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2016年1月

2016年1月31日 (日)

祝 (ソーイング)ミシン復活

 子どもの頃に、最初に目にした、「マシン」らしい機械は「ミシン」でした(ヤヤコシイ?)。

 当時、多くの家庭がそうであったように、わたしも、ミシンによる母の手作りの服をごく当たり前のように着ていたのです。

 それは、デザイン性はともかくオーダーメイドには違いがないので、サイズだけはぴったりした服でした。


 同様に、母は機械編み機(ブラザー製だったかどうかは定かではありません)で、多くの毛糸で編まれたセーターなどを作ってくれたのですが、

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こちらの機械は、ジャージャーとうるさいだけで(スターウォーズ、エピソード1-3のJ.J.ビンクス同様)

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わたしの眼には魅力的には写りませんでした。


 わたしにとって、毛糸編みといえば、このジャージャー・マシンがすべてで、かぎ針編みや棒編みなどが存在することなど知りもしなかったのです。 今でも手編みはよくわかりません。

 ミシンは(当時は足踏み式でしたが)、音も動きも、そしてできあがる製品も好きでした。

 長じるにつれ、アウトドアや自転車による旅行に目覚めた頃から、自分でミシンを使って、鞄や小物入れ工具袋などを端切れを用いて作るようになりました。

 今も、服こそ作りませんが、布バッグや薄手の皮を使ってポーチなどを作っていて……

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 上のような、簡単なバッグ(ナップ・サックって古い言い方?)を作っては普段使いをしています───いや、嘘をいってしまいました。

 普段使いどころか、去年、カンボジアに行った時は、アンコール・ワットもアンコール・トムも、トンレサップへも、メイン・バッグとして持っていってました。

 軽くて思いどおりの大きさに作ることができるし、なくしても(中身はともかく)惜しくありません。


 そういった小物を作るために、二十年ほど前に31万円余り!出してシンガーのコンピュータミシンを買いました。

 文字を自動で刺繍でき(いまでも珍しくもありませんが、当時はなかなか画期的だっだのです)、ROMを差し替えることで、キャラクターも刺繍できたのです(ミツバチマーヤなどの幼児向けでしたが)。

 なにより魅力的だったのは、糸の圧力をリアルタイムで自動調整し、ティッシュペーパーすら縫うことができるという基本性能の高さと、ボタン・ ワンプッシュで糸を切断してくれる(今では珍しくもないでしょうが)機能と、薄アルミ板すら縫いつけると言われた強力モーターが搭載されていたことでした。



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 その後、長らく使ってきましたが、数年前に、突然弾み車が回りにくくなり、無理に回しているうちに、ドカドカと大きな音がして、うまく縫えなくなってしまったのです。

 とりあえず、カバーを開けて注油し、アーレンキで各部を締めたのですが、どうにも直らず、そのまま放置していましたのですが、最近になって、ある雑誌でウインド・ブレーカーやバッグに大きなベルクロ(メス)をつけ、そこに、やはり裏にベルクロ(オス)をつけたワッペンを好きなレイアウトで貼っているのをみて、ぜひ自分でもやりたくなり、大きめのバッグを作りたくなったのです。

 ワッペンといえば、ボーイスカウトの頃から、針と糸で縫いつけるもの、と思っていましたが、軍隊モノの洋画などでは、「階級を剥奪する!」などと言って、上司が部下の階級章を引きはがすシーンなどがありましたね。


 子どもの頃は、なんて握力と力の強い人なんだろう、と思っていましたが(指の力で糸を引きちぎるのですから)、あれもワッペン・パッチだったのですね。

 参考になったのはこれです↓。

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モノマガジン・オリジナルウインドブレーカー

モノショップより

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 恥ずかしながら、わたしは、いい年をしてワッペンというものが好きなのです。

 そこで、ミシンを修理することにしましたが、なにせ大昔のこと、購入した店はすでに無くなっていました。

 幸いにして、同じ場所に居抜きで入っていた、購入時とは違う業者が訪問修理してくれるというので、早速、依頼しました。


 土曜日に来てくれた修理人は、使用者が男のわたしであるのに驚いたようでしたが、症状を告げると、手早くカバーを取って綿ぼこりを掃除して注油してくれました。

 同じことを、わたしも行ったはずなのですが、彼がカバーを閉じて動かすと、見事にミシンは復活したのです。


 どうやら、ホコリそうじを徹底的にやらなければならなかったようです。

 費用は、出張費込みで1000円ほどでした。


 修理人が帰った後、さっそく手持ちの布で、ワッペン・パッチを貼り付けられる少し大きめのバッグを作りました

 見えにくいかもしれませんが、バッグ背面に、大きなベルクロが縫いつけてあって、そこにワッペンをつけています↓。


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 このように気分によって、ベルクロからパッチを外して、並べ替えることができます↓。

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 ミシンの調子は絶好調です。

 これで、新たに鞄の中を整理する、バッグ・イン・バッグなどを作ることができそうです。

 今回の教訓……「紺屋の白袴」、いや間違えました。「餅は餅屋」、故障の時は、迷わず専門の業者に電話せよ(アタリマエカ?)、ですね。



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2016年1月29日 (金)

ジーク・ジオン!は忘れたけれど…… ポメラDM11G

 実のところ、今年に入ってから、本ブログの文章は、すべてKING JIMのポメラによって書かれています。

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初期型 DM10

 ポメラについては、以前から気になっていました。

 蓋を開けて2秒ですぐタイピング可能という手軽さ、高速タイピングに耐え、しっかりと押し込み感のあるキーボード、バックライトがない代わり(最近のシリーズにはライトあり)に単四乾電池で連続20時間以上使用可能という実用性など、ただ「文章を打つ」という機能に特化されたコンセプトが魅力だったのです。

 しかし、気になる点もありました。

 一番の問題は、その厚みと重さです。

 「どこでも取り出して二秒でタイピング」するには、大きすぎ、重すぎるのです。

 おまけに、性能から考えると値段も結構張るのですね。

 そこで、昨年まで、iphone,ipadとスタンド、Blutoothキーボードを組み合わせて文章作成を行ってきました。

 どうせいつも持ち歩くスマート・フォンなら、重さ大きさを気にせず、しっかりとしたBTキーボードを使えば、文章くらいは打てると思ったのです。

 が、やはり早いタイピングにはついてこない。

 バッテリーが気になる。

 なにより、変換効率が悪い(一応どちらもAtokは入れてあるのですが)。

 結局は、ジャンク品として買ってリペアしたAcer oneにエディタを入れて文字入力マシンとして使っていました。

 しかし、このたび、ブログ再開を期して、文章作成用のポメラを買おうかと、いろいろ調べはじめたのです。

 まず、初期型のDM-10(写真)↑は、価格が安い(というか中古の入手可能)保存先フォルダを階層化できず、文書サイズも制限が厳しかったため断念しました。

 ひとつ上のクラスのDMー25は、画面も大きくなり、バックライトもついているものの、その分サイズも大きくなっています。

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DM-25

 現在ではDMー100などという、ポメラの良さをすべて捨て去ったコンセプト迷走マシンも発売されている↓有様ですが、それも当然却下。

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 やはり、ポメラに自分の好みのものはないのか、と諦めかけた時、ポメラ・ガンダムシリーズを見つけました。

 これは、ポメラと機動戦士ガンダムのコラボレーション製品で、写真↓左から、ジオン軍モデル、シャア・アズナブル・モデル、ランバ・ラルの三種類があり、それぞれ、赤、緑、青(紺?)のコンセプトカラーとなっています。

 

 2010年の発売ですから、もう六年前の製品ですから、中古はともかく、新品でも価格はかなりこなれています。

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 型番の11Gからわかるように、内容的には10以上25未満の性能ということでしょうが、この塩梅(あんばい)が、とても良かった(11GのGはガンダムのGなのでしょう)。

 画面は25より小さく、バックライトはないものの、ファイルの階層化は可能で、10では未公認だった充電池eneloopが、メニューによる切り替えで公に使えるようになっています。

 あと、10にはなかった、「文章をQRコードにして画面に表示→コードをスマートフォンの対応アプリ」で読み込む機能も入っているようで、まあ、これは、あまり使わないでしょうが、あって損はないという感じです。

 ただ一つの欠点は、機動戦士ガンダムのコラボレーションということで、ケースもキーボードも、それぞれのモデルに応じた派手な色であるということです。

 シャア・アズナブルモデルはボディが真っ赤、それは良いのですが……

 キートップすら赤なので、打ち辛そうです。

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 ランバ・ラルモデルは、過度なデコレーションが恥ずかしいし(突起分、厚みも大きい)↓、

 ジオン軍モデル↓だけは、天板もキートップも黒に近いダーク・グリーンで、普段使っていても違和感がないようでした。

 

