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2009年11月

2009年11月25日 (水)

世にあふれるオルタネティブ 〜女か虎か〜

「二者択一」、英語で「An alternative」と呼ばれる行為あるいはそれについて書かれた書物が世の中には種々(しゅじゅ)存在します。

 曰く、「あれかこれか」(セーレン・キェルケゴール)、「紙か髪か」(小松左京)、「生か死か」(映画その他多数)、そして「女か虎か」――



 キェルケゴールについては、その神サマ中心の彼の哲学思想よりも、彼の父ミカエルが自分のバチあたりな行いで、七人の子供全てがキリストが磔にされた(といわれている)34歳で死んでしまうと思いこみ、そう教えながら育ててしまったため(実際、長男とセーレン以外は34歳まで生きていない)、キェルケゴールは34歳の誕生日を迎えたときに、それが信じられず教会へ自分の誕生日を調べに行った、なんていう逸話の方が好きですね。



 「紙か髪か」は、小松左京氏のジョーク(たぶん)SF短編小説です。
 火星からやってきた細菌に放射線を当てたところ、あらゆる紙をボロボロにする性質をもって世界中に広がってしまった。
 記録媒体として未だ重要な紙を失うわけにはいかない。
 しかし、紙を救う方法はある。
 だが、その方法を使うと、紙のかわりに髪がなくなってしまうのだ。
 ドーする?
 結構、究極っぽいオルタネティブ。だが、案外、薄毛の人には歓迎されるかも……



「生か死か」は、1960年代の映画のキャッチコピーによく使われていますが、そういった惹句(じゃっく)的に使われる生死ではなく、まさしく「死の匂い」を嗅ぎ「死の味」を味わったという意味で、わたしの記憶に残るのは、かのフョードル・ドストエフスキーです。

 そう、「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」のドストエフスキーですね。

 ご存じの方も多いと思いますが、彼は、とある空想的社会主義サークルの会員となったため、1849年、官憲に逮捕され、銃殺刑の死刑判決を受けてしまいます。

 そして「死刑直前」に皇帝からの特赦が与えられ、からくも死の淵から生還し五年間のシベリア送りとなるのです。

 死の匂い?
 味?

 ご存じない方は幸せです。

 そう、死には匂いと味があります。
 わたしは、これまでに何度かそれを味わいました。
 一度は山で、もう一度は車で。

 身も蓋もないイイカタをすれば、恐怖によるアドレナリンと脳内物質の分泌によって、現実にはあり得ない匂いと味を感じるということなのでしょう。



 そして「女か虎か」……

 世界的に著名なリドル・ストーリーです。

 まあ、普通に答えを考えれば、そんなもの比較にもなりません。

 選ぶのは、モチロン女、というか女性に決まっています。

 もし「女か猫か」と問われたら……個人的には困りますが。


 いったい誰がこんな事をいいだしたのでしょう?
 
 二択の例として、いや究極の選択としての故事成語なのか?
 あるいは言い出しっぺがいるのか?
 
 結論からいえば、作者はいます。
 「女か虎か」は、もともと小説なのです。

 米国の作家、フランク・ストックトン(Frank Richard Stockton)が1884年に書いたのですが、その短編"The Lady, or the Tiger?"が、あまりに有名になり過ぎて、不幸にも彼の他の著作はほとんど覚えられていないようです。

 ストーリーの全文は以下に掲載されているので、読んでみてください。少し古くさい英語ですが、それほど難しくはありませんし、なかなかの美文です。



 老婆心ながら、内容を、自分勝手かつ大雑把に要約すると……


 昔々(つまりこれは寓話なのですね)、あるところに、半ば野蛮な国の王がいた。
 
 その性格、振る舞いは、つきあいのあるラテンの国々のおかげで、半ば洗練されてきているものの、まだまだ野蛮の域を出ておらず、強大な権力と相まって、日々、自由気ままな生活を送っているのだった。

 彼には自慢の場所がある。円形闘技場だ。

 そこは、格闘の場所であると同時に裁判所であり死刑場でもある。

 普段、些末(さまつ)な事件には無関心の王であるが、時に、彼の気を引くほどの大きな事件も起こる。

 その際、王は被告を闘技場に引き出して、玉座の反対側にある、ふたつの巨大な扉のどちらかを開けよ、との命を下すのだ。

 満場の観衆が固唾を飲んで見守る中、扉は開かれ、被告は、ふたつのうち、どちらかの運命をたどることになる。

 すなわち、女か虎か……

 片方の扉の奥には、腹を空かせた獰猛な虎が閉じこめられ、もう片方の扉の奥には、王自らが由緒正しい家臣の中から選んだ、被告の地位にもっともふさわしい愛らしい女性が待ち受けている。

 そう、王は自然の気まぐれに被告人の罪を決めさせるのだ。

 女性を選んだ場合、被告が清廉潔白であったことが証明されたわけであるから、彼は、その聡明な女性と娶(めあわ)されることになる。

 その際、すでに男に妻や子供がいようが許嫁(いいなずけ)があろうが、おかまいなしに。

 それが野蛮かつ万能である王の決定であるがゆえに。



 王には娘がいた。あでやかで美しく、その性格は父同様、情熱的かつ尊大である……
 当然のことながら、王は王女を溺愛した。

 やがて、王女はひとりの男に恋をした。

 男は美丈夫で勇猛果敢な若者だった。

 ふたりの密かで甘やかな恋は数ヶ月間続いたが、いずれ王の知れるところとなり、若者は捉えられ闘技場に引き出された。

 王国の掌中の玉ともいうべき宝に手を出した若者は、闘技場に集まった誰の目にも、罪人であった。

 王は叫んだ。「どちらかの扉を選べ」と。

「女か虎か」


 それに先立つこと、王女は、持って生まれた聡明さと黄金と女の意思によって、かつて誰もが知り得なかった秘密を手に入れた。

 すなわち、どちらの扉に虎が、女がいるのか、を。
 
 だが、同時に王女は知ってしまった。

 頬を染め顔を輝かせ、扉が開くのを待つ女が誰であるかを。

 無実を勝ち取った若者が手に入れるのは、王宮の中でも比類無いほどに美しく愛らしい娘であった。
 王女は、この者を憎んでいた。
 これまで幾度となく、この美しい娘が、己が愛人に憧れの眼差しを向けるのを見た、否、見たように思った。
 それだけでなく、その眼差しは時に受け入れられ、返されたことさえあったのではないのか?
 二人が話をしているのを見かけたことがある。ほんの一瞬ではあったが……だが、多くを語るには充分な時間だ。たいしたことのない話題であったのかも知れぬ。誰が知ろう?
 愛らしい顔をしながら、王女の想い人に眼をあげるような娘だ。
 連綿と野蛮な血を祖先から受け継いた王女は、その血の激しさをもって、静かな扉の向こうで頬を染め、震える娘を憎んだのだった。


