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2010年3月

2010年3月30日 (火)

懐かしきヴァージニア>懐かしの野営地

 先日、単車に乗って出かけた帰り、信号待ちでエンジンを切って(二輪なのにエンジンストップしてるんです)待っていると、なんだか、懐かしいカンカンという音が聞こえてきました。

 どこから音が聞こえるのかと、ヘルメットを跳ね上げ(前に、このブログでも書きましたが、わたしのヘルメットは前部跳ね上げ式のフルフェイスです。かぶったままアイスクリームが食べられて便利!)て、あたりを見回すと、見つけました。↓

 シルバー人材センターの脇に立つフラッグ・ポール、つまり国旗掲揚用のポールに、旗揚げロープが風にはためいて当たって立てる音だったのですね。

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 これは懐かしい響きです。

 かつて、ボーイスカウトに所属して、休日になれば小学校の校庭や、近くの神社でテントを張って野営の練習をさせられていたときに、よく聞いた音です。

 県営の球場や陸上競技場などでも耳にする音ですね。

 一日の活動を終えて、シュラフ(いまはスリーピングバッグというのかな)にもぐりこむと、遠くで、このカーン、カンカーンという、妙によく響く音が聞こえてくる。

 連日、その音を聞きながら眠りについたのを思い出しました。

 個人的には懐かしい響きです。

 それで、さらに思いだしたことがありました。

 ボーイスカウトといえば「スカウト・ソング」というものがあります。

 ご存知のかたも多いでしょうか?

 「ジャンボリーの歌」とかね。

 いろいろあるのですが、あの中で、わたしが特に好きだったのは「懐かしの野営地」でした。

 朝6時に起床して、「配給」の笛の音でバケツを持って本部と野営地を往復し、薪を割り、タチカマドで食事を作り、オリエンテーリングに出かけ、結索技術(ロープ結び)を練習する。

 夕方近く、疲れた体をテントの中で横たえていると、遠く離れた本部テントあたりから、この曲が流れてくるんですね。

 ♪いざゆかん懐かしの
  夢のふるさと那須の森
  鳥は歌い木々は笑み 
  われを招く丘の家
  わが友と佇む~♪

 他の多くのスカウト・ソング同様、名曲に歌詞を付け替えて換骨奪胎したものですが、これがいい。

「懐かしの野営地」は、原曲をグラント作曲の「懐かしきヴァージニア(Carry Me Back)」というアメリカ民謡から得ていますが、尾崎忠次氏のすばらしい歌詞によってスカウトソング随一の名曲になりました(個人的感想)。

 いやいや、あまりに個人的思い出ばかり書くのもいけませんね。

 ともかく、何気ない音で、いろいろと忘れていた記憶が喚起されることがあるものだなぁ、とあらためて、ヒトの記憶の不思議を感じた次第でした。

Youtubeに原曲のオカリナ演奏がありました。↓

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夕暮れ時は影が大きく伸びるモノ EU脅威論ってホント?

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 今回は、ちょっとマジメに、世界ジョーセーにおける、ここ数年の過去と未来について、現在わたしが考えていることを、いくつか書いておきます。

 しかし、時代の変化というのは、面白いものです。

 世が世なら、どこかの農場で空を見上げ、今日は落ちるか、明日は空が落ちてくるかとヤミクモに頭をかかえて明日を心配するだけの農民であったに違いないわたしが、インターネットや様々なメディアを通じて、明日よりも、もっと先の未来を憂うことができる。
 まあ、マスコミや政府が選別し、あるいは意図的に流すガセ情報からは、間違った結論しか出てこないのですが。

 間違ったインプットから真実が出てくることは、ほとんどありませんから。
 (そのことについては「デジタル技術を媒体にした情報入手の危険性」というテーマで次回書くつもりです)

 まず、書いておきたいのは、マスコミや(自称)経済専門家が、こぞって、世界経済の脅威として報道してきたEU経済圏の実体についてです。

 ヨーロッパ各国がユーロに貨幣統一された時、ほとんどの経済シンクタンクの専門家たちは、その巨大な経済圏を、アジアなかんずく日本に対する重大な脅威だと声高(こわだか)に叫んでいました。

 しかし、それについて、わたしには違和感が感じられてならなかった。

 なぜなら、それは「ヨーロッパはひとつでなけれがならない」という理想のもと、どうみても、不良国(経済的に)を抱え込んでの経済統合だったからです。

 よくいわれるように、鎖の強度を決めるのは「その中の一番弱い環」です。

 他がいかに強くても、弱い部分で切れればそれまで。

 ドイツやフランスがどれほど頑張ろうとも、経済的不良国を抱えての統合には無理がある。

 ヒトに例えれば、いかに図体がデカかろうと、腎臓や肝臓、肺や胆嚢に致命的な欠陥があれば巨体は長生きできないのです。

 総合的に強くもない。

 なのに、夕暮れ時に、長く伸びる小さな友だちの影におびえるコドモのように、日本のマスメディアと(自称)経済学者たちは、随分、日本国民にEUのオソロシサを吹聴してきました。

 異常なほど。

 もちろん、炭坑夫が坑道に入るとき掲げるカナリアのように、他に先んじて警鐘をならし、あるいは「岳陽楼記」にいう先憂後楽(天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後〈おく〉れて楽しむ)なのがジャーナリズムの本道であるのはわかります。

 しかし、どうも最近のマスコミの行動原理に、わたしには未来の読み間違い、いや「間違った時に、楽天的に間違うより、悲観的に間違った方が攻撃されずに済む」という保身が働いているような気がしてならないのです。

 アリテイにいえば、楽天的なことをいうより悲観的なことをいったほうが、利口にみえる。

 コズルイ考えです。

 案の定……

 EU統合から経ること数年、その頭文字をとって、PIGSと呼ばれる国々からホコロビが見え始めています。

 P:ポルトガル
 I:イタリア
 G:ギリシア
 S:スペイン

 もともと、これらの国が経済的に弱く、EU経済圏に入れるかどうか、議論があったのは記憶に新しいところですが、それにしても、わざわざ「ブタども」という並びで蔑称する(たしかEUでもそう呼ばれているはず)のはどうか思います。

 ドイツやフランスにとっては、「俺たちのアシを引っ張るなよ」という気分なのでしょうが……

 もちろん、彼らの憤りもわかります。

 実際、最近になって問題が発覚したギリシアにいたっては、EUに参加するためにクリアしなければならない経済基準(財政赤字がGDP比3パーセント以下)を、最初の1年しか守っていなかった(上はギリシアの国旗)。

 2001年にユーロ統合されてから、曲がりなりにも条件を守ったのは1年間だけ。

 それ以降、今まで8年間、ずっと粉飾決済しながら他国をダマしてきたのです(現在の財政赤字は12パーセント!)

 そもそも、他の11ヵ国は1999年にEU統合されていたわけで、ギリシアが2年遅れたのは赤字が多すぎたためだったのですから、最初から無理な婚姻であったというわけです。
 今では、二年後に試験をパスしたのも統計的ゴマカシをしていたのだ、といわれているほどです。

 さらに、赤字の原因が「高所得者に対する過度の優遇税制」と「公務員の異常な高給」にあるというのだから、ドイツ、フランスの怒りもムベなるかな、という感じですが、そんなことはもともと分かっていたのになぁ、という気もします。

 個人的な感触では、ヨーロッパ各国のほとんどのヒトは、働くことに熱心ではありません。

 特に南欧は。

 長期休暇の合間に、ちょこっと働く感じですね。

 例外はあるでしょうが、精神的に(あるいは文化的にといってもいい)「成熟」というか「老成」してしまって、「アクセク働いたって、どうせ一生だぜ」という諦観にも似たジジィぶりを感じます。

 これは、次回に回すことになる『老いていくアジア』、あるいは『早熟すぎる後進国』と今は書いてはいけないので『早熟すぎる発展途上国』に一脈つながるところのある話です。

 いま、日本を脅かす、と学者とマスメディアが煽っているものは、大きく二つあります。

 ひとつはEUそして中国。

 2008年以降、リーマン・ショックをきっかけにした経済変動でギリシアの不良性は暴露されました。

 そして、EUが必ずしも盤石(ばんじゃく)でないことがわかった。

 では、日本を脅かす?存在として挙げられている、中国を含むアジアの国々は?

