲気で話すことが多い、とかね。

 しかしながら、以前、ギリシア語が論理的であるということを知って、ギリシア系カナダ人に、

「古代ギリシアで哲学が発達したのは、ギリシア語が、論理の構築に向いた語学であったからではないか」

、と尋ねたところ、

「自分も含め、知り合いのギリシア人は、それほど論理的ではないね」

と一蹴されてしまったことがある。

 実際はどうなんだろう。

 個人的に、歴史的に見れば、民族性・お国柄(くにがら)は言語に依っている点があるような気がする。

 確かにそんな気がする。いますぐに根拠は示せないけれど。


 そういった「言語規定説」が多少なりとも正しければ、「幼児期に複数の言語を同時に学ばせる」のは危険ではないだろうか?

 それは、アイデンティティの確立とも関わってくるような気がするから。

 3人兄弟で、真ん中の子が、兄貴体質と弟体質の両方を兼ね備えていることがある。

 アニキ的に責任感のあるところを見せたかと思うと、突然、弟のように甘えた言動をする。

 そういった大きな振幅の人間を、どう扱ったらよいか困ることがあるように、複数の国民性がランダムに出てくる子供がいたら、きっと扱いにくいだろうな。

 ともかく結論だ。

「確かに子供は砂である」

 どんどんいろいろなモノを吸収するだろう。

 だが、砂にも容量がある。
 コップ一杯分の砂に、バケツの水は入らない。

 ちまたで耳にする幼児教育でも、子供は乾いた砂だ、とばかりに大量の水を流しみ、結局オーバーフローしているような例を見ることがある。

 大切なのは、自分の子供の砂が、どのくらいの容量かを見極めながら水をふりかけることだろう。

 どうせ、わたしたちの子供なんだから、とんでもなく大きい砂場なわけないじゃないですか

 参考:慶應義塾大学教授 田中茂範氏 小論

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