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2010年10月

2010年10月26日 (火)

ニコ動論「ゲームプレイは、作り手がさせるもの?ゲーマーがするもの?」

 先日は、ヤマト(復活編)について、イキオイで愚かなことを書きました。

 が、何割かは本心なのでまあ、いいでしょう(もうすぐ公開される実写版については、そんなものがあったという記憶だけに留めたいと思います)。

 あれで書きたかったことの一つは、過去の作品の自己模倣コラージュ作品も、ある種のファンには嬉しいものだ、ということです。

 要するに、「ヤマト 復活編」は、過去のヤマト作品からさまざまなパーツ(音楽、シーン、小物)を取り出し、それを使って切り貼りしたコラージュ作品、つまり過去の作品をざっと鳥瞰した、見やすく分かり良い地図ようなものです。

 観ていると、ノスタルジックでなんだか気持ちよくなれる。

 その点で、わたしは、ヤマトを評価しています。

 そもそも、自己模倣は、多くの作曲家、作家、コミック作家によって、ごく普通に行われている行為です。

 否、極言すれば、人気作家とは、人気を博した過去の自作品をうまく換骨奪胎(かんこつだったい)したように見せかけ、同工異曲(どうこういきょく)の作品を途切れず生み出せる能力を持つ人のことなのでしょう。

 確かに、毎回カメレオンのように表現を変える作家もいます。

 が、それは話題にはなりますが、大して売れない。金にならない。

 かつて、毎回、意欲的に、色々な作品を創りだしていた西村京太郎(「消えた巨人軍」とかね)や東野圭吾は、わくわくさせてくれて面白くはあったけれど、それほど売れなかった。(「消えた~」は映画化されたけれど)

 ふたりとも角がとれ、内容がパターン化され、ツマんなくなったら突然売れ出した。

 まあ、つまり人々は予定調和が好きだ、ということです。

「予測不能」というコピーで売り出された映画も、そのコトバに惹(ひ)かれて観にはいくでしょうが、そんなのばかりだと嫌になってしまうのですね。

 意外に早く。

 だから、最後は悲恋だな、あるいはハッピーエンドだな、と予測しながら観て、その通りだと「なぁんだ」と思いながらも、ホッとして映画館を後にする。

 中には奇をてらうあまり、人道的に「これはやらんだろう」と思っていたら、やってしまう映画なんかがありますね。

 最近観た映画の中では「ミスト」(スティーブン・キング+ダラボン)なんかがそうでした。

 まあ、こういうのは、えてして「後味(あとあじ)の悪い映画だったなぁ。観なければ良かった」という評価になります。

 いやいや、今回はそんなことについて書きたかったのではありません。

 上でも書いたように、人は、予測不可能なものを欲しながら、結局は予測可能なものを求める事が多い。

 だから、作り手は自己模倣に陥りやすい。セルフコピーせざるをえない。

 まあ、それはいい。自分の評価を落とし、自分を尊敬できなくなるだけだから。

 しかし、模倣には、もう一つ方法があります。

 他人のものをマネる。

 一般的に盗作といわれる行為ですが、現代では、これが「お目こぼし」される場合があります。

 先日、新聞紙上で、明治学院大学准教授の稲葉振一郎氏が、そのことについて面白いハナシを書いていました。

 氏は、ニコニコ動画(以下、ニコ動)をさして「バカと暇人のための道楽としてのウェブ」と一刀両断していますが、その中で、ニコ動とyoutubeの最大の違いを、その「動画に対するコメントの表示方法」だと指摘しています。

 ご存じの方も多いでしょうが、ニコ動で、コメントは画面を右から左へと流れていくのです。

 コメントが「動画と別枠に表示される」いわゆる静止したコメント・タイプのyoutubeと「動画の上に字幕として流れる」動的コメント・タイプのニコ動では、そのライブ感がまるで違います。

 これによって、本来、別の場所、どころか、別な時間帯で動画を観た者同士ですら「擬似的な同期感覚」を持つことになるのです。

 これは新しい感覚です。

 そういった、動画投稿サイトの新しい可能性を指摘しながら、同時に、氏は、著作権上の問題も指摘しています。

 投稿動画の多くは、他人のアニメや音楽から切り貼りをした、コラージュあるいはモンタージュ作品だからです。

 だって、先に書いたように、多くの人は、まったく目新しいものより馴染んだものを好むもので、観たことはあるが、正確には観たことがない、なんか新しいコラージュ作品が好きなのですから。