 振り返って王女を見つめた若者は、その瞳の中に、彼女が首尾良くやった証を見た。
 かねて彼が期待したとおりに。

「どちらだ?」無言にして一瞬の問いが投げかけられ、瞬時に王女は答えを返した。
 クッションの上に置かれた右手で右を指し示したのだ。

 若者は向きを変え、毅然と、そして颯爽と無人の闘技場を歩き、右の扉を開けた。


 さて、扉から現れたのは女だったのか、虎だったのか、と作者は問いかける。

 若者が捕まって以来、目覚めている時も夢の中でさえ、獰猛な牙の待ち受ける扉を恋人が開ける瞬間に恐怖して、王女は、何度その顔を両の手に埋めたことだろう。

 だが、それより王女が頻繁に思い浮かべるのは、もう一つの扉を開く場合だ。

 女の扉を開き、若者の顔に天にも昇るかのような喜びの表情が浮かぶことを思うと、王女は髪を掻きむしり、その心は苦悶に引き裂かれる。

 女のもとに駆け寄る恋人の姿が見える。女の頬は上気し、その瞳は勝ち誇っている。
 群衆は二人を祝福し、その歓喜の声は王女の絶望の叫びなどかき消してしまうだろう。

 いっそ瞬時の死を受け入れ、来世あるいは祝福された場所で王女を待つ方が、彼のためではあるまいか。

 だが、あのおぞましい虎を、悲鳴や流される血を思うと……

 王女の決断がどうであったかは、軽々(けいけい)に扱われてはならない。また、わたし(作者)がこれに答えられる唯一の人間である、と自惚れるつもりもない。

 よって、わたしはそれを読者に委ねることにする。

 開いた扉から出てきたのはどちらだったのだろう。


 ――女か虎か……



 以上です。

 いやあ、美文体、というか、寓話っていうのは良いですねぇ。
 訳して書いていて楽しくなってくる。

 それはともかく、この、「ぷつり」と断ち切られたような物語は、発表当時から様々な論争を引き起こしました。

 単純に考えれば、答えはふたつ。

 女か虎か。

 しかし、王女の立場から見れば、答えは四つある。

・若者に虎の扉を示し、愛人の虎の手にかかるを見て自らも命を絶つ。
・若者に虎の扉を示し、昂然(こうぜん)と頭(こうべ)を掲げて愛人の死するを見守る。

・若者に女の扉を示し、二人の手をつなぐを見て自ら命を絶つ。
・若者に女の扉を示し、二人の手をつなぐを毅然と見守る。

 さて、どうでしょう?

 ね、だからオルタネティブは面白い。

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2009年11月24日 (火)

出られなかった悲しみに 〜イングロリアス バスターズ〜

 猿、じゃなくて去る22日に「イングロリアス バスターズ」鑑賞に出かけてきました。

 21:00〜23:40という上映時間のためか、観客は二十人ほど、劇場はガラ空きでした。

 観はじめてすぐに、あらかじめ予想した通り、タイトルが同じリメイク作品であっても、78年版「イングロリアス・バスターズ」とは、まったく別モノに仕上がっていることが分かります。

 ユダヤ人をかくまうフランス人農夫が、武器と権力を背景にしたナチス党幹部の「精神的圧力」によって屈服させられる第一章と、逆にイングロリアス・バスターズに殲滅(せんめつ)させられた部隊の生き残りであるナチス党員がバットで殴り殺され、頭の皮を剥がれる第二章を観て、タランティーノというヒトは、なにより心理的圧力(緊迫感)を描くのが好きな監督だったことを思い出しました。

 第一章のユダヤ・ハンターあるいは第二章のバスターズのように、どちからが圧倒的な力をもって精神的圧力をかけ、他者を押さえつける緊迫感、その緊張感が限界に達した時、何らかのイベントが起こり――第一章の場合は、ユダヤ人たちが機銃掃射で抹殺され、第二章では、ナチスの軍人が殴り殺され――その「場」がリセットされる。

 必然的に、双方が武器を持って狙いをつけあうと、どうしようもない膠着状態が発生し……

 結局は、全員が撃ち合って共倒れ。

 キルビルやレザボア・ドッグスもそうでしたね。

 これは、現実的ではあるのでしょうが、ちょっと安易かな、とは思います。


 ともかく、好きな人にとっては喜ばしいのでしょうが、個人的にはあまり意味のなさそうな「グロテスクさ」が鼻について、あやうく第3章(小一時間)前に席を立って、全額返金してもらいそうになりました。

 しかし、わたし以外、誰も、ピクリとも動こうとはしないので、結局最後まで観てしまいました。

 観終わって ――結論からいえば、映画としては面白い思います。

 エンディングも、まあ、あれで良いでしょう。

 それでも、それがタランティーノ流といえばそれまでなのですが、頭の皮を剥ぎ、野球のバットで頭をメチャクチャに破壊し、顔面を機銃で粉砕する画をじっくりと描写する必要が、果たしてあるのか疑問です。

 そういうのは、SAWあたりに任せておけば良いのでは?

 もっとも、そのおかげでR-15指定され、大人だけで静かな鑑賞ができたのは怪我の功名ともいうべきなのですが。


 最後に、シャレで「イングロリアス バスターズ」のテーマ曲(詞だけ)を作りました。いや、ウソ、ちょっと原詞をアレンジしてみました。

 曲は……おわかりですね?レイ・パーカーJrの「ゴースト バスターズ」です。



 書くまでもありませんが、歌詞内にあらわれる団体名は、映画の中で使われた固有名詞のことであって、実在する国あるいはかつて実在した団体を直截誹謗中傷するものではありません。押念。






「Ingroulious busters」


Ingroulious busters!

イングロリアス バスターズ!

If there's something strange in your Country
Who you gonna call?
Ingroulious busters!
If there's something weird and it don't look good
Who you gonna call?
Ingroulious busters!

キミの国に妙な感じがするのなら
誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!
なんかミョーで よろしくない感じがするのなら
誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!

I ain't afraid of no Nazi
I ain't afraid of no Nazi

ナチス党員なんて全然怖くないからね
ナチス党員なんて全然怖くないからね

If you're seeing soldiers going to forest
Who can you call?
Ingroulious busters!
A serviceman sleeping in your bed
Oh, who you gonna call?
Ingroulious busters!

兵隊さんたちが森に行くのを見たら
誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!
ベッドにヘータイさんが寝てるのを見つけたら
誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!

