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2016年2月

2016年2月23日 (火)

とりつかれた男 ~BIG BOSSに~

 恥ずかしいことに、わたしは、メタルギア・ソリッド1,3のファンです。

 メタルギア3をやりたくてプレイステーション2を買い、中古でPS1用メタルギアソリッドを買い、メタルギア4に惹かれてプレイステーション3を買い、どこでもやりたくてニンテンドー3DS LL本体とメタルギアソリッド3DSをセットで買い、と、もうドンファンに誘惑されて、小さな籐籠に駆け落ちの衣服をつめる小娘の気分……って、それは言い過ぎですが、とにかく、やりたいソフトがあるから、ハードを買わねばならないという、資本主義的ゲーム理論(うそです)に突き動かされて、つまらぬ出費をしてしまう大人げない自分が恥ずかしい。

しかし、よいゲームです。その操作性、視認性の欠点すら好きです。
ほとんど意味不明な3D化もユルス↓。



 まだ、若く、ゴタイマンゾク(この表現Xですか?)な頃のBIG BOSSがいい!↓

 (原爆実験の影響により、もう子供をもてない身体ではありましたが)

 このたび、近くのイオンで普段は通り過ぎる缶飲料コーナーにて、ふと目についたのが、

Mgsb_001_cs1w1_x720

 本当はTシャツがほしかったのですが、分不相応(いろんな意味で)、6缶セットに一つ付いてくるシリコン・コースターで手を打ちました。

 いやいや、コースターに描かれたビッグ・ボスの顔に惚れ込んで、滅多に買わない6缶買いをしてしまったのです。

Bigboss

 この上に、映画は好きではないのに、なぜか、近くのモールにあった「どんぐり共和国(だったかな?)」で衝動買いした「豚カップ」↓を乗せて、コーヒーを飲んでいます。

Cup1

 紅いシルエットがイイ!少し飲み口が厚手過ぎますが、そんなことより、

Cup2

 カップ底のホテル名が良い感じ!

 何の話でしたか。

 ああ、そうそう、缶コーヒーBOSSの付録の、BIG BOSSの横顔を見ているうちに、いつまでも古いゲームにとらわれずに、そろそろわたしも幻肢痛(ファントム・ペイン)を感じるようになった中年のBOSSを見るため、プレイステーション4を買う必要があるもしれないと思い始めていることを書きたかったのです。

 その前に、もう一度、3DS版メタルギアのケロタン↓

Kerotan

ならぬヨッシー↓を

Yossi


コンプリートしておきましょうか。ついでにツチノコも(わかる人にしかわからない、わるい文章の見本)。

 しかし、いったい何回目なのか?まさしく取り憑かれていますねぇ……

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2016年2月21日 (日)

コロしてもいい奴 ~最強ゾンビハンター~

 映画専門チャンネルを何気なく流していると、いつの間にか、この作品が始まり……唐突に終わっていました。

 タイトルのとおり、ゾンビ映画です。劇中ではイーターという呼称でよんでいましたが、ま、内容はゾンビですね(ZOMBIEだから、本来の発音は、昔風のソンビィー?)。

 わたしの好きな邦画「Zアイランド」でも、言っていましたが、ゾンビは分類すると、宇宙線(あるいは何かの軍事実験による放射線)が降り注いで生まれるもの(ナイト・オブ・ザ・リビングデッドあるいはカジノゾンビ系)と、ウイルスによって生まれるもの(バイオハザード初期型系)、寄生虫による動きが素早くバイク乗車できる系(バイオハザード4型)などがあるのですが(劇中では、「速いやつ」「遅いやつ」とも分類)、この「最強~」は、新型合成麻薬をキメ過ぎるとなってしまうタイプのようで、動きは早いものの、乗り物は使えないというゾンビ設定のようでした。

Zombie

 上のポスターでも分かるように、ド真ん中で斧をかついだ男ダニー・トレホ(メキシカンの筋肉オヤジ、B級ゾンビ映画の定番:フロム・ダスク・ティル・ドーン、マチェーテ他出演多数)がトップ・クレジット、しかしながら主演は、トレホの半分の大きさもないマーティン・コッピング↓です。

 なかなかの二枚目なのですが……

Zombi2

 お約束の、ヒロインとのB級お色気シーンで裸になると、腹回りが妙にぶよぶよタプタプなんですね。トレホの「老いてまだまだ筋肉質!」な身体と比較すると、どうにも情けない気がします。

 余談ながら、日本の男性役者のほとんどが、裸になると貧相な身体でがっかりするのに対して、(筋肉信仰のある)英米役者は、その多くが、しっかりと筋肉の乗った良い身体をしていることが多いですね。

 先に見たキングスマンでも、エグジー役のタロン・エガートンが、ぱっと見、こんなトッポイ(死語?)ギャングを怖がる弱っちい小僧風なのに↓、

174722

 脱いだら、はち切れんばかりの筋骨隆々さで、スーツを着ても似合わないほどであったので、驚くよりも、違和感を感じてしまいました。

 とりあえず、ダニー・トレホの勇姿を拝める予告をどうぞ。

 しかし、ゾンビ映画は、もはや一大ジャンルとして、大盛況の様相を呈していますね。

 マトリックスのトリニティ(キャリー=アン・モス)主演の、50年代黄金期のアメリカが舞台のコメディ・ゾンビ映画「ゾンビーノ」や、

 ワシントンD.C.のホテルで見た「ドーン・オブ・ザ・デッド」↓

 それ以外にもブラッド・ピット主演の超大作「ワールド・ウォーZ」や(ウは宇宙船のウ、ならぬZはゾンビのZ!)、

 この映画のオチは、「オオカミは病気の獣の肉を食べない」的なハナシで、なんだかハナをつままれたような気分になった記憶があります。


 少し傍系の超B級映画「アンダーグラウンド」(同名の名作映画もあるから注意)、

 ハズしがちに見えて、実は直球勝負の品川ヒロシ監督、哀川翔主演「Zアイランド」など、いろいろありますね。

  予告をごらんになればわかるように、(ゾンビ映画にはお約束の)親子愛あり、自己犠牲あり、ちょっとだけお色気あり、と手堅い一品に仕上がっています。

 そういえば、哀川翔は、かつて浅野忠信と組んで「東京ゾンビ」という佳作にもでていました。

 「カジノ・ゾンビ」は、ラスベガスでゾンビ状態が勃発したらどうなるか、という話で、ヒロインが、性格の悪い悪女というのが目新しいところです(わたしは好きです)。

 

 上でも紹介した「Zアイランド」では、鶴見辰吾が、「娘のためにオレは死ぬ!」という、近々公開のシュワルツェネッガー主演の「マギー」↓みたいな役どころを印象的に演じていましたね。

 自覚はないものの、わたしはゾンビモノが好きなのでしょう。

 いや、わたしだけではなく、世間の人もだいたい好きでしょう、と、思っていたら……

 「ワールド・ウォーZ」については、広告でおもしろい話があるんですね。

 ポスターでも予告でも、この映画が、ゾンビ映画であることを見せないようにしていたというのです。

 わたしは、公開時の様子を知らなかったのですが、つまりゾンビ映画であることを喧伝(けんでん)してしまうと、観客動員に響いてしまうと考えられたのですね。

 え、ということは、ゾンビって、日本では人気がないの?

