漕げよ!マイケル 〜真実のマイケル・ジャクソン〜
2009年6月25日にマイケル・ジャクソンが死んでから、連日おこなわれる報道をみていて、何かわからない小さい棘のような違和感が、チクチクと胸にささって気持ち悪かったが、東京毎日新聞学芸部の川崎 浩氏の署名記事を読んで、そのかなり多くの違和感が解消された。
いわゆる「我が意を得たり」というヤツである。
以下、川崎氏の意見に、わたしの考えを加えて、娯楽音楽の踊神マイケル・ジャクソン(以下、マイケル)について書いてみようと思う。
氏が、洪水のようにあふれ出る外電の中で注目したのは、マイケルが、7月予定のロンドン公演に医師の帯同を要求し、なぜ?と問われて答えた言葉だった。
「僕はマシンだ。だからちゃんとオイルを差してくれ」
この言葉のオオモトは、おそらく78年に、マイケルが信を置く数少ない友人の一人、ダイアナ・ロスが出演したミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのリメイク)に、かかしの役で出演した際に、仲間のブリキ男が歌った「オイルを差して」だろうと川崎氏は考えている。
マイケルの人生を鑑(かんが)みるに、彼は自分自身を映画で演じた「頭のないかかし」ではなく、中身ががらんどうで「心のないブリキ男」にたとえて考えていたのだろう、と。
それはそれで正しいと思うが、わたしとしては、マイケルがブリキ男の言葉を引用した、ということより、その中の「僕はマシンだ」という言葉によりひっかかりを感じる。
氏はいう。
「マイケルが歌と踊りの上手なだけの黒人エンターティナーであったら、訃報が日本の新聞の一面に載ることはなかったであろう。(中略)つまり、マイケルは『音楽以外の何か』を持っていたということである」
さらに、氏は続ける。
(奇行や整形、巨万の富など)マイケルよりすごい連中は世の中にたくさんいる、だがマイケルは「ニュースのための存在」として生かされたのではないか。
(奇行や整形、巨万の富など)マイケルよりすごい連中は世の中にたくさんいる、だがマイケルは「ニュースのための存在」として生かされたのではないか。
氏が、(現在の)人気音楽家のコメントを得ようとしたところ、ほとんどが断られてしまったという。
30歳以下のミュージシャンにとって、マイケルを「よく知らない」のは事実だろう。
笑わせるのは、「マイケルを知った時にはすでに白人だった」というコメントだが、悲しいのは、ディズニーのアトラクション「キャプテンEO」で見ただけ、という答えだ。
つまり、ミュージシャンとしてのマイケルは『その程度』だったのだ。
もちろん、フレッド・アステアなみに、ポピュラーダンスの偉大な変革を成し遂げ、映像と音楽の融合を成し遂げ、ミュージッククリップを映画なみのクオリティにした功績は大きい。
(そういえば、同じ振り付けのダンスを群舞しながら、一人だけ際だつのはアステアと同じだ)
(そういえば、同じ振り付けのダンスを群舞しながら、一人だけ際だつのはアステアと同じだ)
しかしそれらはすべて80年代のこと。
さらに氏は続ける。
「マイケルの芸に対するコアなファンはいる。飽きた人もいる。それが流行というものである。流行が去れば、芸能人は自分が作った歴史を大切にして悠々自適の生活をすればいいだけである。だがマイケルはそうしなかったし、そうならなかった」
社会は、マイケルを「好きなときにいじくって遊ぶことのできる玩具」、「緊張した社会の安全弁」として使おうとした。それは「人気」というより「罰」としての相貌が強い。
悲しいことに、、極端な整形、皮膚の白色化および家族との不和、ネバーランドの構築等、マイケル自身もそれに応えてしまった側面がある。
つまり「マイケルはその環境を終(つい)の棲家(すみか)とした」のだ。
こうした、いくら岩を押し上げても、すぐに滑り落ちて元に戻ってしまう、ギリシア神話のシーシュポスに似た永遠の苦役をマイケルに押しつけたゼウス神はいったい誰なのか?
エンターティンメント業界か、メディアか、大衆か?マイケル本人か?そのすべてか?
スターであり続けるためには、「プライバシー情報の大岩」を転がし続けなければならない。どんな目に遭っても、反論することも、逃げ出すことも許されない。
スターであり続けるためには、「プライバシー情報の大岩」を転がし続けなければならない。どんな目に遭っても、反論することも、逃げ出すことも許されない。
そして、氏は記事を「さすがにそこで生きていくためには、マイケルはかかしとブリキ男にならざるを得なかったのではないか」と締めくくっている。
その通りだとわたしも思う。
ただ、氏の考えに付け加えれば、先に書いたマイケルの言葉、
「僕はマシンだ。だからちゃんとオイルを差してくれ」
には個人的に少しだけ別な意味があるような気がしている。
たしかに、マイケルはそういった、アルベルト・カミュの著した「シーシュポスの神話」あるいは「賽(さい)の河原の石積み」に似た無益な無限労働を甘受していただろう。
しかし、泳ぎ続けないと呼吸のできないサメと同様、注目され続けないと生き続けることのできない、人の注視をタンタロスのように求める芸能人にとって、それはさほど苦痛ではなかったのではないか。
なれば、マイケルは、自分を社会のオモチャとして考えるのではなく、大きな社会というカラクリを動かす(比較的大きな)歯車として自分をとらえていたのではないか?
ボクをうまく使いたいなら、適当にメンテナンスをして油を差して欲しい。
さもないとボクは壊れちゃうよ。ボクのように使いやすい歯車がなくなったらみんな困るんじゃないかな?
家族というカラクリの一部に成り得なかった孤独な天才少年は、自身を社会の歯車の一部と考えることで社会とかかわり、孤独と折り合いを付けていたような気がしてならないのだ。
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