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2010年6月

2010年6月26日 (土)

これでどこでも文章書き!ポメラも不要 iOS4アップデート

これでどこでも文章書き!ポメラも不要 iOS4アップデート

 告白すると、わたしは、ずっとポメラが欲しかった。

 ポメラってご存じですよね。

 キングジムの小型ワープロ、というか、メモマシンです↓。

  http://www.kingjim.co.jp/pomera/

 でも、すでに文字が打てる携帯電話があるのに、もう一台電子機器をもつのもなぁ、と躊躇(ちゅうちょ)していたのですが、この21日にiphoneOSが4.0になり、ついに、Bruetoothがキーボード対応になってくれたため、iphoneのテキスト入力用にBruetoothミニキーボードを購入しました。

 本当はFILCOが欲しかったのですが、大きすぎるので却下、サイズから逆算して、ELECOMのTK-FB013BKにしました。実売6000円台です。↓

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 OSについて、ついでに書いておけば、OS4になって単語登録もできるようになったため、よく使う文字列を一文字で登録して、文書作成効率を上げられるようにもなりました。

 今回のバージョンアップでは、やはりこの二点が大きいなぁ。

 さて、肝心のキーボードですが、小型ながら、パンタグラフ方式のキーは、クリック感のない汎用タッチパネル・キーボードより、はるかに打ちやすいですね。

 重さは、愛猫の餌を計るハカリで270g。牛乳瓶一本くらいです(古いかな)。
 大きさは、iphoneとの比較で分かると思います。
 これならなんとか、鞄にいれて持ち運ぶことができる。↓

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 iphoneの設定で機器を認識させたあと、「ファンクションキー:Fn」と「WIN-MAC切り替えキー」を同時押しすると、その後は、「変換キー」と「無変換キー」で全角と半角を切り替えできるようになります。

 キーボードのバッテリーは3か月もつそうです。

 外出先で使うことがほとんどなので、キーボード上部にiphoneを固定する台を、プラ板を曲げて作りました。

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 キーボードとの接続はベルクロを使います。

 実際の使用スタイルはこんな感じですね。どことなくポメラに似てる↓

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 非常にコンパクトで使いやすいワードプロセッサ、というかエディタになりました。

 あとは、充電用のリチウムイオンバッテリーをつなぐくらいですね。

 実際の使用感ですが……この項目の前に書いた「中国についての~」のプロトタイプは、実を申せば、全部上記のシステムで書きました。

 朝から書き始めて30分くらいで、だいたいの形ができます。

 わたしは、とにかく大量に文字を打つので(たぶん、的確な表現ができないから長くなるのでしょう)、今までのiphoneでは、とても文章を書くことができなかったのですが、このキーボードなら大丈夫です。

 多少、変換が追いつかなくて、誤入力することがありますが、ほとんど問題がないレベルです。

 iphoneのディスプレイに、これまでのノロさからは信じられない速さで文字が打ち込まれていくのをみると、やはりモチはモチ屋、キーボードはキーボードに任せろ、と思わずにはいられません。

 バッテリーの持ち(bruetooth使用時iphoneの)など、もっと細かい点が分かれば、後日、追記として報告します。

 とりあえず、この使い方は、文章を大量に書くことに限れば、ツカエル、と思いますね。

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中国についての個人的感想

 以前に「上海万博にからめて中国について書く」などと、このブログで公言したのですが、世はおしなべてサッカー・ワールドカップ一色(特に日本はね)で、時期を逸した感も強いため、万博抜きで、現在の中国についてのわたしの感想を書くことにします。

 沖縄の米軍問題で、しばしば話題にされた「米軍のヨクシリョク」という言葉、その大部分は「北朝鮮」を指すのでしょうが、残りは中国を指していると考えられます。

 確かに巨大な人口(13億人)を持ち、それを背景に急成長する経済力、おまけに過去の経緯からの日本との確執を考えれば、気にしない方が楽観的過ぎるでしょう。

 自国のすぐ側に「一党独裁の国家」があることを危ぶむ気持ちも分かる。

  北朝鮮と同様、国から押し付けられた思想、価値観で、世界のスタンダードとは違った行動をとることもあるかもしれない。

  しかし、極言すれば、そもそも、現在、世界標準となっている、「個人尊重」「主権在民」すら国によって、知らぬ間に押し付けられたものではないのでしょうか。

  年配の方にとっては、終戦直後の、教科書の多くを墨(墨)で塗り潰すという衝撃を覚えているひともおられるでしょうが、そういった人々は今では少数派になりつつある。

「歴史を真剣に学んだことのない」「感覚として主権在民を理解できない若い世代」にとっては、「自分の知らない間に成立していた民主主義」をとにかく与えられ、「自明のものとして使っている」のにすぎないのです。

 それに、世の中には「衆愚政治より賢帝独裁を望む」人々も存在するのですから。

 何が正しいかは、これからの歴史が証明するのかもしれない。

 個人的には、「突然」とんでもない方向に行く可能性がある賢帝政治(6代将軍綱吉や暴君ネロなどの歴史が証明:君子は豹変するモノ{間違った用法のほう}ですから)より、愚かなりに動きの「鈍重」な衆愚政治の方がマシだと考えています。

 いずれにせよ、現在の世界経済は、中国抜きで考えられなくなっている。

  特定のイデオロギーで、闇雲に中国脅威論を振りかざしても、日本にメリットはない。
  偶然ながら近隣に存在し、歴史的に影響を受け、戦争や一時的支配などの経緯があったにせよ、もはや中国を抜きにして、日本だけでなく世界経済すら考えられなくなっているのは事実なのです。

 願わくば、現在の独裁形態から、世界標準の政治形態に、うまくソフト・ランディングしてもらいたいものです。

 おそらく、世界の首脳だけでなく、中国の指導者たちさえも、そう考えているはずでしょうから。

 もちろん、自分たちが持つ「既得権」はそのままにしてね。

 しかし、そのためには問題も多い。

 ここで、ちょっと脱線して……

 わたしはいつも不思議に思うのですが、日本のメディア、学者等オエライ方々は、どうして外国と比べて日本を卑下しようとするのでしょうか?

 いまだに敗戦時、自己反省キブンが抜けていない?

 どこの国でも問題はあるのです。それに目をつぶり、日本をコキおろし、外国を賞賛する……なんだかね。

 失礼ながら、わたしには、オタメゴカシの福祉の好きな人々(反論は覚悟)が、こぞってホクオーの国々を、バラ色の楽園のように賞賛するのがわからない。

 人口が二桁違う国、GDPが3000億ドルと4兆3500億ドルの国を単純比較する愚をなぜ犯すのか?

 それと同様、今、マスメディア始め、学者サンたちは「ライジング中国」、中国の勢いを、こぞって持ち上げすぎているような気がしてならないのです。

 労働人口が多く(これが怪しいということは「老いて行くアジア」で書きました)、賃金が安く(これが今、大問題になっています:後述)、同時に購買人口も多い、これじゃ老人揃いの日本が対抗できるわけがない、とね。

 まあ、逆に、何のイデオロギーなのか、何かイベントがある度に「中国没落論」を振りかざす御用(誰のだ?)学者も何人かはいますが……

 曰く、
 オリンピック後に中国経済破綻!
 万博後に中国壊滅!
とね。根拠もなく、叫ぶ人の頭がどうなっているのか観てみたいなぁ。

 また、そういった人物に限ってミョーに世渡りがうまく、地上波テレビの奥様番組などに出て歪んだ思想を吹きまくるから始末におえない……

 いかんいかん、また脱線を。

 要するに、わたしは、そういった中国を持ち上げすぎることも、過度に悪く見ることも、ともに公正さにかけるように思うのです。

 国も人と同じで、良いところもあれば悪いところもある。

 中国が、いまだ登り調子であることは間違いがない。

 しかし同時に、中国が、危険な芽を数多く内包し、指導者たちが、それを微妙(本当の意味のビミョーね。辞書をみてください)にコントロールしつつ、かなりきわどい綱渡りをしているのも事実なのです。

