自身も卓越したピアニストであった彼は、上記のような難易度の高い様々なピアノ小品を作曲したが、ピアノに携わる人々以外に、彼の名を広く知らしめたのは、交響曲「プロメテウス― 焔の詩」(Op.60、1910)と交響曲「法悦の詩」(Op.54、1908)であった。
特に「プロメテウス」は、鍵盤を押すと、それに応じた光が発せられるように指示されていた。
つまり「音と光の混ざった総合芸術」として作られたため、音楽性以外の「パフォーマンス芸術」としてもよく知られているのだ。
これについては、スクリャービンが『共感覚』の持ち主であったためとも言われている。
共感覚(シナスタジア)とは、ある外部刺激に対して、通常の感覚器以外からも刺激を感じる、特殊な知覚現象のことだ。
簡単にいえば、音が色になって見え、光を臭いによって感じるといった感覚の入れ替え(もちろん同時に両方を感じることもある)が共感覚だ。
比較的有名なのはフランツ・リストで、交響を指揮する時、「もっと赤を強く」などと指示をだした、という話を子供の頃に読んで、幼心にわたしは少なからぬ衝撃を受けたのだった。
その時の印象を元に共感覚をモチーフにした小説を書いたこともある。
共感覚は、一般とは違う認知力である。
それを持つ人間は、おそらく何らかの孤独感と疎外感を持たざるをえないのではないか。
だから、スクリャービンは、それを他者と共有したかったのでは?
あるいはそれを利用して新しい総合芸術の旗手となりたかった?
と、まあ、寄り道はこのくらいにして、初めの話にもどるが、先の音楽美術の教授の専攻が「スクリャービン」で、自身の研究発表の際に「プロメテ」(と彼女は呼んでいた)を本来の形で上演したいと考えた。
もちろん、そのためにオーケストラを雇う訳にはいかないので、曲はCDにまかせるとして、曲に応じてスクリャービンの指示した色の光を会議室にあふれさせたい、そのための方法を考えて欲しい、とわたしに頼んだのだ。
どうするか考えた後に、当時、出回りかけていたプロジェクターとノートパソコンをつないで、色を出すタイミング制御はDELPHI(懐かしいね)でプログラミングすることにして、なんとか要望に応えることができたのだった。
先の記事によると、「スクリャービンが求めた神秘性は確かに分かるが、ホール天井にうずまく光を見ていると音を忘れ、音を聴いていると色があまり自に入ちない。(梅津時比古氏)」とのことだった。
どうやら、ホールの天井に光を投影していたらしい。
それよりも、小規模でもよいから、壁面やスクリーンに光を当てた方が良かったのではないだろうか。
あるいは、いっそ会場をスモークでみたし、そこにレーザー光を投影して、ホール自体を色で満たすという演出も、今ならできたはずだ。
頭を上げて、天井の光を見る方式では、疲れが先に立って色と音を同時に感じることが難しかったのではないだろうか?
あるいは、音楽に造詣の深い人は、音楽は音楽のみで勝負すべきで、奇をてらった他の刺激を使うべきではないと考えたのかもしれない。
共感覚者の孤独と悲哀は、一般人には伝わりにくいのだろう。
しかし、共感覚者としてスクリャービンを捉えなおすと、彼の人生が理解しやすいものになる。
自分の感覚の風変わりさと、生来虚弱体質気味であったとされる肉体。
彼が、20世紀の初めに、ニーチェの超人思想に傾倒したのも、肉体の弱さと人との違いを知るが故の反動であったように見えるのだ。
その意味で、自らの虚弱体質を恐れて「極度の健康フェチ」であった彼が、唇の虫さされから炎症を起こし、やがて腫瘍による肺血漿で死んだことは、人生にままある痛烈な皮肉のようだ。
先に書いたように、今年で没後97年のスクリャービン。
三年後には、かなり盛況に没後百年イベントが開催されるかもしれない。
その時は、彼の考え方に沿った光と色のコンサートが開催されることを祈りたい。
p.s.
急逝により未完に終わった交響「神秘劇」は、光以外に匂いや触覚など「五感」に訴えかけるマルチメディア芸術を夢想していたのだという。
p.p.s
マルチメディア芸術について、正直にいえば、わたしも偉そうなことは書けない。
大枚十数ドル!をはたいてプラネタリウムの椅子に座ったのに、開始後数分で眠ってしまい、目が覚めたのは終了直前のことだった。
その全てをジェット・ラグ(時差ぼけ)のせいには、さすがにできないのだから。
コメント