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2009年10月

2009年10月29日 (木)

地獄にSF 〜シェイヨルという星〜

 いつものように夜道を歩いていて、ふと「地獄」という言葉が浮かんだ。

 なぜかはわからない。

 商業的な思惑から、業界が無理矢理、根付かせようとしているハロウィーンの季節だからか、落語「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」の演者である桂米朝が文化勲章を受けたことで記憶が刺激されたからなのか……

 彼の語る「陽気な地獄」には随分と助けられた。

 米朝の落語を聞く以前、おそらく十四、五の頃まで、わたしの持つ地獄のイメージは、ダンテの神曲にあるInferno(インフェルノ:地獄篇)あるいはPurgatorio(プルガトーリオ:煉獄篇)などの宗教色の強い場所ではなく、コードウェイナー・スミスの描くSF「惑星シェイヨル」で描かれた世界だった。

 今回は、人によっては、少々気持ち悪い話になるかもしれないので、そういうのが苦手は人は読まないでください。


 警告はしましたよ。


「シェイヨル」こそはSFをバックボーンにもつ本当の地獄だった。

 これは考えると、なかなかに凄いことのように思われる。

 なぜならば、作家、高橋克彦氏がいうように、物事は「説明不可能な事柄ほど恐ろしい」からだ。

 SFは、その性格として「つい説明をしてしまう」から恐ろしくなりにくい。

 いっそ説明も何もなく、

「二階で音がした。不審に思って階段を上がり、箪笥の引き出しを開けたとたん、あっと叫んで腰を抜かした。引き出し一杯に、去年死んだおばあちゃんが詰まっていて、こちらを向いて、小声でにゃあにゃあ言っていたからだ」

 なんて話が恐ろしいのだ。


 「リング」というホラーはご存じだろう。その続編の「らせん」も。

 しかし、原作が好きで読まれた方はともかく、映画で「リング」シリーズを観た方は、リング三部作の最終話「ループ」をご存じないはずだ。

「バイオレンスジャック、終わってみればデビルマン」という格言?と同じで、「リング・らせん」終わってみれば「ハードSF」だからホラーとして映画化はされていない。

 おそらく、鈴木光司は基本的にSF畑の人なのだろう。

 理屈のなさ故に恐ろしいホラーと現実とに整合性を持たせようとして、ループをSFにしてしまった。しかも、かなりスペクタクルなハードSFに。

 それ故、ループの映画化は二重の意味でできないのだ。

 作るのに金がかかり作っても売れない。

 告白すると、わたしは「ループ」が好きだ。

 ある意味、わたしの「リトル・バスタード」と似た作品だから。


 ともかく「シェイヨルという星」

 ご存じの方も多いだろうが、作者コードウェイナー・スミスは1960年前後に多くの作品を残したSF作家だ。

 アラン・スミシーなど、他の多くのスミス系著名人同様、彼の名も偽名で、本名をポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガー といい、ジョン・ホプキンズ大学の社会学の教授だった。政府関係の仕事もしていたらしい。

 彼の代表作はというと、「人類補完機構シリーズ」(もちろんエヴァンゲリヲンの元ネタ)ということになるのだろうが、わたしが最初に読んだ(そして一番影響を受けた)のは「シェイヨルという星(A Planet Named Shayol:1961)」だった。

 彼の作品を、おそらく、わたしは古本で買ったジュディス・メリル編の「年刊SF傑作選」あたりで読んだのだと思うのだが記憶が定かではない。

 しかし、作品の内容は、はっきりと記憶している。

 遠い未来(あるいは過去か)、宇宙を皇帝が支配する世界で、ひとりの男が惑星シェイヨルに送られてくる。

 皇帝の暗殺を企てて失敗し逮捕された男だ。

 シェイヨルは非常にユニークな星で、かつ流刑星だ。そして地獄でもある。

 子供のころのわたしにとって、その地獄ぶりは、仏教で説かれる「等活地獄」や「叫喚地獄」「焦熱地獄」「無間地獄」より恐ろしかった。


 宇宙ステーションで、惑星へ投下される彼に医療措置をほどこしながら、看護婦は快楽波発生ヘルメットを彼にかぶせ、自分もかぶる。

 そして、快感にロレツのまわらない舌で、こう彼に告げるのだ。

「こうでもしないと、ここでの生活は耐えられない。これから二年の勤務のうちに、地上基地からあんたの体の部分がいくらでも送られてくる。わたしはあんたの首に十回お目にかからなければならないかもしれないんだ」

 意味がわからないだけに恐ろしい。

 続いてやってきた医者は、即座に看護婦を追い出し、ヘルメットを脱がせて彼に尋ねる。

「君が望むなら、下におりる前に精神を破壊してあげるがね。目を奪っても良い」

「それは必要なのか?」

「わたしが君の立場なら、そうするね。下のあすこは……かなりひどいよ」

 結局、彼は断り、そのまま惑星に降ろされる。

 地上基地には、牛をもとにして造られた誠実な人造人間ビディカートがいて、彼に、シェイヨル以外では違法とされるほど強力な麻薬:スーパー・コンダミンを打って地上に送り出そうとする。

「君の苦痛を緩和するためだ」といいながら。

 この、「麻薬を使って痛みを和らげる」というあたりで、わたしはスミスが、ヒッピームーブメントから抜け出してきたヤク中あがりだと思っていたのだった。
 今になって考えると、発表年が1961年なので、ヴェトナムの北爆(1965)は、まだ行われておらず、ヒッピー(そして彼らが使った麻薬)は関係なかった。
 
 基地の窓から牛男ビディカートと共に見る外の景色は想像を絶するものだった。

 まず、6階建てのビルほどもある足が遠くに見える。
 事故で、最初にこの星に不時着した船長の巨大化した足なのだという。
 600年たっても、まだ健在なのだ。

 体の大部分が「ドロモゾア」化しているが、人間としての意識はまだ少し残っているらしい、と牛男。

「スーパー・コンダミンを6cc与えると彼はわたしに鼻息で答える。はじめての人間は、火山の爆発と思うだろう。君は運がいい。わたしは君の友だちだしクスリもある。世話はわたしがして、君は楽しむだけだ」

 男が叫ぶ。

「嘘だ。処刑日に、見せしめとして放送していた悲鳴はどこから聞こえるのだ。なぜ医者が、脳の機能をとめたり目をとったりしてやろうというのだ!」

「大したことはないよ」とビディカート。

「ドロモゾアにぶつかると、君は飛び上がるだろう。体にあたらしい部分、頭や腎臓や手や足が生えてきた時、びっくりするだろう。外に出て、たった一度で38本の手が生えた男がいた。わたしはそれを全部とって冷凍して上に送る」

 シェイヨルで刈り取られた体のパーツは、銀河中に送られ、手術用の生体部品として使われているのだ。

 やがて、牛男によって基地外に送り出された男は惑星に足を踏み出す。

 しばらく歩くと、足にチクリとした痛みを感じ、手でそれを払いのけたとたん『まるで天が崩れ落ちてきたみたい』に痛みに体を襲われた。

 ドロモゾアだ。それが生物なのかウイルスなのか光子生物なのか何もわからない。

 ただ、惑星上には「ドロモゾア」が存在し、それが人間の体に苦痛を与え変化させるのだ。

 苦悶する男に声をかけてくる人々。

 鼻がふたつ並んである以外は普通の男、額から赤ん坊のような柔肌の指が房になってぶら下がっている女……

 やがて、男の体にも異変が生じ、さまざまな「外にくっついていてはいけない器官」が男の表皮にぶら下がり始めると、牛男がもってくる麻薬と体に生えた余分なパーツを切り取ってもらうことだけが楽しみになってくる。

 遅く速く、時間は速さを変えながら流れていく。

 ショイヨルは不死の星で、人造人間の牛男も年をとらないのだ。

 シェイヨルには多層になった恐怖が横たわっている。


1.いつ、ドロモゾア(恐ろしい痛み)に襲われるかわからない恐怖。

2.自分の体がどう変形するか分からない恐怖。

3.苦痛と恐怖から逃れるために麻薬漬けになり、あげく時間の概念を無くし、麻薬のない一分を永遠に、数百年すら一瞬に感じる恐怖。


 やがて、男は先代皇帝に連なる女性と親しくなる。

 彼女は、政変でこの地に流されていたのだ。

 麻薬が切れかつドロモゾアが来ない短い時間を通じて、ふたりは(もはや人間の形をしていないが)恋に落ちる。

 そして数百年が経ち、事件が起こる……



 以上でわかるように、シェイヨルは、コードウェイナー・スミスが、SF手法で擬似的に造りだした地獄だ。

 小説中では、ラストに思わぬ展開があって、ハッピーエンドらしく物語は終わるのだが、なぜ、こんな話を思い出したか考えてみるに、最近、読み散らしている京極夏彦氏の作品の影響があるようだ。

「魍魎の筺」で美少女の肉体を破壊し、「狂骨の夢」で麻薬(と脳損傷)による記憶置換を行い……

 そういったプロットが、わたしには、彼が中世・現代の様々なアイテムを使いつつ「地獄」を現出させようとしているように思えたのだ。

 以前、ここで彼の作風を、蘊蓄(うんちく)の羅列を詭弁(きべん)的に配置して長文化しただけのもの、と評したことがある。

 その印象は変わらないし、世の多くの長編小説と同様に、本来、短編で終わることが可能な、いや終わるべきところを、あまり必要性を感じない迂遠な回り道を行ってページ数だけを増やしている点は評価できない。

 もっとすっきりした流れにしたら……だが、もしそうしたら、文章量で誤魔化しているプロットのアラが丸見えになってしまうから、それもできないのだろう。

 誤解を恐れずいえば、小説は短編の方が難しい。

 長編で、きれいな作品を書くのはさらに難しいのだが、多くの長編は、その美しさに挑戦するがゆえに長い作品を書くのではなく、短編で表れようとするプロットの破綻を隠蔽するために言葉を増やし、かつ一冊の本にしたいという出版社の意向もあって長編化されているように見える。


 最後に、なぜ批判的に評しながら、京極氏の作品を読んでいるかと問われたら……

 彼の描く主人公も、フロイトが嫌いにも関わらず、知らなければ批判できないという理由でフロイトに詳しいという設定になっているから、と答えたいが、有り体にいえば、嗜好自体が自分に近いからなのかもしれない。

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2009年10月27日 (火)

覆面討論会 〜読書好き中高生7割超〜

 ざわざわ

A:「えーお静かに願います」

 ざわ、ざわざわ

A:「お静かに」

 ざわ、ざわざわざわざわざわざわ

A:「いい加減にしろって、ったく、コミック版カイジの背景文字かよ!」

「……………………………………」

A:「コホ、エー、本日はよくお越しいただきました。とくに茶菓もお出しできませんが、せめて、日頃、皆さんが腹にためておられることを腹蔵無くこの場で吐露していただきたいと思います」

E:「テーマは?」

A:「テーマは特に決めてありません。では、以後はご自由に発言なさってください」


B:「あのね、さっき届いた今日の新聞に載ってるんだけど、読書好きの中高生が7割超えたんだって」

C:「ホントなの?嘘でしょう。活字離れが叫ばれて久しいのに」

B:「いや、それが本当らしいんだよ。アンケートで、小学校で8割、中高生でも7割を越す子供たちが読書が好きだと答えてるらしい」

D:「どこが調べてるんだ?また『為にする』記事じゃないのか。ナントカ機構の」

B:「エーと、全国図書協議会の協力で毎日新聞が調べた、とあるね……」

D:「ハハ、協議会ね。いわんこっちゃない。天下りの臭いがプンプンするなそりゃ」

B:「そうかなあ、違うと思うけどねぇ」

D:「自分で言っといてなんだけど、天下りって言葉自体腹が立つね。中央官庁は高天原か?ヴァルハラか?」

B:「死んでないって」

C:「でも、なんで今、読書好きが増えてるの。一億総マンガ世代でしょう。経済学だって日本の歴史だって、マンガで勉強する時代なのに」

B:「『日本経済入門』はマンガじゃなくて石ノ森先生提唱の『萬画』だけどね。機構では、読書をする時間を設ける学校が増えたのと、ハリー・ポッターシリーズのようなシリーズ物が人気を博して、長期にわたって読書をする子供が増えたから、と分析しているね」

D:「なんだか手緩い分析だな、それは。まあ、ゆとり世代の良い面が出たということか」

B:「ケータイ小説」のヒットで新しい読者層が生まれた、ということもあるらしい。

D:「あれって読書か?携帯電話で直接読んだことはないが、本になったのを読むと、行間が空きすぎて文字もスカスカで、何がなんだか分からなかった」

C:「まあまあ、あなたは若者文化がお嫌いだからそう言うけど、僕はあれは新しい小説の形だと思うな」

D:「若者に文化なんかない」

E:「いやあれは文化さ。文化包丁、文化住宅、文化鍋……ブンカと名の付くものに、真のCultureがあった試しはない。つまり若者ブンカ」

B:「またぁ、突然発言したと思ったら、そんなドキっとするようなこといって。まあ、ライトノベルなども一役かってるんだろうけどね」

C:「わたしは、なんだか嬉しいな。だって、もう文字で表現する媒体は廃れる一方で、小説なんて消え去ってしまうと思っていたから」

B:「自分は、案外、文字メディアは残ると思っていたよ。だって、メールでもブログでも、ツイッターでも、最後はやはり文字ベースでの発言になるからね」

D:「専ら、写真や画をアップするブログやツイッターもあるらしい。見たことはないが」

B:「でも、誰もが他人に見せられるような画を描いたり、写真をとることはできないでしょう」

E:「他人のものを盗んで再構築し、あたかも自分の意見のように発言できるのが、文章の優れた点だ。だから、その本質において文章による作品は廃れないようになっている」

B:「その通り。美しい画や写真、漫画を見ても、それを自分のものとして人に受け売りすることは難しいからね。誰もが画がうまいわけじゃない。コンピュータを使えばコピペができるけど、面と向かって話をする時は、やっぱり言葉です」

D:「ちょっと待て!」

B:「は?」

D:「コピペてなんだ」

B:「コピー アンド ペースト、まあ切り貼りのことですね」

D:「んなこたぁ分かってる。妙な省略形を使うな。気持ち悪い」

E:「安易な外国語および省略形の多用は人をバカに見せる。的確な日本語を知らないが故に不明瞭で多義の外国語に頼るからだ。省略形は、閉じられたグループや社会では符丁として有効だが、取り立てて親しくない者にいきなり使うのは礼を失する。つまりバカだ」

B:「うーなんと言い返そう」

C:「まあまあ。確かに、聞いて、見て、すぐにそれを他所で使えるのが、話し言葉と文字の良いところだね。わたしなども、若い頃は、誰かの良い表現を耳にすると記憶して次に別の場所で使おうなんて思ったもんですよ。子供たちも、それに気づいたかのかも」

D:「あるいは、単純に読書が楽しいのか」

E:「ネガティブ。プロットの創作、ストーリー・テリングの妙味という意味において、小説は、今のコミックには勝てない。新しい才能のほとんどは、コミックに集中しているからだ。媒体の表現差を無視すれば、小説のベストセラーの面白さを10として、コミックのベストセラーは100だ。発行部数は小説1に対してコミックは100万だ。売れ、儲かる分野に才能は集まる。かつての小説がそうであったように。極言すれば、現代は、才能のない落ちこぼれが仕方なく小説家になる時代だ」

D:「相変わらず冷徹な考えだな。だいたいは当たっているだろうが、表だっては言わない方がいい」

B:「記事によると、1ヶ月に読む本の平均冊数は、中学生3.7冊、高校生1.7冊と増えつつあるらしい」

C:「これは、どう見たらいい?中学の頃は読書をするけど、年をとるに従って本を読まなくなるということ?だから、大人は半白の中年までが帰りの電車でマンガを広げて読むのかな」

