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2010年7月

2010年7月28日 (水)

ついに解禁! 映画「第9地区」

 実は、つい先ほどまで、「torneで地上デジタルテレビ放送録画」という名目に偽装して、先日購入した中古PS3について書こうと考えていました。

 購入と同時に500ギガバイト2.5インチSATA-HDDバルク品も買って、一度もps3の電源を入れることなく換装し、その作業の、あまりのカンタンさに拍子抜けしたなぁモゥ、と続けたかったのですが……

 土曜日に、映画館に観に行こうと思いながら、つい時期を逸していた「シャーロック・ホームズの冒険」をレンタルし、それを返却しに寄ったビデオレンタル店で、あの「第9地区」が8月11日レンタル開始というチラシを目にして、急遽(きゅうきょ)そちらを書くことにしたのです。

 もと日本シャーロックホームズ協会会員としては、ロバート・ダウニーJrのSHと、ジュード・ロウのワトソンという異色の組み合わせの「コミック調ホームズ譚(たん)」については、是が非でも書かなくてはなりません。

 ――マイケル・ケイン+ベン・キングズレー主演 『迷探偵シャーロック ・ホームズ』の例を挙げるまでもなく、コミック調ホームズものにはほとんどハズレがない。逆に、変にマジメに作られたヤング・シャーロックのようなものは、ほとんどが駄作ですから――

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 が、今のわたしには、それより第9地区の方が優先順位が高い。

 もう公開も終わったことですので、思い切って(ちょっとだけDVDに遠慮しつつ)書くことにします。

  以前にも書きましたが、「第9地区」は、南アフリカ:ヨハネスブルグを舞台に、南アフリカで撮られた映画です。

 映画の冒頭、南アフリカに住み着いている「不法移民」(英語でいえば、まさしくエイリアン)について、彼らをどう思うか?という質問を市民に投げかけ、返ってきた『生の住人の声』を、異星人(エイリアン)に対する声として使うという手法をとっています。

だから、映画冒頭の「彼ら(エイリアン)をどう思うか?」という質問に答える人々の表情と声音は、異常なほどリアルです。

 南アフリカといえば、今なら、まずワールドカップ(サッカー)が思い浮かぶと思いますが、 やはり、大きな影を落とすのは、その歴史に刻まれた汚点、人種隔離政策:アパルトヘイトでしょう。

 この映画を観た人の中には、殊更(ことさら)その歴史と映画を結びつけない方が良い、といわれる方もおられますが、少なくとも、制作者たちが、この映画の舞台を南アフリカを舞台に持ってきた意味は何かあるはずです。

 さまざまな要素をもった映画ですが、思い切って、ひとことでまとめてしまえば、「第9地区」は、「差別する側」が「される側」に突然変わる恐怖を描いた作品です。

 その経緯は……

 二十八年前のある日、突然、南アフリカヨハネスバーグ上空に、巨大な宇宙船が出現した。

 ID4(インディペンデンス・デイ)を彷彿させる巨大な宇宙船に軍が乗り込むと(案外簡単に中に入ることができる)、中には餓死寸前の宇宙人たちが………

 この時の映像がいい。

 銃を構えつつ、船内に押し入る兵隊たち。

 なんらかの事故でパワーダウンしているのか、真っ暗で、淀んだ空気のなか、銃を構えつつ近づく兵士の前で、動くこともできず、ぐったりと倒れたままの宇宙人たち。

 まるで、漂着した難民船に飛び込んだ軍人の目に映る光景のようです。

 人類は、人道?的見地から、彼らを地上に降ろし、そこを第9地区として隔離します。

 救出されたエビ星人(見た目がエビにそっくりなので、そう呼ばれます)たちのほとんどは、思考力は低い(それが、持って生まれた資質なのか、教育によるものなのかは示されません)ながらも、平和的でおとなしい性質をしています。

 そうして、隔離された第9地区で、彼らは、船から持ち出した「遺伝子チェック機能付きで、彼らにしか扱えない武器類」を、大好物の猫缶(このセンスがいい!)と交換しながら暮らし始めるのです。

 地元のギャングのひとりは、遺伝子チェック機能があるため、使えないとわかりながらも、そういった武器をコレクションしています。

 やがて、増え過ぎたエビたちに、地域住民から苦情が寄せられ、国は、彼らを、町から離れた新しい場所に移動させることにします。

 国が責任を恐れたためか、これは儲かると踏んだ企業が食い込んだからか、ストーリー中で、エビたちの管理は民間企業(MNU:MULTI-NATIONAL UNITED)がおこなっています。

 この企業のボンクラ社員、「社長ご自慢の美しい娘」のムコが、本作主人公のヴィカスです。

 演じているシャルト・コプリーは、監督の友人で、演技経験はほとんどなかったそうですが、本作の人気で、次回出演作も決まっているそうです。

 本作の主人公ヴィカス、彼の悲哀は、世間的には見栄をはりつつも、かれ自身、自分が無能でボンクラであることを自覚している点です。

 だからこそ、巨大企業の社長令嬢で美しいブロンドの女性が、自分を愛してくれたことが嬉しくて仕方がない。

 のちに大変な事件に巻き込まれるヴィカス氏ですが、常に彼の行動原理の根幹にあるのは妻への愛です。

「妻に会いたい」「妻をこの手で抱きしめたい(後述のように、この言葉にはその字面以上の意味があります)」それだけが彼の望みで、そのためだけに彼は行動する。

 いや、先走りしました。

 とにかくMNUの社長は娘を愛しています。

 だから、ボンクラなヴィカスを不満に思いながらも、娘が選んだ男だからしかたないと諦めている。

 諦めつつも、ボンクラな娘ムコにチャンスをやろうと、彼は、ヴィカスをエイリアン移動プロジェクトの責任者に抜擢し、エビ星人の地区代表者から、移転許可をもらうように命令します。

 大役を任されたと喜んで私兵を引き連れ、第9地区で、サインをもらってまわるヴィカス。

 もちろん、エビ星人とは、ほとんど会話は成り立たず(彼らの興味は、大好物の猫缶だけですから)、ただ、うるさそうに書類を払いのけられた際についた傷と汚れを「こいつはサインだよな」と呟いて、ブリーフケースにしまうことの繰り返しです。

 その合間には、差別者としてのヴィカスが顔をのぞかせる。

 地区をまわるうちに、エビ星人たちの孵化システムを見つけた彼は、その卵を「堕胎だよ」といいながら、破壊し焼き払うのです。

 彼にそれほど悪気はない。

 ただ、一般的なヒトとして、兵士(と後をつけまわすテレビカメラ)の手前、ちょっと強がってワルぶっているだけなのです。多くの差別者同様にね。

 やがて、彼自身が被差別者になるとも知らずに……

 そして、ヴィカスにとって、最悪の事件が起こってしまいます。

 事故は、無教養なエビ星人の中にあって、ただひとり理知的なクリストファー(これだって勝手に人間がつけた名前にすぎないけれど)を、ヴィカスが訪ねた時、彼が隠していた謎のカプセルを、偶然開けたことによって起こります。