 わたしなどは、「ゾンビ」モノであると知れば、とりあえず、いかにB級臭が漂っても、観る映画の候補にしてしまうのですが……(って、ゾンビモノが好きってことですよね。自覚がないなんて、よく言うヨナー)。

 そういえば、ケビン・コスナー主演の「ワイアット・アープ」も、西部劇であることが伏せられて宣伝されていたそうです。

 って、そもそもワイアット・アープ、ドク・ホリディ、クラントン兄弟、いやOK牧場(OK Corral)の名前を知らない人がいるというのが不思議なのですが、ともかく、二枚目俳優コスナーの名につられて映画館に足を運んだ女性が、「これって西部劇だったんだ」とノタマッタそうな……


 そのように、日本の一部に(いや、わたし以外の良識ある日本人のほとんど、か?)ゾンビ映画を好まぬ勢力はあるにせよ、ハリウッドのA級B級を含めてのゾンビ映画の隆盛を考えれば、世にゾンビ映画の種は尽きマジ、アメリカ人の多くはゾンビが好きなのでしょう。

 そこで、なぜゾンビ映画を好む人がいるかを、わたしなりの偏った考えでまとめると……


●その1

 「ヒトは(本能的に)悪い奴がバッタバッタとやられるところを見たいモノなのだ」

 非難を覚悟で書かせてもらえば、ピンはショッカーの戦闘員、魔神ドルゲのアントマンからキリは、桃太郎侍の斬られ役まで、主人公によって、「寄らば斬るぞ」とバッタバッタと千切っては投げ、チギッテは投げ~と、情けも問答も無用に殺される場面に、なぜか我々、いやわたしは、胸がスクところがあるのは確かです。

 ハリウッド映画においても、かつては、インディアン(無知によるひどい呼び名ですが)、つまり本当のアメリカ人(ネイティブ・アメリカン)を、白人ばかりの騎兵隊が、スプリングフィールドやコルトなどの「進んだ」兵器で、トマホークなどの(原始的で劣った)武器を用いて意味不明におそってくる(もちろん侵略者を撃退するためです)野蛮人な彼らを片っ端から撃ち殺すのが当たり前の「西部劇」が大量に作られたものでした。

 あるいは、奇声をあげてバンザイアタック(特攻)を繰り返す(んなワケはないでしょう)、頭のおかしい極東蛮族を蹴散らす米軍プロパガンダ映画なども作られました。

 しかし、今や、彼らネイティブや肌の黄色いアジア人にも人権があることが常識となって、オオッピラにそんな映画は撮ることができなくなった。

 しかし、殺しまくるカタストロフ映画の需要は絶対にある。

 どうするべきか?

 そこで登場したのが、救いの”神”としての「ゾンビ」です。

 ゾンビなら、どんなにむごい殺し方をしても大丈夫。

 だって、もう死んでいるんですから。

 

 コブラじゃないけれど、「もうそれ以上死ぬことはあるまい」ですよ。

 さっきまで人格者だった人物が、ゾンビになったとたんに襲いかかってくるというのも、絶望的コペ転(死語?)で、いっそ爽快です。

 人間である時に、悪人だったヤツがゾンビになったら、それこそケンタイ(オオッピラ)にブチ殺すことができる。

 まるで、読売巨人軍の「番場蛮」↓のように、鼻の穴をふくらませて、「あーイー気持ち」な気分ですよ(意味不明)。

Banba

 そういった、イケナイ衝動が自分の中にあるのは分かる。

 だから、そういった衝動を、映画やゲームで代償させてスッキリするのは良いコトなのではないかとも思うのですが、逆に、寝た子を起こす、そういった映像や刺激を提供するのはイカンのではないか、という意見も分かります。

 これは難しい問題です。



●その2

「誰もいないくなったショッピング・モールや店舗で、(罪悪感なしに)品物を取り放題に奪い去る爽快感を得たい!」

 ゾンビ映画のほとんどすべてに、「生きていくため」に「仕方なく」、ゾンビだけがウロツク巨大ショッピング・モール(このシチュエーションを最初に考えたのはドーン・オブ・ザデッドだと思いますが、ウマイ考えです)や高級店、あるいはスーパーに入り込み、空のカートに品物を取り放題にとって回る「王侯貴族的買い物」(ショボい王侯ですが)シーンがあります。

 これが、まあ、(おもに米国の中下流階級の)庶民の夢なのでしょうか(日本のゾンビものでこのシチュエーションは見たことがないような気がします)。

●その3

先走って上で書いてしまいましたが、

「ゾンビ化という「一瞬の立場の転回」の恐怖が「恐ろしくも魅力的」で、それを見たい。

 愛しかった、恋しかった、尊敬していた人々が、たったの「ひと噛み」で、こっち側から「向こう側」にいってしまって、自分を襲う敵になってしまう恐怖は、恐ろしくも魅力的であるのでしょう。

 自分自身も、いつ向こう側にいってしまうか分からない訳ですから。

 これを逆に描いたのが、「Xメン ファイナル・デシジョン」でした。

 クライマックスで、超能力者同士が戦う中、「超能力を治療する薬(つまり能力を奪う)」を仕込んだ弾丸が飛び交って、それに当たった者たちが、ツキモノが落ちたみたいにションボリとなってしまうんですね。

 あれはあれで、恐ろしいシチュエーションでした。


 とりあえず、3つほど、ゾンビ映画隆盛(ホントなのか?)の理由を考えましたが、もっと、ほかにあるでしょうし、それほど単純ではないかも知れません。


 ただひとついえるのは、今後も増え続けるであろう「Z映画」を、わたしは見続けるだろうということです。

p.s.

 ああ、そうだ。

 「最強ゾンビハンター」の予告を観てから本編をごらんになったあなたは、キョーガクの事実を知ることになると思います。

 この映画の予告・コピーの、カリオストロ公爵的な「言うことやることすべてウソ!」というジジツを!