 まったく新しいものを世界に示しても、滅多にウケません。

 それより、すでに世の中に知られたアニメや音楽をベースに「切り貼り」した作品をアップした方が注目度が高い、人気もでる。

 そういった、「二次創作」は、厳密にいえば、オリジナルの作者の著作権を侵害していますが、同時に「明日のプロフェッショナルたちが将来、自分のオリジナルを作るための腕を磨く修行としての一面もある」ために、近年では、作り手は出版社などの著作権者も、頭から彼らを否定しない風潮になっています。

 コミケ(コミックマーケット)などはその最たるもので、すでに、業界では、新しい才能の草刈り場と化した感もあります。

 わたしも一時期、ダマされてコミケに関わったことがありますが、あそこは、コラージュとモンタージュそして、オリジナル創作がメルティング・ポット(坩堝:るつぼ)です。それらがドロドロに溶けて、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の新しい才能(数は少ないけれども)が熱かった。

 今や、ニコ動が、アニメや映画を含む「動画」の才能の草刈り場になっているのですね。

 と、ここまでが、「序」「破」「急」の「破」まで。

 オーソドックスな思考展開です。

 しかし、氏は、もう少し話を先に進めて、ニコ動には「既存の映像の丸上げ」(これは完全な犯罪です)でもなく、二次創作ともいえないジャンルが(知らぬ間に)確立してしまったのではないか、と指摘するのです。

 それは何かというと、皆さんも観たことがおありでしょう。

 「ゲームの実況プレイ動画」です。

 確かに「ゲームの合間を埋めるための超美麗CGムービー」のアップは容赦なく削除する運営側も、プレイヤーがゲームをプレイする映像は簡単には消さない。

 プレイ動画における。ゲーム制作者とプレイヤーの関係は、劇作家とその劇を上演する役者の関係に似ているという面があるからです。

 とすれば、歌手や演奏家における「著作隣接権(りんせつけん)」といったものが、発生するのではないか?

 そう氏は指摘します。

 いわゆるスポーツや、囲碁、将棋といった伝統的なゲームにも、第三者が観ても楽しいプレイというものが存在するからです。

 観るも観ないも自由な、ニコ動におけるプレイ動画の人気がそれを裏付けていますね。

 氏は、将来それに制度的な裏付けが備わる日がくるかもしれないと結んでいますが、これについては、わたしの意見は少々懐疑的です。

 だって、著作権がうるさくなってから、数十年にわたって連綿と続いている、囲碁将棋チェス、スポーツのプレイ(映像)に対しても、「厳密な」著作権行使は行われていないのですから。

 この点に関しては、動画投稿サイトの動向を見守っていきたいと考えています。

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2010年10月24日 (日)

何も足さない何もひかない 天下御免の駄作「宇宙戦艦ヤマト 復活編」讃歌

 秋も深まってきましたし、DVDが発売されて久しくなったので、長らくの懸案事項(けんあんじこう)であった「宇宙戦艦ヤマト 復活編」を観ました。

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 およそ一年前の作品ですが、怖くてなかなか観られなかったのです。

 で、その内容は?

 結論からいいましょう。

 皆さん、おそらくご推察の通り、クズですな。まったくダメ。

 だいたい、あの戦争礼賛、特攻賛美の某東京都知事が原案ということで分かるとおり、戦闘賛美のどうしようもない映画です。

 最終敵は、知事の嫌いなソ連か中国をモデルにしたような強権国家ですしね。
(テキの名前がUSRだって!USSR(ソビエト連邦)のことか?)

 もう少し詳しい内容はというと、クラシック音楽多用した、ご都合主義的エエ加減ストーリーの羅列。

 いくらブラックホールに飲み込まれるからといって、映画の始めから、地球を安易に捨て去って、他の星に移住するという設定もトンデモない話だし……

 また、知事の案によるものか、妙に政治がらみの国際紛争臭もある。

 観る必要なし!