 何から書きましょう。

 そう、たとえば、自動車メーカー。

  かつて、独自の自動車メーカーを持っていた中国が、現在、ほとんどその活動を停止し、こぞって外国の部品メーカーに成り下がっている。

 かつて、政府がつぶそうとしていた民間自動車メーカーがだけがかろうじて自動車を作ろうとしているだけです。

 低い人件費を背景にした部品作りのほうが、まとまったモノを作るより「安易」に億元長者になれるからです。

 先のビジョンではなく、まず目先の金儲けに走っている。

 まあ、日本の高度経済成長もそうでした。
 
 しかし、それをすると、様々な問題が後に露呈してくるのです。

 中国には、日本の轍(てつ)を踏んで欲しくない。

 ヒトは、どこの国の人間であろうと、公害などで苦しむべきではないからです。

  かつて鄧小平が「豊かになれる者からなれ」と叫び、経済化を推し進めた結果、かつての日本同様、中国でも社会のひずみが生じてきました。

  なかんずく製造業に問題がでた。

企業倫理をコントロールできず、つまり儲け優先で余計なコトに金をかけたくないと、企業トップが考えた結果、公害が発生し、現場の労働者たちの賃金は抑えられた。

  「国進民退(こくしんみんたい)」と中国では呼ぶそうです。

 「国が栄え、民が貧しさにあえぐ」

 上で、中国首脳達は「微妙」なコントロールで、国を運営している、と書きました。

  今の中国は、毎年1000万人の新規雇用を生み出さなければならないのです。

  だから毎年必ず8パーセントの経済成長を達成せねばならず、そのために公共投資を行わなければならない。

  結果、格差が広がるという悪循環に陥っている。

  すでに、企業や金持たちが、投資目当てで、都会の土地を買いあさる、「土地バブル」が深刻になり、いまや一般人は、北京市内に家を持てなくなってしまいました。

 どこかで聞いた話ですがねぇ。

  上海万博が始まった当時の中国では(おそらく今もそうなのですが)、「個人消費がない」ことが大きい問題だったといわれています。

  個人を中心とした金の流れが国内に作られない。だから、トップダウンの「公共投資」で無理やり資金を流れさせる。

 しかし、それは大企業などにカネが流れるだけで、草の根にまで行き渡らない。

 よって、さらに格差が広がる。

  そもそも胡錦濤氏が主席になった時(2002年だったかな)、彼は「和解社会」というスローガンを掲げて登場したのです。

   彼は格差是正を望んでいた。

  具体的にいえば、「国のインフラ整備」と「年金の充実」を行うのが彼のテーマだった。

  しかし、現実は理想どおりにはいかない

  国民の間には低賃金に対する苦情が、富める者と貧し者の間には、摩擦と軋轢(あつれき)が生じている。

 先日、外国の不満を緩和するのと内需の拡大のために、固定相場制である人民元に、弾力的切り上げを行うと発表したのもそのためです。

 さらに、労働者の不平の高まりは、ついに中国国内でストを多発するようになりました。

 そのために、部品がなくなり日本の中国工場が稼働停止になっています。

 余談ですが、昨今、引き下げが取りざたされる法人税について、金儲けに走り過ぎて悪相になってしまった経団連会長あたりが、このままだと「法人税の安い国外に出て行くことになる」と国を脅していますね。

 以前から、あれについては不思議で仕方がありませんでした。

 だって、それは、会社・工場をどこの国に設置するかを、ゼニカネの観点、法人税によってのみ決める、と宣言しているということでしょう?

 オエライ企業トップが……?

 会社をどこに置くかは、カネだけの問題ではないでしょう。

 そんな拝金思想だからダメなんだよ。

 その国の安定度、治安の良さ、そして、その国との信頼関係をどの程度培うか、という点からも考えないとならないはずです。

(一時的に)安い労働力が手に入るからといって、ストが多発する国に、会社・工場を持っていっても意味がないでしょう?

 ヤクザまがいに、国を脅すケーダンレンのじいさんたちの顔を見る度、「出て行きたいなら出て行って、私設軍隊で守らせろよ!」と叫びたくなってしまいます。

 いや、今は中国の話でした。

 現在、中国国内には不満が溜まりつつある。

 万博開催時の、数ヶ月前もそうでした。

 興味深いのは、中国が、それらをおさえるために「国家の犬」を飼っていることです。

 その名も「ケルベロス!」(ウソ、ウソです)

 驚くのは、そのための予算が国防費と同程度だということです(こっちはホント)。

「穏維(おんい)のコスト」

 つまり治安維持のコストが、「警察」および「ガードマンから引き抜いた第二の警察」にかかる予算とほぼ同じ。

 第二の警察官たちは、やたらと威張り散らすために「二匹目の犬」と呼ばれ、嫌われているそうです。

 わかりますか?

 中国は、国民の不平を抑えるために、国防予算なみの資金を使っているというわけですよ。

 さらにその資金は、騒いだ人間に金を渡して、騒動を沈静化させるためにも使われているといわれています。

 Google撤退でしばらく話題となった、インターネット関連の情報統制にも金がかかります。

 中国には「ネット評論員」とよばれる人々がいて、上海万博に限らず、国家寄りの情報を書き込むことで、政府から金をもらうことができる(一回五角『一元の半分』)といわれているのです。

 先日、日本は、中国に対するビザの発行対象を、富裕層から中間層にまで引き下げました。
 (実施は七月から。実験的に一年のみ限定)

 これによって、日本に観光に来る中国の人々も増えることでしょう。

 彼らが、日本にやってきて、よく買う物をご存じですか?

 テレビ?コンピュータ?ウォークマン?違います。
 
 ご存じの方もおられるでしょう。

 彼らは、電気街や空港の免税店で、高給炊飯ジャーを買っていくのです。

 あの高いやつね。

 ひとりで10個買う人もいるとか。一族のために買って帰るのでしょう。

 大阪日本橋横の黒門市場も中国の観光客で一杯です(それでわたしも歌を作ったのですが)。

 今、日本では、電気街以外でも、多くの観光地で彼らを誘致するために努力を始めています。

 例えば、和歌山のマリーナシティ。

 ここでは、大刀を使ったマグロの解体ショーを行っています。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 何を書きたいかといえば、そこでマグロを試食し、笑顔で「おいしい!」と語る中国の人々は我々と何らかわるところがないということです。

 イデオロギーの違いなど影を潜めている。

 まあ、いざとなれば顔を出すのでしょうが、ともかく、わたしは、こういった草の根の交流、日本に来て、日本の物を買い、日本のものを食べ、日本製品を使って、日本のコミック、アニメを観ることで培われる「親近感」を大切にしたいと思うのです。

 ガス田の所有問題などで、すぐに風向きの変わるトップの仲の良さなどに左右されない、心情的なものを培いたい。

 だって、たまたま大陸の端に集まった者同士、仲良くしないとソンじゃないですか。
 モーコハンのあるもの同士なんだしさ。

 それに……以下は小さい声で書きます。
 白豪主義がいまだ残るオーストラリアで、インド移民に対する迫害が表面化したりするたびに、わたしが思い出すエピソードがあります。

 以前に、ある学者が苦笑混じりに告白したそうです。
 金満家の人種差別主義者の依頼によって、白人の優位性を証明しようと様々な実験を繰り返す度に、いつも黄色人種が一番優れているという結果になって発表できないんだよ、と。

 アジア人同士、仲良くしないとソンです。

 ああ、あと、オリンピックや上海万博の際にも流れ込んでいたとされる「中国の地下経済」および、この間の捕鯨でも話題になった、中国によるアフリカ各国の上手な支援(日本だって、中国以上のODAをやっているんですがその利用がヘタ)、少数民族への圧迫、大きすぎる大陸に対する効率的支配の限界(いかにネットが発達していようと13億は多すぎる。せめて4分の一にならないと)などについても書きたかったのですが、今回はこのへんにしておきます。

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2010年6月20日 (日)

信じる力(ゲゲゲの女房とヘンリー・ダーガー)

 今回は「信じる力」について書きます。

 コミックやアニメ、あるいは若者向けライトノベルでよく使われる『耳触り』(耳障りでなく)の良い意味ではなく、もっと苦しく、切なく、血を吐くような気持ちで使う方の「信じる力」です。

 ああ、この言葉を、若者向けの「カッコイイ」意味で使えたらどんなに良いだろう……

 あれ、なんだか気持ちがネガティブになってるぞ。

 陰気な話になるかもしれないので、そんなハナシが苦手な人は、これ以上お読みにならないでください。

 さて、どこから書きましょうか。

 まず、わたしもイイ年なので、自分の小説のなかで、斜(はす)に構えた言い方でなく、真っ直ぐな使い方で、登場人物に「『信じる力』が大切だ」と断言させることは、もはやできなくなっています。

 んなもん、信じたってダメなもんはダメだって、長く生きてりゃ、イヤってほど分かってくるからです。

 「信じる力」にはいろいろありますが、特に「自分の能力を信じる力」は、儚い(はかない)ものです。

 「にんべんにユメ」とかいて「儚い」と読ませるのは、腹がたちますが、まさしく言い得ていますねぇ。

 「現実の重み」というクソ野郎は、時にキレイゴトを見事に吹き飛ばして跡形もなくしてしまうモノです。

 「現実の重み」、その中で特に苦しいのは、「時間の経過」と恥ずかしながら「カネ」です。

 こんなことは、もう、とうに分かっていたことですし、今さら書くことではないと思ったのですが、最近、すっかりカサブタになってしまったと思っていたブブンをえぐるような話をいくつか観てしまったので、こんな話を書き出してしまいました。

 そのうちのひとつは、現在、日本放送協会で毎朝放送している「ゲゲゲの女房」です。

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 そもそもは、頼まれて録画していたのですが、チェックがてら目を通すうち、隻腕(せきわん)の水木氏(向井理氏)が出てきてからは、特に、夫婦が赤貧洗うごとき生活をするようになってからは、身もだえするような気持ちで毎日観てしまっています。

 戦傷(せんしょう)による隻腕、40を過ぎて廃(すた)れつつある「貸本マンガ」(わたしが子供の頃はもうなかったなぁ)の作家として、全く売れない漫画を書き続ける水木氏を観ていると胸をかきむしられます。

