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2009年6月

2009年6月29日 (月)

アディオス サターンの美女 〜ファラ・フォーセット死す〜




 今夜久しぶりに姉と会って話をしているうち、彼女が、「今夜、映画『チャーリーズ・エンジェル(フルスロットル)』をやるのは、オリジナルのファラ・フォーセットが亡くなったからだ」といったので、驚きました。

 なんと、わたしの知らない間に、600万ドルの男:リー・メージャーズのかつての夫人は亡くなっていたのですね。病気だと聞いてはいましたが。


 彼女については、先に述べたリー・メージャーズと結婚していたこと(一時、芸名もファラ・フォーセット・メージャーズにしていて、わたしなどそちらの方が馴染みがある)や、カメリア・ダイアモンドのCM出演、そして、あの「ある愛の歌」の主演あるいはテイタム・オニール(*)の父である、ライアン・オニールとの十数年にわたる内縁関係(って表現はベタ過ぎる?)や、その間に、二人の間に生まれたレドモンド・オニールがムショでオツトメをするハメになったりと、書きたいことは山ほどあるのですが、とりあえず、一番残しておきたい話を書くことにします。


 ファラ・フォーセットで思い出すのは、映画「スペース・サタン」(80年)です。


 個人的に、エイリアンに代表される「SFパニックもの」は好きなのですが、これは、エイリアンの大ヒットを受けて急遽作られた感のある作品です。

 おそらく、どのSFパニック作品より豪華なキャストだったのではないでしょうか?

 主演は、あのカーク・ダグラスなのですから。

 彼ほどSFパニックから遠い印象の役者はいないと思うのですが、あるいは、それが彼へのオファーの要因だったのかもしれません。

 かなりの老齢をおしての出演ですが、全裸になって臀部(つまりお尻)を剥き出しにする熱演です。

 ライナー・ノーツによると、ファラ・フォーセットも、それに負けじと全裸を披露ということになっていますが、不思議とその姿は記憶にありません。


 それより、年齢から来る男性機能の衰えに悩むダグラスを奮い立たせるために、彼女がスパルタンな皮の女王様ルックとなることの方が印象的で、そちらばかりが記憶に残っています。

 って、それだけじゃ、どんな映画なのかまるでわかりませんね。


 ストーリーは、だいたいにおいて、正統SFパニックものです。


 一般社会から隔離された土星の第三衛星(だから原題はSATURN3)で暮らす年の離れたダグラスとフォーセットのカップル、そこにやってくる若い管理官(若き日のハーベィ・カイテルが演じています)。

 美しいフォーセットに恋するカイテルと、年齢差から恋愛に積極的になれず、いっそカイテルに彼女を譲ったほうが良いのではないかと苦悩するダグラス。

 だが彼女はダグラス一途で、カイテルを見向きもしない。

 やがてカイテルは、この衛星基地で神となって、ファラ・フォーセットごとすべてを手に入れるために、ある実験を実行する……


 というストーリーなのですが、監督の資質なのか(シャレードのスタンリー・ドーネン監督)、どうも二人の愛を精神的に描くというより、肉体的な愛をも描こうとして、セクシュアルな描写になってしまっているのですね。

 だから、カーク・ダグラスは年老いた尻を露出することになってしまった……

 しかし、悪役たる若き日のハーベイ・カイテルの不気味さは突出しています。

 機会があれば、ぜひご覧ください。

 しかし、ファラ・フォーセットが亡くなったなんてなぁ。

 奇(く)しくも、(あの)マイケル・ジャクソンと命日が同じだっただけに、あまり世間的には話題にのぼらなかった(わたしが知らないだけですか?)のは残念でなりません。


 このあと、彼女以上に訃報に接してショックなカメリア・モデルは、おそらく「枢斬暗屯子(スーザン・アントン子)」だけだろうな。


(*)テイタム・オニール
 女優、父、ライアン・オニールと9歳の時に『ペーパー・ムーン』に出演し、最年少(10歳)でアカデミー助演女優賞を受賞する。1976年の『がんばれ!ベアーズ』の頃を頂点としてあとは、多くの天才子役同様、スクリーンから遠ざかる。

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2009年6月28日 (日)

さらばカンフー 〜デビッド・キャラダイン死す〜

 6月4日というから、もうひと月たらず前になるのだが、「燃えよ!カンフー」のクワイ・チャン・ケインや「キル・ビル」のボス役を演じたデビッド・キャラダインが、バンコクノホテルで首を吊って死亡しているのが見つかった。

 享年72歳。

 あのブルース・リーが自分を主演にして企画を持ち込みながら、最終的に「制作者側の思惑」で青い眼の白人ながら中国大陸でカンフーをマスターした男に設定を変えられて、主役に抜擢されたのがキャラダインだ。

 わたしも、深夜の再放送で、子供ながら「中国の話なのに(アメリカも舞台になるが)どうして無理矢理白人が主役なのだろう」と不思議に思いつつ観ていたことを思い出す。


 個人的に、彼の作品で気になっているのは、リメイクもされた「デスレース2000年」だ。

 キャラダインは、先頃封切られた2009年版の「デスレース」では、声の出演もしているが、この1975年版の方が、過ぎ去りし未来:75年から四半世紀(25年)後の未来である、退廃した2000年を描いていてわたしの好みである。(個人的に、現実的にはもう過ぎてしまった時代を描いた未来映画が好きなのだ)