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2016年2月15日 (月)

実写はベツモノ ~進撃の巨人(しょのいち)~

 

 この作品については、原作は一通り目を通していますが、それほど好みではないので、特に映画を観るつもりはありませんでした。

 しかし、あまり映画の評判がよろしくないので、逆に興味をもって、先にレンタルされた「進撃の巨人~反撃の狼煙(ノロシ)~」の三話分を観て、そのクドサにゲンナリしたものの、映画なら~狼煙~よりトクサツがましなんじゃネ!と思って先週、ブルーレイを借りてきて観てしまいました。

 そして、以下はそれについての感想なのですが、この際、進撃~について考えていることも少し書かせてもらおうと思います。

 まず、原作についてですが……

 巨人という自然災害にも似た「絶対災害状況」に人々を投げ込んで、その反応を記そうとする、そういった手法自体は、よくあるものだし悪くないと思います。

 例えていえば、バイオレンス・ジャック冒頭の関東大震災勃発場面などですね。

 まあ、永井豪畢生(ひっせい)の傑作シーン(とわたしは思っているのです)と比較するのは酷だとしても、地獄に棲むといわれる巨大な人呑鬼(じんどんき=人喰い鬼)を、SF設定で未来に持ってきて、さらに群れで出現させ、多数のヒトが「生きながらにして喰われる」というショッキングな画でアイキャッチするという手法は、ご存じの通り、日本だけではなく世界的にも通用して大人気になったわけですから、素晴らしい考えであったと思います。

 まあ、個人的に、画の迫力や緊迫感、恐怖感は、今やギャクマンガの様相を呈してきた「彼岸島」シリーズの初期の巨大オニ出現の方が上だと思いますが……

 一時、指摘された、人間側がとる「戦略上のアナ(あり得ない戦術)」は、気にはなりますが、それは仕方がないと思います。作者は万能ではありませんから、準備不足もあれば得手不得手もある。

 それより、わたしにとって「進撃~」を苦手作品にしてしまったのは、ところどころに散在する観ていてキツくクドい描写、たとえば、ハンジの意味不明なオーバー・アクションやサシャのイモ頬張りシーンなどですね。

 あのように、学者が研究熱心のあまり狂ったようにオーバー・アクションになるなんて、(ギャグマンガを、ただ真似るデキの悪いコントか、クドウカンクロウの映画でしか観ない)実際には病的でない限りほとんどないので、それほどまでに、キャラクターのかき分け(あるいはキャラを立たせること)は難しいのだなあ、と気の毒になります。

 いや、もちろん、オーバーアクションをウリにしている小劇団ならばいいんですよ。わたしは好きではありませんが。
 世界の雰囲気(セカイカン、ではなくね)が、オーバーアクションで統一されているなら。
 他の人間がフツウに話しているのに、突然、ハンジだけがテンション高くて違和感が強すぎるのですね。
あの映画の流れの中で、実写的にそれはいらないでしょう。

 サシャが芋を飯を腹一杯喰いたいがために、ほぼ口減らしとして軍に入れられるのは、実際に、先の大戦の貧農などでもままあったようですからわかります(もっとも、現実においては、入隊後は、ホメられ育った世代には信じられない、漢字一字で書けば「無理編にゲンコツと書く」といわれたほどの人格否定、鉄拳制裁オンパレードだったわけですから、進撃ワールドとは違いますが)。

 それはおそらく大食漢、つまり漢(オトコ)だったから、ありえた訳で、女性にその役を振るのは、男女平等の未来軍といえども、なんとなく違和感がある。

 いや、美しい少女が、無心に握り飯を口いっぱい頬張って食べ続けるシーンは、かつてNHKの山本周五郎短編集などでも印象的に使われてましたし、あるいは、作者諫山創氏も、そういったものから影響を受けて、ある種ガス抜き的な役割として(本来は、シリアスさをますために使うべきだと思いますが)原作に配置したのだとおもうのですが、実写化にそれはいらないでしょう。

 ほら、忙しいのに、カレーを口いっぱい頬張ってるのは、モモレンジャーではなくキレンジャーだったじゃないですか(って、ゴレンジャーもよく知らないくのに知ったかぶり)

 しかし、なんといっても、わたしに決定的な違和感を感じさせたのは、巨人襲来という絶対状況に陥った人々の反応です。

 信じられないほど恐ろしいモノがやってきた。

 人間の力では対抗できない、あそこで喰われている、こちらでも喰われた、だったら、他人のことなんか気にしてらんねぇ、どけどけ、早く建物に逃げ込め、逃げ込んだら、すぐに戸を閉めろ、他人のことなど知ったことか、誰だって我が身が可愛いんだ。

 子供連れの女性を押し退け、老人を蹴り倒し、目を血走らせて、丈夫な建物へ飛び込む。

 こういった安易でステレオタイプな人間不信への決めつけ描写が不快で到底受け入れることができないのです。

 安っぽい、人間性を蔑む描写は、自分の狭い了見と浅薄(せんぱく)な経験を基に、頭の中だけで恐怖を想像し、人々の動きをシミュレートする幼い思考の発露です。

 現実は、そんな安っぽく単純なものではありません。

 みなさん、お忘れですか?

 多くの映像が残っている、あの恐ろしい津波が襲ってきた時に、人々は、他人を押し退けて自分の身を守りましたか?

 中にはそういったこともあったでしょう。

 しかし、その多くは違った。

 事実は、歴史が証明しています。

 ベトナム戦争では、ベトナム人の子供を守って仲間に撃たれた米兵もいる。

 平常時の自分の醜い部分を見つめ、それを拡大することで、極限状態のヒトの行動を描こうとすると、どうしても、中二病臭い、というより、薄っぺらな人間不信描写になるのですね。

 個人的に、緊急時に、「奇妙に利他的な行動をとってしまう」ことがあるのが、「ヒトの恐ろしさである」とわたしは思っているので、緊急時に泣き、叫び、喚き、ヒトを押し退け、と平常時に想像できるストーリーは、なんとも浅薄すぎるように思うのです。

 どうにもペラペラに見える。

 同じ極限状態なら、先の彼岸島シリーズの方が遙かに肉迫して感じますね。

 もちろん、何度かそういったことが続き、優しく頼もしく、人を助ける人が、何人も目の前で巨人に喰われるのを見ることで、「善人なのは立派だけど、俺は、ああはなりたくない」と、利己主義を固めることもあるでしょうし、太平洋戦争の戦中・戦後の動乱期にはそういったことも多かったでしょう。

