地獄にSF 〜シェイヨルという星〜
いつものように夜道を歩いていて、ふと「地獄」という言葉が浮かんだ。
なぜかはわからない。
商業的な思惑から、業界が無理矢理、根付かせようとしているハロウィーンの季節だからか、落語「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」の演者である桂米朝が文化勲章を受けたことで記憶が刺激されたからなのか……
彼の語る「陽気な地獄」には随分と助けられた。
米朝の落語を聞く以前、おそらく十四、五の頃まで、わたしの持つ地獄のイメージは、ダンテの神曲にあるInferno(インフェルノ:地獄篇)あるいはPurgatorio(プルガトーリオ:煉獄篇)などの宗教色の強い場所ではなく、コードウェイナー・スミスの描くSF「惑星シェイヨル」で描かれた世界だった。
今回は、人によっては、少々気持ち悪い話になるかもしれないので、そういうのが苦手は人は読まないでください。
警告はしましたよ。
「シェイヨル」こそはSFをバックボーンにもつ本当の地獄だった。
これは考えると、なかなかに凄いことのように思われる。
なぜならば、作家、高橋克彦氏がいうように、物事は「説明不可能な事柄ほど恐ろしい」からだ。
SFは、その性格として「つい説明をしてしまう」から恐ろしくなりにくい。
いっそ説明も何もなく、
「二階で音がした。不審に思って階段を上がり、箪笥の引き出しを開けたとたん、あっと叫んで腰を抜かした。引き出し一杯に、去年死んだおばあちゃんが詰まっていて、こちらを向いて、小声でにゃあにゃあ言っていたからだ」
なんて話が恐ろしいのだ。
「リング」というホラーはご存じだろう。その続編の「らせん」も。
しかし、原作が好きで読まれた方はともかく、映画で「リング」シリーズを観た方は、リング三部作の最終話「ループ」をご存じないはずだ。
「バイオレンスジャック、終わってみればデビルマン」という格言?と同じで、「リング・らせん」終わってみれば「ハードSF」だからホラーとして映画化はされていない。
おそらく、鈴木光司は基本的にSF畑の人なのだろう。
理屈のなさ故に恐ろしいホラーと現実とに整合性を持たせようとして、ループをSFにしてしまった。しかも、かなりスペクタクルなハードSFに。
それ故、ループの映画化は二重の意味でできないのだ。
作るのに金がかかり作っても売れない。
告白すると、わたしは「ループ」が好きだ。
ある意味、わたしの「リトル・バスタード」と似た作品だから。
ともかく「シェイヨルという星」
ご存じの方も多いだろうが、作者コードウェイナー・スミスは1960年前後に多くの作品を残したSF作家だ。
アラン・スミシーなど、他の多くのスミス系著名人同様、彼の名も偽名で、本名をポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー といい、ジョン・ホプキンズ大学の社会学の教授だった。政府関係の仕事もしていたらしい。
彼の代表作はというと、「人類補完機構シリーズ」(もちろんエヴァンゲリヲンの元ネタ)ということになるのだろうが、わたしが最初に読んだ(そして一番影響を受けた)のは「シェイヨルという星(A Planet Named Shayol:1961)」だった。
彼の作品を、おそらく、わたしは古本で買ったジュディス・メリル編の「年刊SF傑作選」あたりで読んだのだと思うのだが記憶が定かではない。
しかし、作品の内容は、はっきりと記憶している。
遠い未来(あるいは過去か)、宇宙を皇帝が支配する世界で、ひとりの男が惑星シェイヨルに送られてくる。
皇帝の暗殺を企てて失敗し逮捕された男だ。
シェイヨルは非常にユニークな星で、かつ流刑星だ。そして地獄でもある。
子供のころのわたしにとって、その地獄ぶりは、仏教で説かれる「等活地獄」や「叫喚地獄」「焦熱地獄」「無間地獄」より恐ろしかった。
宇宙ステーションで、惑星へ投下される彼に医療措置をほどこしながら、看護婦は快楽波発生ヘルメットを彼にかぶせ、自分もかぶる。
そして、快感にロレツのまわらない舌で、こう彼に告げるのだ。
「こうでもしないと、ここでの生活は耐えられない。これから二年の勤務のうちに、地上基地からあんたの体の部分がいくらでも送られてくる。わたしはあんたの首に十回お目にかからなければならないかもしれないんだ」
意味がわからないだけに恐ろしい。
続いてやってきた医者は、即座に看護婦を追い出し、ヘルメットを脱がせて彼に尋ねる。
「君が望むなら、下におりる前に精神を破壊してあげるがね。目を奪っても良い」
「それは必要なのか?」
「わたしが君の立場なら、そうするね。下のあすこは……かなりひどいよ」
結局、彼は断り、そのまま惑星に降ろされる。
地上基地には、牛をもとにして造られた誠実な人造人間ビディカートがいて、彼に、シェイヨル以外では違法とされるほど強力な麻薬:スーパー・コンダミンを打って地上に送り出そうとする。
「君の苦痛を緩和するためだ」といいながら。
この、「麻薬を使って痛みを和らげる」というあたりで、わたしはスミスが、ヒッピームーブメントから抜け出してきたヤク中あがりだと思っていたのだった。
