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2012年7月 6日 (金)

井の中の蛙・天狗の鼻

 大人と子供の違いは?と尋ねられたら――

 以前のわたしは、

「世間の恐ろしさを知っているかどうか」

 を挙げました。


 世の中に広く自分の力を問うて、世間における自分の評価を知り、人は「万能の人」からただの「凡夫」に成り下がって、一生を全うするからです。


 ――かつて、ヒトは母親の体内で万能であった。
 欲したことすべてがすぐに実現し、不平不満など、その存在すら知らなかった。
 この世に生みだされ、まず、自分の思い通りにならなくなったのは飢餓感だった。
 少し前まで「お腹がすいた」という感覚など知りもしなかったのに。
 ついで、このまったく自分の思い通りにならない排泄行為だ。

 うろ覚えですが、岸田秀の「きまぐれ精神分析」には、このような記述があったような気がします。


 生みだされ、幼児教育をへて、初等教育、高等教育へと進むにつれ、我々の可能性は小さくなり、成人するころには普通の大人ができあがります。

 それは、少々有名な大学を出ても、大学院を出ても変わりはない。



 しかし、それまでなら……高校や大学程度までなら、自分の能力にうぬぼれることなどあるかもしれない。

 特に歴然たる結果の残るスポーツ分野ではなく、知能知識の分野では。
 高校野球や陸上競技などでは、「できる」者と「できない」者の間には、どうしようもない壁が存在するといいますからね。
 
 本やマスコミで読み聴く限り、おろかな考えをしている人のなんと多いことか。
 ひょっとしたら、自分の力は、世に問うてみる価値があるかもしれない。

 そう錯覚することも、若さ故の無謀な冒険を後押しするひとつの考えでしょう。
 井の中の蛙(カワズ)パワーとでも呼ぶべき力です。

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 中には運が味方して、それがうまくいくことがあるかもしれない。

 もちろん、絶え間ない努力による広く大きな裾野のない、運だけの成功など長続きはしませんが。 


 とにかく、「世間知らず」であるからこそ、自信をもって世の中に飛び出ていける、そんなこともあったのですね。

 過去においては。

 しかしながら――


 今は不幸にして、ネットがあります。

 集合知としてネットに蓄積された知識・見識は、たとえ玉石混淆(ぎょくせきこんこう)といえども、 それぞれに読み取るべき智恵があり、無視できないものです。

 こういったネットの知識に、幼い頃から接している若者たちは、今、どう考えているのでしょう。

 わたしはそれが心配なのです。

 よく、若者をたしなめるために、年長者がいうセリフに、

「自分の頭が人より優れていると錯覚しない方がいい。お前ごときが思いつくことなど、もうとっくに思いついている者がいるんだよ」

というのがあります。

 これはこれで、ある程度年をとった時には非常に重要な見識ではあると思いますが、個人的には、若いうちにこんな考えを持つべきではないと思っています。

 無知ゆえの「素手で太陽を掴もうとするような」思い上がった行動が、時には必要だからです。

 しかし、疑問に思ったことを、ふと口にした途端に、

「ググれ!カス!」

 とののしられ、すぐにネットで調べる癖のついた現代の子供たちは、早い時期から、

「自分の考えるようなことを、もっと『エクセレントに』『深く』考えている人が、いくらでもいる」

ことを知って、

「どうせ、自分の思いつくことなんか、大したことはないんだよな」

と、諦めてしまうのではないでしょうか。

 それが心配です。


 若者が何かを成し遂げるためには、『オレ様』的な、根拠のない自信が必要な時もあるからです。

 さらに、心配なのは、ネットをさらって多くの知識のみを得て、頭デッカチとなったあげく、若者たちが、手にした知識を組み合わせて自分なりに新しいものを生みだす努力をしなくなることです。

 自分で考えるより、ネットを探って、もっと「正しい」知識を手に入れた方が早い、下手に付け焼き刃の知識を披露しても、恥をかくだけだ、そう思うようになるのが怖いのです。