 FEPがATOKなのは良いとしても、「ガンダム特有の語変換が可能」との追加機能は、シャア、ジオン程度の著名ガンダム関連の単語しか知らない(覚えていない)わたしには、ほとんど意味がないのでした。

 確か、ファースト・シーズンは初回放映時にすべて観たはずなのですが、わがままいっぱい、不平いっぱいの主人公たちが好きになれず(後の「イデオン」のシチュエーションなら理解はできますが、ガンダムはぬるい)、ジオン軍内部の「醜い出世欲のぶつかりあい」はありがちな設定ですが、そこに愚かしいギャラントリ(騎士道精神)を埋め込む手法は、さらに好みではなかったので(ダンバインほどに吹っ切れればいっそ心地よいのですが)、その後、観なおすこともなく、内容はすっかり忘れ去っていたのです。

 ですから、ファンサービスとして、起動時に、ファースト・シーズンのタイトルをランダム表示し、スリープ時には印象的?なシーンを表示してくれる、という機能も、なければもっと良かった、あるいは、オフにできたら良かった、という感じですね↓。

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オープン時

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スリープ時

 さらに、ガンダム関係の単語なら、一発変換が可能という……

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 その機能も無駄ですが、それらは使わなければよいだけのことです。

 ともかく、店頭で現物を目にして、価格も安かったため、デザイン的に一番おとなしいジオン軍モデルを購入しました。

 使い始めると、多くの方が言っておられるように、かなり便利です。

 なにより……

 反射型モノクロTFT液晶は、くっきりと読みやすいですし、少し心配だった画面のサイズも、「下書きとしてとりあえず入力する」という目的には障害とはなりません。

 タイプ後は、コンピュータにUSB接続し、ポメラを外部ドライブとしてテキストデータを取り込むため、文章をQRコードにして、スマートフォンに読み込ませるという機能は使いませんが、いずれは役立つこともあるでしょう。

 ただ、ATOKらしく変換の方はイマイチで、谷文晁のチョウが出てきませんし円山応挙もすぐには出ない(なぜ骨董贋作人気ツートップの名前の変換が必要なのかはともかくとして)のは問題です。

 使いたい漢字が候補の中に無い場合は、

  1.一度コンピュータで吸い出してから入力後、ポメラに戻し、それを登録するか(迂遠すぎる!)

  2.shiftJISのコードをを調べて入力する

の二通りですが、ベストなのは、とりあえず平仮名で打っておいて、コンピュータで修正することでしょう。

 簡易な装置に過度な要求をしてはいけません。

 それに、人名に弱いのは、こういった非ネット接続変換ソフトの常ですから、追々学習させていけばよいのでしょう。

 人前で、起動、スリープさせるときは少し気を遣いますが、それ以外は、ガンダムモノであることも気づかれないですし、とりあえずの文章入力としては気に入っています。

 ちなみに、キーボードを閉じると、下のようなシールが貼ってあるので、これをはがすかどうか迷っています。

End

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ひょっとしたら最強? ~アントマン~

 この作品、数ヶ月前に劇場へ観に行っていながら、そのことをすっかり忘れていました。
 今回、レンタルが開始されたようなので、思い出して書いてみることにします。
 わたしたちの世代なら、アントマンといえば、悪の手先として奇声を発する、顔にぐるぐる渦巻きを描かれた下部戦闘員でした↓。

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 超人バロム1 怪人ドルゲの戦闘員アントマン
 しかし予告↓を観ればわかるように、

 この「アントマン」は、その他大勢、いわゆるモブキャラではありません。
 
 今回のアントマンは、犯罪者なのです。

 って、ドルゲの戦闘員とあまりかわらない気が……

 いえいえ、バロム1のアントマンが、マグマ大使の「人間もどき」の焼き直しであるのに対し、今回のアントマンは、犯罪者ではありますが、その罪は義侠心から生まれた犯罪であり、妻を知人の男に奪われたものの、いまも大事に思う愛娘(まなむすめ)のキャシーのために、更正しようと努力する善良パパなのです。

 だから、マーベルのヒーローになることができる。

 今回のアントマン(スコット・ラング)は(予告をみれば自明なように)拡大、縮小が自在なスーツを着用しています。

 1.5センチの男はヒーローになれるか?

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 映画の日本版キャッチコピー(ヤクルトとコラボレーションしていたようで、映画館でクリアファイルをもらいました)ですが、いかにアリやカブトムシなみにパワーがあっても、それではヒーローになることは不可能です。

 アニメ「ミクロイドZ」--いや、それはチャンピオン連載時の手塚治虫による原作のタイトルでした。アニメ化時は「ミクロイドS」ですね(ZがSに変わったのは、スポンサーがセイコー:服部時計店なのに、ZだとライバルのCITIZENを彷彿させるからダメという大人の事情)。

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 ともかく、ミクロイドのヤンマやアゲハやマメゾウのように、身体が小さいままなら、いかにすぐれた武器を持っていようとも、強いとは思えない。実際彼らは弱かった。

 体重が軽いからです。

 ん?しかし、開発者の説明によると、E.ハミルトンのキャプテン・フューチャーの時代から言われていたように、「モノを小さくするために原子間の距離を縮めている」ようなので、大きさはともかく、質量(オモサ)は同じということですね。

 だから、元のサイズのパワーを1.5センチになっても維持していて、人を殺すことも可能、だそうですが……その設定は少し安易すぎますね。

 それだと、後で出てくるファルコンとの戦闘で、彼の風によって吹き飛ばされるのがおかしい。身長1.5センチ、体重90キロの存在が、少々の風で吹き飛ぶはずが無いのですから。

 実際、映画を観ていても、それほどパワーがあるようにも見えない。

 やっぱり、アントマン弱そう!

 しかし、光速エスパーならゆっくりと、ウルトラセブンでさえ、巨大・縮小化する際にはある程度ラグ・タイムが存在する「体格変化」を、このアントマンは一瞬で行えるのです。

 こうなると、生物相手なら、ほぼ無敵となります。

 縮小化して体内に飛び込んで元のサイズにもどるだけで、殺傷することができるからです(実際に映画でも類似のことをやっています)。

 「身体を縮小することで攻撃をかわし、もとに戻して殴る」、という変形ヒット・アンド・アウェイも効果的です。

 スーツ開発者、ピム博士を演じるマイケル・ダグラスが、すっかり老けてしまったのは、ロマンシング・ストーンを劇場で観た世代としては少し悲しいですね(もうひとりの主人公、白いドレスのワシャウスキーC・ターナーはもっとすごいことになっていそうですが……)。

 体を縮小化ということから、まず「ミクロの決死圏」、そして「ミクロキッズ」を思い出したのですが、1990年頃に、原作者スタン・リーが映画化を考えていたそうですが、当時ディズニーが「ミクロキッズ」を作り始めていたので実現できなかったそうです。

 そう考えると、マーベル映画化人気の波に乗って、ついでに作られた作品ではなかったのですね。

 あと、この映画を観ることで、日本の政府がいうところの「再チャレンジの国」であるアメリカでも、やはり犯罪者の更正は難しいのがよくわかりました。経歴を知られた途端にクビになったりする。

 ムショ帰り差別によって困っている犯罪者に、その特殊技術を欲しがって、もとの犯罪者仲間が近づいてくるのはお決まりですが、アントマンで近づいてくるルイス、デイッブ、カートは、どちらかというと、96時間の独身バーベキュー仲間(実は戦友)に似た感じですね。

 途中、「アベンジャーズ」のファルコンと闘うのは、少し蛇足な気もしましたが、空を舞うファルコンと大小自在のアントマンの戦闘は見応えありました。

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 ラスト近く、制御を失って際限なく縮小し、原子レベルを超えて小さくなる……という設定は、ありがちではありますが、原始によってできている身体が原始より小さくなるって、どういうこと?と、タイム・パラドックスならぬ、サイズ・パラドックスを感じてしまいます。

 まあ、これもお約束の「ご都合主義的な起死回生」策で復活するのはマーベルらしい決着のつけかたでしたが。

 残念なのは、アントマンと、部下のアリたちとの(感情的な)関係がよくわからないことです。

 馬代わりにまたがる羽アリとの間に、何らかの信頼関係があるのはわかるのですが、それが、どういう感情に基づく(虫には感情などないという、作り手の判断かもしれませんが)のかが不明ですし(カガクテキに操っているだけというには献身的に見える)、その他大勢のモブ・アリによる、魁!男塾の「万人橋」のように、つながって橋をかけるシーンでも、アリの気持ちもスコットの気持ちもはっきりわからないため感情移入ができないのです。

 ただ、エンディングで、アントマンの「キャプテン・アメリカ」への出演が示唆されるのは、うれしい驚きでした。もう少し、アントマンの拡縮自在のアクションを観ていたいと思ったからです。