 ――どう切り出したものか、本当に書きたいことを先延ばしにしているから、こんな展開になってしまっているのだが……


 実のところ、キャラダインの死は、どうやら自殺ではなさそうなのだ。

 心の底まではわからないものの、映画俳優にとって、先頃は「デスレース」へカメオ出演を頼まれ、今回も、映画ストレッチ(Stretch)撮影のため訪れたバンコクで、M.ジャクソンのように薬物の大量摂取ではなく、クローゼット内で首を吊って自殺するとは思えない。

 実際は、首を吊っての自殺などではなく、手を後ろで縛られた上、もっとおかしな状態(ネットでお調べを)で発見されているので、現在も捜査当局は他殺の疑いで捜査中なのだ。

 期せずしてカンフー映画に出演し、大ヒットをした故に、中国武術や東洋哲学に興味を持つようになり、その習得と研究に力を注いだ男が、かような最期を迎えるとは、まさに「棺覆ってのち定まる」人の人生は最後まで分からないものだ。

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2009年6月26日 (金)

秘技禁止 金魚すくい大会

 人生を長く生きていると、自分なりの判断基準というものが増えてくるが、どう考えて良いか、決着がつかないこともいくつかある。


 そのひとつが「生き物を使った遊びの是非(ぜひ)」だ。


 殺生の是非なら個人的な結論は出ている。

「殺すなら感謝して食え」というのが個人的な結論だ。

 じゃあ「人を殺しても、そいつを食えばいいのか」などという不毛な問いかけは無視するとして、わたしは、殺すからには自分の体に取り入れて(自己欺瞞のニオイがプンプンするのは承知で)命の再生をはかるべきなのだ、と考えている。

 逆にいえば「食わないなら殺すな」ということだ。

 だから、わたしは、人であれ動物であれ、楽しみのために殺すことはしたくない。

 蚊を殺してしまう日本の蚊取り線香よりは、そばに近寄らせないインドの蚊取り線香の方が好きだ。



 殺害に関しては、今のところ、そういった一応の指針を得ることができたが、先に述べた「生き物を使った遊びの是非」については、未だよくわかっていない。

 そこで、少し考えてみることにした。

 たとえば……


 日本有数の金魚の産地として有名な奈良県郡山市で、8月に開かれる「第十五回全国金魚すくい選手権大会」で、水槽の壁際に金魚を追い込み、ポイ(すくい網)でこすり上げてすくう「壁掬(すく)い」が今年から禁止されることになった。

 昨年までは「秘技」として認められてきた行為だが、市民から「金魚が傷ついて痛々しい」という苦情があったからだという。

 競技中に、三回繰り返すと反則で競技停止となる。


 これはどう考えれば良いのだろう。

 金魚すくいは、長きにわたって続けられてきた遊びのひとつだ。

 暑い夏、水の中で乱舞する涼しげな金魚を愛でつつ、ポイで掬う。
 
 それは、涼しげな音を響かせつつ通りを行き来する「風鈴売り」同様、夏の風物詩といってもよい風景だ。


 しかしながら、魚釣りをする人なら知っているように、魚は、いったいにわれわれが思うより弱い生き物で、人の体温程度で火傷するほど直接のダメージに弱い生き物だ。

 だから、壁掬いではなく、浅く狭い水槽に大量にいれられ、金魚同士が体をぶつけ合うだけでも体表は容易に傷ついてしまう。

 まして、ポイを体に当てられたら体が傷つくのは当然だ。

 例外はあるにせよ、金魚すくいで持ち帰った金魚が数日を経ずして死んでしまうのはこのためでもある。

 金魚掬いをするということは、数百匹の魚を殺すこととほぼ同義なのだ。

 まして、競技として、時間を区切って金魚を掬うとなると、さらに金魚への負担は重くなる。


 ヒトだけでなく、猫などもバッタやコオロギを捕まえては遊んでいる。

 本能的に生き物は、自分より小さな生き物をおもちゃにして遊びたがるものなのだろう。

 その延長戦上に、金魚すくいはある。

 もともと生き物は残酷なものなのだ。

 いずれにせよ、厳格なジャイナ教徒でないかぎり、アリを踏みつぶさないように箒(ほうき)で地面を掃きながら歩くようなことは不可能だ。


 ひとつの可能性として、金魚すくいを、生き物でなく機械魚を使うという方法がある。

 それを産業にしている郡山市の金魚養殖者の生計はともかくとして、生き物を使うから残酷なのであって、機械仕掛けの魚なら、単なる競技として、激しいアタックも許可されるだろう。

 技術的な問題をクリアしさえすれば……

 つまり、かつて「生き物でしか行えなかった遊び」を、今の技術を用いて「マシンに置き換える」のもひとつの方法だ。



 ただ、そのような思考実験をしながらも、なにか気持ちの底にひっかかりを感じる。

 なんか釈然としない気持ちになってくる。


 それは、おそらく、そういった「金魚が痛々しいから壁掬いをやめよ」という人にしても、あまり意識をせずに、マグロを食べ、サンマを焼き、肉を食べて、残り物を残飯として捨てることもあるだろうからだ。

 日々食している肉や魚が、自分が食べる、正にそのためだけに殺害されていることに目をつぶり、金魚が傷つく「壁掬い」に待ったをかけるのは、いかにもダブル・スタンダードな欺瞞(ぎまん)を感じてしまう。

 それを産業、生計(たつき)とし、年に一度のハレの舞台として競技を待っている人のワザを残酷だからと禁止要求しながら、連日のように廃棄されるコンビニ弁当を問題視しない思考バランスの悪さが気にかかるのだ。

