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2009年9月

2009年9月27日 (日)

ただ一人の超人が世界を変える 〜ウオッチメン〜




 本屋で「岡田斗司夫氏絶賛」というオビの黄色い原作を見てから(表紙だけね。ビニールに包まれていたから中身は未見)ずっと観たいと思っていた映画を、このたび観ることができました。

 原作はあのヒューゴー賞を受賞した唯一のコミックでもあります。

 監督は、300(スリーハンドレッド)のザック・スナイダーです。


 映画を観る前は、ちらと観た予告で、なんとなくバットマンだとかワンダーウーマンみたいなヒーローたちが殺されるサスペンスモノだと思っていました。

 実際は……まあ、大筋では間違ってはいなかったのですが、そう単純な話ではありません。

 詳しいことは、サイトを検索してもらえれば、公式サイトなりファンサイトで知識を得ることができるでしょうから、ここでは、わたしなりの感想を書いてみます。

 わたしは、気に入った映画は何度か観るクセがあります。

 もちろん、毎回、正座して観るような真似はしません。

 一度目はじっくり観ますが、二度目以降は、BGM的に野球観戦と同時になんとなく流すような観方をします(三時間近い作品ですから)。


 居間には、デジタル・アナログ混在で四台のテレビが並んでいます。
 うち二台は、CSニュースバード等のリアルタイム・ニュース番組や野球放送を常時表示し、一台は、録りためてあるコンピュータ内の動画をリンクシアターで引っ張り出して表示、残り一台は映画をサラウンド音声で表示しています。


 ウオッチメンも、何度か観ている間に、当初は気づかなかった疑問や細かな表現に気づきました。


 時は1985年。ところはアメリカ。
 しかし、歴史的には、アメリカがベトナム戦争に勝利し、ウオーターゲート事件が起こらなかったために、ニクソン大統領が失脚せずに三期再選するという、時間線が我々とは多少違うパラレルワールドとして設定されています。


 登場人物で興味深いのは、なんといっても狂言回したる「ロールシャッハ」でしょう。
 ロールシャッハ・テストに似た文様が、ランダムに動く覆面を被った彼は、他のヒーロー同様、不幸な生い立ち故の異常性を秘めた男に設定されています。
(撮影用の彼のマスクには、スパイダーマン同様、アゴなど、顔の線をきれいに出すために、ただの布でなくプラスティックの型がついているようです)




 彼の場合は、いたいけな少女が異常犯によって殺害され、犯人が遺体を犬に食べさせたことを知って、ニーチェ的に人間に絶望し(神は死んだ!人間への絶望ゆえに……)精神的超人となった、いわゆる極端な二元論(悪か正義か)に基づく激しい性格というわけです。

 彼が悪の側に落ち着かなかったことは賞賛に値します。

 また、ロールシャッハは、最初に殺されたヒーロー(コメディアン)の死の真相を捜査するただひとりの違法ヒーローでもあります。

 ヒーロー達の、法に縛られない正義活動に危機感を持つ世論(これがあながち間違っておらず、コメディアンは国の手先となってケネディを暗殺し、ウオーターゲート事件の記者を殺害した)に後押しされる形で、77年に覆面着用者による自警活動を禁止するキーン条例が制定されたために、ヒーローたちは引退せざるを得ませんでした。

 現在、非合法に活動を続けているのは、正義の人ロールシャッハだけです。


 彼にも増して重要なのは、物語世界を我々の生きるこの世界とは違う異世界にしてしまった全身が青く輝くDr.マンハッタンの存在です。

 この作品で、本当の意味で超人であるのは、Dr.マンハッタン一人です。

 他のヒーローは、オープニングで、引退した老ヒーローが語っていたように、警察官が罪を逃れるために顔を隠して犯罪を犯す者を捕まえるために、自分たちも覆面をしただけの、タダの人に過ぎません。

 いわば、バットマンタイプのヒーローなのですね。




 Dr.マンハッタンの存在が、ベトナム戦争をアメリカの勝利に導き、バットマンそっくりのナイトオウル(フクロウをかたどったマスクってバットマンのマスクに似てるね。あれ、逆か?)が乗る、我々の科学を超えた空中浮遊マシンを産み出しているのです。

 また、同時に彼の存在こそが「ウオッチメン」という物語で起こる事件の原因であり、モチベーションとなっています。

 面白いのは、最初、全身を包むスーツを着ていたマンハッタンが、その超人性ゆえに、人間性を失ってくにつれて、パンツ、ビキニパンツ、全裸と衣服の面積が小さくなっていくことです。



 結論からいえば、この映画のコピーである「ヒーローが次々と殺される」はウソです。

 実際は、コメディアンしか殺されていません。

「ウオッチメン」における1985年時点での世界観を説明しておくと、1959年の核実験事故で生まれたDr.マンハッタンの超能力のため、アメリカはベトナム戦争に勝利した上、彼の産み出す理論によって、科学力がソ連を陵駕していて、二大国の武力均衡は崩れています。

 さらに、何かと問題のあるニクソン大統領が複数回の再選を果たしています。 

 簡単にいえば、ソ連が、Dr.マンハッタンのスーパー・パワーと科学力に対抗するために、必要以上の核を持つようになった上、指導者が無能?な、実際に我々が経験した以上の「核の危機」が世界を覆うようになった陰鬱な「冷戦時代」なわけです。