 もう観たくない。

 でも観てしまう。そして、こう考えてしまう。

「この気持ちを本当にわかるのは、わたしを含めて日本の人口のごく一部だろうなぁ」

 まあ、そう考えた時点で、すでにこの考えは間違っているのですがね、おそらく。

 水木氏の少年時代については、かつてこのブログでも、「のんのんばぁとオレ」(正・続)で書いたことがあるように記憶しています。

 その時にも書きましたが、昔、あの番組を観て恐ろしく思ったのはのは、あれほどエネルギッシュで生気にみちあふれていた子供が、大人になって戦争で片腕を失ってしまうという運命の過酷さ、非常さを感じたからです。

 その点は、わたしもトシをとったので、誤解を恐れずにいわせていただければ、「彼はただ腕を無くしただけで、不便になるけれど人としてなんら変わってしまったわけではないのだ」と思えるようになりました。

 しかし、もうひとつ、これも誤解を恐れずに書かせてもらえれば、

「利き腕でない方の腕を失ったという事実」

 こそが、水木氏にある種の「呪い」をかけてしまったように、わたしには思えてならないのです。

 ここでいう「呪い」とは、「そのことが無謀な挑戦に対する自信の核」になるということです。

 水木氏の自伝をお読みになった方、夫人の「ゲゲゲの女房」でもいい、あるいは、今、番組をご覧になられている方なら、わかっていただけるでしょう。

 世は高度経済成長期、日本全国、人手不足で、いわゆる「金の卵」と呼ばれた集団就職の青少年たちが次々と都会にやってきて、「働く気さえあれば、貧しくとも食っていくことはできた時代」です。

 片腕というハンディはあっても、「とにかく食べて、妻子を養っていくのだ」という決断をすれば、少なくとも鼻紙を買う金すらない生活にはならない。

 でも、氏はマンガを書いて生計をたてようとする。

 「信じる力」が強いのです。

 そして、その裏には、明確には表現されていませんが、

「あの南方から生きて帰り、腕を失いながら、それが利き腕ではなかった」

という事実が、

「だからこそ、生きて描かねばならないのだ」

という「信じる力」の核になっているような気がします。

 番組の感想などでは、

「あの、豊かになりつつある時代に、あんな貧乏はないよ」

というものがありました。

 これについては、はっきり反論させてもらいます。

「時代じゃネェんだよ。そりゃ、世間の流れを見て、世間を追いかけ、世間に流されて、世間が働くなら働く、引きこもりがゆるされるなら引きこもるってヤツがいう言葉だ。そんなふうに、右見て左見る人間なら、テキトーに働いて生活だけは確保できる。でも、そんな風に生きない、生きられない人間(下記参照)にとっては、世間も時代も関係なく、つねに生活は赤貧なんだよ!」

と。

 言い換えればこういうことです。

「人間にはふた通りある。時代に生きる人間と時代と関係なく生きる人間の」

「働きながら描けばいいじゃないですか、みんなそうしているんだし」

 そう書かれる方も多い。

 実際、その通りです。正しい。

 でも、おそらく水木氏はそう考えていない。

 いや、氏だけでなく、多くの赤貧に身をおいたマンガ家、作家たちはそう考えなかったはずです。

 言葉にするしないの差こそあれ、彼らの気持ちの中には、

「生活を確保して、その合間に書くような作品に『魂が込められるかよ』」(*)

 という気持ちがあるのです。

 青臭い考え方、そして見方をかえれば、現実から逃避する「生活無能力者」の逃げ口上に過ぎないのですがね。

 しかし、これは極小の小さい声でいわせてもらいたいのですが、

「作家になってからも他に仕事を持っている兼業作家(たとえ著名作家でも)の作品になんて、ロクなものがねぇよ」

というのが、わたしの個人的見解です。

 上記(*)のように考えているクリエイターたちが、トシをとって、「もうこんなことをしていてはダメだ、子供も大きくなってきたし身の振り方を考えよう」と、世間一般いうところの「正業」(いいねぇこの呼び方、完全にヒトをバカにしている)に就くと、その後は、いくつかのパターンに分かれます。

 そう、失敗し続ければ、どれほど強い精神力をもっている人間でも、やがては折れるのです。

 何度やってもダメ。

 自分でも不安になりつつも、さらに「信じる力」を奮い立たせてようとしても、やがて自分を信じている者の目に、不安と不信の色が浮かぶのが分かる。

 それが、生活苦から、すがるような色になると、もうダメです。

 折れます。折れるのです。

1.「信じる力」が折れて、もう書けなくなり、余生を小説、漫画と関係なく過ごす。

2.まだ信じて書き続けるが、その生産量は低下し駄作をレンパツ。さらにトシをとって、流行作家をコキおろす、漫画や小説が趣味のジジイになる。

 これに、「仕事の合間に書いた作品が、水木氏のように40を過ぎてから突然認められて、大ブレイクする」なんて項目を加えたいのですが、ほぼあり得ないので書きません。

 私的(してき)な考えでは、赤貧の中書き続けたものの、時間(つまり寄る年波)と積み重なる失敗の波状攻撃に、ついに、気持ちが「折れた」人が「正業」に就きながら、作品を書き続けることなど、ほとんどできないと思います。

 先の見えない中で、自分だけを信じて赤貧に耐え、作品を書き続ける辛さは、経験しないとわからないものです。

 まあ、しかし、考えてみれば、こんなことは、普通の人たちには関係ないことですね。

 好きで「自分を信じ」、「自分に賭け」て、ダメだったんですから、他人が気に掛けることでもない。

 案外、本人たちは楽しいんですよ。血は流れてますがね。

 「運」「時代とのマッチング」最後に「わずかな才能」が揃わないと、世に出るのは難しいものなんですから。

 というのが、ひとつ目です。

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 二つめが、ヘンリー・ダーガー(1982-1973)です。

 ご存じでしょうか。

 彼は、おそらく世界一有名で無名な作家(クリエイター?)です。

 これについては、映画(ドキュメント)「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)を観てもらえればすぐにわかるのですが、カンタンに映画のコピーを引用しておくと、

「病院の掃除夫で貧しい老人、と誰もが関心を示さず、大家や隣人以外ほとんど接触をもたなかった独居の男性が81才で亡くなった。
 部屋を片付けようとした大家夫人は、おびただしい数量の絵画や執筆物を発見し驚嘆する。孤高のヘンリー・ダーガーの生涯と、その作品を隣人のインタビューを交え、紹介するドキュメンタリー。
 専門教育を受けず、公開する意思なく制作された作品群が、様々な研究対象となり注目されるヘンリー・ダーガー。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン-20世紀美術とアウトサイダー・アート」展で初公開され、緻密で独特な世界観と、絵巻状の絵画の鮮やかな色彩感覚などが大きな反響を呼んだ」

 彼は、いったい何を信じていたのでしょうか?

「信じる力」はあったのでしょうか?

 上記の「公開する意思なく制作された作品群」というのがなんだか恐ろしいですね。

 死後に残されたのが、「おびただしい作品群」ではなく、日本でよくあるように「大金」であれば、これほど考えさせられることはなかったのですが……

 機会があれば、この映画

「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)

 監督            ジェシカ・ユー
 音楽            ジェフ・ピエール
 ナレーション       ラリー・パイン
                ダコタ・ファニング

をご覧になってください。

 現在も、多くの研究者が、彼を研究し続けています。

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2010年6月17日 (木)

結末が分かっている哀しさ クローンウォーズ

 始めは、「あまり怖くねーなー パラノーマル・アクティビティ」というタイトルで書こうと思っていたのですが、どうも悪口になってしまいそうなので、というか、もうタイトルで褒めてないのは丸わかりなのですが、それは次にまわすとして、今回は「スターウォーズ・クローンウォーズ」について書くことにします。

 この作品については、以前、本ブログで書いたことがあります。

 現在、シーズン2がNHKハイビジョンで放送されているところです。

 実写映画版のキャラクタをもとに極端にデフォルメされたCGには好悪が別れるところだと思いますが、絵柄を気にせずに観ると、これがなかなか良い作品なのです。

 実を申せば、わたしはスターウォーズ・シリーズが好きではありませんでした。

 最初の三部作(いわゆるエピソード4-6)は、映画館で観るどころか、つい最近まで内容は知っていても、どれひとつとして最後まで通して観たことなどありませんでした。

 エピソード1(ファントム・メナス)は、CGの出来が知りたくて、レンタルして観たのですが、あのジャージャーとかいう馬みたいな顔をしたイキモノがクド過ぎて、すっかり辟易(へきえき)してしまいましたしね。

 そのあと、これもデフォルメされまくった、五分だった十分だったかのショートアニメ版スターウォーズ(タイトルはたしか「クローン大戦」)を、どこかで放送していたのを見かけたのですが、駄作でした。

 しかし、今回のCG版クローンウオーズは違います。

 なんといっても、後のダース・ベーダー、アナキン・スカイウォーカーの言動が良い。
 彼と彼の師であるオビ=ワン・ケノービの洒脱(しゃだつ)な関係も……

 おかげで、今さらながら映画「エピソード2,3」を続けて観てしまいました。

 そして、物語の結末を観て、ふたりが命をかけた殺し合いをすることを知ってしまっただけに、クローン大戦における絶大な信頼関係、丁々発止のやりとりが、なおさら見ていて楽しく悲しくなってしまいました。

 ケノービとアナキンの師弟関係が、そのままアナキンと彼の弟子=女性パダ・ワンのアソータ・カノとの関係にオーバーラップされるという演出もニクい限りです。

 主人公アナキン・スカイウォーカーは、オビワンには兄弟子(同時に師匠)として尊敬と信頼、そして彼に認めてもらいたい故(そして多分に持って生まれた性格から)の無謀さを示しながら、同時に自分のパダ・ワン(弟子)であるアソータには、大いなる愛情と信頼と大らかさを持って接しているのです。

 アナキンが勇敢であればあるほど、共和国に誠実であればあるほど、そして自分の師匠と弟子に愛情の無垢さを示すほど、観ているのが辛くなる。

 有り体にいえば、映画のアナキンは役者の個性もあって、それほど魅力的ではありませんでした。

 いや、今は、演出が悪かった、といっておきましょう。

 しかし、クローンウォーズは違います。

「これほど勇敢で立派で高潔な英雄が、なぜ?」

 と思わせるエピソードがテンコモリなんですね。

 このCGシリーズには、もうひとり(もう一種類?)主人公がいます。

 タイトルにあるクローンたちです。

 だいたいね、おかしいと思うでしょう?