 吹き出た黒い液体を顔に浴びたヴィカスは、しばらくして体に不調を感じ始めます。

 その液体こそ、エビ星人(しかも司令階級)クリストファー(以下クリスと呼称)が28年にわたって集め続けた指令艇を動かすためのエネルギーだったのです。

 同時にこの液体は、ヴィカスの遺伝子に作用し、彼の身体をエビ星人に変えていきます。

 まるで、ザ・フライのブランドルのように………

 自分では制御できない、変わりつつある肉体への恐怖。

 翌日、ヴィカスは、自分の手がエビ星人の手に変わっていることを知ります。

 すぐに会社に拘束されるヴィカス。

 そして、彼は地下実験室で、エビ星人に変化した手に、エイリアン兵器を握らされ、牛を豚を、そしてエビ星人を撃たされます。

 研究者たちは狂喜します。これまで、猫缶と交換に簡単に手に入れながら、動かすことができなかった兵器を扱える男があらわれたのですから。

 牛や豚までは武器使用に協力していたヴィカスですが、エビ星人が標的として引き出されると猛烈に反抗を始めます。

 しかし、結局、銃を突きつけられ、無理やりエビ星人を撃たされる。

 その後、ヴィカスは、その武器をつかってラボ(研究室)を脱出します。

「この手では、僕の天使、最愛の妻を抱きしめることができない。昨日のあいつ、エビ星人なのに、赤いベストを着ていたクリスが持っていた液体が原因に違いない」

 そう考えたヴィカスは、単身、第9地区に向かいます。

 その彼を会社の私兵が追います。

 彼らにとってみれば、ヒトでありながら、エイリアンの武器を扱える彼は、貴重な研究材料なのですから。

 同様に、第9地区周辺に根を張るギャングたちにとっても、彼は得難い宝となります。

 ギャングのボスは叫びます。

「俺も、あいつのようになれば、今まで、かき集めたエイリアンの武器が使えるようになる。こいつを待っていたんだ」

 ヴィカスにとって、もっとも辛かったのは、会社が「ヴィカスは、エイリアンの女との性交渉で病気にかかった」というデマを流したことです。

 妻に会って、その誤解を解きたい!

 彼に、新たなモチベーションが発生します。

 第9地区で、クリスに会ったヴィカスは、彼が、地下に隠した司令艇をつかって、28年の間、空中に浮かび続ける母船に戻り、母星に帰還しようとしていることを知ります。

 エビに似た容貌ながら、冷静かつ落ち着いた人格?者のクリスは、ヴィカスに「手伝ってくれたら、君の身体を戻してあげる」と約束します。

 そこで、ふたりは、最初にヴィカスが持って帰ってしまった「黒い液体入りカプセル」を取り戻す為、エイリアン兵器で武装してラボに乗り込むのです。

 池部良と高倉健のように……

 ここからのSFアクションが楽しい。

 これまでの、地味さ、大人しさが嘘のように、スーパーアクションの連続です。

 アバターで大佐が乗っていたようなロボットまで出てくる。

 そして感動のラスト。

 差別する側からされる側にうつり、それでも妻を愛し続けた男は、最後に、妻への愛を越えて、自分の良心にしたがった行動をとります。

 彼の、自らを犠牲にして、MNUの攻撃を引き受けながら叫ぶ、

「オレの気が変わらないうちに行け!」

というセリフを聞いた時、

 神様の意思に沿った「黒人奴隷を持ち主の白人に戻す」という行為に背を向け、彼を自由にするという決断を下したハックルベリィ・フィンが自らに宣言する、

「よし、それなら僕は地獄に行こう」

というセリフを思い出してしまいました。

「第9地区」

 セル&レンタルは8月11日開始です。

 どうか、ご覧になってください。

 個人的には、今年一番の収穫の映画でした。

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2010年7月22日 (木)

まだまだ終わらない冒険 「海皇紀」

 まず、最初にお聞きしましょう。

 長生きしたいですか?

 巷(ちまた)では、

「生きとし生けるものは、すべて、一分一秒でも長く生きたいものだ」

といわれています。

 これが、まあ、わからなくはないですが、 個人的には、あまりピンとこない。

 わたしは、イイ年をして、まだ頭の中がガキのせいか、あるいは、見届けなければならない子や孫(はまだ無理か?)がいないためか、石にかじりついてでも長生きしたいとは思わないからです。

 じゃあ、こっちから死ににいくか?と問われたら、もちろん、そんなことはしませんが。

 イタイのは嫌ですからね。

 ひとつには、父親が幾度も大病を患い、あげく声を失い脳梗塞で体が麻痺しながら、何年も生き続けたのをみてしまったため、それはそれで立派な生き方だとは思いながらも、QOL(クオリティ オブ ライフ)をそこなってまで生きることには懐疑的(かいぎてき)だからです。

 長生きをすると、そういった生き方になる可能性が高くなる。

 それに………

 わたしには、90歳を超える知人が何人かいます。

 感覚的に、ある程度、健康に恵まれれば、男女とも85歳くらいまでは、生きることが可能なようです。

 しかし、90歳越えは難しい。

80代と90代には大きな壁がある。

 これを越えるには、よほど、持って生まれた長命力に恵まれなければなりません。

 個人的な感触ですが。

 彼、彼女たちの多くは、頭も体も達者で元気いっぱいなのですが、そのほとんど全員が、

「知り合いのほとんどが、先に死んでしまって寂しい。長生き『してしまった』ことが、こんなに孤独だとは思わなかった」

と、嘆きます。

 もちろん、老人用の施設や集会所行けば、年下ながら友だちもいるでしょう。

 しかし、いわゆる「Same Generations memories」、同世代記憶を共有する友人がいない。

 みんな、壁を越えられず先に逝ってしまった。

 その孤独を、どうすれば、いなすことができるのか?

 通俗ないいかたですが、内面が豊かであれば、独りになっても「やるべき仕事、作業」を持つことができて、孤独に耽溺(たんでき)しなくてすむ。

 和歌を詠む、詩を作る、茶華道に没頭するなどね。

 それがなければ、情報の溢れるこの時代、もうどこにもそんなものはないのに、見たことのない景色、食べたことのない食べものをもとめて、旅行と美食を繰り返すことになる。

 働くだけの今までの人生はマチガイだった、これからが本当の人生なのに、時間が少ない、と焦りながら。

 でも、もし、あなたが英雄だったら大丈夫。

 なんでも、英雄とは、

「歴史に大きな痕跡を残し、悲劇的末路を迎える者」

 だそうですから。

 しかし、もし、希代の英雄が誰よりも長生きしてしまったら?

 戦いの中ではなく、戦後、年をとって平和のうちに死ぬことになったら?

 彼は英雄の資格を失ってしまうのでしょうか?