 人々の関心事は、無数にあるソ連の核ミサイルの恐怖と、Dr.マンハッタンの能力が、本当に、全部のミサイルを無効化できるのだろうかということです。

 繰り返しますが、「ウオッチメン」の世界は、現実の歴史とは違うパラレルワールドです。リアル・ワールドではアメリカはベトナム戦争で敗北し、つまりソ連が勢力を伸ばし、二大国の科学力は拮抗していました。


 こうして、かつてないほど身近に核戦争の危機が迫ったゆえに、ある人物が、その自体を打開するために行動を開始したのです。

 その手始めが、隠蔽すべき事実を知るコメディアンの暗殺でした。

「行う所業は悪なれど、その動機は限りなく無私の善」

 さて、黒幕は誰でしょう?そして、その真の動機は?

 興味がおありなら、是非、本編をごらんください。

 長い映画ですが、案外、すっと見続けることができると思います。

 映像的には、犯人に追い詰められたDr.マンハッタンが、火星にテレポートし、彼の地でガラス製?の動く巨大モニュメントを精神力で作り上げるあたりが素晴らしいですね。


P.S.
 実は、観終わって、あれ、と思いました。
 物語の核の部分が、以前に観た「アウターリミッツ」に酷似していたからです。
 これは、よくある偶然だったようで、原作者自身も類似性は認めているようでした。

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2009年9月26日 (土)

トシとっててガンコでカッコイイ 〜世界最速のインディアン〜

「世界最速のインディアン」を観ました。

 以前より、この映画が、素晴らしい内容であるということは聞いていました。

「ハリーとトント」「ストレイト・ストーリー」「真夜中のカーボーイ」など、ロード・ムービーにハズレはありません。

 この「世界最速〜」もロードムービーです。

 だから、もちろんハズレじゃない。

 あと「イル・ポスティーノ」「山の郵便配達」「ポストマン(ケビン・コスナー版:異論はありましょうが、わたしは好きなんです)」など、郵便配達をテーマにした作品にも外れなし、ということもあったのですが、これは長嶋一茂 主演の「ポストマン」のおかげで例外ができてしまいました……

 それはさておき

 最初、この映画のタイトルを聞いた時、足の速いネイティブ・アメリカンの話だと思いました。

 でも、この映画におけるインディアンは人ではありません。

 またフィクションでもありません。実話です。




 1960年代、ニュージーランド。

 早朝、一人の男が倉庫で目を覚まします。

 いや、実のところ彼は貧乏で、倉庫に毛の生えたような家で寝起きしているのです。

 愛車、20年型(1920年製!)Vツイン・インディアンを倉庫から引き出し、エンジンを空ぶかしして、近隣の住人から怒鳴られます。

 それでも、男は、どんな夢を見たのか、軽い焦燥感に襲われてエンジンを空ぶかしし続ける。

 男はもう若くない。

 彼には夢があり、そのためになけなしの年金を貯めています。

 その夢とは、自分の改造マシンを駆って、アメリカ・ユタ州ソルト・フラッツで行われるスピード大会で世界最高速を出すこと。






 しかし、彼はアメリカに行ったこともなれば、そのための金すら持っていません。


 普段の彼は、貧乏ながら、近所の子供に好かれ、子供以上に少年らしい言動で夢を語り過去を伝えながら、良い兄貴分として日々を過ごしています。


 男の名はバート・マンロー。年齢63歳。

 あの、アンソニー・ホプキンスが、ガンコでマッスグながら、年の功故の柔軟な語り口を持つ老人を楽しそうに演じています。


 レーサーとして、彼に残された時間はもう長くありません。いや、本当なら、もう終わっているといった方がよい年齢でしょう。

 だからこそ、ふと目が覚めた朝など、彼の身は焦燥で焼かれたようになるのです。


 やがて、バートは一念発起しアメリカに向けて旅立ちます。

 ほとんど金を持たない彼の旅は、泣き笑いの連続です。

 しかし……

 この映画は一種の寓話です。

 その証拠に、悪人がひとりもでてきません。

 彼のカンパ・パーティに現れ、スピードの挑戦をいどんだワルガキたちでさえ、彼の旅立ちに際して、仕事で見送りに来られないバイク仲間のかわりに、彼を港までエスコートし、「あんたは速い、必ず優勝する」と激励して去っていくのです。