 それについては、次回に書きます。

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2010年3月24日 (水)

「アリス・イン・ワンダーランド」のさきがけ 「悪夢の国のアリス」

 ゲーム「どろろ」について書いたついでに、もうひとつ、ゲームについて書きます。

 今まで、基本的に、ゲームはコンピュータ・ベースのものをやってきました。

 だから、PS2を手に入れて、あらためてその操作性の良さに驚いています。

 だいたい、コンピュータでやるゲームは、キーボード操作がメインでしたから。

 PSPも持っていますが、あれは友人とKAI経由でやるモンスターハンターと動画鑑賞専用なので、他のゲームは知らないのです。

 コンピュータ用のゲームは、野心的、実験的で冒険心に満ちた作品が多く、魅力的です。

 プロペラ機によるエアコンバットの名作マイクロソフトの「クリムゾン・スカイ」は、フォース・フィードバック付きコンロトーラを購入してで操作するほど熱中しましたし、天下のクソゲーとして名高い「パソコン版トゥームレイダー2」はキーボード操作だけで長時間苦しみましたが、終わってみれば面白かった。

 後の、他のマシンに移植されたものと違って、TR2はプロトタイプの常でゲームバランスが最低だったのです。

 このように、パソコン用ゲームの名作は、後に専用機に移植されるものが多いのです。
「CALL OF DUTY」とかね。

 しかし、今回、ご紹介する「アリス イン ナイトメア」は、そのカルト的な人気にもかかわらず、なぜか専用機に移植されませんでした。

 http://www.japan.ea.com/alice/main.html

 もうすぐ公開されるティムバートン監督の「アリス イン ワンダーランド」がインスパイアされたと噂される名作です。

 http://www.disney.co.jp/movies/alice/

 10年も前の作品なのに、その魅力は、今観ても色あせていません。

 タイトル通り「悪夢の国のアリス」(正確には「悪夢の中のアリス」かな)を描いた3Dゲームです。

 不思議の国の冒険を終えて自宅にもどったアリス。

 その後も、時折、夢でウサギたちと遊ぶ彼女を不幸が襲います。

 自宅が火事になって、両親を失ってしまうのです。

 心に重大なトラウマを抱えたまま、精神病院で成長した彼女に、ある日、胸に抱いたウサギが話しかけます。

「もういちど、僕たちを助けるために不思議の国に戻って」

と。

 しかし、不思議の国は、かつての美しい場所ではなかった。

 ウサギは不気味で悪意のある顔をし、チェシャ猫はヒントこそ与えてくれるものの、相変わらずの皮肉屋ぶりです。

「役に立つものがあったらキープしておけ。捨てていいのは愚かさだけ。そうすれば生き残れる」

 出会ったトランプの兵隊たちは、アリスに襲いかかります。

 殺らなければ殺られてしまう。

 ナイフを振るい、トランプを投げて兵隊たちの首をはねるアリス。

 そして、アリスは血にまみれたナイフを握りしめ、かつてのワンダーランドを取り戻す決意をするのです。

 それが、結果的に彼女のトラウマを克服することにもなるのですね。

 なんとも、ダークで不条理で魅力的な作品です。

 バートンの映画はここまでイッテないだろうなぁ。

 備忘録を兼ねて、ゲームのムービー部分だけを集めた動画を掲載しておきます。

 ぜひ、一度、ご覧になってください。

 わたしは、今回の映画より、こっちの雰囲気の方が好きだな(映画はまだ観てないって!)。





















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俺を返せ! ゲームとしてのどろろ評価

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 蛇足ながら付け加えると、「どろろ」を、ゲームとして客観的に判断すると、サイコー!なゲームではありません。

 操作性もよく、チュートリアルは親切ですが、何人かが書いておられるように、ゲームバランスが悪い点がある。

 ショッパナはそう難しくないのですが、全七章+終章のうち、第三章がサイコーに難しいのですね。

 それ以降は、百鬼丸が強くなりすぎて「カツカツの勝利」、ナロウ・エスケイプってのがほとんどなくなるのです。

 エンディングの、さらにあとに続く終章「どろろ」は例外として……

 何度も繰り返し、最初からゲームをする「ヤリコミ」もありません。

 ザコ敵は、後半使い回しが多く新味に欠け、ボス敵にいたっては、ほぼ同じヤツがでてくることもある。

 しかし、個人的にはそれで良いと思います。

 「どろろ」は、ゲームというより、原作その後を描きたいという人々が、たまたまゲームというメディアを使った作品だと思うからです。

 ゲーム自体を楽しむというより、プレイヤーに、ストーリーと雰囲気を味わってもらいたい、昨今の劇場版アニメのように、話題づくりのためだけに声の通らない活舌(かつぜつ)の悪いアイドルタレントを使うのではなく、はっきりと明瞭に話す声優たちの声に酔い、雨宮慶太の文字にシビれながら、名作の完結を観てもらいたい、そんなコンセプトだということが、痛いほど伝わってくる。

 だから、何度も繰り返しゲームをして、スペシャル武器を探したり、称号をもらったりする必要はないのです。

 確かに、それで定価8,000円は高いのかも知れません。

 まあ、アニメのDVDなどは、30分6,000円前後と高いのが相場ですから、そう考えれば適正とも思えますが。

 だからこそ、廉価版、いわゆるBEST版が実売価格2,500円で売られている今、このゲームはやってみる価値があるのではないかと思うのです。

 なんせ、製品のコピーに「俺を返せ!」と高らかに記す制作者たちの作品なのですよ。

 彼らは、百鬼丸が「生まれながらにすべてを奪われた男」で、どろろが、魂以外のすべて=『俺』を取り戻すための遍歴を描いた手塚作品の名作だということをよくわかっている。

 その完結編を観ることができて、さらにゲームで参加することもできるんだから、文句なんてないと思うのです。

 命がけの危険な旅をともに過ごしてきた、百鬼丸とどろろが、ラストでイイ感じになるのもなんだか嬉しいですし。

 今、気づきました。
 五年後のどろろが女性らしくなっているのは、ただ単に年頃になったからではなく、醍醐景光が作りつつある平和のもとで、肩肘を張って男としていきる必要がなくなったためなのでしょう。

 動画で観ることもできますが、このゲームの最後の言葉、どろろが百鬼丸の手に頬を寄せ、囁くよういいう「アニキ」ということばの「甘い響き」、声優の面目躍如な声音をゲーム後にぜひ味わってほしいと思います。

 その意味で、「どろろ」を単純にゲームとして評価することは、わたしにはできません。

 これは、体験できる「どろろ物語」なのですから。

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2010年3月23日 (火)

原作者をこえて紡がれる夢 どろろ

 やった、やったやりました。

 ほげほげたらたらほげたらぴー

 ついさっき、二週間ほど前からやっていたps2ソフト「どろろ」の最終敵を倒し、エンディングを観ることができたのです。

 1969年度テレビアニメ版主題歌、ほげたらはこちら↓

 二週間といいましたが、最初の一週間たらずで最後の敵、いわゆるラスボスまでは、サクサクいけたのですが、なにせ、最後の敵が途方もないヤツで、あまりに勝てないものだから、しまいには半分以上あきらめて、毎日一時間だけチャレンジしてダメだったら仕事に戻る、という親にゲーム時間を決められている小学生のような日々を過ごしてきたのです。

 今日もダメだろうと思いながらやり始めたら、妙に体調がよかったのか、ついに最後の48連続スライス(という攻撃です)まで、キメることができました。

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「イイトシをして何をゲームにうつつを抜かしている」とお考えの方もおられるでしょうが(しかも6年以上前の作品!)、これはゲームというより手塚治虫が描かなかった結末を描いた作品といってよいモノなのです。

 その意味で、この作品後に作られた映画「どろろ」とは、一線も百線も画した作品です。

 手塚マインドがたっぷりと詰まっている。

 どろろは、最近のゲームによくあるように、まっすぐなストーリーを、間にゲームを挟みながら進めていく「動画→ゲーム→動画→ゲーム」パターンの作品ですが、その映像とゲームの世界観が正しく手塚ワールド。