 いらん。

 が、しかし、それは一般の人にとっては、です。

 恥ずかしい、ああ、本当に恥ずかしい。

 でも、小さい声で、いや細長い声で、いや文字で、書いてしまいます。

 オドロクベキコトニ、いや恥辱的なことに、個人的にはかなりイケてます。

 続けて三回観てしまいました。

 マジメに観るとダメですが、不真面目に観ると、ナカナカイイです。

 特に――

 わたしのように、今を去ること数十年前に、初回の放映予告をテレビで観てから、第一回の放映を楽しみに待ち、テレビの前で正座して観た者なら。

 あるいは、ビデオの無かった当時、音声のみを録音してくり返し聞き、あのOUT創刊号を金田一耕助特集に惹かれて買ったところ、創刊二号が、当時誰も顧みなかった(ようにみえた)「ヤマト特集」であるのを知って、それを発売日を待って買ったようなスジガネ入りのファンにとっては……

 昔のままのヤマトが帰ってきた――のですよ。

 いきなり、真のテキは異次元人だって!

 無茶苦茶な設定、ご都合主義の展開、戦艦の戦闘のハナシなのに、いきなり反物質星人を出すような、世界観の破壊行為……といった「さらば宇宙戦艦ヤマト」の頃のままですよ。

 個人的に、「さらば~」以降の「ヤマト2」や「ヤマト3」は嫌い、というか、観たことさえありませんので、よくわからないのです。

 とにかく、今度の「復活編」は、ストーリーは腐っていますが、その端々に、第一作の匂いがするのですね。

「何も足さない、何も引かない」というコトバがありますね。

 まさしくアレです。

 画こそ超チャチなCGっぽくなっていますが、その深部において、数十年前のTV版ヤマト(テレフィーチャー除く)と映画版「さらば~」と同じなのです。

 そこがスゴイ。

 普通、もっと変えますよ。いや、変わってしまいますよ。

 それが、清濁合わせて何も変わらない。作り手のハートが同じというか……

 安易なご都合主義も、戦争賛美と受け取られかねない戦闘シーンも、他の戦艦と違ってヤマトだけが極端に装甲が強そうなのも、その他もろもろの巨大な欠点も含めて、当時と何も変わっていない。

 いや、都知事が噛んでいるために、さらに安直にひどくなっている!

 音楽も当時のまま。

 まあ、さすがにあまり同じではいけないと考えたのか、昔の曲の合間には、これも安易にクラシックを多用して、それがまた失笑を誘うのですが、逆に、このチープさこそヤマトだ、と思ってしまうのですね。

 まさに、山崎イズムというか、これはすごい。

 ダテに獄中で、さらなる悪事の構想を練っていたわけではなかったのだな(ホメてるんですよ)!

 たとえ、歪んで間違っていても、それなりの山崎イズム健在です。

 六連装の波動砲を、初期の戦闘において、六レンパツで撃っている時は、なんか「さらば~」におけるアンドロメダの波動砲っぽい豆鉄砲だな、とハスに構えてみていたのですが、最後に、グレンラガンのアンチスパイラル似の異次元人が出てきて、そいつの兵器を倒すため、ブラックホールに落ち込みながら六連を同時発射した時には、思わず快哉を叫んでしまいました。

 波動砲かくあるべし、という迫力だったからです。撃ったあとで、艦がボロボロになるというのもふるっているし、最後に、突然、「これまでブロックされていた、六連波動砲同時発射のシークェンスが可能になりました」「真田さんが密かに作ってくれていたんだ!」

「こんなこともあろうかと、密かに開発しておいた『空間磁力メッキ』が役に立ったよ」
そのもの!