 彼が困ると誰かが現れ彼を助けます。


 他者の振る舞いは、ある意味自分を映す鏡です。


 船代がないために、バートはコックとして船に乗り込みますが、そこでも、阿(おもね)らず、若い船員たちと友情を育みます。

 この「阿らず」というのが重要です。

 よほどの精神力と心の中心に硬いコアがない限り、見知らぬ場所でやっていく時、人は他者に阿るものです。

 しかし、彼は自分を曲げず折らず、偽らない。

 だから人々は、彼のことが好きになり、彼が困っていることを知ると何とか助けたくなってしまう。

 バートが、毅然として金のないことを恥じず、フランクに自分をさらけ出す魅力的な人物であるからこそ人々は彼を助けるのです。


 ある程度、長く生きて洞察力のある人なら、人の運の量に特別の差異はないことに気づくでしょう。

 交通事故に巻き込まれる、飛行機事故に遭う、偶然世に出て時代の寵児に「なってしまう」。

 そういった「色のない運不運」は万人に公平です。

 しかしながら、努力なしに大きな運を手にすれば、それに見合うマイナスを、自分だけでなく、自分の愛するものすら巻き込んで、支払わなければなりません。


 見かけ上、ひどく幸運な人と、かなり不運な人がいるのは、その人の振る舞いが、プラスマイナスの誤差を呼び込んでいるからです。


 つまり、主人公バートの生き様が、この「世紀のレースへの旅」を幸運なものに変えているのです。


 何かに導かれるように、塩平原(本当に真っ白で、真っ平らで美しい!)に辿りついた彼に、またも難題が降りかかります。

 レースは、あらかじめ申し込まないと参加出来ないのです。

 さて、バートは、レースに参加することができるのでしょうか?



 このブログでも、何回か書いていることですが、かつて流行作家であった故大藪春彦氏の作品をさして、彼の作品からガン(銃)とカー(車)と女をとったら何が残るのだ、という非難がありました。

 わたしは、それに対して、ある評論家(有名作家も同調)が答えた「男の人生、それ以外に何が必要なのだ」という言葉が大好きなのです。

 わたし自身、本当にそう信じているかは自分でも疑問ですが、少なくとも、男のドラマティック(劇的)な人生には、それらは不可欠だとは思います。

「世界最速のインディアン」には、銃こそ出てきませんが、それ以外、スリルもサスペンスも、スピードも重要な要素となって作品世界を作っています。

 もちろん、女性も出てきます。

 魅力的な主人公を、たとえ彼がどんなに歳をとっていたとしても、女性が放っておくわけがないじゃありませんか。

 それについて、ひとこと。

 ある若者が、この映画についての個人の感想で、良い映画だとは思うが、主人公が妙齢の老婦人と一夜を共にするシーンをみて、ショックのあまり映画の良さがわからなくなってしまった、と書いていました。

 わたしも、もっと若ければ、おそらく同様に感じたかもしれません。

 しかし、今やわたしもトシをとり、嵐のように互いを求め合う恋以外に、静かに肌を触れあう愛があることがわかるようになってきました。

 老人たちにこそ、直接的な愛は必要です。
 健康で生きているからこそ、肌を合わせることができる。
 そして、そういった「生きている証」は、老人たちにこそ必要だと思うのです。


「世界最速のインディアン」

 静かで美しい作品ですが、映画を面白くする要素がすべて入っている佳作です。

 何度でも観返したくなる。

 以前にも書きましたが、わたしは、もし自分が何かの肩書きで呼ばれるなら、ほかのどんな大層なものより「ライダー」と呼ばれたい。

 その意味で、生涯をライダーとして過ごしたバート・マンローは、わたしの理想でもあります。


 もしわたしが死んで、体が残っているなら、それと一緒に棺桶に入れてほしいものがいくつかありますが、間違いなくこの映画はそのひとつになるでしょう。

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2009年9月18日 (金)

未来みたいな過去のはなし ウルヴァリンX-MEN ZERO



「ウルヴァリン X-MEN ZERO」を観ました。

 ZEROと銘打たれていることからわかるように、過去に三作作られたX-MENシリーズの成立以前の話、主人公ウルヴァリンが全身の骨格に超合金を注入されて無敵になる映画です。

 同時に、彼が何年生まれで、どういった経歴の持ち主かも、駆け足ながら説明されます。

 観終わって感じるのは、さすがにアクションは超弩級だということです。



 蛇足ながら、超弩級(ちょうドきゅう)の「ド(弩)」は、イギリス海軍が作り上げた戦艦ドレッドノートを意味し、それを超える排水量の巨大戦艦スーパー・ドレッドノート・クラス(つまり英海軍のオライオン級戦艦)を、旧海軍が「超弩級の戦艦」と称して、大艦巨砲時代へ猛進する合い言葉としたことで世間に広まり、転じて「途轍(トテツ)もない」「ものすごい」言葉として使われるようになったとされています。



 とにかく、映像は素晴らしい。

 興味があるなら、家庭の少々大きいテレビ画面でブルーレイを観るより、映画館に足を運ぶことをオススメします。


 観ていて不思議な気がしたのは、時代設定が1979年であるにもかかわらず、雰囲気が、ほとんど現代とかわらなかったことです。

 ふつうは、ちょっとした小物や服装などでレトロ感が出るものですが、そういったものが皆無といってよいほど感じられない。


 先日DVDで観た「ウオッチメン」(これについては、また別に書きます)も同時期の設定でしたが、服装やSF小物で、それなりにレトロ感がでていました。


 ウルヴァリンは、その細胞活性化能力で不老不死という設定になっているために、前三作と同じ容姿なのですが、やはり主演のヒュー・ジャックマンが多少老けているために、なんとなく、あの三部作から後のハナシ、みたいな感じがするのかもしれません。

 ふつうだと、若い頃の話だから若作りメイクして演じるということになって、「無理しているけどがんばってるジャン」と、なんとなく、わたしたちも納得して過去の話だと思いこめるのですが……