I ain't afraid of no Nazi
I ain't afraid of no Nazi

ナチス党員なんて全然怖くないからね
ナチス党員なんて全然怖くないからね

Who you gonna call?
Ingroulious busters!
If you're all alone, pick up a mike
And shout
Ingroulious busters!

誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!
1人っきりでいるなら、無線のマイクを持って
叫ぼう
イングロリアス バスターズ!

I ain't afraid of no Nazi
I hear it likes the Fuhrer
I ain't afraid of no Nazi
Yeah, yeah, yeah, yeah

ナチス党員なんて全然怖くないからね
ナチス党員って総統が好きだって噂だぜ
ナチス党員なんて全然怖くないからね

Who you gonna call?
Ingroulious busters!
If you were hit by freaky soldiers
You'd better call
Ingroulious busters!

誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!
イカれたナチに殴られたんだって?
そりゃ連絡すべきでしょ
イングロリアス バスターズ!

Let me tell you something
Bustin' makes me feel good

ひとこと言っていいかい
ナチ退治って気持ちエエんよ!

I ain't afraid of no Nazi
I ain't afraid of no Nazi

ナチス党員なんて全然怖くないからね
ナチス党員なんて全然怖くないからね

Don't get caught alone, oh no
Ingroulious busters!
When it comes through your door
Unless you just want some more
I think you better call
Ingroulious busters!
Ow!

1人で抱え込んでちゃ駄目ダメ
イングロリアス バスターズ!
ナチス党員がドアをすり抜けてきて
もっとヤツらに来て欲しいっていうんじゃないなら
連絡した方がいいゼ
イングロリアス バスターズ!
オゥ!

Who you gonna call
Ingroulious busters!

誰に連絡すればいい?
イングロリアス バスターズ!

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2009年11月21日 (土)

お金返しバスターズってホント? 〜イングロリアス バスターズ〜

 20日から、クエンティン・タランティーノ監督の映画「イングロリアス バスターズ」が公開されています。

 これは「知る人ぞ知る」というか「知らない人がほとんど」のB級イタリア映画、「地獄のバスターズ(78年)」(原題:BASTARDI SENZA GLORIA 英題:The Inglorious Basters)のリメイク……のようですが、内容はまったく違うものに変えられているそうですね。




 さすがに、若き日にレンタルビデオの店員として、日本の映画を始めB級映画を観まくっていたという逸話を持つタランティーノだけあって、リメイクに取り上げる作品もツブがそろっています。

 チョイスする作品がシブい。

 オリジナルの内容をざっと言ってしまうと、第二次大戦下、逮捕されたナラズモノたちが、軍法会議を受けるために移送中、ドイツ軍の攻撃を受け逃走、スイスに向けて逃避行を続けるうちに、間違えてドイツ兵に化けて任務遂行中の米軍特殊部隊を皆殺しにしてしまい、結果的に、その特殊部隊になりすまして、V2ロケットを搭載した列車の強奪作戦をやらされるはめになる、あー長い、考えてみると結構フクザツな話ですね。

 要するに、愛国心もクソもないナラズモノたちが、偶然「なってしまった役わり」に殉じて死んでいくという、まあ、世界のクロサワ「影武者」タイプのストーリーです。

 音楽はチープだし、戦闘もザンコク趣味テイストであるものの(だからタランティーノが喰いついた?)、ナラズモノたちが徐々に使命感に目覚めて次々と死んでいくのは、戦闘モノのお約束ではあるものの、ある種感動的です。

 ストーリー的にも、多少ご都合主義的(ラスト近く)ではあるものの、破綻せずきれいにまとまっているので、これを、タランティーノが、どのように作り替えているのか楽しみでもあります(ナチを100人殺せ、ですか。歴史も史実とは変えられているそうですね)。

 さて、ここからが、この項の本題です。

 映画が、娯楽の中心の座から滑り落ちて以来、公開時に、客寄せのために様々な催しが行われるようになりました。

 前売り券にLEDライトを付ける(「リディック・アイ」を求めて走り回ったのはわたしです)だの、主演格の俳優が舞台挨拶したりする、アレですね。

 この映画では、「面白さタランかったら全額返金しバスターズ」と称して、料金全額返金キャンペーンを行っています(11月20日〜23日限定)


 そんなことして大丈夫なの?と思って、返金条件を調べてみました。

注意点
1.対象期間中、お一人様一回、有料入場者のご本人にかぎります。
2.ご返金日金額は、半券に記載されております金額分の返金となります。
3.ご招待券でご入場の方は対象外とさせていただきます。
4.原則として、本編開始後、約60分までをご覧頂き、その時点で途中退出された方に限ります。(本作は第5章立てて構成されており、第3章終了時が約60分となります)
5.ご返金の際はチケットの半券をご持参の上、退出されましたらすぐにお近くの劇場係員にお申しつけください。
6.今後の参考とさせていただきますので、アンケートのご協力をお願いいたします。(その際、個人情報を合わせてお聞きする場合がございます)
7.劇場によって本キャンペーンを実施していない場合がございますので、予めご確認の上、ご入場ください。


 調べる前に、上記の4.は必ず入っていると思っていました。

 全部観たあとで、面白くないといって料金を返してもらい、さらに友達やブログなどで内容を暴露されたらたまったものではありませんし、何より「面白くないなら最後まで観んなよ」と興行側が思うのは納得できます。

 ただ、6.「個人情報をお聞きする場合がある」については、「場合がある」のではなくて、絶対記録しておくだろうから、個人的には抵抗がありますね。


 なんて書いていますが、どうせ観に行ったら、オモシロクなくても「毒喰らや皿まで」最後まで観てしまうでしょうから、わたし自身、このキャンペーンは、事実上関係ないのです。

 ですから、どなたか、このキャンペーンを使われた方がおられたら、映画館側の態度がどのようなものであったかをお知らせ願いたい。

 まあ、週末に、2GbyteSDメモリ20個限定380円で客集めをして他の商品を買わせる量販電気店と同じ考えでしょうから、映画館の担当者も気にしないのかもしれませんが。


 いや、そのわりに、公式サイトの返金キャンペーン規約画面で、タランティーノのフラッシュ・アニメがうろうろと歩きまわって、あからさまに文章を読みにくくしているのはナゼなのだろう?


