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2012年5月28日 (月)

その方に関する考察 ~股間若衆(こかんわかしゅう)~

 東海林さだお氏の「男の分別学」の中に「アノ方に関する考察」という好文があります。

 要するに中間小説、ざっくりいうとエロ小説における、男性器・女性器の表現方法、描写、いいまわしをまとめた力作なのですが、考えてみると、そういった「エロ」関係のものって、小説だけじゃないのですねぇ。


 あ、今回は、ちょっとシモがかった話なので、女性の方(だけじゃないだろうけど)で、そういった方面の話が苦手な方は読み飛ばしてください。


 なぜ、こんな話を書き始めたかというと、本日の新聞の書評欄で、木下直之著「股間若衆(こかんわかしゅう)」という本の存在を知ったからです。

 この本は、日本の彫刻における男性裸像の「アノ部分」の扱いを、アカデミックかつ興味深く考察した本なのです。

 よく西洋のダビデ像やギリシア彫刻などでは、男性のアノ形そのものが、かなりリアルに表現されていますね。

 わたしたちも、最初は「おっ」と思っても、すぐに、まあこれは芸術作品だしな、と思って、それ以上深追いはしないように思います。

 西洋芸術至上主義がしみこんだ明治の彫刻界でも、海外からやってきた彫像のソノ部分は仕方なしとされていたようです。

 しかし、日本で作られる彫刻では、それはノー!

 今から104年前の文展(今の日展)に提出された当時を代表する彫刻家、白井雨山の男性裸像「箭調(やしら)べ」を前に著者はいいます。

 青年男子をモデルに制作された腹部や手先の表情は、見事なリアリズムといえるのに、男子の身体の核心たる股間の作りは何なのか?

 ソノ部分は、常人では到底隠れようのないサイズの、小さな葉っぱで完全に隠れているのだ。

 それは、(明治時代の)当局の監視が彫刻界にもおよび、摘発を恐れた彫刻家たちが、股間を布や手ぬぐいで隠すことがならいとなっていたからで、もしそのまま表現すればどうなっていたか?

 同じ文展に男子裸像を出した朝倉文夫は、チェックを受けて、泣く泣くその「リアルな闇」(本文ママ)をノコギリで切り落としたらしい。

 朝倉は切り落とし、白井はそれを葉っぱで隠す……


 日本にヨーロッパ芸術が入ってきた明治期の事件では、黒田清輝の「裸体婦人像」の額の下半分に布を巻いた「腰巻き事件」が有名です。

 これはわたしも知っていました。

 しかし、この下半身表現問題は、女性よりも男性裸像の方がより闇が深かったと著者はいうのです。

 「股間若衆」は、
        第一章 股間若衆    ← 古今和歌集のシャレ
        第二章 新股間若衆  ← 新古今和歌集
        第三章 股間漏洩集  ← 古今朗詠集 

からなり、新股間若衆の章で、大正7年、女性のソノ部分については一応の決着がついたとされています。

 どう決着させたかというと、「其(そ)の部分は、人の注視を促すに足る可(べ)き何物の描出せられたるものなき」であるならヨシ。

 ようするに、描写は「谷間」だけにして、それ以外に付属する特徴的な付録を描かなければよい、ということのようです。

 女性はまあ、それで良いでしょう。基本的に重要なパーツは体内にあるわけですから。

 しかし、オトコの場合はそうはいかない。

 のっぺり谷間ではオトコではないし、葉っぱは、あまりにも宗教的すぎる。

 それに、個人的な意見ですが、どうやってあの葉っぱってくっついているんです?

 著者は、様々な調査を行った結果、こう断言します。

 大正から昭和初期に、男性裸体像を好んだ北村西望が『とろける股間』という境地を開いた。

 ありていにいえば、はっきりとした形状を示すのではなく、「何か物体があることは分かるが形状は曖昧モッコリ状態」を現出させたのです。

 と、これも、あくまでも屋内展示のはなし。

 それら「曖昧モッコリ」男性裸像が、戦前に、野外に建てられることはなかったのですね。

 戦後になると、当然そのような馬鹿げた(心理的)芸術抑圧はなくなり、欧米と同様、リアルに描写することも可能になりはしたものの、著者の調べでは、相変わらず「曖昧モッコリ」を使う彫刻家が多かったのだといいます。

 中にはリアルなものもあって、それは東京千鳥ヶ淵公園にある菊池一雄の「自由の群像」などだそうです。


 しかし、皆さん、胸に当てて、いや、こめかみに人差し指でくるくると丸を書いて、「ポク・ポク・ポク・チーン」(一休さん)してみてください。

 皆さんの近くの公園、公共施設にも、人物彫刻は多数あるでしょう。

 さらに、それが裸体像であることもよくあるはず。

 しかし……それは、オトコですか?

 ほとんどが、裸婦彫像であるはずです。

 つまり「どうも、社会は男の裸を求めてはいないのだ」ということらしい。

 当局の締め付けはなくなったとはいえ、男性裸像の受難はまだまだ続くのであった


 って、別に、わたしは、男性裸像を見たいわけじゃありませんよ。


 そして、三章「股間漏洩集」で、著者は、そういったリアリスティック男性裸像が、いわゆる「ソノほうの趣味の人々」によって、熱く鑑賞されるようになったことを述べています。

 『薔薇族』に先行する雑誌『ADONIS』の読者欄に、以下のような投稿があったことを著者は示すのです。

「千鳥ヶ淵に菊池一雄作の自由の群像があるそうですが、写して誌上に御紹介仕手下さらないでしょうか、こういうのを集めてみたらいかがでしよう、アングル次第でおもしろいアルバムが出来るでしよう」

 著者は、明治時代から、当局によって、いわれのない弾圧をうけた男性裸像を、戦後、その芸術評価ではなく、まさに、その正確さ・リアリズムによってのみ評価されるようになってしまった、という「悲劇」の主人公としてとらえているのです。

 まあ、軽妙洒脱そしてエスプリの効いた本のタイトル・章の名前から、著者が生真面目な芸術論から一歩離れた場所から冷静に「男性裸体像」を見ていることがわかります。

 そして、そのことが、この本の「真面目なおかしみ」(テーマの選び方から対象まで)と相まって、本書を良書にしているのではないかと、わたしは思うのです。

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