 古い時代のエピソード1-3では、最新型のロボットが、どんどん兵士として登場しているのに、時代の下ったエピソード4-6では、出てくるロボットは、どう見てもキグルミのC3POとドラム缶型のR2D2だけ、白い鎧を着た人間兵士たちが主戦力として出てくるんですから。

 そりゃ、映画の制作された時代を考えれば当たり前なんですが、「世界観としてはおかしい。整合つけろ!」と思っていたら、見事に整合させてしまったんですね。

 あの白いヨロイを着ていた兵士たちは、全部同じ顔をしたクローン兵だったんですから。

 やられたなぁ。

 エピソード1-3そしてクローンウォーズで描かれるロボットは、そのほとんどが、歯に衣着せず言えば「低脳」です。

 バカばっかり。

 返事も「ラジャラジャ」ですしね。

 聴いていてカンに触る。

 それに反して、高名なバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)の遺伝子から作られたクローン兵士たちは、全員が知的で勇敢です(そして同じ体格と同じ顔をしている!)。

 スターウォーズをご存じの方なら周知のごとく、勇敢で誠実な彼らも、最後は生み出された時から仕込まれていた「コントロール暗示」によって、共和国とジェダイ・ナイツを裏切り、帝国の兵士になってしまいます。

 そのため、アナキンと同じく、彼らの活躍は観ていて悲しくなる。

 しかし、CGクローンウォーズでは、まだ彼らは裏切っていません。

 誠実で勇敢、皆が同じクローンであることを誇りに思いながらも、個性を出すために、髪を金髪に染め、入れ墨をし、話し方を変える。

 これまでに、何度となく「無目的に戦う空しさ」を指摘するエピソードが積み重ねられ、彼らだけでなく、観ているわたしたちでさえ、クローンたちを無理矢理戦わせている共和国が悪いんじゃないの、と思えるようになりました(まあ、もともとクローン兵を作ったのは、ジェダイの敵、シスだったわけですが)。

 時に、自らの「戦うためだけに生まれた命」を疑問に思って軍を脱走し、辺境惑星で家庭を持つクローンも出てきます。

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 あるいは、帝国に通じる者も。

 こういった、細かいクローン兵士についてのエピソードを、織物でも織るように重厚に積み重ねながら、全100話を目指してシリーズは進んでいます。

 ああ、今、気づきました。

 スターウォーズとは、誠実で勇敢、高潔であった一人のジェダイと数万(数十万?)のクローン兵たちが、心ならずも「変節」してしまう哀しさを描いた物語だったのですね。

 もっとも、クローンウォーズでは、まだアナキンもクローン兵たちも、素晴らしいサムライ=ジェダイであり、誠実な兵士として描かれています。

 というより、後の悲劇を盛り上げるために、ことさら彼らの素晴らしい人格を描いているのが「クローンウォーズ」なのでしょう。

 手法としては、少々「あざとさ」を感じますが、それを忘れてストーリーだけを観れば、本当に、高潔な人々の戦いを、すっきりと楽しめる良いシリーズだと思います。

 機会があれば、デフォルメされた画を気にせずにご覧ください。

 

 

「高潔なジェダイと兵士たちは、最後にどうなるの?」

「変節し、裏切ってしまうんだ」

「じゃ、ぼくたちは」

「なに?」

「変わってしまう?」

「それはわからない」

「では、ぼくたち、最後はどうなるの?」

「それなら分かる」

「どうなるの?」

「みんな死ぬ」

「なんだ。結末だけは、わかってるんだ」

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2010年6月14日 (月)

何でもかんでも代理人 映画「サロゲート」

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 映画「サロゲート」を観ました。

 ブルース・ウィリス主演の映画です。

 まったく何の前知識もなく、サロゲートって、あの人工授精のサロゲート・マザー(代理母)のこと……にしては、男臭さが売り物?のブルース・ウィリスにはそぐわないなぁ、と考えていましたが、やはり内容はそんなソフトなものではありませんでした。

 昨夜、友人に「ブルース・ウィリスが好きだなぁ」と指摘されましたが、いわれてみれば、彼主演の映画は、ほとんど観ていますね。

 おそらく、いわゆる「ハリウッド・システム」に組み込まれた「自分自身の役どころ」「世間が彼に要求している役回り」を、彼と彼のエージェント(サロゲートではなく!)がよく理解して、オファーされる映画の脚本を良く読んで出演映画を決めているから、結果的に、だいたい、わたし好みの作品に出演することになるわけです。

 もちろん、人気者だからこそ脚本は選べるわけですが、これを出演料の多寡(たか)と「自分の役回りを変えてみたい」「自分のイメージを変えてみたい」などといった野心で出演作を決めてしまうと、作品によって毎回当たり外れのある役者になってしまうわけです。

 まあ、彼にしても、一時期いわれたように、泣き虫オスメントと共演した「あの作品」以降、方向性を変え、しばらく陰気なハナシに多く出演するようになってしまいました(今回の作品もちょっと陰気です)が、個人的には、まだ体の動く彼が、むちゃくちゃな脚本と演出(監督リュック・ベッソンは、天下御免のSF好きのSF知らず:16才の時に考えたハナシだそうだから無理もないけれど)ながら元気に走り回っていた「フィフス・エレメント」が好きです。

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 彼以外で好きなのは、ピーター・ウェラーとサム・ニールですね。

 特に、ピーター・ウェラーはいい!
 自分の個性(落花生型の顔かたちと猿顔)をよくわかっていて?、SF(ロボコップ)、パニックモノ(リヴァイアサン、スクリーマーズ)、不条理モノ(裸のランチ)など、出演作にも、ほとんどハズレがありません。

 まあ、テレビシリーズ「オデッセイ・ファイブ」だけは、かなりハズしていましたが……

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 いや、あれにしても、近未来において、スペースシャトルから地球が破裂する光景をみた後、「大いなる意思」によって息子と共に過去に戻された彼が、世界を救うために一身をなげうって大活躍していたのに、物語後半で、最愛の妻(未来世界を知らないために、息子と夫の行動をいつも不審に思っていた)が殺されたとたん、

「俺はもうやめた、お前ら勝手に世界を救え。もう知るか!」

と、世界を投げ出すという、歴史上始まって以来の無責任さをもつヒーローを演じた功績はあります。

 あれは面白かったなぁ。

 今まで全くやる気がなく、女性の尻ばかり追いかけていた息子が、「父さん、世界を救うんじゃないの?一緒に戦おうよ」なんて、突然、責任感に目覚めてね。

「うるさい!救いたいならお前が救え。」

 息子に向かって、そう叫ぶピーター・ウェラーの大人げなさは最高でした。

 なのに設定が面白くなかった。

 いったいは彼は、どうしたんだろう。

 あれ以来、ぱっとしないし。

 ああ、オデッセイ~については、前に書いたことがありました。

 それはともかく、今回は「サロゲート」です。

 レンタル店で、

「この男は、いったい何度世界を救うのか?」

ってなキャッチコピーが書かれていて笑ってしまったのですが、確かに、ある街を救ったり「アメリカ本国」を救う映画は結構ありますが、「明確」に、地球全体あるいは全世界を救う映画は、メジャー配給のものではあまりありませんね。

 凶暴な悪魔を退治して、結局世界を救いました、というハナシなら結構ありますが、そうじゃなくて、60億の人間を救いました、というような「明確な」ハナシはそう多くない。

 本作の主役であるブルース・ウィリス(アルマゲドンやフィフス・エレメント)以外では、ネイキッド&ソリッド・スネークぐらいです(こっちはゲームですが)。

 実際、今回も、彼は数十億単位で人類を救おうとします。

 あ、ある程度ネタバレが入っていますので、後でレンタルして観てみようと思っている方は、これ以降お読みにならないようお願いします。

 と、イッピツ入れたところで、内容に入りましょう。

 サロゲート、つまり代理人ということです。

 設定は、近未来ということですが、どことなくパラレルワールドっぽい世界のはなしです。

 そこでは、人々は部屋にいて、遠隔操作するロボット=サロゲートで、すべての用事を行っています。

 サロゲート・システムを開発したキャンター博士役が、例によってジェームズ・クロムウェルなのが面白いですね。

 「ベイブ」のオヤジ、いや「スタートレック:ファーストコンタクト」のゼフラム・コクレーン(トレック史ではワープを発明する重要な人物)、「アイ・ロボット」のアルフレッド・ラニング博士など、印象的な科学者役の多い役者です。