 できるなら、キャンペーン終了後、どのくらい返金希望者がいたのか、東宝東和に公開してほしいですが……無理だろうな。



 ああ、あと蛇足ですが、この注意書きを書いた担当者って日本人ですよね?
 だとすると、なんだかなぁ。
 どうやら、彼(彼女)は、テイネイに書くということは、つけられる単語に「ご」をつけることだと思いこんでいるような気がします。

 短い割に、かように多量の「ご」がついている文章を読んだのは久しぶりでした。

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2009年11月14日 (土)

今さらジロー……じゃなくて、今さラジオ 〜AMFM PCラヂオ〜

 ラジオを買いました。

 といっても、普通のラジオではなく、コンピュータにつないで聴くラジオです。

 ははぁ、サッコン流行りのインターネットラジオか、というと、それでもなく、つまりは、USBアダプタの形をしたAM/FMラジオで、コンピュータのソフトで制御して、聴くのも録音もコンピュータで行うラジオです。

 このラジオの、一番の利点は予約録音が簡単なことです。

 わたしは、NHK第2放送で、毎日午前十時過ぎから放送されている「カルチャーラジオ」を録音するために買ったのですが、日経新聞などによると、わたしだけでなく、語学学習用にタイマー録音機能付(MP3形式で録音できる)のラジオを求める人は意外なほどおられるようです。

 MP3で録音して、直接ウオーキングスレテオに転送し、通勤・通学中に聴くのですね。


 さて、わたしの買ったキカイは、具体的には、こんな形をしています↓。




箱はこんなカンジ↓



 わたしは、ヤマダ電機の現金特価(3980円)のLogitec製(LRT-FMAM100U:通称「PCラヂオ」)を衝動買いしたのですが、あとで調べてみると、ノバックの「Radio Mate」の方が音質は良かったようです。

 他にはプリンストンテクノロジーの「デジ造Radio版」などもあります。



「PCラヂオ」には、最初からAMアンテナが付属していますが、「Radio Mate」は、別売り(4000円程度)のアンテナを買わなければなりません。

 我が家は、山の麓という立地条件もあって、全ての電波の受信状態がよろしくありません。

 AMラジオも、かなり大きなアンテナを使わないとキレイには受信できないのですが、「PCラヂオ」のアンテナを使うと、かろうじて実用程度の音質は確保できました。

 自動録音のためのスケジューラーもちょっと使いにくい点があります。

 一度設定すれば良いだけなので、あまり問題はありませんが、もし別なものを使いたいならば、有志の作られた汎用スケジューラーもあるので、試されても良いでしょう↓。



 ただ、他の方も書いておられましたが、波形にDC成分が入ってしまうため、再生するマシンによっては、機械がダメージを受ける可能性があります。

 わたしは、波形編集ソフトをつかって、DC BIAS ADJUDSTを行い、波形の中心を0に戻しています。

 どうせ、両端をカットしてレベルをノーマライズするので、ついでにその作業をしているのですが、ただ録って聴くだけの方にとっては、そういったBIAS調整が煩雑になるかもしれません。

 録音にDC成分が入るのは、ネットで書いておられた方とわたしの機械特有のロットによる不良品なのかもしれませんが、製品自体の不良である可能性もあります。

 とりあえず、問題はないので、このまま使おうとは思いますが、いずれ、一度メーカーに問い合わせようかともおもっています。

 ともあれ、毎日、知らない間に、聴くべきラジオ番組が録音されていて、後で好きなときに手作業をしながら、それを聴くことができるのは良いものです。

 わたしは、基本的に外国語のニュースは、BSのCNNをコンピュータで録画して音声のみ取り出して聴いているのですが、NHK教育ラジオでは、英語や中国語のみのニュース放送や、学習番組も数多く放送されています。

 それらを使って、語学学習をされている方にとって、この種の周辺機器は結構有用かもしれません。

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2009年11月12日 (木)

別に必要ないけど これ欲しいなぁ! 〜燃料電池Dynario〜

 コンピュータ雑誌で、気になる製品を目にしました。

 これです。




 何に見えますでしょうか?

 ラジオ?

 空気清浄機?

 いやいや、これは発電機なんです。

 メタノールを注入して発電する、いわゆる燃料電池ですね。

 思えば、スグル2004年の愛地球博、日立館において初めて燃料電池の端末を手にしてから、苦節5年。

 やっと、製品版の燃料電池パッケージを手にすることができました(まだ買ってないけど)。

 使い方はいたって簡単(らしい)。

 この高濃度メタノール入りのカートリッジ(50ml)↓を、




 マシンの穴から注入すると↓、




 USBと同じ5Vの電圧を発生します。

 惜しむらくは、電流が500mAと弱いので、完全放電に近いiPhoneの充電などは不可能かもしれません(一般的に1000mA必要とされています)。

 しかし、通常の使用(10%以上残アリ程度)なら問題なく充電できるはずです。

 コネクタがUSBなので、対応電源ケーブルを各種用意することで、デジタルカメラを充電し、携帯型GPSの電源とすることができます。




 カートリッジを注入するだけで発電が始まるので、他の外付けバッテリーのように充電時間を気にする必要がないのも利点です(実際は、出力を安定させるために、自動車同様、一度、発生した電圧を内蔵リチウム電池に充電してから取り出すので、初回使用時は少し時間がかかるようですが)。

 まだちょっと大きい[約150mm(幅)×74.5mm(高さ)×21mm(奥行)(スタンド収納時)]ので持ち運びは不便ですし、街に電源はあふれていますので、あまり実用性はないように見えますが、個人的に、アウトドア、なかんずく山行きの際に威力をはっきしてくれるのではないかと考えています。


 以前、ビデオを持って、表銀座経由でヤリ(槍ヶ岳)に登った時、一番困ったのは予備電源でした。

 山小屋の混雑が嫌いで、テント一式と食料、水を担いでの山行きですから、1グラムでも余計な荷物は減らしたい。

 その時は、ハンディGPS、144MHZハンディリグ、デジタル・カメラ、デジタル・ビデオの予備のバッテリーといった、余計な重複物は持っていきたくないので、結局撮影時間が短くなってしまいました(そもそも山にそんなデジタル機器を持っていくのが悪いのですが)。

 当時、モンベルからは、ザックの上に固定して歩きながら発電する太陽光パネルも発売されていたのですが、山の天候および発電量から考えて、ほぼ実用にはなりませんでした。

 そこへ、この燃料電池です。デジタル&アウトドア好きにはなによりの朗報です。


 あ、名前を紹介するのを忘れていました。

 東芝モバイル電池 Dynario ディナリオ(29800円:税込み)


 店頭販売はなく、購入は、東芝オンラインSHOP1048のみの通信販売となります。

 燃料カートリッジ5本(3150円)も同様です。


 イイなぁ。でもやっぱりネックは値段かな?

