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2010年5月

2010年5月28日 (金)

ビルマはビルマ

 もう随分前になりますが、「荒城の月」と「花」の英語歌詞を作って欲しいと頼まれました。
 半分仕事のような個人的な依頼だったので、ずっと先送りし続けていましたが、いよいよ取りかからなければならなくなって、資料をこねくりまわし始めたのですが……

 日本語の歌詞なら、恥ずかしながら「ネイティブ」なのでなんとか作ることができるのですが、英語の歌詞は、押韻するのもシラブルを考えるのも難しいのです。

 これも頼まれて、組曲ペール・ギュント(グリーグ)の「ソルベーグの歌」や、トスカ(プッチーニ)の「歌に生き愛に生き」の日本語歌詞も先日作りました。

 日本語なら原詩のイメージを残しつつ言葉にすることができるのですが、やはり英語はムツカシイですね。

 歌曲を歌われている方で、その歌詞を歌ってやっても良い、という方がおられるかもしれないので、別項でその歌詞も挙げておきます。

 で、それが、今回のタイトル「ビルマ」とどうつながるのかということですが、外国の歌を調べているうちに「埴生の宿」に行き当たったのですね。

 ご存じのように……いや、たぶんご存じとは思いますが、若い方で、ご存じない方のために書いておくと、「埴生の宿」は、もともとイングランド民謡です。たしかアメリカ人がリメイクし「Home,Sweet Home」として、世界に広がったものです。

 日本では里見義が歌詞をあてています。

「埴生(はにふ/はにゅう)の宿も 我が宿~」で始まる、イングランドやアイルランド特有の抒情に満ちた美しい曲です。

 ちなみに、埴生の小屋とは埴土(しょくど)に立つ小屋、埴土とは、粘土質で水はけの悪い畑作に適さない貧しい土地の意味で、要するに、耕作に向かない貧しい土地に立つ家、貧乏な家の意ですね(万葉集)。

 あるいは、埴土の上に屋根を作り、土の上にそのまま寝るような貧しい家のこと(平家物語)という意味もあるようです。

 里見義も難しい表現を使いますね。おそらく明治時代には、一般的な表現だったのでしょう

 つまり、ビンボったらしい小汚い小屋でも、我が家は我が家、「Home,Sweet Home」の直訳です。

 そして、わたしたち日本人には、なんといっても映画「ビルマの竪琴(たてごと)」で、日本を思って歌われる印象的な歌です。

 え、埴生の宿が使われている映画は「火垂るの墓」しか知らないって?

 カンベンしてくださいよ。
 戦後、焼跡闇市派(やけあとやみいちは)の作品ってのは、どうも苦手でいけません。
 とにかく、わたしにとって、埴生の宿といえば、「ホーム、スイートホーム」、貧しくとも楽しい我が家、いざ帰りなんあの土地へ、という歌の内容を見事に作品に取り込んで作られた「ビルマの竪琴」が思い出されるのです(特に映画、しかも中井貴一のリメイクじゃないやつ)。

 さて、ここからが本題です。

 先日、日本で、ビルマの解放を願って報道と活動を続けている人々の話を聞いたのですが、彼らは、ビルマ人を含めて、自らの国を「ビルマ」と呼んでいるのですね。

 穏やかな口調で、日本のマスコミ各社が当然のように使っている「ミヤンマー」という国名は、現軍事政権が勝手に決めた名前であるから使いたくない、と。

 すごいなぁ。ATOKはビルマと入力すると、ミヤンマーに変えようとするぞ。
 IMEは、うちのは古いからそんなことはしないな。

 現在の政権に異を唱える人々は、自国を「ビルマ」と呼んでいる。
 しかも、アメリカのマスコミ報道は、通常、あの国を「ビルマ」と表記しているというのです。

 じゃ、なんで日本はいそいそと、ビルマからミヤンマーに呼び名を変えちゃったの?

 
 ビルマという国名に関しては、前に面白い話を聞いたことがあります。

 ビルマとは、日本が勝手につけた名前で、ビルマの長い歴史で、彼らが自らをビルマと呼んだことはなく、外国がそう呼んだこともなかった、と(似たような名の地方都市はあったそうですが)。

 たしか、二十年ほど前に、軍事政権がミヤンマーと名を変えた時に、日本ではよくそういった報道がされていたように思います。

 それが事実なら、今、ビルマの解放を願う人々は、日本が勝手につけた、どの時代でも、どの世界でも使われたことの無かった「ビルマ」という名を旗印に解放運動と解放報道を続けていることになります。

 もちろん、それを根拠に、現政権より日本軍統治下の方が良かったからだ、などとはいいません。

 しかし、日本のマスコミは、その事実を、もう少しちゃんと理解すべきなのではないでしょうか。

 国名変更から数十年を経て、人道的にいかがなものか、と世界的に非難があつまる国(ある調査では、ビルマの国民の自由度は世界で一番下から二番目、最下位はいわずとしれた北朝鮮)を、日本の大好きなアメリカのマスコミでさえ「ビルマ」と表記する国を、日本のマスコミは、ミヤンマーと呼び続けているのですから。

 政府が、国家間で、ビルマをミヤンマーと呼ぶのは仕方がない。

 しかし、マスコミは、国のようにビルマが持つ天然ガス、レアメタルなどの豊富な天然資源に目がくらんで、ミヤンマー軍事政権に迎合(げいごう)してはいけないと思うのです。

 まあ、(日本の)前政権から数十年にわたって、カネをもらい続けていた、偏向報道がお得意の評論家、新聞社に何をいいってもムダかもしれませんが(一部週刊誌をのぞいて、あの野中発言をまったく報道しない(否定を含めて)マスコミのオソロシサを、皆さんはどうお思いなのでしょう)。

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2010年5月27日 (木)

大阪日本橋 黒門市場のうた「笑う門やで 黒門市場」

 一時期は少しさびれた感のあった大阪日本橋の黒門市場(くろもんいちば)ですが、最近は、アジアのお客さんも増えたいへん活気があります。

 ここは、京都の錦市場と並ぶ関西の食処(しょくどころ)の雄ですが、それをアピールするための独自の唄がないと地元の人がいっているのを聞いて、おせっかいにも勝手に作ってしまいました。

 陽気な曲です。
 
 どうかお聞き下さい。

 とりあえず、作曲者が歌っていますが、近いうちに男性歌手に唄ってもらう予定です。

               

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なんというか……とにかく観るべし「第9地区」

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 もし、あなたが、少しばかりバイオレンス描写に強く、残酷シーンもある程度我慢ができ……

 そして、圧倒的迫力で気持ちを鷲掴みにされ、考えさせられ、最後に、うまく説明できない感動を感じたければ……

 いますぐに、

  http://d-9.gaga.ne.jp/#/SubScene/IntroductionScene

 にアクセスして、もよりの公開劇場をチェックして、仕事が終わってから立ち寄ってください。

 本年度アカデミー賞4部門ノミネート「DISTRICT 9(第9地区)」

 驚くべき名作です。

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 しかも、もうすぐ公開終了です。

 この、南アフリカのスラム地区を舞台にした、社会派ハードアクション超弩級SF作品は、劇場で観ないと後悔しますよ。 

 内容については、公開が終了してから書こうと思います。

 誰かが書いていましたが、本年度最高の映画かもしれません。

 矛盾のない見事な脚本、リアルなSFX、全員無名な役者……完璧です。

 内容は書きません……が、バカで間抜けで腰抜けで愚かなオヤジが見せる侠気と、みかけは人間らしさのかけらもないエビが見せるジェントルさに何かを感じてもらいたいなぁ。

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2010年5月24日 (月)

噂の男(ラジオドラマ原作:PDF)

 今回は、時代物で泣く話にしてくれといわれて、書いてみました。

 「噂の男(うわさのおとこ)」

 原稿用紙16枚ほどのものです。

 個人的には時代物の方が筆が軽いですね。

 ドラマ原作なので短い話です。

 大店(おおだな)のおかみ、おさとは、懐の深い旦那と、血のつながりはないものの美しく素直な娘おみねに恵まれて幸せな日々を送っていた。
 ある日、あの男が店にやってくるまでは……
 