B:「あるいは、最近の学校の努力によって、若い世代から活字に戻っていっている、ということかもしれない」

D:「だとすると、20代〜50代だけが、本を読まずマンガのみを読む、知性の薄い世代として、両側から挟まれることになる」

E:「智のロストジェネレーション」

C:「またまたぁ。でも、月4冊とか月2冊って、まだそんなものなの?」

B:「そりゃ、あなたたちは、一日に3〜4冊読むから少ないように思うだろうけど」

C:「フォトリーディングすれば簡単……なわけないよね」

D:「ああいった速読幻想にとりつかれると、読書ができなくなる」

B:「フォトリーディングって、あれは資料読みの方法でしょう?」

D:「もしくは、成功するためのハウトゥ本を読むための読書法。必要なところだけ切り取り読みするための」

E:「『成功のための啓蒙本』=『その本を書いた人を儲けさせて成功者にする本、そして買った本人は、さらに貧乏になる本』」

C:「また、だめだって」

D:「某経済評論家の彼女については、一度、議題に載せたい」

B:「ああ、あの目がいつも笑っていない女性ね。それで思い出したけど、この間、夜中にふとテレビをつけたら『朝までナントカ』をやっていて、そこに、若者代表とかいう自称作家が出ていたんだけど、その無意味な外来語多用の言葉と早口が、彼女にそっくり過ぎて面白かった」

C:「あの番組は、月に一度、録画して観るようにしてるんだけど、確かにそんな人出てたね。あれって、明らかに、人と人とのコミュニケーション上のプロトコルを無視してる」

D:「おそらく、速読法で、1冊の本として書かれた書物を部分読みし、情報を高速で切り貼り取得し続けたおかげで、いま『自分が他者と話をしているのだ』という事実を忘れて会話しているのだろう」

B:「ああ、そうか、他者とのコミュニケーションは、お互いの話す速度、思考速度を合わせてこそ円滑に行える、ということだね。通信におけるネゴシエイションだ。それができず、一方的に自分の情報を、自分だけが分かる言葉で吐き出そうとするから、ひとつ一つの言葉が軽く、入れた言葉をそのまま出している『言葉の下痢症状』みたいな印象を与える」

E:「つまり、自分しか見ていないということだ」

C:「そんなことないでしょう」

E:「いや、ある。立て板に水が如く言葉を発している時の彼らの目をよく見るがいい。その目には、正に今発言をしている自分しか映っていないはずだ」

D:あるいは、発言の自信のなさを、単語量による恫喝つまり相手に虚仮威しをかけて、威嚇して誤魔化そうとしている、か。有り体に言えばハッタリだな。

B:ああ、それあるかも。だって、彼らの発言を聞いていると読経しているみたいだもの。かんじーざいぼー」

E:「それはブッダ(釈迦)とシャーリプトラ(舎利子)の会話記録」

B:「でも、さっきのハッタリっていうのは、なんとなく納得できるね。またそうで無くても、彼らの焦った話し方には自信が感じられない」

E:「語彙数だけが先走りする発言。男としての自信のなさを、落とした女の数で誤魔化そうとしているドンファン気取りのマザコン男と同じだ」

B:「真の愛に辿りつくためには、独りの女性との深い絆だけで充分ということだな」

C:「それって発言のほうじゃなくて読書の例えだよね。真顔でよくいうよ。つまり多読濫読信仰には疑いを挟めってことだ。一冊精読は決して悪いことじゃない」

E:「巧言令色少仁。誠意が無く頭が悪いと多弁になる」

C:「またぁ。ダメダって」

B:「どうせ、誰のことかなんて分からないって」

C:「分かりますよ。絶対」


A:「はい、今日はありがとうございました」

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2009年10月24日 (土)

触れれば分かることもある 〜蟹がガン〜


 英語を勉強する前、某テレビCMで、ネコはCat、犬はDog、「毎日ドリプシ」のドリプシは、はブルガリア地方の都市の名前だと教わりました(いくら地図で調べてもトピリシしか見つかりませんでしたが)。

 冗談はともかく、英語を習い始めのころ、簡単な固有名詞を覚えていくうちに、カニがCrabであることを知り、「ああ、あの倶楽部のクラブね」と思ったのですが、しばらくして倶楽部はClubであり、カニにダマされたような気分になったことがありました(ワカゲのイタリです)。

 が、さらに後に、星座の蟹座をCancerと呼ぶことを知り(Crabと書くこともあります)、さらにカニに騙された気になりました。

 その後、癌(ガン)をCancerを呼ぶと聞いて、「なんでカニがガンなんだ」と、ますます「英語ワケ分ンネェ」感を強くしたこともあります。


 しかし、世の中には、本当に「ワケ分ンネェ」ものは、それほど多くはありません。

 概(おおむ)ね理由があるものです。

 この蟹=Canser=癌にも理由がありました。


 麻酔医療が発達する以前、医師は人の体を裂いて、内部を治療することはできませんでした。

 術中の痛みで人がショック死することがあったからです(この辺の江戸時代の手術の話は『悪霊』という作品で書いたことがあるので、機会があればアップするつもりです)。

 また、はっきりとした血液型の概念がないことで輸血が出来ず、術中に失血死することが多かったのと、衛生の意識が低く不用意に体を開くとその部分から化膿することが多かったのも開腹手術できなかった理由です。

 エコーが無く、CTもMRIも使えず、開腹して患部を目視できなかった過去の医師にできることは、問診(もんしん)と触診(しょくしん)だけでした。

 ともに、医科学の進んだ現在さえ、病気を特定する重要な方法ではありますが、特に、触診は初期判断の上で重要とされています。


 ぐっと、指を体に押し込んで触ってみて、シコリがあるか腫れてはいないかを調べるアレですね。

 もちろん、触診のみでは、ある程度、体の表層にある臓器の異常しか見分けることはできなかったでしょう。

 ゆえに、江戸時代、一番わかりやすかったのは女性の乳ガンであったといわれています。

 ピンクリボン運動でいわれるように、乳ガンの早期発見で、もっとも有効なのは、自分でさわってみて、シコリの有無を調べることです。

 つまり、胸にできるシコリは発見しやすい。

 ここで、問題なのは「シコリとは何か」ということです。

 シコリとは、すなわち「ガン細胞」のことですが、ガン細胞は普通の細胞に比べて「硬い」のですね。

 なぜ硬いかというと、ガン細胞は、通常の細胞再生周期を無視して、短時間に数多くの細胞分裂を繰り返すからです。

 近くの太い血管から勝手に伸ばした毛細血管で栄養をとりながら、次から次へと細胞分裂をくりかえすため、ガン細胞は、高濃度のカタマリとなって重く硬くなってしまう。

 まさしく、ガン細胞はガン細胞たるが故に、硬いシコリになるのです。

 乳ガンの場合、それがある程度進行すると、触った時に、蟹の甲羅のように触診されるために、英語で癌を蟹の甲羅=Cancerと呼ぶようになったのだそうです。

 よく、半分冗談のように、夫婦仲の良い妻は乳ガンを早期発見する、といわれますが、要は、自分と他人の両方に体のシコリをチェックしてもらうべきだ、ということです。

 乳ガンに限らず、ちょっと脇腹を押してみて違和感があれば、「ここちょっとシコリがあるんじゃないだろうか」と家族に聞いてみるのです。

 わたしは、毎日のように、我が家のネコをこねくり回して嫌がられていますが、健康維持のためには、「癌(Cancer)は蟹(Cancer)のように硬いものだ」ということを肝に銘じて、定期的に自分と家族の体を押すことが重要ではないかと思っています。

 まあ、ネコはともかく、年頃の娘、息子の体を親が押し、押してもらうことは容易ではないでしょうが(いやオクサンが一番ムツカシイかも)。

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美しき人々


 あまりふざけた話を続けてもいけないと思うので、今回は、ちょっと真面目な話をしましょう。

 ああ、その前に……

 今、スカイパーフェクトTVのチャンネルNECOで、公開50周年!記念「小林旭 渡り鳥シリーズ」一挙放映をしています。

 リアルタイムで渡り鳥シリーズを映画館で観たことはないのですが、深夜テレビ枠や午前中の放送空白時間帯で二時間ドラマ再放送のかわりに邦画が放送されていた時代に幼年期を過ごしたため、わたしはほぼ全ての「渡り鳥シリーズ」を観ています。

 懐かしく、またオモシロイので録画して飛ばし観しているのですが、観ているうちに、いくつか気づいたことがありました。

 一番驚いたのは、子供の頃、スゴイ二枚目だと思っていた渡り鳥こと小林旭が「なんだか品のない笑いを連発するコゾウに過ぎない」ことに気づいたことです。

 誤解しないでください。

 わたしは、トシをとって膨れあがった小林旭は好きです。

 彼の中年期のCM「燃えるオトーコの〜赤いトラクター〜」には大笑いしましたし、よくいわれるように、あの「額よりかなり頭頂部に近いブブン」から発せられるかのような、カン高い歌声もイイ。

 映画プロデューサーとしての彼の、蛮勇ともいうべき無謀なスタント推進の逸話などを聞いても、彼は根っからのアクション俳優だったんだなぁと尊敬の念すら覚えてしまいます。


 女性はともかく、昔の男優には二種類のタイプがあると考えます。

 ひとつは、、若い頃は、水もしたたるようなイイ男であったけれど、今はそれほどでもないタイプと、若い頃はそれほど二枚目でなく、なんだか下品なチンピラヅラしているが、今は渋くてイイ男である、というタイプです。

 一般論で、男ってものは……と語っても良いのですが、そうすると3種類になってしまうので、ここではやめておきます(あとの一種類は……わかりますね?若い頃はアレで年取ってもアレというタイプです)。

 いわゆる「マイトガイ」小林旭(このマイトはMIGHTYから来ていると長らく思っていたのですが、なんとダイナマイトからきてるんですね。いまならエクスプロージョン・ガイとでも呼ばれるのでしょうか)は後者でした。

 彼以外のガイ、ナイスガイ高橋英樹、ダンプガイ二谷英明は、どちらかというと前者ですね。

 上で「女性はともかく」と書いたのは、かつての銀幕の女性は、その描き方を含めて、すべて、近くの町を歩いている女性とは一線を画した美しいイキモノ、として描かれているからです。

 実際、ヒロインクラスの女性はもちろん、脇役も美しかった。

「映画スターのような」という形容が生きていた時代です。

「俺は待ってるぜ」の北原美枝の彫像のような冷たい硬質な美しさや「渡り鳥いつまた帰る」のアノ南田洋子も美しい。

 いや、どのスターが美しいかなんて取り上げる必要なんてないのです。

 だって、当時は、スターダムという険峻(けんしゅん)なカベが、厳しく一般人とスターをより分けていましたから。


 が、まあ、上の話は、あくまで観て楽しむ男性や女性のはなし。

 彼らが液晶画面の向こうで、あるいは銀幕の向こうでいかにカッコよく美しかろうと、それらは観賞用の花でしかない。


 日々、我々が人と交わり接する生活で「イチバン大切」なのは健康です。

 え、あたりまえ過ぎるし、類型的発言でオモシロクネ?

 いやいや、毎日を共に過ごす者やたまに会って逢瀬を楽しむ人、つまり妻や夫そして恋人たちは、共に、体そして精神も健康でなければいけないのです。

 なぜなら、銀幕の恋人と違って、彼らの距離は1メートル以内だから。

 遠くで眺めるのではなく、そばにいて触れあうことのできる者同士は、その美醜よりも内面=形骸的な意味ではなく真の意味の中身(腎臓、肝臓、肺臓、心臓、大腸、小腸、そして脳)が大切なのです。

 どれほど見た目が美しくとも、その精神が爛(ただ)れていたり、重篤な病気に冒されていては幸せにはなれません。


 一昨日、例によって、夜中から、近くのコミック喫茶にでかけて、脈絡なくマンガ、雑誌を読んでいると、東京大付属病院の中川恵一准教授の記事が目に入りました。

 その話を書こうと思うのですが、これは「生き残る体をつくる」のコーナーのようなので、続けてそちらに書きます。

 なんだか、近頃は、別テーマがくっついて、ブログにしては、長くなり過ぎているような気がしますので。

 

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2009年10月22日 (木)

死を遠ざけろ 〜銀魂のフラグ〜

 週間少年ジャンプ連載の「銀魂」は比較的好きな作品です。

 往年の「焼きたてじゃパン」を彷彿させる無理目のギャグが良いですね。

 このところ、どんどん掲載ページが後ろに下がっているのが気にかかります。

 ご存じのように、ジャンプは連載寿命が掲載ページに連動していますから(当然、前の方が安泰です)。

 下ネタに走ることも多いため、他のジャンプ連載の時代モノ(ともいえない?)ナルトやBLEACHのような女性ファンが少ないのが原因でしょうか。

 以前、ある事情で出かけたコミケで、おそらく女性ファン作家によって書かれた主要キャラクタ女性化パロディ・コミック(つまり、妙にナヨナヨしたイルカ先生とカカシがハダカでもつれ合うようなコミック[トホホ])を大量に目にしましたが、案内板に必ず書かれていたのは「ジャンプ系パロディ(銀魂除く)」でした。

 美しいものを好む女性たちにはウケなかったのですね、下ネタ銀魂は……

 その気持ち、わからんでもないのですが、まあ、わたしは男ですから好きなんです、銀魂。

 「モン(キー)ハンシリーズ編」のように、時に、ついていけなくなる時がありますが。


 その銀魂の、少し前の作品に「死亡フラグ」という概念が出てきます。

 これはドラマを作る者にとっては、かなり意識しなければならない上に、取り扱いが難しいモノでもあります。


 その回を読んでおられない人のために、ひと通り説明しておくと、

 銀魂の作者は、ある登場人物が、これまでと違った態度を取り始めると、そいつに「もうすぐ死にますよフラグ(プログラムでいうフラグです)」が立つというんですね。

 これまで冷酷だった奴が突然優しくなったり、敵対していた奴が仲間になったり、ある脇役が、ずっとあこがれていた女性に想いが通じたり……

 読者が良かったなあ、と思った途端、その当事者が死んでしまう、アレです。

 つまり、そんな「なんだイイ奴ジャンこいつ」「よかったねタカシくん」感を読者に与えた時点で、そのキャラクタには死亡フラグが立つというのですね。

 これは、いわゆる劇的:ドラマティックさを盛り上げるためには効果的ではありますが、露骨過ぎると、あざとさが目立って逆効果になってしまう決め技です。
 

 「銀魂」は、そういったステロタイプな手法を逆手に取って、次々と、登場人物を死亡フラグが立つような状況に追いやり、それを自覚する彼らを慌てさせて笑わせます。

 好きだった女性から告白されて喜ぶよりも「そんなことをしたら、死亡フラグが立つだろ!」と怒らせたりね。


 なぜ、ここで、こんな話を明け方4時過ぎに書いているかというと、ふと、自分が普段話している言葉や書いている文章にも、そういったフラグが内包されているんじゃないかと心配になったからです。

 何というか、死を暗示するような言動が。

 突然物わかりが良くなったり、人に優しくなったり、何か良いことをしたり、つまり、らしくないイイ奴化を。


 長生きするためには、そういった、良いヤツにならず、嫌なヤツでいた方が良いのかも知れません。


 文句をいい、ワガママを垂れ、嫌みを連発し、人から嫌われるフラグを立てまくる。


 どうですか、皆さんも、長生きのために「逆死亡フラグ」をたてませんか?