 時代設定もいいですね。

 そもそも、わたしは、イスカンダルからの帰還後、数年足らずの間に、地球が次々と侵略を受けるテレビシリーズ続編が嫌いでした。

 いくら、制作者の財布の都合があるからって、それじゃあんまりファンと作品が可愛そうです。

 せめて二十年ほどたって、乗組員が世代交代し、古代が経験を積んだ艦長としてヤマトを指揮すべきだと思っていたのです。

 それが、今回の「復活編」で実現しました。声は山寺宏一に変わりましたが。

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 もちろん、イワズモガナ、欠点は星の数ほどあります。

 敵がいきなり味方になるようなノーテンキな「ご都合主義」は相変わらずですし、ワカゾーの乗組員たちは、ゆとり世代っぽい、統率のカケラもない自己中心的バカどもですし、古代の子供はおきまりの「ファーザー・コンプレックスの裏返し」的反抗態度で魅力のない娘ですから。

 とにかく新しく登場した人物に魅力は皆無。

 特に、キャラクタ・デザインが松本零士の手を離れたことに抵抗を感じる人は多いでしょう。

 まあしかし、昔から、ヤマトのキャラクタは誰のデザインかも分からない、無茶苦茶へんな画でしたから、個人的にはあまり抵抗がありません。

 それに、ヤマトの主人公は宇宙戦艦ヤマトですから、人なんてどうでも良いのですよ。

 とにかく、戦闘機の設定も、もちろんヤマトの設定も、メカのデザインも、戦闘作戦室の床ディスプレイも、そして、細かいところなら艦長室のレイアウトからヘルメットまで、当時のまま(あるいは酷似)のデザインが使われているのがいいんです。

 まあ、人というなら、陸艇隊のメンバーとして、ささきいさおを声優として使って欲しかったですけどね。

 もと科学班長の真田さんは、昔の面影を残しつつ良い感じで年をとっているし……

 と、ここまで読めば分かるように、この「復活編」は、新しいファン層の方など向いてはいません。

 往年の熱狂的ファン「だけ」を相手にしている映画なのです。

 それも、人物による人間ドラマではなく、とにかくヤマトが動くところが観たいファンを。

 そして、おそらく、それは正しい。

 最後のブラックホール内での波動砲発射で、「さらば~」のエンディングテーマ(ジュリーの歌でない方)が流れた時には、ちょっとだけ胸が熱くなりました。

 情けない。

 とにかく、立て、万国の(往年の)ヤマトファン!

 そして、映画館で観逃した「復活編」をDVDで観るのだ!

 そうしないと、第二部が作られないじゃないですか。

 ご都合主義で、エー加減で、ツマンナイところは、あの山崎氏と某都知事の原案のせいだ、とクサすこともできるし、なかなかに楽しみの多い映画ですゼ、ダンナ。

 しかし、ヤマト以降の、ガンダム・ファンであったり、イデオン・ファンであったり、エヴァンゲリヲン・ファンである人なら、観ても仕方がありません。

 かつてのヤマトに、人間ドラマを見ていたヒトにもつらい映画でしょう。

 そのような人にとって、この映画は、ただのクズです。ダメです。時間の無駄です。

 とにかく……寝る夕飯まえにもう一度観るので、ここでは、これくらいにしておきます

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2010年10月12日 (火)

風に吹かれて……池部良氏逝去

 去る8日、俳優・エッセイストの池部良氏が亡くなられました。

 享年92歳。

 その内面はわかりませんが、わたしは、氏の一生は豊かなものであったと信じます。

 ざっと略歴を書いておくと、

 立教大学を卒業後、監督を志し(実は在学中から東宝のシナリオ研究所に在籍していた)たものの、知的でスマートな風貌から役者となった……が、太平洋戦争勃発のため徴兵され、中国山東省へ。

 大卒であったため(と、おそらく体格が良かったため:身長175センチ)に幹部候補生に仕立てられ(答案を白紙で提出したのに合格したとされる)、44年に南方に送られるも、輸送船が撃沈。

 得意の水泳で難を逃れ、ハルマヘラ島へ到着し、その地で終戦を迎える。

 一年足らずの抑留を経験し、苦労して帰国、俳優に復帰する。

 1949年の「青い山脈」は有名ですが、個人的には、氏がおそらく唯一金田一耕助を演じた「吸血蛾」(1956年)が好みです(もちろん、同時代的には観ていません。スカパーで観ました)。

 袴姿にボサボサ頭の金田一と違い、黒のスーツに黒のソフトをダンディに着こなした金田一耕助は、見事なほどの二枚目でした(市川昆版「犬神家の一族」以前の金田一は、全部スーツ姿なのです)。