 廃墟のあばらやなんて、室町の荒れた寒村の雰囲気そのものです。

 そこに、ちょっと女の子みたいなどろろを引き連れた百鬼丸が乗り込んで、魔物を退治し奪われた48の体の部位を取り戻す、という、映画でも知られたストーリーが展開されるわけですが、映画より、はるかにおどろおどろしい雰囲気が楽しいのです。

 制作に、漫画原作者の広井王子や雨宮慶太(ゼイラム、ガロ)の名を連ねているだけのことはあります。

 雨宮慶太による独特の字体による題字もイカしています。

 残念ながら、キャラクターデザインの沙村広明の「らしさ」はあまりCGには生かされていません。マニュアルの扉絵はいかにも「無限の住人」っぽいのですが。

 しかし、文楽人形に似た、異様に手足の長い、怒り肩の百鬼丸は非常に魅力的です。

 銀魂の坂田銀時の声優である杉田智和の声も良い。

 手塚治虫が説明しなかった、なぜ百鬼丸が体の器官を48も奪われても生きているのか、という説明も納得いきました。

 もともと、魔物を退治する光の戦士として生を受けるはずだった百鬼丸を畏れて、魔物たちが、乱世を平定して平和な世の中にしたいと願っていた彼の父、醍醐景光の心のスキにつけ込み、百鬼丸の体を奪ってしまった、というわけです。

 そういった特殊なヒトだから、少々体を奪われても死なない、というのですね。

 同時に、子供のころからの疑問が氷解しました。

 百鬼丸は、からだがツクリモノだから強いのであって、魔物を倒していけば、どんどんタダの人間になって弱くなるはずなのに、どうするのだろう、と思っていたのです。

 しかし、もともとスーパーな人間なのだから、元に戻ればスゴクなって当たり前。
 
 ゲームの百鬼丸は体を取り戻すたびに、どんどん強くなります。

 足が戻ったら、今までの数倍の速さで走ることができるようになるし。

 このゲームをするにあたって、いろいろなサイトを参考にさせてもらいました。

 だって、攻略本を手に入れようにも6年も前の作品じゃ手に入りませんから。

 なかでも「ゲーム大好き主婦のブログ」のにゃおさんのブログにはお世話になりました。

  http://paralyze.cocolog-nifty.com/blog01/2005/12/post_c4d8.html

 「百鬼丸に海馬が戻った」時に、彼女がふとつぶやく、「良かった!でも……今までなかったのかよ」には、笑ってしまいました。

 どろろのストーリーモードは、ほぼ原作通り・映画通りです。

 父景光から魔物を落とし、弟多宝丸が死んだ後も、百鬼丸は魔物退治を続けます。

「アニキ、おいらもついていくぜ」
「勝手にしろ」

 そして、陽気なエンディング、横スクロールで歩いていく百鬼丸とどろろ……え、おわり?↓

 しかし、それが終わると、最後には「つづく」の文字が。

 これまでたどってきた村や山に戻り、生き残っている魔物を退治していくのです。

 そして、47番目の魔物を倒した時、百鬼丸はどろろに、

「おまえの体の中に48番目の魔物がいる」

 と告げます。

 ショックを受けるどろろ。

「俺はこれから旅に出て、おまえの中の魔物を倒す方法を探す。何十年かかってもだ」 
「わかった。おいら待つよ」

 そして旅立つ百鬼丸。

 その時に、「今度会う時までには、女の子らしくなっていろよ」というのもお約束です。

 しかし、映画のどろろもそうですが、このCGのどろろも、やっぱりちょと女の子みたいなんですね。

 原作では、どうみたって女の子には見えない(失礼!)どろろだからこそ、最後の百鬼丸のコトバが衝撃的なのです。

 そして、最終章、タイトルはその名も「どろろ」

 変体書家?の雨宮慶太の面目躍如。カッコイイ字です。

 そして、エンディングへと気持ちを引き込むすばらしい導入部。

 五年後――

 昔と何一つかわらない百鬼丸が帰ってきます。

 そして、大きく成長して女性らしくなったどろろが出迎える。

 このときのどろろの衣装がいいなぁ。

 子供の時は、ただの薄着一枚だったから。

 百鬼丸は、魔物を引き出すことはできるが、どろろから完全に引き離すことはできず、魔物の中にどろろを入れたまま戦うことになる、と告げます。

 危険だから、腕はこのままでも良いという百鬼丸を制して、やってくれ、というどろろ。

 そして最後の戦いが始まる……のですが、これが「っぱナイッスよ」というヤツでした。

 四つのステップで少しずつ弱めていくのですが、そのどれもが、今までのボスの比じゃない。

 ひょっとしてクソゲー?と何度思ったかしれません。

 しかし、ついに闘神降臨す!というか、単なるツキで倒すことができました。

 そして、達成感さめやらぬまま、最後にどろろが見せた感謝と愛情に胸が暖かくなるうちに、今度こそほんもののエンドロールが始まるのです。

 いやぁー、映画より遙かに物語らしい、マインドのこもった作品を観終わった感じですねぇ。

 このセンで映画をリメイクしてくれたら、一も二もなく観に行くんだがなぁ。

 というわけで、最近、滞っていたブログ更新のいいわけを兼ねて、「どろろ」攻略の報告とさせていただきました。

 あー疲れた。

 オトナになったどろろ↓

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2010年3月22日 (月)

人気のほどは「藪の中」 ~TAJOMARU~

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 今回は、映画「GOEMON」についての覚え書き、と思いましたが、旬の話のほうが良いということで(まさしく『旬』だ)、先日レンタル開始になったTAJOMARUについて書きます。

 公開当時(2009年)は、ほとんど興味がなかったのですが、これが、あの芥川の「藪の中」からスピンオオフ?した作品であることは知っていました。

 さらに、年下の友人から、「うちのアネキが観に行きましたけど、あまりよく無かったらしいッス」との情報もあり、それほど期待せずに、観たところ……

 いや、その前に、だいたい「藪の中」っていうのは、その昔、今日の都は山科近くの藪の中に男の死体がみつかるところから始まる、まあミステリといってよい話ですね。

 えーと、小学校だか中学校だったかに読んだだけで、うろ覚えなのですが、登場する人物すべてが食い違う発言をし、結局、真実は「藪の中」というオチがつく作品だったはずです。

 世界のクロサワ監督の「羅生門」も、これが原作でしたね。

 しかし、わたしのウロのある記憶によれば、確か多襄丸(タジョウマル)は、数人いる登場人物の一人に過ぎず、主役を張れるような役割をもってはいなかったように思います。

 そうそう、わたしが子供の時に「藪の中」を読んで、一番驚いた、いや恐怖すら感じたのは「死者もウソをつくのだ」ことを、芥川がこの作品で描いていたことでした。

 物語終盤、巫女の口を借りて、殺された男自身が証言をするのですが、どうも、その男がウソをついているようなのですね。

 ミステリ好きならば、誰しも思うことでしょう。
 ああ、この被害者が口をきけたら。
 そうすれば、たちまち事件は解決なのに。

 まあ、実際には後ろからイキナリ殺されたら、被害者にも犯人はわからないでしょうが。

 ところが「藪の中」では、死者が意識的にウソを述べているように見える、これが私には恐ろしかった。

 死んだ後にまで、何を守り、何を陥れようとするのだろう。

 もうひとつ、自分の恥ずべき姿を目撃した夫を、妻が盗賊に殺すように懇願するのも怖かったなぁ。

 それにひきかえ、多襄丸は(少なくとも彼自身の証言と夫の証言では)、悪党ではあるが、少し良いところもあるトボけた男に描かれています。

 この点で、映画の主人公たりえるのだろうか?