 一見、別件のように見えて、実は根の部分でつながっている事柄なのだから。



(もし、苦情を申し立てた人が、熱心な『モッタイナイ』主義の人たちばかりならば、ここでお詫びを申し上げておきます)

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2009年6月23日 (火)

冷蔵庫にいれるな

 今日、珈琲販売店が主催するコーヒー教室に出かけてきました。

 自営業の気楽さ、というか、貧乏だけど暇はある強みで平日昼間に開催される「珈琲の点て方」を学びに出かけたのです。

 案の定、わたし以外は、ほとんどが白髪の紳士と妙齢のご婦人たちでした。


 紙ドリップ式やネルドリップ式には、一定の「自分なりのやり方」があるのですが、今回、是非、プロの講師に尋ねたいと思ったのはエスプレッソ珈琲についてでした。

 わたしが使っているエスプレッソ・マシンは、十数年まえに浅草の合羽橋で購入したメイド・イン・イタリアのフィリップス社製品なのですが、同じエスプレッソ用の豆を使っても、その時々で、ダシガラ(というべきなのか、つまり抽出したあとの珈琲豆)が、きれいな塊で取れる時と、なんだかべったりとホルダーにくっつく時とがあって、それがどうして起こるのか知りたかったのです。

 それに、フォルダーに豆をいれて押し固める時の力の入れようが、どの程度なのかも知りたいし、どうもミルクをホイップするスチーマーがうまく使えないので、それについても質問しました。

 それぞれの質問に、バリスタと呼ばれる、珈琲を点てる専門家の資格審査をしている講師の男性が、丁寧に答えてくれて、疑問は氷解したのですが、それ以外に教えてもらった知識で、わたしがまったく思い違いをしていたのが珈琲の保管方法でした。

 基本的に、豆は生豆(「キマメ」と呼ぶのはシロウトで、プロは「ナママメ」と呼ぶとのことです)で常温保管して、必要に応じて焙煎をするのですが、仕事が忙しくて日夜大量に消費する豆に焙煎が追いつかない時は(なんていってますが、だいたい焙煎は時間がかかるので間にあいません)、市販の焙煎済みの豆を買ってきてミルで挽いて飲みます。

 その際、酸化を避けるために、豆を冷凍庫で保管していたのですが、今日、聞いた話では、あまり頻繁(ひんぱん)に飲まないならともかく、毎日のように珈琲を飲んで、数日で一袋を使い切ってしまうようなら、冷蔵や冷凍をしない方が良いとのことでした。

 理由は、冷やされた豆が外気に触れると、結露して濡れてしまうからだそうです。

 出し入れのたびに湿気(しっけ)てしまう方が、常温で酸化されるよりも豆とミルには良くないらしい。

 考えてみればもっともなことで、高温による多少の酸化を恐れるあまり、高湿度の日本の夏に、冷蔵庫から出し入れして水分を含ませるのは、本末転倒の行いでした。

 というわけで、今日からは、焙煎された豆は冷暗所に置くだけにします。

 多めに焙煎豆を買った時は、冷凍しますが、その際でも、あらかじめ使う分だけ冷凍庫から取り出して、常温に戻してから、ミルで挽いてドリップするのが良さそうです。

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2009年6月20日 (土)

アメリカが求める聖母 サラ・コナー クロニクルズ




 スタートレックについて書くつもりでしたが、スカイパーフェクトTVで始まった(もうシーズン2がDVD発売されていますが)「サラ・コナー クロニクルズ シーズン1」(以下、クロニクルズと表記)を観たので、先頃、書いた映画に関連して少し追記します。

 T4の項でも書いたとおり、有識者の間ではT3は無かったものとすることが常識化していると思いますが、クロニクルズも、T3以前、T2後数年を経た時代から始まります。

 ジョンとサラ親子は、スカイネットではなく(T2でスカイネットの芽はつまれました)、サイバーダイン研究所破壊およびスカイネットの開発者(予定)ダイソン殺害の主犯として警察から逃亡を続けていましたが、やはりというか、そうでないと話にならない、というか、未来からやって来たターミネーターに襲われます。

 それを救ったのが、上の写真にある女性型ターミネーター・キャメロン(ってどういうセンスのネーミング?)です。

 まあ、そういったシノプシスはともかく、このテレビシリーズを、単なる映画の派生作品以上のものにしているのは、いちウェイトレスに過ぎなかったサラ・コナーという女性が、カイル・リースとの出会い、つまり歴史の力で聖母にされてしまった悲劇を描いているからです。

 だからこそ、この作品は、サラ・コナーのクロニクルズと呼ばれているのですね。

 そして、サラ以上に不幸なのは、母から「あなたこそが人類の希望」「英雄」と言い続けられるジョン・コナー少年です。

 自分で考えても、多少のネットワークの知識はあるにせよ(T2で描かれてましたね)、女の子にモテるわけでもなく、仲間の人気者でもない、そもそも、警察の眼を逃れ引っ越しをくりかえす彼に仲間ができるわけがない。

 やりきれない孤独を、未来から来た女性型ターミネーターに告げると、キャメロンは不思議そうな顔で答えます。

「あなたは、未来では、いつも大勢の人に囲まれている」

 こんな言葉は、ジョンを憂鬱にするだけで何の救いにもなりはしません。

 英雄としての自覚のない彼は、再び未来からの刺客が現れたことで、絶望しているサラに、「自分は英雄ではない、英雄なのはきっと母さんなんだ」と安易に責任を委譲しようとします。

