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2011年8月

2011年8月13日 (土)

さらば地球よ!旅立つ艦は……Space Battle Ship ヤマト

 あたりまえなことですが、今回の「スペェス・バトルシップ・ヤマト」は、あの、アニメ版「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクとして制作されました。

 原作は、わたしを含めて熱烈な往年のファンが多数存在する作品です。

 評価はどうしても辛口になることでしょう。

 その中で、わたしのお気に入りのブログはこれです↓
    http://culgon.doorblog.jp/archives/51650616.html

 辛辣にいえば、わたしも、まったく上記ブログ作者と同じ気持ちではありますが、今回は、この映画の良い面に目を向けてみようと思います。

 さて、上記のとおり、今作品はリメイクとして制作されました。

 その踏襲ぶりはかなりのもので、劇中で交わされる会話にも、往年のファンをむぅ、をを、と唸らせるものが多く使われています。

しかしながら、二時間の映画で、テレビ・シリーズ26話すべてのエピソードを網羅することはできません。

 いや、その上、今回の実写は、さらにアレ(後述)まで混ぜたストーリーなので、なおさら無理です。

 よって、いたるところ、ストーリーが割愛されています。

 個人的には、ぜひ入れて欲しかった、地球に別れを告げるフェアウェル・パーティーの「さよーならー」が入っていないのが痛かった。

 それほど長い時間を要するエピソードではないだけに、あれは、やっても良かったのではないかと、今も思います。

 第一艦橋上部の巨大スクリーンに映し出される、最後の地球の映像に対して、乗員たちが口々に叫ぶ「さよーならー」。

「必ず帰ってくるぞ-」という言葉。

このシーンこそが、たった一隻で、大宇宙そして巨大な敵に挑まねばならないヤマトという悲劇の戦艦の孤独と悲哀と「必ず帰って来なければならない重圧」を表す象徴的名場面だと思うからです。

 まあ、これがカットされた理由はわかる。

 設定によると、今回のヤマトの旅は二ヶ月あまり。

 365日をかけて大マゼラン星雲を往復するアニメ版とは地球と別れる期間が違う。

 おそらく、制作者は、孤独感を取るよりテンポ良く戦闘連続されるリズムの良さをとったのでしょう。

(友人は、出発に際して、パレードをし、正式に”見送られて”出たTV版と、緊急発進した映画版の違いだと言っていますが……)

 今回の映画化で、あらためて気づきました。

 宇宙戦艦ヤマトは独特のアニメーション、いや物語です。

 ヤマトが、他のほとんど(いや、全てといっていい)アニメーションと違う点は、「たった独りで」「敵だらけの」「未踏の暗黒宇宙(ブラック・アフリカの顰みに習ってブラック・スペース)へ」「数キロ先にかすかに灯る燐光に等しい希望(イスカンダル)だけを頼りに」「援護のない」「しかし、決して片道航海であってはならない」旅をせざるを得ないというシチュエーションであることです。

 孤独に、後方支援のないまま敵だらけの宇宙をゆくという点では、「伝説巨神イデオン」が、多少似てはいますが、ピンチになると、制御不能ながら、失われた古代スーパーパワーが「都合よく発動」して人々が助かるという時点でヤマトとはまるで違う話です。

そう、断言すれば、アニメ版「宇宙戦艦ヤマト」は、子供向けアニメーションに「絶対孤独(松本零士ふうにいえば)」を導入したことで、他のあらゆる後追いアニメーションたちと、一戦を画す作品となり得たのです。

 ヤマトの先達であり、多くのインスパイアを受けたであろう、石森章太郎の「空飛ぶゆうれい船」(大好きな作品ですが)も、圧倒的孤独感という点では少し弱い。

 ストーリー自体は、さすがに泣かせる人情ものの名手、山崎貴監督だけのことはあって、アニメ版のTVシリーズと映画版「さらば宇宙戦艦ヤマト」のピースをうまくあてはめて、破綻することなく、ヤマトええとこどり、の作品に仕上がっています。