 人によっては、アリのような細かいものが、多数うごめく映像が苦手な方もおられるでしょう。

 そういった「ウジャウジャ」感に耐性がおありならば、ごらんになって損はない作品だと思います。

 自称、格闘のプロであるピム博士の娘のパンチが、まるで腰の入っていない「マトリックス式キアヌ・パンチ」なのも、しばらくすれば慣れてきます。


   

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持たざる者の叛乱 ~予告犯~

 「明日の予告を教えてやる!」
 それが、予告犯シンブンシのキメ台詞です。

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 ここからは、映画を観られたことを前提として書かせていただきます。
とりあえず、予告です。
 
 映画「予告犯」は、力なきものの世界に対する抵抗いや要求の物語です。
 ネットを使って犯罪予告を発信し、実行する。
 法律では白黒をつけられないが、確かに悪いことをした者を裁き、それをネット中継する。
 ツイッターで、暴行をうけた女性に「ウカウカついていくからいけないんじゃネ」といった男はシンブンシから元気玉をブチ込まれる。
 ネット利用してターゲットを選び、制裁シーンをネット中継する、とは、いかにもイマドキの若者が行う反逆です。
 被る仮面がシンブンシであるのもいいですね。
 彼らによけいなものに金をかける余裕はないからです。
 
 それに、公器を唱い、雑誌はともかく自分たちだけは軽減税率に食い込んで記者の年収一千万を守ろうとする大手新聞を使って素顔を隠すことこそ「持たざる者」のすることでしょう。
 しかし、一見、世の中に対する不満を、他者へ制裁を加えることで晴らしているように見える彼らの行動には、隠された目的があった。
 映画を観られた方ならご存じであるように、それは、若くして死んでしまった彼らの友人ヒョロ:ネルソン・カトー・リカルテの骨を、会いたがっていた行方知れずの父のもとに届けることです。
 人によっては、ゲイツがコトの顛末(リカルテを父のもとに届ける)を確認しないまま死んでしまうのは無責任だし、あり得ないような気がすると言っていますが、それは、持たざるものの現実を知らない人間の意見ではないかと思います。
 刑事:吉野絵理香も絞り出すように言っていました。
 「なぜ、他人に頼らなかったのか?」と。
 犯罪を犯し自殺するくらいなら「なんでもできる」はずだと。
 しかし、それは映画の中でゲイツの幻に言わせているように「そう思えるだけ幸せ」なのです。
 十等星程度の明るさでも、未来に光が見え、守るべき家族、立場、矜持がほんの少しでもあったなら、彼女の言葉は正しいでしょう。
 しかし、彼には何も無かった。頼るべき何ものも無かった。
 ゲイツは頼らなかったのではなく頼ることができなかったのです。
 おそらく、彼は他人に頼るには、他者に絶望し過ぎていたのでしょう。
 他人に絶望し、自分に絶望し、未来に絶望した男。
 ゲイツのただ一つの望みは、ビデオで言っていたように「友達がほしい」でした。
 産廃作業所で知り合った仲間たちと「友達」になって、彼の夢はかないましたが、その友達のひとりヒョロが、父に会いたいと言い残して死亡し、その死を愚弄した産廃業者の石田清志を激昂したメタボが殺した時に、彼の絶望はピークに達したのでしょう。
 今までも順風な人生からは逸脱していたけれど、これで俺の人生は「もう」終わったと。
 この「終わった」という絶望感は、味わったものにしかわからない。
 ああ、終わった。
 もう自分には何もない……
 過去には何も残らず、未来に光明は見えず、寂寥の孤独があるのみ。
 本当は、そんなことはないのですが、今までぶつかってきた世間の壁の厚さと、人の世の薄情さが、それ以外の気持ちを生み出させないのです。
 その気持ちはわかる。本当にわかります。
 わたしも、大きく頷いてその絶望の流れに身を任せたくなることが頻繁にある。
 が、その気持ちの流れに逆らい、足を踏みしめて、あえて「それは間違っている」といいたいのです。
 刑事吉野とは違う意味で。
 蓮っ葉(本来女性用ですが)な言い方をすれば、ゲイツは、誰でもよいから、つきあう女を見つければよかったのですよ。(問題発言を承知でいわせてもらえば)顔もプロポーションも、いや性格すら問わず誰でもよいから。
 多くの男は、そばに女性がいるだけで、その体温を感じるだけで、生きる希望になり得るのですから。
 でも、彼は恋人を持たず、子供を作らず、いやそれどころか、おそらくは不犯のまま逝くことを選んでしまった。
 誰かひとりでも良いから、暖かく接してくれる人物に出会えば、彼の未来は変わっていたかもしれない。
 世の中は冷たいだけではないという反例をひとつ手に入れさえすれば。
 「反例」、それはなにも哲学的な命題を否定するだけのものではありません。
 白いカラスを一羽目にするだけで、カラスは黒いという人の心象風景も一変してしまうのですから。
 とはいえ、ゲイツ(たち)は、産廃管理人をオリエント急行殺人事件のように全員で殺し、そろって自殺しようとして……最後にやることを思いついたのです。
 はじめに書いたように、ネルソン・カトー・リカルテの父親を捜し出し、彼の骨を渡すこと。
 そして、その後に死ぬ。
 つまり、少なくともゲイツの中では、自殺することは決定事項で変更はないのです。
 持てる能力と、インターネットカフェ店長用のワンタイム・パスワードを使って、できるかぎり、最後の目標に近づくだけです。
 おそらくは、そのついでに、自分たちが生きた証として、シンブンシとして、社会に爪痕を残そうと、「予告犯」というキャラクターを作り出したのでしょう。
 正体を隠し、企業倫理を忘れた食品会社に火を放ち不埒な男に鉄槌を下し、政治家の命をねらうことで、警察のみならず、公安を巻き込んでネルソン・カトー・リカルデについて調べさせた。
 繰り返しますが、ことゲイツに関していえば、彼はすでに生ける死人であり、その猶予期間の間に、リカルデの父親を国家機関を使って探させただけなのです。
 やれることをやったあとで、実際にどうなるかは問題ではない。
 要するに、死ぬ前の自己満足に過ぎないのですから。
 さらに、一度は共に死のうと誓った仲間たちの、生への強い執着を知った彼は、仲間には黙って、自分ひとりが主犯になるように策を立て実行します。
 しかし、彼自身の死への覚悟は何も変わりません。
 自分が死ぬことで、仲間の罪が軽くなるのも計算のうちです。
 ただ、原作とは違って、刑事たちに「奥田に脅かされてやったんだろう」と言わせて、国家権力がすっかり騙されたような演出をしてしまったのは失敗だったように思います。
 警察はそれほど馬鹿ではありませんから。
 映画を観たあとで、WOWWOW制作の「予告犯 ーTHE PAINー」も観ました。
 東山紀之主演の、ネット上で裁判を行う異色作です。時系列としては、映画版のしばらく後の話でしょうか。
 映画ほどの感動はありませんが、これもなかなかの力作です。
 公式サイトはこちらです。

DVD


コミックス(全3巻)


DVD 予告犯 ペイン

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やせ我慢は美徳それとも悪? ~母と暮らせば~

 わたしは、映画とは、日常と違うものを見聞きし、2時間ばかりの時間だけでも、辛き浮き世の憂さ晴らしをするためのものだと考えています。
 ですから、気分が暗くなるような、精神を病んだ人物ばかりが登場するような映画はなるべく避け、そういった小説も極力読まないようにしています。
 戦争映画は基本的に観ません。
 かつての景気の良い(一方的な見方による)勧善懲悪戦争映画なら娯楽作品として観ることもありますが、最近の、小難しく悲惨な戦争映画(一時流行ったベトナム戦争ものや、ユダヤ人迫害に関するもの)、とりわけ負け戦の映画はいけません。
 日本の戦後は敗戦で始まったのですから、当然、邦画の戦争映画は負け戦ばかりです。(1945年、日本は「敗戦」したのに、いまは「終戦」と表されることが多いですね。敗と終ではまるで意味合いが違うのですが)
 とまれ、負け戦を観て楽しい気分になどなるはずはありませんから、わたしは邦画の戦争映画はほとんど観ないのです。
 終戦がまだ昔話でない1950,60年代には、「兵隊やくざシリーズ」や「愚連隊西へ」などのパワーのある破天荒な戦争映画もありましたが、戦後が遠のく(という表現は、妙な気がします。いまも戦後なのだから)につれて、あの苦しさ辛さ忘れまじ、の気持ちが強くなりすぎたためか、1950年代より悲惨な戦中・戦後映画が多くなったような気がします。
 これは奇妙なことです。戦後すぐの頃は、実際に家族を亡くし戦闘に加わっていた人々が大勢いたはずなのに。
 戦争の現実を知っているからこそ、戦後の苦しさも含めて、それを吹き飛ばすパワーが必要であったのでしょうか。
 あるいは、そのころの高度経済成長期の高揚感と相まって、「景気の良い」戦争映画が作られたのかもしれません。
 ともかく、わたしは戦争がらみの邦画は好んでは観ないのです。
 近年は、戦後70年の節目前後ということで、邦画では戦中戦後映画が多くつくられていますが、それらも観るつもりはまったくありませんでした……が、
 今回、付き添いで、「母と暮らせば」を観にいくことになってしまいました。

