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2010年8月

2010年8月31日 (火)

これさえあれば大金持ち 禁断の惑星ロボット・ロビー

 少し前に書きましたが、先日、日本橋のジョーシンで、禁断の惑星のロボット、ロビーの貯金箱「ロビー・ザ・ロボットバンク」を格安で手に入れました。

 大阪のオモチャメーカー「大和玩具」の製品です。

 定価6279円とチト高いですが、なぜかそれが1000円ちょっとで売られていたので、即断しました。

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 なかなか、ハート(魂とはいえないまでも)の入ったフィギュアで、気に入り、邪魔になるのに、連日、ディスプレイの前に置いて眺めては悦にはいっています。

 手などで影をつくると、光センサで青色LEDが光り、映画からサンプリングされたモノホンのロビーのセリフを話すのも良い。

 さらに「バンク」というだけあって、貯金箱機能がついています。

 しかも、どんな硬貨を入れたか判断して合計をカウントする機能まである。

 口の部分に、巧妙に偽装されたコイン投入口からお金をいれると、その大きさで金額を判断して、現時点の貯蓄額?を教えてくれるのです。

 だから、目標金額を設定して計画的に貯金ができる(はず)。

 唯一の欠点は、お金を取り出す背中の蓋がすぐに開けてしまえることでしょうか。

 子供時代に、これがあったとしても、意思の弱いわたしは、きっとすぐに蓋をあけてお金を取り出して使ってしまったことでしょう。

 他にも海洋堂から、多くの心引かれるフィギュアが発売されています。

 たとえば、ルパン三世。

 わたしは、初代、緑ルパンの世代なので(第一回テレビ放映を観ています)、赤ルパンにはそれほど興味はないのですが、それでもこの造詣はいい!

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 いみじくも誰かが書いていたように、「良い時代になったものだ」と思わずにはいられません。

 さらに、大魔神像やAKIRAの金田バイクや海底軍艦轟天号(ごうてんごう)、カウボーイ・ビバップのソードフィッシュなど、欲しいモノだらけで困ってしまいます。

 中でも、上のルパンと同じリボルテック・シリーズには、GR-1(ジャイアント・ロボ:特撮版)があります。これはイイ。欲しい。

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 しかし、どうして、男の子も女の子も、子供の頃から、こういったヒトガタを欲しがるのでしょうか。

 今まで、様々なご高説が語られてきましたが、わたしには今ひとつしっくりとこない説明が多く、膝を叩くような話はありません。

 なんだか、陳腐でありきたりな心理学的説明ばかりで……

 あるいは、遠い昔、いまだ天から追放されず、天に鎮座する巨大な神であった時に、泥を用いて自らに似せて作ったヒトを自在にあやつったという遠いDNA記憶が、現代の人類に、フィギュアを好ませるのかも知れない……

ぐらい言って欲しいモノですがねぇ。

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ゲゲゲの黄金の日々

 連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」も佳境に入ってきました。

 赤貧(今は誰も使いませんね)洗う如き生活をしている時は、我が身につまされて、よく観ていましたが、豊かになってからは、、あまり真剣に観ていません。

 話はちょっと横道にそれて……これは別項で書こうと思っていますが、先日、日本橋にでかけたおり、「禁断の惑星」のロビー貯金箱を叩き売りの値段で手に入れました。

 連日、ディスプレイの前に置いて悦に入っています。

 そこで、この機会に、映画を見直そうとDVDを探すうち、「のんのんばぁとオレ」を見つけました。

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 何年か前に、スカイパーフェクトで放映していたものです。

 ご存知のように、これは、漫画家、水木しげる氏が少年時代を描いた原作を、1991年にNHKがドラマ化した作品です。

 さっそく全五話を一息に観かえしてしまいました。

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 母役をもたいまさこ、父役を岸部一徳が好演しています。

 番組冒頭、まだ矍鑠(かくしゃく)として元気な水木しげる氏自らが登場し、当時の思い出を語りながら物語へと誘います。

 今は知らず、かつて男の子にとって、少年時代は、ある意味ユートピアでした。

 その半ズボンのポケットの中には、綺麗なガラス玉、なにか得体のしれない動物の骨、独楽回しの糸の切れ端と共に、遊びのエネルギーがいっぱいにつまっている。

 その過剰なエネルギーと好奇心が、時にトカゲや蛙の面白半分の解剖などの、同世代の(いや、世間全般のかな)女の子たちのマユをひそめさせる行為につながるのです。

 いまだ、明確な自我の目覚めを得ず、したがって、それゆえの孤独を知らず、たえず胸を軽く押されるようなメランコリィを知らない黄金の日々。

「のんのんばぁとオレ」は、正しく少年の、その幸福な世界を描いています。

「のんのん」つまり神様をまつる民間の拝み屋のお婆さん、だからのんのんばぁ。

 山田 昌さんが好演しています。

 当時からその仕事だけでは食い詰めて、水木しげるの家に臨時に雇われ、家政婦のような仕事をしつつ、彼女は、少年たちに、さまざまな妖怪や不可思議な出来事と共に、教養ではなく、経験から得たヤルベキコト・ヤッテハナラヌコトを伝えていくのです。