 え、今書いているのが「泣く話かどうか」なんてどうやって自分で判断するかって。
 
 そんなものは簡単です。

 書きながら自分で泣くかどうかが基準に決まっていますよ。

 今回の話も泣きながら書きました。いやホント、マジで。

 どうか、お読みください。

    PDFダウンロードはこちらから

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2010年5月23日 (日)

ラジオ番組 「うるはしやまと」 テーマ曲

 これは、音楽工房で制作している、遷都1300年記念FMラジオ番組「うるはしやまと」のテーマ曲として、わたしが作詞したものです。

 奈良時代といえば、「万葉がな」や「やまとうた(和歌)」に代表されるように、やわらかくやさしい印象があるように思いますが、実際は、戦乱と内紛と陰謀にあけくれた激動と策略の時代でもありました。

 というわけで、かつて「万葉人が憧れた平らな世」が、仮初(かりそ)めにせよ訪れた現代日本において、平和を祈念した歌詞を……

 ああ、説明してしまった。

 歌なぞ、ただ聴いてもらえば良いのに

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音声ファイル:ラジオドラマ「re born」

 これも、PDFで上げた原作をラジオドラマ化して、放送したものです。

 ちなみに、ドラマ中で使われている寺の鐘の音は、実際に信貴山に出かけて収録してきた「ホンモノ」です。

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音声ファイル:ラジオドラマ「女か虎か2010」

 これは、前にPDFでアップしておいた「女か虎か2010」を、a-lessonの協力でラジオドラマにして、音楽工房が地方FM局(FMハイホー)で放送したものです。

 短いものですので、お聞きください。

 ほぼ小説と同じですが、こうやって効果音がついて複数の役者さんによって演じられると、また違った感じがしますね。

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2010年5月21日 (金)

こ、これは……いいのか、カイジ!本当にいいのか?

 なにはともあれ、まず、これをご覧ください。

 本当は、加工してから載せたほうが良いのでしょうが、ぜひ実物を見て欲しいので、あえて未加工で載せます。

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 いいですか?

 では、次にこれをどうぞ。

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 もう、コメントは、いらんでしょう。

 ――カゲジ……

 人生ギャクテソゲームって感じですね。

 シャレを超え、ジョークを超え、もやはゲージツの域に達していますね。

 映画の「スタートレック」が人気だった時に、いち早くレンタル店にならんだ「スターレック」以来の衝撃です。

これだから、レンタルビデオ店ウオッチングはやめられないなぁ。

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2010年5月20日 (木)

石上神宮 七支刀を見てきました

 遷都1300年事業の一環で、石上神宮(いそのかみじんぐう)で、国宝・七支刀が六年ぶりに公開される(2010年5月17日~6月11日の平日のみ)と聞いて行ってきました。

 http://www.jalan.net/kankou/evt_0083241.html

 あの、刀身に6つの枝があって、抽象化された炎みたいな形の刀です。

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 といっても、「見に行きます、はいどうぞ」というわけにはいきません。

 あらかじめ往復はがきで申し込み、「当たれ」ば拝観できるという勿体つけぶりです。

 申し込みが必要と知った時点で、かなり気持ちが冷めたのですが、以前より、この刀はぜひ見たかったので、久しぶりに往復はがきを買いました。

 前にどこかで書いたと思いますが、基本的にわたしは、あまり歴史的な「モノ」に共感を感じません。

 かつて、スミソニアンで見たセントルイス号もただの赤塗りの複葉機でしたし、月から帰ってきたアポロのカプセルも、小さすぎてなんだか月着陸すら疑問に思える素人細工のオモチャに見えました。

 いわゆる、サイコメトリー的に、歴史的遺物に触って、そこから何かを感じようとすることに何か抵抗を感じるのですね。

 厳として存在する歴史というものに、凡夫が触れるだけ、あるいは見るだけで何かを感じとろうなんて甘いですよ。

 だからこそ!

 小さい声でいいますが、美術館や博物館に押し寄せる物見遊山の老人たちは、あまり好きではありません。

 ただ、「ソレを観てきた」と他人にいいたいだけ、または見るだけで何かを感じられるカモと期待して押し寄せる連中が、ずっとその作品に興味と憧憬を持っていた方々、本来その作品を見るべき人々の閲覧を邪魔するべきではないと思うのです。

 だから、わたしは有名作品の特別展示には、なるべく行かないようにしてます。

 それに、有名でない作品の展示をしている時の美術館の方が魅力的です。

 日本に来たばかりのパンダ、あるいはヨン様の追っかけと同じ感覚で、永徳の洛中洛外図を観にきた人々の頭を見るより、無名の仏像展示をしている時の、人影少ない常設展のほうが、ずっとゆっくり楽しんで閲覧できますから。

 まあ、美術館や博物館も、人が来てくれないと、高い金を払って外国から作品をかき集められないでしょうから、人混みは仕方ないのかもしれませんが。

 要するに、わたしは、ただの天の邪鬼なんでしょう。

 話が脱線しました。

 とにかく、わたしは、そういったモノ自体にあまり興味はないのですが、七支刀(しちしとう:ななつさやのたち)の刀身には漢字が刻まれています。

 朝鮮半島と日本の関係を示す、現存する、最古の文字史料です。

 しかも、人によって違う文字に見立ててしまうほど摩耗した文字が!

 これは、自分の目で見てみたい。

 石上神宮は、もともと朝廷の武器庫です。
 
 七支刀は、長らく御神体として見ることも触ることも許されませんでした。

 江戸時代に、あの水戸黄門が「大日本史」編纂のために使わした使者も追い返されているほどです。

 しかし、明治になって、廃仏毀釈のため職を失ってやってきた水戸出身の菅政友が、さび付いた刀身の一部が金色に光るのを不審に思って小刀でガリガリ削ったところ(本人の記録による)中から、金象嵌(きんぞうがん:彫った部分に金を嵌め込む手法)が施された文字が現れたのです。

 このあたりがイイですねぇ。

 ずっと神社に使えていた宮司なら、ご神体を削るなんて考えもしなかったでしょう。

 刀身は損傷が激しく、文字の判別が難しいところもあるのですが、まさか無頓着にガリガリやった時に、誤って削ってしまったんじゃないでしょうね。

 ともあれ七支刀。

 形状からいっても実用性はゼロだったでしょうが、刀というからには一応は武器です。

 武器ならば見たい。

 モノはともかく、コトバや表意文字である漢字には興味もあります。

 というわけで行ってきました。

 ジーンズ、ミニスカート禁止ということで、久しぶりに白シャツとダーク・ジャケットという格好です。

 天候には恵まれましたが、境内は閑散としていました。↓

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 名物のニワトリ放し飼いは、相変わらずです。↓

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 境内に作られた待合いテントには、すでに閲覧を待つ人々が座っていました。
 今回の定員は50人程度だったと思います。

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 わたしも、黄緑色の閲覧パスを首からかけて、パイプ椅子にすわりました。

 老人8割、その他2割というところですね。

 あれ、若い人は数人をのぞいて男女ともジャケット着用、あるいは暗色の服を着ているのに、老人たちのほとんどはポロシャツにパステルカラーの服です。

 まさか「なんか分からんけど、一応見ておくか」派の人々ではないでしょうね。

 嫌な予感がします。

 以下、次回に続きます。

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2010年5月17日 (月)

さとり世代、ですかぁ?

 近頃、2チャンネルで「ゆとり世代」の次は「さとり世代」じゃないの?という意見が出て、ひろゆき氏がそれを支持するような発言をしたため、世間に広がりつつあるようです。

 でも、どうなのかなぁ。

 草食系で、あまりガツガツしない若者って、悟ってるの?

 似而非(エセ)悟りでしょう、それは。

 ほら、よく会話で使われる「なに悟ったみたいなこといってるの?」ってヤツと同じで、単に「意欲がないだけ」じゃないのかな。

 少し前に書いた「時代の閉塞感」と、付け加えれば、シャカリキ(語源知ってますか?)にならずともなんとか食っていける「国としての豊かさの名残(なごり)」のおかげで、遠い目標と近くの目的を見失い、何につけてもヤル気をなくしている若者を「悟る」というコトバで表現するのは間違いです。

 一見似ているようにみえて、まるで違う。

 片方は中身が空っぽ空虚で寒風吹きすさび、他方は、これ以上ないほど充実したが故の、外面的静けさなのですから。

 でも、なんとなく定着しそうな気がしますね、このコトバ。

 ヒトは、本能的に、名前のないものを恐れるものですから。

 正確でなくても、語感がよくて、雰囲気さえ似ていれば、似て非なる物でもその名をつけて安心したがるものです。

 いまの「意欲のない若者」がブキミなだけに、オトナたちは「さとり」世代という名前をつけて、きっちりと自分の中で分類したいのでしょう。

 あの寓話に出てくる、木こりをからかったあげく、飛んできたオノの頭で顔面を粉砕されて死んでしまう、サルに似た心を読む化け物、覚(サトリ)だというなら、なんとなく納得はできるんですがねぇ。

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               鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「覚」↑

 そうだなぁ、あえていえば「さとり」には一歩およばぬ偽物ということで、「さとら」世代ってのはどうでゲス、ダンナ?

