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2010年9月

2010年9月20日 (月)

カッコイイとはこういうことかも BIOHAZARD 「DEGENERATIONと5」

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 先日、セル版のみであった「BIOHAZARD DEGENERATION」がレンタル解禁となったので、さっそく借りてきました。

 これは、制作年は2年前で、一応、劇場公開はされたものの、全国限定3館、期間わずか13日という意味不明な公開方法であったため、観たいとは思いながらも観ることができない「マボロシの作品」だったのですね。

 あの、現在公開中の、ヒロイン礼賛のあまりワケの分からない内容となった実写版「レジデント・エビル(英語原題)」(ところでアリスってダレ?)と違う「ホンマモン・バイオハザード映画」だったのに……

 あと、これは別に書こうと思っていますが、ティム・バードンの「アリス・イン・ワンダーランド」も酷かったなぁ。

 いくらディズニーと組んだお子様むけ映画とはいえ、内容が酷すぎる。

 どうしたの、バートン?
 リズと別れて調子が悪くなったのか?(ってそっちはリチャードのほうだった)

 とくにエンディングが悪かった。

 フツーの女の子が、ラストで何に目覚めたのか、突然冒険家兼商人に?

 封建的色合いが濃い時代に、「ジリツするカッコイイ女性」化する「ご都合主義アリス」なんて、原作に愛着を持つ人々のダレが観たいと思っているだろうか?

 まあ、もちろんコドモ向け作品だし、特に視聴者の女の子(と大人になっても頭が女の子のママの人)を喜ばせたいというディズニー映画だから仕方ないと思いますが。

 しかし、それでも、わたしは、原作のアリスを構成する要素の大きな部分は、女性は常に女性らしく、つまり机にのったものをつまみ食いなどしないし、どこでも礼儀ただしく『レディ』らしく振る舞うことを強要され、それが当然とされていた時代の常識であるのは確かだろうし、その中で、アリスが自分の心に従ってどのように行動するか、がひとつのミドコロであると思うのですよ。

 なんか、このあたり、かつて、宮部みゆき氏が書いていた「時代ものも現代もわたしにとっては同じ」的発想が感じられるなぁ。

 以前、別項で書きましたが、「お侍にはさからわない(さからえない)」「親方は神様」「狐狸妖怪は実在する」といった、幕末以前の人々が常識と考えていたことを全く無視して、町人がサムライに食ってかかるような時代設定のみを拝借したフンイキ江戸・ナイヨウ現代的時代劇は、やはりどこか間違っているとわたしは思うのです。

 バイオもアリス、ワンダーランドもアリス
 最近の「アリス」が主人公の映画って、ハズレが多いのかな?

 いやいや、今は、DEGENERATIONの話の途中でした。

 観てみて……

 やっぱり内容は、ナカナカのモノでした。

 押井監督の「アサルト・ガールズ」よりはるかに良いデキです。

 なにより、女性兵士の武器操作に「腰が入っている」のがすばらしい(メイキングを見るとそれも当然であるのがわかります)。

 ゲームと同じ顔、質感のキャラクタが、自分で操作せずに延々と動いてくれるんですから嬉しい限りです。

 主人公レオンのアクションを観ていると、バイオハザード4の興奮が蘇りました。

「BIOHAZARD DEGENERATION」のデキがあまりに良かったので、勢いのままに、サワリだけやって、あとは長らく放ったらかしにしておいた「バイオハザード5」(PS3版)を一気にやってしまいました。

 ここのところ、torneによる「地上デジタルテレビ放送録画専用機」と化していたPS3が、久しぶりにゲーム機としての機能を果たしたわけです。

 ちなみに、なぜ放っておいたかというと、なんか、猛暑のアフリカを舞台にした埃(ほこり)っぽい映像が好きになれなかったからです。今夏は暑かったし……

 しかし、やり始めると、途中からそんなことは気にならなくなりました。

 戦闘場所自体が、湿地帯や地下基地など、アフリカっぽくなくなってくるからからです。

 今回の相棒、ネイティブ・アフリカンの女性であるシェバの、アフリカン・ピープル特有のしなやかな動きも魅力的。

 ご存じの方も多いでしょうか、「バイオハザード5」では「ウロボロス」という単語が重要な意味をもっています。

 劇中(ゲーム中?)、全人類に、あるウィルスを仕込んで遺伝子情報を書き換え、強制進化させるという設定があるのですが、その進化したわずかな人間(ほとんどの人間は不適応によって死亡するか怪物化する)をウロボロスと呼んでいるのです。

