激しい女性を愛した男の恍惚と悲劇 ~ 富本憲吉と妻一枝~
先日は、今月いっぱいで閉館される富本憲吉記念館について書きました。
日本で最初の無形文化財(人間国宝)を受けたひとりである富本憲吉は、奈良県の大地主の子供として生まれました。
子供の頃より絵を学び、東京美術学校では「建築・室内装飾」を専攻して卒業前にロンドンへ私費留学(1908年)……という、絵に描いたような金持ちのボンボン生活で、人生の前半を過ごします。
1910年、親から催促されて帰国、清水建設に就職するも、すぐに退社、ぶらぶらするうちに来日していたバーナード・リーチ(前回のブログに写真が載っていますね)と出会い、彼が熱中していた陶芸に憲吉も惹かれ故郷に窯を作ります。
まだまだボンボン生活が抜けませんね。
そして、1912年、雑誌「白樺」に芸術論を掲載されたのを、後の妻、尾竹一枝に「見つけられた」のです。
下にあるのが尾竹一枝の写真です。
化粧っけのない、ちょっと着物さえ着崩れた感じですが、野性味を感じさせる印象的な表情をしていますね。↓
そのあたりの事情については、富本憲吉記念館館長、山本 茂雄氏の素晴らしい講演があるので、その要約を読んでもらうとして、少しそれを引用させてもらいますと……
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尾竹一枝は、1893年(明治26)富山市で生まれました。著名な日本画家一族の中で育ち、東京女子美術学校で美術を学びました。
明治44年雑誌『青鞜』が創刊されるや、その活動に参加。身長164センチ、希望に燃える颯爽とした女性だったようです。
彼女は『青鞜』の活動に寄与するため、芸術について思索を重ねるうち、『白樺』(明治45年1月号)に掲載された富本憲吉・南薫造の往復書簡上に展開された芸術論に、大いに刺激を受けます。そして大和安堵村にある富本の工房を訪ねたのです。
二人の出会いは、富本の方にとって、より衝撃的だったようです。「お出でになった時、なにを申し上げたか、どういうものをご覧にいれたか、一切只今から考えてもわかりません……」
その後の一枝宛の葉書に、富本は記しています。しかし当時一枝は、『青鞜』の主宰者・平塚らいてうに夢中でした。二人は同性同士でしたが、深い愛情で結ばれていた時期があり、それは周知のことだったようです。
が、やがてらいてうに若い青年の恋人ができ、二人の仲は破綻します。失意の中らいてうの元を離れた一枝は、新たな雑誌『番紅花』(さふらん)を発刊することになり、その雑誌の装丁を、富本に依頼しました。
再びめぐり合った二人は、1914年(大正3)結婚します。
(山本 茂雄氏の講演より抜粋)
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思うに、ボンボンとして育った憲吉は、英国に遊学した際、(日本にくらべれば)「自分」を持っている女性たちを少なからず眼にしたのでしょう。
あるいは、新大陸(アメリカ)からやってきた進歩的な女性を知る機会があったのかもしれない。
英国から帰国した彼の目に映ったのは、「青白き頬をした」自己を押し殺す日本女性たち、その覇気のなさに、がっかりしたこともあったのでしょう。
そこへ、長身の(このあたりも英国女性の共通点を感じます)、はっきりとものを言う「自立した」女性が『颯爽と』現れた、憲吉が心惹かれたのも仕方ないように思えます。
どのぐらい『颯爽と』していたかは、群ようこさんの書かれた「あなたみたいな明治の女(ひと)」の、富本一枝の項に詳しく載っています。
少しだけ紹介すると……
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富本一枝。
明治26年(1893)生まれ。尾竹越堂の娘。
女子美術学校のころから女流天才画家と評判された。
しかし、一枝は尾竹紅吉としての、また富本憲吉の妻としてのほうが有名である。
尾竹紅吉はこの変わった雅号が暗示しているように(コーキチではなくベニヨシ)、18歳のとき小林哥津に連れられて『青鞜』に入り、たちまち平塚雷鳥の“恋人”と噂され、女だてらに雷鳥や中野初と吉原に遊んだり、五色のカクテルを飲んだりしたことが評判になるような「新しい女」の時代を象徴した。
久留米絣に角帯、いつも雪駄履きという粋な男装を好んだのが、いろいろ誤解を生んだようだ。
福田英子の先駆の風を一枝も受けたのである。
ともかく早熟で、21歳のときは『番紅花』(サフラン)という雑誌を創り、青山(山川)菊栄が海外の中性論・同性愛の論文を翻訳したりした。
そのうち奈良の旧家育ちの富本憲吉に会って恋に落ち、結婚。時代の先端を走る陶芸家との結婚は一枝を変えた。
陽と陶という二人の子供を育てつつ、一枝はあらためて「日本」を意識するようになり、わが子の教育も学校にやらずに英語・理科・音楽にそれぞれ家庭教師をつけた。
そのうち長谷川時雨の『女人芸術』にかかわるようになると、久々に文章を書くようになる。
とくに子供のための童話や児童文学に関心をもったようだ。けれども夫との距離はしだいに隔てられたものになっていった。
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文中の「五色のカクテル」とは、五色に色をつけたリキュールを、順番にグラスにそっと流し込み、グラスに五層の色を為させたカクテルだそうです。
一枝は、久留米絣に角帯という男装を好み、平塚平塚雷鳥の“恋人”とされていたものの、雷鳥に若い恋人が出来ると彼女との縁を切ってしまい、最終的に憲吉の妻になるわけです。
要するに、彼女はバイセクシュアルだったのかな?