 「り」のひとつ手前ってことで「ら」。

 「悟られん」にもひっかけて。

 サトラ世代――

 うん、これなら納まりがいいな。 

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2010年5月16日 (日)

自転車の雨模様時傘運搬法

 わたしは、よく巫山戯(ぶざけ)て、「~にはふた通りある。AとBだ」と、ある切り口で、モノゴトをバッサリとまっぷたつにするコトバ遊びをします。

 たとえば、ちょっとマジメモードなら、

「人間にはふた通りある。宇宙へ出た人間と、それ以外だ」

 なんてものから、映画で感動した時に叫ぶ、

「人間にはふた通りある。『世界最速のインディアン』を観た人間と、それ以外だ」

といったもの、あるいは有名ドコロでは、

「人間にはふた通りある。コップ半分の水を見て、まだ半分ある、と考える者と、もう半分しかない、と考える者だ」

なんてのがありますね。

 さて、今日は全国的に晴れたようですが、このところ暖かくなったり寒くなったりと不順な天候が続いています。

 雨が降れば傘をさしますが、困るのは、「朝晴れていて、昼から雨が降りそうな日に、自転車で出かける時」です。

 傘を持って行かねばならない。

 最初から雨が降っていて、それでも自転車で出かけなければならないのなら、関西地方発といわれている、法的にはちょっとグレーゾーンな、「さすべえ」↓

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http://www.unite-i.co.jp/

のお世話になることもあるでしょうが、そうでない時に人はどうするか?

 ここでさっきのコトバ遊びです。

「人間にはふた通りある。雨が降りそうな時に自転車に乗る時、傘を

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と縦ザシする人間と、

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横ザシする人間だ!」

 知人にそういうと、

「折りたたみ傘だから、鞄にいれておくわ」

という『第三の選択』を示されてしまいました。

 うーむ。そりゃそうですね。これはイッポン取られましたわ。

 ちなみに、近頃では、こんなホルダーも売られているようです↓。

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http://www.i-tecjapan.co.jp/

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2010年5月14日 (金)

東アジアに顕著な少子高齢化の原因に対する一考察

 先に「老いてゆくアジア」と称した話の時に、「なぜ東アジアがヨーロッパ各国に比べて急激に高齢化したのかについての私見を書く」と記したのですが、なかなかその機会がありませんでした。

 今回、上海万博に絡めて、中国の未来と問題点を書くついでに、そのへんもまとめることにします。

 以下はすべて、わたしの狭い了見内で考えた私見ですので、こんな考え方もあるのだなぁという程度にお読み下さい(偏った断定も多いはずですので)。

 まず、幸せとはなんでしょうか?

 イキナリ大上段に振りかざした命題ですが、まあ、こんな(深淵ではあるけれど)基本的な質問に対する答えは、高校生じゃないんですから幾通りかの答えを即答できます。

 その中で、一番わたしが気に入っているのは、現在の科学状況に限定すれば、

「元気に生まれ、元気に生き、元気に死ぬこと」ですね。

 そりゃ、一生の間に、人から認められ、ちょっと気になるものを手に入れるだけの金を持ち、時には肉体的快楽を楽しみ(アレだけじゃなく、ダイビングやマラソンなどの苦痛的快楽も含めてですよ)、季節の旨いものに舌鼓をうつことも必要ですし、逆に、欲しいモノがなかなか手に入らない苦しみも、あとでそれを手に入れた喜びを増加させるために必要でしょう。

 また、ヒトには、どうしても手に入らないものがある事を知るのも、人生の大切な学校的側面の効能のひとつです。

 逆に、恋人を含め、本当に欲しかったものは、実際に手に入れてみると、それほどでもないことが多い、なんてことを知るのも良い経験です。

 まあ、そんなものは元気に生きていれば自然と味わうものですけれど。

 では、「元気に生きる」とはどういうことか?

 体が健康であるのはもちろんですが、なかんずく精神が健康であることですね。

 最近は、日本でも、鬱病が急増しているようですが、ああいった「心の風邪」は、現代社会では起こりがちでしょう。

 個人的には、添加物の多い食物、生物サイクルを無視した人工照明による交換・副交感神経への過度の刺激、幼少時から、嫌なもの・嫌なことを避けさせる(紙オムツ含)クセをつけ、物心がついたら、心の成長には不可欠(なハズ)の「青春時代の絶対孤独感」を安易に携帯電話とメールの「ユル繋がり」で、安易に避けられることも要因のひとつだと考えています。

 あとは、子守歌代わりに子供の頃からテレビをみせているのも問題かな。
 成長過程の脳に、あんな毒物を食べさせてはいけません。

 これからは、3Dで脳への不自然な刺激が増えるでしょうから、さらに病気は増えることでしょう。

 あれ、いつのまにか、鬱を含む精神疾患の要因についての話になってる。

 そういったこともあって、一時的に精神に風邪をひく人も多いとは思いますが、全員ではありませんね。

 これから、わたしが書こうと思うのは、一時的でなく、継続的にある国民を圧迫し続ける「時代の閉塞感(へいそくかん)」についてです。

 結局、国全体に蔓延(まんえん)する「閉塞感」が、人々からエネルギーを奪い、少子化を招き、その国を(その精神を含めて)高齢化させるのですから。

 では、閉塞感はなぜ生まれるのでしょうか?

 わたしは、それは「無用な知識の過剰摂取」にあるのではないかと考えています。

 とくに、テレビ、近年ではネットによる情報が原因ですね。

 観たくない、知りたくもねぇ情報が、ほとんど選択できないまま、連日連夜、次々と我々に押しつけられるのですね。

 女囚刑務所の生活なんて観たかねぇよ、って感じです。

 しかし、観やすく料理され、扇情的に制作された番組をヒトは観てしまう。

 そして、世界を知った気になる。

 テレビとネットを通じて、ヒトは世界を「観た気になる」「知った気になる」「分かった気になる」のです。

 実際は違います。

 「真実は細部に宿る」

 テレビで、その国の歴史背景も知らずに、多数のスタッフと共に、ただ連れて行かれるだけのバカタレントが紹介する外国は真実の姿を見せていない。

 確かに、ツアーで行けば、その国は同じ顔をみせるかもしれない。

 だから、旅行なんか行くのはムダだ、という気持ちになるのは理解できる。

 なぜ、「もう知っている」のに、わざわざ金と労力を使って、テレビと同じことを確認しなければならないのだ、と。

 でも、テレビの景色は、真実を見せていない。
 景色ではなく、そこに生きる人々の、笑顔と、時には犯罪の顔にこそ、真実に近いものがあるのです。

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 ヴァラナシで、泣きながら一日中、安ホテルの前で陳腐な絵はがきを売っていた少年(わたしは彼を拒絶してしまった)、デリーでわたしの靴に牛のフンをなすりつけ、汚れているから拭かせてくれ、と笑ったコドモたち(Get Awayと叫んでわたしは自分で靴を拭いてしまった)との関わりは、今でも、わたしの胸をチクチクと嘖(さいな)んで、彼らの国に再び行きたいという気持ちを誘い、あの国の話題が出るたびに、わたしの目を釘付けにしてしまう。

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 あるいは、お笑い芸人が、政治家をスタジオに呼んで、馬鹿な会話と(誰かによって)方向づけされた「ためにする」お笑い議論を観ることで、政治と経済を分かった気持ちになる。

 特定の集団(はっきりいえば記者クラブ)から出てくる、これも方向付けされた情報をもとに安易に作られる昼の奥様番組での、国防を含む政治と経済解説で、世界を分かった気になる女性たち。
 そして、さらに、インタビューなどで安易に洗脳された彼女たちの意見を利用するマスコミ。