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 事前の情報として知っていたのは、戦争で死んだ息子が亡霊(幽霊?)となって母の元に帰ってくる話、ということだけだったので、ハムレットよろしく青白い顔をした息子が母親と陰気な会話を交わすのか、いや、「男はつらいよ」の山田洋次監督だから、もっとコメディタッチに仕上げ、「異人たちとの夏」風にするのかも、とりあえず我慢して観るしかあるまい、と思いつつ、椅子に座りました。
 そして2時間後……
 泣きました。
 泣いてしまいました。
 しかし、その涙は戦争の悲惨さ(おもに長崎原爆投下の)によるものではありません。
 胸に重く響いたのは、ひとりの女性の「やせ我慢の生き様」でした。
 山田洋次監督の 「母と暮らせば」は、幽霊とその母との交流を描くスーパーナチュラルな話ではなく、ひとり残されて、辛くて苦しくて寂しい女性が、それでも人に頼らず「やせ我慢」して、醜く生きることを拒み、身を潔く処する映画でした。
 さらに誤解を恐れずいってしまうと、この映画は、戦争によって愛する者すべてを失った女性が、最後に残った「身内」、息子の婚約者を自分から解放し、自身をも孤独から解放するために、息子の幽霊を「作り出す」話なのです。
 わたしは、やせ我慢を描く話が大好きです。
 小松左京氏の作品で一番好きなのは「やせ我慢の系譜」だし、なにより「ハードボイルド」とは、やせ我慢の二つ名であるのですから。
 上で、母が息子の幽霊を作り出した、と書きました。
 この映画は、幽霊の息子と母との交流を描く話ではありますが、幽霊は実在しません。
 息子が蓄音機を聴くところや、ラストの描写(子供が幽霊に気づくところ)など、幽霊を肯定するような描写はありますが、「母と暮らせば」において、幽霊は母親の内部にのみ存在するのです。
 それは、死後三年を経て、息子生存の希望をなくし、自分を犠牲にして義母に尽くそうとする息子の許嫁を解放した女性が、「モウコレデヨイダロウ」と自分の生に区切りをつけるために、脳内に生み出した影なのでしょう。
 もうすこし踏み込んで書けば、主人公の母親はキリスト者であり、自殺することはできないため、死を自分のもとへ引き寄せる一助として息子の幽霊を生み出した、とみることもできます。
 さらに、後ろめたさを感じながら、つい弱さから手を出していた闇物資をあきらめるためにも、幻の息子の叱責が必要だったのでしょう。
 この映画は、現代日本では禁じられていることを、ふたつ破っています。
 「過度に我慢すること」と「自裁すること」
 今の時代、「我慢はしちゃだめだよ。自分をさらけ出しなさい」「決して自分で死を選んではいけない」は、定番フレーズです。
 しかし、夫を亡くし、長男を南方で亡くし、最後に残った次男を長崎の原爆投下で亡くし、唯一自分が頼れる許嫁を手放さなければならなかった女性。
 周囲の人々は優しくはあるけれど、皆、生きることに精一杯で、彼女にまで気を配ることはできないが故の孤独。
 それでも、彼女は泣き言をいわず、ひとり赤ん坊をとりあげ(彼女は産婆なのです)、部屋を片付け生活を続けます。
 しかし、日々絶望は深まっていきます。
 その身は潔く行きたいけれど、このまま生きれば、世間に泣き言を言い、生活に負けてしまうこともあるだろう。
 優しくしてくれる、生活力のある闇屋の男に身を任せることもあるかもしれない。
 放射能の影響か、体調も悪い。
 そんな彼女が自分の生に区切りをつけるため、あるいは体調不良による死の予感を感じたからこそ、人生の最後に笑顔を取り戻すために息子の幽霊を生み出した……
 それが「母と暮らせば」という映画ではないでしょうか。
 ラストの展開と演出は、少し宗教色が強すぎるとも思いましたが、わたしは、人が死ぬ間際に見る極楽浄土は、脳において最後まで機能する部分が見せる幻覚だと信じる者なので、ああいったこともあるだろうと納得できます。
 しかしながら……
 もし、手塚治虫の「ブラックジャック」のエピソードのように、彼女が、その身体に、同時に爆発にあった家族の手足を移植されていたなら、一人で暮らしながらも、手に話しかけ、足に話しかけ、内臓に話しかけながら、ひっそりと暮らしていけたかもしれないと思うと、つくづく人は孤独では生きていけないのだという思いを強くしました。
 基本的に、お茶の間で、母と息子の二人に昔話を語らせるものがたりなので、二人劇としての舞台化に向いていると思います。

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どこにも行かず永遠にそばにいて ~EVA(エヴァ)~

 EVAは、2011年スペインの映画です。

 詳細に関してはこちらを観ていただくとして……

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 主人公アレックスが、雪の街に帰ってくるところから映画は始まります。
 全体に白い感じのする美しい映像が好みです(雪の街だから当然ですが)。
 冷たく美しいスペインのサンタ・イレーネ。
 しかし、なにより心を奪われたのは、天才ロボット学者である主人公(2041年の近未来の話なのです)が連れているガトー(猫)グリスです。
 グリスは、ただの猫ではありません。
 自律型(非合法だそうです)ロボットのプロトタイプとして彼がつくったロボット・ガトーなのです。
 雪の寒さをものともせず、優雅に気ままに、そして軽やかに金属性の体をくねらせて主人公のあとをついていくペット。

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 アレックスは、ある事情から故郷スペインを捨て、長らくオーストラリアで暮らしていたものの、大学の恩師から、彼が大学を去る時に残していった自律型ロボットの研究案を実施する(人間らしい感情を作り出す)ために呼び戻されました。
 いったん大学に寄って、研究は自宅ですると宣言した彼は、科学者であった両親がなくなったあと空き家になっていた生家(すばらしく魅力的な半地下の研究室がある!)に帰ります。
 感心したのは、グリスが庭を横切る際に小さな墓に気づき、少し首を傾げて通り過ぎる演出です。
 その、いかにも子供が作ったような素朴な墓には「グリス」と書いてありました。
 家に入ると、暖炉の上の写真立てには、アレックスとダヴィッドらしき子供が猫を抱いている写真が……
 グリスは、アレックスが子供の時に飼っていた猫だったのですね。
 だから、彼は、自身の研究分野である自律型ロボット(自らの意志で気ままに動くロボット)のプロトタイプに猫を選んで、いつもつれて歩いているのです。
 この「死なない猫」、いつまでも気ままにわがままに側にいてくれる相棒、抱きしめても、その内部に命の砂時計が落ちる音を感じてしまって悲しくなる生身の猫とは違う安心感のある猫、この存在がわたしにはうれしかったのです。
 確かにその後に登場するタイトルの少女EVAも、わがままでコケティッシュで魅力的ですが、人間がコケットさで(グリスが雌であろうとなかろうと)猫にかなうはずもなく、どちらかを選べと言われたら、わたしは迷わず猫をとります。
 物語は、今や弟を超えてロボット研究の第一人者になった兄ダヴィッドと、かつての恋人ラナ、そしてその娘であることがわかったEVAを軸に進み……
 悲劇的に幕を閉じます。
 エンディングに、どことなくアシモフの「I,robot」の「うそつき」の影響を感じました。
 余談ながら、兄ダヴィッドの設計になる執事ロボット・マックスも魅力的です。
 弟は、天才的なセンスで未来の生物「自律型ロボット」を作ろうとし、一方、兄は実用的で堅実な執事ロボットを完成させていたのですね。
 あと、大学におけるロボット実験の描写も魅力的で、自立(自律ではなく!)ロボットを研究した学生時代を思い出しました。(もちろん、わたしの実験など児戯にも等しいものでしたが)
 わたしも、映画の中で使われた、ホログラムで空中投影されたクリスタルのようなニューロンブロックを組み合わせて神経プログラムをつくりたかった。
 スペイン映画は久しぶりに観ましたが、スペイン語の響きは美しくて良いですね。
 英語や日本語(それと少しドイツ語も)は会話と意思疎通の手段ですが、スペイン語はイタリア語に似て(実際似ていますが)、音楽的でいかにもガイコクゴという感じがして好みです。

 予告編を張っておきます。


 


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2016年1月28日 (木)