 分かりやすくするために名前をつけましょう。


 そうですね。


 名付けて……「お達者フラグ」


 すみません、このダジャレギャグを、先に思いついて今までの話を長々と書いてしまいました(もはや元ネタが分からず、何がオモシロイのか分からない人が多いかも知れませんが)。

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2009年10月19日 (月)

小国寡民の夢 〜幸福王国ブータンの智恵〜

 昨日、毎年の恒例行事になっている、近くの大学の学園祭に行ってきました。

 特別ステージがしつらえられた「のどじまん」に飛び入り参加するためではありません。

 滝の流れる美しい庭園で開かれる野点(のだて)を喫するためです。


 青空の下、緋毛氈(ひもうせん)に座り、流れる滝の音を聞き、飾られた一輪の花と「茶心通古今」(茶の心古今に通ず)の書の下(もと)で行われる男子学生のつたない点前(てまえ:茶を点てる一連の動作)を見ていると心が落ち着きます。

 大学の雰囲気も良いなぁ。

 いつの時代にもある「青春時代という空気」は、長くそれにつかると鬱陶(うっとう)しくもありましょうが、たまに触れると懐かしく心地よくもあります。
(うわぁ、と思ったあなた。こんなことを臆面もなく書けるのはわたしがトシをとったからです。悔しかったら君もトシをとりなさい)

 以前は、よく近くの寺で催される茶会にも行ったのですが、最近はそれも面倒になって(点前自体より、そこに集まるヒトビトがタイクツなので)、茶会とは疎遠になってしまいました。

 しかし、珈琲同様、茶はうまい。
 飲みたい。

 仕方がないので、テキトー点前で、椅子に座ったまま、茶杓もつかわず棗(なつめ)も持たず、茶筅(ちゃせん)をしゃかしゃか動かすだけで薄茶を飲んでいますが、たまには、簡略な作法ながら点前を経験したくなります。

 だから、この学祭の野点は良い機会なのです。

 学生の点前はともかく、供される菓子は地域有数の和菓子店のもので、美しくうまい。
 指導されている先生と何年か前に話をしたら、せめてお菓子は美味しいものをと考えています、ということでした。

 実は、この店、わたしの生まれ育った土地の和菓子屋なんです。
 小さく薄汚れた(失礼!)店で、子供の頃は、そんなスゴイオジサンだとは思わなかったなぁ。
 彼ももうトシで、しかも跡継ぎもおらず「暖かさも一代限り」になってしまうようですが……


 幸い、天気も良かったため、昼過ぎに愛用の単車で山の頂上付近にある大学に向かいました。

 いつもより多めの警備員たちと挨拶をかわして、だだっ広い駐輪場に入り、最近流行りのビッグスクーターの隣に単車を停めましたが、なんだか雰囲気が違います。

 バイクやスクーターの絶対数が少ないのですね。

 こんなところにも少子化の影響が!

 と思いつつ、さらに坂を上っていつもの茶会場所に行くと、もう終わってました。

 広場に行くと、バンドの飛び入りコンサートも終わるところです。

 つまり、学園祭自体がもう終わりかけだったのです。

 今年からスケジュールが変わったのか、今年に限って、土曜ではなく日曜に来てしまったためかはわかりません。

 ガッカリして帰ろうとしましたが、思いついて大学図書館に寄りました。

 そこで、見つけたのが、今回、ご紹介する「幸福王国ブータンの智恵」(アスペクト社)です。





 この本は、新聞記事で目にして以来、気になっていました。

 なにより、先日ご紹介した「アヒルと鴨のコインロッカー」に登場するのはブータン人ですからね。

 こういった偶然の符丁ということはよくありますね。あることが気になったら、それに連鎖するように次々と資料が手に入る。

 これは、別に超常現象ではなくて、どこにいても無意識にそういった情報を探しているから目に付くだけなのでしょう。

 さっそく、中身を見てみます。

 単語を拾ってみるだけで雰囲気はつかめるんじゃないでしょうか。

「GNPよりGNHが大事です」
「ゆっくり近代化しています」
「国民の幸せを政策化しています」
「人々は民族衣装、建物も伝統建築です」
「アメリカなどの大国とはつきあいません」
「役人はワイロとは無縁です」
「誰でも国王にあうことができます」
「巨大なダムはつくりません」
「地下資源は掘り起こさないことにしています」
「森林は国土の六割を下回りません」
「特産物は水力発電です」
「観光客は無制限には呼びません」
「ほとんどの野菜は無農薬です」
「飢饉で飢えたことはありません」
「貧しくても学べるように、教育費はただです」
「病院も無料です」
「国じゅう禁煙です」
「ホームレスはいません」
「野生動物は殺しません」
「土地のない人には、国王がプレゼントします」
「仏教以外を信じても大丈夫です」
「小さな子供でも英語がペラペラです」
「肉なし月があります。でも、肉は食べます」
「基本的に殺生はしません」
「家を継ぐのは女性です」
「意外にも離婚の多い国です」
「孤児はいません」
「一夫多妻が認められています。でも財力が無いと無理です」
「病気になると、まず病院より寺に行きます」
「名前だけでは男か女かわかりません」
「飾るための花は摘みません」

 ざっと書いてみました。

 こうやって見ると、まるで桃源郷じゃないすか。

 特に「一夫多妻」あたりが……しかし、あとの経済力ってので不可能だな。

 では、いくつか説明を。
 一番最初が、わかりにくいかも知れません。
 ご存じのように、GNPは国民総生産ですね。これは第二次大戦中に「戦車を作る上で必要な資力」を評価するために作られた古色蒼然たる指標のため、今ドキ、これのみに頼って経済力を云々する政治家や経済学者がオロカモノであるということは知っておく必要があります。GNPは指標の一つにすぎない。
 GNHは「グロス・ナショナル・ハピネス」(国民総幸福)で、1976年に第4代ブータン国王(あ、ブータンは王制です)ジグメ・センゲ・ワンチュックが「物質的な豊かさより精神的な豊かさこそが国民の幸せにつながる」と打ち上げた理念だそうです。

「特産物が水力発電」というのは、隣国インドが慢性的な電力不足(昔、インドに行った時よく停電していました)だからです。

 100年前に誕生した山国ブータンが、かくもユニークな国であるのには、いくつか理由があります。

 それについては本を読んでください、といいたいのですが、私見では、ブータンが成立以来1991年まで鎖国を敷いていたことと、地理的に隣国の攻撃を受けにくく、ヒマラヤの水を豊富にいただく恵まれた土地であったことが要因だろうと思っています。

 さらに標高は高いけれど(首都の標高は2,000メートル)緯度は沖縄とほぼ同じという気候条件もありますね。

 また63万人という少ない人口が、そういった特殊政策を可能にしているのでしょう。

 人の数が多くなるだけで、国が行える福祉と施策には限界が生じるものですから。


 前にも書きましたが、だからこそ、人口127,000,000(1億3千万人足らず)をこえる日本と9240,000(900万人あまり)のスウェーデンを単純比較する愚行はやめねばならないのです。

 人口はいわゆる国の質量。

 質量が大きくなれば、動き出しにくく、動けばとまらない鈍重な国になってしまいますから。


 国小サク民寡ナシ(クニチイサク タミスクナシ)


 ブータンこそが、かつて老子や荘子のとなえた「小国寡民(しょうこくかみん)」の体現のように思えます。

 この本に書かれるブータン像が理想化されたものか、真実なのかを知る術(すべ)をわたしは持ちません。

 しかし、もし事実であるならば、この、100年にわたって世界が毒されようとしている「汚れたブンカ」の洗礼を受けることが、少しでも先延ばしになるように祈りたい気分です。

 すでにテレビ放映も始まり、インターネットの接続もできているということなので、それもかなわないことなのかも知れませんが。

 7月初版発行の新しい本ですから、書店で見かけられることもあるでしょう。
 その際は、一度、手にとって、ぱらぱらとご覧になることをオススメします。

P.S.
 ブータンの特殊性の理由に、もう一つ付け加えるならば、これも鎖国によるところは大きいと思われますが、仏教を国教とするブータン人の死生観があると思います。

 ブータン人の平均余命は66歳。 日本とは十年単位の違いがあります。

 病気になれば、病院よりも先に寺院に行くという事実が、病院代無料を可能にするとともに平均余命を下げているのでしょう。

 つまり、ブータンは、かつての日本のように死に近い国なのですね。
 だから、現代のワレワレとはまるで違う思想に思える。

 文明化とともに、ヒトは死を隠蔽し、そんなものは存在しないかのように振る舞い始め、科学を使って無理矢理寿命を延ばそうとします。

 そして、必要以上に、避け得ぬ死を畏れる。

 いずれ不死は実現されるでしょうが、未だその道は緒についたばかり。

 それまでは、少なくとも我々日本人は、目を覚まして死を感じ、昼に生きて死を考え、眠りにつく前に死について思いを馳せる生活をしたいものです。

 暗く必死にならず、明るく軽くね。

 その時が来て、ブザマな姿をさらさないために。

 「死ヌ時ハ、咲ッテ逝ケ」です。


 私のおすすめ:
幸福王国ブータンの智恵 /アスペクトブータン取材班/〔編〕 [本]

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ボクシング・美少女 〜「魍魎の筺」(京極夏彦)〜

 週末、例によって、夜中の散歩に出たついでに寄ったGEOで、普段は滅多に観ない邦画をまとめてみようと、いくつかレンタルしてきました。

 その中に「姑獲鳥(うぶめ)の夏」と「魍魎の筺(もうりょうのはこ)」がありました。

 ともに京極夏彦氏原作の映画化で、キャストが有名どころな上、「姑獲鳥〜」は、当たり外れはあるにせよ、個人的に好きな実相寺昭雄監督の作品なので、ちょっと楽しみだったのです。

 すぐに観ました。

 結論からいうと、まあハズシ気味かなぁ、というところですね。

 実相寺監督の暴走なのか、原作が原因なのかわかりません。

 「20ヶ月体内にとどまる赤子」なんてのは想像妊娠以外のなにものでもないな、と思っていたらその通りだったのと、多重人格者の殺人、見たくないものは見えない故の死体消失など、プロットからいえば笑止な設定の連続の作品でした。

 あと、南紀白浜エネルギーランドにあるトリック・アートハウス同様の錯覚道が出てきたのには笑いました。偶然できた錯覚道を通るたびに目が回る男、というのは結構面白い設定ですね。


 次に「魍魎の筺」を観ました。




 レンタル店では、確か、ロングセラー(売ってないけど)と書いてあって、ランキング4位ぐらいの棚においてありました(3位の棚にあった「リアル鬼ごっこ」については別記)。

 観始めて、すぐにひどい違和感を感じました。

 こりゃあ、どう贔屓目(ひいきめ)にみても日本じゃないぜ。

 山も、川も建物も、そして道ばたに生える植物の植生も、「絶対に日本のものじゃない」のが明らかなのに、登場人物たちが、しゃあしゃあと日本として演じていることに、不愉快を通り越して気分がわるくなってしまいました。

 あとで、昭和20年代の日本を再現するために、中国ロケを敢行したことを知りましたが、あれじゃあ、全編セットか背景オールCGの方がましだったと思います。

 それに、クドウカンクロウが出ていたのにも、ちょっと引いてしまいました。

 わたしは彼が苦手なんです。役者としても、ドラマの作り手としても。

 三文コントの漫画実写化然とした大げさな身振りを観ると鳥肌が立ってしまいます。

 漫才ではなく、コントのお笑い芸人を好きな若い女性たちなら、彼の演出を許せるのかもしれませんが、わたしには無理です。

 役者としての彼は……なんとなく映画ブリキの太鼓のオスカル(ダーフィト・ベンネン)に似ているように思えてさらに苦手です

 その意味では、今回の役柄は適役だったのかも知れませんね。


 「ブリキの太鼓」自体は大好きな映画です。
 ギュンター・グラスのダンツィヒ三部作の最後を飾る名作。
 子供の声、ドイツ語で回想されるフリークスな人生。
 魅力的です。何度観かえしたかわからないほどに。
 それだけに、同じフォルカー・シュレンドルフ監督の次作「魔王」には少し失望しました。




 「姑獲鳥〜」もそうでしたが、単に知識の羅列を並べ替えただけのようなプロットはつらい。

 世代的にも近い京極氏が何に影響を受け、何を組み合わせてああいったストーリーにしたかが透けて見えてしまいます。


 なんて原作のダイジェストである映画だけみても、京極氏のストーリーは分からないのですがね。

 そこで、さっそく原作を買ってきました。

 文庫を買ったのですが、それでも噂通りのデカさでした(たしか枕と呼ばれているんでしたっけ?)。

 敬愛する東海林さだお氏の総集文庫本「なんたってショージくん」より文庫一冊分薄いだけです(って、ショージくんどんだけ分厚いの!)。

 すぐに読みました。

 読みやすくて良い文章です。彼は文章がうまい。

 しかし、内容は、やはり知っている知識の羅列のオンパレード感は否めず、若者向けの教養小説の枠をでていないように思えました。


 ある程度、似たような知識のある者にとっては、「残酷小説」の姿を借りつつ、持ち合わせの知識を組み合わせる寄せ木細工的で無駄に長い小説、という感じを受てしまうのですね。

 まあ、好みの問題でしょう。


 わたしは、常に「今まで読んだことのないような作品が読みたい」のです。
 その意味で、京極氏の作品には少し失望しました。
 まあ、失望したくないから、今まで読まなかったのですが。

 本歌を知らず引用された歌に感動する経験浅い歌詠みのように、あるいは過去の名曲を知らず、それらから影響を受けて組み合わせたJ-POPに感動する若者のように、京極氏の作品は、底深い日本文学(大正期SF含む)と神秘知識あるいは哲学談義に馴染みが薄い人たちにとっての、そういったものへの「トバクチ」として読むのが正解のようです(科学は駄目です。京極氏は科学者ではないから。もともと彼はデザイナーですね)。

 その意味で、ちょっと重みは足りない気がしますが、恐怖感を煽るのがうまい高橋克彦氏の作品群とは趣を異にしますね。同じ「箱神」をあつかっても、高橋氏の作品はずっと恐ろしい。

 あるいは、真の意味での博覧強記、世界に数名しか存在しないといわれている「博物学者」のひとりである荒俣宏氏の知識量とも少し違いますね(氏が編纂した「世界神秘学辞典」は長らくわたしのバイブルの一つでした)。



「筺にみっしりとつまった女の体」てぇのは岩手県の山間部に伝わる箱神(ハコガミ)と映画「ボクシング・ヘレナ」(1993年)からインスパイアされたのでしょう(そういえば、オンバコさまというご神体も出てきましたね)。

「魍魎の筺」の成立が1995年であり、ボクシング・ヘレナの公開が1993年ですから、時期的にもぴったりですね。
 ああ、ボクシングは殴り合うボクシングではなくて、箱詰めの意味です。
 当時、「美しい女性の四肢を切断して箱に詰める」ショッキングさから、主演が決定していたキム・ベイシンガーが降板したことも話題になりました。
 まあ、結局、主演を変えて撮られた映画は、とんでもない夢オチで、おはなしにならない駄作でしたが……

 もっとも、女性をトルソーにするというのは横溝正史なども使っていましたし、そういう心理的な不気味さなら、やはり乱歩の「人間椅子」や「蟲」の方が上ですね。

 キショク悪さだけでいえば、飴村 行氏の「粘膜人間」のほうがずっと上ですし。
 (受賞作を読んだ家族から、縁を切るといわれたとかいわれなかったとか……)

 あと「車窓から箱に外の景色を見せる」というのは、まんま江戸川乱歩の「押繪と旅する男」ですね。

 そして、本来、その時代に存在しえない科学知識、昭和20年代に登場する戦争マッドサイエンティストたち(鉄人28号やその他戦後に多く表れたスーパーマシンのほとんどは、戦時中、軍部によって開発されています)は、その原型を、戦前の海野十三(うんのじゅうざ:SF作家、ほとんどの作品は青空文庫にて無料で読むことができます)の作品にみることができます。