 また「この親にしてこの子あり」の夢想家の父や母、結核の転地療養のためにやってきた遠縁の女の子との関わりを交えつつ物語は進んでいきます。

 子供たちは、毎日のように隣村の子供たちと戦争ゴッコをくりかえしていますが、いまだ戦時色は強くなく、田舎の村の雰囲気は自由です。

 その中で、少年は逃亡中の強盗犯と出会い、少し年上の女の子に淡い恋心を持ちます。

 強盗で思い出しました。

 わたしの祖母は、山口県の青海島(オウミジマ)という離島(現在は橋が架かっています)の出身ですが、八歳の時に山賊にあったことがあるそうです。

 十二歳の姉を頭に、三人の女の子だけで、島から仙崎(本州側)にある本家に引き出物を受け取りにいった帰りのことだそうです。

 祖母の家は、本州からみて島の反対側にあるので、行きは家の前の海岸から舟に乗り込んで送ったもらったのですが、帰りは、何かの用事で遅くなってしまい、同じ場所まで送り届けるというのを断って、本州側の浜につけてもらったそうです。

 なぜ、祖母たちが舟を断り、大人たちがそれを許したのかは聞き逃しましたが、とにかく島を縦断して家に帰る途中に、彼女たちは山賊にあったのです。

 夜道を、提灯を掲げて歩くうち、うしろから「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。
 まだ子供だった祖母が
「呼んでいるから返事をしないと」
というのを、年の長で、危険を感じ取った長姉が
「返事なんかしないで、急いで歩くの」
と急かせているところへ、ぱっとその山賊が飛び出してきた!

 お腹の大きな女性を連れて。

 ザンバラ髪に真っ黒な顔、大きな体、恐怖による誇張と錯覚は混じっているでしょうが、心理的には、正しく鬼に出会ったような恐怖だったでしょう。

 子供心に、妙に恐ろしく、またリアルに感じたのは、その山賊がひとりではなく、妊娠中の、同じように真っ黒な顔をした女性を連れていた、という点でした。

 今なら色々と想像できます。

 何らかの事情があって島に逃げ込んだ夫婦が、食べ物に困って、道行く子供を脅かしたのでしょう。

 結局、祖母たちは、引き出物を放り出して、命からがら家に帰ったそうです。

 一応、翌日に山狩りが行われたそうですが、何も見つけることはできなかった。

 まあ、祖母が死んで20年近く、100年ほど前の事ですから、そんなこともあったのでしょう。

 こういった話を、さまざまな声色を使い分けて、ゲゲゲの女房の祖母やのんのんばぁのように、祖母は寝物語に話してくれました。

「のんのんばぁとオレ」の時代は、それより十数年後の話です。

 祖母は恐がりだったため、のんのんばぁのように妖怪や怪奇話はしませんでしたが、当時の「科学と合理主義という信仰」を持たない人々にとっては、妖怪や不可思議な出来事は事実として存在していたのでしょう。

 いまだって同じような出来事は起こっているはず。

 しかし、現代人は、宗教よりちょっとだけ再現性のある、科学技術信仰に、闇雲に陥っているためそれが見えないだけなのでしょう。

 まあ、わたし自身、根っからの鈍感、凡夫、俗物であるためか、幽霊も見えず、霊も見ず、心霊写真も撮ることができず、金縛りにもあわず幽体離脱も経験せず、UFOも目撃せずUMA(未確認動物:ツチノコなど)も見たことがないのですが……

 物語中で、のんのんばぁの語るコトバが素晴らしい。

 おそらく、原作者、水木しげるの記憶に肉付けされたセリフなのでしょうが、押しつけがましくない、妖怪を用いた軽やかで重い言葉。

 ここで、わたしのつたない文章で再現するのは止めておきます。

 機会があれば、ぜひ、ホンモノをごらんになってください。

「おまえが正しいと考えることをやりなさい」と、子供へ責任を丸投げする、親と教育機関の共同謀議である、ゆとり教育とはまるで違う教育がそこにはあります。

 同時に、イラン映画「運動靴と赤い金魚」で感じた、強大な『子供力』を目の当たりにする、元気のでるドラマです。

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2010年8月19日 (木)

