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2009年11月 1日 (日)

頭脳の牢獄 〜ジェームズ・キャメロン「アバター」〜

 近々公開される「アバター」をご存じでしょうか。
 あのJ.キャメロン監督が、地球外惑星を描く映画です。
 ある惑星を調査するそのため、主人公は自身の精神を原住民と人間のハイブリッド生命体「アバター」に移植されます。
 事故で車椅子の生活を余儀なくされていた彼にとっては、願ってもない任務でした。
 そうすることで、自然な形で、彼らの生活を調べることができるはずだったのです。
 しかし、異星人となった男は雌(女性?)の異星人と恋に落ち……
 と、まあ、このあたりは、あまり調べてもおらず、興味もないので詳しくは書けませんが……
 わたしが今回書きたいのは、生命の形態を変えた時の「精神の変化」についてです。
 西洋には昔から、一元論と二元論の議論があります。
「人の体と精神は不可分であるか」
 つまり、肉体と精神は「別々なもの」なのか「ひとつのもの」なのか、という議論です。
 そして、人の精神は、神に似せて作られたといわれているヒトガタでないと、正常に働かないのか?
 昔から作家たちは、SFという手法を用いて、極端な事例を作ることで、そういった難解な議論の答えらしきものを呈示してきました。
 このへんは、古の賢者たちが、たとえ話を用いて難しい教えを分かりやすく広めようとしたことに似ていますね。あるいは、そうした思考実験がSFのもうひとつの存在理由なのかもしれません。
 その一つが、クリフォード・D・シマックの連作短編「都市」のひとつである「逃亡者」です。
『リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も時として盲(めし)いることがある。
 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中列車事故にあって辛くも脱走した 。
 孤独と絶望の逃亡生活が始まる 。
 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。  彼は逃げる。
 執拗(しつよう)なジェラード警部の追跡をかわしながら
 現在を今夜を、そして明日を生きるために 』
(オリジナル版「逃亡者」第2シーズン・オープニングナレーション:矢島正明)
のデイビッド・ジャンセンのことではありません。
 しかし、こうやって文字に起こすと素晴らしい美文というか名調子ですね。
 オリジナルが良すぎて、つい「不安と期待ともに我にあり」で、映画館に出かけた「ハリソン・フォード版リメイク」のガッカリ感を思い出してしまいます。
 数年前、オリジナル版「逃亡者」の再放送を全編通して観た時、110話だったかで、あのカート・ラッセル(遊星からの物体X、バックドラフト、スターゲイト)が、イタズラ小僧の役で出演しているのを観て大興奮した覚えがあります。彼は、子役で成功した珍しいスターなのですね。また、青年期にディズニーの子供向け映画の主役を嫌い、マイナーリーグに所属していたという変わった経歴の持ち主でもあります。
 いや、今、話題にしているのは、シマックの「逃亡者」でした。
 ともかく簡単にあらすじを紹介します。
 主人公は、木星上に作られた調査ドームの司令官ハウザーで、「アバター」同様、土着の原始生命ローパーへと部下を「転移」させて、木星の調査をさせています。
 ご存じのように、木星は巨大な重力と圧力、そしてアンモニアの雨で人間のままでは自由な調査が行えないからです。
 アバターは、精神のみの転移ですが、「逃亡者」では、丸ごと体をローパーへと変換するのです。
 そして、一見、地球の蛇に似たローパーと化した部下は、送り出したが最後、四人が全員行方不明になってしまいます。
 五人目に送り出した、聡明で理知的な若い部下アレンが戻らないことを知ったハウザーは、六人目として自らが転移することを決意します。
 木星まで連れてきた愛犬タウザーと共に。
 ローパーと化したハウザーは、愛犬タウザーとテレパシーで会話できることに気づいて驚きます。
 同時に、何かに疑問をもった途端、脳裏にその解答が浮かぶことにも。
 あたかも電脳化され、外部の巨大コンピュータに接続されたネット社会の住人のように(作品発表当時にはそんな概念はなかったでしょうが)。
 彼は犬に叫びます。
「僕らは頭脳がフルに使えるようになったんだ。地球人の頭脳は、自然と働きが鈍く緩慢になっていたんだ。僕らは宇宙の低脳児なのだ。きっとぼくらは鈍重な頭脳に縛られて、宇宙の生物の中でも、いちばん辛い目を見るように運命づけられているんだ」
 そして、彼は、なぜ送り出した部下が、二度と戻って来なかったかを知ります。
 あたりを見回すと、光輝く切り立った崖から響く轟き落ちる滝の音。
 だが、それは水の滝ではなく、アンモニアの滝で、輝く純白の断崖は固形化した酸素です。
 信じられない、真実に彩られた世界。
(以下、二重カッコ内福島正美訳)
『そうだ、あの五人も、やはりこれを感じたのだ。世界を、果てまでも見たい、知りたいという、抗いがたい欲求を感じたに違いない。知識と充足の人生が、ここにこそあることを知ったのだ。高い――なるかな我が道を、偉大なものへの力強い感触を。地平を超えたどこかに冒険が――そしてその冒険をよりさらに乗り克えたあるもののあることを』
 しかしながら、かろうじて残った司令官としての意識が彼を押しとどめようとします。
「基地の者を心配させるわけにはいかない。戻らねば」
 だが、彼はもう、再び、苦痛に疼く肉体へ――毒素に冒された肉体へ、わざわざ戻りたくはなかったのです。
『混濁したあの頭脳――またあそこに戻るのか。泥濘さながらの思考へと。他人に意思を伝えるために信号じみた形をつくって、ぱくぱく開閉する口に帰ろうというのか?なにも見えないより、なお悪い、情けない視力しか持たない目へ――あのあさましさへ、醜悪さへ、無知へ戻るのか――』
 かつて犬であったタウザーが叫びます。
「俺は帰らない。帰らないぞ」  ファウラーが答えます。 「俺もだ」
「帰ったら、俺はまた犬にされてしまう」 「そして、俺は人間にされてしまう」
 叫びつつ、彼らは木星のアンモニアの海に去っていきます。
 なんとなく、からかわれた主(しゅ)が太郎冠者を追いかけて、ともに舞台を去っていく狂言のエンディングに似ていますね。 (年中行事として、中秋の名月の下で鑑賞した「観月能」に関しては別項で書くつもりです)