 しかし、進撃の巨人は、「最初の一撃目」で、それを出すからいけない。

 それをするから、残酷描写も、深みのない薄っぺらな虚仮(コケ)脅かしに見えて、萎えてしまうのです。

 だから、好きになれなかった。

 その中にあって、唯一、共感できたのは、幼い頃に、エレンとその家族によって助けられた数少ない日系人(それとも、はっきり日本人だった?)ヒロイン、ミカサの「どんな時でもエレンを守る」という鉄の意志と、それを支える筋肉と反射神経、運動能力の高さ動きの美しさです。口数が少ないのもいい。

 あたかも、TOS(スタートレック・オリジナル・シリーズ)で、カーク船長を、陰で密かに支え続けるバルカン星人のスポック副長のモデルが日本の武士であったように(だからスポックも身体能力が高く、口数が少ない)。

 さらにいえば、わたしにとっての松本零士最高傑作「セクサロイド」のユキ7号のように。

「シマ、わたしの愛しい人、私も日本の女……あなたは私が守る」

 もちろん、旧弊な男女意識を持つエレンは「男が女に守られるなんて御免だ」派ですから、現実的に能力差からミカサに救われることが続いてフラストレーションが溜まったころに、例の「エレン巨人化」が起きるわけです。

 ここに至って、特殊能力で力関係逆転化。

 ま、もちろんそんなに単純ではないのは、読まれた方はご存じでしょうが。

 しかし、流れ、設定、つまりキモとしてはそういったところでしょう。

 それが、ところが、なんたることか……これも映画をごらんになられた方はご存じでしょうが、映画では、ミカサの心情がまるで違っているのです。

 もう、言い尽くされているでしょうから、手短に書きますが(できるかどうかココロモトナイけれど)……

 ざっくばらんにいえば、最初は恋人どうしでキスもする仲なれど、巨人襲来時「押すない突くない(河内音頭ふう)」「赤んぼ守れ」で、やっさもっさしているうちに、結果的にエレンがミカサを見捨てたことに。

 二年後、行方不明だったミカサが戦士として成長しカムバック。

 コンサートで綿飴を作るしか能がなかったピエール滝は酔っぱらいに……(ウソ)

 すっかり汚物を見る目でエレンを見るミカサ。服を引っ張りあげるとワキバラには巨人のハガタが……

 ハダカにハガタ、うまい!

 は、ともかくとして、あの「死んでもあなたを守る」派だった原作ミカサが「汚物目」ミカサに改変ですよ。

 いったいどんな力が、監督、樋口真嗣氏と脚本を書いた町村智宏氏&渡辺雄介氏にかかったのでしょう。

 いずれにせよ、彼らに、その改変を行わせたものたちは万死に値すると思います。

まさか、

「オトコに尽くすオンナなんてダサ古いし、女性がピカピカする時代にはそぐわない(政府与党のマニフェストにあった女性がカガヤク~は、いつのまにか一億総活躍~にとって代われれましたが)、これからは、アクション映画でも、女性が主役で好きにオトコを選べるのよ」

という趣旨でイケ、とか誰かいったのか?

 だったら、ほかのオリジナル作品を作れ!

 「快進撃の兄シキシマ」とかね。

 進撃~の唯一の美点を消したらなにも残らんだろうが~

 わたしですら、そんな感想を抱いたのですから、熱心なファンにとって、その心痛いかばかりか、お怒りお察しします。

 ま、映画の感想は、そんなところですね。

 まこと、物語の映画化は、運が90パーセント超です。

 監督、脚本、プロデューサー、スタッフ、役者、そのどれが欠けても、こんなふうになってしまう。

 うまく映像化できても、そのデキは、原作比60パーセントどまり。

 その逆は、ほぼ皆無(というか、その時、映画は原作と別作品扱いとなる)。

 すまじきモノは宮仕え、ならぬアニメ原作の実写化、ということでしょうか。


p.s.

 そうそう、辛口評論で知られる町山氏が、自身の脚本による本作についてどう思っているかをまとめたサイトがあったので、紹介しておきます。

町山智浩は実写版『進撃の巨人』をどのように評価しているのか?

 まあ、町山氏が映画公開時にいいわけめいた事をしたのは、ナンだと思いますが、彼にとってみれば、初の長編映画脚本執筆で「狂犬に噛まれた」ようなものなんでしょうね。

「反撃の狼煙(第三話)」のバカップルのクドスギル話を撮るような、作品とはベクトルの違う監督と、「俺にとってはアニメが本物なンで、実写は好きにやってください、あ、でも、これとこれとこれは原作と変えてヨ」などと、わがまま言い放題の原作者、原作の流れを理解してない制作者のヨコヤリ、などの板挟みになって身動きがとれなくなった。

 それと、少し驚いたのは、町山氏が、「あの(素晴らしい)映画のこのシーンとこのシーンと、このシーンを翻案して使った(つまりパクった)」と言っているらしいことですね。

 わたしも、小説を書いたりしますが、その時に「あの映画のこのシーンを使おう」なんて、決してしません。
 どちらかといえば、その雰囲気を残しながらも、違うテイストで話をつくろうとしますし、それがもの作りの人間としての、最低限のルールだと思うのですね。

 いっそ、クエンティン・タランティーノのように、過去作品へのオマージュのあまり、切り貼り作家として認知され、突き抜ければよいのですが、駆け出し脚本家(批評家としては中堅でも)中途半端にそういった作品の切り貼りシーンを挿入するのは卑怯だと思います。

 その作品を観た人が、なんとなく、あの映画のあのシーンの影響をうけてるの「カモ」と思うのがよいさじ加減だと思うのです。

 まして、作品の評判の悪さを見越して、あらかじめ「自分は」こういった意図で脚本を書いた、と言い出すのは、すくなくとも「ものを作る」人の態度ではないでしょう。

 まあ、ひとの作品でメシをくう評論家としてはぴったりの態度、なのかもしれませんが。

 そういった、(自分だけが勝手に思っているものを含めて)良い過去作品を、自作品に引用する理由は二つあると思います。

 ひとつは、オリジナルが最高のシーン・演出だから、ぜひ再利用して、同じ感動を自分の作品で味わってほしい、「ん?オリジナリティ?んなもん、面白ければインだよー。だってこれはいいシーンなんだから」という気持から使ってしまった、

 もう一つは、自分の作品に自信がないために、名作の焼き直しを使い。「え、これってあの作品のあのシーンを使ってるんだよ、だから、その良さをわからないヤツがおかしいんだ」と、作品の良さを正当化するために使う。

 と、自分で書いていて、そんなバカモノがいるはずがないと気づいて書くのをやめました。

 じゃあ、これを基(ベース)に脚本書きました、って、どういう思考経路で口にするんだろう?