 まだ息子が「ダメ」であることを再確認させられたサラは、絶望の涙を拭いて再び立ち上がらざるをえなくなるのです。

 サラ・コナーのクロニクルズ(年代記)の始まりです。

 わたしには、「宗教的な意味の聖母」を失いかけている米国が求めた新たな聖母(歌手のマドンナじゃないよ)こそが、サラ・コナーなのではないかと思えてなりません。

 今度の聖母が、平和を求めながら、銃を撃ち、傷つき、血を流す女性であるのは、ある意味、数度の負け戦と100年ぶりの内地への攻撃(テロリズム)および経済的疲弊を連続で体験したアメリカが、自分を守ってくれる母を求めているからなのかも知れませんね。

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2009年6月19日 (金)

デジャヴュでない既視感

 子供の頃からずっと、繰り返し夢にみる景色があります。

 現実にそれを目にして、以前に視たことがある、というものではないので、いわゆるデジャヴュ:既視感ではありません。

 ただ、単に何度も夢に見て、この景色、匂いが懐かしいと感じるだけなのです。

 おそらくは、記憶にないぐらい幼い頃に、両親に連れて行かれて目にした景色なのでしょう。

 意識の上では忘れてしまっても、無意識下に残っている記憶、そうに違いないと思う反面、いや、あれは絶対に目にしたことなどない、という確信もあります。


 あたかも、輪廻上の前世で見た景色のようなのですね。



 輪廻転生:リー・イン・カーネーションで思い出しました。

 作家の高橋克彦氏が、その作品でだったかエッセイだったかで、輪廻について書いています。

 出産時の母親の「産みの苦しみ」で分泌される物質が、子供の前世の記憶を消し去るのだ、と。

 ということは、すべての子供は、前世の記憶を持って生まれてくるということです。

 まあ、それが事実だとすると、帝王切開で生まれる子供は、スベカラク前世の記憶を持っているということになるので、そんなことはないのでしょうが、楽なお産で生まれた子供に、前世の記憶をもつ者は多いようです。

 となると、わたしの母も楽な出産だったのかと、一応たずねると、そうでもなかったようです。


 そもそも、どうして人は輪廻という考えを持つようになったのでしょうか?

 畏(おそ)れからでしょうか?希望からでしょうか?

 残酷に人を死においやったなら、輪廻を畏れなければなりません。

 愛する者を失ったなら、生まれ変わりを信じたくなるでしょう。

 あるいは自らの死を前に、これが人生の終わりではないと信じ込みたいからなのかも知れません。

 いずれにせよ、生き物として「有性生殖」を選択した時点で、命は有限になってしまったのですから、我々すべてはMortal:死すべき運命なのです。

 その運命に打ち勝つ便宜(べんぎ)が、輪廻転生なのでしょう。


 まあ、愛する者をこの腕に抱けない代償が不死ならば、愛する者を抱きしめて、死への道を歩む方が幸せな気もします。

 ただの既視感から、どんどんハナシが大きくなってしまいましたが、ともかく、そういった「行ったことなどないのに何度も思い出す」ことを、みなさん経験されてはいませんか?

 蛇足ながら付け加えると、わたしの「見たことがない既視感」は、港の景色です。

 埋め立て地らしい広々とした港に大きな船が接岸され、幅広の道にはシュロの木が高々とそびえている。
 道を歩くわたしの影がくっきりと黒く見えることから、おそらく季節は夏でしょうか、不思議と暑さは感じません。

 ああ、そうだ、現実には見たことがない景色だと書きましたが、一度だけ、驚くほど、同じ風景にでくわしたことがあります。

 それは、ミッキィ・スピレーンの描く、マイク・ハマーシリーズの中の風景でした。

 行ったことのない、というか生まれてもいない1950年代のアメリカの港の風景、しかも小説内の描写で既視感を得るとは妙な話でした。

 スピレーンは、タイガーマン・シリーズなどはペイパーバックで読んでいますし、作風は好きなのですが……

 特に好きなのは、短編「ヴェールをつけた女」でしょうか。
 スピレーン唯一といってよいSFの佳編です。
 機会があれば、お読みください。

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2009年6月18日 (木)

魔球の伝説




 この間、行きつけの大学図書館で、「魔球の正体」なる本を見つけました。

 初版は2001年なので、もう随分前の出版になりますが、内容が面白かったので、備忘録も兼ねて、自分なりの解釈を加えて紹介しようと思っています。



 子供の時、野球のうまい友だちとキャッチボールをする時に、彼らの投げるボールが、自分の投げる球と違って、手元でのびるように感じられるのが不思議でした。


 後に、意識的に、球に強い逆回転を与えることで、自分の感覚以上に延びる球を投げることに気づきました。


 そして、さきの本で、その理論的裏付けが得られたのです。

 さらに、幻の魔球「ジャイロボール」についても知ることができました。



 さて、始めに手元で延びる球(直球)についてです。

 まずは基本を……

 地球上で放擲(ほうてき)された物体は、例外なく空気の影響をうけます。

 ボールもまたしかり。

 かつて、ボールを投げ始めた人類は、球をより遠くへとばすために、球に指をかけてリリースする瞬間に回転させればよいことに気がつきました。


 ああ、その前に、飛行機がなぜ飛ぶかはご存じですね。




 主翼の断面図をみると(下手な図ですみません)、下がまっすぐで、上がふんわりと曲がっています。

 そのために、翼の下を流れる空気より、上を流れる空気の方が早く流れるのです。

 ある物体の表面に、早く空気が流れる部分と、遅く流れる部分があれば、遅いほうから速いほうへと力が働きます。

 これが揚力(ようりょく)と呼ばれるものです。

 飛行機は揚力で空中に浮かんでいられるのですね。


 しかしながら、ボールは球なので、上下左右、流れる空気の早さは同じです。

 ですが、球に回転が生じると、ボールから見た空気の速さは見かけ上変わってしまうのですね。

 たとえば、直球を投げる時のように、球を進行方向に対して「逆回転」させると、球下側のボール表面は、球の回転する速さとボールの飛ぶ速さで相殺(そうさい)された遅いスピードの風を受けます。