 コドモ向けの社会派ピカレスク・ドラマ、コミックなどに感化され、「立派な大人に見えても、人の上に立つ人は、皆、金に汚く女に弱く、ウソばかりつく」もので、社長になっても、大臣になっても、大統領になっても、大したことはないんだよ、などという、チープな世界観を、安易に振りかざすようになってしまう。

 こういった、大量ではあるけれど、安っぽい知識の積み重ねで「世界を知った気になる」ことが、閉塞感を生み、大人になることを含めた、未来への期待、未知なる世界への憧れを、人々から奪ってしまうのではないかと、わたしは思うのです。

 少し頭があればわかるでしょうに。

 世界が、テレビやコミックや浅薄なタレント評論家が描くようなのっぺりしたモノであるはずがないことは。

 また、日々、ニュースに出てくる有名、無名を問わない人々の犯罪は、「一億数千分の」を分母にしていることを忘れてはならないのです。

 真っ直ぐに背中の伸びた立派な人々は、すぐ身近に確実に存在します。

 だから、安易に「すべてのヒトは尊敬に値しない」「世界は、単純な欲望原理で理解できる」と考えてはならないのです。

 これは、愚かなわたしの過去からの、心よりの箴言です。

 以上が「なぜ東アジアが急激に少子高齢化したか」の、わたしなりの答えです。

 上記のように考えると、今は金儲けに浮かれて、まだ確実に精神を蝕みつつある閉塞感に気づかない、あの「大」中国が現在進行形で東アジア諸国と同じ道を歩みつつあることもわかります。

 フランスが、100年以上かけて少子高齢化を歩んだのは、テレビを含む情報網が未発達だったからです。

 それに対して、日本を含む東アジアは、電子立国日本を含むだけに、電子化・情報化の進化が凄まじく速かった。

 マレーシアに代表されるように、自国で電子部品を作っていれば、国は情報化せざるを得ない。

 だいたいにおいて勤勉で、一極集中というか、一つの目標に突っ走ってしまいがちなお国柄(中国もそうだなぁ)も、情報網の緻密化とそれによる情報過多の結果、閉塞感に拍車をかけたように思います。

 この閉塞感を打ち破るには、人々に、新世界、新天地を見せる他はありません。

 一番身近な新世界は「宇宙」です。

 宇宙に出かけて、未知なる場所を見、未知なるモノを発見する。

 そして、そのための新技術開発。

 宇宙開発というキーワードで、世界は閉塞感を打ち破ることができるかもしれません。

 先日、書いた堀江氏が宇宙開発にこだわるのも、そのへんを感じているからなのでしょう。

 と、色々と書きましたが、それでもわたしたちは幸せです。

 はじめに、わたしは「現在の科学状況に限定すれば」と書きました。

 それはまだ、ヒトレベルで不死が実現されていないからです。

 もし、イモータル技術が確立されたら、それこそ人類の存亡に関わる問題となることでしょう。

 遺伝子の解明を続ける限り、不死は不可能ではありません。

 「死は絶対」ではなく、単に、生物が長い進化の歴史の中で、種の生き残りのため、多様性を維持する方法として、種族死ではなく個体死をとったという「選択の問題」に過ぎないのですから。リミッターならやがては外せる。

 それぞれの生命体が、限りある生を生きて、経験と知識を死でリセットされ、同時に、二つの個体から遺伝子を混ぜ合わせて、ひとつの遺伝子を作り、種を残す。

 つまり、生命レベルで見れば、知識は、その種を滅ぼす毒なのですね。だから個体を殺して知識をリセットさせてきた。

 そのルールを、ヒトは文字や記録媒体を生み出して、破ってしまった。

 これこそが、ヒトという種の「死に至る病」の始まりだったのかもしれません。

 なればこそ、不死技術は、種には致命的な毒となる可能性が大きい。

 多くの偉大なSF作家がその作中でシミュレートしていますが、「不死」が実現されたなら、今までにない巨大な閉塞感の波、が人類という種を襲うだろうからです。

 人の一生は、ある意味、死という鬼に追いかけられながら、何かを残したいという欲求に突き動かされて、子供や作品を生み出すものなのですから。

 その鬼が死んでしまったら、一時的にせよ(ずいぶん長い期間でしょうが)、人類のモチベーションは最低レベルまで落ちることでしょう。

 その間に、種として絶滅する危険性すらある。

 その大きな波が我々を襲う前に、人類には、宇宙という新しい挑戦の場が必要なのです。

 あれ、上海万博がらみで、現代中国の抱える諸問題について書くはずだったのに……別項に譲ります。

 ひとつ書き忘れていました。

 フランスを含む、ヨーロッパの国々の少子化に時間がかかった、つまり彼らが閉塞した世界観を持ちにくい理由のひとつに、もともと彼らが人生を斜(はす)に構えて見がちな人種だということもあると思います(文化的成熟度が我々より高いとは思えないので)。

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自作小説 君の容貌(かんばせ) 第1回 PDF

 前回、予告した、ルナティックドール2 「君の容貌(かんばせ)第1回」です。

 若き日のリュウ・バセラと周りの人々を描く黎明(れいめい)編。

 どうか、お読みください。

君の容貌(かんばせ) 第1回 PDFダウンロード(288k)

 とりあえず初稿ですので、誤字脱字があるかも知れませんが、分かり次第、修正していく予定ですので、どうかお許しを。

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2010年5月12日 (水)

ホリエモンが語る宇宙論

 昨日、衛星放送でやっている上杉隆氏の番組に、ホリエモンこと堀江貴文氏が出演していました。

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 上杉氏といえば、ゴルフ好きで、もと鳩山弟の秘書、そして「すべてを記者クラブ批判に結びつける男」というのが定番ですが、昨夜は珍しく記者クラブの「記」の字もでませんでした。

 なんせ、タイトルが「ホリエモンが語る宇宙論」!

 なんで、堀江氏が宇宙?

 検察批判はなし?

 と思ったのですが、話を聞いて、なるほどと頷きました。

 堀江氏は宇宙が好きだったのですねぇ。

 その原点(からちょっと行ったトコロ)が、「オネアミスの翼」であるというのを聞いて二度びっくり。

 いや、それよりも、上杉氏が「オネアミス~」も「ガイナックス」も知らなかった(フリをしているだけかもしれませんが)のに三度びっくり!

 そういえば、堀江氏は、ライブドア時代、アメリカだったかの宇宙遊覧旅行に申し込んでたよな、と思ったら、案の定、上杉氏がその質問をすると、

「いや、あれは僕じゃなくて、役員の一人が、ライブドアの株を売って申しこんだんですよ」

との答えでした。

 いわれてみれば、そうだったような……

 しかし、
「23歳になった頃、ソ連のミール(宇宙基地)が20億程度で売りに出されて、それを買いたかったのは確かだ。当時のライブドアの収益が年間3億程度だったので無理だったけど……」
と、当時から、宇宙への夢を持っていたのは事実だったようです。

 ともかく、ネットワーク(と買収)の第一線から退いた堀江氏は、今、民間の力でロケットを打ち上げるために、新型ロケットの開発などに力を注いでいるようです。

 話を聞くと、さすがに頭の良い人らしく、よく勉強していますし、本を読みまくって無理矢理詰め込んだ知識を「下痢症状的に垂れ流す」ということもない。

 知識をしっかりと自分の中で消化して、自分の方向性に沿った、実のある言葉として、発しています。

 曰く、
「まず、コストを下げることが大切だ。今、一人打ち上げるのに30億かかるのを3000万円にすれば、民間が参入し、今の100倍の人が宇宙に行くようになる。なれば科学者もやる気になって、コールドスリープ技術も進むだろう。そうすれば、外宇宙も目指せる。今は、宇宙にでるのに金がかかり過ぎるから、研究者が、それから先の技術を目指そうとはしないのだ。だから、ボクは宇宙開発の障壁になっているのは、コストだと思っているのです」

 さらに氏は反物質エンジンについても言及します。

 彼の話を聞いて、わたしは小松左京氏の「出来てしまった機械」を思い出しました。

 ジュブナイルですが、近未来に、子供たちが、自分たちのロケットを作ろうと、デキアイのパーツを組み合わせているうちに、マシンが暴走し、時間を飛び越えてしまうという話です。