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 うまくできすぎていて、主演が木村拓哉であることも、森雪のコスチュームがタイツふうでないことも、艦橋の造作が、「いかにも日本の特撮人が好みそうな、ツルッとしたものでない、ケーブルとかをむき出しのブサイクなセット」であることも、気にならなくなるほどです。

コスモゼロが、中折れ式?で、それをうまく用いて、被弾した森雪を救出するのも良い。

 古代が怖気づいて戦線離脱したと考えている森雪と古代の微妙な感情関係、それにより、森雪の古代に話しかける言葉遣いが、上官に対するものでありながら、微妙に感情的であるのも魅力的です。

 このあたり、脚本が女性(佐藤嗣麻子氏)であることも影響しているのでしょうか。

 昨今のエバンなんとかとかガンダムだったら、もっとフランクな(わたし中では、蓮っ葉で無礼に思える)モノイイになっていたでしょう。

 何せ、ヤマトの世界は、世の中の多くのお母様方と教育者が嫌いな、ストレートな軍隊の世界なんですから。

 それゆえ、ヤマト以後のアニメの脚本家たちは、軍隊がかった話を描く時には、イエッサーの世界はではなく、平然と上官に反抗する、わがままエセ軍隊を描くように腐心することになるのです。

 少し話を変えます。

 他稿でも描きましたが、わたしは物心ついてから長らく、ボーイスカウトの世界に身をおいて来ました。

 えーと、ここからは、それは違うぞ、と思われるムキもあるでしょうから、少し小さい声で、いや小さい文字で、いやめんどくさいから、そっちで小さい文字として読んでください。

 つまり、わたしは長らくボーイスカウトの世界に身をおいていたのです。

 そこでは、日常の一部として敬礼があります。
 部下に支持を与える時も敬礼。
 報告をする時も受ける時も敬礼。
 別れる時も敬礼。
 事故で死んだ友人に別れを告げるのも敬礼。
 善き行為に表彰された者を称えるのも敬礼。

でした。

 しかし、どうも、世の中には、敬礼を軍隊と結びつけ(さらに軍隊を戦争に直結させ)、敬礼を人の上下関係を示す悪しき習慣であると考える風潮があるように感じます。

 確かにそういう面はあるでしょう。

 しかし、ごく普通に敬礼を行って来た経験からすれば、敬礼は、言動や行動の節目をきっちり示し、その行為、人や人々自身に、敬意と無限の哀悼を簡潔に示すことのできる動作であって、決して悪い行為ではないと思えてしまうのです。

 先に書いたように、ヤマトの世界は、戦闘の世界、軍隊の世界です。

 戦時において、大(集団)を生かすために小(自己)を犠牲にする、という行為は、その是非はともかくとして、歴然とした戦力差がある時に、選択せざるを得ないことがあります。

 人間同士なら、話し合いで戦闘、戦争自体を回避することができるかもしれません。

 しかし、生存の概念から違う、異世界の生物との戦闘においては、それが不可能なこともあるでしょう(トップをねらえ!!の宇宙怪獣や戦闘妖精雪風のジャムなど〈アンブロークン・アローについては別項で書く予定〉)。

 今回の、ヤマトの敵も「外宇宙異性物」でした。

 よって「戦イハ不可避ナリ」

 ヤマトでも戦闘で多くの乗組員が死んでいきます。

 孤立無援の宇宙空間での戦闘で、誰も死なず、全員無事に戦闘を終えるというのは意味のないファンタシーです。

 結果、「地球を頼む」という言葉を残して、彼らは死んでいくことになる。

 残された者ができるのは、「お前たちの気持ちは確かに受け取った」「お前たちの行為は立派であった」「尊敬する」「ありがとう」が複雑に入り乱れた気持ちを、ただ一回の敬礼に込めることだけです。