 わからないなぁ。


 ちなみに、町田氏と仲の良いライムスター宇多丸氏がどう評価しているかは、ココでまとめられてます。

 わたしの文章などより、映画の演出、音響、演技などについて、細かく指摘されていてよっぽど勉強になりますねぇ……映画駄作化の町田氏の責任追求はカラッキシですが。

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2016年2月10日 (水)

真冬の太陽(灯) ~植物育成LEDライト実験~

 先日、100円ショップで「コーヒーノキ」なるものを衝動購入いたしました。

コーヒーノキ

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 熱帯地域のコーヒーベルトからは離れていますが、うまく育てれば豆の収穫も可能ということで、下のUCCのサイトの絵のような情景を……

 夢見て毎日水やりをしていたのですが、如何せん、熱帯コーヒーベルトの植物を日本で育てるのは無理がある。

 ほどなく葉はしおれ、茶変しはじめました。

 何とかせねば!

 廉価なビニール温室は、風の強い日にビニールが吹っ飛んで、骨組みだけか残るという悲しい記憶があるので却下。

 ならば暖かい室内で育てよう。

 最近流行のLED野菜工場にならって、人工太陽栽培をしようじゃないか、ということで、早速調べてみるとありました。

 一般的なE26の口金サイズのLED観賞用植物LEDライトが。↓

 説明書によると、 「LEDスポットライトに植物工場向けのLEDと同じ赤色LED(波長660nm)を使い、青色の波長の多い白色を追加し青色LEDを追加することなく観賞向けに改良しました。 植物の光合成に必要な光を効率よくスポット的に照射しますので電気代を気にせず使うことが出来ます。 プランターや鉢植の植物 また日照不足の補助光としてもご利用いただけます。また白色ベースに赤色を追加する事によりピンク色をやわらげ見た目も良くなり植物の健康状態の確認など視認性が高く 緑の葉の色が見やすくなってます」  しかも消費電力は5wということで、電気代も気にしなくてよさそうです。  早速購入しました。  届きました。  とりあえず、昔懐かしい学習スタンドの裸電球を外して付け替え↓

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 さらに、家の隅に転がっていた24時間タイマー↓をつなぐと

 日の出から日没までの時間のみ、自動的に点灯・消灯を繰り返すようになりました。

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 説明書どおり、本来ピンク色だった日照灯に白色LEDを加えて、かなり自然な照明色になっているのがわかります。

 照明を設置して一週間ほどで、茶色かった葉も青々となり、気のせいか背も高くなってきました。

 効いてる効いてる!効いています(野菜工場で使われているのだから有効なのは当然でしょうが)。

 と、いうわけで、冬に熱帯植物(大きなものは難しいでしょうが)が弱ってしまったのを何とかしようと考えられている方は、LED日照灯を選択枝に入れられてはいかがでしょうか?

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2016年2月 9日 (火)

惜しい!  ~ファンタスティック・フォー~




 この作品は、昨今、流行の「リブートもの」です。

 個人的には、この過去作品の「リブート化」なるものと、その言い回しが好きではありません。

 

 

【リブート】

リブートは、シリーズにとって核となる要素とコンセプトを整理することで、あらゆる「不可欠でない要素」を取り除く事を可能にし、シリーズをやり直す手法である。リブート作品は、シリーズの初期タイトルをあまり知らない消費者にも簡単に触れることができる


と、いうことらしいのですが、不可欠でない要素」を取り除くって、何なんですか?

 わたしは、「細部にこそ神が宿る」「枝葉末節がその作品にフィギュア(綾)を与える」と信じたいものなので、どうにも信用ができない。

 要は、かつての名作を、今フウに改変してシリーズの初期タイトルをあまり知らない消費者を取り込みたいだけなんでしょ、って思ってしまうのですね。

今回の「ファンタスティック・フォー」も、幼少時に観た「宇宙忍者ゴームズ」↓、

宇宙忍者ゴームズ

 そして、実写映画化され、続編も作られた前シリーズ↓の人気にあやかって作られたリブートモノなのです

 便宜上、今回の作品を「ファンタスティック・フォー(リブート)」と表記することにします。

 ああ、そうだ。これまで書かずに来ましたが、これは明記しておくことにしました。

「本ブログの映画感想はネタバレ全開で書いております。また、偏った視点による感想が多いので、読まれたことで気分を害される方にはあらかじめ謝罪しておきます」

 さて、「ファンタスティック・フォー(リブート)」を観ました。

 あの、アキラへのオマージュたっぷりの佳作「クロニクル」の作者ジョシュ・トランクの作品であり、ゴームズいやファンタスティック・フォーのリーダー、リードと「ムッシュムラムラ~」岩石人間ガンロック(=THE THING)ベンが幼なじみ(確か原作コミックでは大学の同期だけ)であるという設定から、クロニクルのような友情物語を期待しつつ………

 もともとは、映画館で観ようと思っていたのですが、評判がいまひとつだったので、見送っていたのです。

 実際に視聴してみると……やはり皆さんの評判は正しい。

人間関係の描き方もイマイチですし、多くの方が指摘されているように、戦闘シーンで、突然異世界に移動してしまうのも制作者側のご都合主義丸出しでどうにもノレない。

 しかし、いろいろと良いところもあるのです。

 はじめに期待したように、ゴームズとガンロックが小学校以来の幼なじみで、後の巨人ガンロック(=ベン)の方が小柄というのがいい!

 そして、ベンが小柄ながらイキがよく、インテリのゴームズを常にサポートし守る姿勢も好ましい。

 だからこそ、一緒に異次元移動マシンを開発したヴィクター・ドゥームの

「アポロを月に送った科学者の名は残らないが、月に行ったアームストロングの名前と言葉は歴史に残った」

という言葉に触発されて、リードが、わざわざベンを呼び寄せ一緒に異次元へ行こうとする気持ちはよくわかる。

 夜中に突然呼び出されたベンが、驚きながら、

「俺はボディーガードだから一緒に行くよ」

と二つ返事するのも、後の事故を考えると悲しくなります。

 やがて事故が起こり……いや、他のメンバーは良いんですよ。

 身体がゴムのように伸びたり、透明になったりバリアを張ったり、意図的に発火したり空を飛んだり、カッコいいじゃないですか。

 でも、ベン、ガンロックは違う。醜い岩石の巨人です。

 ハルクに似ていますが、ハルクなら、まだブルース博士でいられる時間がある。

 でもガンロック(シャレの効いた日本語名とは違い、本当の英語名はTHE THINGですよ!)は、いつもいつの時でもオールウェイズ岩人間。

 おそらく、マーベルのスーパーヒーローの中でも、最低のシチュエーションでしょう。

 事故の後、異世界から帰ったガンロック(ベン)は、ゴームズ(リード)を恨みます。

 当然でしょう。わざわざ出かけなければ、怪物にならずにすんだ上に、リードは見かけはフツウなんですから。

 しかし、しかしね。ここでベンには、自制してほしかった。

 悔しい、辛い、文句を言いたいけれど、あえて運命を甘受するという態度を示してほしかった(現実ではなく映画ですから)。

 そういった状況であれば、なおさらリードはベンを元に戻すために、死にものぐるいで闘うことになる、そういうシチュエーションがほしかったのですね。

 さっきは文句を言って当然と書きましたが、最後は自分で行くと決断したのでしょう?