 何かの雑誌インタビューで、この作品について尋ねられた氏は「よく覚えていません」と答えられていましたが……

 あとは、子供の頃、テレビで観て以来、わたしが毎夜うなされ続けた「妖星ゴラス」(1962年)にも、科学者の役で出演しておられます(今、気づきましたが、ゴラスが地球に衝突するのは1979年という設定なのですね)。

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 そして、池部氏といえば、東映の任侠映画「昭和残侠伝シリーズ」です。

 あの作品で、わたしは、世の中に「カッコイイ刈り上げ」があることを教えてもらいました。

 ここだけの話ですが、気が滅入った時、邦画なら裕次郎の「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」「俺は待ってるぜ」、池部良氏の「風間重吉」が出ている「昭和残侠伝シリーズ」、そして若山富三郎出演の「緋牡丹博徒シリーズ」をくりかえし観るだけで充分元気がでます。個人的にはね。

 あと、池部氏といえば、その文才に触れずにはおけません。

 氏の文章は余芸の域を超えています。

 もちろん、もともと監督家志望で、その勉強もされ、実際に何本も自分で脚本を書いておられるのですから、うまいのは当然のように思えますが、それとエッセイはまた別です。

 わたしのようなベタな文章ではなく、氏の文章は、凛として美しく背筋が伸びている、のです。

 なかなかできるものではありません。

 2009年に『そよ風ときにはつむじ風』で文芸大賞をとるのもむべなるかな、です。

 さらに、1983年より2009年まで、長らく、日本映画俳優協会理事長を務められておられました。

 このように「太く」「豊かな」人生を送られて後の逝去ですから、わたしなどのように、細く貧しく、たぶん短い人生を送るはずの者にとっては、うらやましい限りです。

 未来は知らず、現在のところ、人はいずれ死にます。

 結局、死に様は生き様に他ならないのですから、亡くなられるギリギリまで社会と関わり、仕事をされていた池部氏の生き様は、おそらく素晴らしいものだったのでしょう。

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2010年10月11日 (月)

「四千万歩の男」の残したもの……は、実際デカかった

 昨日、「完全復元伊能図 全国巡回フロア展」に行ってきました。

 伊能忠敬が制作した日本地図を「原寸」で展示する催しです。

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 まずは、チラシからその主旨を引用してみましょう。

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「2010年は、伊熊測量開始210年に当たります。

 下総国佐原(現千葉県香取市)の商人・伊能忠敬は、49歳で隠居後、50歳のとき江戸に出て天文・暦学を修め、55歳の1800年から72歳の1817年まで17年かけて日本全国を実測し、正確で美しい日本地図を遺しました。

 各地でウオーク日本1800や伊能忠敬ゆかりのウオークが計画・実施されています。

 この催しとともに、伊能図の原寸大複製を作成し公開する「完全復元伊能図全国巡回フロア展」を各都道府県で開催することを企画しました。

 いよいよ、待望の奈良で開催します。

 伊能忠敬は1806年冬に四国の測量を終えて、冬に奈良を測量しました。これた「大和路測量」です。測量作業とともに寺社仏閣を巡っています。その即席を辿ってください。」

 しかし、この伊能図『全』展示、さあ測量210年記念です、さっそく展示しましょう、といった簡単なものではありません。

 なぜなら、幕府に提出されたものは明治6年の皇居炎上の際に焼失し、東京帝国大学に保管されていた伊能家控図についても、大正12年の関東大震災で焼失したからです。

 よって、わたしが子供の頃は、そういった地図を作った人がいたよ、という史実と、縮小された複製地図だけが残っていただけだけでした。

 それが、伊能大図、全214枚のうち、アメリカで207枚!が発見されたため、現代の写真技術を使うことで、伊能忠敬らが作成したものと同じ美しい地図が蘇りました。

 ここで、注意しなければならないのは、およそ200年前に作られた地図の大きさです。

 当時は、もちろん紙の地図で、現代のように、画面をフリップしたり、ピンチしたりして、移動、拡大・縮小ができるようなものではありません。

 したがって、地図一枚一枚がデカい。なんせ実測図ですから。

 これをもとに、より使いやすい伊能中図、伊能小図が作られたわけです。

 写真でみれば分かるように、一枚が、およそ全紙(新聞紙見開き一枚)サイズ以上(実際は畳一畳)のサイズです。

 それが、214枚ある。巨大ナリ。

 展示会のタイトルに「フロア展」とあるのは、もちろんフロア展示するからなのですが、もうひとつ、その地図を床に敷いて、その上を歩き、直(じか)に伊能図を見ることができるという意味があります。

