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2010年6月 9日 (水)

近頃の流行歌(はやりうた)

 仕事がら作詞をすることもあるのですが、最近の歌の歌詞はほとんど知りません。

 というか、音楽の仕事にたずさわっていながら、最近の流行歌を(曲、詞とも)ほとんど知らないのです。

 まあ、実際に楽曲を作っているのは、わたしではありませんし、歌詞も添削依頼が多いので別に問題はないのですが、おそらく、わたしが最近の曲に興味を持てないのには理由がふたつあります。


 まず曲についてですが、これはもう、ひと言でいえば、盗用だらけなので聞くのが嫌になっているのですね。

 以前、このブログで「小説作法」について書いたことがありますが、小説を書こうと思ったら、まずたくさんの既存の小説を読むことが大切です。

 なぜなら、知らずに、あるいはずっと前にどこかで読んだ話、聞いた話をオリジナルだと思って作ってしまうことがあるからです。

 インスパイアされたいがために読むのではなく、モノマネだといわれない為にこそ読む。

 これは「趣味でなくプロとしてモノを書く最低限のマナー」であるとわたしは思います。


 もちろん、同工異曲(どうこういきょく)の作品を「日の下に新しきモノなし」と居直って、ちょっとだけシチュエーションを変えて書くというスタイルもアリでしょう。

 実際、そんな著名作家もかなり多い。

 編集者や同業の作家にいわせれば、自分自身の作風のコピー、つまり自己模倣(じこもほう)は、そこまでその作品を育てあげた編集者と作家のご祝儀(しゅうぎ)だから、構わない、という意見もあるようですが……

 個人的にはそんなヤカラは軽蔑しますがね。


 音楽にも同様のことがいえる、というより、音楽の方が知らずにモノマネする可能性が高いと思うのです。

 だからこそ、作曲者は多くの曲を聴くべきです。

 あるいは、色々な人に聴いてもらってチェックするべきです。

 ご存じのように、クラシックの多くは著作権が消失しているために自由に使えます。

 だからといって、まるっきり真似をしておいて、作曲に自分の名前をだすことは、プライドがあれば普通はできない、と思うのですが、案外、皆やってますね。

 アニメ「巌窟王」(アニメとしては好きな作品です)では、ショパンの「別れの曲」をまるまる使っていながら、どこかの外国人が作曲者として自分の名前を使っていました。

 あれは恥ずかしかったなぁ!


 余談ながら、アメリカのジャーナリズムには、2ドル・ルール(最近では1ドル・ルールらしいですが)という、暗黙のルールがあります。

 取材対象(あるいは非難しようとする相手)から受け取ることができる金額の上限のことですね。

 この場合の「金」とは、取材のさいに珈琲をおごってもらったりすることを指します。
 1ドル・ルールはもちろん、2ドル・ルールでさえ、スターバックス(アメリカにおける)のレギュラー・コーヒーはOKだが、ラテはダメという厳しさです。
 これから考えると、前与党から何十万も受け取っていたといわれる日本の著名評論家およびマスコミは、アメリカから見てもイカガナモノカ、ということになりますね。

 一方、音楽の世界では「2小節ルール」という暗黙の了解が存在するのです。

 これは、いわゆる音楽業界ではかなり常識化されていますが、「2小節」が盗用して良い上限なんですね。

 もちろん、厳密にいえば「絶対真似しちゃだめ」なんですが、一応、目こぼしというのがあるわけです。

 それが2小節。

 もちろん、「盗」んで「用」いるなんてしない方が良いし、たとえ見逃してもらったとしても、それ以上真似しないために作曲家は色々な曲を聴くべきなのです。


 その点からみると、最近の(自称)シンガー・ソングライターたちの多くは、カントリー・ソングやフォーク、ロックの黎明期の知識に乏しすぎるように思えます。

 だって、何年か前に二流のシンガーが60年代の名作を流用して作った曲の、サビの部分だけを盗んで曲を作っている売れっ子シンガー、なんてのがいるわけですから。


 旧知の曲に「即物的ありきたりのイメージ歌詞」(以下で書きます)を当てはめた曲など聴いていたら頭が痛くなってくる。


 皆さんも、最近の曲で「あれ?これってアレじゃないの?」なんて思ったことはありませんか?


 まあ、クラシックなどでも、才能につまった作曲家が、東欧やアジアに旅行して現地の「民謡」を聴き取って、自作の曲として発表したりしていますから、曲の盗作は世の常、ということかもしれません。

 昔のことですから、わざわざその地域まで出かけて「音をサンプリングしてきた」という意味で別に問題はなかったようですし、さすがに「丸ごと盗用」をしている人はいませんからプライドはあったのでしょう。

 というわけで、曲の次は、近年のシンガー・ソングライターの歌詞についてです。


 こっちが、この項の本論です。


 日本語の歌の歌詞なんてカンタンですよ。

 だって、日本語で育って、日本語で会話して生活しているんだから、歌詞ぐらいカンタンにつくれる……と、思う人もいるでしょうが、イザ作るとなると「斬新で印象的な歌詞」を書くのは、文章書きと同じくらい難しいものだと気づかされます。

 私見で断定しますが、詩人は特殊な人間にしかなれません。

 コトバを大切にし、あの有名なたとえ話、

「詩人の作業は、浜辺で拾ったコインを砂でこすって光らせる行為に似ている。新しく言葉を作るのではなく、今ある言葉に違う光をあて、新しい輝きをもたせるのだ」

で表されるように、言葉に対する「鋭敏なセンス」「過剰な思い入れ」「言葉の知識」そして「軽い諦め(言葉で伝わらない事が多いことも知って)」を、ない交ぜにして持っている人間でないと、詩人あるいは歌人にはなれないのです。