 だから、そのウィルスも、ウロボロス・ウィルスと呼称される。

 まあ、「パーシージャクソンとオリンポス~」のゴーゴン(メドゥーサ)役で熱演したウマサマンよろしく、頭ならぬ全身から無数のヘビに似た触手を出して、くねらせるその姿は、まさしく、ヘビが自分のシッポを咬む図案の古代「ウロボロス紋章」を連想させるものなのですが、なんか、ちょっとその名前に違和感があるのですね。

 そもそも、『ウロボロス』とは、脱皮をくり返す「生命力にあふれたヘビ」が、自らのシッポにかみつくというデザイン、つまり「永遠」を現しているといわれているからです。

 木城ゆきと氏の「銃夢」においても、ウロボロス・トラップは、夢の中に精神を引き込んで、延々と「覚めない夢」をみさせる罠として使われていました。

 そういえば、名作アニメ「赤毛のアン」のエンディング・テーマも「覚めない夢」でした。
 あれをちょっとセンスをいれて英訳すれば、「ウロボロス・ドリーム」と呼ぶこともできるでしょう。

 また、横道にそれました。

 今回、書きたかったのは、DEGENERATIONに登場するヒロイン・赤い髪のクレアと、バイオ5におけるクレアの実兄クリスの相棒・黒髪のシェバ、そしてクリスのかつての相棒・金髪のジルが、すべてカッコイイ女性であるということです。

 しかし、これは、あくまで男の文法(と呼ぶのが正しいかどうかはわかりませんが)から見た場合です。

 悲劇にあって泣かず、恐怖にあって叫ばず、苦境にあって愚痴をいわず、常に事態を把握(はあく)して先を読み、相棒にとってのベストの行動をとる。

 つまり、軍人としての訓練を受けた女性は(男から見て)カッコイイ。

 しかし、これはあくまで男から見た場合です。

 残念ながら、わたしは男ですので、女性の本当の気持ちはよくわらかないのですが、どうも、(女性の制作で女性に人気のある)映画、小説などから読み取る限り、こんな(一見)隷属的な関係は好きではないようです。

 いわば、バイオ5に出てきた、製薬会社の美人エリート支部長エクセラ、ミニのスーツを颯爽と着こなして、肩で風を切って歩き、命令口調で人に話し、自分の権威と能力を誇示する(いや、それとなく見せている、と言いかえましょうか)タイプがより好ましいように見える。

 表現を変えれば、アメリカのABCニュースなどでよくある、スタジオで、足と腕を組んでディスカッションをする女性タイプがカッコイイ。

 しかし、あの足の組み方のステレオタイプさは、思わず笑ってしまいますね。

 何人かが並んで座っていると、足の組み方、腕の組み方が「なにも全員同じにしなくても……」という、キメポーズの類型化ぶり!

 おそらく、そういった指導がなされているのでしょうが、その極端な横ナラビ、全員同じさは、ちょっとみっともない気がします。

 まあ、ゲーム中、エクセラは最後にウロボロス化して、巨大タンカーを沈没させるような怪物になってしまうのですが……

 いずれにせよ、この連休に、数時間をかけて、一息にバイオ5のホンペンを終わらせましたが、その後で、胸に去来したのは、カッコイイ女性たちの清々しさでした。

 もちろん、これは、わたしが男の目線でしか女性を評価できないからです。

 だから、男として(の教育の過程で得た常識と世界観と行動規範)自分と同じような行動をとってくれる女性は、一緒にいて疲れないし、仕事の能率も上がると思ってしまう。

 ああ、そうだ、今気づきました。

 先のヒロインたちは、全員が一緒にいて疲れないタイプなのです。

 いいかえれば、彼女たちは、いわゆるステレオタイプな女性らしさを直接、表に出さないタイプである。

 蛇足ながら、ひとこと断っておきますが、女性が男の下でキビキビと働くのが、心地よかったのではありません。

 個人的には、有能な女性の下で、彼女を信じて働けたらどれほど幸せだろうか、とよく考えます。

 知識があり、決断力があり、人の心の動きを含めて、モノごとがよく見えている指導者に、男女の区別などないからです。

 残念ながら、そういった男女に出逢ったことがないので、自分ひとりでやっているわけですが……

 ただ、そういった指導者像すら、わたしの男性的文法イロメガネでみた型に過ぎません。

 おそらく、女性の考える指導者、そして格好良さは、また違ったものなのでしょうから。

 主に男性によって作られた(メイキングブルーレイとクレジットから)、バイオ5をプレイしながら、そんなことを考えました。

 いずれ、女性によって企画、制作されるゲームが増えてくるでしょう。

 現在の映画のように。

 そうなれば、バイオ5のような展開のゲームは少なくなるのかもしれません。

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2010年9月13日 (月)