 最後にウルヴァリンが戦う舞台が、アメリカ史に残るあの場所というのも、なかなかふるっています。

 Xメンで「全身に合金を埋め込まれている」といわれていましたが、実際は、骨髄内に、宇宙飛来の隕鉄合金を溶かしたものを注入していたとは思いませんでした。

 ご存じのように、骨(骨髄)には、血液を作り出すという重要な役割があります。

 まさに不死身のミュータントならではの身体強化策ですね。

 あと、ウルヴァリンが、鉄の爪を子供の時から出すことができたのも驚きでした。

 しかしそう考えると、骨に合金を流し込んだ後で爪が金属になったのも納得できます。
 ラストであの人物がでてくるのもうれしい驚きでした。 


 あ、あとひとつ。

 この映画は、エンディング・ロールが始まっても席を立ってはいけません。

 まず、1分後ぐらいに、ある映像が挟み込まれ、最後の最後に明らかに続編を示唆する「え、まさか」の映像が表示されるからです。

 わたしが観に行ったマイカルシネマでは、広い劇場の中央部に、わたし以外にカップル3組がいたのです(平日昼間のシネマ・コンプレックス恐るべし)が、2組は早々に席を立ってしまったので、最後のシーンを観たのは、熟年夫婦とわたしだけでした。


 せっかちに出て行った彼らは、あのシーンを観てないんだなぁ。

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2009年9月17日 (木)

カメラを振り回すな! クローバーフィールド




 週末から今週にかけて、まとめてビデオや映画を観ました。

 その感想を書きます。

 まずは、「クローバーフィールド」

 少し前の作品(9/5レンタル開始)ですが、観てしまったからには書いておかなければなりません。

 製作者のJ・J・エイブラムスの指示で「HAKAISHA」と副題がつけられたこの作品は、怪獣が「文化として定着して」いるニッポンのように、アメリカにも怪獣が必要だと考えた彼の「怪獣映画に対するオマージュ」感にあふれています。

 しかし、公開当時から、Youtubeを使ったPRや、引きちぎられた自由の女神の首を東京に持ってくるという、ちょっとあざとい手法が鼻について、いや、なにより手持ちのカムコーダ(つまりビデオカメラ)をドキュメンタリータッチに振り回して撮影しているという噂を聞いて映画館へ観に行く気にはなれませんでした。

 かつて巨大だったカメラが技術革新で驚異的に小さくなり、動かしながら躍動的(だと彼らは錯覚している)に撮影できるようになった。
 だから、パニックに陥ったり、襲撃を受けたりした時の臨場感を出すために、人の目線が揺れるようにカメラを振り回して撮るという手法を好む撮影監督および監督が増えています。

 しかし、それはホーム・ムービーでさえ、もっともやってはいけないことです。

 まして、多くの人が観る映画ではいうまでもありません。

 何が迷惑といって、友人宅を訪ねた際に、延々と上下左右に振り回しつつズームアップ・ダウンを繰り返す運動会ビデオを見せられることほど悪質なものはないのですから。

 わたしは、乗り物酔いなどには強い方なので気分が悪くなったりはしませんが、目が疲れてしまうのです。
 アンジェリーナジョリーの「ウオンテッド」は、DVDは借りたものの、はじめの5分で挫折してしまい、最後まで観ることはできませんでした。


 さて「クローバーフィールド」です。

 内容は、ひとことでいえば、怪獣によって平和な生活を破壊されるニューヨーカーの映画です。


 手法は、おそらくトム・クルーズの「宇宙戦争」からインスパイアされたであろう、民間人の目を通して見る怪獣襲来を「ブレア・ウイッチプロジェクト」で注目された個人所有のカムコーダを通じて長々と撮り続ける、というものです。

 個人の目線で見る怪獣襲来ですから、シャマラン監督の「サイン」のように、登場人物や観客にはロクな情報が与えられません。

 エヴァンゲリヲンに体型の似た(ファンには怒られそうですが)怪獣の姿すら、ビルの合間にちらちらと見える程度です。

 だから、よけいに不安感を煽られる。

 見始めて20分で、わたしは完全に取り込まれてしまいました。

 はじめの10分程度は退屈です。

 パーティー会場で、トーキョーに栄転する男(主人公)にわたすグッバイ・メッセージを、ちょっと抜けた男(友人)が撮り続けるだけで面白くも何ともない……のですが、後半、ここで示される人間関係が大きなウエイトを占めるようになってきます。

 さらに、このパーティーで交わされた言葉のために、怪獣出現で危険地帯となったマンハッタンを主人公は離れられなくなってしまうのです。

 ビデオ映像は、全編通じて、すでに記録されてあるビデオテープに上書きされているため、カメラが衝撃を受けたり、一旦停止するたびに、以前に撮られた平和で甘い恋人との映像が少ずつ映されるのもウマイ。

 あの時はこんなに平和だったのに、と思わせるのですね。


 あーあ、引き込まれてしまった。


 こうなってくると、カメラ振り回しも、臨場感を倍増させるためのテクニック以外のなにものでもなくなってきます。

 映像の冒頭で示される「事件目撃記録:かつてマンハッタンと呼ばれた土地で発見されたテープ:暗号名クローバーフィールド」という冷たい印象のインデックスも、物語の悲劇的結末を予感させます。