 反対に上側は、投げるスピードと回転する速さが足しあわされて、流れる風のスピードが上がります。




 そこで遅いスピードの空気が流れるボール下部から、速いスピードのボール上部へ向けて、「マグナス力」と呼ばれる力が働き、回転をかけずに投げた球の軌道より、上のラインで飛んでいくことになるのです。(下図参照:バッター・キャッチャーからみた球の回転と動きです)





 これが理解できれば、あとは簡単です。


「進行方向と逆の回転する方向から力を受ける」わけですから、右に曲がるカーブを投げたければ、左側を逆回転させればよいし、左カーブを投げたければ、右側を逆回転させれば良い。




 縦に落ちるカーブを投げたければ、直球とは逆に「上側を逆転させるよう」に投げるのです。

 実際には、ピッチャーは、ボールを斜め方向に回転させることで、斜め上の力を受けさせたり、斜め下の力を受けさせて、さまざまな軌道を描く「魔球」を投げ分けています。


 上記本の説明で、とりわけ面白く思ったのは、フォークボールについて言及された箇所でした。

 わたしは、今まで、きちんとしたフォークなどは投げたことはないのですが、握り方は知っていました。

 あの、Vサインを思い切り広げてボールを挟み込んで投げるというアレですね。

 でも、なぜ、ああいう投げ方でフォークという軌道が完成するのかはわかりませんでした。

 しかし、先の理屈で考えれば簡単です。

 要するに、球に、左右の回転だけを与えるように投げれば良い。

 そうすれば、ボールは左右には曲がるかもしれませんが、上下方向には何の力も受けず、重力の力だけで下に落ちていきます。

 でも、なんだかおかしく思えますね、
 実際に目にするフォークは、どうしてあれほど急に落ちるのでしょう。

 何かの力がかかっているように見えますが、あれは重力だけで落ちているのですね。

 では、なぜそう見えるのか?

 先に書いたように、通常の球は逆回転をかけられて、上に浮かびながら飛んでいます。

 ですから、それに慣れた目には、重力によって自然落下するボールは、まるで地面に吸い付けられるような軌道に見えるのです。

 左右の回転だけを与えて、上下の回転をゼロにするためには、ボールを真横でつかんで投げる必要があります。

ボールに十分なスピードを与えつつ、上下の回転をゼロにする、それがあの思いっきり開きVサイン握りだったのですね。


 では、ボールに全く回転を与えなければ?

 それが、いわゆるナックルボールです。

 ほぼ回転せずに飛んでいくボールは、ボールの縫い目(シーム)のデコボコの影響を受けて、予測不能な動きをするのですね。

 だから、大リーグには、ナックルボールだけを投げて20勝するピッチャーも、ナックルボウラーの球だけを受けるキャッチャーも存在するのです。



 今回はこれぐらいにしておいて、次回は「ジャイロボール」についてお話したいと思っています。


 私のおすすめ:
魔球の正体

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2009年6月15日 (月)

スパルタンなお母さんっ子・ジョン・コナー T4

 ターミネーター4を観てきました。

 結論からいえば、まあ、よかったんじゃないでしょうか。

 3でブチ壊されたジョンのイメージ(ブタっ鼻のアメリカン・ボーイ)と、消滅させられたターミネーターのゴツイ恐ろしさ(だって、いくら男女ビョードーの時代だからって、あの細っこいネーチャンに、シュワルツェネッガーが振り回されるのはどうかねぇ)は、もうなかったということで、あくまで、亡き母サラ・コナーを慕いながら、戦争を生きていくジョンの姿を描こうとしている姿勢に好感が持てました。

 まあ、ちょっと映像がトランスフォーマーっぽくなっていたのは蛇足でしたが。

 いくら、巨大ロボットさえCGで表現できるからって、無理に使う必要はないでしょう。
 空中を浮遊する、巨大な飛行機、ハンターキラーのサーチライトの方がよっぽど精神的に恐ろしいのですから。


 残念だったのは、今回はタイムワープがなかったことです。

あれがあるからこそ、全裸男が登場する理由付けとなりえたのに……と思っていたら、そんなことは関係なくドンドン男たちのハダカが出てきてびっくり。

 しまいには、CGで作られたらしいシュワルツェネッガーの全裸姿まで登場する始末。

 それで、かつてスタローンの映画について語られていた風評を思い出しました。

 スタローンが脱ぐ映画はアタる。服を着たままならコケる。

 そういえば、個人的に好きな「刑事ジョー/ママにお手あげ」もLDを持っている「オスカー」も脱がなかったから、大コケしてたな……


 ともあれ、3はなかったことにして、新たな時間軸のもと、新しいターミネーターが始まりました。

 今まで、入場するたびに通わなければならなかったUSJのアトラクション「ターミネーター3D」へも、しばらく出かけなくて良さそうです。


 今回では、自分よりはるか年少である父親との対話が少なく、物語としての盛り上がりには欠けていました。

 その点は、次回続編に期待しましよう。

 次回は、スタートレックについて書きます。

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2009年6月14日 (日)