 長々と哀悼の意を告げる時間は、戦闘中にはないのですから。

 このあたりを、アニメ(特にさらば?)同様、映画はよく描けています。

 それに関連して‥‥‥‥

 敬礼経験者として、映画の中で、思わず微笑むシーンがあります。

 それは、古代が、後に自らの手で殺してしまう、第三艦橋勤務の安藤と再会するシーンです。

 敬礼をする安藤 に対し、古代が黙って近づいて、腕の角度、胸の張りを矯正してやる。

 これは、敬礼初心者に対し、先輩が「必ずやってしまう」行為です。

 自分で思っている以上に、敬礼の腕は上がったり下がったりしているもので、第三者によって確認してもらわないと変な形になってしまう。

 かといって、(昨今はわかりませんが)男が鏡の前で、独り敬礼の練習をするのも妙なもので、結果的に第三者の矯正が必要になるのです。

 一発で、美しい敬礼が決まるようになると、一応一人前とみなされる。

 旅が進むにつれて、ヤマトの乗員たちは死んでいきます。

 TV版ヤマトではなく、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」のストーリー通りに。

 それこそ、ほとんど全員が死んでいく。

最後に、ヤマトのラブ・ストーリー面としての話を書いておきます。

群像劇ではないので、ヤマトのラブ・ストーリーは、主人公の古代進と森雪の一組です。

医療班だった森雪をブラック・タイガーのエースとして、アクティブ・ガールとして描く。

 そうすることで、同じ戦闘機乗りとしての敬意と、早々に戦線離脱して「レアメタル回収業者?」になってしまった古代に反発を持つ魅力的なヒロインが生まれることになりました。

 さらに、先に書いた、安藤のいる第三艦橋に敵船がとりついて、自爆しようとする際には(原作ではドメル将軍の名場面)、戦闘班長としての古代の命令をうけて、第三艦橋の連結部をミサイルで吹き飛ばす『仲間殺し』を森雪は行うことになります。

 個人的に、このシチュエーションは魅力的です。

 立場が逆で、上司が女性で、男の部下に同様の命令を下す、というのでもいい。

 つまり、本来、愛するがゆえに「させたくはない汚れ仕事」を、立場上命令せざるを得ない状況、が魅力的なんですね。

 「さらば~」で、佐々木いさおが声優をやっていた空間騎兵隊の齋藤も登場し、本来なら彗星帝国相手に死ぬところを、ガミラス本星で、お約束の武器を構えたまま死ぬ「立ち往生」を見せてくれます。

 映画の前半で、彼が母親役の藤田弓子さんと交信するシーンは、後の立ち往生の見事な伏線となっています。

 最初は違和感のあった柳葉敏郎の真田士郎は、映画を観ているうちに、まったくおかしさを感じなくなりました。(しまいには、柳葉の叫ぶ声は、若き日の青野武史(アニメ版声優)に似ている、とまで思うようになった自分が怖い)

 また、アニメでは第一回から登場し、ヒロインの森雪に恋をして、なぜ自分はキカイなのだろうと悩みさえするアナライザー・ロボットは、今回の映画で、コスモ・ゼロの拡張AIユニットとして、古代専属の携帯型PALコンピュータになっている。

 これはつまり、スターウォーズのR2D2の役どころですね。

 最後に、アニメ版アナライザの憧れだった、八頭身身長3メートル戦闘型ロボットとなって、戦死するのは、監督のセンスでしょうか。

 高島礼子演じる佐渡酒造については、何も言いますまい。ただ、そういう人が出演していた、という記憶があるだけに留めましょう。

 橋爪功の地球防衛長官は、なんだか、驚くほどよい感じでした。

 落ち着いて、ちょっと諦観気味の物腰が、原作(アニメ版)の長官に似ているからでしょうか……

 そして、デスラー総統(と呼んでよいのか?)。

 お約束の伊武雅刀の声がイイ。

 さて、総評です。

 おそらくは尺の問題で、説明不足の点(なぜ波動砲封じのミサイルを撤去しなかった、とか)はあると思いますが、全体としては、かなり良い出来だと思います。

 まだ、ご覧になっておらず、戦時における自己犠牲に過度に敏感でない方であれば、観て楽しめる作品だと思います。

 本作の、真の主人公である、全長500メートル(アニメ版よりデカくなってる!)のヤマトも魅力的に描けていますしね。

P.S.