 つまり、でたらめに作った機械がタイムマシンだった。

 紆余曲折(うよきょくせつ)のあとで、もとの時代に帰った子供たちを見て科学者がいいます。

「ともあれ、タイムマシンが可能ということがわかった。なにより、一度出来てしまったということは、科学者にとってなによりの励みとなって、いずれ理論もわかることだろう」

 まず「できるのだ」という事実を示さないと、人々にやる気を起こさせることはできない、という、人間心理の本質をついた話です。

 堀江氏がこの話を知っているとは思いませんが、本能的に、彼はそれを察知しているのでしょう。

 先日、このブログでも書いた「純粋な熱意」が少し戻ったような感じですね(あくまで、「感じ」ですが)。

 と、例によって、ここまでが前振りで……

 上杉氏は、番組途中(生番組)でも、自分の前にノートパソコンを開いて、ずっとツイッターを見ています。

 以前は、ゲストに話をしながら、自分でもツイッターにつぶやき続けていましたが、さすがに、それでは会話がおろそかになるとのことで、今は、リアルタイムに質問を受け付けているだけなのですが、まあ、それはそれで、新しい試みではあると思います。

 ツイッター経由の質問に、丁寧に答えていた堀江氏が、言葉を荒げる瞬間があったのです。

 人は激情に襲われる時に、心情を発露しやすいものです。

 それはガードが緩む瞬間であるから。

 その経緯を書いておきます。

「オバマ大統領も火星へ人を送り込むといっていますね」という上杉氏の質問に答えて、堀江氏はこう答えました。

「マスコミは、宇宙ジャーナリスト以外は、火星だとか月しかわからないから、そこしか取り上げていないけど、オバマはキチンと『小惑星』について言及している。小惑星は、様々な理由で、資源の宝庫である可能性が高いから」

 そこで、彼は、なぜ小惑星に資源があるのかを科学的に熱熱弁します。

「だから、オバマも小惑星(火星-木星間の大アステロイドではなく、地球-火星間に点在する小惑星のこと)を目指すといっている。ボクも、まずは小惑星を目指そうと思っている。そこにあるウラニウムを使って、原子力エンジンの燃料にすれば、外宇宙を目指せるから。宇宙には酸素のある惑星があるはずだし、酸素があれば、生物は絶対に存在する。つまり宇宙人はいるから、彼らに会うこともできる」

 まことに希有壮大(けうそうだい)で夢のある話です。

 素晴らしい。

 誠意はともかく、堀江氏の熱意は確かなもののようです。

 番組のエンドテーマが流れる直前に、ツイッターからの質問を上杉氏を読み上げました。

「先ほどからいわれている、小惑星からの資源採掘ですが、所有権はどうなるのでしょうか?」

 ここで、いままで穏やかだった堀江氏が少し声を荒げたのですね。

「だから、『行ってないうち』から所有権の話を考えるからダメなんですよ。そんなことを考える前に行けよ。行ってからやれ(考えろ)よ。行った者勝ちに決まってるだろう(と言いたいですね)」

 わたしには、この時の堀江氏の気持ちが、なんだか痛いほど分かってしまったのですよ。

 もし、堀江氏がネットのことを熟知し、現在の、そして今後のネットについて思いを巡らしつつも、(ライブドア時代のように)ネットの開発・発展その他に埋没せず、ネットを自分の知名度を利用して(宇宙開発などを)ツイッターやブログで自分の考えを発する道具として捉えている(わたしにはそう見えるのですが)なら、つまり、ネットの「可能性」と、なかんずくその「限界」をわかっているなら、上の質問を受けた時に、こう思ったはずです。

「だからオメェらはダメなんだよ!ネットの匿名性に隠れ、指だけ動かして意見を書くだけで汗をかかず、攻撃もされず、思考の迷路に迷い込んで動こうとしないオメェたちに、先を突っ走る人間のことなんかわかるわけねぇだろ。世の中変えることができるのは、矢玉を体に受けて実際に動く人間だけなんだよ。もういいよ。お前たちは、死ぬまでユルユル繋がりの仲間同士でウジウジ理屈こねてろッ!」

 そして、なんだか印象的だったのは、上の発言をしたあとに、一瞬、彼が見せた力ない笑顔でした。

 それが、わたしには、彼がこういっているように見えたのですね。

「でも、かつて、ライブドアの前身時代に、オレが必死で、ネットシステム組んでたことが、こういったヤツラを作った原因でもあるんだよナ」

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懐かしく優しい同人の味 小林嵩人 「FROG'S TRIP」

荒木飛呂彦氏の「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」を読もうと、ウルトラジャンプ5月号を開くと、印象的な絵柄とストーリーの作品が掲載されていました。

 それは、小林嵩人(たかひと)という作家の「FROG'S TRIP」です↓。

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 なんだか、懐かしい絵柄、穏やかな作風で、古き良き同人の薫りがする作品です。

 世界観は「中世のおとぎばなし」で、登場人物は、悪い魔女と、その怒りにふれて猫や木そしてカエルに変えられた人々というわかりやすい話です。

 町にやって来た巨大カエル↑(自称若くて美人)から、「魔女にかけられた呪いをとくために自分にキスをしてくれ」と頼まれた大工のアルは、彼女?と一緒に魔女の館へと旅に出ます。

 旅の途中で、カエル同様、様々な呪いをかけられた連中と道連れになりつつ、ついにアルは魔女の館に到着します。

 そこで、彼は……

という話なのですが、短い話ながら二転三転するストーリーも、あったかいエンディングもわたしの好みです。

 読み終わって、ほっとする話なのがイイ。

 例によって、この作品で佳作なら、大賞はもっとスゴイのだろうな?なんて思うと、案外そうじゃないんですよね、ダイタイ。

 大賞より佳作の方が「佳作」が多い。

 画の好みで、評価が別れたのだろうなぁ。

 おそらく、大賞はもっと線のすくないマンガ絵のヤツでしょうなぁ(みてないけどさ)。

 まあ、こんなふうに感じたのは滝沢洋一氏の「チポーは猫」以来です(調べてみると91年だった。感隔世!)。

 機会があれば、お読み下さい。

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2010年5月 8日 (土)

パイドパイパーに気をつけろ 「勝間-ひろゆき」問題考

 堀江貴文氏がいうところの、「周回遅れ」の「さらに周回遅れ」のコメントでナンなんですが、一連の「勝間-ひろゆき」発言関連で、思うところがあったので書いておきます。

 ご存じの方も多いと思いますが、ことの始まりは、ひろゆき氏が、このGW中に放送された、勝間和代氏の番組に出演したおり、その対談で(どうみても意図的に)勝間氏の意見をのらりくらりとはぐらかす彼に業を煮やして、彼女が「ダメだコレ」と発言したことでした。

 話の流れからすると、勝間氏のいう「駄目だコレ」は、ひろゆき氏を指すのではなく、、あきらかに、今回の対談はダメだった、という意味なのですが、「睡眠不足でいらだって不機嫌だった(本人のブログによる)」ひろゆき氏は、その言葉尻をとらえて、「確かにボクは言葉を知りませんが、ダメだコレはないでしょう」と、「ダメなコレ」が、自分を指すかのようにミスリードして勝間氏にダメージを与えようとしました。

 あ、youtubeにリンク張ろうとしたら消えてる。
 まあ、探せば、どこかで見ることが出来ると思います。

 それにノセられた、あるいは分かっていてノッた人々が、ツイットやブログで騒ぎ立てたため、少々大事(おおごと)になって、最終的に勝間氏が自身のブログで釈明謝罪をすることになった(謝罪のみはできない、というのがディベート好きな彼女らしい)というのが騒動の顛末です。

 これは、まあどうでもいい。

 その点について興味のある方は、ひろゆき氏のブログや勝間氏のブログをみてください。

ひろゆき氏のはなし↓
http://www.asks.jp/users/hiro/68256.html

勝間氏のブログ↓
http://www.katsumaweb.com/modules/d3pipes/index.php?page=clipping&clipping_id=569