タイガー バニー ~鏑木虎徹フィギュア~

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 アニメ「タイガーバニー」は、もう五年前の作品になりますが、2014年にはテレビシリーズの続編である「タイガーバニー ライジング」が作られ、ハリウッドでは、映画「アメリカン・グラフィティ」のロン・ハワード、いや、あれは役者時代の彼でした、名作「バックドラフト」「アポロ13」の監督でもあるロンがプロデューサーを勤めて、タイガーバニーを映像化すると発表されました。
 彼自身の、最大限、日本のオリジナルを尊重する、という発言もあるということで、完成を楽しみにしています。
 ハリウッドが、日本のヒーローアニメの実写化、しかも、日本では人気があるとはいえ、「進撃の巨人」や「エヴァンゲリヲン」などに比べたら、世界的には知名度の低い「タイガーバニー」を取り上げるのは奇妙な気がします。
 実際、このブログをお読みの方の中でも、初めて名前を聞いた方も多いのではないでしょうか。
 しかしながら、ハリウッドが、日本の(少し特殊とはいえ)ヒーローものに食指を動かすのは、アメリカで人気のコミックは、ほとんどがマーベル社の作品で、その多くはすでに映像化権を押さえられていて自由にはならないというお家事情が関係しているのかもしれません。
 わたしも「タイガーバニーは」初回放送の時に飛び飛びに観ただけなので、この機会に、DVDで、全25話を観なおしてみました。
 企業に所属し、体中にロゴを張り付けたサラリーマン・ヒーローの悲哀と矜持は魅力的ですし、パラレル・ワールドとはいえ、携帯電話やホログラム、単分子ワイヤーなど、ところどころ不均衡に科学の発達した1970年代のニューヨーク(作中ではシュテルン・ビルトと呼ばれますが)は、自分も住んでみたい、と思わせるほど美しい街として描かれています。

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 なにより、主役の熱血漢中年、鏑木虎徹と若きハンサム、バーナビー・ブルックス・Jrが、はじめは反目しあっていたものの、徐々に心を通わせ信頼関係を築いていく、いわゆる「バディもの」の王道を描く作品として、日本に根強いファンがいて、ロン・ハワードが惚れ込むのもわかります。
後半のオープニング・テーマ


 シリーズをイッキ観すると、フィギュアがほしくなりました。
 ネットで調べると、鏑木虎徹フィギュアが900円ほどで売ってるじゃないですか。
 さっそく購入し、作中に登場するバニー人形も自作し、手芸店で購入したレンガ粘土でペーヴメントを作って、ケースにいれて展示しました。

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 エピソード「当たってくだけろ!」内で登場したバーナビーへのプレゼント、ピンクのフラット・バニー(勝手に名付けました)は、このフィギュアにはなくてはならないものです、が、ヒゲが難しい労作でした。

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寝れば消える  ~リピーテッド~

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 アウトドア派の合い言葉「焼けば食える」に似ていますが、そんな話ではありません。
 エイリアン、プロメテウスのリドリー・スコット監督、ニコール・キッドマン主演、英国王のスピーチ、キングスマンのコリン・ファースが脇を固めるミステリー映画です。
 タイトルからわかるように(原題は「眠りにつく前に」ですが)、一日が過ぎて、一晩眠ると前日の記憶を忘れる高次脳機能障害の女性が主人公の映画です。

 予告を張っておきます。




 ブルーレイで観ましたが、結論からいうと、なんとも物足りない映画でした。

なぜ、面識のない精神科医が、お節介にも自分から彼女に接触し、ビデオカメラではなく、パナソニック製LUMIXカメラを渡し、その動画機能でビデオ撮影をさせるのか?

 研究のため、というだけでは納得がいきません。原作ではもっと詳しい説明がなされているのかもしれませんが。映画ではわからない。
 とにかく、92分という短尺のせいか、至るところが舌足らずの印象をうけました。

 最後に、もう一度、驚愕の大どんでん返し(って若い人にはわかるかな)があると思っていたのに、とんだ肩すかしの映画でした。

 ただ……

「わたしの記憶は寝れば消えてしまう。わたしは40歳、もう人生の半分は生きてしまった……」とカメラのビデオに語りかけるキッドマンの演技はよかった。

 なによりもまず最初に、「美しい」という形容をつけられ続けたニコール・キッドマンが、美しさは充分残しながらも「もう人性の半分は過ぎた」中年女性を「演じ」つつ、「実際」に加齢による年齢を感じさせるのが少しもの悲しくなる映画です。

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江戸ラブ ~百日紅~

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 百日紅 ~Miss Hokusai ~ 公式サイト
 以前、池波正太郎氏を指して、祖母が若き頃を生き、幼かった彼に話し聞かせてくれた「江戸の世相」のカプセル化を、狂おしいまでの情熱でもって行った作家と書きました。
 今回、紹介する「百日紅」もそういった作品のひとつです。
 作者の杉浦日向子は、NHKで放送された「コメディーお江戸でござる」の江戸風俗解説者として知られた漫画家で、死の数ヶ月前に、病を得て番組を降板する時すら、「念願だった豪華客船で世界一周旅行に行ってきます」と洒落っけを示した数寄者です。
 そういった作者の描く原作を「クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲」の原恵一監督が撮ったのが「百日紅」です。
 主人公は葛飾北斎の娘お栄(応為)です。
 百日紅は、東海道五十三次を描く十数年前、まだ五十過ぎの北斎と、その娘の二十三歳のお栄との破天荒な絵師の暮らしぶりを描く作品……ではなく、原監督の狙いは、彼らの目と生活を通じて「生きた」江戸の世界を描くことでした。
 夏から始まり、秋、冬、春、と江戸の四季を経験する。
 暑いときは暑いなりに、寒いときは寒いなり、気候のよいときは、思い切りのびをして。
 江戸の風物を織り込みながら、原監督は、北斎とその娘の生活を描いていきます。
 その合間に、体が弱く、生まれつき盲目の妹、お猶(なお)との交流があり、そして、そこにあることが当然であるかのように、自然に描かれる怪異現象。
 これは、原監督の考えではなく、もともとの作者の考えなのでしょう。
 江戸時代には、日常のすぐとなりに怪異現が共存していたのです。
 わたしもそう思います。
 物が燃え、星が光り、物体が上から下に落下するのは物理現象ですが、幽霊が、見え聞こえるのは認知現象ですから。
 皆が「それが存在する」という共通認識を持った世界なら、人々の間に「それ」は存在するのです。
 たとえば、誰かが部屋の隅を指さし、「ほら、あそこに何かいる」と叫ぶと、その場にいた人々には、なにか茫洋としたものが見えます。
 さらに「赤い着物を着て小さな子供よ」と言葉を継げば、ぼんやりとした固まりは、その言葉通りに、小さな子供の形をとるでしょう。
 いや、これは、昔は、人の感覚を誰かの言葉でミスリードできるということを言ってるのではありません。
 もちろん、意図的にそうすることは可能だったでしょうし、それを使って人心を掌握するものもいたでしょう。新興宗教のように。
 しかし、そういった意図はなくとも、皆の間に共通の「怪異認識」が根強くあれば、何かのきっかけで、それが発動し、用意に怪異現象が実在してしまうのです。
 つまり、現代とは違い(と信じたいですが)、江戸時代には、ごく自然に妖怪が存在した。
 ですから、江戸時代を描写するのに、安易に、現代の科学万能主義者を登場させてはいけないと思うのです。 主人公あるいは登場人物の「先進性」を示して、キャラクターを立てたいがゆえに、まるで現代人がタイムスリップしたような言動をとらせるのは、安易すぎると思うのです。
 その点、「百日紅」では、主人公を含めて、怪異現象は自明のものとして容認されています。
 それが、存在するものとして恐れず共存していくのです。
 「百日紅」は、江戸の風景、風物詩ともに、さまざまに現れる怪奇も楽しめる映画です。
 
 最後に、下の「予告編」でも言っていますが、
「どうってことない暮らしだけど、結構楽しくやってる……」
 昨日を振り返らず、明日を憂えず、今日ある些細なことを楽しむ。
 これこそが、政変、天変地異、流行病、不安だらけの近世を生きた江戸庶民の本音だったのでしょう。
 この作品は、人との死別も含めて、日々を楽しむ「最良の江戸」を示してくれるよい作品だと思います。




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力なき者の抵抗 ~予告犯~

 「明日の予告を教えてやる!」

 それが、予告犯シンブンシのキメ台詞です。

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 ここからは、映画を観られたことを前提として書かせていただきます。

 とりあえず、予告です。

 