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 月刊少年マガジン連載の「海皇紀」が12年間の連載を終了しました。

「修羅の門」「修羅の刻(とき)」の作者、川原正敏の海洋伝奇?小説です。

 修羅シリーズは格闘漫画で、時代を現代においた「門」と、過去においた「刻(とき)」のニ種類があります。

 川原氏は、画は、それほど上手ではありませんが、ストーリーテリング能力は素晴らしい。

 次から次へと、際限なくアイデアが湧き出ているように見える。

 そうして、それぞれの登場人物に詰め込まれたエピソード(漫画内で描かれる、描かれないに関わらず)が物語に深みを与えます。

 個人的には、数千年の歴史を持つという暗殺拳、武器を使わず、無手(むて)で人を殺す技を極めたとされる『陸奥圓命流(むつえんめいりゅう)』が、過去の歴史上の著名人たち(宮本武蔵、土方歳三、沖田総司)と、いかに関わったかを描いた「修羅の刻」が好きでした。

 あとがきで、作者が、

「歴史上の人物、特に幕末の土方、沖田、坂本龍馬のことを考えると、意味もなく模造刀を取り出して、暗い部屋の中で構えてしまう」

と書いているのを読んで、深い共感に胸を打たれたこともあります。

 さて、海皇紀。

 最初の数ページを読めばおわかりになると思いますが、一見、大航海時代以前の海洋冒険モノのように見えます。

 しかし、実は、今を下ること二千数百年後の遠未来(あるいはスターウォーズのように、過去の話かもしれないけれど)の話です。

 帆船で海を支配する「海の一族」にあって、トリックスター的に自由きままに事件に顔を突っ込む影船八番艦の艦長が、一代の英雄、ファン・ガンマ・ビゼンです。

 常に自信に満ち、悠揚迫らず ( ゆうようせまらず )、幻の日本刀を携え、誰も見たことのない体術を使う英雄。

 魔術のように風を読み、手足のように帆船を操る海の男。

 彼が、陸の覇王(はおう)、「海皇紀」における信長的存在、カザル・シェイ・ロンに王の器を見てとって、海から彼の世界平定を支援するというのが、「海皇紀」の大枠(おおわく)です。

 ご存知のように、乱れた世を平定するには、二通りの方法があります。

 すなわち、孟子が説くところの、王道と覇道。

 王道とは、真の王が行う政治。
 その徳をもって、ホンモノの仁政を行うために、小国であってもあなどられず、国から争いがなくなる

 覇道とは、王が武力を使ったニセモノの仁政を用いて国を治めるやり方。
 王に徳がないため、ナメられないためにバックに強大な武力を必要とする。どこかの建国200年あまりの国に似てますね。

 少しスジは違いますが、織田信長などはこちらにあたります。

 しかし、かつて世界を治めた国がありながら、経年劣化で、そのシステムが壊れ、世の中が千々(ちぢ)に乱れた時は、武力ある賢王によって覇道が行われ、素早く世の中をまとめるのもひとつの方法です。

 その意味で、ファンは、カザル・シェイ・ロンを認め、海から彼をバックアップしたのでしょう。

 あと、細かいことですが、タイトルが海皇「紀」であるのに、ストーリー中に、かの銀河英雄伝のように「後の史実家によると~」風の紋切り型の記述はほとんどありませんでした。

 はたして、「紀」と「伝」の違いなのか?

 もっとも、海皇紀は、最終回に明確になるように、登場人物の一人である、古(いにしえ)の「カガク」の知識を受け継ぐ女性メルターザが、回想録の形式で書いたもの、とされているため、「伝」こそがふさわしいのかもしれません。

 後世の歴史家が文献を紐解(ひもと)きながら、当時を想像してかいた史書ではなく、正に、その時代を生きた女性が、自分の印象と記憶のままに記した物語、そう考えれば、ファンが女性に関して淡白すぎるように見える理由もわかります。

明らかに、メルターザもファンに好意を持っていたため、彼女は、女にだらしないファンを想像できなかった、あるいは知らなかったに違いありません。

案外、男の目からみると、カタイ男も女に弱かったりするものですがね。

 全45巻(予定)いずれにせよ、大作です。

 先に書いたように、作者の頭のなかには、ストーリーがあふれています。

 倒すべき敵(たとえそれが過去の科学兵器を使う最大級の敵であっても)がいなくなってからも、まだまだ作者の頭の中では戦い足りない。

 だから、書く。

 物語が終わってからも、どんどん書く。

 しかも文字で!

 主要な登場人物、一人ひとりについて、彼、彼女らが、この物語の後、どのような人生を歩み、そしてどのように死んでいくのかを、細かく文字で書いてしまうのだ。

 主要な登場人物たちは、そのほとんどが、幸せな晩年を過ごし、元気に死んでいく。

 なかでも特筆すべきなのは、物語のなかでも、明らかにヒロインの位置を占めていた、マイア・スアル・オンタネラです。

 その言動から、おそらく、ファンは彼女に好意を持っていたでしょう。

 物語の最終盤、瀕死の重症を負った彼女は、『いつまでも年をとらない』ファンの母マリシーユ・ビゼンから、怪我を治し人を長命にする薬(ナノマシン)を打たれます。

 その後、ファンは、もうひとつの海の部族ジーゴ・サナリアの首長の娘、褐色の肌をした大柄の美女、アグナ・メラ・ジーゴと結婚し、子供をもうける。

 部族間の絆を強めるための、ある意味政略結婚です。

 あきらかにアグナはファンのことを好きですが、ファンはマイアの方が好みに見える。

 通常のドラマツルギーでは、アグナが身を引き、マイアとファンが結ばれ、めでたしめでたし、となるはずのところ、作者は、あっさりとアグナとファンを結婚させてしまいます。

 そして数十年後、ナノマシンの影響で、いつまでも若いままのマイアを、いまわの際に枕元に呼び寄せたアグナは、まだ若さを保つファンとマイアを引き合わせ、一緒に住むように命じたのちに息をひきとるのです。

 ペテン師(アグナは、いつもファンのことをそう呼んでいた)には、妻がふたりぐらいいるだろう、と。

 おそらく、川原氏は、英雄に恋した女性たちの、誰一人として泣かせることができなかったのでしょう。

 逃げといえば逃げですが、まあこういう終わりかたもまた良いと思えます。

 そして、ファンは死ぬ。

 自分を慕い、自分のために死にたいと後をついてきた部下たちに、誰独り非業の死をとげさせず、彼らのベッドの上での最期を看取った後で、彼は、愛する八番艦のデッキの上で、立ったまま大往生をとげるのです。

齢(よわい)101歳。

 おそらく、あれほどの大冒険をくぐりぬけた英雄の(と呼ぶべきか)中では、飛び抜けた長命だったでしょう。

 強い精神力を持つ彼でさえ、その最期の瞬間には、「とうとう俺が最後のひとりになってしまった」と寂しそうにつぶやきます。

 あるいは、紛れもない英雄であるにもかかわらず、「英雄として悲劇のうちに非業の死をとげず生き延びてしまった悲哀」を、その瞬間、彼は感じたのかもしれません。

「海皇紀」機会があれば、お読みください。

 エピソード別に幾つかの章に別れているので、他の大作コミックにくらべて比較的読みやすいと思います。

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2010年7月16日 (金)

NHKよどこへ行く……あの世界一有名な蛸の名前は?

 かつて、NHKが、スペインの「アルハンブラ宮殿」の特集番組を作った時の事です。

 ああ、アルハンブラ――なんと美しい響き!