 ひとことだけ書いておくと、これは、フォト・リーディングによって大量の「知識」を詰め込み、視点を固定したまま(ちょっと怖い)、まるでマジシャンがロープでつながった万国旗を、帽子からツルツルと引っ張りだすように早口で言葉を連射する勝間氏に対して、多くの人が何となく感じる「独りよがりさ」を、(機嫌の悪かった)ひろゆき氏がピンポイントで狙い撃ったということなのでしょう。

 文章はともかく、たまに画像で見る彼女の言動に、わたしは長らく違和感を感じてなりませんでした。

 それがある時、その違和感は、彼女がまるで地面に掘った穴に向けて「王様の耳は~」と話し続けているような感じがするからなのだ、と気がついてスッキリしたことがありました。

 上で「独りよがり」と書きましたが、文字はともかく、勝間氏の会話には相手がいないように思えてならないのです。

(おそらく)彼女も、素人相手の講演や交流会などでは、もっとゆっくり話をしているのでしょう(見たことないから知らないけど)。

 しかし、討論などでは、相手の知力を最大限に評価した上で、そのスピードで話そうとされるのですね。

 ワンセンテンスごとに、自分の言葉が相手にしみこんでいるかどうかの判断は後回しにしてね。

 そんなふうにみえる。

 でも、公開の場の会話なら、それを見ている人もわかるように、ある程度ゆっくり特殊な言葉を使わずに話すべきなのではないかなぁ。

 彼女の話ぶりを見ていると、いつもわたしは、このブログでも何回か引用した、伊丹十三氏の言葉を思い出すのですね。

「プレイボーイというのは、男としての自信のなさを、落とした女の数で示そうとしいるだけの哀れな男なのだ」

 これは名言です。

 個人的には至言といっても良い。

 これをあてはめると、

「自らの意見についての自信のなさを、大量の情報と言葉の多さで糊塗(こと)しようとしているだけなのだ」

 という感じでしょうか。

 とにかく、彼女が話すのを聴くと、ボーレートの違うモデム同士が無理矢理ネゴシエイションしているような気がするのですね。

 300bpsのビーガリガリと2400bpsのギャギャーは繋がらんですよ。

 ↑古すぎて今の人にはわからないでしょう。分かる人だけ頷いてくれたら嬉しいです。

 さて、ここからが本論です(って、まだ入ってなかったの?)。

 上の騒動に関連して、ホリエモンこと堀江貴文氏が以下のように書いています。

http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10526599498.html

 これは面白いですねぇ。

 堀江氏に関していえば、個人的には好き嫌いはありません。

 頭の良いコドモであるとは思います。そして性格的にどこか歪んでいる。

 さらにいえば、ただの人間です。

 だから、若い頃は、かなり理想論をかざして会社を起ちあげたものの、ライブドアを買収し株式売買で大金が転がり込んでくると、ごく普通に金に翻弄されてしまった。

 そんな印象ですね。世間に流れる情報から判断しただけなので違うかも知れませんが。
 ただ、彼が週刊誌や新聞で書いたり話したりするコトバは信用してはいけないと思っています。

 そもそも、彼はマスコミを馬鹿にしています。

 いや、自分で頭が良いと自負する人間の多くがそうかもしれませんが、自分以外の誰もが自分より頭が悪く、共に語るに足らないと思っている。

 だから、マスコミと、それにぶら下がっている衆愚(わたしが思っているのではありませんよ)相手には、テキトーな思いつきで引っかき回してやれ、と思っているようにみえてならないのです。

 たとえば、以前に彼は某新聞紙上で、
「世の中、金だ。小学校の時の劇で、一番可愛い子が主役をやらずに、街の権力者のブサイクが主役だった。つまり金だということでしょう」
などと書いていました。

 これを普通にとってしまえば、世の中を知らないバカ小僧ということですが、わたしにはそう思えない。

 あるいは、

「マスコミなんかいらない。インターネットに情報は落ちているから、それを集めれば雑誌や新聞をつくることができる」

なんていったこともあった。

 さすがに、これはジャーナリストの総スカンをくらいましたね。

 でも、わたしには、そんな言動さえも、「どれぐらいトンがったことを言えば、やれば、世の中が我慢できなくなるのか調べてやれ。面白いし」といった、奇矯な行動に走る奇癖が彼にあるような気がするのですね。

 分かっていてやっている。

 いわゆる、間違った使い方の「確信犯」です。

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ご存じのように、本来、「確信犯」に、わかってやっているの意はなく、道徳的、宗教的あるいは政治的な確信に基づいてなされる犯罪、という意味しかありません。
一般的に用いられる用法は今のところ間違いです。
まあ、いずれ間違った意味が定着するのでしょうが。

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 ただ、彼は、世の中全部を馬鹿にしているのではなく(そうしないほどには頭が良いからです)、中には、一目おく人間もいることを知っている。

 上記ブログを呼んでもわかるように、その「一目置く人」がひろゆき氏であり、つだるの津田氏なのですね。(ひろゆき氏とは対談集も出ている)

 残念ながら、勝間氏はそれに入っていない。

 少し前の「朝まで~」(録画したけど、ナナメ観で消してしまったなぁ)で、結構、勝間氏から「私たちヤング世代」と仲間扱いしてもらっていたのに、冷たいなぁ、堀江氏は。

 で、これから、本題中の本題になります(え、まだだったの?)。

ブログの中で、堀江氏は以下のように書いています。

「ひろゆきと論戦をするならば、もっと違った観点でこっちも本質的なところを攻めていかなければならない。一般論やありふれた言説をただなぞるだけだと、このように反撃されるのだ」

 前半部については、個人的には、ひろゆき氏が「本質的」なことをいっているとは思いませんでした。

「儲ける金の金額ではなく、仕事自体の歓びにこそ幸せが在する」という、一般的な幸福論を述べた、ということですね。
 
 それに対して、勝間氏の説く「人から認められ、それに見合った金を儲けることが幸せ」も、耳障りはよくありませんが、幸福論のひとつです。

 好き嫌いはあっても、優劣はない。正誤もない。

 今日、食べる金もないドン底の生活を経験した人間にとって、金を無視した幸福論は容認できないものですから。

後半部、「一般論やありふれた言説をただなぞる」という言葉がでるのが、やはり堀江氏の頭の良いところですね。

 見事に勝間氏の可能性と限界を言い得ています。

 彼女の不幸は、見える人には、(事実はどうであれ)そう見えてしまう、ということですね。

 あれ、まだ本題に入ってない。どうしよう。

 つまりね、前半部の、勝間氏は表層を、ひろゆき氏は本質を観ている、という部分に、ホリエブログを見ている多くの読者が反応したわけですよ。

 そのほとんどが、堀江さん、あんたは正しい、「ひろゆき本質、勝間表層」バンザイ論だったのが、どうにも気になったのです。

 上でも書いたように、二人の幸福論に優劣はない、正誤もない、とわたしは思うのです。

 おそらく、堀江氏も、適切な言葉を思いつかなかったから、ノリで「本質」云々(うんぬん)と書いたと思うのですね。

 よく考えれば、本質、非本質なんてそんな単純な話ではないことはわかるはずです。

 それを、堀江氏の言葉にのって、ひろゆき本質、勝間非本質~などと浮かれて、ハメルンの笛吹き(パイドパイパー)についていくコドモみたいに、堀江氏の意見についていくのは危険です。

 なぜなら、彼は、マスコミ(ネット含む)とそれに群がる人々をバカにしている男なんですから。

 誠意のほども、甚(はなはだ)だ不明瞭な人間ですし。

 笛の音に浮かれてあとを付いていくと、どことも知れぬ山奥で、舌を出してどこかへいってしまうかも知れませんよ。

 その点では、勝間氏の方が、笛吹としては誠実さがあるかな。

 少なくとも、あとをついていって、サーカスに入り、自堕落な生活をするうちにロバになってしまう、なんてことはないでしょうから(あれ、こりゃピノキオか)。

 結婚しないワーキングガールを大量生産した、かつての雑誌「クロワッサン」のように、崖っぷちまで連れていかれてから、我が身に危険を感じた彼女が、用意万端、自分だけパラシュートで飛び降りる姿を、涙目で見送る可能性は否定できないけれども。

 あー、読み返すと、どうも悪意がある文章だな。

 すみません。

 ピースウォーカーがなかなか進まなくて機嫌が悪いんです。

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2010年5月 2日 (日)

バカな男の、愚かで優しいみっともなくもカッコイイ生き方 「レスラー」

 ミッキー・ローク主演の「レスラー」を観ました。

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Witness The Resurrection of Mickey Rourke.