ちょっと旬をはずれましたが 高校球児の歌「燃やせ闘魂」

 高校野球も残すところ、あと数日となりました。

 あまり高校野球放送は観ないのですが(高校の時に、学校から無理矢理応援に連れていかれた悪い思い出のため?)、何年か前に、テーマとタイトルを渡されて、高校球児の詞をつくったことがあります。

 年もとり、すっかりヒネくれたわたしに、まっすぐにスポーツに打ち込む青少年の歌を作れというのは、かなり難しい注文だったのですが、若かりし頃を思い出して、何とか詞の形にすることができました。

 個人的に、このようなストレートなタイトルの詞を書くことはほとんどありませんが、作曲者の明るい曲調のおかげもあって、聞きやすい曲に仕上がっていると思います。

 あ、しかし、詞のデータが、すぐに見あたりません。

 とりあえず、曲だけアップして、詞は見つかりしだい掲載することにします。

 ぜひ、お聞きください。

 「燃やせ闘魂」

    作詞 晩蔵仁
    作曲 藤原康之

       

  2010.8.19 ロングバージョンに差し替えました。

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2010年8月13日 (金)

24年を経て蘇る悪魔 チェルノブイリ火災の恐怖

 いやぁ、今年の夏は暑いですね。

 今夏の異常なほどの暑さによって、世界各地で山火事が多発しています。

 さすがに、日本では、極端に大きな山火事は発生しませんが、恒常的に乾燥している地域では、一度火がつくと2000ヘクタール程度はあっという間に焼けてしまう。

 現に、今も、ヨーロッパでは山火事が多数発生しています。

 中でも、特に問題なのは「あの」ロシアとウクライナの国境付近、チェルノブイリ近くで発生した山火事です。

 日本ではあまり話題になっていませんが、さすがに地理的に、彼の地に近いフランスでは、サルコジ大統領の「ロマの人々に対する差別発言」とともに、昨夜のF2「20HEURES」で大きくとりあげていました。

 ロシア政府を始め、近隣諸国の「科学者スジ」は、こぞって「危険性は僅少(きんしょう)である」との大合唱をくりかえしていますが、チェルノブイリ原発事故によって拡散した放射性物質(セシウム137など)を内部にため込んだ植物や土壌が、この火災によって再び空気中にまき散らされることの危険性は、決して無視できるものではないと思われます。

 放射能情報研究委員会(まるで、日本のバカ番組のタイトルのようです)の定期的な測定によると、放射能は、まだ危険値レベルではなさそうですが、この組織がどの程度信頼できるものなのかは、はなはだ疑問です。

 とくに、セシウムなどは、人に対する影響だけではなく、家畜や農作物に対する影響も考えなければなりません。

 さすがにフランスのF2放送だけに、2年後には、この地域からフランスに畜産・農作物が輸入される恐れがあるので、「この火事は他人事(ひとごと)ではない」と、依怙(えこ)精神さかんなフランスらしく、アナウンサーも心配顔をしていました。

 いや、何がいいたいかというと、原因が、自国による原発事故であろうが、他国による爆弾攻撃であろうが、放射能汚染の恐怖と痛みと苦しみには変わりがない、ということです。

 四半世紀を経ても悪霊のように蘇ってくる「残留放射能の恐怖」に対して、悪霊をブタに取り憑かせておぼれ死にさせるという、あの逸話のように、すっきりとした解決策を科学者たちは考えなければなりません。

 コスモクリーナーDのようなマシンを。

 低炭素社会化とエコの名の下に、いたずらに原発を増やそうとする前にね。

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夏がくれば思い出す ~終戦は真夏の出来事~

 夏、といえば、連想するものが――

 昼ならば、輝く太陽、海の家、「氷」のノボリ、はじけ飛ぶ水しぶきに女性の素敵な水着姿、夜ともなれば、若い女の子たちのほっそりとしたウエストにキュッと締まった帯も初々しい浴衣姿、ちょっと汗ばんで上気した頬に、ゆったりと風を送るうちわ、手をつないで見上げる夜空、漆黒に咲く色とりどりの花火――

 なんて夢のような情景ばかりであれば、どれほど良いでしょう。

 しかし、奇(く)しくも日本に生まれ、戦後教育をうけた者であれば、8月がくれば思い出すのは(あるいはマスコミなどのリーディングによって思い出させられるのは)、史上初めて「生活する民間人の頭上に落とされた」二種類の原子爆弾(リットルボーイが高濃縮ウラン、ファットマンはプルトニウムを用いたもの:「アジア人に対する放射能爆弾の影響を知るため」違う種類の爆弾を違う場所に投下したとされる)と天皇による玉音放送でしょう。

