光と影に関する覚え書き
影というのは不思議なものです。
子供の頃、夕暮れ時に、自分の影が靴から長く伸びるのを観て、まるで巨人を連れて歩いているような気分になったことがあります。
「サスケ」のオープニングで、印象的に語られるアバンタイトル「光あるところに影がある……」でも分かるように、闇の中では影ができません。
影は、「光」と「実体」と「影が映る何か」の三要素がないとできないのです。
ある程度、標高の高い山に登ると、ブロッケン現象というものを眼にすることがあります。
稜線の上に立った自分の影が、足下(あしもと)にひろがる雲海や霧に二重に写って見えるのですね。
光輪、グローリーとも呼ばれるこの現象は、人をすり抜けた光が、雲や霧に「ミー散乱」されて、人影のまわりに虹のオーラを作るのです。
中学生の頃でしたか、誰かの小説で、
「地面に濃い影が出来ている、強烈な日差しのせいだ」
といった表現を読んで、なんとなく経験で知っていたものの、影の濃さ自体が「季節と天候」によって劇的に違うものなのだと、強く感銘をうけたことを覚えています。
そう、光があれば影ができる。
できなければならない。
あったところで、なんてことはない。
ならば、なくなっても同じこと。
そう考えたある男が、自分の影を売ってしまいます。
「ペーター・シュレミールの不思議な物語」、日本では「影を売った男」として有名なドイツ作家シャミッソーの作品の話です。
「売れる物なら どんなものでも売る それを支える欲望」とは、元気だったころの浜田省吾の詞でしたが、かなり厳しい貧困生活をしているなら、そういったことを考える人もいるでしょう、
あるいは影をドッペルゲンガー(二重に歩く者)と捉え、見たら数日で死ぬ、ゆえに避けるべき恐怖、倒すべき醜い自分自身として敵視する人もいます。
ドッペルゲンガーに関しては、「マユにツバ」してwikiあたりで読んでもらうとして、その中で、ちょっと興味がひかれるのは、ある大学教授の実験による「ボディーイメージを司る脳の領域に刺激を与えると、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するように感じられる」という記述です。
UFO(Unidentified Flying Object)やUMA(Unidentified Mysterious Animal:生物学的に確認されていない 未知の生物)なら、まだUnidentified(未確認)であるだけで、いずれ、その存在は「あるかないかのオルタナティブ(二者択一)」のどちらかに決定されるはずです。
しかし、幽霊やドッペルゲンガーあるいは臨死体験(例:死にかけた人が天界の音楽を聴いたり、盲目の人でさえ天の光を見ること)は、「ヒトの脳が外界を理解する仕組み」、いわゆる認知論が関わってくるために、それほど単純ではありません。
要は、信じたいものを信じ、見たいものを見ればよろしい、ということなのでしょうが。
ただ、個人的には――
死に臨(のぞ)んだ際、ヒトは最後まで活動している脳の部位が決まっていて、そいつが、至高の快感と歓びをもたらしてくれ、その中で死んでいくのだ
と考えるようにしています。
そう考えれば、かつてブッダが、イエスが行ったといわれている苦行の中で、中には神(あるいはアーリマン)の声を聞き、光を感じた者がいたことに理由がつきそうな気がするからです。(残念なことに、ブッダもイエスも見てはいないようです)
まあ、それが「愛別離苦(あいべつりく)・会者定離(えしゃじょうり)・艱難辛苦(かんなんしんく)ばかりの人の世に、神が与えたもうた最後の福音」などとは思いませんが。
いやいや、今は「影の自分自身」、そいつを見たら、近いうちに死んでしまうといわれているドッペルゲンガーの話でした。
影をさまざまなものに見立てて、ストーリーに生かすのは、ストーリーテラーとしては当然なことに思えます。
それほど、さまざまな意味を含んだ『影』は魅力的だからです。
わたしも、上記の臨死体験を、ホラー仕立てにして一篇を書いたことがあります。
エッシャー的に「奇妙に歪んだ山小屋」で、「不条理な体験を繰り返す」主人公と、そこに現れる「善なるクロネコ(あのチェシャ猫とは正反対な)」がおりなす話でした。
ホラーがらみは、あまり好きではないので、ここではアップしていませんが……
あと、影といえば、たとえば有名なのが、グウィンのゲド1「影との戦い」ですね。
ジブリが「ゲド戦記」で描いたのは壮年のゲドでしたが、ゲド1は少年時代のゲド(当時の名はハイタカ)が、傲(おご)り妬(ねた)みの心から、禁じられている魔法比べをおこなって、闇の世界から影呼び出してしまい、世界(アースシー)中を逃げ回る話です。
あるいは、小松左京氏の恐怖の名作「影が重なる時」――
ある日、ある小さな町の人々は、自分だけに見える静止した自分の影の存在に気づく。 他人は、平気でその影をすり抜けるが、自分だけは、そこに物理的に何かがあるようにぶつかってしまうのだった。
まるで、その空間が、そのヒトのためだけに「予約」されているように。
やがて主人公は、某大国が、近日中にスーパーノヴァ水爆の実験をすることを知り――自分の影が、つんのめった姿勢で静止している公園で、鳩に餌をやっている老人から、彼の影が持っている新聞が今日の日付であることを教えられ、恐怖のあまり駆けだし、自分の影に重なったとたん、強烈な光と熱が……
という話です。
いやあ、影の話ってのはだいたい怖い話が多いのですね。
もうやめましょう。
それでは最後に口直しを。
上で書いた「影を売った男」のエンディングについてです。
影をなくしたことで人々から疎(うと)まれ、愛する町娘と結婚できなくなりそうな彼の前に、約束通り1年後に影を買った男が現れます。
「影を返してほしい」
そういう彼に、男は言い放ちます
「臨終の際に魂を渡すならば」
なんだやっぱり、コイツも死神だったんですね。
まこと、『死神』は、西洋のご都合主義のキカイ、ギリシア劇におけるデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神:主人公が困ると天井からぶら下げられたゴンドラで救いにくる神)のような存在です。
不可思議が欲しければ死神を出せ。
教会もそれなら許してくれるはず、なんて打算も見えてしまう。
書かれたのが19世紀初頭ですから仕方がないのかも知れませんが。
さて、そういわれて、影を売った男はどうしたか?
悩んだあげく拒絶するんですね。
当然、町娘との結婚はオシャカ。
しかし、その後、彼は偶然から魔法の古靴(一歩で28キロ進む)を手に入れ、自然研究家として世界をかけめぐるのです。
物語後半、作者シャミッソーへの呼びかけの体裁をとったこの話(つまり、現実の男として描いているのですね。ホームズものみたいに)は、最後に影を売った男:ペーター・シュレミールが充実した人生を送ったことを記して終わっています。
なんだ、やっぱり影なんてなくても平気なんじゃないか、なんてね。
しかし、こういった、妙に先細りでない太い話は好きです。
日本でも、モンテクリスト泊のように、復讐をとげた後、若く美しい女性と手に手をとって、裕福に世界を旅する船旅にでる、なんて話が欲しいですね……無理でしょうが。
矢作俊彦の「暗闇のノーサイド」あたりが、わずかにそれに近いのかも知れませんが、ちょっと甘い気がします。
蛇足ながら書いておくと、最初に書いた「アバンタイトル」通称アバンは、アニメなどのオープニングで毎回使われるプロローグのことです。本来なら英語で「プレタイトル」と呼ぶべきところを、実写組・映画組にナメられたくなかったのか、アニメ界の人々がフランス語と英語が「ないまぜ」になった妙な言葉を生みだしてしまったようです。
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