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2009年10月19日 (月)

ボクシング・美少女 〜「魍魎の筺」(京極夏彦)〜

 週末、例によって、夜中の散歩に出たついでに寄ったGEOで、普段は滅多に観ない邦画をまとめてみようと、いくつかレンタルしてきました。

 その中に「姑獲鳥(うぶめ)の夏」と「魍魎の筺(もうりょうのはこ)」がありました。

 ともに京極夏彦氏原作の映画化で、キャストが有名どころな上、「姑獲鳥〜」は、当たり外れはあるにせよ、個人的に好きな実相寺昭雄監督の作品なので、ちょっと楽しみだったのです。

 すぐに観ました。

 結論からいうと、まあハズシ気味かなぁ、というところですね。

 実相寺監督の暴走なのか、原作が原因なのかわかりません。

 「20ヶ月体内にとどまる赤子」なんてのは想像妊娠以外のなにものでもないな、と思っていたらその通りだったのと、多重人格者の殺人、見たくないものは見えない故の死体消失など、プロットからいえば笑止な設定の連続の作品でした。

 あと、南紀白浜エネルギーランドにあるトリック・アートハウス同様の錯覚道が出てきたのには笑いました。偶然できた錯覚道を通るたびに目が回る男、というのは結構面白い設定ですね。


 次に「魍魎の筺」を観ました。




 レンタル店では、確か、ロングセラー(売ってないけど)と書いてあって、ランキング4位ぐらいの棚においてありました(3位の棚にあった「リアル鬼ごっこ」については別記)。

 観始めて、すぐにひどい違和感を感じました。

 こりゃあ、どう贔屓目(ひいきめ)にみても日本じゃないぜ。

 山も、川も建物も、そして道ばたに生える植物の植生も、「絶対に日本のものじゃない」のが明らかなのに、登場人物たちが、しゃあしゃあと日本として演じていることに、不愉快を通り越して気分がわるくなってしまいました。

 あとで、昭和20年代の日本を再現するために、中国ロケを敢行したことを知りましたが、あれじゃあ、全編セットか背景オールCGの方がましだったと思います。

 それに、クドウカンクロウが出ていたのにも、ちょっと引いてしまいました。

 わたしは彼が苦手なんです。役者としても、ドラマの作り手としても。

 三文コントの漫画実写化然とした大げさな身振りを観ると鳥肌が立ってしまいます。

 漫才ではなく、コントのお笑い芸人を好きな若い女性たちなら、彼の演出を許せるのかもしれませんが、わたしには無理です。

 役者としての彼は……なんとなく映画ブリキの太鼓のオスカル(ダーフィト・ベンネン)に似ているように思えてさらに苦手です

 その意味では、今回の役柄は適役だったのかも知れませんね。


 「ブリキの太鼓」自体は大好きな映画です。
 ギュンター・グラスのダンツィヒ三部作の最後を飾る名作。
 子供の声、ドイツ語で回想されるフリークスな人生。
 魅力的です。何度観かえしたかわからないほどに。
 それだけに、同じフォルカー・シュレンドルフ監督の次作「魔王」には少し失望しました。




 「姑獲鳥〜」もそうでしたが、単に知識の羅列を並べ替えただけのようなプロットはつらい。

 世代的にも近い京極氏が何に影響を受け、何を組み合わせてああいったストーリーにしたかが透けて見えてしまいます。


 なんて原作のダイジェストである映画だけみても、京極氏のストーリーは分からないのですがね。

 そこで、さっそく原作を買ってきました。

 文庫を買ったのですが、それでも噂通りのデカさでした(たしか枕と呼ばれているんでしたっけ?)。

 敬愛する東海林さだお氏の総集文庫本「なんたってショージくん」より文庫一冊分薄いだけです(って、ショージくんどんだけ分厚いの!)。

 すぐに読みました。

 読みやすくて良い文章です。彼は文章がうまい。

 しかし、内容は、やはり知っている知識の羅列のオンパレード感は否めず、若者向けの教養小説の枠をでていないように思えました。


 ある程度、似たような知識のある者にとっては、「残酷小説」の姿を借りつつ、持ち合わせの知識を組み合わせる寄せ木細工的で無駄に長い小説、という感じを受てしまうのですね。

 まあ、好みの問題でしょう。


 わたしは、常に「今まで読んだことのないような作品が読みたい」のです。
 その意味で、京極氏の作品には少し失望しました。
 まあ、失望したくないから、今まで読まなかったのですが。

 本歌を知らず引用された歌に感動する経験浅い歌詠みのように、あるいは過去の名曲を知らず、それらから影響を受けて組み合わせたJ-POPに感動する若者のように、京極氏の作品は、底深い日本文学(大正期SF含む)と神秘知識あるいは哲学談義に馴染みが薄い人たちにとっての、そういったものへの「トバクチ」として読むのが正解のようです(科学は駄目です。京極氏は科学者ではないから。もともと彼はデザイナーですね)。

 その意味で、ちょっと重みは足りない気がしますが、恐怖感を煽るのがうまい高橋克彦氏の作品群とは趣を異にしますね。同じ「箱神」をあつかっても、高橋氏の作品はずっと恐ろしい。

 あるいは、真の意味での博覧強記、世界に数名しか存在しないといわれている「博物学者」のひとりである荒俣宏氏の知識量とも少し違いますね(氏が編纂した「世界神秘学辞典」は長らくわたしのバイブルの一つでした)。



「筺にみっしりとつまった女の体」てぇのは岩手県の山間部に伝わる箱神(ハコガミ)と映画「ボクシング・ヘレナ」(1993年)からインスパイアされたのでしょう(そういえば、オンバコさまというご神体も出てきましたね)。