 そして、ラスト……

 ぜひ、多くの人に観てもらいたい作品ですが、上に書いたように、カメラが振り回されるために、酔いやすい体質の方には少しばかり酷かもしれません。

 製作者の日本の怪獣映画に対する愛着、リスペクトには並々ならぬものがあって、画面がフェードアウトしてから徐々に聞こえてくるテーマ局は、日本のSF映画音楽の雄、伊福部氏のゴジラそっくりです。ちょっと日本的すぎて、今までみていたニューヨークのハナシとは違和感すら感じるほどです。 


 あと、DVDでご覧になられたなら、ぜひ気をつけて見てください。
 ラスト数秒前、コニーアイランドで恋人と乗った観覧車から撮影される海景色の真ん中右側を。
 一度しか観ることのできない映画館では、まず気づかない、しかし重要なシーンが映って撮っていますから。



 続編は諸事情から頓挫(とんざ)しているようですが、一部に、主人公が行く(予定)のニッポンが舞台となるという噂が流れていました。

 外国人から観た(ちょっとピンボケ)ブラックレイン的ニッポン(「ニックサン!」)で展開する「クローバーフィールド」ワールドを、観てみたいような、そうでないようなフクザツな気分です。

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2009年9月 6日 (日)

神の目 トイカメラ

 世の中には、「トイカメラ」と呼ばれるカメラがあります。

 オモチャのようにチープなつくり、おまけに廉価(れんか)で、マクドナルド・カラーのように原色でおもちゃオモチャしたデザインのものから、往年のライカなどを模して、重厚な作りながらワザとオモチャ風にデフォルメしたものまで、さまざまなタイプが発売されています。

 しかし、なんといってもその特徴は、安さゆえの部品のバラツキによって、ひとつひとつの光学特性にあり得ないムラがある(意味不明?)、どころか、同じカメラで同じ被写体を撮ってさえ、違う風合いに仕上がる「神のきまぐれ」ともいうべき映り具合にあります。




 代表的なものは中国製のHOLGAなどですが、

「ペラッペラの総プラスティック製のため軽すぎて手ぶれしまくり」

「あるまじきタテツケの悪さから、スキマから光漏れして撮影前にフィルム感光しまくり」

「付属するストラップは使うなと説明書に書かれてある(蓋ごと取れるらしい)」

といったアンビリーバブルのかたまりでありながら、その出来上がる写真の中には、「なんちゃってカメラ」と呼ぶことが、ためらわれる秀逸なものがあるのです。

 他には、旧ソ連で、正規?のカメラとして作られていたものの、日本製などのマットウなカメラ(タイクツなカメラともいえます)に押されて、売れ行きが落ち込みながらも、そのデキの悪さゆえ、トイカメラとして復活を果たしたLOMOなどがあります。

 しかし、これらフィルムで撮るカメラは、現像、焼き増しといったコストがかかるため、気軽に手を出すことをためらう人も多かったのです。

 そこで、トイカメラのデジタル版が発売されました。値段は4千円あまり。

 VISTA QUESTが代表的なものですが、要するにフイルムのかわりにCMOS受光素子でデジタル化するトイカメラです。


 レンズのムラもチープさもだらしなさも全てトイカメラそのもの。

 画素数は130万画素(200万画素のものもアリ)で、フラッシュはなし。

 内蔵メモリはあるものの、電池(単四一本)が切れると即成仏するために、通常は、SDメモリを差し込んで使います(カメラ本体の大きさ自体、ほとんどメモリと変わりません)。

 ファインダーは、ちゃちなプラスチック製の枠のみ。
 もちろん撮影後に確認する液晶などなし。

 つまり、フィルムカメラと同じく、出来上がる(コンピュータに吸い出して確認する)まで、デキがわからないというデンジャラスなカメラです。


 それで思い出しました。

 トイカメラでもないのに、偏った光学特性だった高価なカメラを。

 ポラロイドカメラです。

 ご存じでしょうか?

 撮影するとカメラの下から印画紙が出て、それを振っていると徐々に画像が浮かび上がる。

 旅先などで現地の人と一緒に写真を撮って、下の余白部分に住所を書いて渡すと喜ばれるカメラですね。

 いまや、発売中止となってしまったポラロイドですが(チェキはあるのかな)、感光後即時発色という無茶な化学変化のために、ホワイトバランスや、色の偏りなどは、かなり特徴的で、まるでトイカメラの画像のようでした。

 実は、iphoneのアプリケーションには、普通の写真に、ポラロイド風の色変化をさせるものがあります。

 まずはごらんください。

 これが




こうなります。




 なんとなく、下の方が味がありますね。


 かつて、カメラは芸術ではなく、風景・人物を正確に記録するためのキカイとして世に生まれました。

 やがて風景を正確に切り取ることに躍起(やっき)となっていた光学器メーカーもユーザーも、芸術の道具としてのカメラの価値に気づき、徐々にその扱いを変えていきます。

 そしてついに(特にカメラユーザーは)、野球でいうナックル・ボールのように投げてみるまではどんな球筋なのかわからない、撮ってみるまではどんな画像なのかわからない不随意なカメラの存在を許すほどの成熟を果たしたのでしょう。

