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2009年12月 9日 (水)

すでに死んでいた男ふたたび 〜ハリーポッター Half Blood Prince〜

 先日借りてきた「ハリーポッター Half Blood Prince」を観ました。

 内容自体は、とりたてて語るものもありませんでしたが、あらためて気づいたことがあります。

 それは、殊(こと)ハリーポッターに関していえば、日本語訳の小説より、映像の方が遙かに分かりやすかった、ということです。

「何いってるの?文字ばっかのハナシより、映像になった方が分かりやすいのはアタリマエっしょ」という批判は敢えて受けるとしても、少なくともわたしにとっては、ミタママに内容を限定されてしまう映像より、自分なりにさまざまに想像を広げられる文字媒体の方が楽しめることが多いのです。
 ただし、良い文章で、否少なくとも読みやすい文章で書かれている限りは、ですが。

 その点で、翻訳版の「Half Blood Prince」は、いただけなかった。

 例によって読みにくい文章が多く、特に終盤の、魔法学校校長が「秘宝」を手に入れるために毒をあおり続けるくだりでは、「どのくらいの毒水を飲み干すことで、お宝を手に入れるか」がはっきりしないために、わたしの頭の中では、かなり大きな水たまりを老人が飲み干すイメージが固定化されてしまいました。

正に、

「その女の子が信じてくれたら、大海の水だって飲み干すことができただろうに」的イメージです。

 今回、映像化されたものを観て、主人公が、ほんの小さなくぼみに溜まった毒水を、貝殻コップに五杯ほど校長に飲ませて、中にあった小さな宝物を取り出したことを知りました。

 なんだ、そんなものだったの?

 もちろん、これは原作の特徴である、持ってまわった冗長な表現が原因でもあるのでしょう。

 しかし、もう少しすっきりとした日本語訳にもできたハズです。

 いや、失礼しました。

 今まで何度か繰り返してきた、本シリーズの翻訳者批判をここで蒸し返す気はありません。

 それどころか――

 今回、第六話の映画を観たことで、再び近くの大学図書館で第七話を借り直して来ました。

 貸し出し履歴を観ると、前回わたしが借りてから、一年あまりで三人が借りていました。

 決めつけたくはありませんが、最近の大学生はあまり本を読まないようですね。

 読み返してみて、いくつか新しい発見がありました。

 ↑前回にも書きましたが、小説、および映画の全話を通じて重要な役どころを占めたのは「あの人(あのお方じゃないですよ)」です。

 その「彼」について、訳者が、あとがきでなかなか素晴らしい文章を書いています。
(恥ずかしながら、前回、わたしはあとがきを読んでいませんでした)

 今回は、それを部分引用させていただきましょう。

 私にとっての圧巻は三十三章だ。ここに、いままでの疑問すべてを解決する物語がある。しかし、読んでいて切なさに胸が締めつけられる章だ。読者のみなさんは、この章を読み終えるまで、私のあとがきを読まないでほしい。第七巻を読み終えて、心に残る人物と場面はと聞かれれば、三十三章に描かれたある人物とその死の場面と答えたい。最後の一瞬まで閉心術を解かなかった男。その最後の一言が胸を抉る。
 人間の価値は、その人の死に心から涙する人が何人いるかで決まるというのが、私の持論だ。しかし、誰も涙を流してくれなかった人物の壮絶な死が、もっとも激しく私の心を揺さぶった。どんなに憎まれ、誤解されても、どんなに恐ろしい危険に身を晒しても、たじろぎもしなかった男。ダンブルドアをして、スリザリンの寮に組み分けしたのは間違いだったと言わしめた男。その強さはリリーへの激しく、哀しい愛に支えられていた。愛されることなく、しかも永遠に愛して死んでいった男の最後の言葉の重みを伝えたくて、私はその訳語に数日をかけた。すべての仮面を脱ぎ捨てて、文字通り血を吐く思いで残した言葉だ。報われない純愛を、たった一つの言葉で伝えきれただろうか……

 いま読み返すと、第七巻の下に入ってからは訳がずいぶん読みやすくなっています。
 まるで、訳者の、登場人物に対する愛着が、紡ぎ出す日本語に乗り移ったかのようですね。

 あらためて上記あとがきを読むと、訳者が、翻訳者としてはともかく「良き読者」であるのは確かなようです。

 さて、第六話の映画も終わりました。

 いよいよ次回は最終話の映画化です。

 恥ずかしながら、次回は映画館に足を運ぶつもりです。

 なぜなら――

 前回のブログでも書きましたが、「彼」を演じているのは、ハリーポッターという映画において唯一のビッグネームといえるアラン・リックマンです。

 また、彼は、「ダイハード」「スウィニー・トッド〜フリート街の悪魔の理髪師〜」で印象的な役柄を演じる英国出身のシェークスピア俳優、個人的にはお気に入りの役者でもあります。

 彼が出ているというだけで、わたしは、普段ならあまり関心の無い恋愛映画「ラブ アクチュアリー」まで観てしまいました。

 だからこそ、第一話〜五話と、なぜ彼があんな役を演じているのか、わたしにはわかりませんでした。

 しかし、最終話まで読んだ今ならわかる。

 あの断末魔の瞬間に、「愛する女性の面影を愛憎半ばする小僧の中に見る演技」は彼にしかできない。

 先日、映画「グラン・トリノ」で、映画の冒頭で妻を失った主人公は、死に場所を求めてさまよい、最後にその場所を見つけたのだ、と書きました。

 ハリーポッターを憎み愛した「彼」も、もうずっと前、ハリーの母リリーが死んだ時に死んでしまった男なのですね。

 だから、最後の最後に、伝えなければならないことを、伝えるべき者に渡せたと知った「彼」の死は、唐突であっても不幸せではなかったのでしょう。

 訳者は、彼の死を「誰も涙してくれなかった」と評していますが、わたしは彼にそんなものは必要なかったと思うのです。

 なぜなら彼は、その他大勢の幾百万の人々の涙でおくられるより、あの女性の瞳に見つめられながら旅立つ方が幸せであったろうから。

 19年後のハリーが、息子を、同じ瞳で見つめながら「彼」について話します。

「父さんが知っている人の中でも、おそらく一番勇気のある人」と

 その息子、アルバス・セブルスは、やはりリリーと同じ緑色の瞳をしています。
 

 「彼」は、愛する女性の息子から尊敬され、その血筋に自らの名前を連ねることが出来たのです。

 こういうのをなんというのでしたか……そう、こういうのですね――男子の本懐と。

   

   

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