「魍魎の筺」の成立が1995年であり、ボクシング・ヘレナの公開が1993年ですから、時期的にもぴったりですね。
 ああ、ボクシングは殴り合うボクシングではなくて、箱詰めの意味です。
 当時、「美しい女性の四肢を切断して箱に詰める」ショッキングさから、主演が決定していたキム・ベイシンガーが降板したことも話題になりました。
 まあ、結局、主演を変えて撮られた映画は、とんでもない夢オチで、おはなしにならない駄作でしたが……

 もっとも、女性をトルソーにするというのは横溝正史なども使っていましたし、そういう心理的な不気味さなら、やはり乱歩の「人間椅子」や「蟲」の方が上ですね。

 キショク悪さだけでいえば、飴村 行氏の「粘膜人間」のほうがずっと上ですし。
 (受賞作を読んだ家族から、縁を切るといわれたとかいわれなかったとか……)

 あと「車窓から箱に外の景色を見せる」というのは、まんま江戸川乱歩の「押繪と旅する男」ですね。

 そして、本来、その時代に存在しえない科学知識、昭和20年代に登場する戦争マッドサイエンティストたち(鉄人28号やその他戦後に多く表れたスーパーマシンのほとんどは、戦時中、軍部によって開発されています)は、その原型を、戦前の海野十三(うんのじゅうざ:SF作家、ほとんどの作品は青空文庫にて無料で読むことができます)の作品にみることができます。

 それとも「アンバランス」「ウルトラQ」「怪奇大作戦」など、テレビドラマクラスのマッドサイエンティストのニオイもします。
 氏の怪奇嗜好の入り口はそのあたりでしょうか?
 あるいは、東宝のいわゆる変身人間シリーズ、八千草薫の美しさが際だつ「ガス人間第一号」あたりかもしれません。狂った科学者の雰囲気ではこちらの方が近そうですね。

 落ちぶれた日本舞踊の家元と、彼女を愛するあまりガス人間と化した体を使って、金を貢ぎつづける男(土屋嘉男が好演)。
 ラストの、現れたガス人間を恐れて、誰もいなくなった舞台で、独り、彼のために踊り続ける八千草薫の美しさは必見です。
 この作品は、彼女の美しさ(そしてそのオリエンタリズム)ゆえ、アメリカでも大ヒットを記録し、向こうでの上映を前提として続編「フランケンシュタイン対ガス人間」が企画されたほどです(結局はお流れになりましたが)。

 あらあら、また暴走してしまいました。

 京極氏は、もともと、そして今もデザイナーです。

 だからこそ、妖怪や魑魅魍魎の絵柄から興味をもたれて、その方の知識も蓄えられたのでしょう。
 年齢からいって、案外、水木しげる氏の作品あたりが導入だったのかもしれませんね。


 主人公の、妙にもってまわった台詞は、とどのつまりは誘導による心理操作に過ぎませんし、おそらく、わたしにとって、主人公が再々用いる「詭弁」がコツコツと胸にあたって、かなり不愉快なのですね。

「これが探偵小説なら偶然はアンフェアだが、現実はほぼ偶然で出来上がっている。もし、一万回実験が成功しても、一万一回目には失敗するかもしれない、以下ずっと失敗するかもしれない。つまり実験は偶然一万回だけうまくいったのかもしれないんだ」

 科学者、あるいは少しでも科学の訓練を受けた者の吐く台詞ではありません。

 ただの詭弁です。そして彼はこうして場の主導権を握ろうとする。

 より正確にいえば、主人公が、自分の廻りに配された頭の悪い人間に対して、得々と詭弁を用いて煙に巻くというのが、京極氏のこの作品での手法なのです(他のは読んでいないので知りません)。

 前にどこかで書いたかもしれませんが、小説(ミステリは特に)のドラマツルギーで、もっともやってはいけないのは、犯人をマヌケに描く、ということです。

 それでは緊迫感は生まれない。

 付け加えれば、犯人だけでなく、主人公のまわりの人間をマヌケに描くのもアンフェアですね。
 まわりを「バカもの揃い」にして、ウソをつく主人公を持ち上げる、というのは、つまり素直な読者をバカにしているのと同様です。

 同じ詭弁探偵なら、笠井潔氏の探偵ヤブキカケルの「本質直感」を利用した(つまり詭弁にもちいた)哲学的探偵手法のほうがずっと好感が持てます。


 終盤、主人公を通して語られる認知論も、とくに目新しいものではありません。

 プロット自体は、研究資金を得るために、列車事故にあった巨額の財産相続者の少女を死なせるわけにはいかず、戦中の技術を使ってその延命を図ったマッドサイエンティストと、そこから盗み出された箱詰めの美少女(いかにも乱歩的だ)を、目にした犯人が、それにとらわれ、同じものを作ろうと殺人をくりかえす、という、薄い文庫一冊程度のものでした。

 作家が博覧強記の知識を持つのはあたりまえ。
 
 しかし、単純にそれを組み合わせて小説を組み立てる、つまり出典丸わかりは興ざめです。

 知識の垂れ流しで枚数を稼いでも仕方がない。

 出版社の要望にそうように、本のカサを増やす能力も流行作家には必要なのでしょうが。

 まあ、少なくとも、その知識を喜ぶ読者がいれば商売にはなりますね。

 いけない。いけない。

 先日も書いたように、悪いことを書くと的外れが多くなります。


 ただでさえ耐荷重量オーバーが気になる自作書架に、文庫とはいえ、あの大きさのものが増えたことに対するカンシャクが文字になってしまいました。

 前評判の高さに、期待していたのにがっかりしたこともあります。

 あの厚さで、あの内容じゃひきあわないよ。

 内容はともかく、ウンチクのきっかけ、知識のトバクチとなるお話であることは確かなようです。

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