美しい文字 それは幻ではない! パイロット「色彩雫」

 ああ、嗚呼、なんということでしょう。

 いきなり一目惚れしてしまいました。

 もうこれは恋ですよ。コイ。カープ。

 好きになったのは、その名も山葡萄(やまぶどう)。

 濃い紫色で、乾くと、光沢すら感じさせる黒色になります。

 え、何の話かって?

 パイロットから発売された、日本の美意識から生み出された、万年筆のインクの話です。

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 始めに断っておかねばなりません。

 わたしは、万年筆は好きですが、多くの適当な万年筆についてくる「ブルーブラック」インクという色が、子供の頃から好きではありませんでした。

 なんだか、青っぽく黒い、どっちつかずな色に欺瞞(ギマン)を感じていたのですね。

 大人になってもそれは変わりません。

 どうせ使うならインクは黒です。

 銘柄は、深みのある漆黒さが好きで、長らくモンブランの黒を使っていました。

 赤は別になんでもいいので、値段の安いパーカーを使っていました。

 最近になって、黒は、セーラーの超微粒子漆黒インク「極黒」(キワグロ)を使いはじめましたが、あれはいい。

 ともかく、黒い上にも黒い。

 ほら、よく、冠婚葬祭なんかで、男連中が並んだ時、その礼服の値段によって、同じ黒でも、まるで黒さが違うことが明確になるでしょう?

 オレのよりヤツのほうが黒い!とかね。

 もちろん、わたしのは誰よりも薄い黒です。

 礼服なんてそれでいいのですよ。

 しかし、インクが、それではいけない。

 記録媒体として文字を紙に残すわけですから、クッキリと明快な色の方が良いのです。

 長らくそう思っていました。

 山葡萄(ヤマブドウ)を試し書きするまでは……

 最近でこそ怪しくなってきましたが、かつて、日本には24の季節がありました。

 色も同様。

 日本の自然(動植物)に根ざした、さまざまな色が生み出され、表現されてきました。

 それが、いつのまにか、ブルーブラックだのレッドだのアンバーだのといった、木で鼻をククったような(ってどんな意味?)色ばかりがハバをきかせるようになってしまった。

 しかし、今こそ、日本の美しい夜、ではなくて、美しく微妙に綾(あや)のある色の復権がなされるべき時なのです。

 万年筆を持つ楽しみのひとつは、書き味が最高なのはもちろんとして、さまざまなインクを使えるということです。

 いやぁ、長生きはするもんですよ。

 生きている間に、こんな様々な日本に根ざした色のインクを使えるようになるとは、ホント、思いませんでしたよ(ちょっとゲサ?)。

http://www.pilot.co.jp/products/pen/fountain/iroshizuku/

 上のサイトには見本がならんでいますが、ホンモノはディスプレイで見るような、単純な色ではありません。

 ぜひ、店頭で、実際に書いてみてください。

 美しい文字、それは幻ではない!

 たとえ字は下手でもね。

 そして、インクの色の深さに感動したら、この際、キャップレスでも何でもいいから、日本製の万年筆とコンバーター(これがないと、インクツボインクが使えない)を購入し、万年筆仲間になってください。

 是非とも。

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スッキリしすぎているVR映画 「アサルトガールズ」

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 遅ればせながら、押井守氏の「アサルトガールズ」を観ました。

 http://assault-girls.nifty.com/

 いわゆるVR(バーチャル・リアリティ:仮想現実)空間において、仮想生物(砂クジラ)を狩る話です。

 始まってすぐに、この映画が、あの各国の映画監督から絶賛を受けた「アヴァロン」と同じタイムラインに乗った話であることがわかります。

 押井監督お得意の、例の「立て板に水式」の事後承諾的(じごしょうだくてき)世界観の一方的ナレーションによって、未来が、仮想空間での成果によって「現実に金銭を得ることのできる世界」になっており、今回、立てられたワールド(あたかも2チャンネルにおけるスレッドのように)が、アヴァロンとは違い、人VS人の戦闘ではなく、砂漠に潜む巨大生物を狩ることに主眼をおいたハンティング・ワールド(1ヶ15万円のバッグじゃないヨ)であることが知らされます。