 その名を耳にするだけで、燦々たる太陽と甘い果実、そして美しい女性たち……なんてものが、わたしの単純な脳裏には浮かんでしまいますね。

 しかし、NHKは、番組開始直後から「アルハンブラ」を「アランブラ」と呼び始めました。

 ゴテイネイに、「NHKではこれまで『アルハンブラ』と呼ばれていた地名を、『よりセイカクな』発音である『アランブラ』に変えて呼称します、と、番組冒頭でアナウンサーにワザワザ言わせて!」

 モノ知らずで、間違った発音をしている視聴者をケイモーしてやろうという、大NHKの意図は、まことに高尚(こうしょう)でしたが、滑稽なことに、そういった舌の根も乾かぬうちに、当のアナウンサー自身が「この『アルハンブラ宮殿は』」などと言い始めたのです。

 それどころか、番組に呼ばれた『アランブラ』の専門家の学者サマまでが、平然と「アルハンブラ」と連呼し続ける始末。

 結局、番組途中から、時たま、思いついたように「アランブラ」と呼んでいたのは、そのアナウンサーだけでした。

 しかし、この放送協会の「モノ知らずに教えてやるぜコノヤロ」という態度はいったい何なのでしょうね。

 だいたい、NHKが、ウイーンを正式なドイツ読み(Wien)ヴィーンで呼ぶところを聞いたことがない。

 いや、ひょっとしたら、そのうち英語読みのVienna(ヴィエナ)と呼称しだすかもしれませんが。

 あるいはフランス読みの Vienne(ヴィエンヌ)と。

 要するに、ここでわたしのいいたいことは、その国で定着した発音なら、変にホントー(しかもNHKが、そうだと思いこんでいる)の発音に変えなくても良いではないか、ということです。

 だいたい、いつのまにか日本中に広がった「技術者マガイ式カタカナヨミ」(メータ、データなどの、シロウトが使うエセ技術者風発音です)を、平気でアナウンサーに使わせるNHKが、今さら「正しい発音、表記」に、こだわる意味がわからない。

 

 完全なダブルスタンダードです。

 このブログを読んでいただいている方ならご存じでしょうが、わたしには嫌いなモノがふたつあります。

 「変節漢」と「ダブルスタンダード」です。

 NHKは、その両方を兼ね備えていますね。

 と、ここまでが前フリです。いつもながら長い!

 さて、当然、皆さんは、例の驚異のミラクル・オクトパス、ワールドカップの勝者を当てた、ドイツ・オーバーハウゼンの水族館シー・ライフで飼育されているマダコをご存じですね。

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 さて、あれの名前はなんでしょう?

 パウルくんですね。

 パウルってのは、ドイツでは良くある名前です。

 日本の大輔とか翔ぐらいありふれた名前です(ほんとは太郎と書きたかった)。

 そして、今や日本全国の人々が、なにがしかの興味をもって、パウルくんという名を知っている。

 しかぁーし、NHKだけは、パオロと呼んでいるのですね。

 NHKのサイトへいって、検索してみてください。

 彼らは、妙に意地になって「パオロ」と呼び続けていますから。

 でもね、もう日本全国、パウルで定着しちゃってるわけですよ。

 それをいまさら、ムコーの発音近いのはこちら、正義は我にあり、ってな感じで、自分だけパオロっていってたら、いじめられますよ。

 学校などの閉鎖されたコドモ社会ではね。

 それが正しいか間違っているかはともかく、事実はそうです。

 そんなとこで、バカで愚かな意地を張るんなら、アナウンサーたちが話す、変なカタカナ発音、メータ、データをやめさせろ!

 彼らの好きなホントーの発音(ネイティブが文脈の中で使う時の)は、「メーター」「データー」なんですから。

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2010年7月14日 (水)

プライベート・i (犯人が最初から登場し探偵が最後まで出てこないミステリ)

 これは去年書いた作品です。

 「由良」で書いたように、わたしのもうひとつの好きなテーマ、「犯人が最初に出て、探偵が最後まで出てこないミステリ」です。

 

 梗概(こうがい)が残っていますので、内容紹介がわりに載せておきます。

プライベート・i(梗概)
 ある朝、わたしは、目を覚ますと路地裏で死体と並んで座っていた。左手は死体の肩に、右手にはナイフが握られており、どう見てもわたしが殺人者だ。
だが、殺した覚えはないし、そもそも死んでいる男自体を知らないため、わたしは現場を逃げ出して近くの友人宅に転がりこむ。
しかし、友人は言葉巧みにわたしを騙し、出口の無い家にわたしを閉じこめて失踪。訳がわからないまま焦るわたしに、パソコンから話しかける声があった。
「良かったら僕に話してくれないか」
「君は?」
「僕の名前は破魔矢、インターネット専門の探偵、プライベート・iだ」
 半信半疑のわたしに、破魔矢は、信じられない推理力のさえを見せ、六年前の事件を絡めて、いつしかわたしを追い詰めていくのだった。

[PDFダウンロード(417k)]

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2010年7月13日 (火)

由良 (自作小説:PDF Old fashioned SF) 

 オリジナル小説 「由良」をアップしました。

 いつも、こんな拙(つたな)い小説を公開して良いものか迷うのですが、今回は、特に逡巡(しゅんじゅん)しました。

 なんせ、これは、わたしの(ほぼ)処女作なのですから。

 十代の頃の作品です。

 もっと短いものなら、この前に書いていたでしょうが、おそらく、まとまった長さ(40枚程度です)を書いたのはこれが最初です。

 それこそ、もう数十年前のことですね。

 クローニングについて書いていますが、もうその知識が古い。

 

 改めて気づきましたが、どうやら、私は、「遺伝子レベルでの恋」というテーマが好きなようです。

 もうひとつのわたしのテーマは、「犯人が最初に出て、探偵が最後まで出てこないミステリ」です。

 これについては、ずっと前に長編を、去年、短編の「プライベート・i」を書いたので、いずれアップするつもりです。

 しかし、今回の作品は稚拙だなぁ。お恥ずかしい。

 でも、最初があるから終わりがある。

 今後、なんとなく、あまり長生きできないような気がするので、これを機会に公開することにしました。

 何作かお読みになればお分かりでしょうが、わたしは、ヒロインにはいつも特別な思いをもって書いていますが、特にこの作品のヒロインには強い思いいれがあります。

 わたしには子供はいませんが、もし娘がいたら、由良(ゆら)と赤良(あから)と名付けたと思いますから。

 どうか、お読み下さい。

 PDFダウンロード(330k)

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にぬき (自作小説:PDF 推理小説 原稿用紙換算枚数92枚)

 オリジナル小説 「にぬき」をアップしました。

 もう、ずっと前、十数年前に書いた作品です。タイトルにあるとおり、100枚ほどのものです。

 確かどこかの新人賞に出して、二次選考まで通ったように記憶しています。
 (だいたいその辺まではいつもいくんですがね。その先へいく力も運もない)
 

 大阪の日本橋の話で、コンピュータがらみの殺人事件ですが、こういった「現代モノ」は、すぐに古くなってしまいますね。

 
 はじめ、校正をかけかけましたが、当時の言い回しも良いモノだと考えて(いや、ホントは面倒になって)、そのままPDF化してアップしてしまいました。

 本当は、こんな時代遅れの作品は公開すべきではないのでしょうが、つい公開してしまったのは、おそらく、わたしがヒロインに恋しているからなのでしょう。

 ちなみに、話中に出てくる食堂のモデルは存在します。

 大阪ではかなり有名な店です。 

               [PDFダウンロード(500k)]

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2010年7月10日 (土)

愛国者は(ボニーと)クラウドを殺すか?