 出力の問題で、まだコンピュータには使えませんが、いずれノートパソコン対応、というか組み込みの製品も出てくることでしょう(原理上の問題で、電圧を高くするのが難しいとは聞いていますが)。

 その時になって初めて、コンピュータは電源コードというヒモ付きから逃れられるのかもしれません。

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2009年11月11日 (水)

覆面座談会ふたたび 〜インフルエンザ・ワクチン〜

A:皆さん、インフルエンザはどうですか?

B:おかげさまで、まだ罹ってません。

A:ワクチンは打ちましたか?

C:まだ打ってません。

A:大丈夫ですか?

B:大丈夫も何も、打つべきワクチンがないんだから仕方ないよ。

C:え、新型でなければ、ワクチンあるんじゃないの?

B:なに言ってるの。いわゆる季節性インフルエンザのワクチンは、新型の製造に圧迫されて絶対量が足りないから、もう完全に品切れ状態。

C:そうだったのか。寒くなったら接種に行こうと思っていたのに。まあ、手洗いうがいして、よく寝て、気休めに外出時にマスクつけて防ぐしかないな。

B:マスクは、うつさないためにするのだからね。でも、電車に乗ってもマスクしているヒトは少ないね。この間行ってきたヤマダ電機でも、マスクしているのは店員だけだった。

C:マスク以外でも、袖などで、咳、つまり唾液が直接飛ばないようにするだけでもかなり効果があるとCDCの要人も言っている。

A:CDCというと、アメリカの伝染病対策室?

D:Centers for Disease Control and Prevention、つまり合衆国疾病予防管理センターの略だ。感染症対策の総合研究所ってところだな。
 まあ、体が健康なら、月並みだが、良く寝て良く食べて運動して免疫を上げた方がいい。とどのつまり、ワクチンなんて毒だから。

C:ワクチンは病気予防の薬でしょう。

B:何いってるの、ワクチンって、要するに弱められたウイルスでしょう。だから弱った体には不具合が出やすい。

E:副作用のないワクチンはない。1976年に米国の部隊が豚インフルエンザに罹ったため、ワクチンを接種したところギラン・バレー症候群が続出したこともある。

C:ギラン・バレーってコンピュータの?

B:それはシリコン・バレーでしょう。知ってるくせに……あの大原麗子も患っていたヤツ。

C:まあね。でも、たとえ副作用があっても、持病のある人や幼児たちは致死率が高いからワクチンは打った方がいいんだろうなぁ。

B:それはそうさ。だけど日本は季節性だけでなく、新型ワクチンも絶対量が足りない。

D:それは経済的に見てもおかしな話だ。ワクチンは製薬会社の最大成長分野で数兆円規模もある。仏ならサノフィ、英ならグラクソなんかの巨大製薬会社が作っている。技術があれば、いや実際はあるんだが、これに力をいれないのはおかしい。なのに日本は財団法人などの5社だけでワクチンを作っている。

E:ほぼ天下り独占。

D:結局、冬に向かってワクチンの数が足りないことが露見し、2009年8月に桝添厚労大臣主導で外国ワクチン導入決定した。

C:外国製は副作用が強いのでは?

D:その可能性はある。要するに国にできることはワクチンを用意することだけ。それを使うか使わないか、国内外のどちらを使うかは、個人が医者と相談して決めるべきなのだろう。

C:シロウトに決めろといわれてもねぇ。副作用があるといわれたら、やっぱり怖いから、国内のを打ちたい。

D:どちらにせよ、絶対数は足りない。

E:だから、厚労省はワクチンの数を誤魔化しはじめた。まず、中国だったかの研究で、「ワクチンの1回接種で3週間後には免疫ができる」という報告があったので、本来二回打たなければならないワクチンを一回で良いことにしようとした。

C:研究報告があるなら、それでいいんじゃないの?

E:詭弁だ。それは健康な成人の場合なんだ。大人の研究報告を基準にして、厚労省は、子供から大人まで1回で良いと言い出したのだから。先進国のほとんど、つまりワクチン不足を誤魔化したい日本とアメリカ以外の国では、「とにかく国が二回分を用意しますが、打つ、打たないは各自決めて下さい」というスタンスをとっている。

C:信じられないな。命の問題なのに。

D:命よりメンツが大事なんだろう。要するに数がたりないのを誤魔化したい。

C:それって民主党の厚生労働大臣が主導でやってるの?

E:おそらく彼は騙されている。

D:彼は、年金が専門であって医療の専門家ではないから、重要な部分を誤魔化しつつ理路整然と説明されて納得させられているんだろうな。

E:そればっかりやって来た優等生のなれの果て官僚たちによって、数字のマジックを使われたら、忙しい大臣はひとたまりもない。

D:前政権の大臣のほうが良かった?

E:現時点では、人間的にはあまり好みではないものの、広範な厚生関係の勉強ぶりという点で前大臣に軍配があがるだろう。まあ、下にいる官僚が同じだから全体の動きはほとんど変わらないが。

D:ワクチンの用意にしくじったことを認めたくない。命より自分たちのメンツが大事な連中なのさ。だから数あわせに詭弁を弄する。

B:そりゃ、二回打たなければならないところを一回でいいなら、単純に考えてワクチン量が二倍になるものな。

D:もうひとつの誤魔化しが、バイアルサイズだ。

C:バイアルって?

B:ほら、注射針を、蓋のコルクだかゴムから差し込んで液を吸い出す、あの入れ物のことだよね。

C:ああ、あれから吸って、注射器を指でコンコンと叩いて針を上に向け、チューと液を飛ばすやつね。




B:まあ、それは空気を抜いているんだけど。

D:あれを今までは、容量1ccだったのを10ccにすると言い出した。

C:分からないなぁ。入れ物の大きさが変わったって、結果的に、薬液の量が変わるわけじゃないでしょう。

D:それはそうだ。しかし、実際問題として、1ccのバイアルには、きっちり1ccの薬液が入っているわけではない。多めにいれておかないと必要な分を注射できなくなる。

C:あ、そうか。多めに注射針にいれて、チューする分が必要なんだ。

D:子供か、君は。まあ、そういうことだな。だから、今までは成人二人分で1ccのバイアルを使っていた。多めにいれてあるので、正味の量は1.5ccだと厚労省は言っているが、実際は1.15ccであることがわかっている。つまり0.15ccだけ余分だったわけだ。

C:よくわからないな。余分な液が入っているのと、瓶、バイアルのサイズを大きくすることに、どんな関係が――あ。

D:わかったようだね。瓶のサイズを大きくしたら、一つの瓶で出る余分な薬液が少なくなるんだ。1ccバイアルを10本使えば、厚労省の言い分なら5cc、まあ実際は1.5cc無駄が出る。10ccバイアルでも少しは無駄が出るが、1ccバイアルよりは少なくてすむというわけだ。

C:それって良いことじゃないの。別に誤魔化してもいないような気がするけど。

B:いや、それはまずい。というより、恐ろしいことだ。

C:なんでよ。

E:ヒトは間違いを冒すイキモノだからだ。

D:そう。今、二十歳以上の、多くの日本人に肝炎の疑いがあるのは知っているだろう。

C:注射針の使い回しをしたからでしょう。肝炎ウイルスは感染力が強いから、ひとりの感染者に使われた注射針を使い続けたら、そのあと6人まで感染が確認されたらしいね。

D:ワクチンの摂取量は接種者の体格で変わるんだ。だから、幼児なら一人0.2ccで足りる。

C:少ないんだなぁ。一人0.2ccで足りるとすれば、10ccのバイアルなら……え!