 以下は、ネットにあった笑いバナシ(ではないのかも知れませんが)です。

 上司が部下に指示しました。

 「**について調べてくれ」

 数分後、部下がやってきて言いました。

 「調べましたが、わかりませんでした」

 「こんなすぐに、調べが終わったのかね」

 「ネットで検索してもわからなかったので、これ以上は調べても無駄です」

 「君ねぇ――」


 冗談であると信じたいのですが、あながちそうとも思えないのが恐ろしいところです。

 この話に対する書き込みの多くが、

「ググって分からなければ仕方なし!」

 という論調であったのも気にかかります。



 かつて、偽悪家ぶって世間にツバしていた、あの堀江貴文(ホリエモン)が、フジテレビを買収しようとしたときに言い放ったとされる、

「マスコミに記者なんていりませんよ。記事なんて取材しなくてもネットに落ちている」

という発言は、この現代の風潮を、何年も前に先取りしていたものであったと、感心するほどですね。


 堀江貴文に関して言えば、彼に関する報道その他を頭ごなしに信じるわけにもいきません。
 既得権で塗り固められたニッポンの老人支配社会に対して、生意気な発言をした若造を、「出る杭をうつ」ために、大手マスコミが一致団結して彼を陥れた、という疑惑がぬぐいきれないからです。


 いわずもがな、ですが、あえて書いておきますと、実のところ、ネットに載っている事柄の多くが真実の表層に過ぎないものです。

 本当に大切なもの、真理は、いまだネットに書かれていない部分にあることが多い。


 であるならば、われわれに必要なのは、ネットに書かれた文言(もんごん)から、書かれていない真実を取り出す、(使い古され過ぎて口にするのも恥ずかしいですが)メディア・リテラシーを自分の中で作り出すことなのです。


 その為には、自分の生の経験、あるいはネットで仕入れた知識を、タダ単にコピー&ペーストして「ダラダラと垂れ流す」のではなく、見識のある人々ほどの考えはないかもしれないが、これこそが自分の考えである、と胸をはって、スッキリとした形でネット上へ再発信する勇気が必要です。

 読むだけでなく発信することでこそ、メディアリテラシーは鍛えられるのですから。

 わたしは、メディア・リテラシー(情報を正しく読み解く能力)を持つことこそが、今後の大人の条件ではないかと思います。


 そう考えると、ツイッターで、とにかく自分の賛否をつけないまま、「人の意見を引用する発信」をおこなったあげく、

「お前はそんな考えなのか」
と突っ込まれた途端に、
「いや、僕はただこんな意見があるよ、と転載しただけだし――皆に紹介しただけで、自分も同意見だと思われるのは迷惑だ」

と、逃げをうった、ミュージシャンR・サカモトなどは、白髪になっても、まだまだ精神面がコドモだといわざるを得ません。


 個人的に、意見を発信する際には、少なくとも自分の賛否をつけておくか、意見を紹介するだけなら、その旨を書くのが最低限のマナーではないかと思います。


 どちらにでも逃げられるような発言の仕方は、いかにも成熟しないコドモの手法です。
 まあ、それが、ある意味字数の少ないツイッターの限界かも知れません。
 前に別項でも書きましたが、深い意見を書くのに適していないツイッターは、いま勢いを失いつつありますから。


 また、話がとりとめなく迷走しそうなので、もとに戻して結論をいいます。

 つまり――

 我々を含めた、これからのネット社会に生きていく若者たちに必要なのは、情報を調べるだけのネット利用ではなく、井の中の蛙となって、天狗の鼻を伸ばし、恥を恐れずに自分なりの意見を発信することなのではないか、ということですね。

 ああ、これってまるで自分自身に言い聞かせているような結論ぢゃないか……

 これはもう、人に意見しているのぢゃないぢゃないか

 かぶらやよ もう止せ こんな事は――

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