 人々はこのように↓地図の上を歩き、ひざまずきながら興味ある土地を見ているのです。

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 展示物が巨大すぎて、普通の会場では展示できないため(と、おそらく費用を安くあげるため、アカデミックな催しであるため)に、展示会場には、各地の市や大学の体育館を充てているようです。

 写真でみればわかるように、一見、ただの体育館で、特に何もない展示場です。

 しかし、会場内を歩く人々の熱気は相当なものです。

 皆、飽きずに地図に見入っています。おそらく、自分の住んでいる場所、生まれ故郷、出かけた場所が、200年前にはどうだったのか調べているのでしょう。

 会場内には巨大なブリッジが造られ、その上から、巨大な日本地図を鳥瞰(ちょうかん)することができるようになっています。

 しかし、こうやって見ると、日本って大きかったんだなぁ。

 政治でも地理でも、すぐにアメリカやアフリカと比較するから小さく見えてしまう。

 あの辺の土地って、無人の場所がほとんどの荒野なんだから、単純比較すること自体がおかしいのですよ。

 地図の多くは、海岸沿いの正確な測量を心がけているため、日本中央部の峻険な山々は白く抜け落ちていますが、海岸線の正確さは驚くべきものです。

 しかし、なにぶん200年前の地図です。

 京田辺市やあきるの市などの「笑止な観光目当て造語土地名」あるいは「イメージ先行無理矢理ひらがな土地名」が無いのはもちろんのこと、意外に、現在、知らぬ者のない土地が地図上にない反面、無名な土地ながら、当時から記載されているものが多数あります。

 北海道の多くの地名は、現在のように漢字を当てられず、カタカナのままであるものの、クナシリ島の測量の正確さには驚かされます。
 
 
 さらに、会場内には、当時の測量道具や測量方法を記したパネルも展示されています。

 その一つに、このようなものがありました↓。

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 伊能図が、実際に何年まで日本地図として使用されていたかを記した図です。

 これから、昭和の初めまで伊能図が使われていたことがわかります。

 まさに、国家百年の計。

 この展示会は、今後もまだまだ日本全国を巡っていく予定のようです。

 近くで催された時は、ぜひ足を運ばれるよう、おススメします。

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2010年10月10日 (日)

「棺覆ッテノチ定マル」ものとの戦い 「NARUTO」

 沢木耕太郎氏が、そのエッセイの中で、若き日の山本周五郎が、出版社に務めて働きながらも、毎日のように「小説を書けない」といっては「ワレ仕事セズ」と嘆き、日記を書き忘れたといっては「今日モ仕事セズ」と悲しみ、書いたら書いたで、自分の理想とする高みに「トウテイ到達セヌ出来」であると嘆いていた、と記しています。

 その気持ちは、よく分かります。

 わたしも、口に糊(のり)するために日々働いてはいるのですが、それが本当の仕事であるとは到底思えないからです。

 周五郎的な意味でいえば、このブログも、わたしにとって「仕事」のひとつなのですが、これも周五郎同様「仕事セズ」の状態が続いています。

 さて、久々の書き込みだというのにコミックの話で恐縮ですが、今日はマンガ、しかも、ひどくメジャーな「NARUTO」について書こうと思います。

 本来なら、フランスおけるロマの人々の問題、イジプシャン(エジプト人)がナマッて「ジプシー」と呼ばれた流浪の民を追放しようとする、自身ユダヤ系ハンガリー移民二世の「ニコラ・サルコジ」フランス大統領の心理状態についてや、ハンガリー西部におけるアルミナ(アルミニウムの原料)工場の汚泥池氾濫(はんらん)を、当初は対岸の火事として眺めていたフランス人が、ドナウ川に赤泥が流れ込んだ途端に、流域の作物汚染を案じて大きく報道で取り上げ始めた件、あるいは例の尖閣諸島における民主党の対応のトロさ(代表選の最中であったために他の全てが後回しにされたとされる)や、マスコミ(と一部の人々の思惑)に誘導された平均年齢30歳素人集団によって導き出された小沢強制起訴議決が、果たして公判を維持できるか、という問題について書きたいのですが、とりあえず、今は「NARUTO」です。