 個人的に、人々が玉音放送を聞くイメージというのは、

「猛暑の中、流れる汗を拭おうともせずに、じっと真空管式ラジオを見つめる人々」

です。

 そう、現代日本において、終戦とは「うだるような暑さの中の出来事」なのですね。

 もちろん、戦争が終結するのは夏だけではありません。

 世界を見渡せば、真冬のさなか、木枯らし吹きすさぶ中での終戦を経験している国も少なくない。

 日本だって、大阪冬の陣の終戦(停戦)は冬だったわけです。

 しかし、我々日本人にとっては、いわゆる「さきの大戦」の印象が強すぎて(あるいは「さきの大戦」が直近の戦争であり残された資料も多く、それを体験した人々がまだ生きているために)、戦争といえば「太平洋戦争」「終戦といえば1945年8月15日」ということに条件反射的になってしまうのですね。

 もし、イタリアがコシヌケにも真っ先にケツヲワラズ、返す刀で日本に宣戦布告セズ、ドイツがもう少しガンバリ(とはいえ、一説によると、自殺直前のヒトラーは過労過ぎて、自殺しなくとも、あと数週間で死んでいたらしいですが……)さえすれば、日本の終戦は冬になっていたかも知れません。

 あるいは、一年で、もっとも気候の良い、春先や秋口のうららかな日になっていたかも知れないのです。

 しかし、いろいろな地方、色々な時代の激しい戦争をみても、そういった季候の良い時期に終戦を迎えたものは、それほど多くありません。

 逆にいえば、こういうことです。

「戦争勃発(ぼっぱつ)」後の、振り上げたコブシをおろす「終戦」という決断は、寒熱冷暑(かんねつれいしょ)の厳しい時期に、それに耐えかねたように行われることが多いのだ、と。

 しかし、それでも、日本の終戦は、西行法師のあの句のごとく、

「願わくば 桜の下にて 春死なんその如月の 望月のころ」

であって欲しかった。

 過酷な時代を生きた人々に、冷徹な宣告をする日であるならば、せめて季節は美しくあって欲しかったのです。

 それが、戦争を知らないわたしの、単なる感傷にすぎないことはわかってはいるのですが……

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2010年8月 9日 (月)

彼女の肉球

 かつて、わたしの友人は、辞書を買うにあたって、それに「ちんちんかもかも」が納められているか否かを基準にしていました。

 意味は皆さん、ご自分であたってみてください。

 最近の辞書なら、たいていは入っているはずです。

 その友人によると、世の多くの人は漢字を「百姓読み」しているそうで……

「え、ヒャクショーヨミってなに?だいたい意味はわかるけどさ、勝手につくるなよ、そんな読み方」

というと、

「何をいうか、辞書にちゃんと載っている。俺はだな、お前たちが、イヤラシイ単語を辞書でひいている時に、マジメに勉強していたのだ」

「む、ぐぐぅ……(ちがわい、と、きっぱりいい返せないのが悲しい!)」

 確かに、辞書には「百姓よみ」という言葉があります。

 その意味は、

「漢字を旁(つくり)や偏(へん)の音から勝手に類推して我流に読むこと」

 どなたに関わらず、やってしまいがちな行為ゆえ、胸に手を当てて自戒したいものです。

 爾来(じらい)、わたしは、辞書に親しみ、なるべく語彙を増やす努力をしてきました。

 おかげで、辞書に記載されている言葉、されていない言葉についても、知識が深まり……んがぁ、先日、かなり驚くことがありました。

 知人の女性、この方は妙齢のご婦人で、いろいろと教えていただくことも多いのですが、彼女が、

「辞書に『肉球』という言葉が載っていないことはご存じですか?」

といいだしたのです。

「まさか、そんな。1000万人に認知されているような言葉が載ってないわけないじゃないですか!」

 咄嗟(とっさ)に、そういいかえしたものの、調べてみると、ネット辞書以外、ほぼ、どの辞書にも載っていませんでした(最新の電子辞書なんかには載っているかもしれません)。

 長らくわたしは、真逆(マギャク)は、多くの新語同様、お笑い芸人が、オフザケで用いはじめた言葉で「自虐(ジギャク)語」に分類される言葉だよな、真逆は、本来「まさか」の当て字なのに、知らずにつかうのは恥ずかしいことだよ……と時代のフインキ(うそ!)を笑っていたのですが――真逆、うちのケツコについている、あの「ぷにぷに」が辞書に載っていないなんて……