 初回放映時以来のファンなのに、どうして今回のヤマトに、好意的な意見が書けるのか、という質問を受けました。

 しばらく考えたのちに、一応の結論に辿り着いたので、追伸として書いておきます。

 マリー・ローランサンに「鎮痛剤」という作品がありますね。

       鎮 静 剤
              マリー・ローランサン
                  堀口大學 訳

 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 つまり、わたしにとっては、完全に満足のいく作品でなくとも、「宇宙戦艦ヤマト」が過去のアニメの歴史として残るだけではなく、現在進行形の作品として、日々新たにリメイクされる方がより重要であると考えるために、作品の良い面に目を向けたくなるのだと思うのです。

なにせ、

 つまらない作品としてリメイクされる映画より もっと哀れなのは

 忘れられた映画です

 から

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2011年8月12日 (金)

音で聴く小説:ラジオドラマ「火の国にて」

以前、311の津波&放射能災害に衝撃を受けて、気持ちを落ち着かせるために、

「311感情のベント 火の国にて(ラジオドラマ原作不適当:PDF)」

  

という、ラジオドラマ原作を書きました。

 タイトルにあるように、あまりにも災害に直截(ちょくせつ)な繋がりを持つ内容であったため、恥かしすぎてドラマにするつもりはなかったのですが、ついのせられて(まあドラマ制作側も原作がなかったのでしょう)ドラマ化を承諾してしまいました。

 しかしながら、出来上がってみると、主に演出と声優さんたちの力量のおかげでしょうが、耳で聞くドラマとしては、なかなか面白い作品のように思えてしまったので、恥をしのんで、ここに掲載させていただくことにします。

 内容はほとんど変わらないのに、音声化するだけで、こんなにも作品の印象がかわるというのは、なんだか不思議です。

 よろしければ、お聞きください。

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コミックであるには過剰過ぎる野心 パンプキン・シザース(ラスト)

 和田慎二、小松左京氏の訃報もあって、しばらく間があきましたが、前に書いた、「パンプキンシザーズ」の続きです。
 もうお忘れかもしれませんが、よろしければお読み下さい。

Ps_5

 コミックスの十巻を超えたあたりから、カウプランあるいはカウプラン機関という名前が頻繁(ひんぱん)に出るようになります。
 この「カウプラン」こそが、オーランドに「脳改造」を施した張本人です。
 実際の名前はカウプラン教授といい、帝国において、もはや伝説となった天才発明家です。

 幼少時から、あらゆる学問に精通し、革新的な道具を多数発明した真の天才。
 カウプラン教授は、戦後、突如として行方をくらましたため、いまや、彼の断片的な発明・研究は「宿題」呼ばれ、多くの科学者たちから、到達すべき目標とされ研究されているのです。
 その才能があまりに突出していたために、発表当時は、それが何を意味するかわからなかった発明・着想が、後に技術が追いついた時にサブマリン特許となって、科学の進歩を妨げる原因となることがあるほどです。
 サブマリン特許については
こちらを参考にしてもらうとして、月刊とはいえ、少年誌のコミックで、「サブマリン特許」を使って、天才科学者の功罪を語る作品を、他にわたしは知りません。
 白眉なのは、先月にマガジンに掲載された、ある科学者がカウプラン教授について語る演説です。
少し長いですが、限りなき敬愛と尊敬をこめつつ、抜粋しましょう。