東のエデン 〜高貴なる身分にともなう義務〜

 ターミネーター4やスタートレック、あと魔球についても書きたかったのだが、週末にやってきた友人が持ってきたアニメについて書きたくなってしまった。



 そのタイトルは「東のエデン」。シリーズ構成は「攻殻機動隊シリーズ(テレビ版)」の神山健治。

 一見してわかるように、タイトルのモトネタは「エデンの東」で、いわゆる「ノーブレス・オブリージュ(高貴な身分にともなう義務)」を果たすべく選ばれた人々の奮闘話だ。





 キャッチフレーズは、

「この国の"空気"に戦いを挑んだひとりの男の子と、彼を見守った女の子の、たった11日間の物語」



 この放送途中の番組について、総括めいたハナシをするのはよしておこう。というより、そんなことはしない方がよいだろうな。無駄だから。


 だから、この作品のシリーズ構成者、神山健治の思考の流れ、というか源流というか、「如何にしてこのモノガタリができつつあるのか」を、わたしなりに考えてみようと思う。

 まあ、思考のソース自体が、ざっと通し見しただけの本編だけなので、ヌケ、勘違い、浅慮などあろうかと思うが、番組放映後に制作予定されているらしい完結編映画用の、自分なりの備忘録として記録しておくものなのでお許し願いたい。



 さて、何から書こうか?

 まず、このハナシを知らない人のために、モノガタリのアウトラインを。

 持って回った劇的手法はうっちゃって、とりあえず内容のみを書くと、時は現在(厳密には2010年)トコロは日本。

 ある日本のカネモチが、特殊な携帯電話を作って、それなりに日本の現状に不満を抱く老若男女12人にそれを渡したことでハナシは始まる。

 その電話には特殊ボタンがあって、それを押すと、コンセルジュ(コンシェルジュっていい方は気取り過ぎててイヤだ)のジュイスという女性(実は人工知能らしい)につながり、自分の望みを口頭で伝えると、一度に実現可能なものは即受理して実現、複雑なものは細分化してシーケンスにしたがって実行、結果的に同等の効果を実現してくれる。

 いわゆる「魔法の杖」たる携帯電話を渡された人々のドタバタを描くハナシだ。

 魔法の杖がユニコーンの角ではなく、フェニックスの羽でもないのが現代的だ。


 ただし、この魔法の携帯電話には、ふたつの大きな矛盾がくっついている。

 ひとつは、選ばれた12人(セレソンと呼ばれる)は、「日本を正しき方向へ導く」ことが義務づけられていることと、その予算がたかだか100億円ということだ。

 およそ、ひとりの人間が、金の力だけで一国を変えることはできない(ただし外国による圧力を利用し、マスメディアを使った広域アジテーションを併用すれば、ある程度は可能か?)し、さらにその予算が「たった」100億では、何もできない。

 多少でも政治に興味があるなら、日本という(経済的、人口的に)巨大な国家が、その身を少し震わすだけで、1000億や1兆は吹っ飛んでしまうことは周知の事実だろう。

 100億は個人にとっては大金だろうが、国が相手だとハナクソにもならない。

 しかし、このことを逆に考えると、「たった」100億をいかに効果的に使って、巨大な龍を踊らせることができるか、という面白い思考実験にはなる。


 セレソンたちは、以下のルールに縛られている。

 1.任務を途中放棄し逃亡した場合
 2.長期にわたりノブレス携帯を使用せず何の成果も挙げられなかった場合
 3.100億円を個人の欲望に使用し続けた場合
 4.国(日本)を救う目的が果たせぬまま残金が0円になった場合
 5.最初に義務を果たしたセレソンが現れた後、その一人以外セレソンは全て自動的に殺される。


 物語冒頭、主人公の青年は、ワシントンD.C.で記憶喪失状態で登場する。

 物語のナゾを簡単に案出するために記憶喪失を用いるのは少しイージーな気がするし、その上、後に判明する、ある装置を使ってわざと記憶を失ったその理由が、脆弱すぎてどうにも感情移入ができにくい。

 日本に帰る途中、彼は、去年から、日本に十発を越えるミサイルが打ち込まれていることを知り、自分の持ち物、写真などから、自分がその事件とニート2万人失踪事件(殺害されたという説あり)の犯人ではないかとおそれるが、実際は、彼こそが、それら大災害の被害を最小限に食い止めるために孤軍奮闘していたことが後にわかる。

 やがて、記憶を失う前の彼を知る他のセレソンが、次々と彼の前に姿を現すようになる……

 というのが、だいたいの梗概(こうがい)だ。

 で、上で述べたように、どうしてこんなハナシになったかを考えてみる。


 まず、タイトルたるシステム「東のエデン」


 作中では、大学生たちが作り出した「画像認識応用型自動検索エンジン」を表している。

 ヒトコトでいえば、携帯電話で写真を撮って、それを検索文字列代わりに、検索にかけると自動的にネット上の画像データと比較して、その説明を表示するプログラムだ。

 これこそは、かつて神山健治が、攻殻機動隊で描いた、すべての人々がネットにつながり、知りたい情報を瞬時に自動検索する、自分用に特化され検索エンジンのプロトタイプとなるべきものだろう。

 これなどは、米SF作家J.P.ホーガンが「未来の二つの顔」で、「星を継ぐもの三部作」で活躍する人工知能ゾラックの雛形の成立過程を描いてみせたことに、どことなく似ている。