 ボニー&クライドといえば、ウォーレン・ベイティ(かつてはビーティといったのに……リーガン元大統領と同様、知らぬ間に呼び名がかわった?)、フェイ・ダナウェイ主演(とジーン・ハックマンがチョイ役)の名作、「俺たちに明日はない」の原題ですが、内容はご存じでしょう。

 1967年の映画です。

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 アメリカに実在したチンピラ強盗カップル(バカで愚かだけど、どこかカッコいいんだよなぁ)の生き様を描いた作品で、当時、ワーナーはB級作品としてしか見ておらず、ドライブイン・シアター(最近見かけないな。皆さんは観に行ったことあります?)用としてのみの公開予定であったものの、いざフタを開けてみると……といういつものパターンです。

 ラスト、若く美しい(フェイ・ダナウェイは美しいというより、コケットな魅力が強かったな。有り体にいって実際に残るホンモノのボニー・エリザベス・パーカーの方が美しい)二人の肉体が、数多くの銃弾によって肉片となるシーンは、映画史に残るものとなりました。(以下の画像は共にWIKIより)

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 その二人に、「正義と愛国者の名のもと」に、全身87発の銃弾を打ち込んだのが、アメリカのレンジャーと警官たちです。

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 圧倒的に戦力差があるのですから、逮捕もできたはずなのに、彼らは、二人の全身に銃弾を撃ち込んで殺してしまった。

 いかにも、ガンによって建国された国らしい態度です。

 さて、ここからが本題です。

 今回はクライド、ではなく「クラウド」について書きます。

 最近、よく聞きますよね。

 クラウド・コンピューティング。

 クラウドってのは、まあ雲のことですね。「曇り」のクラウディと同じ語源です。

 わたしが、はじめてクラウドの名を聞いた時、その意味は、サーバー企業が「あまり混雑しない時間帯」に「あまったメモリ空間」を、割安で使ってもらう、というコンセプトでした。

 その後、クラウド・コンピューティングの信奉者たちが、

「クラウドすごいぜ。自前でサーバーを持たなくても、いろんなことができて、しかも、すぐに利用できるツールが充実しているから、やりたいことがカンタンにできてしまうんだ。例のエコポイントも、クラウド・コンピューティング(とその既製ツール)がなければ、あれほどすぐに、ジコーセイケンが実行できなかったハズ」

などというのを聞いて、何がクラウドなのか、正しく、雲か霧のごとくに茫洋(ぼうよう)とした、曖昧模糊(あいまいもこ)な気持ちになってしまいました。

 んが、結局、少し調べてみると、どっちも同じコトをいってるんですね。

 最初にわたしが聞いたのは、サーバー経営者側から見たクラウド~で、後者は、利用者側からみたクラウド~。

 同じモノを両サイドから表現していたのです。

 しかし、そのどちらもが、クラウドの危険性を忘れているか、気づかないふりをしています。

 現在では、クラウド・コンピューティングは、もう少し正確に描写されて、一般に、自前でなく、ネットワークの向こう側に、

「ハードやソフトに限らず、データベース・ソフトやビジネス・ロジックやAPI、ユーザインタフェース、セキュリティ、バックアップ、災害対策システムまで、標準のサービスとして提供されたシステム」

という程度の認識になっていると思いますが、これに加えて、従来のネットワークでは考えられなかった、「命より大切な生データ」のストレージサービス、つまり保管までもが、ネットワークを通じて「こちら」ではなく「向こう側」で為されるという点は、特筆すべきだと思います。

 上でずらっと書いたように、確かにクラウド・コンピューティング(以下クラウドと記載)は、便利で安上がり、しかも、いろいろと既製品が用意されているので、コスト削減とサービス・システムの開発期間の短縮ができるという、金儲けが目的のビジネスとしては、ふんだりけったり、じゃなくて、願ったりかなったりのシステムなのです。

 しかし、わたしの好きな格言のひとつに、

「目に見えないものは信じるな」(ネイティブ・アメリカン)

というものがありますが、正しく、クラウドがそれですね。

 上記のように、クラウド・コンピューティングの語源は「クラウド」、雲というか、水蒸気様のとりとめのないカタマリという意味なのですが、そんなあやふやなものに、大切な生データを保管させてよいものなのか?

 妙な話ですが、もし、そのクラウドを展開する会社が、世界的にサーバーを分散して設置しているならば、データのある部分はシンガポールに、他の部分はマレーシアに、その他の部分はアメリカのシカゴに、ということがあり得るのです。

 まさしく、雲、どこにあるか分からない。

 その本来、雲のジュウザのごとく自由であるべき「クラウド」に、愛国者たちが銃を向けたならどうなるか?

 87発の銃弾で、蜂の巣にされてしまうのか?

 申し訳ありませんでした。

 こんな例えではまるでわからないでしょう。

 もう少し詳しく書きます。

 そもそも、米国には、ある「恐ろしい法律」があります。

 かつて日本に存在した、あの、赤紙一枚で誰でもひっぱれた「国家総動員法」に匹敵するような強烈な法律が。

 その名は「米国愛国者法」

 愛国心は多少なりとも持つべきだと思いますが、「愛国者」となると、どうも国の為政者(いせいしゃ)側からの押しつけを感じてコワイですね。

 その国に住むなら、国に対する忠誠心と愛国心を持つべきだ、という。

 ともあれ、米国愛国者法――

 ガンズ オブ パトリオット……ではなくて、USA PATRIOT Actと呼ばれる、「あの」パパ・ブッシュじゃない方の、バカ・ブッシュが2001年に署名発行した連邦議会制定法です。

 これを使えば、FBIや連邦当局が、この「データには問題がある」いわゆる「テロくさい」と考えるだけで、カンタンにサーバーをこじ開けて、データを取り出すことができる。

 つまり、もし日本の国、あるいは企業の重要データが、クラウド内のストレージに保管されていて、それが米国内にあれば、いともカンタンに、彼らをそれを見ることができるのです。

 ホント、こんな危ないものを利用するヤツの気がしれんよ。

 だいたい、アメリカは、政府としてクラウドを利用する時は、その条件として、「サーバーがアメリカ本土にあること」としているのです。

 本土、つまりハワイじゃダメということです。

 シギント(SIGINT; signal intelligence:通信、電磁波、信号等を媒介とした諜報活動)に長けた彼らは、クラウドの危うさをよく知っている。

 もちろん、日本の総務省あたりはその危険性に気づいていて、一時期、北海道に巨大サーバーセンターを作って、日本のクラウド事業をそこで展開しようとさせていました。

 今は、またその場所は変更されつつあるようですが、ともかく、国は問題意識をもっている。

 しかし、中小企業のオヤジ社長や地方自治体など、ネットに暗い人たちは、ただ安さと便利さに飛びついて、安全性を忘れている可能性が高い。

 危ないなあ。

 このところ米ソを騒がせていた、スパイの話は、ご存じですね。

 例の美人スパイってやつ。

 その米ソ双方のスパイの交換 SWAPPING SPY が、今日、行われたようです。

 冷戦後、ああいった、あからさまな国家間のエスピオナージュが、長らく行われなかった理由のひとつは、そういった情報の奪い合いが、主に企業間でなされるようになっていたからです。

 ちょっとしたテクノロジ、ニューデザインひとつに、その企業の浮沈(ふちん)がかかっています。

 いまこの瞬間にも、アジアを中心とした世界中の企業間で、情報の盗みあいが行われている。

 なのに、ああ、ああ、それのなのに!