 それとも「アンバランス」「ウルトラQ」「怪奇大作戦」など、テレビドラマクラスのマッドサイエンティストのニオイもします。
 氏の怪奇嗜好の入り口はそのあたりでしょうか?
 あるいは、東宝のいわゆる変身人間シリーズ、八千草薫の美しさが際だつ「ガス人間第一号」あたりかもしれません。狂った科学者の雰囲気ではこちらの方が近そうですね。

 落ちぶれた日本舞踊の家元と、彼女を愛するあまりガス人間と化した体を使って、金を貢ぎつづける男(土屋嘉男が好演)。
 ラストの、現れたガス人間を恐れて、誰もいなくなった舞台で、独り、彼のために踊り続ける八千草薫の美しさは必見です。
 この作品は、彼女の美しさ(そしてそのオリエンタリズム)ゆえ、アメリカでも大ヒットを記録し、向こうでの上映を前提として続編「フランケンシュタイン対ガス人間」が企画されたほどです(結局はお流れになりましたが)。

 あらあら、また暴走してしまいました。

 京極氏は、もともと、そして今もデザイナーです。

 だからこそ、妖怪や魑魅魍魎の絵柄から興味をもたれて、その方の知識も蓄えられたのでしょう。
 年齢からいって、案外、水木しげる氏の作品あたりが導入だったのかもしれませんね。


 主人公の、妙にもってまわった台詞は、とどのつまりは誘導による心理操作に過ぎませんし、おそらく、わたしにとって、主人公が再々用いる「詭弁」がコツコツと胸にあたって、かなり不愉快なのですね。

「これが探偵小説なら偶然はアンフェアだが、現実はほぼ偶然で出来上がっている。もし、一万回実験が成功しても、一万一回目には失敗するかもしれない、以下ずっと失敗するかもしれない。つまり実験は偶然一万回だけうまくいったのかもしれないんだ」

 科学者、あるいは少しでも科学の訓練を受けた者の吐く台詞ではありません。

 ただの詭弁です。そして彼はこうして場の主導権を握ろうとする。

 より正確にいえば、主人公が、自分の廻りに配された頭の悪い人間に対して、得々と詭弁を用いて煙に巻くというのが、京極氏のこの作品での手法なのです(他のは読んでいないので知りません)。

 前にどこかで書いたかもしれませんが、小説(ミステリは特に)のドラマツルギーで、もっともやってはいけないのは、犯人をマヌケに描く、ということです。

 それでは緊迫感は生まれない。

 付け加えれば、犯人だけでなく、主人公のまわりの人間をマヌケに描くのもアンフェアですね。
 まわりを「バカもの揃い」にして、ウソをつく主人公を持ち上げる、というのは、つまり素直な読者をバカにしているのと同様です。

 同じ詭弁探偵なら、笠井潔氏の探偵ヤブキカケルの「本質直感」を利用した(つまり詭弁にもちいた)哲学的探偵手法のほうがずっと好感が持てます。


 終盤、主人公を通して語られる認知論も、とくに目新しいものではありません。

 プロット自体は、研究資金を得るために、列車事故にあった巨額の財産相続者の少女を死なせるわけにはいかず、戦中の技術を使ってその延命を図ったマッドサイエンティストと、そこから盗み出された箱詰めの美少女(いかにも乱歩的だ)を、目にした犯人が、それにとらわれ、同じものを作ろうと殺人をくりかえす、という、薄い文庫一冊程度のものでした。

 作家が博覧強記の知識を持つのはあたりまえ。
 
 しかし、単純にそれを組み合わせて小説を組み立てる、つまり出典丸わかりは興ざめです。

 知識の垂れ流しで枚数を稼いでも仕方がない。

 出版社の要望にそうように、本のカサを増やす能力も流行作家には必要なのでしょうが。

 まあ、少なくとも、その知識を喜ぶ読者がいれば商売にはなりますね。

 いけない。いけない。

 先日も書いたように、悪いことを書くと的外れが多くなります。


 ただでさえ耐荷重量オーバーが気になる自作書架に、文庫とはいえ、あの大きさのものが増えたことに対するカンシャクが文字になってしまいました。

 前評判の高さに、期待していたのにがっかりしたこともあります。

 あの厚さで、あの内容じゃひきあわないよ。

 内容はともかく、ウンチクのきっかけ、知識のトバクチとなるお話であることは確かなようです。

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2009年10月17日 (土)

貧しいかぶらやの暦 〜カレンダーから世界を見る〜

 思いがけないことに、ここ数年、地元の中学生たちと交わる機会が増えました。

 彼らのことを知るにつけ、田舎であるためか、あるいは彼らの多くが、あまり勉強のできない生徒であるためか(ベンキョウ以外の頭の回転は速い)、彼らの生活が、わたしの子供時代とあまり変わりないように見えて安心します。

 ある者は野球やテニスで顔を真っ黒にして走り回り、またある者は、少しでも安く本を手に入れるために(ライトノベルですが)、古本のチェーン店に入り浸り……

 金銭的あるいは親の方針で、彼らの多くは携帯電話をもっていませんし、コンピュータの扱いも苦手なようです。


 かつて、地域有数の進学塾に関わっていた知り合いから聞いていた、いろいろとオエライ(こまっしゃくれているともいいます)生意気子供と、教師をガクレキで判断する中途半端なガクレキをもっているオトナコドモ親たちとは大違いです。

 彼らの多くは、親も子供もコンピュータに耽溺(たんでき)し、何かと人を見下すそうですから。
 あげく、モノゴトを舐めて、半可通(はんかつう)な知識で使うWinnyで重要な資料を垂れ流してしまう(悪意があるように見えますか、そう、実のところ悪意はあります)。


 田舎(都会でないという意味でね)の子供たちは、彼らと知り合いになる前に、わたしが思っていたよりはるかに純朴です。

 もちろん、彼らの中にもイジメはあり、ユルイ権力闘争はある。

 しかし、そんなものは、わたしが子供だった頃などよりは随分マシに思えます。

 あの頃は、いわゆる「荒れた時代」で、校舎のガラスは全て割られ、先生の目にはアザが絶えず、一日数回は火災報知器が鳴って、人気の少ない渡り廊下では、まず、誰かが数名に囲まれて殴られていたものです(アゴに手をやり、遠くを見る回想目線……)。

 隣の学区の学校のワルどもと、プールを挟んで対峙して殴り合いをした、なんて話も聞こえてきたなぁ。

 ワルい奴は、卒業アルバムに、花壇じゃ無かったけど、別枠で顔写真が載っていました。

 もちろん、弱者に対する悪質なイジメもあった。

 ある意味暴力に対して免疫ができていた、というか、麻痺していたような気がします。

 それに比べたら、今は、けっこう住みやすそうです。


 まあ、普通じゃそこから逃げられず、年齢差3年以内の者が98パーセント以上寄せ集められ、それらが狭い空間に押し込められた異常空間である学校、しかも成績や肉体能力の差があからさまに露呈される非情空間たる学生生活を、快適に過ごすことができる者は少ないとは思いますが。

 学校時代が楽しかったと語る人間は、そういった面で恵まれていた数パーセントの上位者だけのような気がしますね。


 おまけに、表だって出る出ないはともかく、彼ら子供には「家庭の呪い」(もちろん、超常現象の意味ではなく「親が抱えるストレス」という意味です)がのしかかってくる。
 子供は我々の想像以上に、親を見ているものです(無視しているように見えていても)。
 親の挙措(きょそ)振る舞いを気にするものです。

 そして、影響を受ける。

 よく、真面目で小心な親が、不良になった我が子を前にして「わたしたちは、こんなに真面目にやっているのになぜ……」と歎きます。

 しかし、それらは、親がため込んだ「世間に対する恨み」「夫に対する不満」などが、言葉の端々に表れ、表情に表れるのを、子供が正しく受け取った結果である場合も多い。
 親のため息は、子供にとっては鈍く光るナイフなのですから。

 子供のとらえ方は、大きく分けてふたつあります。

 ひとつは、子供をオトナの小型版としてとらえる方法。
 もうひとつは、別な生き物としてとらえる方法です。

 個人的にいえば、子供はオトナの小型版ですね。

 だって、子供のままオトナのトシ格好、どころか老人になっているヤカラのなんと多いことか。
 社会的な地位にかかわらず、彼らは肉体的に歳をとっただけで、雑多で姑息な保身の知識だけを身に付けた子供に過ぎないように見えることが多い。

 知人はいいます。
「歳取ってオバチャンになる女は、五歳のころから、既にオバチャンである」と。
 一面真実でありましょう。


 いやいや、こんな陰気な話をするつもりはありませんでした。

 人生陽気に行きましょう。


 それらすべてに、しっかりと耐え、背筋を伸ばして生きている人々も、確かにおられるのですから。

「カラスが黒いという命題を否定するためには、たった一羽の白いカラスがいれば良い」のです。


 そこで、今回のテーマです。

 少し前になりますが、近くのホームセンターに買い物に出かけた帰り、引っ越す前によく通ったショッピングセンターに寄りました。

 一階が食品売り場で、二階が雑貨や専門店が入っている小規模なセンターです。

 なつかしくなって、二階に上がると、昔どおりに小さな書店が健在でした。

 書店ともいえない、雑誌と売れ線の本のみが置いてある書籍コーナーなのですが、そこで、少し気になる本を見つけました。

「カレンダーから世界を見る」




 ぱらぱらと見て、結構面白そうだなぁ、と思いましたが、「1500円+消費税」という値段を目にして、書架に戻したその時に、悲劇は起こりました。

 どういう拍子か、本が落下してしまったのです。

 そこで見事に、「マーフィーの法則」が発動(「トーストはかならずバターを塗った面を下にして落ちる」)。

 本は、開いた面を下にして床に落下し、紙面はよごれ、あまつさえ折れ曲がってしまいました。

 一瞬、まわりを見回したわたしをお許しください。所詮わたしは財布も心も貧しい小市民なのですよ。

 さいわい?誰も見てはいませんでしたが、いくら、紙面を引っ張っても折れたページは元に戻りません。

 仕方がないので、いや当然のことですが買いました!

 買ってからよく見ると、この本は高校の課題図書だったのです。
 もう9月になっていましたが……

 だから、あんな小さな書籍コーナーに置いてあったのでしょう。

 家に帰ってじっくり読むと、これが面白い。
 オビ(ハカマ?)に書かれた『時間はひとつじゃない:古今東西のカレンダーを通して、いろんな「時間」を楽しもう』というコピーはダテじゃありません。

 国立民族学博物館教授の中牧弘允(なかまきひろちか)氏が、趣味と仕事で集めた世界のカレンダーを用いて、ヒトの時間のとらえ方、わかりやすい太陰暦から、数学を使った太陽暦への切り替わりとその意味を深く平易に解説されています。


 課題図書あなどれじ!!

 わたしは、よく子供たちに「子供が子供ダマシにダマされてどうする、しっかりしろ!」と、ハッパをかけますが、この本は子供ダマシではありませんでした。

 この課題図書に対して、子供たちがどういった感想を持ったか読んでみたい気がしますね。

 きっと、このブログで書いているような、型にはまった面白くない感想ではないと思いますから。



 最後に、作者あとがきを引用(部分)させていただきます。


カレンダーを楽しもう

 Time is money.「時は金なり」という格言があります。ギリシアの哲学者デイオゲネスが「時は高い出費である」と言ったことに由来するとのことですが、一般に広まったのはベンジャミン・フランクリンがエッセイでとりあげたことに起因しています。フランクリンは避雷針の発明だけでなく、「貧しいリチャードの暦」という格言集を発行したことでも知られています。そこには「急がばまわれ」に近いHaste makes waste.「急ぐと無駄が出る」とか「早起きは三文の得」に通じるEarly to bed and early to rise,makes a man healthy,wealthy,and wise.「早寝早起きは人を健康で、裕福で、賢明にする」のように時間の使い方に関するものも多く見られます。
(中略)
 最後にエピソードをひとつ。2007年に韓国人からいただいたカレンダーに、豚年(亥年が中国や韓国では豚年)にちなんだものがありました。しかも2007年は金豚で、60年に一度めぐってくる金運にめぐまれるという縁起のいい年でした。12枚のカレンダーには月ごとに豚にまつわる格言がのっていました。そのなかの一枚にはやはりありました。何がって?

Pig is Money.「豚は金なり」


 私のおすすめ:
カレンダーから世界を見る [本]

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2009年10月16日 (金)

501回目の……〜フィンランドといえば〜

 ワタクシゴトで恐縮ですが、友人が今日、ひんらんどへ旅立ちました。

 へ、ひんらんど?

 ほら、HOKUOの……パン?それは大阪のパン屋さんでしょう。

 冗談はともかく、北欧のフィンランドです。

 こういうとき、つくづく自分の無知さに愕然としますが、彼が「フィンランドに行く」といった時、わたしは、あらためて自分がフィンランドの正確な位置を知らないことに気づきました……いや、スミマセン、ミエはってしまいました。

 正確などころか、スカンジナビア半島の上に乗っていると思っていたのです。

 あのヨーロッパの上に伸びた佐多岬(四国)みたいなところですね。

 しかし、実際には、半島の付け根、ラクダのアタマみたいな部分の首のところにフィンランドはあります。


 半島に乗っているのは、ノルウェーとスウェーデンでした。

 フィンランドはもともとスウェーデンとひとつで、カギガタになった部分が独立してフィンランドになったということです。

「シテ、なぜにフィンランド?」
 先日、彼がウチに来た時の会話です。
「今の季節、北部でオーロラを観ることができる」
「オーロラ!」
「この線が(地図上の破線を示し)オーロラの観測限界。カナダ北部でも観測できるけれど、今の季節はまだ無理だから」
「そういや、フィンランドといえば『白夜』『オーロラ』『ムーミン』『世界一クサイカンヅメ』だったな」
「え?なに?」
「知らないの?向こうにいくからには、ぜひホテルの部屋であれを開けて欲しい」
「何の缶詰?」
「さあ、ニシンじゃなかったかな。わが敬愛する東京農大の小泉武夫教授ご推奨の発酵食品で、確か輸入禁止品目だったような……」
「……」

 ウロ覚えではいけないので調べてみました。

 ご存じの方もおられるでしょうが、その名は「シュールストレンミング」。

 フィンランドではなく、スウェーデンの製品でした。




 残念ながら、わたしは経験したことがないのですが、それが、どれぐらい強烈かというと、


1.缶のラベルに屋外、あるいは部屋の窓をあけ、風下に人がいないことを確認してから開封することが推奨されている。

2.強烈な発酵により、缶の上下が内部圧力によってイビツにふくらんでいる。

3.2により、多くの航空会社では、飛行中の気圧低下により内圧の高いシュールストレミングの缶が爆発して周辺の荷物に悪臭が染み付くという被害を出す恐れがあるとして、航空機内への持込みを禁じているため、基本的には航空機より気圧変化が少ない船舶による輸入が主流である(wikiより)

とされていることから推して計れますね。

 2009年現在、3.の空輸禁止措置と輸入量制限などで日本国内では1社のみの取扱いだそうです(インターネットの通信販売による購入は可能)。


「オーロラって、宇宙線が発光可視化して揺らめくんだったな」
「そうそう。このためにデジタル一眼レフも買ったから、オーロラの写真を撮ってくるよ」
「ああ……いや、それよりシュール缶を開けて、その汁をハンカチにしみこませて持って帰ってきてくれ。ビニール袋で二重、いや三重、四重、五重ぐらい包めば大丈夫なはず」
「……帰るわ」
「まあまあ」


 あと、フィンランドといえば、あとは「ムーミン」「サンタの手紙」「サウナ」それに「かもめ食堂」ですね。

 サンタといえば、かつて、クリスマス・シーズンをニューヨークで過ごした時、メーシーズのサンタクロース(34丁目の奇跡で有名ですね)と握手したことはありますが、手紙はもらったことはありません。


「小さな怒った生き物」と評されるヤンソンの「ムーミントロール」は、アニメよりパペットアニメーションほうが印象に残っています。



 
「かもめ食堂」は、ある日本人女性がヘルシンキで食堂を開く話です。
 いわゆる、脱力系のゆるストーリーで、ファンも多いと思います。
 先日スカイパーフェクトでやっていたのを録画していたので、そのDVDを渡しておきました。


 何かの参考になれば良いのですが。


 しかし、オーロラ鑑賞は時の運。

 観測できる日とできない日があります。

 数日間滞在するということなので、彼が無事オーロラを観ることができるように、陰ながら祈っていようと思います。



 ちなみに、小泉先生の「くさいはうまい」は、名著です。文庫になっているので、機会があればお読みになってください。

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2009年10月15日 (木)

500本目の投稿だから 〜アヒルと鴨のコインロッカー〜

 秋も深まる今日このごろ、来し方を振り返ると、最近、悪口ばかり書いていることに気づきました。

 読んでいる人も、悪口なんか面白くないでしょうから、今日はオススメの映画について書きましょう。

 とはいうものの、悪い作品はよく目につくのですが、良い作品には(いや、自分の好みに合うのは、ということですが)なかなか巡りあえません。

 うーん。それでは、少し前の作品になりますが、このブログでは書いたことがないので、紹介させていただきます。

 だって、気づけば、これが500本目のメモリアル・アーチ(って野球か?)なんですからね。

 やっぱり、イイモノを紹介したい!


