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2012年6月 5日 (火)

スポーツは身体にわるい  ~運動者は求道者(ぐどうしゃ)であるべきか~

 世は、オウム真理教の逃亡犯が、密告され逮捕された話題でもちきりですが、わたしはヒネクレものなので、それについては書きません。


 新聞の「スポーツを考える」というコーナーで、ドイツ文学者の丘沢静也が、自身のスポーツ観について書いておられます。

 その内容が、含蓄(がんちく)と示唆(しさ)に富んだものものであったので、ここで紹介させていただきたいのです。


 が、その前に……

 スポーツ・運動が身体に悪い、ということが広く知られるようになったのはいつからでしょうか?

 少なくとも、わたしが子供のころは、運動不足はいけない、運動しろ、身体をうごかせ、スポーツに邁進しろ、スポーツの汗は美しい、などと、スポーツ礼賛の嵐であったような気がします。

 もちろん、スポーツは身体に良い。

 『ただし』やりすぎなければ。

 過度のスポーツは肉体的にも精神的にも人を蝕(むしば)み、生活そのものを破壊してしまいます。

 過ギタルハ及バザルガゴトシ


 適度の運動、スポーツが身体に良いことはいうまでもありません。

 が、問題は、何をもって「適度」であると判断するかです。


 さきの丘沢氏は、三十代半ばで、軽い運動を覚えて人生が変わったと書いておられます。

 少し引用しましょう。

「私にとって、運動は食事や排泄と同様なくてはならないものとなった。運動習慣病だ。ニーチェは、『人間は病気の動物である』と言ったが、どうせ病気なら生活習慣病より運動習慣病の方がいい」

 運動習慣病とは面白い表現ですが、その気持ちはわかります。

 氏は、この運動習慣病に「うまくかかり続けるため」に、頑張らないのが肝要だと断定します。

 芝生の上を、距離や回数ではなく、時間だけを決めてダラダラと走っていると心が軽くなる。「記録」も「記憶」も「感動」もほしくなくなる。

 氏は、なんだかいつのまにか、スポーツで金科玉条のように扱われるようになった上の三つの言葉など、有害で無用だと否定するのです。


「オリンピックの『より速く・より強く・より高く』に象徴される競技スポーツの文法を無視すれば静かなスポーツの気持ちよさ、マンネリズムの醍醐味(だいごみ)に浸ることができる」

 そして、氏は続けます。

「スポーツの語源は『気晴らし』であり、競争の意味はない」 と。

『より速く・より強く・より高く』は変わること、新しいことこそ意味があるという立場から生まれたスローガンだが、実は変わらないもの、ささやかな日常こそが大切なのだと、私たちは311以後痛感したのではないか。


 すばらしい見識であると思います。


 わたしには、現代という時代が、「見かけ上」プロフェッショナルとアマチュアの敷居が低くなったかのような『錯覚』を与えようと、教育とマスコミ報道による思考操作をしようと躍起になっているように思えてなりません。


 女の子は考えます。あの子がアイドルなら、わたしだってなれるはず!


 純粋能力主義のスポーツ界にあってさえ、アマチュアは思います。
 プロにはかなわないまでも、せめて、それに近づきたい。

 だから無理をしてしまう。

 あげく、肩から上に肘があがらず、腰痛で歩くこともままならず、膝痛(しっつう)で買い物に行くことすらままならなくなる。



 最後に、氏は、ある作家の書いた「走ることについて語るときに僕の語ること」をさして、こういいます。

 あ、どうせすぐにわかるので書いておくと、作家とは村上春樹です。

 「あの話を読んでいると息苦しくなる。

 走る楽しさが、ほとんど伝わってこない。

 スポーツを競技スポーツの文法で考えている。

 マラソンを完走することに小説を書くことを重ねている」


 これにはわたしも同感です。
 

 村上春樹は、おそらく「やるからには一番」を至上命題のひとつにしている人なのでしょう。


 もちろん、努力の目標を最上位に持っていくのはまちがっていない。

 しかし、こと自分の肉体を酷使する運動・スポーツを行うにあたって、たかがブンピツ屋が、自分の得意分野の、脳内処理作業がほとんどの小説書きと比べてマラソンを無理して頑張り、それをファンに披露するのはいかがなものか。


 もっといけないのは、スポーツで頑張りすぎるのはよくないのではないか、という、我が身をふりかえる余裕ある姿勢が、彼からはあまり感じられないことです。



 さきの丘沢氏は、以下のように文章を結んでいます。

 「求道者のようなその姿勢をカッコいいと思う人はたくさんいるらしいが、仕事の文法にとらわれない脱力系スポーツも、手軽で楽しい」



 アベベ、ザトペック、円谷(つむらや)幸吉など、走る上で求道者の表情になり、求道者としての末路を歩んだマラソンランナーは過去に多数います。

 しかし、彼らの多くは、国の栄光、自身の名声など、本来スポーツには無関係なお荷物を担いで走ったが故の求道者ブリだったのではないと、わたしは思うのです。

 だったら、自分で気ままに走るのに、グドーシャになる必要はないんじゃないでしょうか。

 走るだけでなく、バットの素振りやウッドの素振り、ラケットの素振りも含めて、運動する上で「グドーシャ」になると、たいてい肉体には悲劇が訪れるのだから(この場合は手ひどい腰痛です)。


 わたしには、アマチュア・スポーツに関する限り、素人のグドウシャ化は、ドウをとったグシャ(愚者)化と同義のような気がするのです。

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健康・生き残る体をつくる」カテゴリの記事

コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 履歴書の書き方 | 2012年6月19日 (火) 11時41分

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