 その上「女に目がなく女とみれば襲ってしまう」なんて役を、二枚目小栗旬がやれるものだろうか?と不思議だったのですね。

 確かに、捕まった多襄丸が、裁きの場で切るタンカ(結局本を引っ張り出して読み返しました)、

「何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。(中略)ただ、わたしは殺すときに、腰の太刀をつかうのですが、あなた方は太刀を使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません」

は、二枚目役者が、権力を前に朗々と述べ立てるのにふさわしい台詞のような気がします。

 まあ、昔も今も、この台詞は、盗賊(強盗)の言葉としては、少し哲学的過ぎ、内省的過ぎ、青臭く、脆弱(ぜいじゃく)すぎるように思いますね。まるで、アタマデッカチのインテリ青年だ……芥川のような、ね。

 ともあれ、映画です。

 観始めて、あれ、と思いました。

 そして、なるほどなぁ、と感心しました。

 なかなか、うまく考えられた脚本だと思います。

 「藪の中」を換骨奪胎(かんこつだったい)し、新しい多襄丸をつくりだしている。

 しかし、同時に、わたしの友人(とその姉)が、なんだかツマラナイ映画だったな、と思ったのも分かる気がしました。

 ストーリーがあまりに、ストレート過ぎるのです。

 出てくるワルモノ(名前はいいますまい)は、子供の頃からの悲惨な生活に飽き飽きして、自分が悪となることで全てを手に入れようとし、幼なじみの恋人は、あくまで永遠の恋人であり、多襄丸は、苦労しても屈折したココロをもたず、あくまでもストレートで上品な悪党……

 って、観ていないヒトにはわからないかなぁ。

 とにかく、ヒロインの行動に、多少の謎はあっても、ちょっと分かりやす過ぎるのです。

 すくなくとも、今の若者が親しむアニメーションの登場人物の思考はもっと複雑です。

 昔の「無思考絶叫型カブトコージ的ヒーロー」は、幼児向けアニメ以外には登場しない。

 エヴァンゲリヲンやエウレカなど「何を考えているのかわからないオトナたち」の複雑な行動原理に支配されるアニメーションに慣れ、「戦う司書」などの思想が入り乱れる群像ライトノベルに親しむ若者たちにとって、「TAJOMARU」の登場人物の行動や心理は、単純すぎて感情移入できなかったのではないかと思います。

 ヒロインの「愛している、だからこそ身を退く」というストレートさは、今のコドモたち、若者たちには、タイクツなのです。

 どうせストレートなら、韓流ドラマのように、ド真ん中直球勝負の恋愛モノや悲恋モノの方がすっきり腑に落ちるのでしょう。

 ラストも、エエッ、それでこれからドースルの?って終わり方ですしね。

 個人的には、それほどダメな作品ではないと思います。

 若者たちはともかく、年配の脇役たちの好演が光っているからでしょうか。

 最近、とみに変な方向に行ってしまったショーケンこと萩原健一の怪演はともかく、松方弘樹が特にエエ味出しています。

 ふだんは、あまり良い役者だとは思わないのですが(どちらかというと釣り人ってカンジですね)、こうして観ると、結構彼は上手い役者なんだなぁ、とあらためて見直した次第です。

 というわけで、複雑なオトナのやりとりと不気味さを味わいたかったら、次に書く「GOEMON」の方が向いていますが、昔ながらの、古風といってよい恋愛話を、見栄えの良い役者で観たいというのなら「TAJOMARU」はオススメです。

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2010年3月19日 (金)

アジアの遺跡? 道頓堀ホテル

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 久しぶりに、道頓堀ホテルの前を通ったので、つい撮影してしまいました。

 人通りの多い場所なので、景色だけを撮るのはなかなかむつかしい。

 どことなくアンコールトムという感じがしますね。

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実写版 月日貝 ~カムイ外伝~

 最近、またブログの更新が滞っています。

 この間から始めたPS2ゲームの「どろろ」に時間がとられている上に、ラジオドラマ原作や、「GOEMON」「TAJOMARU」そして、今回書く「カムイ外伝」などの映画を観ていたからです。

 いやあ、どろろはなかなかの名作ですよ。カムイ外伝

 最近、またブログの更新が滞っています。

 この間から始めたPS2ゲームの「どろろ」に時間がとられている上に、ラジオドラマ原作や、「GOEMON」「TAJPMARU」そして、今回書く「カムイ外伝」などの映画を観ていたからです。

 いやあ、どろろはなかなかの名作ですよ。

 難易度やゲームバランス等はよくわかりませんが、ストーリーが原作にほぼ忠実で、さらに手塚治虫ができなかった「物語を完結させる」という偉業を成し遂げているからです。

 しかも、制作者たちが、原作の「どろろ」を好きな者と同じ「マインド」を共有しているのがイイ!

 さらに、これがあの映画「どろろ」以前に作られているというのも良い。

 映画の方のマインドは、かなりいい加減な印象でしたから……

 いや、「どろろ」については別に書きます。

 今回は「カムイ外伝」です。

 カムイ外伝、特にアニメ版のものは、昔から大好きだったので、本来なら、一も二もなく映画館に足を運ぶところですが、脚本が、宮藤官九郎氏ということで躊躇してしまいました。

 以前から、どうにも宮藤官九郎氏のオーバーアクションな演出と脚本が苦手だからです。デキの悪いコントみたいに見えてね。

 けれど、原作があの名作「月日貝」なので、よほどの間違いを犯さないかぎり、そこそこの作品には仕上がっているはずです。

 崔監督というと「月はどっちに出ている」(古いなぁ)くらいしか印象にないので、予備知識が何もないまま、DVDを借りてきました。

 そして、観ました。

 最初の感想は……スガル、デカクね?

 原作でもアニメでも、スガルは、なで肩のすらりとした女性です。

 ちょっと小雪じゃ、肩がイカリ過ぎているし大きすぎる。

 おっといけない、このあいだのサマーウォーズ感想で、知人から、なにげなく「あの映画の悪口のはなし」と指摘されて反省しているところなのに(ベツニワルクチジャナインデスヨ、タブン)。

 このブログでも何度か書いているように、モノゴトは、悪口を書くと的外れになりやすく、ホメるとだいたい正鵠(せいこく)を射ることが多いものです。

 なるべくホメよう。

 確かに小雪はデカイ(実際にも印象も)。

 が、まあ、それは観ているうちに慣れてきました。

 小林薫がつかみどころのない、それでいて、しっかりと核のある骨太の漁師の役を好演しています。

 あれほどエネルギッシュだった男が、最後に犬死にするところもいい。

 松山ケンイチのコトバ不明瞭さが相変わらずなのは、まあ良いでしょう。

 ただ、忍者モノであるかぎりは仕方がないとは思いますが、少しばかりワイヤーアクションの不自然さが鼻についてしまいました。

 これなら、次回書くつもりの「GOEMON」のCGアクションの方が、世界観にあって自然な感じがします。

 ただ、飯綱(イヅナ)落としを実写で観ることができたのは感動モノでした。

 木から落下して行うバックドロップだもんなぁ。
 首がアサッテの方向向いて……そりゃ、ああなるわなって感じです。

 しかし、不動が失血死させられるラストには疑問が残りました。

 おそらくカムイ同様、天才であった抜け忍スガルが、その体術も使わず毒殺された無念さと、月日貝の恋人サヤカの苦しみを思うカムイの怒りの激しさは、原作どおり、生きながらサメに喰わせることでこそ表現できると思うからです。

 まあ、それは残酷すぎるし、松山ケンイチファンから嫌われるという大人の判断が働いたのでしょうか。

 ともあれ、忍風カムイ外伝、あれ、忍風はついてなかったか?

 御時間と機会があればご覧になられてもよろしいかと存じます。

 難易度やゲームバランス等はよくわかりませんが、ストーリーが原作にほぼ忠実で、さらに手塚治虫ができなかった「物語を完結させる」という偉業を成し遂げているからです。

 しかも、制作者たちが、原作の「どろろ」を好きな者と同じ「マインド」を共有しているのがイイ!

 さらに、これがあの映画「どろろ」以前に作られているというのも良い。

 映画の方のマインドは、かなりいい加減な印象でしたから……

 いや、「どろろ」については別に書きます。

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 今回は「カムイ外伝」です。

 カムイ外伝、特にアニメ版のものは、昔から大好きだったので、本来なら、一も二もなく映画館に足を運ぶところですが、脚本が、宮藤官九郎氏ということで躊躇してしまいました。

 以前から、どうにも氏のオーバーアクションな演出と脚本が苦手だからです。デキの悪いコントみたいに見えてね。

 けれど、原作があの名作「月日貝」なので、よほどの間違いを犯さないかぎり、そこそこの作品には仕上がっているはずです。

 崔監督というと「月はどっちに出ている」(古いなぁ)くらいしか印象にないので、予備知識が何もないまま、DVDを借りてきました。

 そして、観ました。

 最初の感想は……スガル、デカクね?