 映画「予告犯」は、力なきものの世界に対する抵抗いや要求の物語です。

ネットを使って犯罪予告を発信し、実行する。

 法律では白黒をつけられないが、確かに悪いことをした者を裁き、それをネット中継する。

 ツイッターで、暴行をうけた女性に「ウカウカついていくからいけないんじゃネ」といった男はシンブンシから元気玉をブチ込まれる。

 ネット利用してターゲットを選び、制裁シーンをネット中継する、とは、いかにもイマドキの若者が行う反逆です。

 被る仮面がシンブンシであるのもいいですね。

 彼らによけいなものに金をかける余裕はないからです。

 それに、公器を唱い、雑誌はともかく自分たちだけは軽減税率に食い込んで記者の年収一千万を守ろうとする大手新聞を使って素顔を隠すことこそ「持たざる者」のすることでしょう。

 しかし、一見、世の中に対する不満を、他者へ制裁を加えることで晴らしているように見える彼らの行動には、隠された目的があった。

 映画を観られた方ならご存じであるように、それは、若くして死んでしまった彼らの友人ヒョロ:ネルソン・カトー・リカルテの骨を、会いたがっていた行方知れずの父のもとに届けることです。

 人によっては、ゲイツがコトの顛末(リカルテを父のもとに届ける)を確認しないまま死んでしまうのは無責任だし、あり得ないような気がすると言っていますが、それは、持たざるものの現実を知らない人間の意見ではないかと思います。

 刑事:吉野絵理香も絞り出すように言っていました。

「なぜ、他人に頼らなかったのか?」と。

 犯罪を犯し自殺するくらいなら「なんでもできる」はずだと。

 しかし、それは映画の中でゲイツの幻に言わせているように「そう思えるだけ幸せ」なのです。

 十等星程度の明るさでも、未来に光が見え、守るべき家族、立場、矜持がほんの少しでもあったなら、彼女の言葉は正しいでしょう。

 しかし、彼には何も無かった。頼るべき何ものも無かった。

 ゲイツは頼らなかったのではなく頼ることができなかったのです。

 おそらく、彼は他人に頼るには、他者に絶望し過ぎていたのでしょう。

 他人に絶望し、自分に絶望し、未来に絶望した男。

 ゲイツのただ一つの望みは、ビデオで言っていたように「友達がほしい」でした。

 産廃作業所で知り合った仲間たちと「友達」になって、彼の夢はかないましたが、その友達のひとりヒョロが、父に会いたいと言い残して死亡し、その死を愚弄した産廃業者の石田清志を激昂したメタボが殺した時に、彼の絶望はピークに達したのでしょう。

 今までも順風な人生からは逸脱していたけれど、これで俺の人生は「もう」終わったと。

 この「終わった」という絶望感は、味わったものにしかわからない。

 ああ、終わった。

 もう自分には何もない……

 過去には何も残らず、未来に光明は見えず、寂寥の孤独があるのみ。

 本当は、そんなことはないのですが、今までぶつかってきた世間の壁の厚さと、人の世の薄情さが、それ以外の気持ちを生み出させないのです。

 その気持ちはわかる。本当にわかります。

 わたしも、大きく頷いてその絶望の流れに身を任せたくなることが頻繁にある。

 が、その気持ちの流れに逆らい、足を踏みしめて、あえて「それは間違っている」といいたいのです。

 刑事吉野とは違う意味で。

 蓮っ葉(本来女性用ですが)な言い方をすれば、ゲイツは、誰でもよいから、つきあう女を見つければよかったのですよ。(問題発言を承知でいわせてもらえば)顔もプロポーションも、いや性格すら問わず誰でもよいから。

 多くの男は、そばに女性がいるだけで、その体温を感じるだけで、生きる希望になり得るのですから。(もちろん、同じイキモノがさらなる絶望を生み出すこともままありますが……女性に甘えてクズ化が進む男もいますし)

 でも、彼は恋人を持たず、子供を作らず、いやそれどころか、おそらくは不犯のまま逝くことを選んでしまった。

 誰かひとりでも良いから、暖かく接してくれる人物に出会えば、彼の未来は変わっていたかもしれない。

 世の中は冷たいだけではないという反例をひとつ手に入れさえすれば。

 「反例」、それはなにも哲学的な命題を否定するだけのものではありません。

 白いカラスを一羽目にするだけで、カラスは黒いという人の心象風景も一変してしまうのですから。

 とはいえ、ゲイツ(たち)は、産廃管理人をオリエント急行殺人事件のように全員で殺し、そろって自殺しようとして……最後にやることを思いついたのです。

 はじめに書いたように、ネルソン・カトー・リカルテの父親を捜し出し、彼の骨を渡すこと。

 そして、その後に死ぬ。

 つまり、少なくともゲイツの中では、自殺することは決定事項で変更はないのです。

 持てる能力と、インターネットカフェ店長用のワンタイム・パスワードを使って、できるかぎり、最後の目標に近づくだけです。

 おそらくは、そのついでに、自分たちが生きた証として、シンブンシとして、社会に爪痕を残そうと、「予告犯」というキャラクターを作り出したのでしょう。

 正体を隠し、企業倫理を忘れた食品会社に火を放ち不埒な男に鉄槌を下し、政治家の命をねらうことで、警察のみならず、公安を巻き込んでネルソン・カトー・リカルデについて調べさせた。

 繰り返しますが、ことゲイツに関していえば、彼はすでに生ける死人であり、その猶予期間の間に、リカルデの父親を国家機関を使って探させただけなのです。

 やれることをやったあとで、実際にどうなるかは問題ではない。

 要するに、死ぬ前の自己満足に過ぎないのですから。

 さらに、一度は共に死のうと誓った仲間たちの、生への強い執着を知った彼は、仲間には黙って、自分ひとりが主犯になるように策を立て実行します。

 しかし、彼自身の死への覚悟は何も変わりません。

 自分が死ぬことで、仲間の罪が軽くなるのも計算のうちです。

 ただ、原作とは違って、刑事たちに「奥田に脅かされてやったんだろう」と言わせて、国家権力がすっかり騙されたような演出をしてしまったのは失だったように思います。

 警察はそれほど馬鹿ではありませんから。

 映画を観たあとで、WOWWOW制作の「予告犯 ーTHE PAINー」も観ました。

 東山紀之主演の、ネット上で裁判を行う異色作です。時系列としては、映画版のしばらく後の話でしょうか。

 映画ほどの感動はありませんが、これもなかなかの力作です。

 公式サイトはこちらです。

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wordpressで日本語入力が消えてしまう件

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 最近は、手のひらパソコンraspberry piで遊ぶことが多いのですが、Apacheサーバーを立ち上げ、SQL,、PHP5をセットアップしてwordpress日本語版をインストール後、記事を入力したところ、日本語表示できませんでした。
 半角英字は、タイトルも記事も表示されます。
 日本語も、記事一覧は表示され、再編集もできることから、SQLのデータベースには登録されているようですが、なぜか、タイトルだけしか表示されないのです。
タイトルをクリックして、記事を表示させようとすると、記事が見つかりません、と表示される。
 phpにおける文字コードがおかしいのでは、という記事をみて、.htaccessを設置したりしましたが、それも効果なし。
 三日ほど悩んだ後に、「wordpressのバージョンを上げたら表示されなくなったが、原因は、記事へのリンクがおかしくなっているだけなので、パーマリンクを再設定したらなおった」という記事を読んで、触ったことのなかったパーマリンク設定ページを開くと、カスタム設定にチェックが入っており、どうもこれが怪しそうだったので、「基本」にチェックをつけ直して保存すると、正常表示されるようになりました。
 困っている方がおられたら。お試し下さい。

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やせ我慢は美徳それとも悪? ~母と暮らせば~

 わたしは、映画とは、日常と違うものを見聞きし、2時間ばかりの時間だけでも、辛き浮き世の憂さ晴らしをするためのものだと考えています。


 ですから、気分が暗くなるような、精神を病んだ人物ばかりが登場するような映画はなるべく避け、そういった小説も極力読まないようにしています。


 戦争映画は基本的に観ません。


 かつての景気の良い(一方的な見方による)勧善懲悪戦争映画なら娯楽作品として観ることもありますが、最近の、小難しく悲惨な戦争映画(一時流行ったベトナム戦争ものや、ユダヤ人迫害に関するもの)、とりわけ負け戦の映画はいけません。


 日本の戦後は敗戦で始まったのですから、当然、邦画の戦争映画は負け戦ばかりです。(1945年、日本は「敗戦」したのに、いまは「終戦」と表されることが多いですね。敗と終ではまるで意味合いが違うのですが)

 とまれ、負け戦を観て楽しい気分になどなるはずはありませんから、わたしは邦画の戦争映画はほとんど観ないのです。

 終戦がまだ昔話でない1950,60年代には、「兵隊やくざシリーズ」や「愚連隊西へ」などのパワーのある破天荒な戦争映画もありましたが、戦後が遠のく(という表現は、妙な気がします。いまも戦後なのだから)につれて、あの苦しさ辛さ忘れまじ、の気持ちが強くなりすぎたためか、1950年代より悲惨な戦中・戦後映画が多くなったような気がします。