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2009年9月 5日 (土)

数値で知りたい計りたい

 ずいぶん前のことですが、単車のスピードメーターが動かなくなりました。

 忙しかったので、しばらくそのまま乗っていたのですが(整備不良は道交法違反です。よゐ子は真似しちゃだめ!)、最初に困ったのは、ガソリンの給油時期がわかりにくくなったことです。

 原付はもちろん、最近の大型スクーターなどには燃料ゲージがついているものが多いでしょうが、わたしが乗っているオーソドックスなバイクには、そんな気の利いたものはついていません。

 ご存じでしょうが、そういったノン・メーターの単車には、ガソリン・タンクの下に通常と予備(リザーブ)の切り替えコックがついていて、ガス欠になるとそのコックを切り替えて、15キロ程度走ることができます。

 ガス欠になってから、リザーブでスタンドまでたどりつけるようになっているのですね。

 これは緊急避難的な対策なので、今、どの程度燃料が残っているかはわかりません。

 戦前から連綿と続く、ガソリンタンクを揺すってみて、そのチャップン音からガソリンの残量を知るという王道もありますが、イマイチ正確ではありません。


 満タンにしても8リッター程度ですので、まめに入れる気にもなりません。
 せっかくスタンドに行っても、2リッター程度しか給油できないなら手間の方が大きいからです。

 そこで、とにかくリザーブになるまで乗って、エンジンがガス欠で息切れしてから、リザーブにコックを切り替え、ガス・スタンドに向かうという方法をとりました。


 しかし、このやり方には落とし穴があります。

 世の中には悪いヒトいるのです。

 駐車している単車に対して、いたずらにキル・スイッチ(エンジンの緊急停止スイッチ)をいれたり、シフトを一速にいれたり、あまつさえ燃料コックを「リザーブ」に切り替えておくヤカラが。

 単車に乗り始めた高校生のころ、それで痛い目にあいました。

 ガス欠になったので、リザーブにしようと燃料コックをみたら、すでにリザーブになっていたのです。

 おかげで、何キロもの道を、単車をおして歩かねばなりませんでした。

 以来、エンジンをかける際には、必ず燃料コックが「走行」になっていることをチェックするようになりましたが、それでも、いつもリザーブになるまで走ることには若干の不安と抵抗があります。

 スピードメーター下にある距離積算計さえ動いていれば、「およそ200キロで給油」といった目安がつかえ、いままでは それを基準に給油していたのです。


 メーターが動かない原因は、前輪とメータをつなぐワイヤーケーブルが切れていたことでした。

 しばらく前に、タイヤを交換してもらった時に、ワイヤー止めをきつく締めすぎてインナーワイヤーの通る管(アウターワイヤー)が変形して、中でインナーが回転できなくなってねじ切れていたのです。

 結局、ディーラーに取り寄せてもらったワイヤーを自分で交換して、メーターは復活しました。

 修理してみて、あらためて気づいたのは、メーターが壊れている間は、なんとなく単車に乗ることが億劫(おっくう)になっていたことです。


 正直にいえば、自分が「いまこの瞬間何キロで走り、今日、何キロ走ったか」は、必ずしも不可欠な要素ではありません(イヤイヤ違反だって)。

 単車で走りながら、終始メーターに目をやることはできませんから。

 前後に自動車があれば、それにあわせて安全な速度で走りますし、単独で走る時には、かえってメーターがあった時より、ゆっくり走っていたほどです。

 それでも、メーター類が正常に動くと、なんとなく安心できるのですね(だから違反だって)。

 それは、「今、現在の自分の行動がどんなもの」であり「これまではどうだった」かが数値でわかるからなのかもしれません。

 その意味で、ジョギングやウオーキングなども、万歩計をもって行った方が、やり甲斐があるのだと思います。

 今さら気づきましたが、どうやら、わたしは計測好きなようです。

 ケツ子たちの体重は毎週必ず計測して記録していますし、彼女たちの餌は、日に四回、きっちりと秤(はかり)で計って与えています。

 これなどは、おそらく数値で把握することで、健康という無形のものを、しっかり把握できる安心感があるからでしょう。

 このように、数値化というのは、形のないものを実体化してとらえる一方法だから、ひとは(いえ、わたしには)メーターが好きなのです。


 閑話休題、

 iphoneには、フリーソフトで、GPSを用いて位置を計測し、記録してくれるランニング・ウオーキングトレーナーがあります。

 このソフトを起動させてトレーニングすると、計測後、アップロードされるサイトで、地図に重ねた経路、距離、高度変化、瞬間速度、平均速度、消費カロリーを確認することができます。

 あるいは、こういった「数値で知りたがり癖」「それを記録したがり癖」は、日々、無為に過ぎていく人生を、いくばくかでも残したいという気持ちの表れかもしれません。

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2009年9月 3日 (木)