 原作でもアニメでも、スガルは、なで肩のすらりとした女性です。

 ちょっと小雪じゃ、肩がイカリ過ぎているし大きすぎる。

 おっといけない、このあいだのサマーウォーズ感想で、知人から、なにげなく「あの映画の悪口のはなし」と指摘されて反省しているところなのに(ベツニワルクチジャナインデスヨ、タブン)。

 このブログでも何度か書いているように、モノゴトは、悪口を書くと的外れになりやすく、ホメるとだいたい正鵠(せいこく)を射ることが多いものです。

 なるべくホメよう。

 確かに小雪はデカイ(実際にも印象も)。

 が、まあ、それは観ているうちに慣れてきました。

 小林薫がつかみどころのない、それでいて、しっかりと核のある骨太の漁師の役を好演しています。

 あれほどエネルギッシュだった男が、最後に犬死にするところもいい。

 松山ケンイチのコトバ不明瞭さが相変わらずなのは、まあ良いでしょう。

 ただ、忍者モノであるかぎりは仕方がないとは思いますが、少しばかりワイヤーアクションの不自然さが鼻についてしまいました。

 これなら、次回書くつもりの「GOEMON」のCGアクションの方が、世界観にあって自然な感じがします。

 ただ、飯綱(イヅナ)落としを実写で観ることができたのは感動モノでした。

 木から落下して行うバックドロップだもんなぁ。
 首がアサッテの方向向いて……そりゃ、ああなるわなって感じです。

 しかし、不動が失血死させられるラストには疑問が残りました。

 おそらくカムイ同様、天才であった抜け忍スガルが、その体術も使わず毒殺された無念さと、月日貝の恋人サヤカの苦しみを思うカムイの怒りの激しさは、原作どおり、生きながらサメに喰わせることでこそ表現できると思うからです。

 まあ、それは残酷すぎるし、松山ケンイチファンから嫌われるという大人の判断が働いたのでしょうか。

 ともあれ、忍風カムイ外伝、あれ、忍風はついてなかったか?

 御時間と機会があればご覧になられてもよろしいかと存じます。

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2010年3月14日 (日)

じめついた夏 ~サマーウォーズ

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 DVDで「サマーウォーズ」を観ました。

 感想は……できれば書きたくありません。

 なるべく、このブログでは悪口を書きたくないからです。

 しかしながら、レンタルし、観て、予想通り後悔したのは事実です。

 多くの方が鑑賞に行かれて、アニメとしては異例のロングランを記録した作品です。

 おそらく、きっと魅力的ですばらしい点があるのでしょう。

 ただ、残念なことに、わたしには、それを受け取る受容器が欠損しているようです……

 以下は、ごく個人的な「サマーウォーズ」に関する感想覚え書きです。

 この映画を、ネット世界を知る者のシビアな目線から、

「いくらパラレルワールドの世界とはいえ、ネットの描き方がむちゃくちゃすぎる」
「笑止である」
「どうして携帯電話であんなリアルバトルができるのよ」
「アバターを乗っ取られたぐらいで、どうして国家レベルのマシン(信号制御含む)を操作できるのよ」
「あの、アメリカですら緊急呼び出しがかかる医師は、携帯電話ではなく、いまだにポケベルで呼び出しを受けている(別回線のため緊急時につながりやすいから)のに、作中のように、心臓のモニターなどの生命直結データを、汎用回線でやりとりするわけないだろうが!まったく荒唐無稽、子供だまし」

というのは、たやすいでしょう。

 しかし、この作品は、ある意味ファンタシーであるわけですから、ネットを分かりやすい形で描くことは理解できます。

 アバターのバトルを、別付けのアナログ・スティック付きコントローラーで行わず、キーコマンドの入力で行うのは、さすがに納得できませんが、それもまあ良いでしょう。

 最後の勝負をきめるのが花札だというのも仕方ない。

 ただ……わたしにとって、この映画の致命的な欠陥は、なにか、どことなく気持ちわるい映画だということです。

 たとえていえば……「テレビ版ドクター コトー診療所」(これについては、以前「じめついた南洋」というタイトルでこのブログで書きました)みたいな気持ち悪さ。

 登場人物すべてに、女性的なニオイがする。

 あの、バンカラを気取る漁船の次男(声は永井一郎氏)からして、なんとなく女性っぽいのだから始末に負えない(そういやコトーでも女々しい船乗りが出てたな)。

 脚本は女性だったと思うのですが、そのせいかなぁ。

 安易にそうだとは思いたくありませんが、ひどく「コトー」の感触に似ているのが気になる(コトーは女性脚本でした)。

 もしそうだとしたら、最近の女性クリエーターは、どうしてしまったんだろう。

 木原としえさん(「摩利と新吾」) や萩尾望都さんや竹宮惠子さん、大和和紀さん等、わたしが子供の頃にリアルタイムで読んで、大きな影響を受けた女性漫画家たちの作品は、すべてかっこよかった。

 彼女たちの作品の中では、ダンディでハンサムな人々が生き生きと活動していた。

 しかし「サマーウォーズ」では……

 ヒロインに魅力がないのが致命的。

 滑舌は悪いし声も悪い。

 何いってんだか分からない……

 ヒロインの声やってる子は、わたしはまったく知らないけど、スポンサーの思惑で押しつけられたどこかのアイドル崩れなんですか?

 いったい、ヒロインのドコが「学年の一番人気な女の子」なんでしょう?

 「一番バカな女」の間違いじゃないかなぁ。

 まず、どうみても子供顔の主人公を大学生として紹介するっていうのがバカっぽい。

 前にこのブログでも書きましたが、顔も隠さず幼児泣きするのも幼稚バカみたい。

 わたしは「醜い泣き顔」を観るのが辛くて、アノ部分は早送りしてしまいました。

 何か困難があった時に、わあわあ泣いて逃げようとする態度・生き方が、マコトにハンサムでない。

 本当かどうかは知りませんが、最近のゆとり世代たちは辛いことは避けて自分に負担をかけないような生き方を推奨されている、というムキもありますが、何がどうあれ歴史は「今、頑張らんでどうする!」という行為の積み重ねでできているのは事実だからです。
 ダカラ、この映画のヒロインのように、人からの慰めの言葉に、安易に「あ、わたし、いま一杯イッパイだから……」と拒絶するのは個人的にはキライです。

 吐き気がする。

 だいたい、そんな女子に、いくらモノを知らない高校生たちとはいえ憧れたりするものでしょうか?

 なんか無理があるんだよなぁ。

 世間は、愚かでバカっぽく見えるかもしれないけど、モード的な思考である「世知」と呼ばれる智恵は、確かに存在するからです。

 何らかの理由で(それがどんな理由なのかゼヒ知りたいところですが)、一時的に校内でアイドル的に持ち上げられいたしても、あれだけ自分勝手でバカだったら、皆に見抜かれて、すぐにカラ人気もしぼんでしまうと思うんだけどなぁ……

 とくに美形でもないし……エヴァンゲリヲンのファンが、絵柄に惹かれて観に行ったのかな。

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 この作品は、内容、感じからいって、もともとは細田氏が2000年に作った、デジモンアドベンチャー劇場版「ぼくらのウォーゲーム」に、自己インスパイアされて出来上がった作品でしょう。

 いやいや、わたしも、デジモン自体、友人から「観てみろ」といわれて観た、細田氏の作品しかしらないのですが、あれは確か、コンピュータ世界の中で、デジタルモンスターを操って闘うポケモンの二番煎じでしたよね(間違ってるかもしれません)。

 あれも、ネットの中での出来事が現実世界に影響を及ぼして、最終的に、ネットでの遊びに過ぎなかったデジモンとデジモン使いたちの活躍で世界は救われた、というハナシだったと記憶しています。

 同じ友人からの情報により、公開直前のインタビューで細田氏が、エバンゲリヲンの庵野氏を指して、

「過去の作品の焼き直しで勝負してはいけない。わたしはオリジナルでやる」

といっているのを知りました。

 おそらく、氏の前作「時をかける少女」とは違うものを自分は作ったのだ、と言いたかったのでしょうが、それが結局はデジモンの焼き直し、自己模倣だったというわけです。

「メクソなんとかを笑う」というか「五十歩百」歩というか、似たり寄ったりですね。

 それに、本来ならフトい悪であるはずの侘助(ワビスケ:漢字はコレだよね)が、なよなよと女々しい男で嫌になる。

 いや、本当の悪は、ネットのハッキング・プログラムといわれるかもしれませんが、あれにしても、不気味で無敵な恐ろしさ、というのがまったく感じられない。

 にもかかわらず、この映画に人気が出た理由を個人的に考えてみました。

1.ゲームをしているのを親に見つかり「何の役にも立たないゲームより勉強しろ」といわれて反論できなかった、多くの子供たちの「夢の具現者」としてのカズマの存在。

 ネット内格闘ゲームが強いだけで世界を救えることもあるんだ!

