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2009年6月19日 (金)

デジャヴュでない既視感

 子供の頃からずっと、繰り返し夢にみる景色があります。

 現実にそれを目にして、以前に視たことがある、というものではないので、いわゆるデジャヴュ:既視感ではありません。

 ただ、単に何度も夢に見て、この景色、匂いが懐かしいと感じるだけなのです。

 おそらくは、記憶にないぐらい幼い頃に、両親に連れて行かれて目にした景色なのでしょう。

 意識の上では忘れてしまっても、無意識下に残っている記憶、そうに違いないと思う反面、いや、あれは絶対に目にしたことなどない、という確信もあります。


 あたかも、輪廻上の前世で見た景色のようなのですね。



 輪廻転生:リー・イン・カーネーションで思い出しました。

 作家の高橋克彦氏が、その作品でだったかエッセイだったかで、輪廻について書いています。

 出産時の母親の「産みの苦しみ」で分泌される物質が、子供の前世の記憶を消し去るのだ、と。

 ということは、すべての子供は、前世の記憶を持って生まれてくるということです。

 まあ、それが事実だとすると、帝王切開で生まれる子供は、スベカラク前世の記憶を持っているということになるので、そんなことはないのでしょうが、楽なお産で生まれた子供に、前世の記憶をもつ者は多いようです。

 となると、わたしの母も楽な出産だったのかと、一応たずねると、そうでもなかったようです。


 そもそも、どうして人は輪廻という考えを持つようになったのでしょうか?

 畏(おそ)れからでしょうか?希望からでしょうか?

 残酷に人を死においやったなら、輪廻を畏れなければなりません。

 愛する者を失ったなら、生まれ変わりを信じたくなるでしょう。

 あるいは自らの死を前に、これが人生の終わりではないと信じ込みたいからなのかも知れません。

 いずれにせよ、生き物として「有性生殖」を選択した時点で、命は有限になってしまったのですから、我々すべてはMortal:死すべき運命なのです。

 その運命に打ち勝つ便宜(べんぎ)が、輪廻転生なのでしょう。


 まあ、愛する者をこの腕に抱けない代償が不死ならば、愛する者を抱きしめて、死への道を歩む方が幸せな気もします。

 ただの既視感から、どんどんハナシが大きくなってしまいましたが、ともかく、そういった「行ったことなどないのに何度も思い出す」ことを、みなさん経験されてはいませんか?

 蛇足ながら付け加えると、わたしの「見たことがない既視感」は、港の景色です。

 埋め立て地らしい広々とした港に大きな船が接岸され、幅広の道にはシュロの木が高々とそびえている。
 道を歩くわたしの影がくっきりと黒く見えることから、おそらく季節は夏でしょうか、不思議と暑さは感じません。

 ああ、そうだ、現実には見たことがない景色だと書きましたが、一度だけ、驚くほど、同じ風景にでくわしたことがあります。

 それは、ミッキィ・スピレーンの描く、マイク・ハマーシリーズの中の風景でした。

 行ったことのない、というか生まれてもいない1950年代のアメリカの港の風景、しかも小説内の描写で既視感を得るとは妙な話でした。

 スピレーンは、タイガーマン・シリーズなどはペイパーバックで読んでいますし、作風は好きなのですが……

 特に好きなのは、短編「ヴェールをつけた女」でしょうか。
 スピレーン唯一といってよいSFの佳編です。
 機会があれば、お読みください。

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