 これは奇妙なことです。戦後すぐの頃は、実際に家族を亡くし戦闘に加わっていた人々が大勢いたはずなのに。

 戦争の現実を知っているからこそ、戦後の苦しさも含めて、それを吹き飛ばすパワーが必要であったのでしょうか。

 あるいは、そのころの高度経済成長期の高揚感と相まって、「景気の良い」戦争映画が作られたのかもしれません。


 ともかく、わたしは戦争がらみの邦画は好んでは観ないのです。


 近年は、戦後70年の節目前後ということで、邦画では戦中戦後映画が多くつくられていますが、それらも観るつもりはまったくありませんでした……が、


 今回、付き添いで、「母と暮らせば」を観にいくことになってしまいました。



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 事前の情報として知っていたのは、戦争で死んだ息子が亡霊(幽霊?)となって母の元に帰ってくる話、ということだけだったので、ハムレットよろしく青白い顔をした息子が母親と陰気な会話を交わすのか、いや、「男はつらいよ」の山田洋次監督だから、もっとコメディタッチに仕上げ、「異人たちとの夏」風にするのかも、とりあえず我慢して観るしかあるまい、と思いつつ、椅子に座りました。


 そして2時間後……


 泣きました。


 泣いてしまいました。


 しかし、その涙は戦争の悲惨さ(おもに長崎原爆投下の)によるものではありません。


 胸に重く響いたのは、ひとりの女性の「やせ我慢の生き様」でした。


 山田洋次監督の 「母と暮らせば」は、幽霊とその母との交流を描くスーパーナチュラルな話ではなく、ひとり残されて、辛くて苦しくて寂しい女性が、それでも人に頼らず「やせ我慢」して、醜く生きることを拒み、身を潔く処する映画でした。


 さらに誤解を恐れずいってしまうと、この映画は、戦争によって愛する者すべてを失った女性が、最後に残った「身内」、息子の婚約者を自分から解放し、自身をも孤独から解放するために、息子の幽霊を「作り出す」話なのです。


 わたしは、やせ我慢を描く話が大好きです。

 小松左京氏の作品で一番好きなのは「やせ我慢の系譜」だし、なにより「ハードボイルド」とは、やせ我慢の二つ名であるのですから。


 上で、母が息子の幽霊を作り出した、と書きました。

 この映画は、幽霊の息子と母との交流を描く話ではありますが、幽霊は実在しません。

 息子が蓄音機を聴くところや、ラストの描写(子供が幽霊に気づくところ)など、幽霊を肯定するような描写はありますが、「母と暮らせば」において、幽霊は母親の内部にのみ存在するのです。

 それは、死後三年を経て、息子生存の希望をなくし、自分を犠牲にして義母に尽くそうとする息子の許嫁を解放した女性が、「モウコレデヨイダロウ」と自分の生に区切りをつけるために、脳内に生み出した影なのでしょう。


 もうすこし踏み込んで書けば、主人公の母親はキリスト者であり、自殺することはできないため、死を自分のもとへ引き寄せる一助として息子の幽霊を生み出した、とみることもできます。


 さらに、後ろめたさを感じながら、つい弱さから手を出していた闇物資をあきらめるためにも、幻の息子の叱責が必要だったのでしょう。


 この映画は、現代日本では禁じられていることを、ふたつ破っています。

 「過度に我慢すること」と「自裁すること」

 今の時代、「我慢はしちゃだめだよ。自分をさらけ出しなさい」「決して自分で死を選んではいけない」は、定番フレーズです。


 しかし、夫を亡くし、長男を南方で亡くし、最後に残った次男を長崎の原爆投下で亡くし、唯一自分が頼れる許嫁を手放さなければならなかった女性。

 周囲の人々は優しくはあるけれど、皆、生きることに精一杯で、彼女にまで気を配ることはできないが故の孤独。

 それでも、彼女は泣き言をいわず、ひとり赤ん坊をとりあげ(彼女は産婆なのです)、部屋を片付け生活を続けます。

 しかし、日々絶望は深まっていきます。

 その身は潔く行きたいけれど、このまま生きれば、世間に泣き言を言い、生活に負けてしまうこともあるだろう。

 優しくしてくれる、生活力のある闇屋の男に身を任せることもあるかもしれない。

 放射能の影響か、体調も悪い。

 そんな彼女が自分の生に区切りをつけるため、あるいは体調不良による死の予感を感じたからこそ、人生の最後に笑顔を取り戻すために息子の幽霊を生み出した……


 それが「母と暮らせば」という映画ではないでしょうか。


 ラストの展開と演出は、少し宗教色が強すぎるとも思いましたが、わたしは、人が死ぬ間際に見る極楽浄土は、脳において最後まで機能する部分が見せる幻覚だと信じる者なので、ああいったこともあるだろうと納得できます。


 しかしながら……


 もし、手塚治虫の「ブラックジャック」のエピソードのように、彼女が、その身体に、同時に爆発にあった家族の手足を移植されていたなら、一人で暮らしながらも、手に話しかけ、足に話しかけ、内臓に話しかけながら、ひっそりと暮らしていけたかもしれないと思うと、つくづく人は孤独では生きていけないのだという思いを強くしました。