 車いすで生活する彼が、その不自由さから、自身の身代わり(=サロゲート)ロボットを作ったことから世界が変わり始め、映画開始時点では、世界の98パーセントが、自分の肉体は家の中で安全に寝ころんだまま、サロゲートで世界を闊歩(かっぽ)しています。

 面白いのは、公然と「ネカマ」が存在することですね。

 男なのに、女のサロゲートを使って(あるいはその逆)生活する。

 映画中では、性同一障害などの問題で、法的にも許可されている感じはありますが、このあたりの設定が面白い。

 外を出歩くサロゲートは容姿端麗な女性、でも、それを操る持ち主(オペレーター)は、運動不足で、ブクブク太ったオヤジなんてことが往々にしてあるわけです。

 当然ながら、この「サロゲート化」に反対するグループも存在し、世界各地に「サロゲートお断り」「ビバ(古いねぇ)生身!」の看板を掲げた「生身地区」を作って生活しています。

 これが後に、重要な伏線となる。

 サロゲートの存在意義のひとつは、「何が起ころうとオペレーターは安全」ということです。

 交通事故にあおうと、生身の方はかすり傷も受けない。

 イザとなれば、(個体差はあるのでしょうが)生身では考えられない跳躍やダッシュを見せることもできる。

……ハズだったのが、映画の冒頭で、キャンター博士の子供がサロゲート越しに殺されるという事件が起きてしまいます。

 サロゲートに受けた攻撃が、ネットを通じて生身のオペレーターに伝わり、脳が焼かれて死んでしまうんですね。

 その姿は、攻殻機動隊における防火障壁に触れたハッカーの姿に似ています。

 返事がないから、部屋に行ってみると、ネットにつながったまま死体になっている、という。

 あるいは、オリジナル版「怪奇大作戦」のエピソードのひとつ、電話をとった途端に発火して死んでしまうというアレのイメージも重なります。

 おそらく、人は誰しも、安全だと思っている場所で、離れた場所から受ける攻撃によって突然死することを恐れるため、何度もそれがテーマになっているのでしょう。

 キャンター博士の(息子の)サロゲートは、大物だけに未登録だったため、一緒に殺されたブロンド女性の部屋へ二人組の刑事が向かいます。

 この時の、刑事を先導する女性警官が、アイ・ロボット似で、妙に安っぽいロボット風なのが良いですね。

 彼女は、マスターキーで被害者宅の扉を開けようとするけれど、うまく扱えない。

「すみません、自分のサロゲートは修理中で、代車?が、こんな安物だったんです」

 なるほど、車みたいなモノなんですね。

 こういった、細かい設定が面白い映画です。

 考えてみると、警官こそは、こういった代理ロボットが行うべき職業なのでしょう。

 男女の性別を問わず、危険な場所に出かけられますしね。

 で、二人組の刑事のうちの一人が……あ、髪の毛の生えたブルースや。

 しかも、妙にテラテラと整ったツクリモノくさい顔のブルースです。

 もちろん、彼もサロゲートです。

 家では、ハゲた彼がベッドに横たわってサロゲートをオペレートしています。

 その後のストーリーは、ある意味おさだまり。

 彼は、ヤリスギ捜査を行い、停職となり、でも個人的に捜査を続け……真相にたどりつきます。

 そして、数十億の人間を救い、破滅させる。

 詳しくは映画をご覧ください。

 作中、彼は交通事故で息子を失い、その際に顔に傷を受けた妻はサロゲート以外では外にでられなくなっています。

 そして、そのことが、後半の彼のガンバリを生み、最後の決断を誘導することになる。

 うまい脚本です。

 それほど長くない映画ですから、ちょっと暇な時にご覧になっても良いかと思います。

 蛇足ながら、この作品で、なにより興味深かったのは、ドラマの最後に入るニュース映像で、

「ロンドン、パリ、北京でも同様の現象が起きています」

と、放送されていることでした。

 今までなら、北京のかわりにTOKYOが入っていたのですがねぇ。

 映画のオープニングで、日本が世界に誇る「そっくしロボット制作学者」ヒロシ・イシグロ氏がちょこっとだけ写ります。

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ハイてくのろじ……なのか

 こんなことは、ブログではなくツイッターで呟いた方がよいのでしょうが……

 「ナノイー」って、「まいうー」に似てる、と思いませんか?

 ナノイー。

 たしか正式な科学用語ではなく、パナソニックの登録「商標」だったと記憶していますが……クラスター・イオンのようなものなのでしょうか。

 前に、エセ科学に気をつけろ、というハナシで、「クラスター」という単語が出てきたらマユにツバしろ、という意見があることを書いたような気がしますが、ナノイーはどうなのでしょう。

 それはともかく、どうも我々は「四文字で最後は伸ばす」単語に気が惹かれるようです。

 「アラサー」とか「アラフォー」、「オロシー」(中学時代の友人がオロナミンCを略してそう呼んでいました)、「ゴロゴー」(野球好きな方ならご存じですね)など。

 勝手につくってしまうと、不思議なできごとなら「マカフー」(摩訶不思議)とか。
 背中をかいてもらう時には「ソコイー」。

 八分・八分・四分音符というナラビが、心地よいのかも?

 だって、アラフィフティーって、もひとつ魅力に欠ける言葉でしょう?

 個人的には、タッタカとか、タタッカ、とスタッカート気味な音も好きです。

 それで思い出しました。

 音楽をやっていると、読譜ができないことを気にする人が、随分多いことに気づかされます。

 歌はうまいのに、読譜ができないから恥ずかしい、とかね。

 本当は、譜面が読めるより歌が上手いほうが遙かに幸運なことなんですがねぇ。

 残念ながら、歌はかなり持って生まれた能力、肉体に依存(いそん)します。

 脳と声帯、肺活量など。

 その点、勉強すればわかる読譜とは違う。

 しかしながら、「楽譜なんか読めなくても、曲と歌詞を覚えてうまく歌えることが肝要です」、といってもなかなか納得してもらえません。

 まあ、わたしも、子供の頃からヴァイオリンを習い……なんて結構な家に生まれなかったので、複雑な楽譜になるとわからなくなるのですが、だいたいの読譜をするだけなら、ちょっとだけ秘訣があります。

 それは、連桁された音符(つまり2つ3つ横棒でつながれた音符。八分と十六分などの音符の組み合わせでいくつかパターンがありますね)、上で書いた、タッカだのタタッカだの、のパターンを覚えて自分で叩けるようにすることです。

 そうすると、かなり自分で楽譜を読むのがラクになるのですね。

 慣れてくれば、休符と音符の組み合わせも覚えるようにすると、さらに読みやすくなります。

 要は、すべての音符の流れを一度に理解しようとせず、小さなリズムのブロックごとにパターンを覚えることが、オトナになってからの、読譜の第一歩だということですね。

 あれ、ナノイー=マイウーから、変な方向にハナシがそれてしまいました。

 まあ、ハヤリ言葉にも言葉のリズムが必要なのでしょう。

 それこそが、人を惹きつけるための「ハイてくのろじ」なのでしょうから。

 その点で、3Dテレビのネーミングはまだまだの感がありますね。

 というか、どこの社もまだ「スリーディー」としか呼んでいない。

 せめてドイツ語で「ドライ ディメンズィオーン」って、あまり意味ないかな。

 ああ、いま気が付きましたが「次元」って女性名詞なんですね。

 なんとなく納得してしまうのは、わたしがステレオタイプの女性観にしばられているからなのだろうかなぁ?

 いずれにせよ、各社共に3Dに力をいれようとしているのだから、ここんトコロにコピーライターのプロとしての意地を見たいものですね。

 かつて某社がレコーダーにつけた「怪禄ルパン」なんてのは、カンベンしてもらうとして……

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2010年6月 9日 (水)

恋人たちの爽やかな曲 「恋人の美ヶ原」

 わたしの本業である、音楽工房のお客様に身体障害者の方がおられます。

 重度の障害者で、目はほとんど見えず、耳も難聴、歩くことどころか立つこともできず、話すのも不自由、腕も痺れて文字も書けないという、わたしのような体だけは丈夫な者には想像もできない人生を送られている方ですが、これまでに、何曲も自作曲を作っておられるのです。

 長野県在住の方なので、何度か長野に出かけてお会いしたこともあります。

 その方が作られる歌詞は、いつも、どんな時でも、甘い、優しい恋人たちの歌なのですね。

 今回、ご紹介する「恋人の美ヶ原(うつくしがはら)」は、その方から、テーマをいただいて、わたしが作った詩です。

 わたしは理屈っぽい性格のためか、どうしても詩がリクツっぽくなってしまうのですが、この時は、その方の気持ちが伝わったのか、めずらしく柔らかい詩になりました。

 メロディ・ラインも美しく、個人的には大好きな曲です。

                           

              
                    「恋人の美ヶ原」
             作詞 晩 蔵仁 編・作曲・歌 當麻晴英

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近頃の流行歌(はやりうた)

