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2009年7月

2009年7月31日 (金)

英語耳判断 〜不思議な第3惑星〜

 初期設定で、iphoneにはロクな着信音が入っていないので、コンピュータによる音声合成、あるいは生声をボコーダーで変形、音楽とのミックスダウン、ビデオからの一部抜粋などを駆使して、いろいろと着信音(メロディ?)を作っています。


 お、久しぶりに友人が遊びにくるというメールが入りました。

 彼に敬意を表して、はるか以前に彼から教えてもらった、デーモン小暮閣下(友人談)の「不思議な第3惑星」で着信メロディを作成し、彼専用の着信音に設定しました。

 そして、近くに来たら電話をしろ、とメールを打ちました。

 これで、彼から着信があると「不思議な第三惑星のサビ」が流れるはずです。





 さて、80キロ近くの道のりを高速をすっとばして彼が来るまで、少し余談をしましょう。


 英語の学習で、(わりかしネィティブっぽい発音の)英語を日本語読みで覚えるという方法がありますね。


例)What do you say?  → わだやせい

 あるいは、ちょっと恥ずかしけど……

例)What time is it now?  → 掘ったイモいじったな

 など。


 かつて、深夜ラジオで笑福亭鶴光が「この歌はこんな風に聞こえる」なんてコーナーを作っていたこともあります。


 このように、「英語耳」でない「日本語耳」しか持たぬ我々一般人が、漫然と英語を聴いていれば、ところどころ日本語のように聞こえる部分があります。

 キラー・クイーンのサビが「キラー・クイーン がんばーれタブチー」と聞こえるのもそれですね。


 そういった「空耳」は世にあふれています。



 さて、ご存じの方もおられるでしょうが、二十世紀末に活躍したグループ「聖飢魔2(ホントはローマ数字)」の作品である「不思議な第3惑星」は、英語歌詞の名作です。


「閣下の最新学歴(最終、ではない、何せ10億歳を超える悪魔だから)である早稲田大学での研鑽(社会学科だけど)を生かした英語歌詞」(友人談)は、


Want some beat?
Want some beat?
Talk at a sheep, shall (the) bull leads to care? 
Want some beat?
Want some beat?
Talk at a sheep, know me! Come in!

(訳)
  ビートが欲しいだろう?
  ビートが欲しいだろう?
  信者に語りかけよ 神の教書は保護に導くかい?
  ビートが欲しいだろう?
  ビートが欲しいだろう?
  信者に語りかけよ 私を知れ 私のもとに入れ


という、いかにも悪魔的な歌詞なのですが、日本語耳で聞くと、


    わさび わさび 唐辛子 しゃぶりつけ
    わさび わさび 唐辛子 飲み込め

となるのですね。

 論より証拠、わたしの好きだったサンライズのアニメ「ミスター味っ子(初代)」の画をバックにした動画があるので、ぜひ、ごらんください。







 わさび わさび 唐辛子 しゃぶりつけ
 わさび わさび 唐辛子 飲み込め
 俺のお寿司に わさびを たっぷり
 鼻に凄く効くぜ おゝ 来た もう駄目

  月曜日 月曜日 朝は眠いぜ
  月曜日 月曜日 金土日 商売繁盛
  夕方遊びたい しゃらくせぇ しゃらくせぇ
  俺は月曜日が 大嫌い 大嫌い

 出鱈目 訳の分かんない 様式美
 出鱈目 不思議な第三惑星

 ご隠居さん ご隠居さん 禿爺々 くたばれ
 ご隠居さん ご隠居さん 禿爺々 糞婆々
 お前さんにゃ 禿がある おデブ おデブ
 化けて出たような お釜 お釜

 出鱈目 訳の分かんない 様式美
 何でもない どうせヘビメタ聴き取れない
 出鱈目 不思議な第三惑星


 これをどちらに聞こえるかで、あなたの英語耳度(あるいは日本語耳度)が判断できるのではないでしょうか?



 あ、友人から電話がかかってきました…………え、非通知?

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2009年7月27日 (月)

ダイヤモンドリングは給料の三ヶ月分 〜皆既日蝕〜

 また、しばらくブログ書きが滞(とどこお)ってしまいました。

 正に、iphone恐るべし!

 汲めど尽くせぬ内容の深さに、個人的な時間がまったくなくなってしまいました。

 特にアプリケーションは面白いですねぇ。

 囲碁ソフトも結構強いし、無料の単機能ソフトを片っ端からインストールして触っていると、時間を忘れてしまいます。

 そのソフトの一つに、巷間(こうかん)なにかと噂のtwitter管理ソフトがあって、試しに使ってみましたが……いや、それは項をあらためて書くことにします。

 で、タイトルですが、間違いじゃありません。

「怪奇日蝕」

 個人的に、ブラックホールなどの「遙か彼方のヒュージな天体現象」は好きですが、「目に見える天体現象」つまり日蝕や月蝕、季節性流星群や彗星(すいせい)には、あまり関心がないので、今回の狂詩曲(ラプソディ)ともいえる世間の熱狂ぶりには少し驚いていました。

 チナミに、食ではなく蝕を使うのは個人的な好みです(当用漢字食をアテる前は蝕を使っていた)。

 なんていいながらも、前日には、明朝、珍しく出かける予定があるにもかかわらず、古いモノクロネガ(のブラック部分)を引っぱりだし、ティッシュボックスを利用した厚紙をくりぬいたものに貼り付け、これで準備万端怠りないぜ、なんて考えていたのですからイイカゲンなものです。

(もちろん、ネガの黒いヤツだけでは紫外線を遮らないために眼を痛めます。光量が少ない分、瞳孔が開きすぎて、大量の紫外線を網膜に浴びるためです。紫外線カットなしの黒すぎるサングラスが眼に悪いといわれる所以ですね)

 翌日は、朝から大雨だったのですが、ちょうど出かける午前10時過ぎ、クルマに乗り込む一瞬の間隙(かんげき)を縫うように太陽が照りつけたために、かねて用意の太陽グラスを紫外線カット処理されたメガネに重ねて太陽をみると、お腹をすかせた旅人にかじられたアンパンマンの頭のように丸く欠けた太陽を観ることができました。

 と、ここまでは前フリです(いつもながら前置きが長い!)。


 なんか、ダイヤモンドリングっていわれると、そう見えてきますね↑


 さて、皆さん、怪奇、じゃなくて「皆既日食」と「金環食」の違いをご存じでしょうか?