 どこかのサイトにあったオリジナル英語版のトレーラーで、裸のミッキー・ロークの映像とこの文字を観た時、ネコパンチ(古いなぁ、覚えていますか?)の再来か、と笑いそうになりました。

 監督も、あの、なんだかわからない「π(パイ)」を撮ったダーレン・アロノフスキーだし……

 公式サイト↓

   http://www.wrestler.jp/

 が、あとで、この「The Wrestller」が、全世界の映画賞54冠!(ヴェネチア国際金獅子賞含)を達成した『極太』の映画であることを知り、いずれは観たいと思いながらその期を逸していました。

 というより、実際は、なんだか観てはいけない映画のように思えて、避けていたのです。

 どうして、そんなふうに思ったのか?

 たぶん、映像で一瞬写る、顔はすっかり老けたものの、体にはかなり筋肉をしっかり残した「いかにも老いたレスラー体格」のミッキー・ロークの姿に「これは観てはならない映画なのだ」という直感が働いたからでしょう。

 そして、それは正しかった。

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 基本的に、わたしは、ほとんどの作品に耐性があります。

 ホラーであろうと、SFであろうと、文芸であろうと、コメディーであろうと。

 耐性とはつまり、映画を楽しみつつ、それを作られたフィクションとして、カメラワークや脚本の流れを評価できる、ということです。

 いわゆる、岡田斗司夫氏がいうところの、

「特撮オタクが、スゴイ特撮だと感動しながらも、心の一部でどうやって撮っているのか分析し続ける心」

 あるいは氏の言葉を借りて言い換えれば、

「宇宙人と対面した科学者が、その事実に気絶しそうになりながらも、彼らの内蔵の位置や免疫構造を見極めようとする気持ち」

を忘れず映画を観ることができる、ということですね。

 しかし、数多(あまた)ある映画の中には、そんな余裕を持てず、作品に気持ちが持って行かれてしまうものがあります。

 たとえば、「真夜中のカーボーイ」(車のボーイの意で、原題のカウボーイでないところに注意!水野晴郎氏のセンスさすが)、スコセッシの「タクシー・ドライバー」や、オリジナル版「傷だらけの天使」最終回、あるいはTVシリーズ「OZ/オズ」などがそれです。

 一度、取り込まれてしまったら、しばらくは、その気分に支配されるため、なるべく、そういった「重い」作品は、敬遠するようにしているのですが、ゴールデンウイークも始まったことだし、「レスラー」は思い切って観ることにしたのです。

 さて、ミッキーロークの「レスラー」

 結論からいうと、ずっと尾を引くような作品ではありませんでしたが、観ている間は、まったく余裕がなくなる作品でした。

 ストーリーは単純です。

 かつて栄光を極めたプロレスラーであったランディ(=ミッキー・ローク)も、50代半ばになって、すっかり人気も衰え、地方の特設リングを回りながら、口に糊する(メシを喰う)生活を続けています。

 しかし、大量の筋肉量を維持するため、プロテインを飲みステロイドを使う毎日は、徐々に年老いたランディの心臓に致命的なダメージを与え、ある日、彼は心臓発作を起こして倒れてしまう。

 目が覚めると、心臓バイパス手術を施され、胸には大きな傷跡が……

 医者から「無理な運動などもってのほか」といわれて、結局、ランディは引退を決意します。

 週末は地方巡業、ウイークディはスーパーの荷物搬入という「二足のわらじ」を続けてきたランディは、虫の好かない上役に頼んで、フルタイムのスーパー店員になろうとするのです。

 生き甲斐をなくした彼は、今まで以上の孤独を感じ、なじみのストリッパーに求愛します。

 このストリッパー役のマリサ・トメイがイイ。

 若すぎず老けすぎず、いわゆる妙齢のご婦人で、よく気がついて優しく生真面目でイヤラシイくらいに色っぽい(映画を観てください)、という、かなり矛盾しているようで、かつては色街で案外よく見かけた女?を好演しています。

 結局、彼女から拒絶され、疎遠だったひとり娘との関係も、自らの愚かさからコジれてしまったランディは、病をおして、ファンサービスとして20年ぶりにマッチングされたリングに上ります。

 それが、バイパス手術を受けた彼の体に、どんな影響を与えるかを知りながら……

 というように、ストーリーはシンプルですが、そこで描かれるシーンの一つ一つに魂がしめつけられる気持ちがするのです。

 たとえば、控え室に入ったランディに、若いレスラーが最敬礼をしながら「今日のリングの打ち合わせ」をするシーン。

 掛け値なしの敬意でハグする彼らに、年長者、先行く者の優しさをもって、ランディはいいます。

「前に君の試合を観たよ。良いセンスだ。客がよろこんでいたからな。やりたいようにやって客を喜ばせろ。それが大切なんだ」と。

 ああ、書いていて、今気づきました。

 上で「引退して孤独を感じ」と書きましたが、それはリングに上がると(少ないながらも)ファンに囲まれるだけではなく、若いレスラーからの敬意を得られるからなのですね。

 また、試合が終わって、レスラー仲間と和やかに挨拶を交わしながら、大きな背中を見せつつ、ガラガラとリング衣装の入ったキャスターを引いて去っていく後ろ姿の映像もいい。

 仲間とホームセンターで、リングで使えそうな、つまり、派手に音が出て痛そうにみえながら、そうでもないシナモノ、具体的にはフライパンやアルミのトレイをみつくろっているのもなんだかもの悲しくてつらいなぁ。

 ランディは、粗野で乱暴な男ではなく、マジメで紳士的であろうと努力するエンターティナーなのです。

 そして彼が属するプロレス界も同様。

 リング上では「死にやがれジジィ」と反則ワザを繰り出す悪役レスラーも、控え室ではお互いの技術のうまさを称(たた)え合い、拍手しあいます。

 彼らは知っているのです。

 自分たちのいる、場末の仮設リング(体育館借り受け?)が舞台の地方プロレスは、地方ファンからは、憧れられ慕われても社会的には下層であることを。

 体がモトデの肉体資本主義(古館氏のうまい表現)だからこそ、仲間同士がいたわりあって、やっていかなければならない。

 つまり、レスラー仲間は血のつながりはなくとも家族なのだ、と。

 映画用に少し美化されているのかも知れないとも思いますが、おそらく、中央ではない、地方プロレスでは、こういったアットホームな雰囲気が現実にあるのでしょうね。

 映画のラストに、先年、リングで事故死された三沢光晴氏の映像がオーバーラップしました。

 その時も、リングに倒れた三沢氏を、ワザをかけた相手はじめ、レスラー全員が心配そうに見守っていましたね。

 あと、これは、書くべきかどうか迷いましたが、書いておきます。

 力を崇拝するアメリカの一般人にとって、体が大きくたくましいレスラーは敬うべき異人種です。
 
 もっとも、これは洋の東西は問わないかもしれません。
 日本人も相撲取りが好きですから。

 自分たちとは違う体格で世間を見下ろし、自分たちにできない格闘を繰り広げる超人たちに彼らはあこがれる。

 たとえていえば、彼らは、地上人が憧れる雲上の神々に近い存在なのでしょう。

 だからこそ、映画でも、リングサイドには肉体的弱者、たとえば車いす生活者であったり侏儒の人たちが集まって声援を送る姿が描かれていました。

 ランディも、自分を冗談めかしてヘラクレスに例えています。

 もちろん、実際は、そんなものではありません。

 レスラーの多くは、長年にわたる激しい衝撃や打撲によって腰痛や肩の痛みなど、体のいたる所に障碍を抱えているのです。

 確かにレスラーたちは、もともと肉体に恵まれたヘラクレスたちで、リングの上は、神々が集う天界なのかもしれない。

 しかし、一歩控え室に入れば、ヘラクレスたちは湿布で関節を冷やし、痛み止めの注射を打ち、ガラスや鉄条網で切った傷を麻酔もなしで縫い合わされているのです。

 その風景はオリンポスというより、北欧神話のヴァルハラ(*)に近いですね。

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  (*)オーディンに支配されている戦死者の館
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 彼らはそんな舞台裏はファンに見せずに、リングでの戦いを見せ続けなければならない。

