« せんとくんに仲間ができた! 〜しかのんトリオ結成か?〜 | トップページ | いよいよ台風上陸  〜出版界にAmazon Kindleがやってくる〜 »

2009年10月 6日 (火)

小説なんて簡単さ 〜「ジェネラル・ルージュの伝説」〜




 海堂尊「ジェネラル・ルージュの伝説」を読んだ。

 小説に「著者近況エッセイ」をくっつけた合本だ。

 裏を読めば、というか作者も認めているが、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」に便乗して出版社から書かされた中編の「かさ」を増やすためにエッセイを加えてハードカバーにしたということだろう。

 相変わらず、小説の文章は読みにくく、ナルシシズム気味な表現が多用されるため、ナナメ読みできただけだった。(氏の小説文章は、なんとなく女性的、マニッシュというか、どこかカマッポイところがある)

 興味をひかれたのはエッセイの方だ(こちらはマスキュリンな文章)。

 ほぼ、小説と同分量のエッセイに、これまで書いた小説の裏話が彼の生活変化とあわせて書き連ねられている。

 氏は、その中で、二つほど気になることを書いていた。

 ひとつは、彼が、自身の作品群を「虚数空間を統一した作品にしたもので、同様のことをした作家はいない(あるいは自分の知る限りほとんどいない)」と書いていることだ。

 虚数云々は、理系を自認する作者が、鬼面ヒトを驚かす体(てい)で、ブンカケイ読者を煙(けむ)に巻くことだけが目的で使った、何ら意味のないハッタリではあるが(実際、わたしには彼が何をいっているのかわからない。複素数球面のことか?だとするとさらに意味不明)要は、「ある特定の仮想世界で、自分の書くあらゆる登場人物が、同時に生活している。自分はそれ以外の世界を書かない。だから、違う作品で以前の主人公が脇役で登場することがある」ということらしい。

 しかし、ざっと考えても、そういった体裁をとる作品を書く作家は、彼以外に十指にあまるほどいる。

 皆さんも、「主人公が変わっても、物語世界が同じで、登場人物がカブる作品を書く作家」なんていくらでも思いつくことができるでしょう?

 まあ、これは海堂氏の思いこみだから仕方ないとして、もうひとつ気になったのは、彼の創作技法についての言及だ。


 本文中、氏がブルーバックスから「死因不明社会」を出した時の話が載っている。
 (ご存じのようにブルーバックスは科学系ノンフィクション)

 面白いので引用してみよう。

「執筆はキツかった。科学系の文章を書くことは、フィクションの系の数倍大変だ。フィクションはつじつまが合わなくなったら、自分で新たな点を打てる。現実の科学ではできない。かつて基礎実験し、PCRという実験でそこにこの領域バンドが出れば世紀の大発見なのにと、思ったことが幾度あったか。それと比べたらフィクションのつじつま合わせなんて朝飯前だ。そんな状態に慣れた私は、ストイックに事実をつきあわせて書くことが難しい体質になっていた(要は、作家はいいかげんな詐欺師だ、ということだ)」

 これには納得できた。
 わたしも常々そう思っていたからだ。

 氏の書くとおり、フィクションは、ある意味簡単だ。
 好きなように辻褄があわせられる。
 たしか、東野圭吾氏も同様のことを書いていた記憶がある。

 困ったら、新しい登場人物を出したり、始めは、そこになかった自動車を通りにおいておけばいい。そして、うしろの方を、それにあわせてちょこちょこっと書き換えて、ハイ、できあがり。

 理系のニンゲンは、だいたい同じように考えるものかもしれない。

 しかし、問題は、わたしが書いた「ある意味簡単だ」ということだ。

 世の中の、あらゆることには、それぞれに抜け道がある。ラクができる。ごまかせる。
 そして、多くのヒトは、その多寡(たか)はともかく、そういった「妥協」と妥協しながら生きているのだ。

 だが、いやしくも、自分を好んでくれる読者の財布から、千円以上(ハードカバーの場合)出費させようとする作家であるなら、思いつきのプロットを、辻褄あわせのトリックで読ませ続けてはいけない。

 科学レポートと違って、「簡単にグラフにプロットできるから(点を打てるから)」こそ、プロット(あらすじ)に凝らなければならないのだ。

 そりゃあ、ろくな読書量もない、本ばなれした人々を相手にして、興味本位に本を買ってもらうだけなら、既存の有名作品(古典)に似たあらすじをちょっと現代風テイストに変えて書けば良いかもしれない。