 皆さんご承知のように、日蝕は、月蝕同様、「太陽」と「月」と「地球」の位置関係で起こります。

 えーと、図を書いても良いのですが、まあ言葉でも大丈夫でしょう。

 太陽→地球→月の順番に一直線に並ぶと、太陽の光を地球が遮(さえぎ)るために、自分で発光していない月は、光を失って月蝕が発生します。

 同様に、太陽→月→地球と一直線に並ぶと、地球上の「太陽が月によって遮られる部分」つまり「月の影の部分」で、日蝕を観ることができる。

 しかぁし、問題は、「月の地球のまわりを回る軌道」と「地球が太陽のまわりを回る軌道(黄道)」が楕円軌道だということです。

 つまり、時期によっては「地球が太陽から遠く「月が地球に近い」ことがある。

 「太陽が小さく見え」て、「月が大きく見える」のですね。

 太陽→(遠い)→月(近い)→地球

 この場合、太陽は完全に月によって隠されてしまいます→皆既日蝕


 逆に、「太陽が地球に近く」「月が地球から遠い」と、

「太陽が大きく見え」て「月が小さく見え」てしまう。

 太陽→(近い)→月→(遠い)→地球

 すると、太陽が月によって完全に隠れることができずに、太陽のヘリだけが、月の外にハミダシてしまうのですね。

 これが、いわゆる「金環蝕」です。

 こう考えると、人類は「はい、コレが地球を含む宇宙の系ですよ」と渡されて、それを解明するのに血眼(チマナコ)になっていますが、我々が、海から陸に上がる以前に出来上がった天体の相関関係は、一筋縄でいかない複雑さと不思議に満ちています。

 よく言われるように、地球の自転軸が僅かに傾いているおかげで、地球上のおける様々な季節変化が生じ、計算がヤヤオコシクなるのは不思議なことですし……

 また、以前、何かに小松左京氏が書いていた「他に類を見ないほど(主星つまり地球に比べて)巨大な衛星である月を持つことで、人類の宇宙熱が高まったのだ。もし、いきなり他の惑星に行かねばならないとしたら、その距離の遠さから、人類がこれほど宇宙を目指す気持ちを持てなかったに違いない。月は、宇宙への窓口として格好の登竜門だったのだ」という言葉どおり、地球が、巨大な衛星を持っていたことも不思議ですね。

 余談ですが、かつては、映画館で「結婚指輪は給料の〜」なんてCFをよく見かけましたが、最近は、パイラシー(海賊版)警告のパントマイムばかり目立つような気がします。

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2009年7月22日 (水)

iphoneはスタイリッシュだけど、キレイじゃない?


 続けてiphoneの話題です。

 個人的に、iphoneのデザインは、すっきりとスタイリッシュで好きなのですが、どうもこのままでは広く普及することはできない気がしてきました。

 小型端末としての性能は素晴らしいiphoneですが、一般に人々が携帯電話に求めるのは、高性能端末としての要素より、「持っていてキレイで楽しい」ことであるように思えるからです。

 仕事はネットブックのような小型パソコンでするから、携帯電話には、もっとキレイでいて欲しい、なんて、妻を着飾らせるために自分は真っ黒になって危険仕事をする炭坑夫みたいなことを考えるのですね。

 それも、たしかに一理ある。

 仕事は仕事、携帯電話はパーソナルなものでもある。

 だからこそ、かかってきた時に、イルミネーションがキラキラ光るキレイで楽しいものがイイ、という気持ちも分かります。

 その意味では、電話やメールの着信に関してiphoneはかなり地味です。

 なれば、iphoneを今以上に普及させるためには、裏面にLEDを配して、流れるような光の明滅を起こさせる必要があるのかも知れません。

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2009年7月21日 (火)

掌(てのひら)のツール 〜iPhone〜


 これまでこのブログでも書いていますが、音楽を仕事にしていながら、わたしは熱心な音楽リスナーではありません。

 iPodに代表されるウォーキングステレオについては、ほとんど知識をもっていないのです。

 今回、iPhoneを手にいれたのは、ポータブル・テキスト入力装置、あるいはミニコンピュータとしての機能が欲しかったのであって、音楽はどうでも良かったのです。

 ただ、今までpspで観ていた動画(東のエデンとかね)を入れてみたかったので、メモリサイズは最大容量の32GB(ソリッド)にしました。


 アップル的無知(仕事ではアップルのマシンと二世代前のシーケンサー、スコアソフトを使っているのですが)のおかげで、文字の入力や、アップル系タッチマシンでは常識であろう操作もまったく分からず、今まで評価を書くことができませんでしたが、ここ数日s触っているうちに、やっと使い方が分かってきました。

 心斎橋アップルストアのお兄さんは「使ってれば分かりますって!」と軽くいってくれたものの、やはり、箱の中にあるペッラペラのイージースタートパンフだけでは、一通りは使えるものの、使いこなすことはできませんでした。


 おすすめはappleサポートにあるPdfマニュアルを見ることです。

 何か分からないことがあっても、これでだいたいOKです。


 電話の留守禄機能で、アップルのサイトで広告している「留守電ボイスメール」の設定がどうしてもわからなかったのですが、地方によっては使用できないことを、わたしはこのマニュアルで知りました。



 実際に使ってみた感想ですが、想像以上に使いやすい作りで感心しました。

 それぞれの動作のレスポンスが速くて、あまりストレスを感じません。

 前のバージョンは触ったことがないので解りませんが、3GSのS(speed)はダテではないようです。

 ウインドウの切り替えや、一つ一つの動作もかなりスムーズに動きます。

 特に気にいったのは、地図機能です。

 わたしは地図が大好きなので、その機能が充実しているとそれだけで嬉しくなります。

 例えば、地図上である地点を表示しながら、上にある検索ボックスに、適当な文字をいれると(レストランだとか珈琲とか)見える範囲にある店をピンで表示してくれる。

 ピンの先をタップして、ポップする吹き出しの左端のカメラのアイコンを押すと、そのままストリートビューになるし、左端の矢印を押すと店データが出て、それを地図の位置情報と共にメールすることもできます。


 ソフトも、無料はもちろん、有料でも150円程度で単機能のものが多数あって使いやすい。

 ゲームはともかく、google Earthや「乗り換え案内」「楽天トラベル」はかなり使えます。

 なにより、驚いたのは、Shazamです。

 これは、曲名のわからない曲をiphoneに聴かせると曲名を教えてくれるという、驚天動地のソフトなのですが……

 比較的新しい曲だと、もう百発百中。

 クセのある音声認識などより、カッチリした曲のほうが、はるかに認識しやすいようです。

 これを使うためだけにでも、iphoneを手に入れても良いと思ってしまいますね。


 カメラも画素数は少ない(300万画素)ものの、静止画の他に動画も撮影できるし、そのままyoutubeにアップできるのも面白い使い方であると思います。


 電話機能についていえば、iphoneは、契約に月額980円のいわゆる「ホワイトプラン」が必須なので、ソフトバンク同士なら1-21まで電話料金がかかりません。(21-1は、30秒21円になります。他キャリアとの通話は、終日30秒21円)

 その他の有料時間帯(21-1)も、家庭やyahooBBポイントなど無線LANの使える場所なら、「スカイプアプリ」を使って無料で話ができます。

 ちなみに、携帯電話のキャリア3Gと無線LAN:Wi-Fiの切り替えは自動的に行います。
 というよりiphoneは優先的にWi-Fiを使おうとするようです。

 Wi-Fiを検知すると画面に表示し、使うかどうかを尋ねてきます。

 出先のWi-Fiなら、イマドキはたいがい暗号化されていますから、「使う」を選ぶとkeyコードの入力を促されるので、わかる場合はkeyを入力すると、そのままWi-Fiに切り替わります。