D:そう50人がひとつのバイアルに注射器を突き刺して接種され続けることになる。

B:もちろん、注射針は使い捨てが基本だけど、もし、そのうちの一回でも、あやまって使い回されたら、そしてその子供が感染者であれば、数十人が感染する可能性が生じる。

C:医療従事者の不足、これも厚労省のミスだけど、と相まって、その確率は高いね。何千人と注射していたら、ミスも起こりやすくなってしまう。

D:もちろん、小さなバイアルでもミスは起こる。しかし、その確率を小さくする努力を国が、自分のミスを隠すために高くしてはならないのだ。現場の医療従事者にとっては、大きなバイアルというのは、恐怖以外のなにものでもない。

E:彼らは、現場の混乱でミスが生じやすいということを、よく知っているからだ。

C:そんなにまでして、ワクチンの接種可能人数を増やしたいのかなぁ。

D:官僚というイキモノの体質がよくわかる。





A:日本は世界一、タミフルをよく使う国だそうだけど、このタミフルの多量使用が、インフルエンザの重篤化の原因になっているという意見もあるそうだけど?

C:えっ、タミフルってインフルエンザの特効薬だと思っていた。

D:タミフルは発熱期間を数日短くするだけで、インフルエンザの治療薬ではないよ。

C:そうなの?

D:一部研究者の間では、青少年の自殺などではない、タミフルの副作用についての検証が始まっている。まあ、それに関しては確かな証拠は何も無く疑問程度にすぎないが、そうでなくても、あまり大量に使用すると、タミフルに対する耐性を持つウイルスが早く生まれてしまう可能性がある。

C:だから、タミフルは乱用しない方が良い?でも、せっかく日本はタミフルを確保しているのにもったいない気がする。

E:日本で異常にタミフルが出回っている理由の一つに、政治的な要素がらみだという噂もある。

B:政治がらみ?

E:タミフルは、1997年から2001年まで元アメリカ合衆国国防長官のドナルド・ラムズフェルドが会長を務めた米ギリアド・サイエンシズ社が1996年に開発し、現在はスイスのロシュ社がライセンス供与を受け全世界での製造、販売を行っている薬だ。

C:え、ラムズフェルド?

D:そう、あのラムズフェルド。彼はたっぷりタミフルで儲けているそうだ。そういった政治がらみの売り込みがあるのではないか、というのだな。まあ、これはどちらかというと「為にする非難」のような気がするが……

B:……

A:雲行きが怪しくなってきたので、今回の座談会はここまでということで。

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2009年11月 6日 (金)

ツーハンは思わぬプレゼント 〜「火の鳥」「ブッダ」〜

 かつて、敬愛する東海林さだお氏が、そのエッセイの中で「ツーハンは自分に対するプレゼントである」と宣言されたことがあります。

 もちろん、ここでいうツーハンとは、「もう!ツーハンお見限り。どこかヨソに良い子ができたんじゃないのォ」のツーハンではなく、通信販売のツーハンのことです(東海林氏談)。


 わたしも、コンピュータの周辺機器購入などでは、よくツーハンを利用します。

 さすがに、格安マザーやバルク品のHDやメモリ、コンデンサやトランジスタなどの細かい電子部品は電気街に足を運んで買いますが、おおまかな相場の決まっているものは、ツーハンがベンリです。

 なぜ、ツーハンが自分に対するプレゼントなのかというと、まあ、皆さんおわかりでしょう。

 ネットなどで注文をしておいて、あとは忙しさにかまけて、そのことを失念した頃に、ピンポンの音、はっとツーハンを思い出して、いそいそと認印をもって玄関に出て行くその瞬間こそは、まるで誰かにプレゼントしてもらった気分、というわけですね。

 最近は、前日、午後3時頃までに注文すると、「24時間以内に発送」で、翌日の昼過ぎに商品が届くので忘れる暇もないのですが。

 同時に、東海林氏は、ゲンブツを見ないで購入するツーハンの危険性として、いくつか失敗談を披露されています。

 カッコイイ!と思って買ったロシア製の腕時計が、実際に届いてみると、腕どころか、腹に巻く腹時計クラスの巨大さだったため、よろめきながら過去にいくつかあった失敗商品の眠る押し入れに運び入れるのだった、とかね。

 昔は、そういった「ヤバイツーハンモノ」は、雑誌の裏表紙などに掲載されていました。

 今も、友人が好んで話をするのは、動物の雄雌(しゆう:つまりオスメス)を見分ける「大仏の首」(仏像の首だったか?)です。


 わたしが欲しかったのは、ロケット型ラジオでした。

 後年、大人になってから「腕時計型ラジオ」というのを買いましたが、実際に届くと、これがまたデカかった。

 今思えば、それは初代X-BOXを「エエデザインじゃないの」と思って見に行った店頭で、あのデカサを見せられた時の衝撃に勝るとも劣らぬものだったなぁ。


 いやいや、長々と今まで書いて申し訳ありませんが、今回はツーハンの話をするつもりはありません。


 今、スカイパーフェクトで「ソウ」一挙放映をやっています。

 ソウ1は、以前に録画してDVD化してあったような気がしたので、あまり観る気も無かったのですが、現在「ソウ6」が劇場公開中で、それほどまでに根強い人気の秘密は何かと確認したくなって、2〜4を録画しておこうと思ったのです。


 録画準備に入ってから、もしかしたら1は、MPEG2データで観ただけで、もう消去してしまったかもしれないと思い直し、DVD入りの段ボールが山と積まれた倉庫に入って調べてみました。

 結局、「ソウ1」は見つかりませんでしたが、代わりにいろいろと面白いものが出てきました。

 なかでも驚いたのは、DVDの段ボールに混じって、コミックの段ボールが出てきたことです。

 基本的に、映像と書物(コミック含)は分けて保存しているのですが、なにかの拍子に混じってしまったのでしょう。

 その段ボールには、文庫版「火の鳥」と「ブッダ」と「青春の尻尾」、スキマに「11人いる!」と「修羅雪姫」が入っていました。

 テーマに統一性が、あるんだか皆無なのか、よくわからないパッケージですね。

 「11人いる!」は続編の「東の地平西の永遠」とともに、オリジナル版が書架に並んでいるので、おそらく間違って重複買いしたものでしょう。

 それより、驚いたのは、自分が手塚治虫氏の「火の鳥」を全巻持っていたことです。




「ブッダ」は覚えていたのですが、「火の鳥」は、「復活編」と「未来編」のみを大判で持っていると思っていたため、これまで何度も、書店で手にとって買うかどうか迷ったあげく、踏ん切りがつかずにいたのです。

 忘れたつもりでいて、どこかに記憶の片鱗が残っていたのでしょうか?