 だったら、ボクだって世界を救えるカモ……という感情で、ゲーム好きな普通の子供のハートをがっちりつかんだのが人気のモトかな。

 前にこのブログでも書いた、ゲーセンのシューティング・ゲームが得意なだけの高校生が、突然宇宙人に連れて行かれて、銀河戦争で英雄になる映画「スターファイター」と似たところがある。

「こんなに頑張って、やっているゲームだけど現実には何の役にも立たないんだよナ」という、ゲーム少年の心のどこかにある感情を、うまく利用した。

 ああ、このカズマの声優って女性ですよね。
 最初、絵を見て、てっきり女の子だと思っていました。
 名前を知って、男の子だと気づいてからは、男の子がしゃべってるんだと納得しようとしましたが、ラスト近くで勝負に負けた彼が泣き叫ぶところでは、女性が泣いているようにしか思えなくて、またまた気持ちが悪くなってしまいました。耳元でわぁわぁ泣くなって!

 声優の質が悪いなぁ。

 あ、それでまたひとつ思い出しました。

 この映画の登場人物は、ホントよく泣きますねぇ。

 先日、外国人による日本再発見番組「クール・ジャパン」で指摘されていましたが、いつのまにか、日本人は人前で泣くことが平気な国民になったようです。

2.最初は泣いてるだけだったヒロインが、最後に、ホント唐突に立ち上がって花札勝負で世界を救う(しかも、どういうわけか、ネット・ホストが彼女のアバターの服を、お姫様の服にしてる!)トコが、若い女性のココロをつかんだ。

 だって、それまでは、まったくの昼行灯(ひるあんどん)、いてるんだかなんだか分からない存在感のなさだったのが、まったく突然、主人公気取りのイイトコドリですよ!

 観ているこちらとしては「オマエ誰や?何者やねん!」とツッコミをいれたくなってしまう。

 ドラマツルギーとしては最低のご都合主義。

 だいたい、この映画の主人公って誰?

 「みーんなが主人公」の、いまハヤリの群像劇?
 
 わからないなぁ。

 あ、再び上記で思い出したことがあります。

 この映画を観ていて「センター オブ ジ アース」との共通点に気づきました。

 二つの映画には似たところがある。

 どれほど危険なことが起こっても、決して登場人物たちは傷つかないから、いい加減な行動が許される。

 なんというか「アトラクション的予定調和冒険譚」なんですね。

 さらに、子供は愚かだけど、まわりの大人(ブレンダン・フレーザー憐れ)が、もっとバカだから、結果的に子供が大きな発言権を持って大人として扱われる。

 これなんかは、子供の夢なんだろうな。

3.「自己犠牲の精神」をあっさりと捨て、「まず自分を守る」という登場人物たちの行動方針が現代の人々のセンスに合致した。

 だいたいね、上空から自分の広大な屋敷に向かって人工衛星?が落ちてくるなら、そのままにしておけば良いのですよ。

「ウチの屋敷は吹っ飛ぶだろうけど、他の家と命は守れるのだからそれで良いのです。ねえ、みんな」

 ここは、そういう自己犠牲精神で良かったんじゃないかなぁ。

 「自己犠牲」というコトバは太平洋戦争を思い出させるため悪とするのが最近の風潮のようですが、果たして、自分を守るために何も知らない他人を危険にさらして良いのでしょうか?

 ラスト近く、数学少年のガンバリに呼応して「まだ負けてないー」とヒロインが叫ぶから、いったいどんな起死回生のワザを使うのかと思ったら、

「GPSにデタラメな数値を送り込んで、屋敷への衛星直撃を回避させる」って……

 そんなことしたら「屋敷に向かって衛星が落ちてきている」ということすら知らずに生活している、ご近所様の家を直撃するかもしれないじゃないの。

 自分の屋敷を守るためにドコに落ちるか分からないデタラメGPSデータを送信する?
 ヒトゴロシだな。犯罪者に近い。

 いい換えれば、それは「よその家は直撃するかもしれないが、自分の屋敷だけには当たらない操作」ということでしょう?

 ことほど左様に、ハナシに一貫性がなく、ネット描写はむちゃくちゃで、ヒロインに魅力がなく、悪が恐ろしくなく、「自分さえよければ他人がどうなってもイイヤ」という自己中心主義を全面に押し出した、子供も観るアニメとしては最低のデキ、というのが、映画「サマー・ウオーズ」の、現段階での個人的感想です。

 でも、商業的には成功だったんだなぁ……

 あ、そうだ。

 アメリカ人が決まって使う「フェア」というコトバは、わたしの嫌いな単語のひとつですが、最後に、これを書いておかないと「フェア」な評価にならないので、追記しておきます。

追記:

 文句ばっかり書きましたが、夏休み、田舎、おばあちゃん、間口の広い玄関、井戸端、縁側のスイカのタネ飛ばし、そして大家族制へのノスタルジーさを僅かながらテーマに取り入れているのは評価できます。

 その意味で、デジモンアドベンチャー劇場版「ぼくらのウォーゲーム」の自己模倣とゲーム「ぼくの夏休みシリーズ」を足したような作品なわけです。

 そういった「血縁によるプリミティブな関係」と「ネットのアバターによるアドバンスで緩やかなつながり」の両方で世界を脅かす驚異と闘う、という新旧の対比は面白い。

 ただ、もう少し工夫して、深く掘り下げれば面白かったのにと残念です。

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2010年3月10日 (水)

ミリジョってナニ?

 しばらく前に、歴女について書きましたが、最近、気になって仕方がないのが「ミリ女」です。

 もちろん、小柄な女の子のことじゃありません。

 漢字で書くと軍女(ミリジョ)=Military好き女子のことですね。

 ミリ女は、日本ではどの程度の数、存在するものなのでしょう。

 心理学的に、女性はヒゲと軍服(制服)の男が好きだそうですが(個人的には疑問アリ)、人の死と破壊を連想させる軍事モノを、生み、愛し育てる性たる女性が好むとは考えにくいのです(こんなことを書くと、社会性差別者と白眼視されそうですが)。

 もちろん、カリオストロの峰不二子は迷彩服を着ていたと記憶していますし、コンバット・マガジンを開いても、軍服姿の女性グラビア?などをよく見かけます。

 それは男がマニッシュ(正しい意味で)な女性の姿を好むということの証明にはなりますが、ミリ女が多数存在するという証拠にはなりません。

 わたしがいう「ミリ女」は、パイプベッドで寝て、枕元や壁にはSCORPIONやM16A1が飾ってあって、枕の下にはM1911A1 が、天井からはRPG-7がぶら下がっているようなタイプの女性です。

 うーん。やっぱり、そんな女性はめったにいないと思うなぁ……

 真田幸村や伊達政宗好きの歴女たちも、朱槍を部屋に飾っている人は少ないでしょう。

 いや、なに、先日、知人と話している時に思いついた「ミリ女」というコトバを、ここで紹介したかっただけで、別に他意はないので、お忘れください。

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2010年3月 7日 (日)

女神の時代

 世の中には、使われない単位、使われてはいけない単位というのがある。

 ご存じでしょうか?