 苦痛を隠し、夢を売ることで、彼らは収入を得ているのですから。

 この映画を観て高校時代の友人を思い出しました。

 彼はプロレスの大ファンでしたが、プロレスの開催場所情報が、野球などと違い、新聞の「スポーツ欄」でなく「興業欄」に載っていることを常に憤慨していました。

 当時は「へえ、そういうものなんだ」と、なんとなく思っただけでしたが、今ならそれについて少し付け足せるような気がします。

「プロレスは、スポーツ欄ではなく興業欄に載っている、だから素晴らしいのだ」と。

 村松友視の有名なことばがありますね。

「プロレスはプロのレスリングではなく、プロレスという別なものなのだ」

 けだし名言であると思います。

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2010年5月 1日 (土)

異国で輝く異才:それを認める度量 「大遣唐使展」に思う

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 書き忘れていましたが、一週間ほど前に、奈良市の国立博物館で行われている「大遣唐使展」に行ってきました。

 眼目(がんもく)は、先日放送された「大仏開眼(かいげん)」(言いたかないけどひどいデキでした)でもおなじみの吉備真備(きびのまきび)の、中国での活躍を描いた「吉備の大臣入唐(にっとう)絵巻」の実物を見ることでした。

 かつてフェノロサと岡倉覚三(天心)が歎いたように、ガイコクバンザイだった明治時代に、日本の古美術品は、多数海外に流出しました。

 ご多分にもれず、この作品も単身?渡米し(1932年ですが)、ボストン美術館に収められているため、こんな機会でもなければ目にすることはできないのです。

 で、その絵巻物、まあ今でいうストーリーマンガですね、これがどんなものかというと……

 ひとことでいえば、遣唐使として、唐にやってきた吉備真備を貶(おとし)めようと、様々な画策を巡らす唐の役人たちに対して、彼の地で命を落とし、今は鬼となった阿倍仲麻呂を味方に、真備が、それらの罠を次々と咬み破っていく痛快絵巻物です。

 吉備真備が鬼と一緒に空を飛んでいたり、唐の囲碁名人から、やったことのない囲碁勝負を挑まれ、付け焼き刃の知識で、天井のマス目を碁盤に見立ててシミュレーションを繰り返すシーン、そして、きわどいところで勝負に負けそうになって、アゲハマ(とった碁石)を一つ飲み込み、疑われて下剤を飲まされ、すべてを排泄させられそうになりながら、異物を腸内に留め置く呪文(ってどんなもの?)を念じて、囲碁勝負に勝利するシーンなどコミカルに描かれています。

 残念ながら、巻物のすべては展示されていませんが、博物館地下の通路に設置された(株)シャープ提供の横長巨大ハイビジョンで、分かりやすい解説とともに現存する全てが紹介されています。

 あ、いま、公式サイトで、去る4月29日の朝にNHK総合で、「吉備大臣入唐絵巻の謎に挑戦」なる番組が放送されていたことを知りました。

 見逃したなぁ。

 でも、5月3日の午後3:05から再放送があるから、それを観よう(NHK総合)。

  http://kentoushi.exh.jp/program.html

 さて、ここからが本論です。

「異国で輝く異才:それを認める度量」と、タイトルにありますが、今回、お目当てだった絵巻物より、わたしが感銘を受けたのが「井真成墓誌(せいしんせいぼし)」でした。

 日本からの留学生、井真成(日本名は藤井氏あるいは井上氏といわれる)が、唐で官職につきながら36歳で亡くなった時にその墓所に収められた石版です。

 石版自体は多少すり減っていて読みにくいのですが、横に掲示された漢文は読みやすく、わたし程度の浅学の徒でも、だいたい内容はわかります。

「日本からやって来た留学生は、素晴らしい才能を見せていた。日本に戻れば、他にならぶものがない才能を示したことだろう。

 しかし、勉学の途中、36歳の若さで死んでしまった。

 皇帝もその死を惜しまれ、礼式にそって贈官(官位を贈り)し、葬式は官費で行った。
 ああ、悲しいかな、早朝に棺をのせた車が官舎を出で、喪を示す赤い布も風にはためいている。

 墓所までの遠い道のりの間も哭(な)き声はやまず、陽が傾けば、なおも思いは募る。
 広い郊外の野を葬列はすすみ、墓所に至ると、また悲しみは新たとなった。

 異国の友人の霊を安んじるために書いた墓碑銘の永訣の言葉は……」

[原文]

「〔榮〕は乃ち天常にして、哀は茲れ遠方。
    形は?に異土に埋められしも、魂は庶はくは故鄕に歸らんことを」と

[訳]
 人が死ぬのは天の理(ことわり)であるから仕方がない。

 悲しいのは遠方であることだ。

 体は、もう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願うばかりだ、と」

 大遣唐使展の公式サイトでは、この石版をして、

「皇帝もその死を惜しんだ日本人留学生(るがくしょう)がいた!」

  http://kentoushi.exh.jp/highlight.html

と書いています。

 今まで、わたしは、遣唐使を、なんとなく「進んだ唐の仏法・学問を学ぶために出かけた国策の、あるいは個人的に野心をもつ勉強家たち」だと思っていました。

 もちろん、それは正しい考えだと、今でも思っています。

 しかし、「大遣唐使展」に行って、その考えには「唐の人々から見た遣唐使」という視点が抜け墜ちていることに気づきました。

 唐の人々から見れば、はっきりいって、当時の遣唐使は、文化・科学的に劣った国の使者であったはずです。

 三浦按針(みうらあんじん:ウイリアム・アダムス)や耶楊子(やようす:ヤン・ヨーステン)ならわかります。
 だって、彼らは「進んだ異国」からやってきた男たちだったのですから。

 けれど、唐の人々から見た日本人は違う。

 極言すれば、彼らが日本人から学ぶものは、ほとんどなかった。

 しかし、歴史的にみれば、遣唐使のうちの何人かは、唐代の皇帝に重用されて、かなり高位の官職にもついている。

 これは、もちろん、遣唐使たちが特に優秀な人間たちで、(日本語以外に)流暢に大陸の言葉を話し、学問の理解力も高かったということもあるでしょうが、それ以上に、唐が国際都市で、ヨソモノに対して開かれた(というかサバけた)社会であったことを示しているのではないでしょうか。

 使えるヤツは使えば良い、という。

 当時の長安は国際都市で、紅毛碧眼の人種も多く、ハーフやクオーターも相当数いたといわれています(わたしもかつて「李白の目は青かった」という俗説にインスパイアされて青い目の李白を主人公とする「碧眼の詩」という小説を書いたことがある)。

 翻(ひるがえ)って、現代の日本を考えてみると……

 隣国とはいえ、小国、島国からやってきた異人たちを、今の日本は政治に重用するでしょうか?

 否、それどころか異人種には警戒感を募らせているところです。

 もちろん、アジアの隣国たちが、われわれと、政治形態と中心思想が違う国になってしまっているからですが。

 それに歴史的に不幸な経緯もある。

 だから、今の日本は異人を国政に受け入れない。

 その伝でいえば、現代中国も「島国根性」ともいうべき小国性丸出しを露呈している感じがしますね。

 かつての大らかさが感じられない。

 某検索サイトも撤退しましたし、ツイッターも使用不可能。

 ともあれ、この、2004年10月に発見された井真成墓誌によって、これまで知られていない、歴史に埋もれた有能な遣唐使が存在したことが明らかになりました。

 だからこそ、この石版(墓誌)は一見の価値があると思います。

 上記以外でも、展示館入り口には、ピカピカに磨き上げられた、和同開珎(わどうかいちん:富本銭ではなく)が飾られ、あの玄宗皇帝や、王義之に傾倒した太宗皇帝が、自ら書いたといわれる碑文の拓本も展示されています(「直筆」を、どこまで信じてよいかはわかりませんが、玄宗皇帝の文字は幅広で力強く読みやすく、太宗皇帝の文字はすっきりと美しいスタイルです)。

 陶器や仏像にはあまり興味がないのですが、石碑などに残る、当時の様子を知る文献には非常に興味深いモノがあります。

 混雑するとは思いますが、時間があれば、この休みの間に行かれてもよいと思います。

 わたしたちは行きません。

 なんせ、先日、県知事から、他府県の人々のため奈良県民は遷都1300年関連の場所に行くことを控えろ、というお達しがありましたから……

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