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2010年10月26日 (火)

ニコ動論「ゲームプレイは、作り手がさせるもの?ゲーマーがするもの?」

 先日は、ヤマト(復活編)について、イキオイで愚かなことを書きました。

 が、何割かは本心なのでまあ、いいでしょう(もうすぐ公開される実写版については、そんなものがあったという記憶だけに留めたいと思います)。

 あれで書きたかったことの一つは、過去の作品の自己模倣コラージュ作品も、ある種のファンには嬉しいものだ、ということです。

 要するに、「ヤマト 復活編」は、過去のヤマト作品からさまざまなパーツ(音楽、シーン、小物)を取り出し、それを使って切り貼りしたコラージュ作品、つまり過去の作品をざっと鳥瞰した、見やすく分かり良い地図ようなものです。

 観ていると、ノスタルジックでなんだか気持ちよくなれる。

 その点で、わたしは、ヤマトを評価しています。

 そもそも、自己模倣は、多くの作曲家、作家、コミック作家によって、ごく普通に行われている行為です。

 否、極言すれば、人気作家とは、人気を博した過去の自作品をうまく換骨奪胎(かんこつだったい)したように見せかけ、同工異曲(どうこういきょく)の作品を途切れず生み出せる能力を持つ人のことなのでしょう。

 確かに、毎回カメレオンのように表現を変える作家もいます。

 が、それは話題にはなりますが、大して売れない。金にならない。

 かつて、毎回、意欲的に、色々な作品を創りだしていた西村京太郎(「消えた巨人軍」とかね)や東野圭吾は、わくわくさせてくれて面白くはあったけれど、それほど売れなかった。(「消えた~」は映画化されたけれど)

 ふたりとも角がとれ、内容がパターン化され、ツマんなくなったら突然売れ出した。

 まあ、つまり人々は予定調和が好きだ、ということです。

「予測不能」というコピーで売り出された映画も、そのコトバに惹(ひ)かれて観にはいくでしょうが、そんなのばかりだと嫌になってしまうのですね。

 意外に早く。

 だから、最後は悲恋だな、あるいはハッピーエンドだな、と予測しながら観て、その通りだと「なぁんだ」と思いながらも、ホッとして映画館を後にする。

 中には奇をてらうあまり、人道的に「これはやらんだろう」と思っていたら、やってしまう映画なんかがありますね。

 最近観た映画の中では「ミスト」(スティーブン・キング+ダラボン)なんかがそうでした。

 まあ、こういうのは、えてして「後味(あとあじ)の悪い映画だったなぁ。観なければ良かった」という評価になります。

 いやいや、今回はそんなことについて書きたかったのではありません。

 上でも書いたように、人は、予測不可能なものを欲しながら、結局は予測可能なものを求める事が多い。

 だから、作り手は自己模倣に陥りやすい。セルフコピーせざるをえない。

 まあ、それはいい。自分の評価を落とし、自分を尊敬できなくなるだけだから。

 しかし、模倣には、もう一つ方法があります。

 他人のものをマネる。

 一般的に盗作といわれる行為ですが、現代では、これが「お目こぼし」される場合があります。

 先日、新聞紙上で、明治学院大学准教授の稲葉振一郎氏が、そのことについて面白いハナシを書いていました。

 氏は、ニコニコ動画(以下、ニコ動)をさして「バカと暇人のための道楽としてのウェブ」と一刀両断していますが、その中で、ニコ動とyoutubeの最大の違いを、その「動画に対するコメントの表示方法」だと指摘しています。

 ご存じの方も多いでしょうが、ニコ動で、コメントは画面を右から左へと流れていくのです。

 コメントが「動画と別枠に表示される」いわゆる静止したコメント・タイプのyoutubeと「動画の上に字幕として流れる」動的コメント・タイプのニコ動では、そのライブ感がまるで違います。

 これによって、本来、別の場所、どころか、別な時間帯で動画を観た者同士ですら「擬似的な同期感覚」を持つことになるのです。

 これは新しい感覚です。

 そういった、動画投稿サイトの新しい可能性を指摘しながら、同時に、氏は、著作権上の問題も指摘しています。

 投稿動画の多くは、他人のアニメや音楽から切り貼りをした、コラージュあるいはモンタージュ作品だからです。

 だって、先に書いたように、多くの人は、まったく目新しいものより馴染んだものを好むもので、観たことはあるが、正確には観たことがない、なんか新しいコラージュ作品が好きなのですから。

 まったく新しいものを世界に示しても、滅多にウケません。

 それより、すでに世の中に知られたアニメや音楽をベースに「切り貼り」した作品をアップした方が注目度が高い、人気もでる。

 そういった、「二次創作」は、厳密にいえば、オリジナルの作者の著作権を侵害していますが、同時に「明日のプロフェッショナルたちが将来、自分のオリジナルを作るための腕を磨く修行としての一面もある」ために、近年では、作り手は出版社などの著作権者も、頭から彼らを否定しない風潮になっています。

 コミケ(コミックマーケット)などはその最たるもので、すでに、業界では、新しい才能の草刈り場と化した感もあります。

 わたしも一時期、ダマされてコミケに関わったことがありますが、あそこは、コラージュとモンタージュそして、オリジナル創作がメルティング・ポット(坩堝:るつぼ)です。それらがドロドロに溶けて、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の新しい才能(数は少ないけれども)が熱かった。

 今や、ニコ動が、アニメや映画を含む「動画」の才能の草刈り場になっているのですね。

 と、ここまでが、「序」「破」「急」の「破」まで。

 オーソドックスな思考展開です。

 しかし、氏は、もう少し話を先に進めて、ニコ動には「既存の映像の丸上げ」(これは完全な犯罪です)でもなく、二次創作ともいえないジャンルが(知らぬ間に)確立してしまったのではないか、と指摘するのです。

 それは何かというと、皆さんも観たことがおありでしょう。

 「ゲームの実況プレイ動画」です。

 確かに「ゲームの合間を埋めるための超美麗CGムービー」のアップは容赦なく削除する運営側も、プレイヤーがゲームをプレイする映像は簡単には消さない。

 プレイ動画における。ゲーム制作者とプレイヤーの関係は、劇作家とその劇を上演する役者の関係に似ているという面があるからです。

 とすれば、歌手や演奏家における「著作隣接権(りんせつけん)」といったものが、発生するのではないか?

 そう氏は指摘します。

 いわゆるスポーツや、囲碁、将棋といった伝統的なゲームにも、第三者が観ても楽しいプレイというものが存在するからです。

 観るも観ないも自由な、ニコ動におけるプレイ動画の人気がそれを裏付けていますね。

 氏は、将来それに制度的な裏付けが備わる日がくるかもしれないと結んでいますが、これについては、わたしの意見は少々懐疑的です。

 だって、著作権がうるさくなってから、数十年にわたって連綿と続いている、囲碁将棋チェス、スポーツのプレイ(映像)に対しても、「厳密な」著作権行使は行われていないのですから。

 この点に関しては、動画投稿サイトの動向を見守っていきたいと考えています。

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