 つまり、この小説は、肉体という牢獄こそが、人の能力を限定しているのではないか、といいたいのですね。

 キャプテン・フューチャー・シリーズの最晩年の短編作品「太陽の子供たち」も、同様の趣旨で、こちらは肉体を光子に変換して、太陽に飛び込む話です。

 行方不明になった友人を捜すうちに、フューチャーは、古代人が智の探求のために、ある機械を使ってフレア人間になったことを知ります。

 彼は、見つけた遺跡の装置で、自らの肉体を光子に変えて、太陽へと出かける……

 すると「逃亡者」同様、あらゆる知識が体に流れ込み、核融合実験を素手で行える体を得て、戻ってこない友人を連れ戻しに行ったカーティス・ニュートンさえ、あやうく太陽に残るところでした。

 この作品の凄い点は、太陽のプロミネンスを、太陽の子たちが戯れにジャンプしているに過ぎないと明言したことです。

 年代的にいって、「逃亡者」のシマックは、おそらく「キャプテン・フューチャー」のE.ハミルトンに影響を受けたのだと思われます。

 さて、映画「アバター」は、そういった肉体が精神に及ぼす影響にまで言及しているでしょうか。

 考えてみれば、単に精神を「入れ替える」という設定だけなら、C・フューチャーシリーズの「挑戦!嵐の海底都市」で、すでにハミルトンが書き上げています。

 あれも水棲人だったから、案外、「アバター」の生みの親はハミルトンなのかもしれませんね。

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