 基本的に、お茶の間で、母と息子の二人に昔話を語らせるものがたりなので、二人劇としての舞台化に向いていると思います。

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埋められて  ~リミット~

 人は、なぜ暗闇を怖がるのでしょうか?  それはおそらく、遙か昔には――などといわずとも、近代前夜まで、暗闇には凶暴なケダモノや、悪辣(あくらつ)な同族(ヒト)が潜(ひそ)んでいて、実際に身の危険があったからでしょう。  だから、本能的に我々は暗闇を恐れる。  ヒトは光の反射光を水晶体で集め、網膜に投影して知覚しています。  だから、暗闇では何もみることができない。  見えない=状況認識ができない、ということは、先に書いた「隠れたケダモノ」や「行く手横たわる深い崖」などに気づかず、命を落とすことになりかねません。  ごく幼い頃、ふとんを並べて寝ていた姉は、天井板の隙間、衣装タンスの上を指さして、「あそこに何がいるような気がしない?」と、しばしばわたしに尋ねました。  わたし自身は、それほど暗闇が怖くなかったので、当時は、姉の言う意味がよくわからなかったのですが、モンスターズインクなどでも知られるように、海外では、衣装タンスの中に何かが隠れているという恐怖、クローゼットお化けが生みだされていることから考えても、洋の東西を問わず、そういった感覚は共有しているようです。  自分の目線より高い位置にある暗闇を恐れるのは、おそらく肉食獣が、木々の上から、我々獲物を狙っていた ことに由来するのでしょう。  また、姉は、だんだん天井が下がってきてはいないか?とも尋ねました。  こういった「隙間の向こう側の恐怖」あるいは「釣り天井の恐怖」の意味は、精神分析などによって、ある程度解明がされています。  釣り天井に関しては――個人的には「吊り天井」のほうがしっくりくるのですが――  映画でも、インディ・ジョーンズシリーズなどで描かれていますし、実際に、江戸時代の宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん):二代将軍秀忠を江戸幕府年寄の本多正純が、宇都宮にしかけた釣り天井で謀殺しようとした事件などもあります。  まあ、これは冤罪ともいわれていますが……  ですから、上から自分を圧して押し迫ってくる天井の恐怖、というのも洋の東西を問わないものなのでしょう。  さきに、わたしは暗闇が恐ろしくない、といいましたが、それは子供の頃から、アウトドア生活をしていたからだと思います。  海外の大自然の下ならともかく、日本では、熊や蛇以外「自然の脅威」はそれほど多くありません。  優しい自然なのです。  わたしの所属していたボーイスカウトでは、年長者になると、夜間ハイク(深夜に山道をハイキングする訓練)のコース沿いに一人横たわって、時間をおいてやってくるグループを威嚇させられたのですが――  人里離れた山中の、山道から外れたくぼみに、灯りを消し身を横たえて、じっとしていると、山の暗闇には孤独な静けさなどなく、多くの動物の豊穣(ほうじょう)な営みが繰り広げられているのがわかります。  同時に、自分の到達しうる知覚エリアが、際限なく広がっていくような錯覚も感じて、まるで恐怖など感じないのです。(この感覚は、布一枚隔てて、野外で眠るテント生活でも感じます)  何がいいたいかというと、「開放的な暗闇」は、それほどおそろしくない、ということです。  子供の頃、どこかの景勝地へ泊まりがけの旅行に出かけたとき、ホテルのロビーにおかれた漫画雑誌(今なら簡単に調べられます。少年キングでした)で、横山光輝の「白髪鬼」を読みました。  その内容が、あまりに衝撃的だったので、せっかくの、「滅多にいかない家族旅行」を最後まで楽しめなかったほどです。  「白髪鬼」――ご存じの方も多いでしょう。  Amazonnで復刻販売されています。  英国の作家、マリー・コレリの小説「ヴェンデッタ」を、黒岩涙香が翻案したものです。  ちなみに「翻案小説」とは、『外国作品から、その内容やあらすじ はそのままにして、風俗・地名・人名などを自国に合わせて翻訳した小説』ですね。つまりは、いわゆるパクリです。  海外事情に疎かった明治時代には通用した手法ですが、現在では少し難しいでしょうね。  もちろん、黒岩涙香が悪意をもって翻案したわけではありません。  面白い海外の話を日本に紹介するにあたって、馴染みのない、いやそれどころか拒絶されるかもしれない見知らぬ外国の土地、人名を使うより、日本に移し替えて訳した方が良い、という判断だったのでしょう。  しかし、ややこしいことに、横山光輝の、というより、現在日本で知られる「白髪鬼」は、涙香版をさらに、江戸川乱歩が翻案(というのでしょうか)したものです。  ストーリーはひと言で言えば復習譚(たん)です。  金があり、美しい妻のいる主人公が、妻と友人の計略にはまって、その全てを失い、復習する物語。  しかし、白髪鬼の「キモ」は、そこにはありません。  妻と友人の計略により殺された(実際は仮死状態)主人公は、地下の墓所(って、日本ではないですね。そんなところ。このあたりに翻案にムリがある)で蘇生する。  暗闇のなか、かろうじてボロ布に火をつけて、辺りをみまわすと、白骨と、くさりかけた死体の山また山。  狂ったように、爪をはがし、土をほり続ける主人公。この描写が恐ろしい。  子供の頃のわたしはこれに衝撃をうけたのですね。  暗闇はいい。開放的であれば。  しかし、閉鎖空間の暗闇は恐ろしい。  必死に板きれで土を掘り続ける主人公は、ついに、地上へ抜け出します。  しかし、あまり恐怖のために、顔かたちは変わってしまい、髪の毛は真っ白に……←これが白髪鬼の由来です。  やがて彼は、募集掘削中に見つけた莫大な宝石(って、これも日本ではおかしいねぇ)をモトデに、富豪の復讐者となって、妻と友人におそいかかるのです――って、まるでモンテクリスト伯(巌窟王)ですね。  ストーリーは面白い。  だいたい、復讐譚が面白くないわけがないのですから。  「男の人生の神髄は復讐にある。復讐――対象があればその者に、何もなければ自らの人生に対しての」  誰の言葉でしたか、若い頃のわたしの大好きな「格言」です。 「白髪鬼」は、広い地下墓所への閉じこめでしたが、もっと狭い場所に閉じこめられる方が、一般的で「現実的」でしょう。  エドガー・アラン・ポー(奇しくも江戸川乱歩の名前の由来者ですが)による、「早すぎた埋葬」。  カタレプシー病(緊張病症候群のひとつ:ホームズシリーズにも出てきましたね)によって、突然からだが動かなくなり、仮死状態に近くなる主人公は、その状態のまま「誤って」埋葬されることを恐れ、棺桶に呼び鈴をつけ、墓所は内側から開くように改造をしています(映画「ジョン・カーター」も同様の細工をしていましたね)。  しかし、ある夜目が覚めた彼は、自分が、呼び鈴のない棺桶に埋葬されていることに気づきます。 「しまった、一番恐れていた、旅先での埋葬をされてしまったのだ」  それからの主人公の気持ちの葛藤は、実際に小説を読んでいただくとして――  なにかで読んだ事がありますが、土葬の棺桶の蓋には、よく、爪でひっかいたような跡がついているそうです。  医学の未発達の時代、しかも土葬であれば、実際に「早すぎた埋葬」をされた者も少なからずいたのでしょう。  二十年ほど前に、土葬されていた祖父母の墓を移し替えたことがありますが、墓地を掘り返し、まだ完全に朽ちない棺桶の蓋を開けた時に、つい爪痕がついていないか確かめてしまいました。  さいわい、ふたりとも無事に亡くなっていたようで、安心しました。  祖父は白骨化、祖母はミイラ化していましたが、ともに、気持ち悪い、といった印象はまるで受けず、何というか、大英博物館で見たミイラのような感じでした。  それはともかく、現代は法的に火葬が義務づけられていますから、早すぎた埋葬は、「生きたままの火葬」というものに形をかえているのでしょう。  そういえば、筒井康隆の読心少女、七瀬シリーズに、そのテーマを扱ったものがありますね。  さすがは天才です。  で、今回御紹介する映画「リミット」は、まさしくそんな生き埋め映画です。  もともとのタイトルが、「Buried」(土に埋められる:埋葬)なのですから。  2010年の映画です。  で、その内容ですが、  あるトラック運転手が中近東で捕まり、気がつくと、棺桶の中に閉じこめられていた。  持ち物は、電池の切れかけた携帯電話、油のきれかけたライター、そして棺桶野中には、残り90分の酸素。  登場人物は、ほぼ一人。  演劇での恰好の独り舞台シチュエーションです。  ソウシリーズ同様の、シチュエーション・スリラーでもある。  しかし、ソウとは違い、たった一人の登場人物で、どうやって90分の映画に仕立てるのか、楽しみにしていたのですが……  結論からいうと「ガッカリ」しました。  公開から数年たっているので、ネタバレしますが、  まず、上にも書いた、公式サイトの 「電池の切れかけた携帯電話、油のきれかけたライター、そして棺桶野中には、残り90分の酸素」 が、完全なウソなのがいけない。  電話がいつまでも切れない……残り1ゲージでどれだけ長いあいだ電話してるの、という感じです。  ライターのオイルは無尽蔵みたいだし、酸素も豊富。  酒やライトスティック、懐中電灯、ナイフさえも、あとからあとからでてくるし。  さらに、結末がアレで、その上ストーリー上も釈然としない点が多々残される、とあっては、せっかくの「閉じこめられサスペンス」がもったいない。  観終わって、なんだか時間を損したように感じました。  そのおかげで「白髪鬼」やポー作品なども、思い出すことが出来たのは、収穫でしたが……  とにかく、あまりオススメできない映画です。

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開け!フタ! 腕時計の裏蓋オープン

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 上の工具、何に使うかおわかりでしょうか?
 
 実は、高気密防水時計の裏蓋をあける機械です。
 
 防滴程度の防水腕時計なら、裏蓋は、細いドライバーを時計本体との隙間にさしこんで、コジるだけで開きます。
 
 しかし、5気圧防水(50メートル防水)や10気圧防水(100メートル防水)の時計になると、そう簡単には開きません。
 
 電池切れになった時は、時計屋に頼むか、メーカーに依頼することになります。
 
 ところが、近所の時計屋さんに電池交換(1,000円程度)を頼むと、まず間違いなく、
 
「ウチでは、防水用パッキングを替えられないので、完全な防水を保証できません。もし、元通りの100m防水をお望みなら、メーカーに依頼することになりますが、お高くなります」
 
といわれます。
 
 数十万、数百万する高級時計ならともかく、日常用に買った、もともと一万円程度の時計なら電池交換に数千円かけるのはもったいない。
 
 どうせ防水が不完全で、費用も1000円程度かかるなら、いっそ工具を買って自分で蓋を開け、原価450円の酸化電池を交換したいと思うのが人の情?でしょう。
 
 
 というわけで、Amazonにて、1,000円あまりで購ったのが、上の工具です。
 
 回転式の時計の裏蓋というのは、こうなっています↓。
 

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 ちょっと見えにくいですが、赤丸で囲んだ部分が、わずかに凹んでいます。
 
 
 この凹みに、先程の工具の爪が、ぴったり入るように調整するのです。
 
 
 初めに、左端に上下ならんだ爪の幅を、間のダイアルを回して適当な間隔にします。
 
 次に、左端の持ち手部分を回して、左端の爪を左右に動かして調整。
 
 何度か、裏蓋に爪を当てながら……
 

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 そして、三つの爪が、凹みに合致すると、時計の下にタオルなどを敷いて、ガラスに傷がつかないようにしつつ、工具を蓋に押しつけ、回すのです。
 
 すると、裏蓋は回転し……
 
 みごと開けることができます。
 
 あとは、どこにでも売っている酸化電池を交換するだけですが、もう一度蓋を閉めるときに、中のパッキングをつぶさないように気をつけなければなりません。
 
 時計店では、大事をとって、もとの防水は保証できないといいますが、個人的には、パッキンをつぶさないようにしつつ、シリコン・グリスを塗って丁寧に締め直すと、ほぼ元通りの防水が保たれると思っています。
 
 こうして、わたしの時計は再び動き始めました。
 
 いまのところ、水の中深く沈める気にはなりませんが、おそらく、たぶん、まあ、だいたいの防水は保たれていると、信じておきましょう。

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