今になって考えると、発表年が1961年なので、ヴェトナムの北爆(1965)は、まだ行われておらず、ヒッピー(そして彼らが使った麻薬)は関係なかった。
基地の窓から牛男ビディカートと共に見る外の景色は想像を絶するものだった。
今になって考えると、発表年が1961年なので、ヴェトナムの北爆(1965)は、まだ行われておらず、ヒッピー(そして彼らが使った麻薬)は関係なかった。
基地の窓から牛男ビディカートと共に見る外の景色は想像を絶するものだった。
まず、6階建てのビルほどもある足が遠くに見える。
事故で、最初にこの星に不時着した船長の巨大化した足なのだという。
600年たっても、まだ健在なのだ。
事故で、最初にこの星に不時着した船長の巨大化した足なのだという。
600年たっても、まだ健在なのだ。
体の大部分が「ドロモゾア」化しているが、人間としての意識はまだ少し残っているらしい、と牛男。
「スーパー・コンダミンを6cc与えると彼はわたしに鼻息で答える。はじめての人間は、火山の爆発と思うだろう。君は運がいい。わたしは君の友だちだしクスリもある。世話はわたしがして、君は楽しむだけだ」
男が叫ぶ。
「嘘だ。処刑日に、見せしめとして放送していた悲鳴はどこから聞こえるのだ。なぜ医者が、脳の機能をとめたり目をとったりしてやろうというのだ!」
「大したことはないよ」とビディカート。
「ドロモゾアにぶつかると、君は飛び上がるだろう。体にあたらしい部分、頭や腎臓や手や足が生えてきた時、びっくりするだろう。外に出て、たった一度で38本の手が生えた男がいた。わたしはそれを全部とって冷凍して上に送る」
シェイヨルで刈り取られた体のパーツは、銀河中に送られ、手術用の生体部品として使われているのだ。
やがて、牛男によって基地外に送り出された男は惑星に足を踏み出す。
しばらく歩くと、足にチクリとした痛みを感じ、手でそれを払いのけたとたん『まるで天が崩れ落ちてきたみたい』に痛みに体を襲われた。
ドロモゾアだ。それが生物なのかウイルスなのか光子生物なのか何もわからない。
ただ、惑星上には「ドロモゾア」が存在し、それが人間の体に苦痛を与え変化させるのだ。
苦悶する男に声をかけてくる人々。
鼻がふたつ並んである以外は普通の男、額から赤ん坊のような柔肌の指が房になってぶら下がっている女……
やがて、男の体にも異変が生じ、さまざまな「外にくっついていてはいけない器官」が男の表皮にぶら下がり始めると、牛男がもってくる麻薬と体に生えた余分なパーツを切り取ってもらうことだけが楽しみになってくる。
遅く速く、時間は速さを変えながら流れていく。
ショイヨルは不死の星で、人造人間の牛男も年をとらないのだ。
シェイヨルには多層になった恐怖が横たわっている。
1.いつ、ドロモゾア(恐ろしい痛み)に襲われるかわからない恐怖。
2.自分の体がどう変形するか分からない恐怖。
3.苦痛と恐怖から逃れるために麻薬漬けになり、あげく時間の概念を無くし、麻薬のない一分を永遠に、数百年すら一瞬に感じる恐怖。
やがて、男は先代皇帝に連なる女性と親しくなる。
彼女は、政変でこの地に流されていたのだ。
麻薬が切れかつドロモゾアが来ない短い時間を通じて、ふたりは(もはや人間の形をしていないが)恋に落ちる。
そして数百年が経ち、事件が起こる……
以上でわかるように、シェイヨルは、コードウェイナー・スミスが、SF手法で擬似的に造りだした地獄だ。
小説中では、ラストに思わぬ展開があって、ハッピーエンドらしく物語は終わるのだが、なぜ、こんな話を思い出したか考えてみるに、最近、読み散らしている京極夏彦氏の作品の影響があるようだ。
「魍魎の筺」で美少女の肉体を破壊し、「狂骨の夢」で麻薬(と脳損傷)による記憶置換を行い……
そういったプロットが、わたしには、彼が中世・現代の様々なアイテムを使いつつ「地獄」を現出させようとしているように思えたのだ。
以前、ここで彼の作風を、蘊蓄(うんちく)の羅列を詭弁(きべん)的に配置して長文化しただけのもの、と評したことがある。
その印象は変わらないし、世の多くの長編小説と同様に、本来、短編で終わることが可能な、いや終わるべきところを、あまり必要性を感じない迂遠な回り道を行ってページ数だけを増やしている点は評価できない。
もっとすっきりした流れにしたら……だが、もしそうしたら、文章量で誤魔化しているプロットのアラが丸見えになってしまうから、それもできないのだろう。
誤解を恐れずいえば、小説は短編の方が難しい。
長編で、きれいな作品を書くのはさらに難しいのだが、多くの長編は、その美しさに挑戦するがゆえに長い作品を書くのではなく、短編で表れようとするプロットの破綻を隠蔽するために言葉を増やし、かつ一冊の本にしたいという出版社の意向もあって長編化されているように見える。
最後に、なぜ批判的に評しながら、京極氏の作品を読んでいるかと問われたら……
彼の描く主人公も、フロイトが嫌いにも関わらず、知らなければ批判できないという理由でフロイトに詳しいという設定になっているから、と答えたいが、有り体にいえば、嗜好自体が自分に近いからなのかもしれない。
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