 ああ、ちょっとだけ付け加えるなら、もしフランス人が、ロマの人々を排除するなら、かの有名な、フランス語で「ジプシー」を意味するタバコ「ル・ジタン」も廃止すべきでしょうね。

 さらに付け加えると、個人的に、小沢氏が有罪であろうがなかろうが、あまり興味は無いのですが、現在、様々な問題が噴出しつつあるとはいえ、明らかに手柄を立てたがっていた専門家集団の検察が「起訴デキズ」と判断したものを、素人が、マスコミによる風評と顔が嫌いだからという理由で強制起訴しても、裁判を続けることはできないんじゃないかな。

 まあ、それはそれでいい。

 疑問に思えば、権力者であろうと、市井(しせい)の意見で起訴できるのは良い面もあるからです。

 問題は、それが、いったん起訴すれば有罪率99パーセント(正確な数字は忘れました、だいたいこの程度だったはず)を誇る、日本の「大」検察サマが起訴したのと同じ扱いで、起訴=犯人、つまり、即刻小沢氏の議員辞職を叫ぶヤカラがいることでしょう。

「推定無罪」(裁判で有罪が確定するまでは無罪としてアツカウ)は裁判の大原則なのですから。

 まあ、こういった「常識」が通用しないのも、検察と裁判官が自らの無謬(むびゅう)性(マチガイノナイコト)を振りかざして、「当然、尊重されなければならないこと」を踏みにじり続けた結果なのだから仕方がないでしょうが……

 ともかく、今回は「NARUTO」です。

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 ご存じのように、この作品は、少年ジャンプに連載されています。

 基本的に、マンガは、たまにコミック喫茶に出かけてまとめ読みをするのが常なのですが、「NARUTO」のペイン編に関していえば、単行本を買って、揃えてしまいました。

 思えば、ジャンプで目を通すのは、今やNARUTOと銀魂だけになってしまいました……

 アカラサマな群像劇である「ブリーチ」は読むのがちょっと辛いですし(「みーんな主人公」ってセンスはオタメゴカシ臭がして好きではありません)、敵のスゴサの描写が凄すぎて、具体的にどれだけスゴイのか分からないという表現手法にはついていけません。

 「ワンピース」には、深みが感じられず、どこか薄い感じがしてしまい没入できませんし、個人的に胸の大きすぎる女性は苦手なので、胸のオバケ化した女性キャラが跋扈(ばっこ)するコチカメも読まなくなりました。

 わたしが好きな作品は、読んでいて、コツコツと「引っかかる」というか「当たる」ところがある作品なのです。

 その点、NARUTOはいい。

 大筋において、ド根性ズッコケ少年ヒーロー物路線に分類される作品ですが、ところどころ、コツコツと胸に当たるところがある。

 ご存じの方も多いでしょうが、内容について、一応説明しておくと、「NARUTO」は、架空世界(あるいは遠過去、遠未来)における忍者の物語です。

 主人公のうずまきナルトは、尾獣(びじゅう)と称される、精神エネルギー体を体に封印され、人々から忌み嫌われる少年として登場します。

 これまで語られた話から察するに、「NARUTO」の大筋は、少年が持ち前の明るさとド根性で苦境をはね除け、自分の里の長「火影(ほかげ)」になり、忍者世界をひとつにまとめ上げる英雄になる、という話でしょう、たぶん。

 そして、彼のもう一つの目的は、子供の頃からのライバル、うちはサスケを、入り込んでしまった悪の道から救い出すことです。

 サスケは、敬愛していた天才忍者の兄イタチが一族を皆殺しにし、去り際に「俺を殺してみろ」といい残して去ったため、兄を殺すそのためだけに生きています。

 後に、それが里の上層部の命令であり(とされていますが、これもフェイクでしょう)、イタチは弟の命を守って死んでいったことが判明します。

 そのことを知ったサスケは、復讐のために里を全滅させることを誓うのです。

 サスケの、純粋であるが故のガキっぽい反応は、比較的長く人生を見てきたわたしにとっては、浅薄(せんぱく)で愚かで無意味に思えるのですが、まあ、それは仕方がない。

 個人的には、ヒネクレながらも、もう少し、ハスに構えて世の中を見るキャラクターが好きなのですが、純粋で清らかであるが故に、逆の振幅に振れてしまうという設定自体は納得できるからです。