 さらに、このアニメは国家の安泰?を揺るがしかねない「多数の人々」についての問題提起も行っている。


 攻殻機動隊では、外国の治安悪化と政府の「エエかっこしい」から受け入れた「難民」たちが、東京湾上に作り出した海上都市を国家的問題として取り上げていたが、2010年程度の日本では、問題となるほどの難民は存在しないため、神山はニートを同様の集団として扱おうとしている。



 そして、セレソンたちの何人かは、案の定、「日本を正しい方向へ導く」ために安直なフェニックス作戦(かぶらや命名)を行おうと画策している。

 これは、神山の師匠筋である押井が映画「パトレイバー2」で竹中直人演じる自衛隊関係者に語らせている「日本を一度、焦土と化して火の鳥のように再生させる」計画と同じだ。

 人工的な災害で人減らしをし、ダウンサイジングした小さな国家としてのやり直しを謀る……実行可能であるだけに、その安直な発想は鼻につくが、反面効果的ではあるだろう。

 一方、オトナの視点でこの作品を見て、興行的にウマイと思うのは、鋼の錬金術師の「等価交換」同様、(あまり意味は無いものの)ワンフレーズで物語を代表させる言葉を定着させたことだ。

「ノ(ウ)ブレス オブリージュ」あるいはAIのジュイスが最後に付加する「ノウブレス オビリージュ 今後も世界の救世主たらんことを」などは、DVDのCMなどでも使いやすく、そして、おそらくは、若者たちが、これまであまり知らなかったフレーズとして、以後、ジョーク的に使われることになるのだろうな。

 願わくば、彼らがその本来の意味に気づいて、その意義に目覚めんことを……

 なんせハガレンの「等価交換」の時はひどかったモンな。
 「等価交換」を、あたかも熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)のように考えて、同じ「マス」でないとイレカエが効かないといった誤った使い方をして得々としている子供たちのなんと多かったことか。まあ、そう思わせた制作者側も悪いのだが。


 それはともかく、

 この物語で面白いのは、セレソンたちが、何に金を使っているかが、他のセレソンたちに筒抜けであるということだ。

 だからこそ、主人公の青年は、他のセレソンによるミサイル攻撃による被害を、先回りして最小限にできたのだ。
(しかし、現状の日本のシステムでは仕方がないとはいえ、防衛システムコンピュータのハッキングを利用してミサイルを誤射させる、レイバー2の頃から進歩していない方法を使ったことは少し悲しい)

 その意味でも、主催者は、このゲーム(と主人公は思っている)を、お遊びとしてとらえている可能性が高いともいえる。


 それにしても、いくら考えても、たかが100億を渡して「日本を導け」とは常軌を逸している。

 複数のセレソンが協力して資金をあわせてるならまだしも(それでも1000億程度だ)、成功した一人以外すべて死、というシバリがそれを不可能にしている。


 今後、この物語がどこに進むかはわからないが、おそらくは、ダウンサイジングを目指すグループたちと、それを防ごうとする主人公の青年との戦いが主になっていくのだろう。

 そして、最後には、全てを束ねるフィクサー、亜東才蔵あるいは彼の残した精神的亡霊との闘い、ということになるのだろうな。

 なぜなら、主人公の滝沢 朗は、若き日の後藤隊長(パトレイバー)いや、より正確には、公安9課の荒巻大輔課長(攻殻機動隊)に他ならないのだから……

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2009年6月13日 (土)

だって、今のテレビを使いたいモン……地上・BSデジタルハイビジョンチューナー購入

 先日、ウチに遊びにきた友人が、BSデジタルの「レールのあった街」(2000年ハイビジョン制作、現在再放送中)はエエ番組だといっていたので、ぜひ見たくなって何とかしようと思い始めたのですが、巨大で電飾消費の大きいテレビほどポイントの高い、国民をバカにした、まったく無意味なエコポイントを使って『ちでじテレビ』を買うのも抵抗があります。

 そこで、かねてよりの懸案事項だった「ちでじチューナー」購入に踏み切りました。

 これなら、今ある液晶テレビ(アナログ)あるいは液晶コンピュータ・ディスプレイにD-subでつないで、比較的美麗な画面で視聴できますし、コンポジット・ケーブル、いわゆる旧来型のビデオケーブルで、テレビ録画用のコンピュータにつなげば、デジタル波の強化にともなって完全に映りが悪くなっているアナログ放送のドラマを、ダビング10を完全無視して録画することができます(ちょっと細工は必要ですが)。


 というわけで、比較的評判の良いアイオーデータの「HVT-BT200」を購入しました。

 ただの「ちでじチューナー」だけならもっと安価なものもあるのですが、目的の「レールのあった街」はBSデジタル放送なので、ちでじ+BSデジタルチューナーでなければならなかったのです。

 それに、一応、コンピュータと連動させて録画もするので、番組予約視聴機能がついているものにしなければなりません。
 安価すぎるものは、予約機能がついていないのです。
 おまけに、あまり安いと、タマによって当たり外れがある、つまり生産ロットによって不良品にあたる可能性があるのですね。

 一応、対抗馬として、マスプロの「DT35」も考えたのですが、評価がわからなかったのでやめました。データ放送を表示できるのは魅力的だったのですが……

 BSアンテナは今のアナログのを使うことにして、地上デジタル放送アンテナは屋根に上がってUHFアンテナの向きを変えるのもメンドウだし、基地局が、あまり遠くない山の上にあるのは知っていたので、バッファローのブースター内蔵小型アンテナ「DT-OP-RA」を使うことにしました。