 が、わたしの文章同様、まわりくどい押井氏らしい表現は、映画冒頭のみ。

 さらに、岡田斗司夫氏が、某パソコン雑誌連載の「ま、いいか金ならあるし」で、いみじくも看破(かんぱ)したように、説明してしまえば簡単なことを、説明を放棄することで、視聴者に対して提示した設定やストーリィを、彼らの教養と能力に応じて深読みさせることで、深遠な物語に変貌させるという『押井作戦』が、「アサルトガールズ」では、まったく行われていませんでした。

 どうしたの?押井氏

 ま、それはともかく。

 砂漠世界で戦う人々は、砂クジラを倒して得たポイントで、自身の格闘スキルポイントを上げ、兵装(へいそう)を充実させ、移動用のジェット機を手に入れます。

 しかし、長らくこの世界で戦ううちに、とくに上位数人のハンター(おそらく、他にはもっと小物もいるのでしょう)は、自分が獲得した装備の維持費が、毎回の獲得ポイントと釣り合って、それを抜け出せなくなっているのです。

 いわゆる頭打ちになっている、いいかえればテンパッた状態なのですね。

 何とかして、この世界の一番巨大なエモノを倒して、次のステージに進みたいけれど、それには兵装が弱い。

 しかし、毎日、狩る小物クジラのアガリでは、武器の維持だけで精一杯。予備の弾薬を買うこともままならない。

 そこで、彼、彼女らは、コンピュータのゲーム・マスターから、ローン・ウルフ(一匹狼)をやめて、チームを組んで巨大クジラを倒すようアドバイスを受けます。

 そしてついに、ハンター・チームと砂クジラの戦いが始まるにゃー。

 え、アイルーはどこにいるの?

 と、いつの間にか、まるでモンスター・ハンターの世界観になってしまってますよ、コレ。

 そして、戦いが終わり、映画も終わる……

 ええッ!

 もう終わりましたか?

 何のヒネリもなく?

 うーむ。本当に押井氏は変わってしまったのだろうか?

 はなしがプレーンすぎる。

 老いては麒麟も……

 ま、ともかく、この映画に関しては批判めいたことを書くのは止しておきましょう。

 CG合成アクションとしては、アヴァロンより優秀ですし。

 ひとことだけいわせてもらるなら、こういった映画に出る女性たちには、あともう少しだけ武器の扱いに習熟して欲しかったなぁ。

 そりゃさ、つい先日、飽きもせず再び回したメタルギアソリッドで、目に焼き付いてしまったメリルやボスの美しいともいえる武器操作と、ただの役者の動きを比較する方が間違っているんだろうけど……。

 扱うのが、何とは知れぬ未来兵器とはいえ、ボルトアクションの手つきがヘボすぎると観るのがイヤになってしまいます。

 余談ながら、友人と、この映画の予告映像を観ていて、「押井監督、8年ぶりの実写映画」というテロップを目にして、何気なく、「ああ、アヴァロンから8年か」と呟くと、

「いや、『立喰師列伝やろ』」とツッコミが入ってしまいました。

 そういや、そんなもの撮ってましたねぇ。

 ウチには、特製オリジナルマウスパッドまであるのに、忘れていました。

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2010年9月10日 (金)

作家の未来予想図

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 昨日、DVDを整理していると、あの「コブラ」の作者、寺沢武一氏のもうひとつの代表作「ゴクウ(VOL.1:VOL.2)」が出てきました。

 ちょっと気になってしまい、始めだけ観てやめようとしたのですが、つい最後まで観てしまいました。

 本の整理などでもよくあることですが、結局、昨夜は「内容を確認しようとして手に取った本に没頭してしまい、最終的に何も片付かないまま」状態になって、ほとんど作業ははすすみませんでした。

 しかし、アニメーションを見終わって、このところ少しずつ気になっていたことが、はっきりとした形になるのを感じたので、ここで書いておくことにしました。

 その前に――

 寺沢氏の「ゴクウ」、ご存じでない方のために、カンタンに紹介しておきます。

 『近未来の日本』、ある私立探偵が事件に巻き込まれ、左目を失います。

 敵による催眠術から逃れるために自らナイフで目を突くのですが、その行為を「面白い」と思った何者かによって、彼は、各種センサーを内蔵し、あらゆるコンピュータに入り込んで、データを引き出し、コンピュータ制御のマシン(たとえそれが核ミサイルであろうとも)を操ることができる義眼を与えられ蘇るのです。