 知っているつもりでいるほど、何も知らないものなのですヨ。

 ちなみに、日本の辞書にない肉球という言葉は、英語でPADといいます。

 こっちは辞書に載っている。

 「パッド」より「パフ」の方が近い感じがしますが。

 老婆心ながら、「ちんちんかもかも」の意味は、

「男女の仲がたいへん睦(むつ)まじいこと」

です。

 うーん、なんか語源がわかるような、わかりたくないような……

p.s.
 考えてみれば、肉球は「にくキュウ」、つまり前半訓読み後半音読みの「湯桶(ゆトウ)読み」、すなわち原則的には文法的誤りの読み方なんですね。

 そもそも、その読みの段階から不備のあるコトバなんですよ。

 「湯桶読み」は、大陸からやってきたコトバではなく、「日本で作られた」和漢混種のコトバなので、読み方が訓音になるのもムベなるかな、ですが。

 ちなみに、湯桶読みの逆の「重箱(ジュウばこ)読み」も原則としては誤りです。

p.p.s
 もひとつちなみに、ドイツ語では、肉球を Ballen(バレン)と呼びます。

 あっ、いま思いつきましたが、バレンって、あの木版画の時につかったアレのことかも。

 一般的には、アヤメ科のバレン草からきているともいわれるようですが、ご存じのように、アレって竹の皮でできてるから、どうもそれはマユツバっぽいし、ひょっとしたら……

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2010年8月 6日 (金)

さらば夏の光よ

「さらば夏の光よ」とは、遠藤周作原作で、青春のほろ苦さを描いた、あのヒロミゴー!ゴゴー主演の松竹映画(1976年)ですが、今回はそんなカビの生えたような古いアイドル映画の話ではありません。

 実は、ここ数年、夏がくるたび、何かはっきりしない異変を感じていました。

 異変……夏なのにTUBEの曲が聞こえてこない、とか?

 いやいや、そんなことではありません。

「それが、何だか分からないけれど、確かに何年か前とは違う」そんな感じがしてならなかったのですが、それが何なのか、今日、判明しました。

 わたしは、一年を通じて単車に乗っています。

 ああ、ちなみに……このブログを読んでいただいている方はご存じでしょうが、わたしは二輪を「単車」と呼びます。

 しょうもないことですが、そう呼ぶ理由もあります。

 もう何十年か前のこと、友人から、まだ元気があった頃のタモリ氏がやっていた、オールナイトニッポンの「面白いトコ録りテープ」!を聴かされたことがありました。

 その中で、タモリ氏が、日本のオールディーズとして、『単車』という曲を紹介したのですね。

 当時ですら、かなりレトロなその曲を紹介しながら、氏が、

「そういえば、昭和20~30年代って『単車』ってコトバがカッコよかったんだよねぇ」と、つぶやくのを聴いて、わたしは強い感銘を受けたのでした。

 そのころ、すでに二輪はバイクと呼ぶのが一般的で(原付はスクーターになっていましたし)、単車などと呼ぶのは、戦前から二輪に乗っているような人々だけで、その言葉からは、もっさりとした印象しか受けなかったからです。

 しかし、その「単車」というコトバが輝いていた時代があった。

 今思うと、第二次大戦中に流行った「側車付」二輪車(いわゆるサイドカー)に対する「単」車という意味だったのでしょう。

 世の中の流れが、二輪、バイク、オートバイへと向かうなら、自分だけはレトロな「単車」で呼んでやる、という偏屈心が顔をもたげた結果、わたしは二輪車を「単車」と呼ぶようになったのです。

 と、まあ、そんな個人的な感想はともかく、今は「夏の異変」についてですね。

 それは、7月からひぐらしが鳴くようになった――ひぐらしの鳴く頃に――じゃなくて、気温が狂ったようにあがり、吹く風が暖かくなっても、街で原付以外の単車を見かけなくなったことです。

 排気量250以上の単車の数が少なくなった(125CCのスクーターは、まだ多いのですが)。

 かつては、夏が近づくと、冬の間はどこにいたのか?というほど、クオーター・バイクの群れが道路を席巻したものです。
 

 夏は薄い綿ジャケット、冬は革ジャンにオーバーズボンで、震えながら走り続けている身としては、

「一年を通して乗ってこそ『単車(バイク)乗り』。暖かい時期だけ乗る奴ぁ、似非(エセ)ライダーに過ぎないぜ」

とイキがっていたのですが、

 いまや、イキがるべき「相手」をほとんど見かけなくなってしまいました。サビシイ。

 道路から、原付以外の二輪の影が消えてしまった。

 たまに、例の「中年の浮気願望丸出しコンセプト」のビッグスクーターを見かけるだけです。↓

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 これについては、前に本ブログで書きました。簡単に内容だけ書いておくと、