 通信速度はWi-Fiの方が3Gよりはるかに高速なので、出来る限りWi-Fiを使うようにした方が良いようです。

 体感上、ほんの少し3G接続をしたつもりでも、すぐに定額パケット料金の上限バイトまで達してしまいます。

 つまり、iphoneを使う限り、毎月、定額パケットの上限金額(最低1029円−最高4410円)を払うつもりでいなければならないということです。

(ネット上の「My softbank」サイトでは、確定前の使用料金(定額割引前)を、ほぼリアルタイムで教えてくれるのですが、使用後わずか2日ほどで、わたしのパケット通信料金は9万円を超えてしまいました)

 そういえば、セットアップをしてくれた心斎橋店のお兄さんは、「自分の友だちは、涙ぐましい努力をしてパケットを節約したのに、月末に3000円の支払いが来たので、それ以降パケット倹約をスッパリやめてしまった」と笑っていました。



 それはともかく、skypeを併用すれば、iphone同士は事実上24時間フリーコールになるわけです。


 さらに、家庭がyahooBBならば、申し込み無料のホワイト24でiphone−固定電話間は24時間無料になります。


 もちろん欠点もあって、(おそらく皆が契約する)ホワイトプランだと、docomoのように料金を家族で分け合ったり、翌月持ち越しができないので、他キャリアとの通話は割高になる可能性があります。

 逆にいえば、ソフトバンク同士は極力無料通話にするかわりに、他キャリアとの通話はキッチリもらうという、分かりやすいスタンスといえるのでしょう。



 通話以外に、面白い連絡方法として特殊メールがあります。

 特に面白かったのは、MMSでした。

 これは、いわばメールで行うチャットです。

 お互いの文字が画面の右と左に交互に表示される。

 送信できるのは、文字だけでなく、写真、ビデオ、地図情報などさまざまです。

 固定のコンピュータによるチャットは珍しくありませんが、移動機器のモバイルフォンでのチャットには、また違う魅力があります。

 作業をしながら、間をあけながら、時間を気にせず会話ができる。


 前に、iphoneのメールは特殊(携帯電話ではなくパソコンのメール)だと聞いていたので、今あるdocomoに加えてもう一つ、新規に(つまりMNPを使わずに)契約したのですが、実際使ってみると、docomoは必要ないように思えてきました。



 先に書いたように、オマケ機能の音声認識は、それほど精度が良くなく使えませんが、コマンドを英語風にいえば認識率が上がるとの噂があります。


 いまならiphone for everbodyキャンペーンで、比較的安く導入できるので、迷っておられるのなら、とりあえずはお勧めします。

 これは、機器の分割払いに毎月2000円ほどの補助が出て、さらにパケホーダイの支払い上限が毎月1500円以上安くなるというものです。

 ちなみに、マクドナルドなど、公衆無線ポイント(yahooBBポイント)でつながる無線通信は、通常月200円ほどかかりますが、iphone使用者は、利用料なしで、そのままマクドナルドの無線LANを使いスカイプ経由で他のiphoneやコンピュータと無料通話することができます。

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2009年7月17日 (金)

恥ずかしいけどやっぱりかなりなモノです iphone3gs


 二日前にiphoneを手に入れました。

 おかげで、この二日ほどブログを更新できませんでした。

 iphoneについては色々と思うことがあるので、今夜にでも追加してかきます。

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2009年7月14日 (火)

ジェダイって強かったんだ! 〜クローン・ウオーズ〜

 今、某ハイビジョン放送で、スター・ウオーズ「クローン・ウオーズ」(ああややこしい)を放映しています。





 2008年公開映画の続編となる3DCGアニメーションで全100話構成の予定だといわれています。

 実のところ、どちらかというと、わたしはスタートレックのファンで(先日ディアゴスティーニの「週間スタートレック」をコンプリートしました。あらためて計算すると数年感に15万円をつぎ込んだことになります!)、スターウオーズについてはほとんど興味がありませんでした。

 かの、アーサー.C.クラークに「スターウオーズの宇宙空間で爆発音が聞こえるのはかまわないんだよ。わたしはあの映画の大ファンだから」と言わしめた映画ではあるものの、最初の公開時(エピソード4)から、ストーリーに魅力を感じなかったので、一度も映画館に足を運んだことはありません。

 さすがにテレビ放映されたものはいくつか観ました。

 当時、映像はすごいと思いましたがストーリーに惹かれはしませんでした。

 ステレオタイプの英雄モノ、しかも程度の低い西洋チャンバラにしか思えなかったのです。

 「ジェダイ」というものが、何かわかりにくかったということもあります。

 英国における円卓の騎士のように、たいして強くはないものの名前だけが残っている英雄の子孫、みたいに思っていたのですね。

 それが、時代設定がエピソード1にもどり、エピソード2になったころから、ジェダイの騎士のスーパーマンぶりが、わたしの好みにあってきました。


 特に、オールCG化された宮沢総理、じゃなくてヨーダの超人ぶりには目を見張らされました。


 そして、このCGシリーズです。

 これに先立つ前作の、いかにもアメリカンコミックのようなショート・アニメーションシリーズは特に面白いとは思いませんでしたが、30分の尺でCG化された本作品では、まさしくジェダイナイツはスーパーマンです。

 超能力を使って空を飛びレーザーを跳ね返し、もうほとんど無敵です。

 もっとこういった感じで映画を作ってくれたら、スターウオーズファンになっていたのに、と少しばかり残念です。

 相変わらず、デフォルメされたCGではあるのですが↓、




映画ほど悪相ではないにせよ、なかなかアナキンのワル顔(今のところ正義の味方で良いヤツです)が決まっています。

 とくに、後のダースベーダー:アナキンに、女性のパダワン(弟子?):アソーカ・タノが登場するのが良いですね。




 このシリーズに続く(という設定の)映画では、アソーカは出ていなかったように記憶しているので、その経緯も今後の100話で描かれるのでしょう。

 いかな絶対絶命のピンチになっても、涼しい顔で冗談をいいつつ肩をすくめる、オビ・ワンとアナキンの師弟コンビはかなり魅力的です。

 人やドロイドはCGの限界か、動きが軽すぎて嘘くさいのですが、巨大戦艦などのCGは、細部までクリアな映像でなかなかのものです。

 というわけで、今後の展開に期待したいと思います。

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2009年7月12日 (日)

驚異の映像化(ウソ!) 〜久石譲作曲・ゴジンカーン作詞「平成ニッポン当選音頭」〜

 先日、本業のほう(たまには仕事もします)で、ゴジン・カーン氏(知る人ぞ知るプロレス関係本の執筆者です。あの梶原一騎逮捕のきっかけとなったもめゴトはもはや伝説でしょう)と知り合う機会がありました。