 誘った奴が悪いって、それは覚悟がなさ過ぎる。

 そういった点を微調整すれば、今のような酷評はなかったかもしれません。

 悪玉のヴィクターの性格設定が不明瞭なのも残念です。

 ヒューマントーチを黒人おっとアフリカ系アメリカ人にするのは、今のハヤリで良いとしても、紅一点のスーをコソボ難民に設定するのは、なんだかアザトサを感じてしまいます。

 容姿の点でも、前作でスーを演じたメキシコ系アメリカ人の血を引くジェシカ・アルバのほうが魅力的だったように思います。

 現在の評価から考えて、おそらく続編は作られないでしょうが、弔いの気持ち?でDVD(ブルーレイ)レンタルを借りてごらんになっても良いかもしれません。

続きを読む "惜しい!  ~ファンタスティック・フォー~"

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2016年2月 5日 (金)

すべてのオトコの夢、最強!  ~ワンパンマン~

 たとえ、どれほど平和主義者であろうと、その本能の中に、オトコというものは(そしてある種の女性にも)「強くあれ!」という願望を持つものです。

 そのひとつの究極の夢が、いかなる強大な敵であろうとも、たった一発のパンチで打ち倒すことができる、つまり「ノックアウト バイ ワンパンチ」 = ワンパンマンなのです。

 ワンパンマン!

 Web漫画から登場したヒーロー。

 そのネーミング、スキンヘッド、そして「お約束のマント」を見たときに「やられた」と思いました。

 そのテがあったのか!

 ピンぼけ発言を覚悟して言わせてもらうと、ワンパンマンは、そのネーミングを出発点として、あの国民的ヒーロー(若者の幼年期を含めるとして)アンパンマンの完全なネガいや鏡像、投影なのです。

 そりゃあアナタ、アンパンマンは頭を空腹の人に食べさせるし、その頭をとりかえることでパワーをチャージできる、頭は禿げているのではなく、アンパンなのだから毛がないのは当然で、孤独ではなく、ジャムおじさんもバタコさんもクッキーさえいる、と孤独なサイタマとはまるで違うのですが、その根底にある「正義」なるもののとらえ方が似ているのですね。

 まずは、オープニング・テーマを。

 「Runner」っぽいところもありますが、なに、「もはや、すべての音は出尽くした(言ったのはジョン・レノンでしたか)」のですから、感じが似てるなんて問題ではありません。

 なかなかの名曲です。

 

ワンパンマンオープニング

 間違いました。こっちはカヴァーです。しかし、彼の英語のシャウトがすきなんですよ。

 もちろん作詞・作曲者の本家、・影山ヒロノブ氏による歌も好きです。こちらです。↓

 とにかくワンパンマン=サイタマは強い。

 若い頃はともかく、ワンパンマンとなってからは、OPソングにあるように連戦連勝・史上最強、なのですが、強くなるにつれて戦闘中の精神の高揚などを感じられなくなっています。

 それはまるで、A.C.クラークの「地球幼年期の終わり」における、次世代の生命に進化「してしまった」子どもたち、感情を失い、ゆらゆらと地上に立っている子どもたちとどこかしら似たところがあるほどです。

 確かに、サイタマの押しかけ弟子、サイボーグのジェノスをして「次元が違う」と言わしめた強さは、もう別次元の生き物です。

 これが、もともとのワンパンマンです。

 100話を超える連載のすべてを読むことができます。

 是非、読んでみてください。

 決して、うまいとは言えない漫画ですが、そのツボを押さえた迫力とストーリーテリングの巧みさはわかっていただけると思います。

やがて、WEBコミック「ワンパンマン」は「アイシールド21」の漫画家、村田雄介の目にとまり、彼がONE氏にアプローチ、やがて二人のコラボレーション作品として、「となりのヤングジャンプ」での連載(ここで読むことができます)となるのですが、

 そのあたりの経緯は、「誕生秘話」を読んでいただくとして……

 先ほどの、「強くなりすぎた男」の原作者自身による解釈は「(勝てそうにない相手に)立ち向かう熱さに作者である僕も含めてみんなが夢中になるんじゃないか、本当はサイタマ自身もそういう状況が大好きなのに、最強であるがゆえにその熱さを取り上げられてしまったんです」ということらしいのです。

 どんな敵でもワンパンチ一発でやっつける主人公、しかし普段は風采のあがらないスーパーの特売日にキュウキュウとする凡夫、という、青春の一時期に中二病にかかった者ならば(そうでなくても)簡単に思いつける設定ながら、その難しさは、話を持続させるために、つまりワンパンマンの偉大さを示し続けるために、敵がどんどん強大になり続けなければならない、つまり敵の「インフレ化」が止まらないことにあります。

 「リングにかけろ!」が、「魁!!男塾」が、連載の終盤で、熱烈なファンすら息苦しくさせてしまったのはソコなのですから。

 しかし、上記インタビューで、その点を指摘され、ONE氏は「難しいという意識を持ったことはなく、人から指摘されて初めて、『この設定のまま長く進めていくのって難しいのか?』と気づいた」らしいのですから、わたしなどとは才能が違うのでしょう。

 もう数十年前に、石森章太郎氏(当時)が(おそらく、サイボーグ009の取材でベトナムへ行かれ、単行本に、その時耳にした「サソリと蛙の歌」を挿入していた頃)、正義とは何か、立場が変われば正義も変わるのだ、的な、「メンドクサイ」問題提起をされて以来、その問題は、「ゼットマン」や「コンクリート・レボルティオ」果ては、形を変えて「進撃の巨人」へ受け継がれました。

 もっと以前の存在だった、月光仮面は「正義の味方」(正義そのものではなく)として、最初からそれらの問題をクリアしていたのですが………

 その点、アンパンマンやワンパンマンに、正義に対するブレはありません。

 まあ、アンパンマンは、対象年齢が幼児だから当たり前だ、といわれると一言もありませんが、ワンパンマンも、サイタマにブレはないのです。

 サイタマはブレませんが、他のヒーローがブレてしまう。

 後に、まるで強くなれなかったサイタマのような拳闘家ガロウが現れると、彼はヒーロー狩りをしつつ、「怪人がどれほど努力しても、ヒーローに勝てないのは理不尽だ。だったらオレが最強の怪人になってヒーローをやっつける!」などと、メンドくさいことを言い出すのですね。