 ビッグ・スクーターが売り出された頃、各メーカー(ヤマハが先陣であったか)は、そのターゲットとして、金を持ちかつ若さを懐かしむ中年男を選びました。

 彼らを惹きつけるイメージフォトとしては、やはり女性とのタンデム(二人乗り)を使いたい。

 しかし、妻ではオトコゴコロに火を付けることはできないだろうし(わたしの意見じゃありませんよ)、実際に中年になった妻が命を危険にさらして(いかに詭弁を労そうとも二輪は危ない。すぐに死にます。特に後ろシートはね)夫に命を預けはしないはず。

 それが現実ですし、メーカーもユーザーもそれは分かっている。

 そこで、どうみたって、糟糠(そうこう)の妻には見えない若い女性をタンデムシートに乗せた中年男が、峠を、海岸線を走るイメージ写真が多用されたのです。

 さすがに、これには違和感も異論も大きかったのか、しばらくすると、いかにも妻っぽい女性を乗せている写真に変わりました。

 それも、イマイチ受けが悪かったのか(あるいは先に述べた理由で荒唐無稽に見えすぎたのか)、今は男ひとりのツーリング写真などが多いようです。
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 個人的にいえば、ノークラッチ・ノーシフトの乗り物は、単車ではないと思っています。
 40キロの速度を保ったまま、アクセルグリップの開閉と、クラッチミートのタイミングで、ショックレスに2~6速までシフトを自在に変えられなければ、単車を安全に乗ることなどできない。

 だから、あの小さなホイール、それに比して異常に長いホイール・ベース、ニーグリップの利かない腰掛けシートの中排気量「原付」は、かつてのマッハⅢ同様、未亡人製造機としか思えない。

 と、ワルクチを書いてしまいましたが、それでも、まだ彼らは二輪の仲間です。フェロウです。

 しかし、ビッグスクーターの増加(あるいは、彼らは単にスポーツ・バイクからビッグ・スクーターへ乗り換えているだけなのかもしれません)にもかかわらず、公道上の二輪の数は減り続けているように見える。

 実際に、統計上も、国内におけるビッグバイクおよび中排気量バイクの販売台数は減少の一途をたどっているようで(ピーク時の10分の1)、先日も、そのことがニュースになっていました(各社は急遽、単車の価格を1割~3割引き下げるそうです)。

 世界最高のバイクメーカーを多数有する日本国内でバイクが売れない皮肉。

 その理由のひとつは、いわゆる若者の安全志向でしょう。

 若い「クセ」に危ないことをしたがらない。

 なんで、そんな危ないものに乗らなきゃならないの、転けたら怪我するし、両足を粉骨骨折したら一年を棒にふらなきゃならないジャン……ってね。

 いやいやチミ、それは間違っとるよ。

 実際は、転けると頸椎骨折で全身麻痺、あるいは頭部強打で、以前なら死亡のところが、中途半端な医学の進歩で一命はとりとめ、高次脳機能障害で記憶が20分しか持たない後半生を送ることになる……って、危険性を強調してどうするの?

 もちろん、そういった乗り手の意識変化もあるのですが、それより、もっと実際的な原因があります。

 具体的にいえば、バイクの維持費は高いということです。コスト・パフォーマンスが悪い。

 定員がたった二人なのに、タイヤ、オイル、クーラントなどの消耗品代やメンテナンス代もそこそこ必要な上、さらに割高に感じるのは、税金および自賠責保険、任意保険などの法的費用です。

 251CC以上なら、車検まで受けなければならない。

 その上、都会では、小型以上の単車を停めるスペースがない。

 原付は自転車のとなりに停めることができ、車には駐車場が用意されていても、単車用の駐車スペースが用意されていないことがほとんどです。

 そのくせ、空いた場所に駐車しておくと、わずかな時間でも、例の「緑のおじさん」がやってきて違反切符を切ってしまう……

 わたしの友人は、そのために単車を手放してしまいました。

 最後の問題は、一(いつ)に、二輪メーカーの怠慢が原因です。

 彼らは、シティ・コミューターとしての原付に力を入れすぎて、単車本来の「走る楽しみ」を日本の若い世代に伝えようとはしなかった。

 おまけに、四輪と違って値段を下げるという努力をまったくしていない。

 二輪車の価格は異常に高かったのです。

 さらに種類も少ない。

 メーカーのサイトを見てください。

 原付とビッグスクーターのラインナップばかりで、昔ながらのオンロード、オフロード車の種類が激減している。

 特に大型車は海外のみをターゲットにしているため、国内で手に入れようとすると逆輸入するほかないのです。

 確かに、長らく単車は社会的評価が低かった。

 暴走族やローリング族(ともに死語?)、自転車並の信号無視、車の横すりぬけ、違法改造による騒音など、道路から単車の影がなくなってほっとしている人も多いことでしょう。

