現代そこつものがたり
粗忽(そこつ)を辞書で調べてみると、その第一義は、
粗忽 そこつ:軽はずみなこと、そそっかしいこと。
と、あります。
「粗忽長屋(そこつながや)」なんていう古典落語もありますね。
ああ、粗忽長屋……時代モノ、とくに江戸庶民の人情話を書こうとすると、小さな商家と長屋の描写は避けて通れません。
そのあたりに、下々の、貧乏な人々の生活が集中していたからです。
そして、長屋には様々な特色がありました。
――まあ、あった、というより、江戸っ子は「他と同じ、その他大勢」というのが嫌いだったので、わざと特色を出していたのだろうと、個人的には考えています。
話は横道にそれますが、この粗忽長屋、なかなか哲学的で意味深な話です。
古典落語には、西洋では学者やオエライ先生方が、眉間にシワをよせて考えるような「哲学的命題」を、庶民にわかるかたちで笑い話にして、「んなアホな~」という語り落ちにしてワッと笑わせ、家に帰ってから、「しかし不思議な話だったなぁ」ともう一度考えさせる、超々高度なユーモアとエスプリの混じったものが多い。
素晴らしい語り部(かたりべ)文化です。
粗忽長屋も、寺にお参りにでかけた長屋の住人ハチ(いわゆる八っつあん)が、門の前で行き倒れて死んでいる男を、親友の熊と間違えて、周りの人々の制止を振り切って、遺体を長屋に運んでしまいます。
もちろん、別人なので、熊は元気に長屋にいるのですが、そこから話は、なんというか、観念的な異次元空間に入り込んでしまうのですね。
普通なら、
「お、ハチ、お前生きていたか」
「なんだ、その死体は……」
「いやすっかり勘違いしちまったよ」
「そそっかしいヤツだよお前は」
なんて、一件落着のハズなのですが、落語では、熊がハチによって、運んできた死体が熊だと信じ込まされてしまう!のです。
ふたりで、ありし?日の熊をしのんで、死体を抱きしめ、大泣きに泣く愁嘆場(しゅうたんば)を演じたあげく、最後に熊のセリフでサゲ(オチ)になります。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」
むぅ。これはスゴイ落とし話ですぜ。
まったく粗忽なヤツぁよう……
ちなみに、わたしが初めて「そこつ」という言葉をしったのは、中学に入りたての頃に買った、三浦一郎著「世界史こぼればなし」のボロディン(ちょっとあやふやですが)の逸話によってでした。
そこつもので有名な彼が、あるひソファに座ろうとして、じゃまなぼろ布をゴミ箱に捨てると、それが突然泣き出した。
なんと、それは、最近生まれた彼の子供だったのだ。
まったく粗忽なヤツぁよう……
時代はうつって現代。
なんと、英国首相(夫妻)が、八つになる娘をパブに忘れて帰宅したそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120612-00000026-reut-int
まったく粗忽なヤツ……以下略。
英国ユーロ圏にあって、ポンドを維持するビミョーな国です。
そのややこしい国の首相がソコツモノであっては困るので、もう少ししっかりしてほしいところですね。
しかし夫婦そろって粗忽者とは……
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