第60話 3日目:カウプラン奇譚

 カウプランとはなんなのか。
 カウプランは人間だ。我々と同じただの人間だ。
 そして我々と違い、本当の天才だった。
 幼少の頃より異様な速度であらゆる学問を吸収した彼に軍の技術部が接触した。
 実際に会って言葉を交わし、軍は思い知った「こいつは今までの技術者と違う」
彼との問答は、おとぎ話に出てくる「何でも答える鏡」「何でも見通す水晶玉」だった。
カウプランに知らぬことはなく、解けぬことはなかった……
 軍はその能力を最大限に発揮させるべく、彼個人のために開発研究の場を提供した。
 それが、カウプラン機関。国の用意した魔術師の庵(いおり)……
 戦に勝つために、たびたび庵を訪ね、助言をもとめる国の使い。
「より早く、より遠く、より強く敵を撃てる」そんな武器はないか、との問いに、魔術師は魔法の杖の作り方を教えた。

 それぞれの時代に応じた「ふさわしい技術の水準」というものがある。
 木と石の加工がやっとの水準であれば、複雑な金属機構など思いつけない。
思いついたとしても夢見事と嘲笑されるだけだ。
 『技術開発』とは手の届く範囲のものを組み合わせ、積み上げて足場を築き、迷走しながら一段上へと上っていく行為だ。
 だが、
 カウプランは逆だった。
「正解」(上)からその時代の水準に降りてくる!

 パーツの一つ一つ……例えば、『銃身』なら、

「我々には「銃身」の制作などできない」
『ではその設備を考案してやろう』
「その設備を作る技術すらない」
『設備を作る道具も設計してやろう』
「その道具を作れるほど金属技術が発達していない」

『銃身』という言葉も……いや『銃』という概念すら不確かな時だ。
実際にはまだ命名されていない『名なしの技術』
その『名なし』が我々の理解できるところまで……
 我々の――技術水準の水面にまで降りてきた時、『それ』は名を得、実在権を得る。
――例えですよね?
 本当に先込め式より前にボルト・アクションを発案していたわけでは……
 カウプランはただの人間だ。全知全能の神ではない。
 この世の物質・法則全てを知っていたわけではない。
 あくまで自分の中の知識と理論を組み合わせて、自分の思い描く『正解』から降りてくるだけだ。
 あと一歩というところで足がかりが尽きることもある。
 我々の水準と接さず、結実しなかった技術案は ”保留”となる。
 そして次は、一段二段とグレードを下げたところから降りてくる。
 今度は我々の水準に届くように。
 それこそ、先程言った『先込め銃』……「これなら今のキミ達でも作れるだろう?」と。
 一つ――お伺いしてよろしいですか? 
”保留”となった後奏なり設計図なりは――
『カウプランの宿題』と称され――いくつかはカウプラン機関に秘匿され、いくつかは製法諸国特許庁に送られた。
 それが、現在、我々技術者を苦しめているカウプラン特許(パテント)の正体だ。
 つまり……我々個人のアイデアがどうこうではなく……我々全体が技術水準を上げれば上げるほど……”知識や知恵の水面”を上げれば上げるほど……
 カウプランが上から下ろした根に接触し――カウプランの特許(パテント)が発動する――!!
 これは、先に書いた、いわゆる「サブマリン特許」ですね。
 このように、戦争アクションコミックで、サブマリン特許を物語の大きな柱に据えるという異常さ、過剰さがカボチャバサミの魅力なのです。

 ――確かに天才はいると思います。それでも、その神がかった頭脳をもってしても――結局、個人の力である以上、限界があるのではないかと。「満天の星空」といえども、実際には星と星のスキマがあるように、カウプランの技術が、全世界の技術者達の空を完全に覆い尽くすなんてありえないんじゃないでしょうか?
 そのスキマを縫って発芽してみせる新技術もあるのではないですか?