泣く女 〜サマーウオーズ〜

 以前、知人から「最近の子供は、顔を覆って泣かないんですよ」と聞いたことがあります。

 京都の大学院を出て、今は北海道で教鞭をとりながら研究発表をしている彼女がいうには、自分たちが子供の頃は、泣くときは目を覆いながら泣いたものだが、今の子供たち(若者を含めて)は、顔をまともにこちらに向けながら、涙を拭いもせずに、ただ滂沱(ぼうだ)と泣くのだそうです。

 いくつか原因はあるでしょうが、おそらくはコミックやテレビドラマの影響が主因だと思うので、そのことについて近々論文にまとめようと思う、と彼女は語っていました。

 基本的にわたしは子供との接触がないので、当時は、そのハナシがピンときませんでした。


 なぜ、今、こんなことを書き始めたかというと、現在、封切られている細田守監督のアニメーション「サマーウオーズ」の予告で、ヒロインがそういった、含羞(がんしゅう)のない醜い「幼児」泣き方をしているのを目にしたからです。




 その時、初めて「ああ、彼女がいっていたのは、このことだったのか」と合点(がてん)がいきました。

 そういえば、細田氏は、前作「時をかける少女」でも、ヒロインにそんな泣き方をさせていましたね、忘れていました。



 唐突ですが、日本で、外国人歌手が人気を博するのはなぜか知っていますか?

 古くはアグネス・チャン、欧陽菲菲や桂銀淑など、かつて外国人女性歌手には人気がありました。


 その理由(仮説ですが)を、以前に読んだことがあります。

 なんでも、日本人(特に男性)は、外国人女性歌手の拙(つたな)い日本語に幼児性を感じて愛着を持つからだそうです。


 いわゆる「ロリコン趣味」を刺激されるというのですね。

 その真偽はわかりませんが、もしそうであるなら、細田監督は、そういった傾向をもつ男性ファンを獲得するために、意識的に上記「幼児泣き」をヒロインに演じ?させているのかもしれません。

 無意識にそれを好んでいるなら、彼がそういった傾向の男だということでしょうか。


 個人的に、そういった泣き方や、自分のことを名前で呼んだりする「トシに似合わぬ幼児性」は、あまり好ましくないことだとは思います。



 泣き顔についてのハナシは、突き詰めると、泣き顔を美しいと思うか否かにかかってくるのでしょう。


 幼児は「泣き顔の美醜」など考えないから顔も隠さない。


 昔は、みっともないから、泣くときは顔を覆いなさいと教えられました。

 唾、涎、鼻水、涙、ゲップ、その他排泄物などを、身体から出す瞬間を見せるものではない、という考えかたが、かつての日本にはあったのですね。

 今は、それが自然なんだから、特に泣くことなんかは恥ずかしがることはない、といった風潮もあるようです。「自然が一番」イズムが広がり過ぎたのかもしれません。

 あるいは、かつて、旧弊(だと思えた親から)うるさくしつけられたコドモたちが大人になって、そんなルールはやめちまえ、自然なほうが良いさと、子供たちに「泣き方」を教えずにきて、その子供たちが成人してしまった、というのが真実なのかも知れません。


 個人的には、ゆがんだ泣き顔を、目の前につきつけるのはカンベンしてほしいですね。

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2009年9月 2日 (水)

ですが……なので……だからどうよ 真マジンガー

 書きたいことは山のようにあるのに、気がつけば、いつの間にか二週間近くブログ更新ができませんでした。

 それは、わたしが選挙運動に邁進していたから……なわけはなく、ただ怠慢だっただけです。


 ヒマヒマに、「ルナティック・ドール」以前のハナシのプロットを作ったり、時代物を書いてはいますが、そんなことはいいわけにはなりません。


 まあ、わたしの偏ったはなしを待っている人は、ほとんどいないでしょうから問題はないでしょう。



 さて、久しぶりの更新なので、テンションをあげていきます。



 ですが……


 なんて、唐突に「逆接」を持ち出す言葉の使い方をしているのを、最近よく見かけます。

 スポーツ選手たちや芸能人だけでなく、言葉が専門のはずのアナウンサーまでもが使っているからタチが悪い。

 そういえば、先日、某女性党首も使っていたなぁ。


 しかしながら、突然「ですが」といわれても、「(ナニユエ)ですが」なのかがわからない。

 妙に紋切(もんき)り型であるだけに、耳にひっかかりますね。



 なので……


 これも、よく使われている。


 ある事柄を述べて一呼吸置き、「ですが」「なので」と続ける。

 本来ならば、「そういったわけで」「もちろんそれはそうなのですが」と丁寧にいうべきところを、短い言葉でつないでしまう。


 わたしは、最近まで、地上波テレビはほとんど観なかったので、あまり自信をもって断言はできないのですが、こういった言い方を、はっきりと意識的に使い始めたのは、今川泰宏監版「ジャイアントロボ」においてだったように思います。

 この作品に影響を受けた芸能人が使いだした言葉を、ある程度英語教育を受けた人が、but、soの日本語訳的に近いことを面白がり、かつ押韻(おういん)したようなテンポも気に入って使うようになり広まったのではないか、と個人的に推測しているのです。