 それは、megadeath(メガデス)。

 冷戦時代、大量破壊兵器(この場合は核)を、大都市に用いた場合に予想される死者数を表す単位だといわれています。

 1megadeath=死者100万人

 今まで実際に使われたことはないし、今後も決して使われてはいけない単位でもあるmegadeathは、幸いにして、21世紀になってヘビメタバンドの名前(あれはmegadethだが)以外、それを知る人さえ少なくなりました。

 そう、かつて世界には、冷戦というものがあったのです。

 核を使わない冷たい戦争。エスピオナージュ盛んな情報戦。

 米ソ二大国がその主役でした。

 当時は「世界終末時計」という考えが、生み出されるほど、核戦争への危機感は強かったのです。

 
 終末時計については、映画「ウオッチメン」などでも出てきますね。

 あの映画の、ダークでネガティブな雰囲気は、当時の「核への危機感」を知らないと理解できにくいかもしれません。

 終末時計は概念時計ですから、時代によって「終末までの時間」は変化します。

 たとえば、

・ソ連が核実験に成功した1949年       3分前
・アメリカ・ソ連水爆実験に成功1963年    2分前
・ソ連が崩壊した1991年           17分前
・北朝鮮が核実験した2007年         5分前

 といった具合です。

 冷戦時は、数万にも及ぶ核をもつ二国が、様々な国にちょっかいを出しては無言のせめぎ合いを続けていたのです。

 20世紀後半になって、ロシアが、体制を大転換してからは、おもにアメリカが世界各地の紛争を取り仕切ってきました。

 世界の警察アメリカ。

 いや、より的確にいえば「パクス・アメリカーナ」の時代。

 もともと、パクスとは、ローマ神話に出てくる「平和と秩序の女神」のことです。↓

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 よって、パクス・アメリカーナとは、第二次大戦後、アメリカの主導によりもたらされた平和のことをいいます。

 しかし、これはアメリカが嚆矢(こうし)というわけではない。

 平和の女神パクスが、歴史上、最初に現れるのは、1-5世紀のこと。
 ローマ帝国による平和を「パクス・ロマーナ」と呼んだのがはじまりです。

 ついで、19世紀半ば~20世紀初頭の大英帝国による平和「パクス・ブリタニカ」があって、アメリカは三番目です。

 しかし、神ならぬ身が神を演じるのはつらい。

 ローマは滅ぼされ、大英帝国はパクス職を投げ出し、アメリカですら、これまで数度にわたって複数の大統領が「アメリカは世界の警察であるべきではない」と泣き言を口にするようになっています。

 もっとも、現実的には、いまだに世界では「パクス・アメリカーナ」が続いています。

 このことは、語源から考えてみれば奇妙な気がしますね。

 ローマには、女神が似つかわしい。

 19世紀大英帝国はビクトリア女王の国だったので、女神とは親和性がある。

 しかし、何かにつけて、男らしさ(masculine)をウリにしている開拓の国、いまだ女性大統領を生み出せないアメリカが「女神パクス」を気取ってしまうと、女性なのに男っぽく振る舞うという意の、mannishな国、という感じになっておかしく感じますね。

 だからこそ、最近では「パクス・アメリカーナ」は他国によって使われることが多く、アメリカが自らを語るときは「世界の警察」という呼称を使うことが、多いのかもしれません。

 今後、世界はどうなるのでしょう?

 次のパクスは?

 世界統一府が生まれて、それが新女神となるのか。あるいは振興著しい某大国がパクスとなるのか?

 それこそ、女神のきまぐれ次第なのかもしれません。

 

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2010年3月 3日 (水)

猫の名前ランキング

 某損保会社の調べによると、2010年猫の名前ランキングは、

 1位(2):ソラ
 2位(1):モモ
 3位(4):ココ
 4位(7):メイ
 5位(9):マロン
 6位(4):レオ
 7位(-):リン
 8位(-):レオン
 9位(-):ハナ
 10位(6):ヒメ

となっているようです。

うーん。

 うちのケツ子(正式名:ケシュクシェ Qu'est-ce que c'est)や、ロボ太(正式名 コケツ)、ヨリ(正式名:寄子)の名は入っとらんようですな。

 ちなみに、上でいう正式名とは、動物病院のカルテに書かれている名前のことです。

 当然、外国に行く際のペット用パスポートの名前にもなる(はずです)。

 しかし、前年度一位のモモってなに?

 まさか、アジアでいうギョーザのことじゃないでしょうね。

 ポストペット(ああ、なつかしい)のモモかな?わからない。

 知人の猫はソラという名前でしたが、それは惑星ソラリスからつけられていました。

 リスト中のソラは「空」かな。

 ヒトの名前と違って、それほどキテレツなものがないので安心しました。

 以前、何かの事件で、子供の名に、騎士(ないと)くんという名前があることを知りました。

 その伝(でん)でいくと、僧侶(モンク)くん、司祭(プリースト)くん、小鬼(ゴブリン)くんなんてのも登場しそうですね。

 あげく、細胞粘菌(すらいむ)くん、とかね。

 巨人(ぎがんと)くんと阪神(たいがーす)くん。

 脱線しました。

 ちなみに、犬名ランクは、

総合
 1位:モモ
 2位:ナナ
 3位:サクラ
 4位:ラッキー
 5位:ココ
 6位:ハナ
 7位:マロン
 8位:チョコ
 9位:クッキー
 10位:クー

オス
 1位:ジョン
 2位:レオ
 3位:ラッキー
 4位:ロン
 5位:マロン
 6位:ゴン
 7位:クー
 8位:ケン
 9位:コタロウ
 10位: コロ

メス
 1位:モモ
 2位:ナナ
 3位:サクラ
 4位:ハナ
 5位:チャコ
 6位:ラン
 7位:ココ
 8位:チェリー
 9位:メイ
 10位: クッキー

 だそうです。

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あー終わった良かったオリムピック

 終わりましたねぇ。やっと終わりました。

 オリムピックが。

 実際、アレの開催中は、某協会の週間番組が突然無くなるので困るのです。

 差し障りがあれば、あらかじ謝罪しておきますが、個人的に、昔からこのテのイベント、体を異常変形させたアスリートと呼ばれる人たちのカケっこ(今回はスベリっこ)やトビッこなどにはあまり興味がありません。

 身体的にできない方もおられるでしょうから一概にはいえませんが、スポーツは自分でやってこそ楽しく意味がある。

 だいたい、大げさ過ぎるんですね。

 選手団の映像を見つめる、作り笑い(にしかみえない)アナウンサーや批評芸人(コメンテーターとも)の目を細めた激励顔も不愉快だし、番組編成が変わるのも迷惑なだけです。

 そもそも、公共放送のニュースのヘッドラインが、競技結果というのがわからない。
 アメリカ万歳テキ発言はしたくないのですが、CNNなんかだと絶対そんなことないんですね。

 オリンピックのメダルは「ニュース」ではない、という扱いです。

 本来、それが正しいと思うのですが、日本は違いますね。

 どうも、ニッポンは、明治以来、戦後の復興期を含めて、外国に対する劣等感をメダルの数で払拭するのに躍起となっているようです。

 男としての自信のなさを女の数で示そうとしているドンファンのようですね。

 大衆の顔色を見て迎合する、マスコミのあおりもよくない。

 氷上ビーダマのカーリングセンシュダンにつけられた、クリスタルだかクリステルだかのネーミングも浅薄でよくわからんし……

 冬の場合は、スキー板などの道具を使ってやる競技が多いので、まだ観ていて納得できるものもありますが、100m走や水泳なんてのは、いかにヒトが頑張っても、走ることや泳ぐことに特化されたチーターやトビウオにかなうわけもない。

 オリピアードで意味があるのは、現実の政治や戦争やテロリズムと違って、さまざまな人種国籍のヒト科のイキモノが「条件を同じにして」競える場所を作り出せたことだけだと思います。

 そのわりに、バレーボールやバスケットなど、明らかに体格による階級制にすべきスポーツが、相変わらず、並外れて巨大な男と女有利の、不平等な条件下で行われているのは奇妙ではありますが……

 あと、しばらく前から疑問に思っているのですが、どうしてメダルをカジルんでしょうね。

 いつからカジるようになったのかな?