 まるで、「人々はヒーローが守る、ではヒーローは誰が守るのだ?」という、まるでコンクリート・レボルティオ~超人幻想~のようなメンドくささです(え、全く違う?超人幻想についてはまた別項で)。

 やがて、ガロウは、より強いヒーローたちと闘い傷つくうち、るろうに剣心(リメイクではない)の志々雄真(シシオマコト)のように、人間の限界を超えて容姿は悪魔に近づき……

 当然のように、サイタマにやっつけられてしまいます。

 そして、サイタマによって、ガロウは、「弱者を救うヒーローを目指しながら強くなりきれないが故に怪人になろうとしていた」と、身体のみならず気持ちすら真っ二つにされてしまうのです。

 サイタマが、例のノホホンとした顔でブッタ斬ってしまうのですね。

 ワンパンマンは、まったくブレません。

 そして、それで良いのです。

 人は正義にはなれない、せいぜい「正義の味方」程度になるのが関の山なのですから。

 そして、ガロウの目指した、そして、おそらくサイタマの正義は「弱者を救うこと」。

 ここで、哲学思考に目覚めたコドモなら、「弱者同士の争いだったらどうするの」などといいだすでしょう。いや、考えることを放棄して、YAHOO知恵袋で質問するかもしれない。

 考えるまでもない。ヒーローは無視するのです。

 ヒーローが関知するのは、「圧倒的力」を持つ怪人その他によって、一方的にいたぶられる弱者を救うことですから。

  以前、格闘技漫画について誰かが言っていました。

 かつて「グラップラー刃牙」で、作者の板垣恵介氏が、プロレスの英雄としてアントニオ猪木ではなく、ジャイアント馬場を選んだ時、「それが、彼(板垣恵介氏)の格闘技のスタンスなのだとわかった」と。

 なるほど、と思いました。

 つまり、何かの分野で、誰かを理想として挙げるなら、誰を選ぶかによって、その人の、その分野におけるスタンス、性癖、嗜好、ベクトルがわかってしまうということです。

 ちびまるこちゃんの花輪君がハゲたような風采ですが、ワンパンマンがアンパンマンを(冗談めかしたスタイルの拝借だっとしても)ベースにしているというのが、ワンパンマンの本質のような気がしています。

 アンパンマンも「弱い者の味方」というスタンスからブレないヒーローですから。

 マントを羽織っているものの空は飛べず、バッタのようにハイジャンプをするのも初期のスーパーマンに似て愉快です。

 あとは、サイタマが、いったいどのようにして、史上最強の肉体を手に入れたか、ですが、それは原作の中で示唆されていましたね。神らしき存在が。

 サイボーグ009でもそうでしたが、強さインフレの行き着く先は神になってしいますから、やがては、無敵のサイタマも「神との闘い」で、一敗汚泥にまみれることになるのかもしれません。

 先のオープニング・テーマの日本語歌詞のように。

 その時が来るまで(来るかどうかはわかりませんが)、わたしはワンパンマンの熱心な読者でいることでしょう。

 願わくば、かつてドラえもんの幻の最終回(タイムパラドックス版ではなく)で囁かれたような「トレーニング中の事故にあって昏睡状態にあるサイタマの脳内劇場」的なオチにはなりませんように。強すぎる主人公だけに、ソコまで心配してしまうのです。



p.s.

 そうそう、アニメ版のエンディングテーマについても書いておかねばなりません。あの森口博子の「星より先に見つけてあげる」です。歌っている人もレトロ(褒めてるんです)なら、曲、アレンジも懐かしく大好きです。まるで、70年代後半~80年代前半に帰った気分になりますね。

 でも 歌のうまい人だったんですね。わたしの中では「バラドル」の印象しかなかったもので。

p.p.s

 それと、最後にもうひとつ。

 作者の心のなかにある「本当のヒーロー」像は、無免ライダーなのだと思います。

 彼は強くなれなかったサイタマ。でも気持ちの折れないヒーローである。

 アニメーション制作者もそれはわかっているようで、opラストのキメシーンで、(顔は写らず立ちコギする後ろ姿のみですが)、ジェノスや音速のソニック!ら重要なキャラとともに描いているのはさすがです。

 上で、強くなれなかったサイタマ、と書きましたが、強くなって「しまった」サイタマが、弱いままならどうであったのかを考えるのはあまり意味がないことなのかもしれません。

 あるいは、ヒーローをあきらめて、サラリーマンになっているかもしれない。

 だから、one氏は、弱いままヒーローであり続けるライダーを描きたかった。

 ある意味、彼はサイタマの鏡像であるから。

 最近、パワーのインフレ化が進んで、無免ライダーの登場は少なくなっているのが残念です。

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2016年2月 4日 (木)

マナーが紳士をつくる  ~キングスマン~

  しばらく前のことですが、マシュー・ボーン監督のキングスマンを観ました。

 スタイリッシュな現代の英国スパイを描いた佳作です。

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  まず、真の主人公ハリー・ハートを演じるコリン・ファースがいいですね。

  しっかりした筋肉に支えられたスーツのシルエットもよいし。

  とても、「リピーテッド」の狂信的な男と同じ俳優が演じているとは思えません。

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 とはいえ、物静かな中に狂気を感じさせる微妙な表情は健在ですし、物語の中でも、精神をコントロールされたとはいえ、卓越した戦闘能力で数十人の村人を殺害しながらも、その重みにつぶされずに、事実として冷静に受け止め留演技は、彼ならでは、といえるものかもしれません。

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 世界的IT企業を作り上げ、環境対策にも熱心だったリッチモンド・ヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン:写真中央)は、ある時期、人類の未来に絶望し、野球帽をかぶって、人同士を殺し合わせ、人類抹殺(人口を減らす)を計画しはじめます。

 それを阻止するために、父同様キングスマン候補になるのが、エグジー(タロン・エガートン:写真右)です。

 かつて、彼の父は、キングスメン最終試験で、ハリーを救って死んでいるのです。

 ただ、難をいえば、エグジーの肉体が鍛えられ過ぎているような気がすることですね。スーツが似合わないほどに。

 あと、キングスマンの候補になるほどの夫を選んだエグジーの母が、後に、言動からみてチンピラ・ギャングと思しき男の愛人になっているのが不思議ではありますが、それは「そういったことはよくあるんだよ」、というマシュー・ボーン監督の意思表示なのかもしれません。

 彼女が夫を選んだのではなく夫によって選ばれただけだった。立派な男だが女性を見る目がないということもよくあることだ、ということなのでしょう(もちろん素晴らしい女性だが男を見る目だけはない、ということもよくある)。