 邦画です。そして名作。

 原作、映画ともに、間違いなく多くの方におすすめ出来るその名は……

「アヒルと鴨のコインロッカー」(原作:伊坂幸太郎)

「なんだぁ?」と思って観始めて、笑って、泣いて、切なくなって、長く余韻が尾をひくという、わたしにとっての「映画の理想形」です。

 「映画化は不可能なのではないか」と思っていた作者に、「自分の映画化の中で一番好き」といわしめた監督の力量はナカナカのものです。

 すでにご存じの方も多いでしょうか、未見の方は、ぜひこの機会に、ご覧になられた方は、DVDを借りてもう一度観てください、以上。












 では、ちょっと、短かすぎますか?

 しかし、ダメな作品は、これを持ち上げるヒトは、いったいドコが良いと思ってるの?ほら、こんなトコにも、ここにも疵(きず)があるのに……と、指摘したくなるのですが、良い作品の場合は、わたしなどの舌足らずの解説など必要はありませんからね。

 ただ、観て感ぜよ!

 それだけでいい。

 のですが……じゃあ、ちょっとだけ、この映画のお話を。

 それほど多くはありませんが、映画の前半にいくつか伏線が張られてあって、中盤以降にそれらが美しく収束するサマが本当に心地よい作品なんです。

 ストーリーについては説明しません。それこそが、この映画の命ですから。

 ただ、

 主役の濱田岳のトボけた大学生がイイ。
 そして、なにより、キチンと演技をしてる瑛太の表情が最高に良い。

 途中から出てくる松田龍平もイイ。わたしはこの映画で彼のファンになってしまいました。

 さらに、

 ともすれば、若者だけが出てきて軽い映像になるところを、これもキチンとしたオトナの女としての演技で、映画全体のオモシとなっている大塚 寧々が良い。

 前にも書いたように「もうオトコだけが活躍する時代じゃない」といったステロタイプの思いこみで、リメイク映画で無理矢理オトコキャラを女性化して現れたような役どころではありません。

 そんなスカスカなキャスティングじゃない、ここにはこの女性(ひと)が居らねばならないのだ、という必然で登場するキャラクターです。


 不叫不喚唯静落涙 

 叫バズ喚(わめ)カズ、タダ静カニ涙ヲ流ス


 明け方の車の中、静かに流される彼女の涙の意味を知った途端、切ない悲しみが我々の胸に、どっとおしよせてきます。

 そして、効果的に使われる、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、

 物語終盤に回想されるシーンで、登場人物が部屋で過去の想い出に浸っている時に、外から聞こえてくる「風に吹かれて」

 扉が開けられ、そして物語の輪は一気につながり、みごとに連環される。


 一見、そのようには見えませんが、この映画は、ある種ひどく寓話的でもあります。

 神話に近い部分もある。神サマが重要な役割を果たしているからです。


 いや、こんな書き方をしたら、これから観ようとする人に誤解を与えてしまいますね。

 この映画に「宗教的なニオイ」はまったくありません。


「アヒルと鴨のコインロッカー」で、笑い、泣き、怒り、走っているのは、全て間違いの多い、心優しき人間です。

 何をいっているかわからない人は、是非、映画をご覧になってください。


 そうすれば分かるはずです。どうしてタイトルに、アヒルと、鴨と、コインロッカーが出てくるのか。


 そして、なぜ、この映画のコピーが「神さま、この話だけは見ないでほしい」だったのかも。


 もう二年前(2007年)の映画ですから、DVD旧作でレンタルできるはずですし、今さら誰かがレンタル中ということもないでしょう。

 オススメします。

 最後にひとこと。

『裏口から、悲劇は起きる』

p.s.
 そうだ、付け加えてもうひとこと。

 この映画についての感想で、

「もともと映像化に無理がある映画だったので、自分にはもうひとつだったが、不思議と若者には人気があるようだ。自分ももう少し若ければもっと高い評価をつけたかもしれない」

と書いている人がいました。

 まさしくその通り。

 おそらく、この映画の登場人物が、独り部屋の中で、かつて録音したボイスレコーダーの音声を聞いている時の表情、穏やかな中に表れる紛れもない孤独感を「肉体的に感じられるかどうか」が、この映画の評価を分ける点だとわたしは思います。

 前にも書きました。

 時代がうつろい、いくら携帯電話のメールやtwitterでゆるやかにつながっていようと「若者は常に孤独」です。

 そして、孤独のただ中にいない限り孤独の本質はわからない。かつては感じていても、忙しさに紛れ、生活にかまけて忘れてしまう。

 だからこそ、かつて若かったヒトが年を取ってからこの映画を観ても、孤独を至近距離に感じることができずに、若者と同様の感動を得られないのではないか、と、わたしは思うのです。

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2009年10月14日 (水)

矛盾を孕んだラジオ・ドラマの小説化 〜「告白」(湊かなえ)〜

 人間、怒ってはいけません。

 だからといって、リョーカン和尚みたいにいつもニコニコ笑っている……あ、これは『雨ニモマケズ』だった、子供の頃の記憶で、わたしは『雨ニモマケズ』と『漂泊者の歌』は暗唱できるのです(あとボーイスカウトの掟も……)、いや、つまりニコニコしているだけで良いとは思っていません。

 怒るべき時には怒るべきです。

 若者なをもて怒髪天を衝く、いはんや老人をや……

 と「老人正機(ウソ)」っぽくなってしまいますが、つまりわたしは怒っている老人が好きなのすね。ニコニコしている年寄りは、どうも怪しい。

 だから、わたしは、映画「スカイクロラ」のスピンオフである「スッキリクロラ」(本編より好きです)で語られる箴言(しんげん:戒めのコトバ)

「老人は、大抵さみしそうな顔をしながら、復讐の機会を窺っている」

が好きなのですよ。


 個人的にはアドレナリンが体内を駆けめぐる感覚は好きですし、生きている実感は、穏やかな時より激情の時にこそ感じられると思っています。


 あれ、いつの間にか、最初に書いたことと反対のことを力説していますね、アブナイアブナイ……

 まあ、怒る時にもTPOが必要だということですね。

 怒りは内燃機関に投入されたニトロと同じ働きをします。
 暴走して、シリンダー内部やエンジンそのものを傷つけてしまう。

 さらに、人は一度口から出したコトバを引っ込めることはできない。

 そう、人は、怒りというパワー・ブーストの暴走の中で、往々にしてマチガイを犯してしまうのです。

 だから、このブログでも、人や作品の気に入らない点をとりあげるのではなく、なるべく良いところを取り上げるように努力はしているのですが……なかなか思い通りにはいきませんね。

 それでも悪口はいけません。

 なぜなら、人は欠点をあげつらう時、往々にして間違いを冒すからです。

 褒めている時、人は過ちを冒さない。

 けなす時に、的外れな間違いを冒すのです。

 その原因は、おそらく上でも書いた、悪口をいっている間に思考が暴走してしまうからでしょう。




 さて、今回とりあげるのは、湊かなえ氏の「告白」です。

 随分前に手に入れて、これについて書きたいと思っていたのですが、どういうわけか、書くことがためらわれてなりませんでした。

 どうしてだろう?

 オビには、
「週間文春'08年ミステリーベスト10 第1位」
「この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー 第2位」
「このミステリーがすごい!09年版 第4位」
などと、錚々(そうそう)たる単語が踊っています。

 もともとは、小説推理新人賞の受賞作(一章)で、それに二章〜六章を付け加えて一冊の本にした作品だそうです。

 前評判の良さに手に入れたこの作品ですが(それにわたしがとれなかった賞の受賞作ですし)、読み始めてすぐに、後悔しはじめました。

 文体が一人称だったからです(主人公目線の文章表記「わたしは〜」という書き方ですね)。

 以前に、どこかで書いたことがあるかもしれませんが、もうずっと以前、小説を書き始めたころ、わたしは「三人称小説」を書くことができませんでした。

 一人称しか使えなかった。

 いわゆる「視点の固定化・移動」「神の目」といったテクニックを使いこなせなかったのです。

 時間をかけて書き続けるうちに、なんとか扱えるようになったような気がしますが、まだ自信がありません。

 そういった理由もあって、人の文章を読むとき、その文章スタイルが気になるのです。


 一人称なら、自分の目からみた事象、自分の考えだけを詳細に書き、他者の行動にはフィルターをかけて、もっともらしい謎にすることができます。

 ミステリも簡単にかける。

 だって、自分以外の登場人物が、事実を知っていながら、黙っているだけで、スゴイ謎があるように書けるじゃないですか。

 この間までやっていた、テレビドラマ「トライアングル」なんぞは、その最たるものでしたね。

 正直にいって、わたしは登場人物が「黙っているだけで生じる謎」を扱うプロット、そして、それを簡単に実現できる「一人称小説」というのが好きではありません。


 だからこそ、一般的に「良い一人称小説」を書くのは難しい、といわれるのです。

「黙秘ミステリ」的安易な道に走らず、クイーンの「Yの悲劇」的奇策に走らないで意表をつく作品にするのは容易ではありません。


 しかし「告白」は一人称で語ってしまった。その結果は、読めばおわかりになると思います。


 もうひとつ、わたしは(舞台・あるいはラジオドラマ)脚本家の書く小説、というのもあまり好きではありません(『彼らの書く小説』がです)。
 
 特にミステリには(もちろん、その全てということではありませんが)欠点が多すぎます。

 舞台という、シチュエーション・ミステリ(限られた舞台設定のなかでのミステリ)で培われた思考ゆえか、彼らが書くプロットは、ミステリとしては、穴だらけの我田引水的な論理に終始することが多いように思えるのです。

 舞台でよく使われる、朗々たる独白を用いれば、一人称小説は比較的簡単にかけるでしょうし、ラジオドラマなどの脚本(わたしも書きますが)は、容易に一人称小説に変更できます。

 そして、脚本家転向組の作家が増えていく。

 こういったことの根底には「脚本では喰えない」という理由があります。

 脚本は、舞台にかけられないと日の目をみませんが、小説にすれば、それだけで商品になり得るからです。

 そういった考えもあってか、以前にもまして脚本家の書く小説がたくさん世にでるようになっていますが、その多くが文章文体にクセがあり、プロットに無理があるような気がするのです。

 湊かなえ氏の略歴をみると、やはり彼女も、もともと脚本畑の人でした(もちろん、多くの脚本家同様、かつては文章を書いていたのでしょうが)。

 「告白」も、いかにも、はじめはラジオドラマの脚本として書いて、急遽小説にしました感のある文章です。

 第一章が、教師による現実味の薄い「恫喝」で終わり、

 第二章以下、「わたし」を生徒あるいは生徒の姉弟の目線に変えつつ、連作として六章のラストまで持っていくのですが、末節にこだわった、粘着質な、いやはっきりいってキショクワルイ人間関係と、じめついた思考回路は好みの問題だから仕方がないとしても、ミステリとして読んだ場合、あり得ない起きえないシチュエーションの連続で、読むのが辛くなってきます。

 少なくとも自分じゃ、あんなプロットは作ることはできないなぁ。

 読まれた方ならお分かりでしょうが、ある秘密を知ったクラスの全員が、家族およびクラス外の友達あるいは「掲示板」にさえ、何ヶ月にもわたって一切その秘密を漏らさない、なんてことがあるでしょうか?

 それは、論理の穴というより致命的な欠陥ですね。
 よく出版社の担当が許したなぁ。


 一過性のラジオドラマ(あるいはテレビドラマ)なら許されても、小説として上梓(じょうし:出版の意)するのは困難な作品のように思えるのですね。

 まあ、いずれにせよ、この作品も映画化(あるいは、ちょっと下がってテレビドラマ化?)はされることでしょう。特に、一過性のテレビドラマなら、そのドラマチック性で良い評価を得ることができるかもしれません。


 あれ、上の書き方って悪口っぽくみえますね。しかもちょっと怒っているような。
 

 わかった、この作品について書けば悪口になるから、書くのがためらわれていたんだ。


 えーと、「告白」
 後味は悪いですが、スーと読み終える分には、面白いところもある作品ですよ。

 以上、告白させていただきました……けど、的外れ、かな?

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2009年10月12日 (月)

日米オトシマエの違い 〜「さまよう刃」・「狼の死刑宣告」〜

 昨日ウチにきた友人が、「さまよう刃」(東野圭吾)の映画試写会に行ってきたというので「寺尾聰もがんばるなぁ」とだけ答えました。

 実は、この映画で知っているのは、寺尾聰が出ていることと、娘(だったよね)を殺された父親が、少年法に守られる犯人に復讐し、その顛末はマスコミを巻き込んで……なんてことだけで、あまりにも現実をナゾリすぎたステロタイプさに、書店で原作を手にとったけれど、読まなかったのです。

 東野圭吾については、初期の作品、乱歩受賞作やピエロモノは、あまり好きではありませんが、デビュー後五年程度経った「宿命」などは好みで、今でも読みかえします。
「鳥人計画」や「パラレルワールド〜」もバカバカしくて好きですね。

 また、いくつかの短編、特に「推理作家の苦悩」など、肩肘はらずに書いたものは出色の出来なのですが、やがて、本人も書いているように「売れなければ担当各位に迷惑がかかる」うえ、白夜行など「何度も直木賞をとりに逃した」ことで、賞取りに走ったような長編作品が多くなったことと、それにつれて、彼個人の「作家的冷酷さ」(彼自身が冷酷なのかはわからない)が鼻につくようになって、最近の作品はナナメ読みするだけになりました。

 あるいは、それこそが、作家が歳をとる、ということなのかもしれません。
 エネルギーが減って地金が出てくる。

 誰かが「さまよう刃」の感想に書いていました。
「最近の彼の作品は、ラストにがっかりすることが多い。平凡すぎて」

 そりゃあ、あれだけ長編を乱発していれば、疲れて、ラストまで体力が持たないよ、というのが、わたしの感想です。

 「チームバチスタ」の作者が「このミステリーがすごい」大賞受賞後、宝島の局長に会った時にいわれた言葉。
「本は売れません。今度の作品(『容疑者Xの献身』)で、おそらく『このミス』一位も直木賞も手にする大作家、あの東野圭吾さんですら『新作を書かないと忘れられてしまう』と年三冊以上出版されています。(以下略)」(「ジェネラル・ルージュの伝説」より)
が、「売れる作家」のすべてを表しているようですね。


 あれ、寺尾聰もがんばるなぁ、のハナシだったのに横道にそれました。

 ふと、BS放送で「雨あがる」の放映をやっていたのを思い出しました。

 彼が、歳をとるにつれ、父親(宇野重吉)に似てくるのは、遺伝子の力を感じて不思議ですね。(わたしは両親にも祖父母にも似ていないので)

 わたしにとっての寺尾聰は、グループサウンズではなく、「奥様は18歳」の「アスカちゃ〜ん」でもなく、もちろん西部警察(だったかな?ほとんど観たことがないので)の刑事でもない、子供のころ、深夜テレビのCF(ポテンザのCF?)で、青白い霧の漂う海外のレース場をゆっくりとレーシングカーがタクシーイングする画にかぶせて流れた「出航(さすらい)」を歌うミュージシャンなのです。

 個人的に好きなのは、「恋のトランスコスモス」か「回転扉」、「まさか・Tokyo」かなぁ。

 大ヒットした演歌「ルビー〜」は、好きではないので、流れるたびに聞こえないふりをしていましたが……


 いやいや、ここで書きたかったのは、日本では、自分の子供を殺されたオトコが復讐しても、マスコミを巻き込んだ社会現象になってしまうのだなぁということです。

 それが地位を得て、社会派に梶を切った作家が向かう正しい道だとは思います。

 しかし、海の向こうで、子供が無惨に殺されたら……戦争が起きるんだぜ!