 ともかく、いくつかのエピソードを除いて、すっかり内容を忘れていたので、ブッダともども箱の中のコミック全てを一気読みしました。

 そして、これぞ正しく「奇貨」なり。

 「奇貨居くべし」、いやつまり、これらの作品についての覚え書きをブログで書いておこうと思ったのですね。

 わたしにとって、ツーハン以上の「思わぬプレゼント」になったのでした。





 手塚氏の捉える仏教史観の発露「ブッダ」は、ある意味わたしの背骨に入っている思想でもあります。
 あえていえば、シャーリプトラ(舎利子)の姿形が、わたしの考えていたものと少し違っていましたが……

 「ブッダ」の中の重要なエピソードのひとつ、ブッダが鹿に教えを説き、初めて人に説法をしたサルナートは、わたしがインドで体を壊す前日に訪れた地でした。

 宿を出て、英語のほとんど通じない人々とともに、独りバスに乗り込んで、運転手に「サルナート!」と叫ぶと、満員の乗客のほとんどが、「わかった、わかった」と身振りで示し、実際に数十分たってバスが停まると、ほとんど乗客全員が一斉に「ここだ、ここだ」とヒンディで教えてくれました。

 当時、サルナートでは遺跡を発掘中で、大きな(身長3メートルほどでしょうか)極彩色のブッダが、これも大きな弟子たちと車座になっている像が設置されていました。

 たまたま「暑期」と呼ばれる最も暑い時期だったので、太陽の下は焼け付くように高温でしたが、日陰に入ると、湿度の低さもあってかなり過ごしやすく、おそらくブッダも、日中は日陰で涼をとっていたのだろうなぁ、と感銘を受けたことを思い出します。


「火の鳥」については、多くの人に書き尽くされた感があり、今さらわたしの書くことはありません。

 ただ、「復活編」の、損傷した脳を人工タンパク質で修復した主人公が、景色はもとのまま認識しながらも、生物だけを怪物のように知覚するという、理屈にはあっていなくても「体感的」に納得できる設定は、とても凡百なわたしには思いつけるものではないと思いました。いや、今も思っています。

 子供の頃、初めて「復活編」を読んだわたしにとって衝撃的だったのは、主人公が、小川のせせらぎを聴きながら、そのほとりで心を開き、恋人のロボットチヒロとつかの間の逢瀬を楽しんでいた場所が、普通の男(作業員)の目によって、溶鉱炉の鉄が流れる危険な工場内部であることわかった瞬間でした。

 あれは恐ろしかった。

 それ以前の、あからさまに人が岩のカタマリに見えていた時より遙かに恐ろしく、そして哀しい。
 一見、人間に見える主人公が、その精神構造が、すでに人間ではなくなっていることを如実に示した瞬間だったからです。


「青春の尻尾」は、個人的に、なんだか妙に好きな「少年の町ZF(ゼフ)」と同じ小池一夫、平野仁コンビの佳作です。

 ZFは宇宙人による人類消滅モノの一つですが、「〜尻尾」は、天界の桃を食べた諸葛亮孔明の話です。
 例によって、第三エピソードあたりから、小池氏一流の「物語終わらない無限ループ」に入って尻つぼみになるのですが、孔明が桃を食べるエピソードまでは素晴らしかった。

「修羅雪姫」は、映画化もされたと思いますが、小池一夫氏と「同棲時代」の上村一夫氏の明治を修羅に生きる女性のストーリーです。

 無期刑になった女性が、シャバでの恨みをはらすために、看守や説教坊主を片っ端から誘惑して子供を身ごもり、その子に望みを託して死んでいく。やがて成長したその娘は……

 という話は有名だと思いますが、わたしが、今回読み返してみて、改めて感銘をうけたのは、あとがきにある故上村氏が語るエピソードでした。


 プレイボーイ誌で連載が決まったので、顔合わせを兼ねて上村氏は小池氏と夜のバァをハシゴした。
 そのおり、仕事はほったらかしにして酒に酔った上村氏は、最近知ったウォルト・ディズニー・プロのアニメーターが作ったというブルーフィルム(今でいうエロビデオ?)の話をする。
 そこでは白雪姫が七人の侏儒(コビト)によって、性的暴力を受けるのだ。

 それから、2、3日たって、小池氏から届いた新連載の原作は、タイトルを「修羅雪姫」といった。

 上村氏は、「自分は、打ち合わせと称してタダ酒を飲んで、ヨタ話をしていただけなのに、小池氏は、しっかりと次回作の打ち合わせをしていたのだ」と感心する。



 真偽はともかく、ある作品が出来上がる過程を、いやきっかけを示す話として面白いですね。

「11人いる!」については……長くなるのでやめましょう。

 個人的には、この作品からスピンオフしたギャグマンガ「スペース・ストリート」が好みです。

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2009年11月 1日 (日)