 若者らしい、活力のある意見だ。しかし、技術には――流れや道筋というものがある。開発の系統樹と言ってもいい。
 その所々になる果実が「新技術」という結晶。
 カウプランはその果実に、気の向くまま特許(パテント)というツバをつけた。
 我々がその樹の根本に辿り着いた時、すでにあらゆる所がツバにまみれていたわけだ。
 技術が道筋である以上、次の新技術に至るためには、必ずそのツバのついたポイントを通るハメになる。
 いわば関所だ。誰も逃れられん。

(中略)

 ここで、わたしは、カウプラン特許による弊害について明確にしておきたい。
 先に述べた、「先込め式銃よりボルト・アクション銃が前というのは不自然」
 そういった順序の推測ができるのは幸運な例だ。

 では、『間隔の推測』はどうだろうか。
 (旧タイプの)先込め式銃の登場から(現行の)ボルト・アクション銃の登場まで10年。
 しかし、私はすくなくとも、その倍、数十年の時を要するのが自然だと考えている。
 それが、私の考える「カウプラン特許の弊害」だ。

 技術と技術の間隔に疑念を持てなくなる。

 技術と技術の間には関連がある。
 連鎖・反発、蓄積……また、見比べることで、新たなる発見もある。
 リボルバー(輪動弾倉)などのように。

 しかし、現行の特許法では、『技術を単体で囲い込み、技術同士の関連を断ってしまって』いる。

 始めから完成品。そう、神が空から地上へ、おもちゃ箱をひっくり返したかのように。
 次々と”完成品だけ”を渡され――その間(かん)に蓄積されるべきものを十分に考察できないでいる。

 この数十年で、道具も衣食住も、生活の全てがガラリと変わった。
 これは自然な間隔なのだろうか?
 我が身を取り巻く万物に対して、その登場の間隔を、ことによったら順序すらも、我々は見誤っているのではないか?
 いま、この世界が、どれほど、カウプランが気まぐれに落とした完成品(オモチャ)であふれかえっているか――

 (始めに)カウプランの呼称には三つの意味があるといった。
  私は、そこに4つめの意味を付け加えたいと思う。

 『カウプラン文明』
 たった一人の男が創り出し、いま世界に蔓延している文明の名だ。

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 いま、こうして、文字として書いているうちに、なんとなく「銀魂」が脳裏に思い浮かびました。
 ご存じの方は、お分かりでしょう。
つまり強制的に、進歩した(と思われている)科学技術を受け入れざるを得なかった幕末の日本にも、P.S.(パンプキン・シザーズ)の世界と似たところがあるのですね。

 圧倒的大質量の科学(だけではない)西洋文明の総体によって、国の文化が押し流され、もみくちゃにされ、便利な技術についてきたガイコクの「生活常識」「見識」によって、連綿と続いた倫理観、道徳観、風習までもが変えられてしまった国。

 なんだ、結局、P.S.って日本のことじゃないの。
 ただ、カウプラン文明に席捲(せっけん)された、カボチャバサミ世界と日本の違いは、上記博士が指摘した「ひとりの天才による科学進化の不自然な飛び石化」が、日本にやって来た西洋文明には無かったということでしょう。

 少なくとも西洋科学文明は、シーケンシャル(連続)であったからです。
 さて、いかがでしょう?
 パンプキン・シザーズ。
 今のところは、わたし好みの展開ではあるのですが……
 世界を広げようとするあまり、群像劇化する様相を見せる時もあって、その点が少々心配なのですが(「コミック・ドラマの群像化による弊害」については、また別項で)、今の、このスタンスを崩さずにストーリーを発展させてくれるよう祈っています。
 絵柄が少し読みにくい点もあり、好みは別れると思いますが、まあ、世の中には、(小さい声で)「進撃の巨人」と(もっともっと小さい声で)「ワンピース」の画を容認し、ついていける人が多くいるのですから、おそらく大丈夫でしょう。

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