 まあ、少なくとも、わたし自身は使わないし、使いたくはありませんが。




 映画なり、ドラマなり、アニメなりが、成功するということは、ある意味、そのハナシから何らかの言葉が流行語になるということがあります。

 だから、時に制作者たちは、意図的に変わった表現を役者に使わせてみせる。

 さすがに「コールセンターの恋人」でとってつけたように使われる「ということです」は流行らないでしょうが。


 しかし、わたしに関していえば、その作品が「自分の中で本当に立った作品であるかどうか」は、その作品をヒトコトで代表させることができるモノが存在するかどうかにかかっています。

 特に、特撮やアニメなどではその傾向が強い。

 たとえば「ライダー・キック」

 これはいわずと知れた仮面ライダーです。

 ライダーには、「ヘンシン!」というものもありますが、これは、あまりにも亜流を生み出したために「ヘンシン」だけで仮面ライダーを特定できなくなってしまいました。

 「デッビール」といえば「デビルマン」(テレビ版)。

 まあ、変身時のかけ声や、必殺技発動時の叫びが多いわけです。

 おかげで、黎明期(れいめいき)の番組によっては、はじめは無言で技を出していたのに、途中から技名を叫ぶようになったものも多いようです。


 逆におたずねしましょう。

 ベルトといえば? まあ「ライダーベルト(仮面ライダー)」でしょう。

「科学忍法火の鳥」といえば「ガッチャマン」

「愛のムチ」といえば「ゼンダマン」

「オリハルコン」といえば「海のトリトン」かな。


 では「ロケットパンチ」といえば? これはもう間違いなく「マジンガーZ」です。

 さあ、やっと今回のテーマにたどり着きました。

 今、土曜日の深夜に、さきの今川監督の「マジンガーZ」のリメイク「真マジンガー」が放映されています。

 第一回のタイトルが「大団円」(つまりエピローグ)。

 ドクターヘルが死に、(原作通りに)ブロッケン伯爵とアシュラ男爵が同時に散って、ゴーゴン大公が吠え、金色に輝く全能神ゼウス(Zマジンガー)までが登場するというムチャクチャぶり。

 原作者の永井豪自信をして「予想もしない展開で楽しみ」といわしめた力業(ちからわざ)です。

 今回のシリーズで、何が一番すばらしいかというと、「あばりし一家」の菊之助(知っている人だけ頷いて)の年をとった姿(ハレンチ学園の最終回で登場する老婆姿の十兵衛と同じ)である「お菊さん」が異常な反応速度を持つ超人として現れること……ではなくて、クール・ビューティーである金髪アンドロイドのガミアが裸エプロン姿を披露する……ことでもなくて、マジンガーZ自身を「巨大な一本のロケットパンチに変形させる」というアイデアです。

 これで「中身はどうあれ」、このシリーズの成功は八割方決まったようなものです。

 マジンガーといえばロケットパンチ、ロケットパンチといえばマジンガーですから。

 だからこそ、「ふつうじゃあり得ない」、巨大ロボット自身を、もっと巨大なゼウス神の片腕の大きさのロケットパンチにしてしまう、という発想がすばらしい。

 しかも、大空はばたく紅の翼:ジェット・スクランダーではなく、ゼウス神の腕から作られた神の翼:ゴッド・スクランダーが変形して、「ビッグバン・パンチ」(ジャイアント・ロボにおける中将長官が命と引き替えに撃つ無敵のパンチと同じ名前)になるのですから。

 原作では、はっきりと描かれなかったはずの「なぜミケーネに巨大ロボットが眠っていたのか」ということの説明として、今川監督は、太古の昔、地球は、宇宙を二分する勢力の戦争における補給基地(惑星)だった、という設定になっており、ドサクサに紛れて地球を支配しようとした小役人(つまり「神という名の巨大ロボット」の頭脳になれるほど功績をあげていない、ただのミケーネ人)、ゴーゴン大公と二人の男女に分かれていた頃のあしゅら男爵から、ゼウス神がたったひとりで地球を守ったのだという設定をとっています。

 ゴーゴンはともかく、さすがに、あしゅら男爵が、もともと「トリスタンとイゾルデ」という夫婦だったという設定には笑ってしまいましたが(ワーグナーですか)……


 超人好きの今川氏によって、衝撃波すら手から発するようになったあしゅら男爵や、バイオレンス・ジャックに登場する小柄な「ジム・マジンガ」を呪術師ピグマン子爵としているのも吉。

 微妙に世界観の違う役者を多数とりこみつつ、自分の世界観を貫くのは、今川氏の真骨頂といえます。


 最近の放映で、暴走したマジンガーの変形した姿が「あの」魔王ダンテであったことも特筆しておかねばなりません。


 と、このように、多くの永井豪作品を組み合わせて作られている「真マジンガー」ですが、それゆえの懸念もあります。


 まさか、バイオレンスジャックみたいに、「終わってみればデビルマン」じゃないよね、という懸念が。


 そうならないように祈りながら、最終回までの数話を待っているこのごろです。

(ちなみに、わたしは田舎に住んでいるので、直接テレビ放映は視聴できません。放映終了直後から一週間行われるバンダイチャンネルのネット配信
http://www.b-ch.com/
で観ています。第一回はいつでも視聴可能)


 なろうことなら、最終回までに「アニマル・ケダマン」を出してほしいなぁ。

 ですが……

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