 依頼されたのが、あの(ばっかりですが)久石 譲が二十数年前に作曲したコミック音頭?の再アレンジです。

 当時は、ビートきよし氏が歌っていたそうですが、それを今回、詞にも手を入れ、シャレで自分で歌ってみたいとのことで、スタジオ録音したものを思いっきりチープに数時間で映像化してyoutubeにアップしました。

 タイトルは「平成ニッポン当選音頭」です。

 よかったら、一度ご覧になってください。

 ゴジンカーン氏は、その経歴と著作から体育会系の恐ろしい人かと思っていたら、気さくで冗談好きでチョー軽いノリの人物で驚きました。

 まあ、映像をみたら、すぐにおわかりだと思いますが……

 ちなみに、一瞬映る「石*面」は、ずっと前に自作した自信作です。

 人生がイヤになると、あれを被って血を吸わせたく……うそです。

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2009年7月10日 (金)

漕げよ!マイケル 〜真実のマイケル・ジャクソン〜

 2009年6月25日にマイケル・ジャクソンが死んでから、連日おこなわれる報道をみていて、何かわからない小さい棘のような違和感が、チクチクと胸にささって気持ち悪かったが、東京毎日新聞学芸部の川崎 浩氏の署名記事を読んで、そのかなり多くの違和感が解消された。

 いわゆる「我が意を得たり」というヤツである。

 以下、川崎氏の意見に、わたしの考えを加えて、娯楽音楽の踊神マイケル・ジャクソン(以下、マイケル)について書いてみようと思う。




 氏が、洪水のようにあふれ出る外電の中で注目したのは、マイケルが、7月予定のロンドン公演に医師の帯同を要求し、なぜ?と問われて答えた言葉だった。

「僕はマシンだ。だからちゃんとオイルを差してくれ」

 この言葉のオオモトは、おそらく78年に、マイケルが信を置く数少ない友人の一人、ダイアナ・ロスが出演したミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのリメイク)に、かかしの役で出演した際に、仲間のブリキ男が歌った「オイルを差して」だろうと川崎氏は考えている。

 マイケルの人生を鑑(かんが)みるに、彼は自分自身を映画で演じた「頭のないかかし」ではなく、中身ががらんどうで「心のないブリキ男」にたとえて考えていたのだろう、と。

 それはそれで正しいと思うが、わたしとしては、マイケルがブリキ男の言葉を引用した、ということより、その中の「僕はマシンだ」という言葉によりひっかかりを感じる。

 氏はいう。

「マイケルが歌と踊りの上手なだけの黒人エンターティナーであったら、訃報が日本の新聞の一面に載ることはなかったであろう。(中略)つまり、マイケルは『音楽以外の何か』を持っていたということである」

 さらに、氏は続ける。
(奇行や整形、巨万の富など)マイケルよりすごい連中は世の中にたくさんいる、だがマイケルは「ニュースのための存在」として生かされたのではないか。

 氏が、(現在の)人気音楽家のコメントを得ようとしたところ、ほとんどが断られてしまったという。

 30歳以下のミュージシャンにとって、マイケルを「よく知らない」のは事実だろう。

 笑わせるのは、「マイケルを知った時にはすでに白人だった」というコメントだが、悲しいのは、ディズニーのアトラクション「キャプテンEO」で見ただけ、という答えだ。

 つまり、ミュージシャンとしてのマイケルは『その程度』だったのだ。

 もちろん、フレッド・アステアなみに、ポピュラーダンスの偉大な変革を成し遂げ、映像と音楽の融合を成し遂げ、ミュージッククリップを映画なみのクオリティにした功績は大きい。
(そういえば、同じ振り付けのダンスを群舞しながら、一人だけ際だつのはアステアと同じだ)

 しかしそれらはすべて80年代のこと。

 さらに氏は続ける。

「マイケルの芸に対するコアなファンはいる。飽きた人もいる。それが流行というものである。流行が去れば、芸能人は自分が作った歴史を大切にして悠々自適の生活をすればいいだけである。だがマイケルはそうしなかったし、そうならなかった」

 社会は、マイケルを「好きなときにいじくって遊ぶことのできる玩具」、「緊張した社会の安全弁」として使おうとした。それは「人気」というより「罰」としての相貌が強い。

 悲しいことに、、極端な整形、皮膚の白色化および家族との不和、ネバーランドの構築等、マイケル自身もそれに応えてしまった側面がある。

 つまり「マイケルはその環境を終(つい)の棲家(すみか)とした」のだ。

 こうした、いくら岩を押し上げても、すぐに滑り落ちて元に戻ってしまう、ギリシア神話のシーシュポスに似た永遠の苦役をマイケルに押しつけたゼウス神はいったい誰なのか?

 エンターティンメント業界か、メディアか、大衆か?マイケル本人か?そのすべてか?
 スターであり続けるためには、「プライバシー情報の大岩」を転がし続けなければならない。どんな目に遭っても、反論することも、逃げ出すことも許されない。

 そして、氏は記事を「さすがにそこで生きていくためには、マイケルはかかしとブリキ男にならざるを得なかったのではないか」と締めくくっている。

 その通りだとわたしも思う。


 ただ、氏の考えに付け加えれば、先に書いたマイケルの言葉、

「僕はマシンだ。だからちゃんとオイルを差してくれ」

には個人的に少しだけ別な意味があるような気がしている。


 たしかに、マイケルはそういった、アルベルト・カミュの著した「シーシュポスの神話」あるいは「賽(さい)の河原の石積み」に似た無益な無限労働を甘受していただろう。

 しかし、泳ぎ続けないと呼吸のできないサメと同様、注目され続けないと生き続けることのできない、人の注視をタンタロスのように求める芸能人にとって、それはさほど苦痛ではなかったのではないか。

 なれば、マイケルは、自分を社会のオモチャとして考えるのではなく、大きな社会というカラクリを動かす(比較的大きな)歯車として自分をとらえていたのではないか?

 ボクをうまく使いたいなら、適当にメンテナンスをして油を差して欲しい。

 さもないとボクは壊れちゃうよ。ボクのように使いやすい歯車がなくなったらみんな困るんじゃないかな?