 安易なクラウド礼賛にのっかって、どこの馬のカイバかもわからない記憶装置に、重要機密を含むデータを管理させるなんて……

 それだけではなく、世界中に分散したサーバやデータに問題が生じた時、いったい誰が責任をタンポするかさえ決まっていないのです。

 そういった国際的な法整備がまるでなされていないのに、喜んでそんな「目に見えないモノ」に飛びつくのは愚か者のすることです。

 愛国者の光り輝く銃で、チンピラ・クラウドが蜂の巣にされてからでは遅いのですから。

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2010年7月 8日 (木)

ぼろぼろな矜持(プライド)

 このブログを定期的に読んでくださっている方ならご存じでしょうが、わたしの座右の銘は、公式サイトにもあるようにジョージ・ウッドンの

「明日死ぬと思って生きろ 永遠に生きると思って学べ」

なのですが、実は、もうひとつ隠れ銘?もあるのです。

 それは、

「できるヤツはやる できないヤツは教える」

です。

 説明は不要でしょう。

 読んでそのままです。

 ガッコーのセンセーは、その典型ですね。

 だからこそ、「ヒトは教えるのではなく、やらねばならない」、そう思って生きてはいますが、稼ぐためには、知らぬ間に、教えることが多くなって愕然としてしまいます。

 いや、そこで止まっていたら話は先にすすまない。

 しつこいことに、わたしには、さらにもうひとつ、今回のテーマでもある「第三の選択」、じゃなくて「第三の座右の銘」があるのです。

 それは、第二の銘の変形とも呼べるものですが、

「できるヤツはすぐやる できないヤツはもったいぶる」

というものです。

 音楽に関係する仕事をしていると、自称歌手というヒトによく出会いますが、彼らは、その態度によって、きっちりと二分されるのですね。

 それは、酒を飲んだりして、座が盛り上がり、歌おうぜ、と誰かが言い出した時に、すぐに、楽しく歌い始めるタイプと、

「オレは、ワタシは、歌手だから、こんな座興では歌わない」

と勿体つけるタイプです。

 個人的につきあいのある、ジャズ・コーラスグループ「タイムファイブ」の田井康夫氏は典型的な前者で、何年か前の年末に、一週間ばかり氏の自宅でお世話になったおり、興がのると、夜中であろうが翌日仕事があろうが、すぐにミニ・コンサートが始まったものでした。

 著名な歌手でも、カラオケ好きで、マイクを持ったら、自分の曲ではなく他人(ひと)の曲を歌いまくるという人も結構多い。

 しかし、それとは反対に、勿体つける人も、ずいぶん多い。

 比率では、こっちの方が多いかな?

 でもって、圧倒的にヘタクソが多い。

 クラシック歌手などでも、素人ほど「喉の用意ができてない」とか、「こんなところでは歌えない」などとノタマイますね。

 いったい誰が、彼、彼女たちに勿体つけることを教えたのでしょうか?

 経験からいって「本当に歌えるヒト」は、ほとんど勿体ぶりません。

 大したことない人間ほど、勿体をつける。

 確かに、著名な歌手にも、勿体つけるヒトはいます。

 まあ、そういった人々の傾向を見ていると、若い頃、金に苦労しすぎて、売れた後でも、少しでも高く自分を売ろうとするクセの抜けない演歌歌手やジャズ歌手に多いような気がしますねぇ。

 皆さんのまわりにも、そんな、「大したことないのに勘違い勿体つけするヒト」っていませんか?

 さて、なぜ、突然、こんなことを書き出したのか?

 それは、昨日、日本におけるカストラートとも呼ばれる声楽家(ソプラニスタ)岡本知高氏が、本家カストラートを知るためにイタリアを旅する番組を観たからです。

 岡本氏は、男声でありながら女性ソプラノの声域を持つ「ソプラニスタ」と呼ばれる世界的にも珍しい男声ソプラノ歌手です。

 一方、カストラートとは、映画「カストラート」でも知られる通り、ボーイソプラノの声を保つために、声変わりする前に去勢して、さらに声楽の研鑽(けんさん)をつんだ男声歌手の総称です。

 もちろん、現在では一人も存在していません。

 男声の筋肉と肺活量を持ち、声帯は女性という、歌手としてはある意味理想的なカストラートは、言いかえれば、歌うことしかできない特化された生き物でした。

 岡本氏は、自身の声がカストラートに似ていることから、彼らに興味を持ち、今回の取材旅行を機に、本場でカストラート特有の歌唱法を学ぼうと、イタリア・ナポリに出かけたのです。

 この、氏の行動が楽しい。

 彼は典型的な「歌える人」です。

 ナポリの街を歩きながら、石造りの建物が、ちょっとホール状になっていると、突然歌を歌い出す。

 あるいは、食事に入った店で、店のオヤジが、ピザを回しながらイタリア語で「フニクリフニクラ」を歌い始めると、いきなりそれに合わせて歌い出す。

 歌の好きなナポリの人々は、それを聞いてヤンヤの喝采です。

 プロとして、声楽家としてコンサートを開いている岡本氏の行動に、勿体(もったい)ぶったところはひとつもありません。

 もちろん、それは、旅する場所が、歌曲の本場ナポリだから、ということもあるでしょうが、それだけではないことは観ていて伝わってきます。

 彼は「歌える人」であり、「歌うことが楽しくて仕方がない」のです。

 翻(ひるがえ)って、我々が、自分の行動を思い返すとどうでしょう。

 なけなしの技術、知識、能力に、つまらぬ勿体をつけてはいないでしょうか?