 現在であれば、全ての重要なサーバーは幾重もの防火障壁(ファイヤウォール)によって守られ、「機械的なクラッキングで進入し支配する」のが容易でないことは、たいていの方がご存じでしょう。

 まあ、そこは30年近く前の作品のこと、あまり細部にはこだわらないとしても、気になったのは、ゴクウの描かれる『近未来』が2014年であることです。

 え!、確か今年は2010年だから、あと4年で、ゴクウの住む「二度の大地震で壊滅的打撃を受けながらも、再び耐震型超高層ビルが林立するトーキョーシティ」の世界がやってくるの?

 いやいや、とても無理です。

 二度の大地震はともかく、いまだ都市部では「卵形の未来的建造物」はおろか、超超高層ビルも建ってはいません。

 足もとには老朽化した雑居ビルが乱立しているし。

 お台場の某テレビ局の建物?うーん。あれは違うでしょう。

 いや、何の話かといいますと、SF作家(マンガ家含む)の考える「近未来」は、つねに、現実より早回しである、ということです。

 ハインラインの「夏への扉」では、1970年に冷凍睡眠が実用化され、30年後の2000年代初頭(すでに過去!)には、すでに世界から虫歯と風邪がなくなっていました。

 実際には、まったくそんな気配はありません。

「謎の円盤UFO」のオープニング・ナレーションは、
「1980年代、人類はすでに地球防衛組織SHADOを結成していた」
ですしね。

 要するに、これが何となく気になっていたことだったのです。

 つまり、どうやら、現実は、つねに作家たちが考える「近未来」よりも歩みが遅いらしい、ということがはっきりしてきたのです。

 このブログでも人気が高い?コーナーである「デルファイ統計予測」は、さすがに、科学者、あるいは、その方面の「専門家」が書いているために、それほど現実とのズレは感じられませんが、それでも、弱冠の遅れは感じます。

 この傾向が顕著なのは、当然ながら、科学技術が「異常なほど」進んだ戦後30年ほどに作られた作品群です。

 いわゆる「科学万能時代」「何でも出来る世界になる期待感」にあふれたエネルギッシュな時代。

 もちろん、その反動による「暗い世相観にまみれた後進的暗未来」も、いくつか描かれましたが、数からいえば「進んだ科学文明的未来」が圧倒的に多かった。

 さすがに、最近は「わずか十年ほどで世の中が変わるような物語」は、あまり書かれなくなりました。

 これは、何度も期待しては科学の進歩に裏切られてきた、過去数十年の経験によるものでしょう。

 人によっては、「個人同士が瞬時に意思を伝えあえる携帯電話」の普及こそが、エポックメイキングな発明なのだ、と叫びますし、個人が世界に向けて意見を発信できるブログやツイッターがイノベーションなのだといいます。

 確かに、社会的にみれば、それらは、大いに意義のあることかもしれませんが、そういった「情報がらみ、ネットワーク」の進歩ではなく、もっと「物理的」な、瞬間移動ができたり、水を使わず洗濯したり(超音波シャワーって呼ばれてたなぁ)、できるような、そんな発明を目の当たりにしたいわけですよ。

 すぐに実現できそうだった、電気自動車(しかも中途半端な)の普及までに、どれほどの時間がかかってしまったことか。

 もちろん、インフラストラクチャーの整備も必要ですから、一足飛びにいかないのはわかるのですが、それでも遅すぎる。

 SF作家、特に流行作家は、人々の希望を、時代の期待(と不安)をくみ取って作品にします。

 だから、日々報道される、「どこそこの大学で、こういった基礎理論が完成しました」という情報から、話をふくらませて未来を描く。

 我々も、そういった情報から、もっと便利なものが、世の中に現れることを期待する。
 限りある寿命や不治の病を含む、現実にあるさまざまな不具合を 将来的には科学が解消してくれると、長い間裏切られ続けながらも、根本的なところで、われわれは信じてしまっているのでしょう。

 結果的に実現するなら、ちょっとでも早いほうがイイ!

 そう思うからこそ、作家に限らず、現実の不具合さに飽き飽きした、われわれの「未来予想図」は、常に現実より進んでしまうものなのかもしれません。

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