 家族というカラクリの一部に成り得なかった孤独な天才少年は、自身を社会の歯車の一部と考えることで社会とかかわり、孤独と折り合いを付けていたような気がしてならないのだ。

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2009年7月 9日 (木)

脳という臓器

 なるべく毎日書こうとおもっているのですが、このところ、日があいてしまっています。

 書きたいことはたくさんあるのですが……

 珍しく新刊で買って読んだ『告白』の「また出てきたぞ脚本の小説化本」あるいは「脚本で考えて文章に落として出版小説」についても書きたいし(いや、なに、わたしが最終選考で落とされた小説推理新人賞の受賞作っていうから読んでみただけなんです)、死後、数日を経て少し落ち着いてきたマイケルジャクソン論(というほどのものではありませんが)についても書きたい……グーグルブック検索問題も大きな問題です。


 しかし、ここはやはり、最近、あまり書いていない、ヒトと脳・脳科学について思うトコロを少し書いてみようと思います。

 ただ、まだ、わたしの中でも、きっちりとまとまっはいませんので、脈絡のないハナシになるかも知れませんが、お許し下さい。




 おそらく、皆さんご存じでしょう、去る6月18日に衆院本会議で、脳死を「人の死」とすることを前提に、本人の意思表示がなくても、家族の同意だけで臓器提供を認める法案が可決されました(特に大きい意味として、15歳以下の子供の国内臓器移植が可能になったことがあげられます)。

 よほど近々(きんきん)に解散総選挙がないかぎり、参院で、さらに少しの修正を加えたA案やE案が審議されるようです。


 ごく個人的に、しかも小さい声でいえば、わたしは臓器移植には乗り気ではありません。

 宗教的、倫理的な意味ではなく、現行の技術で臓器移植は「無理」偏に「無謀」と書くような延命措置だからです。

 肉体にとって「明らかな異物」である他者の臓器を外科的につなぎ合わせ、あとは拒絶反応を抑えるために、正常な免疫機能を下げてまで、命の続く限り大量の薬を飲み続けなければならない。

 しかも、移植後の生存期間は、一般的に決して長いものとはいえません。

 そいうった、移植手術を受けた人々のQL(Quality of Life)を考えると、現在の技術水準では、両手(もろて)をあげて賛成しにくいのです。

 もちろん、誰しも死にたくはありませんから、そこに生き残る技術が存在するのであれば、後の不便を覚悟しても、それを使う決断はあってしかるべきです。

 上で、生存期間が長くないと書きましたが、それは傍観者の考える勝手な判断で、死期を知らされた人々にとっては、一分一秒でも、術後に生き延びられる時間は、かけがえのないものとなることでしょう。

 苦しい闘いを覚悟の上で移植を選ぶなら、その気持ちは尊重されるべきです。


 移植を受ける側はそれでいい。

 ただ、問題は、法案でも審議されているように、臓器を提供する側にあります。

 すでに端緒(たんしょ)についたとはいえ、いまだ人工細胞による臓器製造は実現されていませんから、臓器は生きた人間から受け取ることになります。

 腎臓や肺など、二つある臓器ならともかく、一般的に、一つしかない臓器を提供するのは、つまり命を差し出すということです。

 ヒトは多細胞生物です。

 体内に、様々な臓器をもち、皮膚や髪の毛などの個々の細胞は、日々、死にまた生まれています(体内およそ60兆個の細胞の1%程度が毎日死に続けている)。

 かつて、医学がそれほど進んでいなかった頃、といっても、せいぜい100年ほど前ですが、ある重要な臓器の死は、すなわちヒトの死でした。

 しかし、今は、人工心肺、透析装置、その他の医療機械につながれていると、特定の機能を失ってもヒトは生き続けます。



 長らく、ヒトの生死は「心臓の拍動の有無」で決められていました。

 そして、実際のところ、それは正しかった。

 心臓は血液を循環させます。血液内でもっとも重要な内容物は酸素です。

 心臓が止まると、各臓器、その細胞に送り届けられるべき酸素がなくなります。

 まず、もっとも酸素を必要とする脳細胞が死にます(脳は体重の2%の質量で、酸素の全消費量の20%を使う)。

 肺、小腸、肝臓、そしてもちろん心臓の細胞もすぐに死にます。

 だから、上の臓器は、心臓が動いて酸素が行き届いている状態で取り出さねばなりません。

 それに反して腎臓(心停止後1時間)や角膜(心停止後10時間)は、比較的、酸素不足に強い臓器なので保存がききます。


 何がいいたいかというと、移植臓器の提供者(ドナー)となるためには、心臓が動いている状態で臓器を取り出さなければならないということです(もちろん、実際には、心停止してすぐに開腹するということになりますが)。

 そのために、ヒトの死を「心臓が止まって各細胞も壊死し始めた」頃ではなく、「脳(脳幹でなく新皮質)が無反応になった」時にしなければならなくなった。


 これも、おそろしく小さい字で書きたいのですが、個人的には、それで良いと思います。

 理想はともかく、現実社会においては、すべては、「今、生きている者のため」を考えねばならないと思うからです。

 さきに書いたように、今現在生きていて病にかかり、移植という手段で延命を図ることができるのであれば、後の危険と困難を覚悟するなら移植も良いでしょう。


 ただ、問題なのは、上の「生きている者」が、様々な内容を含んでいるということです。

 今、生きているヒトは、自分の死後を考えます。

 自分の体が、遺族の意思で、(この表現は嫌いですが)切り刻まれることを恐れる者もいるでしょう。生前に意思表示しておけば良いのでしょうが、元気に生きている者にとって「死」は意識しにくいものですから、そういったヒトは漠然とした不安をもって日々過ごすことになりかねません。


 あるいは、脳死と診断された子供を介護する親にとっては、法的に脳死を人の死とすることで、我が子が「法的に死んだ人間」と判断され、世間から、法的・経済的あるいは心理的妨害を受けることがあるかもしれないと考えるのは当然です。




 さて……しかしながら、困ったことに、さきに(気持ちの上で小さい字で書いた)意見と相反する気持ちが、常にわたしの中にはあります。

 それは、わたしの判断が、歴史の中で長らく議論されてきた「一元論」と「二元論」の間で揺れているからです。

 つまり「肉体と精神は一のものか否か」(歴史的には「肉体」と「魂」をさします)


 その考えを臓器移植に置き換えると、人の体を「脳」と「それ以外」に分ける是非です。

 これは、何度もこのブログで書いていることですが、臓器としての脳は、それほどにエライものなのでしょうか?


 個人的に、内蔵として見た場合、肝臓は決して脳にひけをとらない臓器だと思っています。


 しかし、近頃の人々は、どうも脳が大好きなようです。「Mr.BRAIN」のように笑止な番組すらできてしまうほどに。

 脳を語る茂木氏の本がベストセラーになる世の中です、脳こそが、人の人格・行動・個性のすべてを決めていると思うのは仕方がないのでしょうが、あえて、そこに疑問をもつべきではないでしょうか。

 本当に、体内の臓器によって、逆に人の行動が誘導されることはないのでしょうか?

 脳のワガママで浴びるように酒を飲み、同格の臓器である肝臓をいためつけてよいのでしょうか?