 そりゃ、もちろん、(自称)歌手やピアノ弾きは、こんなふうにいうかもしれない。

「勿体つけているんじゃない、そう見えるかもしれないけれど、ちょっと自信がないから人前ですぐに披露できないだけ」

 それが、勿体つけてる、ということなんだよ。

 だれも、我々やアナタゴトキが、チョー素晴らしい歌唱、演奏をし、聞いたことのない知識を披露するなんて期待してないよ。

 だからさ、やめようよ、勿体つけるのは。

「態度があんまり生意気すぎるぢやないか

      ヒトサマに失礼すぎるぢゃないか

  人間よ、もう止(よ)せ、こんなことは」

 などと、番組を観ていて思ったということでした。

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2010年7月 4日 (日)

ミッキーが危ない!「相撲賭博問題に勝手に思う」

 誰もがご存じ、あの世界的エンターティナーが世に姿をあらわしたとされるのは、1928年!、ひとりの夢想家が「蒸気船ウイリー」というモノクロ・トーキーアニメを作った時です。

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 声優を雇う予算のなかった、というか、そういうシステムすらできていなかった当時(世界初の音楽と声のシンクロアニメ)であったので、ウイリーに乗っているネズミの声は、当然、その作者ウォルト・ディズニーが吹き替えました。

 妙に裏返った、オカシナ声で。

 しかし、オリジナルはオリジナル。

 以来、爆発的人気を博すようになっても、世界一有名なネズミ、ミッキーマウスの声は、ウォルトの裏声に似せたものであり続けています。

 わたしは、以前、ファンタジアのリバイバル上映があった時、上映後の映画館の外で、高校生らしき少年が「ミッキーの声、めっちゃショックや」と歎いているのを聞いて、吹き出したことがありました。

 いやいや、いま、わたしが書きたかったのは、かの著名ジェントルマン・ミッキーのことではありません。

 もっとせっぱ詰まった状態のミッキー、徳俵に足の指をくいこませ、なんとか踏ん張ろうとしたものの、結局「土俵をわってしまった」ミッキーのことです。

 そう、大関コト・ミッキーです。

 わたしは、ゴシップ番組は、あまり見ないのですが、ニュースなどで、ちらっと写る彼の表情は、つねに無表情です。

 怒っているわけではなく、悲しんでいるわけでもない。

 その心中はともかく、外見は、ちょっと困惑している、という感じなのですね。

 このミッキーは……

 まあ、わたしは、相撲界に関しては、それほどの知識も見識も関心も持たないので、この件について、あまり深く書くことはできませんし、しません。

 が!

 ある、相撲記者クラブのジューチンと称する老人が、某番組で、

「名古屋場所はともかく開かなければならない。NHKが実況放送するかどうかは、局が決めればよいだけだが、この連綿と続く伝統はとぎれさせてはならないのだ」

というのを聞いて、ひどい違和感を感じてしまい、かつ憤りを感じたので、ちょっと書くことにました。

 明らかに、この老人は間違っている。

 彼は、相撲に関してドシロウトであるわたしすら知っている、江戸時代に、相撲取りをさしていった、

「一年を十日で過ごすよい男」

という川柳を知らないのだろうか?

 江戸時代の本場所は、長らく、年に10日に過ぎなかったのだ。

 このご老体、まさか、「連綿」というのを、たかだが戦後60年をさしていっているんじゃないだろうねぇ。

 かの田力男(タジカラオ)が、天照大神(アマテラスオオミカミ)が閉じんとする天の岩戸をこじ開けた時から「力強き男」がもてはやされ、それが神事となり、相撲へと引き継がれた……のは良いとして、上で書いたように、江戸時代は、一年10日しか相撲はとられなかったはず。

 神事としての相撲を持ち上げるのならともかく、「格闘技」としてのスモウを「連綿」ウンヌンで語るのは笑止にすぎない。

 現実問題として、現在のように、ほぼ2ヶ月おきに開催するようになったのは、「財団法人」日本相撲協会のゼニもうけの都合からでしょう。

 それと一部の老人ファンのため(非難は覚悟)。

 最近では広く知られるようになりましたが、「国技」というのも、明治に出来た本場所会場が「国技館」と命名されたから、「そこでやるんなら国技でしょう」という理由だけで称しているだけなのですから。

 このへんは、高橋秀実氏の「おすもうさん」↓に詳しいのですが、

http://web.soshisha.com/archives/sumo/2006_0511.php

少し引用させていただくと、

-----------------------------------

 歴史書を探ってみると、そのほとんどが、昭和15年発行の『相撲道綜鑑』(彦山光三著、國民體力協會)を参照していた。

「相撲は、肇國(てうこく)以来、日本の國技である」という書き出しで始まる権威ある文献なのだが、そこにはなぜかこう記されていた。

 何ゆゑ、相撲は肇國以来、日本の國技であるか、いかにして、相撲は、肇國以来、日本の國技とせられたか。相撲に関する傳・論・解等の文献は、古来、決して尠少(せんしょう)とはいへない。しかし、遺憾ながらこの點を闡示(せんじ)したものは一つもない。

 国技である証拠はどこにもないというのである。それなのに、どうして「相撲は日本の国技」だと言い切れるのだろうか。同書はこう続く。
 

 この語[「國技」]が、一般的になったのは、明治四十二年「國技館」が新建された當事(とうじ)からである。

 日本ではそれまで「国技」という言葉がほとんど使われていなかったらしいが、明治42年、両国に「國技館」という相撲常設館が建設されてから、相撲は「國技」と呼ばれるようになったというのである。ではなぜ、その相撲常設館に「國技館」という名前が付いたのだろうか。相撲教習所の教科書『相撲の歴史』(竹内誠著、財団法人日本相撲協会)はこのあたりの事情を簡潔に説明している。

 国技館の命名
 一万人余を収容するこの常設館の名称は、当初、板垣退助が主張した尚武館という案もあったが、結局、右の完成案内状に「角力は日本の国技」と江見水蔭が書いたことから、国技館と命名された。

 完成案内状に「国技」と書いてあったから、国技館にしたというのである。建物の完成案内状を見て、そこから名前を決めるというのは本末転倒ではあるまいか。その案内状(「大角力常設館完成?初興行御披露?」)は現在、相撲博物館に展示されている。薄茶けた一枚の紙。その文中には、「事新しく申し上ぐるも如何なれど、抑も角力は日本の國技」と大きな活字で書かれている。「其國技の活字を他よりも大に組ませたるを、尾車が見て國技館と提案、それを常陸山が賛成して」(枡岡智・花坂吉兵衛共著『相撲講本』昭和10年)、國技館という名前が決まったらしい。

 事の経緯を整理すると、まず相撲常設館が建設された。たまたまその完成案内状に「国技」と大きな字で書いてあった。だから「国技館」と名付け、そう名付けたから、相撲は「国技」になったというわけなのである。

 偶然と言うべきか。それともいい加減なのか。先述の相撲関係者も「あくまで先輩に聞いた話ですが」と断った上で、こう明かす。

 「国技館が出来た時、その名前をどう付けようかとみんな悩んだらしいんです。それで偉い先生にお任せしたらしいんですね。そしたら先生が『國技館』って書かれたわけです。それで、国技か、ということになったんです」
 ──それだけのことで国技になったんですか?
 「そうなんです。要するに、看板に『國技館』と書いたから相撲は国技になったんです。その時、国技館という名前じゃなかったら相撲は国技になっていないと思います」

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 どうです、いい話でしょう?