頭脳の牢獄 〜ジェームズ・キャメロン「アバター」〜

 近々公開される「アバター」をご存じでしょうか。
 あのJ.キャメロン監督が、地球外惑星を描く映画です。
 ある惑星を調査するそのため、主人公は自身の精神を原住民と人間のハイブリッド生命体「アバター」に移植されます。
 事故で車椅子の生活を余儀なくされていた彼にとっては、願ってもない任務でした。
 そうすることで、自然な形で、彼らの生活を調べることができるはずだったのです。
 しかし、異星人となった男は雌(女性?)の異星人と恋に落ち……
 と、まあ、このあたりは、あまり調べてもおらず、興味もないので詳しくは書けませんが……
 わたしが今回書きたいのは、生命の形態を変えた時の「精神の変化」についてです。
 西洋には昔から、一元論と二元論の議論があります。
「人の体と精神は不可分であるか」
 つまり、肉体と精神は「別々なもの」なのか「ひとつのもの」なのか、という議論です。
 そして、人の精神は、神に似せて作られたといわれているヒトガタでないと、正常に働かないのか?
 昔から作家たちは、SFという手法を用いて、極端な事例を作ることで、そういった難解な議論の答えらしきものを呈示してきました。
 このへんは、古の賢者たちが、たとえ話を用いて難しい教えを分かりやすく広めようとしたことに似ていますね。あるいは、そうした思考実験がSFのもうひとつの存在理由なのかもしれません。
 その一つが、クリフォード・D・シマックの連作短編「都市」のひとつである「逃亡者」です。
『リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も時として盲(めし)いることがある。
 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中列車事故にあって辛くも脱走した 。
 孤独と絶望の逃亡生活が始まる 。
 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。  彼は逃げる。
 執拗(しつよう)なジェラード警部の追跡をかわしながら
 現在を今夜を、そして明日を生きるために 』
(オリジナル版「逃亡者」第2シーズン・オープニングナレーション:矢島正明)
のデイビッド・ジャンセンのことではありません。
 しかし、こうやって文字に起こすと素晴らしい美文というか名調子ですね。
 オリジナルが良すぎて、つい「不安と期待ともに我にあり」で、映画館に出かけた「ハリソン・フォード版リメイク」のガッカリ感を思い出してしまいます。
 数年前、オリジナル版「逃亡者」の再放送を全編通して観た時、110話だったかで、あのカート・ラッセル(遊星からの物体X、バックドラフト、スターゲイト)が、イタズラ小僧の役で出演しているのを観て大興奮した覚えがあります。彼は、子役で成功した珍しいスターなのですね。また、青年期にディズニーの子供向け映画の主役を嫌い、マイナーリーグに所属していたという変わった経歴の持ち主でもあります。
 いや、今、話題にしているのは、シマックの「逃亡者」でした。
 ともかく簡単にあらすじを紹介します。
 主人公は、木星上に作られた調査ドームの司令官ハウザーで、「アバター」同様、土着の原始生命ローパーへと部下を「転移」させて、木星の調査をさせています。
 ご存じのように、木星は巨大な重力と圧力、そしてアンモニアの雨で人間のままでは自由な調査が行えないからです。
 アバターは、精神のみの転移ですが、「逃亡者」では、丸ごと体をローパーへと変換するのです。
 そして、一見、地球の蛇に似たローパーと化した部下は、送り出したが最後、四人が全員行方不明になってしまいます。
 五人目に送り出した、聡明で理知的な若い部下アレンが戻らないことを知ったハウザーは、六人目として自らが転移することを決意します。
 木星まで連れてきた愛犬タウザーと共に。
 ローパーと化したハウザーは、愛犬タウザーとテレパシーで会話できることに気づいて驚きます。
 同時に、何かに疑問をもった途端、脳裏にその解答が浮かぶことにも。
 あたかも電脳化され、外部の巨大コンピュータに接続されたネット社会の住人のように(作品発表当時にはそんな概念はなかったでしょうが)。
 彼は犬に叫びます。
「僕らは頭脳がフルに使えるようになったんだ。地球人の頭脳は、自然と働きが鈍く緩慢になっていたんだ。僕らは宇宙の低脳児なのだ。きっとぼくらは鈍重な頭脳に縛られて、宇宙の生物の中でも、いちばん辛い目を見るように運命づけられているんだ」
 そして、彼は、なぜ送り出した部下が、二度と戻って来なかったかを知ります。
 あたりを見回すと、光輝く切り立った崖から響く轟き落ちる滝の音。
 だが、それは水の滝ではなく、アンモニアの滝で、輝く純白の断崖は固形化した酸素です。
 信じられない、真実に彩られた世界。
(以下、二重カッコ内福島正美訳)
『そうだ、あの五人も、やはりこれを感じたのだ。世界を、果てまでも見たい、知りたいという、抗いがたい欲求を感じたに違いない。知識と充足の人生が、ここにこそあることを知ったのだ。高い――なるかな我が道を、偉大なものへの力強い感触を。地平を超えたどこかに冒険が――そしてその冒険をよりさらに乗り克えたあるもののあることを』
 しかしながら、かろうじて残った司令官としての意識が彼を押しとどめようとします。
「基地の者を心配させるわけにはいかない。戻らねば」
 だが、彼はもう、再び、苦痛に疼く肉体へ――毒素に冒された肉体へ、わざわざ戻りたくはなかったのです。
『混濁したあの頭脳――またあそこに戻るのか。泥濘さながらの思考へと。他人に意思を伝えるために信号じみた形をつくって、ぱくぱく開閉する口に帰ろうというのか?なにも見えないより、なお悪い、情けない視力しか持たない目へ――あのあさましさへ、醜悪さへ、無知へ戻るのか――』
 かつて犬であったタウザーが叫びます。
「俺は帰らない。帰らないぞ」  ファウラーが答えます。 「俺もだ」
「帰ったら、俺はまた犬にされてしまう」 「そして、俺は人間にされてしまう」
 叫びつつ、彼らは木星のアンモニアの海に去っていきます。
 なんとなく、からかわれた主(しゅ)が太郎冠者を追いかけて、ともに舞台を去っていく狂言のエンディングに似ていますね。 (年中行事として、中秋の名月の下で鑑賞した「観月能」に関しては別項で書くつもりです)


 つまり、この小説は、肉体という牢獄こそが、人の能力を限定しているのではないか、といいたいのですね。

 キャプテン・フューチャー・シリーズの最晩年の短編作品「太陽の子供たち」も、同様の趣旨で、こちらは肉体を光子に変換して、太陽に飛び込む話です。

 行方不明になった友人を捜すうちに、フューチャーは、古代人が智の探求のために、ある機械を使ってフレア人間になったことを知ります。

 彼は、見つけた遺跡の装置で、自らの肉体を光子に変えて、太陽へと出かける……

 すると「逃亡者」同様、あらゆる知識が体に流れ込み、核融合実験を素手で行える体を得て、戻ってこない友人を連れ戻しに行ったカーティス・ニュートンさえ、あやうく太陽に残るところでした。

 この作品の凄い点は、太陽のプロミネンスを、太陽の子たちが戯れにジャンプしているに過ぎないと明言したことです。

 年代的にいって、「逃亡者」のシマックは、おそらく「キャプテン・フューチャー」のE.ハミルトンに影響を受けたのだと思われます。

 さて、映画「アバター」は、そういった肉体が精神に及ぼす影響にまで言及しているでしょうか。

 考えてみれば、単に精神を「入れ替える」という設定だけなら、C・フューチャーシリーズの「挑戦!嵐の海底都市」で、すでにハミルトンが書き上げています。

 あれも水棲人だったから、案外、「アバター」の生みの親はハミルトンなのかもしれませんね。

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