 ナルトの師匠にあたる自来也(じらいや)が、ナルトにおけるサスケ同様、悪に走った友人のオロチマルを救い出そうとしながら果たせなかった、という二重構造もよく出来ています。

 特に、かつて自来也の弟子であったナガトが、世の中の悲劇・苦痛に耐えかねてペインとなり、自来也を殺し、ナルトに「突然愛する者を奪われる苦痛(ペイン)」を与えながらも、ナルトに感化されて、改心し死んでいくという「ペイン編」は、これまでの話の中では白眉(はくび)といって良い出来でした。

 が、わたしにとって、コツンと来るのは、そこではありません。

 ナルトが、修行の途中で、物語世界における精神エネルギー「チャクラ」について教えを受ける場面があります。

 各忍者の性質が、火・風・水・土・雷というカテゴリに属し、それぞれに優劣があることを教わるのですが、ナルトが「風」に属することを知った先輩忍者が、

「サスケは火と雷を使う。火は風に強いが雷は風に弱い、良かったな」

というのに答えて、

「俺たち相性が良かったんだ」

とナルトはいうのです。

 ナルトが、サスケを倒す可能性があることを喜んで、そういったと考えた忍者が、

「その通りだ、もし、お前が『土』の性質なら大変なことになっていたぞ」

というと、ナルトは暗い目をして、

「いや、俺の風と、サスケの火を合わせれば、強い武器になったんだな、と思って……」

 こういった、なんと書いたらよいのか、「気合いの抜き方」が「NARUTO」にはところどころあって、わたしはそれに惹きつけられるのです。

 あと、「棺覆ッテノチ定マル」(ヒツギオオッテノチサダマル)という言葉がありますね。

 人の値打ちは死んで初めて確定する、といった意味ですが、わたしにとって、これは別な意味を持ちます。

 つまり、人の人に対する影響力は、死んでしまった時点で永遠に固定化される、という意味です。

 具体的にいえば「あしたのジョー」における力石徹でしょうか。

 その人の死によって、生き残った人間の生き方が決まってしまうことがある。

 力石が死んだあと、ジョーは、力石のために放浪し、力石のためにカムバックし、力石のために死んでいきます(結果として、ですが)。

 つまり、実のところ、矢吹ジョーは、すでに力石といっしょに死んでしまっていたのです。

 あとは久沓(クグツ)のように、死者に操られて余生を送っていた。

 「NARUTO」にもそういった側面があります。

 特に、それは、サスケにストレートに表れますが、ナルトにも同じ「死者による影響」は発生します。

 師匠の自来也が残した「憎しみのない世界を作れ」という遺言、「お前を信じ、夢を託そう」といって死んでいった兄弟子ペイン、記憶の中で「お前ならやれる」と伝えた父、四代目火影……

 現実の世界にもそういった事柄は当然あり、そういった死者のメッセージ、重圧、影響力を、うまくコントロールしながら、日々を生きていくのが、年の功であり、世知であり、うまい「痛みのいなしかた」なのでしょう。

 そういった「死者のシバリ」のコントロールを含め、今後、ナルトがどのような道を歩むのか、わたしは、しばらく見守りたいと思っているのです。

 あ、そうだ、最後に思い出したことがあるので付け加えておきます。

 今度の、「検察官逮捕劇」で、いくつか笑えることがありましたが、その最たるものが、あれほどかたくなに可視化に反対していた検察官が、自分が捕まって取り調べを受ける側になったとたんに、可視化を要求しだしたということがあります。

 さすがに、長らく不可視でやってきた側にいただけに、不可視取り調べをやられたら、いかに自分が不利になるかをよく知っているということでしょう。

 この一事をとっても、「取り調べの可視化はなされなければならない」ということがよくわかりますね。

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