 というのが、今回、テーマにしたかった「狼の死刑宣告」(2007年作:2009.10公開)なのです。




 主演は、あの、悪党ヅラのケビン・ベーコン。

 実は、わたしは彼が大好きなんですね。
 一時期、人気が落ち込んだものの、最近、悪役で復活を果たしたことは嬉しい限りです。

でも、わたしが本当に好きなのは、彼の初期作「クイックシルバー」(1985)です。
「フットルース」「ハリウッドをぶっとばせ」(だったかなウロ覚え)と、だんだん落ち目になってきた彼が、起死回生を目指して打った次の一手です(たぶん)。


 若き、株の天才仕手師ケビン・ベーコンが、しくじって一夜にして無一文になり、失意の中、喰わんがためにニューヨークを時速70キロで失踪するバイク(自転車)メッセンジャーとなるストーリー。

 作中、彼のライバルとして登場する、やせぎすで長身の麻薬搬送人を、若き日のローレンス・フィッシュバーン(あのマトリクスの)が好演しています。
 ローリー・フィッシュバーンとクレジットされているので、はじめ誰だか分かりませんでした。「地獄の黙示録」に17歳で大抜擢されてから数年後の彼です。

 これは、後の、ホイチョイ・プロダクションによる「メッセンジャー」の原型ともいえる作品ですね。

 しかし、世間的な人気は、ほとんど無かったようで、DVD化もされておらず、今、「クイックシルバー」で検索すると、みなさんご存じのファッションの方しか表示されません……と思ったら、2009年12月2日にDVDが発売されるじゃないですか!しかも二カ国語ツキ!予約よやく……

 いやいや、興奮してしまいました。

 そのケビンが、徐々にウイレム・デフォー似の悪人ヅラになって、ついにブチ切れたのが、この「狼の死刑宣告」なんですね。

 息子(日本の場合、娘が犠牲者であることが多いのは、オトコとしての父親の目から見て、娘が陵辱された上で殺された方がインパクトが強いという作り手の判断が働いているからでしょう。海外では圧倒的に息子が殺されますね)を、目の前で殺された中年オトコが、チョイ復讐しかかって逆にギャングどもにボコボコにされてブチ切れ、徐々に普通人として壊れていき……

 やがて、武器を集め、スキンヘッドになって……って、まるで「タクシードライバー」じゃないの!

 そう、これはある意味「タクシードライバー」なんですね。

 ただ、ロバート・デニーロ演じるトラヴィスはベトナム戦争が壊れるきっかけでしたが、ケビンは息子の死と納得できない犯人の刑罰で人格崩壊を起こし、プライベート戦争を開始するのです。

 マスコミはほとんど表面に出てきません。

 そういったフル・バイオレンスの映像を、SAW(一作目)のジェームズ・ワン監督が、色調を抑えた画で、粛々と描いていきます。

 そう考えると、ケビンはジグソウでもあるわけでしょうか。

 全国一斉公開の映画ではありませんが、バイオレンス描写に耐性のある方なら「さまよう刃」の口なおしにこちらもオススメします。

 なんせ、戦争ですから。

p.s.
 戦争で思い出しましたが、押井カントクが、黒木メイサ、菊地凛子、佐伯日菜子の3人を使って、八年ぶりに実写映画を作りますね。12月19日公開だそうな。
 タイトルは「アサルトガールズ」




http://www.cinemacafe.net/news/cgi/release/2009/10/6819/
 日本語で「突撃少女」の方が面白いような気がしますが、まあ、前作のバーチャル空間のネゴト実写映画「アヴァロン」の二の舞にならないようにお祈りします。

 未来世界のバーチャル砂漠(これも仮想だった!)で、突然変異の超大物<マダラスナクジラ>を仕留めるための戦いを繰り広げるガールズ、という設定はかなり魅力的なので、頑張って欲しいと思います。

 海外からの「SFであっても、利口で可愛いクジラを退治するなんて許せない」という内政干渉的言動が心配されますからね。

 あるいは、そういった「世論カキ回し」も押井監督の狙いなのかもしれません。

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時を超えてボーイ・ミーツ・ガール〜僕の彼女はサイボーグ〜

 やあやあ、観てしまいました。

「僕の彼女はサイボーグ」(2008年)

 本当は、映画館に「カイジ」を観に行くつもりだったのですが、天海祐希が、あのヤミ金融の遠藤を演(や)るというので、ちょっと様子見(ようすみ)してしまいました。

 そりゃあ、世界は男だけのものじゃない。
 女性が、善悪様々なキャストを演じるのは大賛成ですが。少なくとも原作に対する敬意というかリスペクトというか(同じだけど)を示すようなキャスト変更をして欲しいですね。

 今回の映画で描かれない、後のエピソードで重要な役割を果たすクロメガネの遠藤は、オヤジならではのキャラクターだと思うのです。

 だから男でいて欲しかった(ある意味面白い書き方だなこりゃ)。

 あるいは、実写版「宇宙戦艦ヤマト」の佐渡酒造を高島礼子が演じるのは、往年のファンとしてはガマンならんのですわ。

 まあ、友人のひとりは「森雪を黒木メイサが演じるのは骨格的に許せる」という意味シンな言葉を発していましたが……

 ついでに、実写版ヤマトの主題歌は、ぜひ槙原敬之氏にお願いしたいとも……
(ご存じのように、原作者のひとり、松本零士氏と槙原氏は、銀河鉄道を巡って裁判ザタになりましたから)

「カイジ」の原作はネットカフェで一気読みしました。
福本伸行氏の過去作である「金と銀」はリアルタイムで読んでいましたが、そのピカレスク(悪漢小説)ぶりが少々鼻について、熱中はできませんでした。

「アカギ」そして「カイジ」と時代が下るにしたがって、主人公のキャラクタに思い入れできるようになりました。

 今回映画化された「カイジ」もそうですが、最近の福本氏の傾向は、氏が新しいギャンブルを開発し、それを主人公に体験させ、いかに彼らがその罠を咬(か)み破っていくかを読者に追体験させるという手法になっています。

 主人公の動機も徐々にクリーンなものになっていき、カイジは、友人の保証人になった借金返済が動機でしたが、少年誌連載(少年マガジン:現在休載中)の「賭博覇王伝 零」になると、主人公零は正義感から命がけのギャンブルに挑むようになってしまいましたね。

 あれ、これって「僕の彼女はサイボーグ」について書く項でしたよね。

 かなり前のこの作品を、今頃観たのはなぜかというと、いくつか観るのをためらう理由があったからです。

1.「特撮が入っているから躊躇してしまった」
 日本映画の特撮というのは、「キャシャーン」はじめ「GOEMON」や「ヤッターマン」など(ヤッターマンは好きです)少し無理があるから感情移入できにくいのですね。

2.韓国の監督さんということで、また泣かせのテクニックに走った作品になっているのでは、と心配だった。前二作(「猟奇的な彼女」「僕の彼女を紹介します」)は観ていないので、何とも言えないのですが。

3.タイムパラドックス・タイプ(時間線錯綜型)のボーイ・ミーツ・ガールSFは、自分でも書いている(「昨日見た夢、今日流す涙」)ので、それが抵抗になった。

 実際に観てみると、1.はほとんど気になりませんでした。うまく撮っています。

 2.も、過度な涙に走ることなく、ある程度抑制の利いた良い演出だったと思います。

 3.は……ううむ。この映画を観た多くの方が書いておられるように、タイムラインを無茶苦茶にしてしまったエンディングに少し問題がありますね。

 作者は、あくまで、暖かい血と肉をもった女性としてのヒロインを、恋人に沿わせてやりたいと思ったのでしょう。

 その優しさは人間としては美しいと思いますが、ストーリー・テラーとしては間違っています。

 主人公であれヒロインであれ、いざとなればプツリとその存在を絶ってしまう非情さが必要です。

 断ち切られたストーリーの余韻が感動を生み、感動を生み出すことこそが、文字を使う造物主たる作者(この映画の場合、監督の脚本)の義務なのですから。

 好悪(こうお)はともかく、手塚治虫が偉大なのは、「鳥人体系」や「火の鳥シリーズ」のように、遠い高みからの視点をもって、人や人類を歴史的事象のひとつとしてバッサリと絶滅させてしまえる非情さを持っているからです。

「最終兵器彼女」(高橋しん)なんかにも、そういった非情さがありますね。
(「最終兵器〜」は省略形が「サイカノ」だった。だから、この映画は「ボクサイ」?)

 確かに、主人公に「カノジョ」を復元させたところで終わるだけなら、同人誌版ドラエモン最終回(検索してみてください)と同じになってしまうので、ああいうエンディングにしなければならなかったのでしょうが、安易なヒロインのバトンタッチは、ご都合主義のそしりは免(まぬか)れないでしょう。

 せめて、火の鳥(復活編)のチヒロのように、普通では結ばれ得ぬ恋人たちを、ひとつのロボット(ロビタ)の中で永遠に生きさてしまうほどの力業(ちからわざ)を見せるか、あるいは、未来に生きる「人間のカノジョ」がサイボーグ(実はアンドロイドの間違いですね)の電子脳にシンクロしたあげく、「後戻りできないほどの影響を受ける経緯」をもう少し丁寧に描くべきでした。

 まあしかし、SFの古典的名作「愛しのヘレン」で描かれたロボットと人間の許されざる恋と、これも抒情的名作「たんぽぽ娘」で使われたタイムパラドックスを組み合わせ、レイ・ブラッドベリの「長かりし年月」(火星年代記より)の「才能ある人間の一途な情熱による奇跡」を組み合わせたような、この作品は悪くありません。

 なにより、人とアンドロイドの「ボーイ ミーツ ガール」を演じる、若き二人の役者の演技がバッド・エンディングから、この映画を救っているように思えますね。

 人を選ぶかも知れませんが、個人的には、時間のある時に観て損はない作品だと思います。

P.S.
 ひとこと付け加えるなら、この映画は、若い二人が同じ時を過ごす「愛らしい」映画なのですね(実際は人間とアンドロイドですが)。

 彼と彼女の行動を「愛らしく可愛い」と思えるかどうかが、この映画を好きになるかどうかの分水嶺(ぶんすいれい)だと思います。

 監督の意図もきっとそこにあるのでしょうから。

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2009年10月10日 (土)

その部分の隠し方100景 〜ベオウルフ/呪われし勇者〜

 うーん、こういった話を書くべきかどうか、本当に迷ってしまいます。

 このテのハナシを書くと、テキメンに数少ない女性読者が減ってしまうものだと、あの東海林さだお先生もいっておられることなので……

 しかし、どうしても書きたい、という、精神の内圧に負けてしまったので、ヒトイキに書いてしまいます。

 昨夜、夜の散歩がてらGEOに出かけて、旧作年末まで100円キャンペーンにつられ、以前から気になっていたロバート・ゼメキス監督の「ベオウルフ」(2007年)を借りてきました。

 上の写真↑からもわかるように、金髪碧眼(へきがん)の筋骨隆々たるバーバーリアン(野蛮戦士)物語で、なおかつ神話も入っていてドラゴンや巨人も登場するハナシを、あのBack to the Futureシリーズのゼメキス(駄作フォレスト・ガンプは横に置いておいて)が、どのように料理する観てみたかったのです。

 借りてすぐに、映画に関する情報はおろか、歴史上最古の英雄叙事詩と呼ばれている原典すらろくに知らないまま、サラウンド全開で一気に観たのですが……

 そのまえに、少しだけ。

 上で、歴史上最古の英雄叙事詩と書きましたが、これは、レンタルDVDのジャケットにあったコピーからの孫引きです。

 観終わってから、少し調べてみたことを書いておきます。

 わたし個人としては、獣の皮を被った凶暴な戦士たち、いわゆるBERSERKER(英語でバーサーカー、ノルウェー語でベルセルク)の異名なのか、と思っていましたが、実際は、ベルセルクは北欧神話の狂戦士(実在したとも)で、ベオウルフは英国で詠まれたデネ(デンマーク)を舞台にした英雄叙事詩でした。

 あるいは、Werewolf:ウェアウルフ[人狼]ともかかわりがあるのか、とも思いました。
 それで思い出しましたが、ブラウンの短編小説でしたか、登場人物が酔っぱらって「俺たちゃ狼さ、だから We're wolf=Werewolf、ヒャヒャ」なんて笑うシーンがありました。
 わたしにとって人狼は、いつもいつでもWerewolfなんですが、最近、日本では、ライカンスロープ(ギリシア語)、ルー・ガルー(フランス語 )と気取って呼ばれることが多いようです。

 英国人のシェークスピアが、許されぬ悲恋の物語「ロミオとジュリエット」の舞台を遠く離れた異言語の国イタリアのヴェローナに求めたように、「ベオウルフ」も、北欧デンマークを舞台にして、英国で語られた叙事詩です。

 ベオウルフの成立年代は、およそ8〜9世紀といわれており、物語の内容は、それをさかのぼること200年程度のころのようです。

 見始めて三分ぐらいたって、驚くべき事実(って、皆さんご存じだったんでしょう)に気がつきました。

 どうも、登場人物たちの動きがヌメヌメする。特に、ピョンピョン跳びはねる時の「落下状態」が不自然だと思ってよく見たら、「ベオウルフ」はフルCGアニメーションの映画だったのですね。

 しばらく経つまで気がつかなかったのは、私が情けないか、CGの技術が上がっているのか、外国人の表情はわかりにくいかのどれかでしょう。

 内容自体は、ベオウルフと呼ばれる一代の英雄(「ニーベルング」のジークフリートみたいなものでしょうか)が、巨人グレンデルやドラゴンを倒すという英雄譚(たん)です。

 ベオウルフは、英雄の定義どおり、「一代で名をなし、突出した人生を送り悲劇的結末を迎え」ます。
 

 さて、ここからが本題です。

 映画開始後15分ほどで、若きベオウルフが、デネ(デンマーク)の王のもとに出向き、夜ごと現れる巨人グレンデルを退治する闘いを始めるのですが、その時彼は向こう見ずな若者らしくこう言い放ちます。

「巨人グレンデルが、武器をもたず体ひとつで戦うのなら、俺も裸で戦おう」

 そういって、ベオウルフは、美しき王妃の眼前で、服を脱ぎ捨て素っ裸になります。

 半ケツどころか、全ケツ丸出しにするのです。

 さあ、ここからが、ゼメキスの手腕のみせどころ、以前に書いた「ウォッチメン」のDr.マンハッタンは、全裸になっても、その部分が「まるで記号化されたよう」に、それらしく見えないように描くように、という指示が為されていたそうです。

 人間ばなれした青白き怪人、Dr.マンハッタンならそれが許されるでしょうが、ベオウルフは、人間くさい肉体派のバーバーリアンです。

 そんな誤魔化しが許されるわけがない。

 そこで、アノ手コノ手で隠すわ隠すわ。

 激しいアクションのさなか、仁王立ちするベオウルフの「ソノ部分」の前に仲間の男のアタマがあったり、酒を焚き火にかけて吹き上がる水蒸気で何となく隠したり、巨人グレンデルがテーブルに突き立てた剣でピンポイントに隠れたりと、小心者のわたしは、闘いの行方より、いつ見えてしまうのか見えないのか、そればかりが気になって知らぬ間に戦闘が終わってしまいました。

 結論からいうと、ベオウルフは、結局、最後まで見せませんでした(当たり前?)が……

 映画「ベオウルフ」は、わたしの中では、他の多くある美点と長所を圧倒して、全裸の男のアクションをそのまま描く格好のテクストになってしまいました。

 みなさんも、機会があれば、ぜひ一度、むくつけき大男が全裸で暴れ回りながら、ソノ部分を決して見せない、カメラアングルの妙をご覧になってください。

 しかし、「ベオウルフ」って、民放の映画劇場での放映があり得るのだろうか?