 脳が死んだから、あとの臓器は好きにして良い、というのが二元論的な考え方です。

 それに則って、臓器移植は行われているのです。



 「脳死」イコール「人の死」として脳を特別視する考えは、ヒトの近代化・都市化と密接に関係するそうです。

 つまり、一個のイキモノとして、自然の中で生き(生かされ)ている時は、生と死は、「自然の中の様相の違い」にしか過ぎず、人をわざわざ「脳」と「それ以外」に分ける必要などなかった。

 しかし、日々、都市で過ごし、太陽を浴びず雨を気にせず、狩りも料理もせず、食事をレストランや食堂でとり、仕事に頭を悩ますうちに、人は、極端な頭デッカチになって、「すべての臓器とともに、体全部で自分である」という考えを忘れてしまった……



 金、経済そして権力をテーマに突っ走る青年コミックにも、そういった考えの影響は現れます。

 先日、コミック喫茶で、何気なく手にした「エンゼルバンク」を読んだ時にもそんな感想を持ちました。

「エンゼルバンク」は、「ドラゴン桜」の三田紀房が描く転職マンガです。

 相変わらず、狭量な価値観の押しつけには閉口しますが、「すべてモノゴトを、奇をてらって逆サイドから見る」という方法論が、おそらく大学生や若年層には受けるのでしょう。


 それはともかく、その中で、日本を支配する(と、簡単に口にする浅薄さが苦手なのですが)という組織に入れられたヒロインが、日々、不規則な生活を、薄汚れた部屋で繰り返し、大量の煙草を吸い続ける姿は、現実的ではあるのでしょうが、違和感を感じます。

「おいおい、経済的、社会的にビッグを目指すのはいいが、病気になったら完全なマケグミだぜ」と思ってしまうのですね。

 これなんか、典型的な、脳と肉体を分離したハナシです。


 わたし個人としては、できれば、自分の体、思想、財力、ネコ、周囲の人の感情、そういったまわりのものすべてで「自分の人生」を形作っているのだと自覚して生きていきたい、現段階ではそう考えています。

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2009年7月 6日 (月)

あの手この手で視聴率アップ  〜Mr.Brain〜


 ある事情があって、月に一度は、日本の主要ドラマを通して観ます。

 先日も、チェックを兼ねて「魔女裁判」「婚カツ!」「ぼくの妹」「クイズショウ」「白い春」「夜光の階段」「Mr.BRAIN」などをざっと観ましたが、その中で、いくつか気になったことがあったので書いておくことにします。

 まず、「婚カツ!」(フジ)です。(同じ曜日ではないものの)「コンカツ・リカツ」(NHK)という裏番組を背負っての放映ですが、この二つの番組は、タイトルこそ、ハヤリの言葉を使っていますが、テーマ設定のスタンスは、まるで違います。

 まあNHKが真正面から「コンカツ(そして離婚活動:リカツ)」をとらえ、フジがタイトルのみ「婚カツ」を拝借し、内容は、トシの離れた女の子との草食系男子(ってイミワカランが)の恋愛物語を作った……なんて評価は、ちょっと調べればみんな書いていることなので、違うアプローチをしてみます。

 それは、男脳の好むドラマと女脳の好むドラマの違い、ということです。
 つまり、「婚カツ!」は、(すべてではありませんが)主要脚本家が男性で、「コンカツ・リカツ」は脚本や主要スタッフが女性なんですね。

 最近、日本のテレビドラマを観る時に行っているアソビがあります。

 それは、前情報なしにドラマを観て、脚本が男性か女性かを予想するということです。
 そうすると分かってくるのは、どちらがよいかではなくて(もちろん、どちらが好みか、ということはありますが)、明らかに顕著な差があるということです。

 たとえば、女性が男(現在の恋人)に待たされるシーンがあるとします。

 女性の脚本なら、ヒロインが男を待ち続ける確率はかなり低い。もし、待っているとしても、ずっと待ち続けるのではなく、必ずそこに、何かイベントをいれます。

 たとえば、知人に出会わせたり(密かに憧れている男であることが多い)、携帯電話に、友人から着信があったり……

 しかし、男性の脚本なら、まず、女性は何もせずにずっと待ち続ける。

 つまり、性差による願望の違いが脚本に現れるのですね。

 視聴率的には、NHK的まじめな「コンカツ」より、少し捻った(というか、空想的な)「婚カツ!」の方に軍配が上がったようです。
 フジの方は、エンディング・テーマが懐かしいシュガーの「ウエディング・ベル」……と思ったら、パフィのカバーでした。オリジナルを使えばいいのに。

 「僕の妹」は、まあ、これも草食系優柔不断男子が主人公のドラマですね。
 前半は、大学病院権力抗争ミステリ仕立てだったのが、徐々に恋愛モノになり、それはそれでなかなか盛り上がっていたのに、最終回が完全な肩すかしでガッカリしました。


 「クイズショウ」については項を改めて書きますが、今、ここで書きたいのは、なんといっても「Mr.Brain」です。

 わたしは、日本のドラマを観始めてまだ日が浅く、役者の名前もよく知らないぐらいなのですが、これほど、あざとく視聴率を稼ぎに来た番組は、他に知りません。

 タイトルとテーマを、今ハヤリの「脳」にし、脳科学者による「犯罪」操作を軸にすることで、知識欲のある層と二時間ドラマファンを取り込み、主要キャストを人気アイドルと大物系で占め、番組開始時期を4月からズラすことで、マンネリ感のある他ドラマからあたらしモノ好きな視聴者を引き込み、第二話放送日(土曜日)の昼間には、先週放送された第一話をさっそく再放送して二話に飛びつかせる。

 さらに、一話を放映時間の半ばで終わらせ、残り半分の時間を次の事件のオープニングとして使うことで次週の視聴予約を確保する。

 なんというか「アメリカ的な」というか「脳科学を応用した、的な」というか、指摘されれば、そういう言い逃れのできそうな、姑息な手段のオンパレードの作品です。

 まあ、放送終了後には、これだけの視聴率を稼いだのは「脳の特性を使った」からです、とでもいいたいのでしょうが、如何せん物語の内容が「二時間サスペンスにとってつけたような脳学者の分析を加味しただけ」のお粗末なものですから、その程度のテコ入れではどうしようもならないようです。

 本当に、まだよく分かっていない分野(脳科学)をドラマ化する難しさを、スタッフはよく分かったことでしょう。

 あと、Mr.Brainのテーマ曲は、これも懐かしいヴァン・ヘイレンのJumpです。

 以前、ドラマやバラエティーで、中島みゆきや浜田省吾などの曲が多く使われた時に、友人が、「昔ファンだった人物が偉くなって、自分の一存で曲の選定ができる立場になったからだろう」といっていましたが、それからすると、Brainの制作者の中に、ヴァン・ヘイレンの熱烈なファンがいるということになりますね。

 もう少し後だったら、M.ジャクソンの「ビリー・ジーン」あたりだったのかも知れません。

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2009年7月 5日 (日)

ブレる正義の視点 〜HEROES〜




 もう、随分前から書こうと思っていたのですが、「スターゲイト」「Dr.House」「クローンウオーズ」、「HEROES1-3」など、個人的に残しておきたい海外テレビドラマの感想(評論でなく)が、どんどんたまってきたので、見切り発車ながら少しずつ書いていくことにします。

 まずは「HEROES」から。

 以前にどこかで書いたと思いますが、HEROESを最初に観ようと思ったのは、某放送局の「石(ノ)森章太郎特番」で、誰かが「今、流行っているHEROESも、とどのつまりは『サイボーグ009』に影響を受けて作られているわけですから」といっているのを聞いたからだった。