 仕事がら作詞をすることもあるのですが、最近の歌の歌詞はほとんど知りません。

 というか、音楽の仕事にたずさわっていながら、最近の流行歌を(曲、詞とも)ほとんど知らないのです。

 まあ、実際に楽曲を作っているのは、わたしではありませんし、歌詞も添削依頼が多いので別に問題はないのですが、おそらく、わたしが最近の曲に興味を持てないのには理由がふたつあります。


 まず曲についてですが、これはもう、ひと言でいえば、盗用だらけなので聞くのが嫌になっているのですね。

 以前、このブログで「小説作法」について書いたことがありますが、小説を書こうと思ったら、まずたくさんの既存の小説を読むことが大切です。

 なぜなら、知らずに、あるいはずっと前にどこかで読んだ話、聞いた話をオリジナルだと思って作ってしまうことがあるからです。

 インスパイアされたいがために読むのではなく、モノマネだといわれない為にこそ読む。

 これは「趣味でなくプロとしてモノを書く最低限のマナー」であるとわたしは思います。


 もちろん、同工異曲(どうこういきょく)の作品を「日の下に新しきモノなし」と居直って、ちょっとだけシチュエーションを変えて書くというスタイルもアリでしょう。

 実際、そんな著名作家もかなり多い。

 編集者や同業の作家にいわせれば、自分自身の作風のコピー、つまり自己模倣(じこもほう)は、そこまでその作品を育てあげた編集者と作家のご祝儀(しゅうぎ)だから、構わない、という意見もあるようですが……

 個人的にはそんなヤカラは軽蔑しますがね。


 音楽にも同様のことがいえる、というより、音楽の方が知らずにモノマネする可能性が高いと思うのです。

 だからこそ、作曲者は多くの曲を聴くべきです。

 あるいは、色々な人に聴いてもらってチェックするべきです。

 ご存じのように、クラシックの多くは著作権が消失しているために自由に使えます。

 だからといって、まるっきり真似をしておいて、作曲に自分の名前をだすことは、プライドがあれば普通はできない、と思うのですが、案外、皆やってますね。

 アニメ「巌窟王」(アニメとしては好きな作品です)では、ショパンの「別れの曲」をまるまる使っていながら、どこかの外国人が作曲者として自分の名前を使っていました。

 あれは恥ずかしかったなぁ!


 余談ながら、アメリカのジャーナリズムには、2ドル・ルール(最近では1ドル・ルールらしいですが)という、暗黙のルールがあります。

 取材対象(あるいは非難しようとする相手)から受け取ることができる金額の上限のことですね。

 この場合の「金」とは、取材のさいに珈琲をおごってもらったりすることを指します。
 1ドル・ルールはもちろん、2ドル・ルールでさえ、スターバックス(アメリカにおける)のレギュラー・コーヒーはOKだが、ラテはダメという厳しさです。
 これから考えると、前与党から何十万も受け取っていたといわれる日本の著名評論家およびマスコミは、アメリカから見てもイカガナモノカ、ということになりますね。

 一方、音楽の世界では「2小節ルール」という暗黙の了解が存在するのです。

 これは、いわゆる音楽業界ではかなり常識化されていますが、「2小節」が盗用して良い上限なんですね。

 もちろん、厳密にいえば「絶対真似しちゃだめ」なんですが、一応、目こぼしというのがあるわけです。

 それが2小節。

 もちろん、「盗」んで「用」いるなんてしない方が良いし、たとえ見逃してもらったとしても、それ以上真似しないために作曲家は色々な曲を聴くべきなのです。


 その点からみると、最近の(自称)シンガー・ソングライターたちの多くは、カントリー・ソングやフォーク、ロックの黎明期の知識に乏しすぎるように思えます。

 だって、何年か前に二流のシンガーが60年代の名作を流用して作った曲の、サビの部分だけを盗んで曲を作っている売れっ子シンガー、なんてのがいるわけですから。


 旧知の曲に「即物的ありきたりのイメージ歌詞」(以下で書きます)を当てはめた曲など聴いていたら頭が痛くなってくる。


 皆さんも、最近の曲で「あれ?これってアレじゃないの?」なんて思ったことはありませんか?


 まあ、クラシックなどでも、才能につまった作曲家が、東欧やアジアに旅行して現地の「民謡」を聴き取って、自作の曲として発表したりしていますから、曲の盗作は世の常、ということかもしれません。

 昔のことですから、わざわざその地域まで出かけて「音をサンプリングしてきた」という意味で別に問題はなかったようですし、さすがに「丸ごと盗用」をしている人はいませんからプライドはあったのでしょう。

 というわけで、曲の次は、近年のシンガー・ソングライターの歌詞についてです。


 こっちが、この項の本論です。


 日本語の歌の歌詞なんてカンタンですよ。

 だって、日本語で育って、日本語で会話して生活しているんだから、歌詞ぐらいカンタンにつくれる……と、思う人もいるでしょうが、イザ作るとなると「斬新で印象的な歌詞」を書くのは、文章書きと同じくらい難しいものだと気づかされます。

 私見で断定しますが、詩人は特殊な人間にしかなれません。

 コトバを大切にし、あの有名なたとえ話、

「詩人の作業は、浜辺で拾ったコインを砂でこすって光らせる行為に似ている。新しく言葉を作るのではなく、今ある言葉に違う光をあて、新しい輝きをもたせるのだ」

で表されるように、言葉に対する「鋭敏なセンス」「過剰な思い入れ」「言葉の知識」そして「軽い諦め(言葉で伝わらない事が多いことも知って)」を、ない交ぜにして持っている人間でないと、詩人あるいは歌人にはなれないのです。

 もちろんわたしも詩人ではありません。
 七転八倒しながら、文字と格闘しているだけです。

 「何らかの自分のメッセージを歌詞にのせて伝えたい」と、若者が思うのは良いことですが、早くに自分にその才があるかどうかを見極めて、歌詞は「書ける人」に任せるべきです。

「人は誰でも一作ぐらいは名作小説を書くことができる」とはよくいわれることですが、同様に、
「人は誰でも、一曲ぐらいは良い曲、歌詞をつくることができる」
でしょう。

 しかし、何曲もの歌詞を作り続けるのは、おそらくよほどの才に恵まれないかぎり無理なのですから。

 なぜ、こんなことを長々と書いているかというと、先日、「女脳と男脳」の項で書いた斉藤 環氏が、同じ文章で、以下のように書いているのを読んだからです。


『喜怒哀楽にまつわる最近の傾向として、感情表現が非常にわかりやすいかたちになってきていることが挙げられます。例えば「泣ける」というキーワードを掲げる映画や小説など、平板でわかりやすい、つまりベタな表現が増えていますし、音楽にしても、かつては複雑な心理を歌に託して、聴く側もそれを解釈する楽しみを感じていたのが、最近では「生まれたことに感謝」「出会えた奇跡」など、非常にシンプルな歌詞が溢れている。これは、「複雑な感情表現をすると相手に受け取ってもらえない、そっぽを向かれてしまう」というおそれ、強迫観念の表れです。携帯小説はまさにその象徴ですね』 

 これには、目からウロコが落ちました。

 まあ、強迫観念ウンヌンは、イカニモ現場の精神科医がこじつけそうな意見だとは思いますが……


 氏は、最近の傾向として「ベタ」で「シンプル」な歌詞が多い、と書いていますが、それがなぜなのかについて、正確に言及してはいません(強迫観念ウンヌンはコジツケですから無視するとして)。


 これについて、少し補足しようと思います。


 某放送協会の番組で、各界の著名人が自分の母校(小学校)を訪ねて、特別講義をする、というものがあります。

 先日、それに歌手の石川さゆり氏が出演され、母校である九州の小学校に行って、彼女の人生を変えた名曲「津軽海峡冬景色」を子供たちに理解してもらおうと、2日にわたり授業をされたのですが……

 その時の子供たちの反応が興味深かった(石川氏の言葉も)。


「津軽~」からどんなストーリーを想像できるか、という彼女の問いに、出るわ出るわ、主人公の女性のフルネームから、不倫相手の男声の名前、果ては北海道の出身地名まで、細かいスペックがぎっちりと模造紙に書き込まれ、子供たちによって発表されます。

 しかし、石川氏の表情は冴えない。

「なんだか、本当の悲しみを分かっていないなぁ。想像力は豊かだけども……」

 そういって、彼女は子供たちに「引っ越しをしたことのある人は?」と尋ね、手を上げた少年、少女に「辛くなかった?寂しくなかった?」と尋ねたのです。

 もちろん、子供たちは「寂しかった。辛かった」と答えます。でも、それだけ。

 石川氏は呟きます。

 人間、生きていたら「津軽海峡冬景色」に、もっと多くの悲しみや色々な感情を感じ取ることができるはずなのになぁ……

 その気持ち、痛いほどわたしにはわかりました。

 が、同時に、子供たちにそれを望むのは無理ということもわかった。

 個人的に、「子供は幼い大人ではなく、子供という別なイキモノ」なんぞという、教育心理だったか教育原理だったかで習ったような考え(同級生でほとんどとる者はいませんでしたが、わたしは授業料のモトをとりたくて教職もとったのです)は、マユツバだと思っています。

 子供は大人と同じイキモノです。

 しかし、決定的に「経験値」と「情報量」が大人とは違う(まして小学生ではね)。

 ライトノベル、携帯小説、コミック、アニメなど、さまざまなエンターティンメントのソースによって、今の子供たちの頭の中にはストーリーが渦巻いています。

 しかし、実際に胸が引き裂かれるような悲しみと辛さ、血を吐くような絶望の叫びは、「ナルト」を読むだけでは、理解はできても実感はできないのです

 有り体(ありてい)にいえば、物語を詩にして、そこから気持ちを読み取れ、と、小学生に望むのは、ほとんど無理です!