 と、まあ、相撲は「神事」ではあるとわたしは思いますが、コクギでもなんでもないのは確かなので、この際、税制の優遇措置を返上して、力士へ流れるカネを少なくすることを提案したいですね。

 一罰百戒、コトミッキーを含む数人を厳罰にして、今の既得権益を残したまま、うやむやにしようなどという、体格に似合わない小せぇことを考えずに。

 法人を返上し、ただの格闘技団体になって、役員以上を総入れ替えして、ミッキーを含め、下は厳重注意のまま維持そして監視したら良いと思いますがねぇ。

 現役横綱も部屋内でバクチしてたんだしさ。

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「予測市場」とアキレスと亀

 みなさんは、おそらく「アキレスと亀」という話をご存じでしょう。

 ビートたけしの映画の話ではありません。

 いわゆる「ゼノンの(運動)パラドックス」と呼ばれるアレです。

 「いわずもがな」の寓話?ですが一応書いておくと……

 足の速いアキレスと、ノロマな亀が競争をした。

 亀は、ハンデとして、アキレスより進んだ地点(地点α)から出発する権利を得た。

 二人は同時にスタートする。

 アキレスが、亀のスタートした地点αに到着した時、亀は、アキレスがそこに到着するまでにかかった時間だけ、アキレスより先に進んでいる(地点β)。

 次にアキレスがβまで進むと、亀はアキレスがα→βまでかかった時間分、アキレスより先に進んでいる(地点γ)。

 アキレスがγまで進むと、さらに亀はその先を進んでいる。

 この考えは、際限なくくり返し進めることができるため、足の速いアキレスは、いつまでたっても、ノロマな亀に追いつくことはできない。

 これは、もちろん詭弁です。

 このパラドックス寓話の面白い点は、いや巧妙な点は、結論が「いかにもアンリアル」なものであるにも関わらず、それを導く過程が、「いかにも論理的で正しく」見えることなのです。

 なぜ、こんな話を書いたかというと、先日、「新しい世論調査の方法」として「選挙における予測市場」というモノがあるということを聞いたからです。

 それは、参加者が「仮想の株式(バーチャル・トレード)を取引することによって、市場を予測するという考えに基づいたものです。

 その例として、某大学准教授という人物が、持ち出した典型例が以下です。

1.明日雨天になる場合に「100円を受け取れる」証券(チケット)を売り出す。
  これはつまり、「晴れれば紙くず(0円)になるチケット」ですね。

 実際に現実のカネで売り出すのではなく、「ネット上のゲーム」として、参加することで手に入る「仮想マネー」を使って、ゲーム内で売り買いするということです。 

2.参加者は、現在の価格が自分の予想より安ければ買う、高ければ売る。

 つまり、明日、雨になるだろうという天気予報をみたり、ゲタを投げたりして、明日が雨になる確率が高そうだと思う時、ネット市場にチケットが60円で売られていたら、40円の儲けになるから、それを買うということです。ゲームは「儲けること」が目的ですから。

 逆に、明らかに明日晴れると思うなら、紙くずになる前に、30円でも良いから売ってしまうに違いない。

3.その結果の「取引価格」を「雨天になる確率」として扱う。

 つまり、皆が「明日雨になる」と考えるなら、チケットの値段は限りなく雨の時に換金される100円に近くなるし、「晴れる」と考えるなら、晴れの時のチケット価格0円に近くなるだろう。

 つまり、最終的な、そのチケット価格0-100円が、降雨確率0-100%に対応すると考えるわけです。

 チケットの最終価格が60円なら、明日の降雨確率は60%というわけです。

 どうです?なんとなく、ゼノン的パラドックスを感じませんか?

 こういった「全てをゼニカネのやりとりに帰結させる」という思考は、いかにも拝金主義者の米経済学者が考えそうな感じがしますが、実際に、20年ほど前から、アメリカの「実験経済学」の研究者によって進化させられてきた考え方だそうです。

 実際に普及しだしたのは、例によって、インターネットの普及にともなってのことだそうですが、近年、アメリカではポピュラーな手法になりつつありそうです。

 その准教授は、対象と方法を選びさえすれば、かなり正確な予測値を得られると胸をはりますが、上の例では、いかにも例えが悪いような気がしますね。

 天気は、純粋に物理的な、いや自然現象的なものです。

 人によって動かしがたいところがある。

 実際には自然現象でなく、「選挙でどの政党が勝つか」や「アカデミー賞は、どの映画がなに部門をとるか」といった、人の思惑(おもわく)で決まる出来事の予測に力を発揮するそうです。

 ある事柄について(たとえば、次の選挙でどの政党が勝つか?など)、予測市場(以下で説明)をたてて、そこで売買される証券の最終価格をもって、確率とする。

【予測市場】
 問題の顛末(てんまつ)を価値に連動させた証券を取引する市場

 つまり、仮想市場で、ある政党が勝つなら100円もらえて、負けたらタダになるような金券を発行し、自由に売り買いさせて、その金券の最終価格をもって、その政党の勝利パーセントとする(ひどく簡略化させていますが)ということです。

 これの長所は、昨今、勝間氏などもよく言及するネット上の「集合知」を使うことができる点です。

 いわゆる、どこかの本のタイトルにもあった「みんなの意見は案外正しい」という考えですね。

 白亜の研究者による専門知識より、一般人の感覚、あるいは市井(しせい)の在野(ざいや)研究者の知識の方が正しいことがある、という考えですね。

 ボトムズによるワイズマンというところですか?
 あるいはガサラキにおける「超高度な謎の知的生命体10億体」かな?

 面白いのは、この場合の「集合知」が、ウィキペディアのような、知識の静的(スタティック)な寄せ集めである「ストック知」ではなく、時々刻々変化する動的(ダイナミック)な「フロー知」であるということです。

 静的知なら、かなり固定的ですが、動的知なら、その時のキブン、雰囲気、マスコミのミスリードで、次々と価格が変わることがある。

 ありきたりな言い方をすれば、時代の空気を読んだ結果になる、ということです。

 もっとも、個人的な感触としては、これには懐疑的です。

 上記にある「問題の顛末を価値に連動させた証券」をうまく発行するためには、その「問題の顛末(てんまつ)」が、「明日、雨か晴れか」などの単純なものならともかく、複雑なものであればあるほど、予測市場をたてる側の「問題の簡略化」に高度なセンスを要求するだろうというのが第一。

 それほどの才能があるのかなぁ。

 そして、第二として、ヒトの寄せ集めである「集合知」には、為(ため)にする意思、特定の政党・人物に悪意を持った個人、ただ面白ければ良いという、愉快犯(間違った使い方)的個人も多く存在し、そういった一握りの人々のアジテーション(扇動)によって、市場価格が変わってしまうことがあると思うからです。

 某教授によれば、そういった「悪意をもった個人」による価格操作までをも含め、現実的には正確な数値が出るというのですが、本当なのでしょうか?

 いわゆる「数学におけるリミット無限大」、限りなくサンプル数を増やしていけば、そういった個人の思惑は、許容誤差として処理できるようになるかもしれません。

 しかし、少なくとも、現時点での、ネット上かつ仮想ゲームの中での、少ない(5000人程度だそうです)参加人数におけるマネー・ゲームによる予測市場は、あまり信頼できないとわたしは思います。

 今後、もっと、人々に集合知の意義と意味が広く認知され、悪意あるアジテーションが影を潜め、主催者側が、センス良く予測市場をたてることができれば、あるいはツカエルようになるかもしれませんが……無理でしょうねぇ。

 グレシャムのいうように「悪貨は良貨を駆逐」し、大衆は低いレベルで一定となってしまうでしょうから。

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