 最後に、カモシカの義足(刀)を持つ暗殺者ガゼルもなかなか魅力的です。

 義足でありながら、健常者以上の戦闘力を持つ彼女を見て、2011年の世界陸上で健常者とともに400メートルを走ったオスカー・ピトリウスを思い出しました。

 ガゼル(カモシカ)ではありませんが。刃(ブレード)のように薄い義足の素晴らしい弾力性を使って健常者以上の早さを誇り、故にブレードランナーと呼ばれ、他の競技者から「あれは反則では」と言わしめたオスカーは、最後は妻殺しの殺人者として告発されてしまいました。

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 ラストの誘拐された王女との絡みなど、多少、下品な表現があるのはキック・アスの監督ならでは、です。

 いろいろ癖はありますが、スタイリッシュなスパイ・ギミック、戦闘シーン等、観て損はない映画だと思います。

 そうそう、首に仕掛けられた爆弾が爆発して人々の頭が吹っ飛ぶシーンが、妙にイメージ化、ソフト化、ソフィスティケーティッドされていたのには笑ってしまいました。

 キック・アスの監督だから、まとも?に、もっと多くの血が流れると思っていたのです。

 ここらで予告編を↓

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買うべきか、それとも………さよならケイコク君?

 ここしばらく、近くのホームセンターにいくたびに、気になるものがありました。

 それは「ケイコク君」↓です。

 どんなものかを説明するより、まずは動画をごらんになっていただくほうが、わかりやすいと思います(適当な手持ち撮り、しかもカメラ動画ですので少し揺れるかも)。

 つまり、LED警告灯ですね。

 パッケージには、

 「夜間作業時の注意喚起に!」

 「緊急時の警告灯として!」

 「簡易懐中電灯として!」

 とあります。

 さらに、

 「ピカピカ10種類の点灯モード」

 「マグネットまたは引っかけフックで取り付け簡単」

と、まったくわたしの説明を要しない簡潔かつ的確なアピールも書いてある。

 価格も1500円ほどと、他の「マトモ」なLED製品(内部のハンダづけも満足にできていない某国製粗悪品なら、もっと低価格)よりは、かなり「リーズナブル」ですし、サンプルとしておかれている製品のスイッチを入れてみると、驚くほどの光量で、あきらかに、警告灯としては及第点のように見えます………が、


 今のところ、わたしには、これを使う局面が無いのです(乗っている車も比較的新しいですし)。

 夜道を歩く時に、背中のバッグにつけて歩けば、遠くからも誰からも視認できて、安全性は確保できるかもしれませんが、あまりの明るさに、背中が燃えるカチカチ山状態に見えかねないでしょう。

 目立ちすぎます。

 

 だから使うところがない。

 というより、なるべくなら使いたくない。

 若い頃、中古のボロ車ばかり乗っていた時代に、世話になったエーモンの三角停止版↓

 

(と、JAFロードサービス)のように、車載エマージェンシー道具は「もう使いたくない」という気持ちが強いのです。

 なまじ、非常時の道具なんか持っていると、実際に使うハメになるのではないか。

 もちろん、持っていても使わなければよいのですが……



 思えば、世の中には二通りのタイプの人間がいるのでしょう。

 がん保険に入れば癌にならないと考える人間、お守りがわりに保険に入る人間、と、そうでない人間の。

 いや、もう一種類いますね。


 そんなことを何も考えない人間が(ソウイウモノニ ワタシハワリタイ)。


 わたし自身、「ジンクス」めいた事柄は、それほど信じない方だと思うのですが、保険はともかく、そういった「モノが出来事を呼ぶ」というような事象は完全に否定できないのですね。


 先日、ホームセンターに行くと、大量に並べられていたケイコク君は、最後の一つになっていました。


 ほほう、やっぱり買う人がいるんだなぁ、と感心しつつ、でもLED発煙筒とは違って車検では通せない製品だしなぁ、などと考えながら、まだ置かれていたお試し品のスイッチをいれてみたのです。


 おお、やはりまぶしい。


 明るいホームセンターの中にあってすら、目も眩まんばかりに光り輝きます。

 点滅のパターンが、なんとなくハリウッド映画の緊急車に似ているなぁ、と思っているうちに、いつの間にか、知らぬ間に、オモホエズ、ケイコク君を手にしてレジに並んでいました。


 買ってしまいました。年始に立てたダンシャリの決意はどこへ?(ウソ)


 持ち帰って、しばらく冷蔵庫に貼り付けてピカピカさせていましたが、あまりの意味のなさにバカらしくなって、今はとりあえず車に積んであります。


 どうか、使うことのありませんように。

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2016年2月 3日 (水)

備えよ常に ~アウトドア・コード・ブレスレット~

先日、雑誌を読んでいて、パラシュート・コードを使ったブレスレットの存在を知りました。
強靱なパラシュート用のロープを編み込んでつくられたブレスレットで、イザ、というときに、それをほどくと一本の強靱なロープになるというものです。
普段から、五メートル程度の3ミリロープ(細引き)は、鞄の底に放り込んであるのですが、身につけるロープは魅力的でした。
わたしは、基本的に、腕時計以外の装飾品は身につけないようにしている上(ワッペン好きという記事とは矛盾しますが)、値段も結構張った(7000円程度)ので、買うことはないだろうと思っていたところ、手芸店で、自分で編み込む「アウトドア・コードを結んで作るアクセサリー・キット」が売られているのをみて、思わず買ってしまいました。
素材こそ、パラシュート・コードではありませんが、ほどくと4メートルと、ある程度実用の長さになる上、引っ張り強度は180キロとかなりのものです。
 

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価格も、5メートル・ロープが250円(ミニ・カラビナ付き)、カラフルなプラスティック製のバックルパーツが3つで150円とリーズナブルな感じです。

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帰宅して早速編んでみました。
やってみると「真田紐」というか「組み紐」あるいは「リリアン」(いずれもやったことはありませんが)のような感じでなかなか楽しい。
アウトドア用綿ロープの先の「ほつれ」防止のための始末に似た感じです。
芯になる方が55センチ、周りを編み込む方が2メートルの、2本のロープをバックルに通して編み始めます。
20分ほどで編み終わると、下のような出来映えとなりました。
次に、より実用性のある3.5メートルのロープを編み始めます。
今回のは1本のロープで、端につけたカラビナを抜いて、反対側を引っ張ると、一瞬でほどけます。

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最後に、60センチのロープ2本をつかったキーリングを作ります。
これは、作るのは簡単で、出来上がりの見栄えがたいへんよいものとなりました。

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