 彼らには、斉藤氏が上で書いているように、「胸が痛いほどの悲しみ」だとか、「涙が止まらない」だとか「ご飯が欲しくないヨー」だとかの、即物的な表現でないと、理解が及ばないのですよ、まだね。

 分かるまでには、あと少し時間がかかる。

 いや、中には、子供程度の経験しか持たず、体だけが大きくなった人もいるでしょう。

 案外、そんな人が多いかもしれない。

 ふた昔前、消費ターゲットは15(イチゴ)世代を狙え、といわれました。十五才前後の、案外カネを持っている子供たち、ということですね。

 その後は、年金ぐらしでも結構資金に余裕のある老人世代と、彼らからカネを引き出す能力に長けた小学生たちが購買層としてターゲットにされています。

 流行歌は売れなければ商業的にはなりたちません。

 だから、どうしても最近の歌詞は、小学生にもわかる(斉藤氏のいうシンプルな)歌詞になってしまうのです。

 詩を作っている人たちが、ターゲット世代と同レベルだとは思いませんが、わたしには物足りない、というか、タイクツなものが多いのですね。


 最近では、老人たちの好きな演歌も、同様の思考の硬直化におちいって、ぱっとしないステレオタイプなものばかりではありますが、流行歌のほうが、感覚的(これを女性脳的というとマズイのでしょうが)な歌詞が多く、硬直化しているように思えるのです。

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2010年6月 5日 (土)

書くこと・読むこと・観ること

 しばらく前に「勝間氏-ひろゆき氏対談」に絡めて堀江貴文氏のブログの話を書きました(「パイドパイパーに気をつけろ」)。

 その中で、その時のテーマとは関係なく堀江氏が、

「youtubeで対談を観てもいいけれど、誰かが文字に起こしてくれていたものがあるので、それを読んでみた。動画と違って文字は、順番に観る必要がないし、ざっと目を通せるので便利だ。これからが文字の時代だろう」

と、書いていました。

 まあ、100%正確ではありませんが、そのようなことを書いたのですね。

 すると、(これもテーマとは関係ないのに)それに対してかなり感情的になったコメントがいくつか書き込まれたのです。

 曰(いわ)く、

「文字はいちいち読まなければダメだが、映像なら誰でも観ることができて分かることができるから、文字の時代になどなりはしない」

「動画の方が情報量が多くて、得るところが多いので、これからは動画の時代になるはず」

なんてね。

 これについては、色々な解釈があると思います。

 活字偏重(へんちょう)・マンガ嫌いで、世の活字離れを歎く人々にとって(以前はともかく最近では少ないでしょうが)は、堀江氏の意見は「我が意を得たり、その通りだ。やっぱりヒトは活字を使わないと頭が悪くなってしまう」と快哉(かいさい)を叫ぶでしょうし、反対に、「文字を読むのは苦手だから、やっぱり動画がいい。Youtubeでも、飛ばし観は可能だから問題ないし」と考える方もいるでしょうから。

 前後の文脈から、堀江氏は、単に「自分のように忙しく、活字も使える人間にとっては、文字ベースの情報の方が短時間で的確に利用できる」といいたかっただけのように思えますが、わたしが驚いたのは、それを目にした人の過剰なほどの反応ぶりでした。

 個人的には、文字ベースで読んだ方が速く理解できると思いますが、その時の問題は、映像を文字にする時に、筆者による「意味の追加とそぎ落とし」が行われている可能性があることです。

 ちょっとした視線の動きや、口調、相手の言葉に合わせるタイミングなどで、同じ単語を使っていても、まったく逆の意味になってしまう。

 もっとも、最近の、偏向報道著しいマスコミでもよく使われているように、わざと人を悪く見せるアングルの動画や映りの悪い写真を使った人物紹介もあるので、映像だから安心というわけにはいきませんがね。

 このブログでも、何度か書いていますが、文字ベースの情報の良い点は、ウマイ表現や使いやすい単語などを覚えて、自分の言葉や文章に、簡単に再利用できるということです。

 色々な言い回しと単語を増やせば、自分の表現力も増していく。

 イラストや漫画、動画を通じて何かを得ても、絵の上手い人でないと、それを使って、他人へ情報を伝えることは難しいでしょう。

 まあ、これから「光の道」が整備され、ネット環境がさらに整い、動画であろうと画像であろうと、簡単に切り貼りしてマルチメディア・コンテンツが容易に制作できるようになるか……あるいは、言葉で指示するだけでCGアニメを簡単に作ることができるようになれば、情報のやりとりを動画メインで行うこともあるでしょう。

 もしかしたら、実際に会って、面と向かって話をする時も、お互いにディスプレイを見せながら、CGアニメーションで意思の疎通をはかるようになるかもしれないですね。

 今も、目の前にいる相手と直接話すより、背中を向けて携帯電話メールで意思伝達した方がラク、という子供たちは存在するわけですから。

 その意味で、先日発売されたipadなどは、今後の進化次第では、危ないといえば危ないツールになり得ます。

 そう遠くない未来、ipadなどの「動画カンタン作成・表示可能」なコミュニケーション・ボードが、突然、会社で故障してしまい、意思疎通できなくなった人が「一時的失語症」と診断されて、家に帰される、なんてこともあるかもしれませんから。

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2010年6月 4日 (金)

人の美しさ、哀しさ、醜さ

人の美しさとは、変節しないこと

 人の哀しさとは、変節した自分を許せないこと

  人の醜さとは、変節したことを無視し、
         過去をなかったものとして平然としていること

 個人的に、いつも自戒している言葉です。

 自分の全作品を貫くテーマでもあります。

 あらためて、こんなことを思い、書かずもがなのことを書いてしまったのは、久しぶりに米テレビ映画「HEROES」を観てしまったからです。

 この作品が行っている、「視聴者を驚かすためだけ」に「聖域をもうけず誰彼なく変節させる手法」は個人的には最低だと思っています。

 まあ、つらつらと世間を見渡せば、変節するヤカラばかりが目につきますが。

p.s.
 上の言葉には、実は4つめがあります。

 誤解を招きそうなので書かなかったのですが……

 最初の3つが「完全に腹に入った状態」で、以下の文に続きます。

 最後に、

  人の愚かさとは、変節できないこと

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2010年6月 1日 (火)

女脳と男脳

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 SF作家の故星新一氏の作品に「進化した猿たち」というものがあります。

 進化した猿、つまりは人類=われわれということですが、その内容は、氏が興味を持って蒐集(しゅうしゅう)したアメリカひとコマ漫画の紹介と、それについての氏のコメントです。
 日本史の教科書などでも、風刺漫画家ビゴーの絵などがよく載っていますが、あれよりはトホホ感のある内容ですね。

 その中で、氏は以下のように述べています。

「アメリカ漫画において、一、二を争う大きな分野は、病院や医者を扱ったものであろう。アンロソジーが何冊もでている。それをさらに細かく分類すると、眼科、歯科、手術、入院、出産などにわかれ、いずれもかなりの量である。(中略)私は以前からこの漫画に興味を持ち、収集した量は孤島ものについでいる。(中略)それと、わが国にはほとんど存在しないことへの興味である。わが国では、人は無形のものに金を払いたがらず、そのために分析医が商売として成り立たない……」

 もとは1965年の「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に連載されたものなので、半世紀前の日米事情です。

 それから50年を経て、鬱などもふえ、日本人も、徐々に精神科医とのつきあいが活発になって来ました。
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個人的には、もともと日本には相当数の精神疾患患者がいて、それが放置され隠蔽された結果、表にでてこなかっただけだと考えています。
 江戸、明治大正期においては、知恵遅れの子供が風邪にかかって若くして亡くなったり、自殺したり、金持ちなら座敷牢に入れられたりしてね。だから、最近になって、精神疾患が、極端に増えたのではないと思うのです。
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 これも個人的感想なのですが、どうも精神分析医、あるいは精神科の医者のリクツは、マユツバに感じてしまうことが多いですね。

 以前、岸田秀氏も、その著作の中で「どうして精神分析医の話はウサンクサ気で、一般人と同じような話ばかりなのか」と書いていましたが、どうにもそのカンジがぬけないのは、今の日本が、星氏が漫画を収集した5~60年代アメリカに追いついたということなのでしょうか。

 岸田氏のいうとおり、異常犯罪における、精神医の分析は、そこらへんにいる一般人の意見とほとんど変わらない気がするのです。

 なるほど、と思えない。

 その意味では、養老孟司氏の意見も、よく売れてはいますが平凡な気がしますね。
 まあ、彼は解剖が専門ですが。
 科学者が説く人生論より、人の生き様に対して長く洞察し、言葉のうまいお坊さんの説教の方に得るところがあると思ってしまうのですよ。

 精神科医の分析もしかり。

 「論理的」に犯罪者の思考をトレースし、分析しても、近所のおじさんと同じ程度のことしか発言していない。

 みなさんは、犯罪のたびに出てきて知識を開陳する専門家の意見に、目からウロコが落ちたことがありますか?