 その真偽はさておき、実際に観てみると、確かに、それぞれの能力者がそれぞれのチカラを使って、それぞれの思う『悪』と戦うという点では、似たところはあるが、どちらかといえば、HEROESは群像劇の色合いが強く、いかにもアメリカ的に、それぞれが自分勝手に動いているという印象がある。

 どうせなら、映画「ファンタスティック・フォー(かつてのアニメ邦題『宇宙忍者ゴームズ』)」あるいは「インクレディブルズ(オープニングタイトルは『Mr.インクレディブル』だが、エンディング・タイトルは家族で闘うためにこうなった)」のように、それぞれが、強大な敵と闘うために同時に能力を合わせたほうが、より009的であっただろう。

 確かに、1stシーズンのラストで、Gロボの「静かなる中将」のごとき人間核爆弾と化したピーターを抱いて空を飛ぶ兄のネイサン・ペトレリは、009を抱いて大気圏を落下しながら「どこに落ちたい」と尋ねた002そっくりだし、3rdシーズンで出てくる高速女は009の加速装置の魅力的な映像化だ。




 とはいえ、他者の超能力を模倣するピーターの能力はXメンのローグから着想を得たものだろうし、不死身のクレア・ベネットは、ウルヴァリンから生まれたのだろう。
 心を読み幻覚を見せることのできるマット・バークマンは、年代からいうとナルトの影響すら受けているかもしれない。

 さすがに、3rdシーズンで、今まで「能力」を嫌悪するかのように振る舞っていた「ただの人間」モヒンダー・スレシュ博士(彼はギルモア博士の立ち位置だと思っていた)が、突如超能力者になる物質を体内に打ち込んで暴力的になり、壁を上り、性欲まで強くなって、まるで、あのなつかしのブランドル・フライ(映画『ザ・フライ』)そっくりになってしまったのには、どう反応してよいかわからなかった。

 おまけに薬の過反応で、顔までブランドル・フェイス(フライが流行った時、キャンプで蚊に顔を刺されるとそういって友人たちと笑ったものだ)になったのには、唖然とさせられた。

 まさか、ヒロによって歴史が変わらず、時間線がこのままで、モヒンダーが死んだあと、恋人の超能力者マヤがハエの子供を産む、なんてオチはないでしょうねぇ。

 それじゃ「ザ・フライ」パクリ過ぎ!クローネンバーグに殺される。


 と、まあ、テレビシリーズに極端なオリジナリティを求めても仕方はないのでしょうが、途中で脚本家のストがあったとはいえHEROESの迷走ぶりには目を覆うものがあります。

 しかし、なんといっても、HEROESにおける、一番の問題は『奇をてらうあまり、主人公たちの性格を豹変させすぎる』ことです。

 物語を作る上で、心がけなければならないのは、一人の人物に一つのキャラクターにする、ことですが、HEROES(特に3rdシーズン)ではそれが守られていません。

 もちろん、二重人格という設定を使えば、この限りではありませんし、実際、HEROESでも、二重人格の怪力女性ニキが出ていました。(さすがに制作者も彼女の演技をうっとおしく思ったのか、2ndのラストでニキは殺されてしまいました)

 問題なのは、二重人格でもないのに、数年経つだけで性格が豹変することです。

 ヒロやピーターに時空を操らせるのは勝手ですが、彼が、タイムジャンプするたび、味方が敵に、敵が味方になるのは、視聴者の集中力を削ぐ効果以外にはないような気がするのです。

 視聴者、読者を驚かそうと思ったら、ラスト付近まで実直に作っておいて、最期に一気にひっくり返さないと効果はないのですから。


 この調子では、HEROESは、到底、長寿番組にはなり得ません。

 別項で書こうと思っている「SFテレビドラマ最長番組」としてギネス登録された「スターゲイト」では、洗脳などの正統な理由なく登場人物の人格は変わりません。

 だから、ファンは安心してドラマに埋没し、結局は、それが長い人気を生み出すのです。

 HEROESも「鬼面人を驚かす」といった体(てい)筋立てはやめて、もう少しストレートな話を組み立てた方が良いでしょう。

 老婆心ながら、そう思います。

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2009年7月 4日 (土)

新世紀から新生へ 〜エヴァンゲリヲン 序〜




 夜、珍しく事務所に来ていた顧客が帰った後、何気なくつけたテレビから、いきなり男の子の(女性の声優だが)ナキゴトが聞こえてきて驚いた。

 が、すぐに、映画の公開にあわせて、前作をテレビ放映して観客動員を上げようという、例の作戦にのっとってエヴァンゲリヲンを放映していることを思い出した。

 そういえば、昼に会った薬学科の大学生が、エヴァの良さを熱っぽく友達に語るのを聞いてくすぐったく感じたことも思い出す。

「ガンダムで感動するのは甘い」という彼の言葉を青臭く感じるのは、おそらくわたしもトシをとったということなのだろう。(わたし自身はガンダム・シリーズを良く思ったことは一度もないのだが……)


 ああ、はじめに断っておくが、わたしはエヴァンゲリオンという作品が、あまり好きではないので、ファンの方は以下の文章を読まないで欲しい。



 エヴァンゲリオンに関しては、以前に流行った時に、この(わたしにとっては)なんだかあまり気持ちよくない作品のどこが良いのか考えてみたことがある。

 制作者サイドの思考の流れ方なら、なんとなくわかる。

 エヴァンゲリオン以前に、庵野秀明氏が作った「ふしぎのうみのナディア」(漢字がないのでひらがな表記)で、地球にやってきた宇宙人が最初に作った人間のプロトタイプ、アダムという名の巨人が出てくる。

 プロトタイプだけに「現存するヒト」のように小型化できず巨人になってしまった、という設定は、きわめてイカしたハナシで、最終回近くで出すには惜しいプロットだと庵野氏も考えたのだろう。

 だから、巨大なアダムを使って、別なハナシを作りたくなった。

 ナディアでは、いい加減に使ってしまったものの、アダムといえば旧訳聖書の世界。

 旧約聖書ならば、アダムよりアダムの肋骨から作られたエヴァの方が断然ツカえるし面白い。

 だって、アダムの一部から作られながら、ヘビにソソノカされてアダムを騙し、知恵の実を食べさせてしまうのがエヴァなのだから。
(自作小説にもあるように、個人的には「リリン」の方が好きですが)

 ならば、いっそキリスト神秘主義の知識を借りて世界観を深めてしまおう。

 人類の味方チームのコンピュータは、三博士の名前をつけて、やってくる敵は使徒と呼ぼう。

 死海文書もギミックに使おう。ファティマの予言は……やめておこうか。

 ああ、そうだ。現在の世界観と「地続き」にしないために天変地異を起こしておこう。
 大地震で文明崩壊……じゃバイオレンスジャックだから、なんだかわからないバクハツで、新しい世界観をもった時代にしてやれ、名称は……セカンドインパクト!