それで思い出しました。
huluの映画一覧を眺めていて、「6デイス7ナイツ」(1997)があるのを知り、久しぶりに見返したのです。
老境にさしかかった男(ハリソン・フォード)とキャリア・ウーマン<今思うと空虚なコトバだなぁ>(アン・ヘッシュ)の、七日に及ぶ無人島での冒険と恋を描く、個人的には結構好きな映画です。
もっとも、一般的には、あまり好評価はされていないようですが……
↓
『スター・ウォーズ』のパロディ映画『ファンボーイズ』では、ハリソン・フォードについての談義が弾む車中で「ハン・ソロとインディアナ・ジョーンズを演じた役者だ! 駄作なんか1本もないぜ!」と豪語する後方に「6デイス7ナイツ」の看板が大写しになる、という皮肉演出がありますから。
映画の魅力の一つに、ヒロイン、アン・ヘッシュの、つるっとしたちょっと硬質でドライな感じの、中性的な魅力があるのですが、彼女はバイセクシュアルなのですね(自分でカミング・アウトしています)。
おそらく、自分たち家族を捨てたゲイの父親(のちにエイズで死亡)などの精神的影響もあるのでしょう。
彼女と違い、尾竹一枝は、リクツからバイセクシュアルに向かった感は否めませんが、一枝にも、そういった中性的で不思議な魅力はあったのかもしれません。
だから、憲吉は一枝に夢中になったのでしょう。
とはいえ、富本憲吉も、自分では欧米化された男と思ってはいても、根は明治生まれの日本男児。
たまにあって芸術論を交わす間柄だけなら、楽しく付き合うことができたのでしょうが、「ともに生活をする」ようになると、一枝の「激しさ」が、徐々につらくなった。
一枝は、憲吉の作品に対して、情け容赦のない辛辣な批評を加えたといわれていますから。
ために憲吉は、自身の(当時の)最高傑作だと思った作品でさえ、地面に叩きつけ、粉々にしたと言われています。
さきの山本氏の言葉を借りれば、
「理想を求めるに急で、妥協を嫌った二人の生活は、常に危機をはらんだものだった」
のです。
当然のように、二人の生活は破局を迎えます。
晩年、富本憲吉は、一枝との生活を振り返って、
「あの安堵時代が、貧しくはあったが、もっとも充実し愉しかった」
と回想していたとされますが、これは本心でしょう。
愛と憎は表裏一体。
愛する者からなされる辛辣な批評は、胸をかきむしられる痛みをともなったでしょうが、同じ口をもって賞讃された瞬間には、世界を手にした恍惚感を得たはずですから。
しかしながら、「激しい恋」は若さ故に可能な恋です。
年を経てまで、それを持続するのは並大抵の精神力ではできない。
その後、憲吉は弟子の石田壽枝と結婚しました。
壽枝は、一枝(って一字違い?!)ほど気性が激しくなく、彼女の気遣いで老境の憲吉は穏やかに日々を過ごしたといわれています。
とはいえ彼女にも、憲吉の死後、全集の依頼に来た写真家の妻の応対が気にいらなかったため撮影を断り、そのためにいまだに憲吉の全集が刊行されていない、という武勇伝が伝わっていますから、(本能的に)憲吉は激しい女性が好きだったのかもしれません。
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