P.S.
 付け加えると、声優は、アンソニー・ホプキンスやアンジェリーナ・ジョリーなどの錚々(そうそう)たる面々が顔を揃えています。

 さらに付け加えれば、登場するキャラクタも声優の姿形を模したものになっていて、怪物の母を演じるA.ジョリーなどは、金のウロコの怪物ながら、あのクセのある顔と少し修正された体型が、なかなか当人にそっくりでした。

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2009年10月 8日 (木)

エジソンとテスラの握手 〜家庭内直流化への動き〜

 「オール電化」という和洋折衷のコトバがありますね。

家庭の機器を、熱源を含めて、すべて電気エネルギー利用で統一するという考えです。

 鳩山首相の温室効果ガス1990年比25%削減を受けて、以前から、ささやかれていた「家庭内直流化への動き」が活発になっているそうです。

 ご存じのように、家庭内で動く電子機器のほとんどは、最終的に直流で動いています。
 直流というのは、小学校の時に理科の実験で扱う、いわゆる分かりやすい?電気形態ですね。

 しかし、実際、わたしたちの家庭のコンセントに届けられるのは交流です。

 なぜかというと……あ、その前に、


 電気を表現するのに使われる「電圧」と「電流」を、わかりやすく理解するために、よく、水に例えて「電圧は水の勢い」「電流は水の流れる量」といわれますね。

 「電圧が高い」とは、水を押す力が強いことで、「電流が強い」のは流れる水の量が多いことです。

 でも、水圧が高かったら、流れる水の量は多くなるんじゃないの?

 その通り、しかし、水を送る時、もう一つ大事な要素は「水の流れる管の太さ」ですね。

 水を押す力が強くて、管が細ければ、すごい速さで水は流れるでしょうが、実際に流れる水の量はそれほど多くありません。

 逆に、押す力が弱くても、管が非常に太いものなら、速度は遅くても全体として流れる水の量は多くなります。

 電気でいう「抵抗」は水道管の細さをあらわす単位です。「抵抗が大きい」つまり数値が大きいというのは、管が細いということです。

 大きい方が小さい、というのはわかりにくいかもしれませんが、たとえば、紙ヤスリ、サンドペーパーなども、号数(数字)が大きいほど目が細かくなりますね。




 一般的に、遠くへ電気を送る(送電)する時は、電圧を思い切って上げた方が無駄が少なくなります。

 交流は、直流より電圧を変化させやすいために、20世紀になって、送電方式の主流となったのです。


 山を走る送電線には高圧がかかっています(高圧線)。
 都市に入る前に、変電所で電圧は下げられ、家のそばの電柱にある変圧器でさらに下げられて、家庭のコンセントに届く時には100ボルト(実効値)になり、それを、テレビやコンピュータの中にあるACアダプタ(交流を直流に変える装置)を使って、直流に変えてから使っているのです。

 しかし、電流の形態を交流から直流に変えるためには、ロスが生じます。

 ある技術者は「テレビの中はACアダプタだらけ」といっているそうです。

 個別の機械で、それぞれ変換するとロスが大きくなるため、家庭に届いた時点で、電気を一括で直流に変えてやろう、というのが「家庭内直流化」です。

 そうすることで、機械を小さくすることができ、エネルギーのロスを抑えることができます。

 家庭内の直流電圧を何ボルトにするか、などの業界のすりあわせが必要ですが、これが実現すれば、個人的に、二つの意味で喜ばしいこととなります。


 ひとつめは、わたしは、個人的に、こういった持って回った遠回り変換が嫌いなので、それがすっきりと統一されるのが単純に嬉しいのです。



 最近のコンピュータと周辺機器(ディスプレイなど)、あるいはDVDプレイヤーと音響装置(サラウンド機器)などはデジタルでつなぐようになっています。
 かつては、どちらも内部処理は全てデジタルなのに、それを一度アナログ信号に変換してからケーブルを使って機器に転送し、再びデジタルに戻して処理を続ける、という無駄なことを行ってたのです。
 そのため信号に余計なノイズが乗って、画質や音質低下の原因となっていました。



 そしてもうひとつ。

 別項で書きましたし、タイトルにも載せましたが、かつて発明王エジソンは、自分の推す「直流」を世界標準にするため、財力にものをいわせた、かなり強引な方法で、ニコラ・テスラの推奨した交流を追い落としたといわれています。
http://blogs.yahoo.co.jp/kabulaya/57303005.html)


 結果的に、変圧が簡単といった、いくつかの利点から、交流が世界標準となりましたが、今回の「家庭内直流化」で、家庭までは「テスラの交流」が、家庭内では「エジソンの直流」が仲良く手をたずさえて使われるようになる(もちろん機械の中では今までもそうだった)のが、なんとなく嬉しく思われるのです。

 100年を経た後の握手、というカンジですね。「海を越える握手」(スーザ)ならぬ「時を超えた握手」というわけです。

 しかし「家庭内直流化」になれば、今まで以上に、コンセントの極性が大切になりますね。そのため、コンセントの形状も、現在の平行型から外国によくあるT型や三局型になっていくのでしょう。電化製品にとっては大きな変革となります。

 と、同時に、明治期に発電機を仕入れた国の違い(イギリスとフランス)によって別れてしまった、60ヘルツと50ヘルツの交流周波数の違いも意味をなくすことになります。

 さらに、太陽光発電で屋根の上で発生する電力(もちろん直流)を、今後開発が期待される高性能バッテリーに保存し、それを効率よく直接家庭で使うことも可能です。

 それぞれのメーカーで違う思惑はあるでしょうが、できれば、ぜひ早期に実現して欲しいですね。

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2009年10月 7日 (水)

いよいよ台風上陸  〜出版界にAmazon Kindleがやってくる〜

 いま、伊勢湾台風以来という勢力の台風18号が日本を通過中ですが、それ以上の台風が日本を襲来しつつあります。

 かねてより噂のあった、Amazon Kindle(キンドル)が日本にやってきます(10月19日発売:発売価格270ドル:約2万4000円)。




 日本語でいえば電子書籍リーダーということになるのでしょうか、ネットを通じて直接Amazonから購入でき、一冊あたり(の情報量)の金額が、数分の一になるところが、読書家にとっての旨みでしょう。(アメリカではEVDOという接続規格を使ったアマゾン・ウィスパーネットを利用するため接続が無料)

 逆に、売り手の側からいえば、物理的な本の装丁が必要ないために、余計なコストをかけずに書物を販売できます。

 書籍版ipodというカンジですね。

 わたしの小説のうちのいくつかは、acrobat形式でダウンロードしてお読みいただけますが、あれの小型端末版ということです。


 音楽こそ買ったことがありませんが、わたしもapp storeでソフトはいくつか買いました。

 確かに、店頭で買うより、ダイレクト・ネット販売は値段も安く手軽です。

 iphoe用のソフトに、青空文庫を読むソフトがあり、これを使うと青空文庫のサイトに自動でアクセスして古典の名作を読むことができます。

 kindleも、ちょうどこういった感じではないかと思っています。

 当面は、英語のみの扱いだそうですが、やがては、日本の書籍も扱うようになるでしょう。

 Kindleひとつに二百冊(英文字で)の書籍を収めることができるそうなので、通勤の合間などに気になる本を読むサラリーマンも増えることでしょう。




 端末自体も、けっこう良くできているようです。
 重さは319グラムでと軽く、バッテリーはネット接続を切っていれば一週間ほど保つといいますから実用性はあるでしょう。

 実際、視認性、操作性のそれほどよくなかった、nintendo DSの日本文学ソフトも結構売れたようですから、ソフトが充実すれば、通常の出版業界の脅威になるかもしれません。

 が……です。

 しかしなんです。

 kindleには決定的に書けているモノがある。

 本にあって、kindleにないもの、それは重さとニオイです。

 ハードカバーの美しい装丁は、その重さと相まって、持っているだけで喜びがあります(すべての本ではありませんが)。

 そして、そのニオイも。

 ニオイ?

 そう、本にはニオイがある。

 よく、本屋に行くとトイレに行きたくなるといわれているようですが(ようです、と書いたのは、わたしには、ついぞそういう経験がないので)、それも、本が発するニオイが排尿、排便を誘発するからだそうです。

 そう、現実の本には、その書籍ごとの重さを含め、ヒトの肉体に影響を与えるなにかがある。

 かつての「ポパイ」も「ホットドッグ・プレス」も、我慢できないほどクサイ雑誌でした。さすがに、今ドキ、あれほど強烈なニオイの雑誌にはお目にかかれませんね。



 おそらく、こういった電子書籍については、これから論争が起こり、やがて「どちらも良い点があるから、短所を補い合って共存していけば良いでしょう」などといった、優等生的結論が主流となることでしょう。

 そして、必然的に、昔ながらの本は姿を消していき、新刊は絶え、古い本は好事家(こうずか)のみがあつかうレア商品となり果てるのでしょう。

 しかし、あの、テレンス・スタンプ主演の映画「私家版」も、本が本という体裁をとっているからこそのミステリですし、先日放映の始まった「戦う司書」(こいつはアニメですが)は、ヒトが死んで本になるのがキモの作品です。

 フランソワ・トリュフォーの名作映画、「華氏911〜それは自由の燃える温度〜」あ、これはムーアだった間違いまちがい……じゃなくて、華氏451(レイ・ブラッドベリ原作)の、思想統制された未来で、あらゆる物語の本がファイアーマン(消防士ではなく、正しく火炎放射器をもった焚書マン)によって焼き尽くされる世界に似た変革が、深く静かに進行していきそうな気がします(ちなみに華氏451度は摂氏232.7度。自由ではなく紙の燃え始める温度です)。

 まあ、こちらは焚書(ふんしょ)ではなく、書物の形態を変えるだけではありますが。
 この流れは止められないのでしょうね。
 レコードがCDに自然に代わってしまったように。

 こんなものは、ただのセンチメンタリズムに過ぎませんがね。

 確かに、本はかさばります。おまけに重い。
 わたしが最近、よほどのことがないかぎり、ハードカバーを買わないのは、その値段ではなく重さのせいです(たぶん)。

 何年か前に戸棚が壊れて以来、書庫に、2x4材で、強固な本棚を作りつけはしたものの、これ以上本が増えると家が危ない状態になっているのです。

 インドで体をこわし、陸路たどり着いたカトマンドゥのゲストハウスで見つけた井上ひさしの「巷間辞典」(エッセイ集)を、ベッドで寝ころびながら、何度もむさぼり読んだのは、ひさしぶりに接した日本語であった以上に、それが日本の文庫の体裁、装丁であったからです。黄ばんだその紙質すら嬉しかったことを思い出します。

 これが、ホテルに備え付けられた端末(場末の安ホテルにそんなものが設置されるとは思えないけれど)のディスプレイ上に映し出された日本語であったなら、あれほど、飢(かつ)えた気持ちを慰めてくれたかどうか、わたしにはわかりません。

 最近、よく耳にする、自分にとって「役に立つ」本だけを「必要な部分だけ切り刻んで読み捨てる」読み方をするタイプのヒトなら、こういった電子書籍は願ったりかなったりなのでしょう。

 わたしにもそういう部分はあります。

 いずれにせよ、情報のデジタル化とネット販売は時代の流れのようです。

 かつて、石版や石碑に文字を刻んでいた時代にパピルスが現れた時も、このような感傷があったのかもしれません。

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2009年10月 6日 (火)

小説なんて簡単さ 〜「ジェネラル・ルージュの伝説」〜




 海堂尊「ジェネラル・ルージュの伝説」を読んだ。

 小説に「著者近況エッセイ」をくっつけた合本だ。

 裏を読めば、というか作者も認めているが、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」に便乗して出版社から書かされた中編の「かさ」を増やすためにエッセイを加えてハードカバーにしたということだろう。

 相変わらず、小説の文章は読みにくく、ナルシシズム気味な表現が多用されるため、ナナメ読みできただけだった。(氏の小説文章は、なんとなく女性的、マニッシュというか、どこかカマッポイところがある)

 興味をひかれたのはエッセイの方だ(こちらはマスキュリンな文章)。

 ほぼ、小説と同分量のエッセイに、これまで書いた小説の裏話が彼の生活変化とあわせて書き連ねられている。

 氏は、その中で、二つほど気になることを書いていた。

 ひとつは、彼が、自身の作品群を「虚数空間を統一した作品にしたもので、同様のことをした作家はいない(あるいは自分の知る限りほとんどいない)」と書いていることだ。

 虚数云々は、理系を自認する作者が、鬼面ヒトを驚かす体(てい)で、ブンカケイ読者を煙(けむ)に巻くことだけが目的で使った、何ら意味のないハッタリではあるが(実際、わたしには彼が何をいっているのかわからない。複素数球面のことか?だとするとさらに意味不明)要は、「ある特定の仮想世界で、自分の書くあらゆる登場人物が、同時に生活している。自分はそれ以外の世界を書かない。だから、違う作品で以前の主人公が脇役で登場することがある」ということらしい。

 しかし、ざっと考えても、そういった体裁をとる作品を書く作家は、彼以外に十指にあまるほどいる。

 皆さんも、「主人公が変わっても、物語世界が同じで、登場人物がカブる作品を書く作家」なんていくらでも思いつくことができるでしょう?