 という感じだろうか。

 石川球太の「巨人獣」じゃあるまいし、巨大人間を操って闘うのは、ヒロイズムが疼かないから、やはり生物兵器に人が乗り込んで闘うことにしよう。

 その際、主人公は、オレオレ出しゃばりタイプじゃなく、内省的な巻き込まれ主人公にしたほうが、ハナシが立つだろう。

 ヒーローには仲間が必要、男性を惹きつけるなら、男女の比率は2対1、しかも女性のタイプは正反対にするべきだろうな。

 そのうちのひとりは、口数の少ないクール・ビューティーにして、ついでに怪我もさせて包帯少女にしてしまうか。

 わたしは、個人的に、元気いっぱいの健康的な女性が好きだが、男に、怪我をして包帯を巻かれた女性に惹かれる部分があるらしいのはわかる。


 と、そこまでは納得もいくのだが、不思議なのは、どうして登場人物の多くを、神経症がかった性格にしなければならなかったのか、ということだ。

 まあ、結果的に、オープニング曲のヒットと相まって、大ヒットとなったわけだから、その選択は正解だったわけだが、登場人物の多くが、重度軽度の差はあるにせよ、神経症にかかっているような作品は楽しんで観ることなどできない。


 ただ、漏れ聞く情報によると、今回の映画版は、すでに新世紀(21世紀)になってしまったために、かつての「新世紀エヴァンゲリオン」から「新世紀」の文字がとれ、特に第二話「破」からは、新キャラクターの登場および新展開も行い、エンターティンメント指向の強いエピローグを迎える、とのことなので、少しは期待しても良いかもしれない。


 くれぐれも、よくわからないヤヤコシイ展開だけは止してほしい。

 意味不明なことを、難解そうにみせるのも。


 せめて、過去のテレビ版でタイトルのみをパクッた「世界の中心で愛を叫んだ獣」(ハーラン・エリスン作)のように、パンドラの箱のSF的解釈を試みようとするほどの意欲は見せて欲しいものだ。
(当時、庵野はハーラン・エリスンの作品を読んだことがなかったらしい。その上、観たことはないが日本のドラマ「世界の中心で愛を叫ぶ」は、エリスンではなく、エヴァのタイトルをパクったものだという。世も末だ)

 そして観た者は、心して作品を判断してほしい。

 見かけ上の難解さをありがたがるのは、自分が単純であることの証明にしかならないのだから。


 私のおすすめ:
世界の中心で愛を叫んだけもの (ハヤカワ文庫 SF エ 4-1)

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2009年7月 3日 (金)

愚直な美しさ 〜劔岳 点の記〜

 劔岳 点の記を観て来ました。

 出かけてみると、平日の昼過ぎだというのに劇場が老人たちであふれかえっていて驚きました。

 その老人たちの、あたかも自宅にいるかのように、楽しげに会話しながらのカウチポテト的観劇には怒りを通り越して感激してしまいましたが……


 山を、つまり登山をテーマにした映画に失敗作はほとんどないので(「バーチカル・リミット」のような例外はのぞいて)ほとんど心配せずに観に行ったのですが、「劔岳」は、奇をてらわず、真っ正面から(現在からすると)おそろしく貧弱な登山装備でルートのない山に登る冒険映画でした。


 残念ながら原作を知らなかったため、出かける前は、聞きかじった知識で、スコットとアムンゼンのような、日本山岳会と陸軍との登頂争いを描いたものだろうと考えていたのですが(なんといっても、新田次郎はあの「八甲田山」の原作者ですから)、実際は、競い合うグループが、お互いにエールを送りつつ初登頂を競う、さわやかな岳人讃歌の作品に仕上がっていました。

 ラスト近くで、手旗信号を通じて交わされる(恥ずかしながら、わたしは手旗信号が読めるのです)、共に苦労を分かち合った者のみが知る、敬意のこもったメッセージは観る者の胸を熱くします。


 茜(あかね)色に染まる雲海、巨大な山肌をゆく豆粒のような人間、滑落、雪崩……




 私事(ワタクシゴト)ながら、わたしも数年前までは毎年のように北アルプスに登っていました。

 人の多い山小屋は好きでないので、毎回テント一式を担いでの山行きでしたが、一度、槍の肩で強風に見舞われたことがあります。

 夜半から明け方にテントを撤収するまで、吹き付ける風で、愛用のライペン(アライテント)が異様に変形して、中にいると四方八方からこづかれるように押されまくったのですが、同様の描写が「劔岳」でもあったので、それを懐かしく思い出しました。


 世界のクロサワのもとで腕を磨いた木村監督が、二年という時間をかけて実直に作った初めての映画は、山の風景映画としても一級品です。

 最期のどんでん返しも、物語の骨子を揺らさない、すっきりとしたものでした。



 ああ、どんでん返し(って知ってますよね?)で思いだしましたが、最近は、映画といわず、テレビドラマといわず、小説といわず、マンガといわず「いかに読者に衝撃を与えるか」ばかりを考えている作品が多すぎるような気がします。

 もちろん、読者あるいは観客は、一時的ながらも主人公と同一化し、凡庸な毎日から抜け出し「刺激的」な経験をしたいと考えてはいるでしょう。

 だからといって、「大脳生理学」などの「流行(はや)りのキーワード」をもとに、ただ奇想天外などんでん返しばかりを羅列されても、だんだん感覚が麻痺して退屈になるだけです。

 こういった傾向は(一概にはいえないものの)劇作家の書く小説に多いような気がします。

 もともと戯曲はあまり一般的ではない上に、下手な役者しか扱えない戯作者は賞をとれないために、何年か前から、それを小説に焼き直してブンガクショウをとるのが流行っています。

 舞台を頻繁に変えられない小劇場向けの戯曲は、いきおい少人数の登場人物の心理劇になってしまうことが多いし、映画やテレビドラマと違って、観客に微妙な表情を見せることができない演劇は、大仰な身振りと目をむいて叫ぶセリフによって、観客に心理を伝えようとします。

 まあ、そういった手法をテレビドラマ用にアレンジして使っているのが、宮藤官九郎あたりなのでしょうが、いずれにせよ、お笑い芸人のコント(しゃべくり漫才でなく、コントは、コミック漫画からインスパイアあるいは切り取ったシチュエイションを見せるだけなので好きになれません)をドラマの中で繰り返し使うような演出は苦手です。

 まあ、これはわたしが、もともと(残念ながら)、大げさな身振りで思い入れたっぷりに独白を繰り返す戯曲というものをあまり好まないせいなのでしょう。

 いずれにせよ、心理状態をあらわすため、アップで細かい表情を見せることのできる映画やテレビドラマで、大げさな身振りと無意味な独白を使うような演出はいかがかと思います。

 劔岳では、そういった無意味な独白はほとんどありません。(ラスト近くに宮崎あおいがヤッてしまいますが)





 主人公である登山者とガイドが、筆舌に尽くしがたい広大で美しい光景の前に黙って座っているだけで(エベレストに登頂したヒラリー卿とテムジンもおそらくそうであったような)彼らの信頼感が伝わってくる、劔岳は、そんな愚直で優しい映画なのです。

 時間の余裕があれば、ぜひ、大画面で観ることとお勧めします。

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