 行儀悪く、頭悪く、バカっぽく見えるから辞めた方が良いと思うがなぁ。

 それで思い出した。

 今回のオリンピックで面白かったことが2つあります。

 一つは、リュージュ男子一人乗りで銀メダルを取ったドイツの選手(ダビッド・メラー)が、「カメラマンの要望に応えて」メダルをカジったところ、歯が欠けたという記事です↓(毎日新聞より)。

071

 あれってマスコミが、指示してさせてるんだなぁ。

 もうひとつは、終わってから知った「スノーボード選手の服装問題?」です。

 あれは面白い問題を含んでますね。

 そもそも、ボード関係のプレイヤーは、同時にサブカルチャー、いやカウンターカルチャーの体現者でもあります。

 いわゆる常識をくつがえした行動をとりたがる文化を持っている。

 だから、服装もダラシないし態度も悪い(ようにみえる)。

 写真を撮る時は、わざと顔をしかめ中指を突き立てる(とまで書くと偏見かな)。

 だいたい、問題となったカレ(名前は忘れましたが)は、プロフェッショナル・プレイヤーで、そういったファッション・態度をひっくるめて、ファンがあこがれ、それで金を稼いでいるわけです。

 ここで、ぜひ、一人の男の話をしておかねばなりません。

 トニー谷という芸人をご存じでしょうか?

 1950年代に、一世を風靡したボードビリアンです↓(村松友視著「トニー谷、ざんす」より)。

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 ご覧のように、キザなロイド眼鏡にキザな服装、そろばんをシャカシャカ振りながら「さいざんす」や「家庭の事情」などのキメ言葉を連発し、徹底した「嫌われ人気」で150本もの映画出演を果たした彼の人気が失墜した原因を知っていますか(飽きられたということは別にして)?

 それは、スチャラカお調子者的イイカゲン人間として人気絶頂だった彼が、愛息が誘拐された時に見せた、親としての真摯な態度、苦悩する姿だったのです。

 報道されたその姿を見て、「なんだ、トニーって、フツーのまじめなヤツジャン」と、大衆のトニー熱は一気に冷め、子供は無事に戻ったものの、以後、彼の人気は二度と当時の勢いを取り戻すことはなかった。

 つまり、プロである限り、スノーボーダーとしての技量とともに、イメージも大切だということです。

 あのルーズさがカッコイイ!と思っているファンの幻想を、オリンピックの選手になったからといって、安易に裏切ることはできない。

 それを、オリンピアードの競技になったから、また、代表選手に選ばれたから、シャツをズボンに押し込みなさいってのはどうなんでしょうねぇ。

 そりゃ、選手団に税金は使われてますよ。

 学校のように、勉強とともに集団生活の練習をする場所なら、決められたルールは守られるべきだし、それを「個性」だといって自由にさせるのは、間違っているかどうかは分かりませんが、わたしは嫌いです。

 小学生の子供の髪を金髪に染めさせている親が近所に住んでいますが、おそらく、あれはバカでしょう。

 しかし、カレは、その身体能力を買われ、請われて選手団に入っているわけですから、だらしなくない服装を、強要するのはどうかと思います。

 もちろん、彼も入団?することを了承したのですから、選手団としてのルールは守るべきという意見もあるでしょう。

 難しい問題です。

 個人的には、カレはあのままにしておいて、最近のテレビジョンが大好きで、そのわりによく間違って番組終了時にアナウンサーが頭を下げることの多い「テロップ」を使って、彼の映像の下に「このヒトはこういう文化を体現するスポーツ選手なので、こんな服装をしていますが、よゐこは真似をしないように」とでも書いておけばよいのではないかと思います。

 長くなってしまいました。

 本当は、特に最近問題となってきている「子供の性同一障害」を、オリンピアードのたびに問題となる選手の性判定(セックスチェック)と共に書こうと思っていたのですが、それは、また別項にゆずることにします。

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2010年3月 2日 (火)

造られた戦場:その場にいて震えあがる意味

 いまさらですが、映画「ブラック・ホークダウン」を見ました。

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 先日、年下の友人と「メタルギアソリッド2」の話をしていた時に、局地戦を描いた戦争映画としてはかなり良いできで、「物語性」を極力排して事実を追いかけているし、武器の選定からヘリコプターその他の装備にいたるまで、かなり現実に近い正確な描写をしているから一度観てみると良いですよ、と勧められたからです。

 彼はいわゆる「ミリタリー好き」で、そういったものにうるさい。

 その彼がいうなら、観てみてもよいかなと思い、DVDを借りてきました。

「ブラックホーク・ダウン」は、2001年のハリウッド映画です。

 実際に、1993年にソマリアで起こった多国籍軍とゲリラの戦闘、いわゆる「モガディッシュの戦闘」を描いてます。

 監督は「エイリアン」「ブレード・ランナー」のリドリー・スコットで、この映画を撮るにあたって、友人のいうように状況説明を極力なくして戦闘自体を映像で見せる、という手法に徹しています。

 映画の中に英雄は登場せず、また作戦自体もMH-60Lブラックホーク(多用途=戦闘ヘリコプター)をゲリラのRPG-7(無反動砲)の攻撃によって撃墜されて、失敗におわるというストーリーで、観終わってスカッとするものではない。

 だから、バイオレンス・ファンタシーとしての戦争映画ではない。

 まさしく、ブラックホークがダウン(墜落)させられる映画なのです。

 という程度の知識は漠然とあったのですが(一応、リドリー・スコットのファンなので)、これまでは、すすんで映画館に行ったりDVDを借りたりすることはありませんでした。

 そもそも戦争が好きでは無いからです。

 銃やRPG-7などの、メカニックとしての武器は魅力的だと思いますが、その用途を考えると知識を持っているだけにしておきたいものだ、と考えます。

 実際、このあいだ借りて、少しだけプレイしてみた「コール・オブ・デューティ2」(PS2用ソフト)は、第二次世界大戦の一兵卒の目から軍事行動に参加する内容でしたが、攻撃してくる超リアルなドイツ兵を撃つのが嫌で、キャンペーン1すらクリアせずに返してしまいました。

 あまりにリアル過ぎて、あのような疑似体験を繰り返していたら、いつのまにかタブーの敷居が低くなって、人に対して刃物や銃口を向けることに対する抵抗感がなくなってしまいそうな気がしたからです。

 メタルギアソリッド2の場合は、使うのは麻酔銃で、不殺クリアも目指せる作品になっているため、それほど抵抗感はなかったのですが……

 もちろん、映画となれば、話は違います。

 通常では味わえない、銃弾飛びかう緊張感を疑似体験しつつ、こういった極限状態では自分はどんな行動をとるだろうか、と自問することができるのがイイ。

 主人公が、ゲリラ兵を撃つのを観るのは辛いですが、この場合は、映画だという安心感がある。

 ゲームで、自分が照準を定めて、自分の意思で引き金を絞るのとはまったく違います。
 たとえ、相手がプログラムが作りだした疑似生命だとしても。

 さて「ブラックホーク・ダウン」はどうだったのか。

 ちょっとがっかりしたことに、思ったほどリアルな映画ではありませんでした。

 もちろん、その国のためだと思って、出かけたその国の国民からゲリラ攻撃を受けるという、米国お定まりの矛盾はイタイものですし、ダークな色調で描かれる戦闘は激しく逼迫(ひっぱく)したものです。

 しかし、耳元を、弾丸がかすめるような緊張感を感じることができなかった。

 臨場感でいえばランク5(わたしの個人的感想です)以下です。

 ランク2の「プライベート・ライアン」の冒頭、ノルマンディ上陸には到底及ばない。

 かの大作「遠すぎた橋」等、失敗に終わったキャンペーン(軍事作戦)を描いた戦争映画は多いのですが、臨場感がそれほどなければ、そういった大作の方が映画としては観やすいような気がします。

 と、そこまで書いたら、戦場臨場感ベスト1映画(あくまで個人的です)を書いておかねばなりませんね。

 わたしにとって、飛んでくる弾丸を、もっとも恐ろしく感じた映画は「トゥモロー・ワールド」でした。

 あの「シン・シティ」のクライヴ・オーエン主演。
 監督はメキシコ出身「ハリーポッターとアズカバンの囚人」を撮ったアルフォンソ・キュアロンです。

 これは、本来、戦争映画ではありません。

 子供が生まれなくなった近未来(2027)を描いたSFです。

 しかし、終盤の戦闘シーンの恐ろしさはDVDを停めたくなるほどでした。

 本当に、銃弾が、こちらに向かって飛んでくる臨場感gがあった。

 いずれにせよ、戦闘を描いた映画の、本来の存在意義は、それを観る人に「戦争の悲劇と悲惨さ」を痛感させることにあると思っているので、その意味では、ブラックホーク・ダウン」も「トゥモロー・ワールド」も、正しい意味での戦争映画であると思います。

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