 まあ、これは海堂氏の思いこみだから仕方ないとして、もうひとつ気になったのは、彼の創作技法についての言及だ。


 本文中、氏がブルーバックスから「死因不明社会」を出した時の話が載っている。
 (ご存じのようにブルーバックスは科学系ノンフィクション)

 面白いので引用してみよう。

「執筆はキツかった。科学系の文章を書くことは、フィクションの系の数倍大変だ。フィクションはつじつまが合わなくなったら、自分で新たな点を打てる。現実の科学ではできない。かつて基礎実験し、PCRという実験でそこにこの領域バンドが出れば世紀の大発見なのにと、思ったことが幾度あったか。それと比べたらフィクションのつじつま合わせなんて朝飯前だ。そんな状態に慣れた私は、ストイックに事実をつきあわせて書くことが難しい体質になっていた(要は、作家はいいかげんな詐欺師だ、ということだ)」

 これには納得できた。
 わたしも常々そう思っていたからだ。

 氏の書くとおり、フィクションは、ある意味簡単だ。
 好きなように辻褄があわせられる。
 たしか、東野圭吾氏も同様のことを書いていた記憶がある。

 困ったら、新しい登場人物を出したり、始めは、そこになかった自動車を通りにおいておけばいい。そして、うしろの方を、それにあわせてちょこちょこっと書き換えて、ハイ、できあがり。

 理系のニンゲンは、だいたい同じように考えるものかもしれない。

 しかし、問題は、わたしが書いた「ある意味簡単だ」ということだ。

 世の中の、あらゆることには、それぞれに抜け道がある。ラクができる。ごまかせる。
 そして、多くのヒトは、その多寡(たか)はともかく、そういった「妥協」と妥協しながら生きているのだ。

 だが、いやしくも、自分を好んでくれる読者の財布から、千円以上(ハードカバーの場合)出費させようとする作家であるなら、思いつきのプロットを、辻褄あわせのトリックで読ませ続けてはいけない。

 科学レポートと違って、「簡単にグラフにプロットできるから(点を打てるから)」こそ、プロット(あらすじ)に凝らなければならないのだ。

 そりゃあ、ろくな読書量もない、本ばなれした人々を相手にして、興味本位に本を買ってもらうだけなら、既存の有名作品(古典)に似たあらすじをちょっと現代風テイストに変えて書けば良いかもしれない。

 しかし、わたしを含め、おそらく多くの雑文家は、今まで誰も書いたことのない「あらすじ」をひとつでも産み出してから死にたい、と常々考えているに違いない。

 氏が、賞に応募した「チームバチスタの崩壊」で何度も推敲(すいこう)を繰り返したことは知っている。
 だが、その後、多数執筆されている作品の多くの内容は、残念ながら練られたものであるとは思えない。

 売れることを前提条件に出版社から執筆依頼されるのだから、あまり凝ったプロットにできず、辻褄をあわせのトリックを、読書家なら「ドコカデヨンダハナシダナ」と思うような「既存の素晴らしいあらすじ」で書き飛ばしてしまうのはわかるのだが……

 そんな書き方をしていれば、やがて、手痛いしっぺ返しをくらうことになるかもしれない。

 十代、二十代でデビューした作家のように経験でなく感性で書いていると、ライターズ・ブロック(つまり書き詰まり)を起こしやすい。


 反対に、ある程度歳をとってからデビューする作家は、デビュー後数年は多作であることが多い。

 それは、書くべきネタが経験の中で蓄積されているからだ。

 しかし、ネタは無尽蔵ではない。

 おや、と思った「きっかけネタ」を、自分の中で昇華させ、知識を自分を触媒として変化させて、物語グラフの未知の場所に「点を打つ」ようにならなければ、早晩、ライターズ・ブロックに陥ってしまうだろう。

 あるいは、そういった「創作作業に対する侮辱的ルーティンワーク」すらこなせる強靱なハートの持ち主なら、名前のみで、そこそこ売れる駄作を書き続ける老人作家になりはてるかもしれない。

 ご存じのように、海堂氏は現役の医療従事者だ。 

 彼のような「二足のわらじ作家」には、売れなく、書けなくなったら、もといた場所に戻ればよいという、よくいえば余裕、わるくいえば腰掛け的イイカゲンさがある。

 そのお気楽気分が、良いほうに向かっている間は、彼の作品は売れ続けるのかもしれない

p.s.

 気になったことが、もうひとつあった。

 文中に、海堂さんに10の質問というコーナーがある。
 いかにも、自分が聞いて欲しいことを質問させている、というカンジなのだが、その中で、彼は「文体がころころ変わるといわれますが」という質問に答えていた。

 面白いので引用してみよう。

「実は作品によって、意図して文体を変えている。デビュー当初は、最初の七作すべて文体を変え、七色の変化球作家という渾名をもらおうと目論んだ。ところが実際は誰もそう評価してくれず、文体が安定しない変な新人、という意図に反したレッテルをちょうだいしてしまった」

 あの文体って、毎回変わってたんだ!
 その全部が読みにくいというのがすごい。



p.p.s

 もうひとつおまけを。

 よく、新聞記事で、社会派作家(これもイミワカンネー)と称する人々に、昨今の世相や政策を尋ねるものがある。

 しかし、皆さんおそらくご存じのように、概(おおむ)ね、彼らの答えはピンボケで、的外れのものが多い。

 その理由こそが、海堂氏が上で書いている「現実社会と違ってショーセツでは好きなところに点が打てる」からなのだ。

 いつも、手前味噌に好きなトコロに点をうって、現実社会のデータをそこに貼り付けて、社会派小説をデッチ上げている作家(もちろん例外はある)に、動かしようのない社会の分析と今後の予測を尋ねても、イミガナイことに、早く記者たちも気づくべきだと思うのだが……

 あるいは、新聞社側も、そんなことは分かりつつ、紙面を埋め、知名度で顧客の気をひくための客寄せパンダとして、名のある社会派作家に登場願っているのかもしれない。

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2009年10月 2日 (金)

せんとくんに仲間ができた! 〜しかのんトリオ結成か?〜

 奈良平城遷都1300年祭・公式ガイドブックをもらってきました。

 ぱらぱらと中身を見てから、しばらくピアノの上に放りだしていたのですが、どうも何かひっかかる。

 さて、と手にとって、あらためて表紙をみて驚きました。

 あれ、せんとくんの後ろに何かいる!(なんかこっそりと)↓




 しかも、なんだかキショク悪い!

 というか、コワイ!

 人面瘡(じんめんそう)っぽくせんとくんの背中から生えてるみたい。




 ツノが生えているから、せんとくんジュニア?しかし、不犯(ふぼん:異性と交わらない)の仏サマにジュニアがいるわけあらへんし……

 あー、なんだかそのとなりもおかしい。顔は同じだけど、ツノがないし、手も多いし、何か持ってるし……↓




 えーと、確か表紙の説明があるはず……ぱらぱら。

 あった!


表紙のせんとくんの両隣「阿修羅童子(右)」と「鹿坊(左)」は、せんとくんの作者の藪内佐斗司氏が平城遷都1300年祭を盛り上げるために制作したキャラクターです。



 あしゅらどうじ!

 ヤンボー・マーボー、カネボー、シカボー!

 どうせシカボーにするなら、シカノンにしてくれたら良いのに!
  http://blogs.yahoo.co.jp/kabulaya/53878734.html


 モデルは岡本太郎氏かなぁ↓。







 しかし、今回のコレって……あなた、これでもキモカワイイっていえますか?

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眠れよゐこよ 〜人生いかに眠りにつくか〜

 子供の頃、よく夢を見た。悪夢だった。

 うなされて目が覚め、なかなか寝付けないと、祖母がわたしを呼んでこういうのだった。

「どこか遠い深い森を想像して、その上をゆったりと飛んでいくのを思い描きなさい。そうすれば知らぬ間に眠ることができる」

 普段、散文的な言動をする祖母が、この時は別人に思えたものだ。

 それは、ずっと昔、近くに住んでいた金子みすずにあこがれて都会に出てきたブンガク少女のカケラだったのかもしれない。

 あるいは、彼女自身、よくうなされていたので、眠れぬ自分自身をなんとかするために思いついた催眠導入法だったのだろうか。

 幸い、オトナになってから(なっているのか?)のわたしは、夢にうなされることはないが、もし寝付けない時があれば、思い浮かべようと思う光景は用意してある。


 その前に……

 澤木耕太郎氏が、エッセイの中で「人には二種類ある。夢の中で、水中を泳ぐタイプと空を飛び回るタイプだ」と書いている。
 そして「おそらくそれは、生まれ変わる以前の自分の生命形態に依るのだろう。鳥か魚かの」と。
 彼自身はどちらの夢もみないため、友人から「おまえは猿の生まれ変わりなのだろうよ」と揶揄(やゆ)されているのだ、とサゲを決めているが、実はわたしも、空を飛ぶ夢や海を泳ぐ夢を見たことがない。


 わたしにとって(基本的に)海は恐ろしいところだ。

 以前に久米島でダイビング体験をしたことがある。
 その時、水中で呼吸のできる違和感は慣れると快感に変わることを知った。
 以来、ダイビングは好きで、いつでも潜る用意はある。

 およそ、風呂場でホースを使って呼吸をしたことのある者なら(あるよね?)、水圧に逆らって息を吸い込む困難さを知っているだろう。

 だが、今や我々は、圧搾空気とレギュレータの組み合わせで簡単に水中呼吸ができるようになった。
 クストーとガニアンに感謝しなければならない。彼らが1943年にシステムを開発するまで、我々は、海上から長いホースを通じて空気を送ってもらわなければならなかったのだから。

 話が横道にそれた。

 確かに海中で呼吸ができ、自由に動けることは楽しい。

 しかし、水中には、既知の、そして未知の獰猛(どうもう)で巨大な生き物が多数棲息(せいそく)していることを忘れてはならない。

 そいつらが、あの仄暗き水中の深淵から襲ってきたらどうするのだ?

 ヒトは、水中ではサンマやアジにすら運動能力が劣る。逃げられない。

 競泳を見ていつも思うのだが、コンマ01秒を競うため、キテレツなスーツ合戦で体を変形までさせていったい何になるのだろう。

 たしかに、ヒトの中では世界で一番泳ぐのが速いのかもしれないが、生き物をベースに絶対値で考えたら、どんな泳法の金メダリストでも、アジにすら勝てないのだ。
(いやいや、もちろん「人類最速」ということには意味がありますよ)


 以前、コンピュータ専用ゲームの「Alice in Nightmare」に熱中したことがある。「悪夢の国のアリス」というタイトル通り、閉じこめられている精神病院から、不気味なチェシャ猫の案内で、鏡を通って悪夢の世界を旅するアリスのアクションゲームなのだが、作り込まれた3DCGがやたらとリアルだった。

 その、確か第三ステージが川辺で、うかつに水の中に入ると画面を覆い尽くすほど巨大な川魚にぱっくりと食べられてしまうバッド・エンディングがあった。

 最初に、体のほとんどが口のような巨大な魚がイキナリ現れた時は、目もくらむような衝撃を受けたものだった。

 ヌエの鳴く夜は恐ろしい……ではなくて、見知らぬ水辺は恐ろしい。

 そういったことが、川や海の中では起こりそうな気がするため、わたしは広い海の中を泳ぐ想像ができないのだ。(実際に泳ぎだすと不感症になるのか気にならないのだが)


 長らく類人猿の子孫としてやってきた我々の基本フィールドは地上だ。

 平原で獣に襲われたらどうにもならないが、立体物のたくさんある都会やジャングルならどうにかなる(かもしれない、という希望がある)

 空に関していえば……
 煙とナントカ同様、わたしも高いところは好きだが、それはあくまで、しっかりとした土台の上から下を見下ろすのが好きだということだ。

(あの、クレヨンしんちゃんの作者白井義人氏もそうだったのだろうか?彼のカメラに残された最後の写真が崖の上から見下ろしたアングルで、彼の手にはカメラの取れたストラップが残されていたということ、そして、正に「青空サムライ実写版」の公開中の事故という事実は、他のどんな哲学書より哲学的啓示に満ちているような気がする)


 ともかく、地面に足をつけず、つかみ所のない空中をフワフワと浮かぶのは、なんとも頼りなくていけない。


 というわけで、わたしが夢の導入で使うなら地上だ(あー長かった)。


 青い空、輝く太陽、まばらに少し浮かんだ雲、赤茶けた大地、点在する低木、その中をまっすぐ伸びるハイウェイ。

 他に車の影はない。

 その道を、単車ならヘルメットのシールドを上げ、車ならオープンカーで頬に風を受けながらすっ飛ばす。

 基本的に、エンジン音の方が好きなので、運転しながら音楽は聞かないが、あえて鳴らすBGMなら「イージュー★ライダー」

 これならすぐにZZZzzzzz……

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俺たちにはもう住めない 〜ノーカントリー〜




 遅ればせながら「ノーカントリー」を観た。

 暴力の申し子(個人的感想)コーエン兄弟が脚本、監督した作品だ(2007年公開)。

 2007年度第80回アカデミー賞で8部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、助演男優賞、脚色賞を受賞するという華々しい評価と、映画評に関して信頼を置く川村ナヲコ氏も絶賛(「間違いなく私の今年のベスト1です!」)していたため楽しみにしていたのだが、少なくともわたしにとっては、たいしたことのない作品であった。

 何のことはない、コーエン兄弟の過去作「ファーゴ」を一歩も出ていない作風にがっかりしたのだ。

 ある男(ジョシュ・ブローリン)が麻薬のモメゴト現場に遭遇し金を手に入れる。
 そいつを討つためにサイコな殺し屋が雇われ、男を追いはじめるが暴走し、雇い主すら殺して男を追い続ける。
 一方、その事件を、後手後手にまわりながらも追い続ける保安官がいた。


 つまり、これは「サイコ野郎のサイコな殺しオンパレード」の映画なのだ。

 名作コミック「パーム」で、結婚詐欺師の通称「伯爵」の人生を、JB(ジェームズ・ブライアン)が「生まれた時からサギ師で、死ぬまでサギ師だ」と簡潔に評したほどの深みもないあらすじだなこりゃ。



 コーマック・マッカーシーの原作『血と暴力の国』を読んでいないので、断言はできないが、多くの人が感銘を受けたという、作中で語られる「簡潔」かつ「意味深」な警句と、極端に台詞(セリフ)と説明を排した中年男たちの『演技』も、それほどに迫力を感じない上に言葉に含蓄が感じられない。

 その精神の依っている背景が見えず、常識が通じない爬虫類のように冷酷なコロシヤ、というのが、この作品のキモであり、皆が賞賛するポイントなのだろうが、小太りしかも似合わぬ長髪のヲタク的容貌、ハビエル・バルデム演じる殺人者がほとんど怖くないのが致命的だ。

 松永豊和氏のコミック「バクネヤング」の方が遙かに訳が分からず恐ろしい。

 他作品(しかも日本のマンガ!)との比較で、この作品を論じるのは間違っているのかもしれないが、比較せずとも「ノーカントリー」は、ギリギリと人を恐怖で締め付けるような恐ろしさに欠けた人殺し映画なのだ。

 確かに、役者の表情身振り、いわゆる『演技』でじっくり見せることなく、過剰な言葉とオーバーアクションでゲンナリさせる昨今の風潮に真っ向勝負した点は評価できるだろうが、なんのために出てきたかも分からず犬死にする伊達男(ウディ・ハレルソン)や、後半、見せ場もなく冷たくなって地面に転がるジョシュ・ブローリン、なんだか人生に疲れて、昔話と繰り言ばかりくりかえしている保安官トミー・リー・ジョーンズ(しかも彼は結局、殺人者とまみえることすらないのだ)など、まとまりなく、とりとめのないストーリーには、観ていてカタルシスを感じない。

 ラスト、暗殺者の頭上に打ち下ろされた鉄槌が「神の裁き」であるというなら、これこそ、ご都合主義の最たるものといいたくなってしまう。


 とにかく、男たちの演技に「殺伐とした映画なのに神話のような印象を受ける(川島ナヲコ評)」かどうかが、この映画の評価をわけるポイントなのかもしれない。


 劇中の警句?もあまり好きになれない。


 個人的にはこんなの方が好きだな。


「でも、それは本当のことだ。だから俺は行こうと思う」(伸たまき「星の歴史」より)

「逃げてどうなる」「ジジィになれる」(K.K「大都の夢」より)

「そんなに可愛いのに」「それが嫌やねん」(K.K「にぬき」より)

「寝ているあいだ、ネコはこっちで働いているのさ」(K.K「ロボ太と虹の谷」より)

「明るくて見えんが、星は昼も空で輝いている。だが、起きている間は夢をみるな。夢は夜にみるものだ」「モーニングムーンというものがある」「その調子だ」(不明)

「女好きにはふた通りある。女の体だけ好きな奴とアタマも好きな奴だ」「俺は両方とも好きだな」「では、二度と女に近づくな」

「女遊びは構わない、それは魂を傷つけぬから。恋はいけない、魂を傷つけるから」(中里介山)

 ちなみに、この映画は原題を「No country for old men」といいます。

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