 もちろんわたしも詩人ではありません。
 七転八倒しながら、文字と格闘しているだけです。

 「何らかの自分のメッセージを歌詞にのせて伝えたい」と、若者が思うのは良いことですが、早くに自分にその才があるかどうかを見極めて、歌詞は「書ける人」に任せるべきです。

「人は誰でも一作ぐらいは名作小説を書くことができる」とはよくいわれることですが、同様に、
「人は誰でも、一曲ぐらいは良い曲、歌詞をつくることができる」
でしょう。

 しかし、何曲もの歌詞を作り続けるのは、おそらくよほどの才に恵まれないかぎり無理なのですから。

 なぜ、こんなことを長々と書いているかというと、先日、「女脳と男脳」の項で書いた斉藤 環氏が、同じ文章で、以下のように書いているのを読んだからです。


『喜怒哀楽にまつわる最近の傾向として、感情表現が非常にわかりやすいかたちになってきていることが挙げられます。例えば「泣ける」というキーワードを掲げる映画や小説など、平板でわかりやすい、つまりベタな表現が増えていますし、音楽にしても、かつては複雑な心理を歌に託して、聴く側もそれを解釈する楽しみを感じていたのが、最近では「生まれたことに感謝」「出会えた奇跡」など、非常にシンプルな歌詞が溢れている。これは、「複雑な感情表現をすると相手に受け取ってもらえない、そっぽを向かれてしまう」というおそれ、強迫観念の表れです。携帯小説はまさにその象徴ですね』 

 これには、目からウロコが落ちました。

 まあ、強迫観念ウンヌンは、イカニモ現場の精神科医がこじつけそうな意見だとは思いますが……


 氏は、最近の傾向として「ベタ」で「シンプル」な歌詞が多い、と書いていますが、それがなぜなのかについて、正確に言及してはいません(強迫観念ウンヌンはコジツケですから無視するとして)。


 これについて、少し補足しようと思います。


 某放送協会の番組で、各界の著名人が自分の母校(小学校)を訪ねて、特別講義をする、というものがあります。

 先日、それに歌手の石川さゆり氏が出演され、母校である九州の小学校に行って、彼女の人生を変えた名曲「津軽海峡冬景色」を子供たちに理解してもらおうと、2日にわたり授業をされたのですが……

 その時の子供たちの反応が興味深かった(石川氏の言葉も)。


「津軽~」からどんなストーリーを想像できるか、という彼女の問いに、出るわ出るわ、主人公の女性のフルネームから、不倫相手の男声の名前、果ては北海道の出身地名まで、細かいスペックがぎっちりと模造紙に書き込まれ、子供たちによって発表されます。

 しかし、石川氏の表情は冴えない。

「なんだか、本当の悲しみを分かっていないなぁ。想像力は豊かだけども……」

 そういって、彼女は子供たちに「引っ越しをしたことのある人は?」と尋ね、手を上げた少年、少女に「辛くなかった?寂しくなかった?」と尋ねたのです。

 もちろん、子供たちは「寂しかった。辛かった」と答えます。でも、それだけ。

 石川氏は呟きます。

 人間、生きていたら「津軽海峡冬景色」に、もっと多くの悲しみや色々な感情を感じ取ることができるはずなのになぁ……

 その気持ち、痛いほどわたしにはわかりました。

 が、同時に、子供たちにそれを望むのは無理ということもわかった。

 個人的に、「子供は幼い大人ではなく、子供という別なイキモノ」なんぞという、教育心理だったか教育原理だったかで習ったような考え(同級生でほとんどとる者はいませんでしたが、わたしは授業料のモトをとりたくて教職もとったのです)は、マユツバだと思っています。

 子供は大人と同じイキモノです。

 しかし、決定的に「経験値」と「情報量」が大人とは違う(まして小学生ではね)。

 ライトノベル、携帯小説、コミック、アニメなど、さまざまなエンターティンメントのソースによって、今の子供たちの頭の中にはストーリーが渦巻いています。

 しかし、実際に胸が引き裂かれるような悲しみと辛さ、血を吐くような絶望の叫びは、「ナルト」を読むだけでは、理解はできても実感はできないのです

 有り体(ありてい)にいえば、物語を詩にして、そこから気持ちを読み取れ、と、小学生に望むのは、ほとんど無理です!

 彼らには、斉藤氏が上で書いているように、「胸が痛いほどの悲しみ」だとか、「涙が止まらない」だとか「ご飯が欲しくないヨー」だとかの、即物的な表現でないと、理解が及ばないのですよ、まだね。

 分かるまでには、あと少し時間がかかる。

 いや、中には、子供程度の経験しか持たず、体だけが大きくなった人もいるでしょう。

 案外、そんな人が多いかもしれない。

 ふた昔前、消費ターゲットは15(イチゴ)世代を狙え、といわれました。十五才前後の、案外カネを持っている子供たち、ということですね。

 その後は、年金ぐらしでも結構資金に余裕のある老人世代と、彼らからカネを引き出す能力に長けた小学生たちが購買層としてターゲットにされています。

 流行歌は売れなければ商業的にはなりたちません。

 だから、どうしても最近の歌詞は、小学生にもわかる(斉藤氏のいうシンプルな)歌詞になってしまうのです。

 詩を作っている人たちが、ターゲット世代と同レベルだとは思いませんが、わたしには物足りない、というか、タイクツなものが多いのですね。


 最近では、老人たちの好きな演歌も、同様の思考の硬直化におちいって、ぱっとしないステレオタイプなものばかりではありますが、流行歌のほうが、感覚的(これを女性脳的というとマズイのでしょうが)な歌詞が多く、硬直化しているように思えるのです。

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