 メーカーには、ライダーに地道なセーフティ・ライディングを啓蒙する義務があったのにそれを怠った。

 ここにきて、漸(ようや)く、各メーカーはあわて始めています。

 それほど、二輪人口は減っているのです。

 みなさんも、一度、意識的に道路ですれ違う二輪の数を数えてみてください。

 明らかに数年前より、少なくなっていますから。

 免許取得年齢になって、すぐに単車に乗り始めて数十年、ほぼ途切れずに単車に乗り続けて来た身には寂しい限りです。

 しかし、一方で、フォッシル・レシプロ・エンジン、つまり化石燃料を使うピストン式内燃機関の時代は終焉を迎えているのかもしれないという気持ちはあります。

 さすがに四輪よりは燃費がよいというものの、これからは二輪もハイブリッド化、プラグイン・ハイブリッド化、あるいはオール電化?は避けられない道のようです。

 やがては、アキラで描かれたように、バッテリーで動く超伝導バイクが登場するのでしょう。

 なれば、わたしたちは、これまで、フォッシル・フューエルを使ったエンジンに乗り続けられた幸福に感謝しなければならないのかもしれません。

 今後、ひょっとしたら二輪が息を吹き返し、ふたたび道路にライダーがあふれる時代がくるかもしれない。

 しかし、おそらく、彼らの乗るマシンは、かぐわしいガソリンの排気煙をださず、宝石のように美しいエンジンを響かせず、体感速度とエンジン音から判断してギアをシフトしない無段階変速の高効率モーターになっていることでしょう。

 密閉容器の中で気化させた燃料に点火し、そのエネルギーで前後するピストン運動を円運動に変えるという、原理はきわめて原始的なレシプロエンジンを、たゆまない研究によって、信じられないほど高性能に高めてきた内燃機関史は、電磁モーターにとって代わられ、わたしが老人になるまで生きていたら、きっと、若い子供たちに

「そうさの、わしらが若い頃はの、ガソリンを爆発させる二輪に乗ってたんじゃよ。ああ、おまえたちに、あのすばらしさが伝えられたら……すまんの。わしらが良い気になって、ガソリンを使いすぎたおかげで、おまえらにその楽しみを残せんかった……」

と話しかけることでしょう。

 そうすると、ワカゾーどもは、

「うっせ、黙ってろジジィ。んなもん、いらねーんだよ。超伝導モーターのうなりの方がもっとすげーんだからよ」

なんて、反論するかもしれません、が、まあそれもいい。

 そのためには、メーカーが主導して(国がするわけないんですから)、礼儀正しく、法律を(そこそこに)守るライダーを育成し(二輪を世の中に反抗するための道具としてだけ捉えるのはステレオタイプ過ぎます)、日本国内に、もういちど二輪復興させなければならないでしょう。

 長い目で見て、自国にユーザーのいないマシンを作る企業が、栄えたためしなんぞありはしないのですから。

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2010年8月 5日 (木)

生まれかわった超人 「バビル2世 ザ・リターナー」

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 いやぁ、買った買った、買っちゃいました。

 バビル二世愛蔵版全9巻

 なじみの古本屋が完全閉店記念で半額セールをやっていたので、書庫が膨れあがるのを覚悟で手に入れてしまいました。

 夜の散歩の途中だったので、かなりな重さの愛蔵版を簡易リュックに詰め込んで、とっとと4キロ余りを歩いて家に帰りました。

 しかし、なぜに今更「バビル二世」?

 もちろん理由はあります。

 猿(ウッキー)間違えた、去る2010年3月10日より、ヤングチャンピオン誌上で、野口 賢氏の描く、正統続編版「バビル二世 ザ・リターナー」が始まったからです。

 これがなかなよろしい……が、その前に!