 要するに洞察力と思考によって他人の心理を分析したり、治療することには限界がきているというこなのでしょうか?

 一時期、心理学は、そのベースとなる、生理器官としての脳機能を抜きにして考えられなくなり、解剖学や大脳生理学とともに歩むようになりました。

 神経治療も、かつての「森田療法」のように、対話で治療を行うよりも、脳内に分泌される化学物質を応用した薬物を利用することが多くなりました。

 今もその風潮は変わりませんが、近年では、再び対話療法の効能も見直されてきてはいますね。

 いや、また長い前フリになりました。ここからが本論です。

 先日、ネットで、精神科医、斎藤 環氏のエッセイを読みました。

 斎藤氏については、たまに新聞に寄稿される文章を読む程度なので、よくは知らなかったのですが、その中で、氏が、きっぱりと「男性脳、女性脳はない、それはジェンダーによって後天的に作られたものだ」と断言しているのを読んで、ちょっと考えさせられたのです。

 わたし自身は、男と女の脳構造に「生物学的な差がある」かどうか、わかりません。

 しかし、動物の雄と雌、世界中の男と女の考え方と、同じ出来事に対する反応に違いがあるのは事実です。

 氏の文章を少し引用します。
 
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「女は地図を読めないが、男は話を聞かない。これは脳の構造の違いによるものだ」という話をよく聞きますが、空間把握能力について男女差はあまりないという実験結果が出ています。「女性は男性よりも感情表現に長けている」とも言われますが、これもまた、単に「そのほうが女性らしい」という文化的な価値観によってしつけられた結果でしょう

「女性は右脳型が多く、男性は左脳型が多い」という話も、先頃、日本神経科学学会が否定的な声明を出したとおり、実際には脳はそのようなかたちでは機能分化していない。これまた、血液型性格判断やアルカリ性食品などと同じような俗説に過ぎません。 

 確かに、一般的な会話量は女性のほうが多いと言えますが、それは会話自体を楽しむ傾向、ひいては「エモーショナルなほうが女性らしい」という文化傾向の表れでしょう。男性のコミュニケーションは主に情報伝達を目的とし、女性は情緒の伝達を目的にするというジェンダー間のギャップは、こうして生じていると考えられます。その結果、女性は情緒を伝えることで欲求を充足しようとし、それが男性にとっては「いったい何を言いたいんだ!?」と感じられ、女性にとっては「なぜ男は結論ばかり求めるの!?」という印象になるわけです。
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 以上の文と経歴(筑波大で稲村博の指導を受け、ラカン、ベイトソン、中井久夫を研究)をみる限り、斎藤氏は典型的な文化系精神科医ですね。

 思考については哲学的アプローチをし、臨床を重用視する。

 つまり、思考を手のひらで転がせて考え、「他人の科学的研究成果」を「自己検証せずに利用」して断言する実務家、というところですか。

 いや、確かに医師、特に神経科の医師にとって「断言」は有効な手段だと思います。
 患者に対して、ああでもない、こうでもないとフラフラした意見をいうのは不安を与えることになる。

 しかし、自分で(科学的)研究をしていない分野で、断言するのはどうでしょうか。

 上の氏の話にからめて、わたしの知るところでは、空間認知能力の大小が、歌のウマイ・ヘタに関係しているという研究結果があります

 ある物体をナナメからみた画を見せて、それを横から見た画を、いくつかの候補から選ばせる、という実験に好成績を収めた人は、「例外なく」歌がうまかったというのです。
 これは、サンプルの数にもよりますが、単純に信じられる。

 なぜならば、「誰のイデオロギーにも関係しない」からです。

 しかし、男女の脳に違いがあるかどうかを、軽々に論じるのは難しいことです。

 好むと好まざるとに関わらず、研究者とその結果を見る人々の頭の中にさえも、先入観があるからです。

 フェミニストかそうでないか、とはいわないまでも。

 氏の著作の感想を少し読んでみましたが、女性による「男と女の脳に違いがないと聞いてすっきりしました」というものが結構ありますね。

 そりゃそうでしょう。

 地図が読めない云々という決めつけは、どうも女性を低くみているカンジがしますからね。

 わたしが、気になるのは、男性と女性の平等さを強調するあまり、二つの性をまったく同じだと決めつける危険性です。

 実際に、女性と男性の思考と反応には違いがあります。

 しかし、それは当たり前でしょう。

 脳に、かなり重大な影響を与えると考えられる生殖器が、離れたところから脳を刺激し続けているのですから。

 おそらく、性別に特有の「もとからある筋肉量の差」なども、脳に何らかのフィードバックを与えるでしょう。

 そういった「体の全器官との関連」を考えずに、独立した器官としての男と女の脳の違いを論じること自体、ナンセンスな気がします。

 もちろん、斎藤氏のいうように、ジェンダー・社会的性差によって、男的な反応・女的な反応が作られる部分もあると思います。

 世界のいくつかの場所で、アマゾネスのように、女性が狩人であった種族は知られているからです。
 活動的で荒々しい女性の狩人も、社会によって育てられれば存在するでしょう。

 しかし、わたしには、どうしても、男女間の思考の違いがジェンダーによってのみ発生するとは思えないのです。

 上で書いた、生殖器および筋肉量などの外部器官の影響だけでなくね。

 以上をふまえて、個人的な結論を書かせていただくと、おそらく男女間の脳には違いがあります。

 でも、それは絶対的なものではない。

 それぞれの個体でもかなり大きく差がある。

 正確ではないことを承知で、わかりやすくするために、男性的思考・女性的思考と書かせてもらいますが、男性的思考を受け入れやすい脳と、女性的思考に親和性がある脳といった、タイプの違いがあるのではないかと思うのです(もちろん、2タイプしかない、といった単純なものではないとは思いますが)。

 それらは、通常、決定的な違いではないので、生まれてからの教育(ジェンダー)などで、それまでの社会に合うように型にはめることができます。

 その型を受け入れることができない場合、性同性一障害(障害なのか?)と呼ぶこともある。

 要は、それらに優劣などなく、ただの個性であると認知し、そう教育することが大切なのです。

 理想論ですがね。

 ただ……

 ここからが、この項で本当に書きたかった結論です。

 これを書きたかったから、長々と書き連ねてきました。

 男女は平等だと思います。

 しかし、残念ながら、まだ生物学的には違いがある。

 男性と女性の協力でしか子孫を残せないのです。

 もし、女性の平等化を、女性の男性化だと短絡思考した一部の人々の指導によって、女性の極端な男性化が、今後おこなわれるなら……

 男性が、女性に対して「子供を作る行為のための感情を持てなくなってしまう」(あーまどろっこしい、ひと言で書きたい!)可能性があるのではないか、そうわたしは心配するのです。

 女性が、男性のように話し、振る舞うのは比較的簡単でしょう。

 しかし、男性の意識変化はそれについていかない。

 結果、EDめいた症状が広がる、あるいは、それ以前に、実物の女性ではなく二次元のアニメ女性にのみ興味を示す男性が増えれば深刻な人口減少問題となります(というか、もう問題になり始めています)。

 そういった理由から、わたしには、まず脳には違いがあること(男女間ではなく)を認め、ジェンダー・ギャップの是正、「男女の同一視ではなく平等化」は、大脳生理学と心理学との研究成果をふまえて、おだやかに進めていく必要があるような気がしてならないのです。

 星氏の集めたひとコママンガの精神科医よろしく、目先の患者さんや読者に迎合するために、安易に「イキモノとして違いはない、育てられかたによるだけだ」などといわずにね。

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かぁさん、アメリカがまた体内に異物を……ハート・インプラント

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 先ほど、なにげなくABCテレビを観ていると、

「心臓疾患(おもに心不全)に不安を抱える数多くのアメリカ人の命を守る画期的な研究が実用化された」

という報道がありました。

 関連サイト

 記事中にもあるように、

 "I think it's a grand slam,"

 「こいつはグランド・スラム(大成功:野球でいえば満塁ホームラン)だ」と専門家にいわしむる快挙。

 心臓の血管内に、クリップ程度の大きさの心圧測定装置を埋め込むことで、これまで発見されにくかった心臓の異常を素早く発見し、対処できるというものです。

 しかも、わずか7分の処置で。

 一日に数度、ソファに座りながら受信装置を心臓の上から当てるだけで、心圧が計測可能なため、これまで、体重の増加(体内に水分がたまるため)だけでしか判断できなかった心不全の兆候を正確に発見できるそうです。

 詳細は、以下の動画をごらんください。

   http://abcnews.go.com/WNT/video/heart--10791993

 しかし、食生活を含めた「本気の」生活の改善なしで、こういった装置(異物)を心臓のすぐそば(血管内)に埋め込むのは、ペースメーカー同様、多少の抵抗はありますね。

「インプラントへの電力供給は、高周波によって行う」というのも、心臓の横でそんな乱暴な……というカンジです。

 科学優先の合理主義に突っ走るアメリカ医療は、ペースメーカーに次いで、人のサイボーグ化をまたひとコマ進めたようです。

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