 しかし、わたしを含め、おそらく多くの雑文家は、今まで誰も書いたことのない「あらすじ」をひとつでも産み出してから死にたい、と常々考えているに違いない。

 氏が、賞に応募した「チームバチスタの崩壊」で何度も推敲(すいこう)を繰り返したことは知っている。
 だが、その後、多数執筆されている作品の多くの内容は、残念ながら練られたものであるとは思えない。

 売れることを前提条件に出版社から執筆依頼されるのだから、あまり凝ったプロットにできず、辻褄をあわせのトリックを、読書家なら「ドコカデヨンダハナシダナ」と思うような「既存の素晴らしいあらすじ」で書き飛ばしてしまうのはわかるのだが……

 そんな書き方をしていれば、やがて、手痛いしっぺ返しをくらうことになるかもしれない。

 十代、二十代でデビューした作家のように経験でなく感性で書いていると、ライターズ・ブロック(つまり書き詰まり)を起こしやすい。


 反対に、ある程度歳をとってからデビューする作家は、デビュー後数年は多作であることが多い。

 それは、書くべきネタが経験の中で蓄積されているからだ。

 しかし、ネタは無尽蔵ではない。

 おや、と思った「きっかけネタ」を、自分の中で昇華させ、知識を自分を触媒として変化させて、物語グラフの未知の場所に「点を打つ」ようにならなければ、早晩、ライターズ・ブロックに陥ってしまうだろう。

 あるいは、そういった「創作作業に対する侮辱的ルーティンワーク」すらこなせる強靱なハートの持ち主なら、名前のみで、そこそこ売れる駄作を書き続ける老人作家になりはてるかもしれない。

 ご存じのように、海堂氏は現役の医療従事者だ。 

 彼のような「二足のわらじ作家」には、売れなく、書けなくなったら、もといた場所に戻ればよいという、よくいえば余裕、わるくいえば腰掛け的イイカゲンさがある。

 そのお気楽気分が、良いほうに向かっている間は、彼の作品は売れ続けるのかもしれない

p.s.

 気になったことが、もうひとつあった。

 文中に、海堂さんに10の質問というコーナーがある。
 いかにも、自分が聞いて欲しいことを質問させている、というカンジなのだが、その中で、彼は「文体がころころ変わるといわれますが」という質問に答えていた。

 面白いので引用してみよう。

「実は作品によって、意図して文体を変えている。デビュー当初は、最初の七作すべて文体を変え、七色の変化球作家という渾名をもらおうと目論んだ。ところが実際は誰もそう評価してくれず、文体が安定しない変な新人、という意図に反したレッテルをちょうだいしてしまった」

 あの文体って、毎回変わってたんだ!
 その全部が読みにくいというのがすごい。



p.p.s

 もうひとつおまけを。

 よく、新聞記事で、社会派作家(これもイミワカンネー)と称する人々に、昨今の世相や政策を尋ねるものがある。

 しかし、皆さんおそらくご存じのように、概(おおむ)ね、彼らの答えはピンボケで、的外れのものが多い。

 その理由こそが、海堂氏が上で書いている「現実社会と違ってショーセツでは好きなところに点が打てる」からなのだ。

 いつも、手前味噌に好きなトコロに点をうって、現実社会のデータをそこに貼り付けて、社会派小説をデッチ上げている作家(もちろん例外はある)に、動かしようのない社会の分析と今後の予測を尋ねても、イミガナイことに、早く記者たちも気づくべきだと思うのだが……

 あるいは、新聞社側も、そんなことは分かりつつ、紙面を埋め、知名度で顧客の気をひくための客寄せパンダとして、名のある社会派作家に登場願っているのかもしれない。

|

« せんとくんに仲間ができた! 〜しかのんトリオ結成か?〜 | トップページ | いよいよ台風上陸  〜出版界にAmazon Kindleがやってくる〜 »

小説感想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小説なんて簡単さ 〜「ジェネラル・ルージュの伝説」〜:

« せんとくんに仲間ができた! 〜しかのんトリオ結成か?〜 | トップページ | いよいよ台風上陸  〜出版界にAmazon Kindleがやってくる〜 »