 最近手に入れて読んだ、ちくまプリマー新書、岡田斗司夫著「世界征服は可能か」の影響も無視できません。

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 これは、現実的に世界征服は可能か、もしできるなら「その際に注意すべきこと」を大まじめに考察したお遊び本です。

 その中で、オタキング岡田氏は、「何でも自分でやってしまおうとするワンマン社長型」の秘密結社首領の典型例として、バビル二世のライバル、ヨミ様の名をあげていました。

 もう決して若くないのに(はっきりとした年齢はわかりませんが、高校生のバビル二世に比べれば明らかにダブルエイジ以上)、正当なバビル一世の後継者として選ばれた(つまり自分より能力が上の)バビル二世と肉弾戦で戦い、すっかり疲れて寝込んでいるところを、(若さゆえか)素早く回復したバビル二世とその「しもべ」によって基地が攻撃され、あわてふためいた部下に叩き起こされて、目の下に隈を作りつつ「よっこらしょ」と戦いにでていくヨミ様は、何もかも一人で決めてやってきた「零細ワンマン社長」以外のなにものでもないのだ、と、人間的にはあまり好きではありませんが、相変わらず岡田氏のヨミは鋭い!

 しかし、わたしも(元祖)バビル二世を読んだのは、もう数十年前のこと(アニメは観たことがありません)で細かいことは忘れてしまっています。

 そこで、今回の愛蔵版の出番となるわけです。

 おかげで、「バビル二世 ザ・リターナー」で、再び登場する(自称腕利き諜報員)伊賀野氏の若き姿も見ることができたし、岡田氏が、働き過ぎ中小企業社長的ヨミ様と呼ぶ理由も納得できました。

 しかし、改めて読み返すと、いかに、ヨミ様が部下思いの良い上司だったかということに感銘を受けますね。

 戦略的に部下を見捨てざるを得ないことがあっても、あくまで彼の顔には苦痛の色がある。

 つまり、部下と会社(結社)に愛情を持っている。

 だからこそ、孤軍奮闘する。

 してしまう。

「俺が頑張らないと会社は潰れる」という恐怖感が、彼を突き動かす原動力なのだ、と岡田氏はいうのです。

 ホントのところ、「あなた一人がいなくたって、会社は微動だにもしませんよ」というのが、一般的に悲しい現実ですが、ヨミ様の場合は違う。

 彼がいないと、本当に、彼の帝国、あれ、なんて名前だったっけ?

 ひょっとして名前がなかった……

 あれは、壊滅してしまうことでしょう。

 それだから、大人になった読者は、ヨミ様が疲れ知らずの3つのしもべ(ロデム・ロプロス・ポセイドン)と、決して裏切らない高性能AIで動く無敵の要塞、バベルの塔を欲しがる気持ちがわかるのです。

 とまあ、元祖のはなしはこれぐらいにして……

 今回の「ザ・リターナー」、新生バビル二世は、初代バビル二世より遙かに能力が上がっています。

 頭を吹っ飛ばされても、腕を消滅されても、数秒で回復するモンスター。

 それが、リニューアル・バビル二世です。

 いわゆる能力のデフレ現象が生じているんですね。

 まるで、満月期の犬神明です(「ウルフガイ」こっちも再度コミック化されて連載中ですね)。

 さらに、三つのしもべも大きく変わっています。

 まず、黒豹ロデムが、若い男の姿をとっているのが新しい。

 戦いを前にしたバビルとの会話で、彼?彼女?は故郷の星への憧憬を口にします。

「この戦いが終われば、わたしも故郷の星に帰りたい」と。

 おまけに、ロプロスとポセイドンは二回りほど大きくなって、完全ロボットではなく、有機体とのハイブリッド生命体という扱いのようです。

 前回からは、いよいよヨミ様が登場しました。

 あ、なんだか若い!

 おまけに長髪!

 今度のヨミ様は、ワーカホリックじゃないだろうなぁ。

 野口賢の画は、ヘタウマを越え……はっきりいって、線が多すぎてヘタクソなのですが、それが、なんだか良い感じに登場人物にミステリアス感を与えています。

 コミックスも先日発売されました。

 ぜひ、いちどご覧になってください。

 ちなみに、今度の「リターナー」は、どうやら、タイムライン上「別物」とされている「その名は101」と、ヨミがツギハギだらけの老人として醜く蘇る「バビル2世 第四部」の両方の続編という扱いのようです。

 作品をより深く理解するためには、その双方を読み返された方が良いかもしれません。

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2010年8月 1日 (日)

音で聴く小説:ラジオドラマ「噂の男」

 以前に、PDFでアップした原作をラジオドラマ化して、放送したものです。

 「噂の男」役は、こちらからお願いして、あえて女性に演じてもらいました。

 時間は20分ほどです。

 どうかお聞きになってください。

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