 結果的には、これですべてOKでした。


 アナログ接続とは思えないほど、今までとはまるで違う、際だった文字のエッジに感動しています(イヤホント、画像よりも文字のクッキリ感がスゴイ!)。

 しばらく使ってみて不具合・不自由が出ないか調べてみて、またここで報告するつもりです。

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2009年6月12日 (金)

猫の首がねじれたら……捻転斜頸 2

 前回の文章を読み返して、結論が抜けていることに気づいたので、書き足しておきます。



 というわけで、愛猫、愛犬の首がどちらかに傾いている(タイトルの「ねじれる」は動物医の表現です。個人的には好きではありませんね)ことに気づいたら、

1.眼をみて、眼振(眼の縦揺れ、横揺れ)がないかを確かめる。

2.顔を正面から見て、どちらかのヒゲが下がっていないかチェック、下がっていたら、その方の眼のまわりや顔を触ってみて、眼を閉じたりする反応があるかを調べる。(顔面麻痺のチェック)

3.捻転斜頸があって、2.の顔面麻痺がある場合、中耳炎などの炎症による前庭麻痺による末梢性のものである可能性が高い。

4.捻転斜頸に加え、足などに麻痺が出る場合、脳腫瘍や脳炎などの中枢性が疑われる。

 ということですが、うちのヨリのように、三半規管の麻痺でバランスを崩して、あたかも足に麻痺がきているように見える場合もあるので、やはり最後はMRIによる診断になるようです。

 まあ、保険のきかない動物のこと、かなり高額になるのは覚悟の上で……

 (ちなみに、うちは初診料コミで8万円足らずでした)

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2009年6月11日 (木)

猫の首がねじれたら……捻転斜頸

 しばらく、ブログの更新間隔があいてしまいましたが、それには理由があります。

 私事(わたくしごと)で恐縮ですが、言い訳をかねて少し書かせていただこうと思います。


 「寒い国から来たフォトグラファー」で書いたように、少し前に、二週間足らずの間フェリーと高速道路を乗り継いで西日本をまわりました。

 その時、世話をする者がいなくなるので、我が家の猫三匹も一緒に連れて行きました。

 フォトグラファーも猫が好きだからと快諾してくれたので、猫とガイジンと日本人の百鬼夜行としゃれ込んだのですが、心配なこともありました。

 これまでも、野沢温泉へのスキーや地獄谷温泉など、様々な旅行に猫ドモを連れていったのですが、彼、彼女たちももう十数歳、人間でいえば60歳をこえる老猫なので、今までのように無理をさせずに、ペットホテルに預けるべきではないかと考えたのです。

 考えたあげく、連れて行くことにしました。

 一緒に出かけた方が、様子を見ることもできるし、犬と同室のペットホテルでは、かえってストレスがかかるのではないかと思ったのです。

 何より、これまでも大丈夫だったのだから、今回も大丈夫だろうとタカをくくってしまったのですね。

 しかし、やはり、長期の旅行は、彼らに予想以上の負担となっていたようです。



 帰宅後、ひと月ほどして、三匹の中で一番年の若い(といっても11歳ですが)雑種トラ猫のヨリ子が、うまく歩けなくなりました。


 ここからは、犬とも共通の話となりますので、ペットを飼っておられるかたは参考にしてください。


 ああ、そうだ。

 始めに書いておきますが、これは哀しい話ではありません。

 何かの参考になるかと思いますので、ぜひお読みください。


 ヨリ子の症状ですが、まず、今まで簡単に上っていた椅子に上れなくなりました。

 ついで、普通に立っていても、突然右後ろ足の力が抜けたように、くじけてコケそうになります。

 食欲は相変わらずありましたが、ケツコが数年前に、膿胸(のうきょう)になって一週間ほど生死の境をさまよった時も、呼吸困難になるまで食欲はあったので、これは参考になりません。

 すぐに医者に連れて行って足のレントゲンをとりましたが、問題はありませんでした。
 血液分析も正常です。 

 ここまで読むと、シロウトでも誰でも気がつくと思うのですが、医者は「足がおぼつかなくなる」のは脳に異常があるからだろうといいました。


 それが脳炎なのか腫瘍なのかは分からないが、足が麻痺したようになるのは、脳、それも脳幹に近い場所に何かがあると。


 わたしは飼い主の欲目で、三半規管の病気ではないかといいました。

 あるいはメニエール氏病のような、フラつく病気ではないか。

 すると、医者は、今の段階では分からないと答えました。

 その時は、とりあえず炎症を抑えるために、ステロイドをもらって帰りました。


 しかし、それからすぐに、ヨリ子の首が15度ほど右に傾くようになったのです。

 調べてみると、それは斜頸(しゃけい)と呼ばれる病気のようでした。

 猫にはまれで犬には比較的多いといわれています。

 ヒトの斜頸は首の筋肉などが原因のことが多いので、猫や犬の場合は、それと区別するために、捻転斜頸(ねんてんしゃけい)と呼ぶようです。

 原因は、末梢性(まっしょうせい)の内耳の炎症あるいは、中枢性(ちゅうすうせい)の脳腫瘍、脳炎のどちらかとあります。

 眼が左右あるいは上下に小刻みに動く(眼振:がんしん)ことがあって、それで末梢性か中枢性の区別がつく場合もある、とあったので、ヨリ子の頭を掴んで、じっと見ても、瞳は静止しています。

 ただ、左目が少しだけ、閉じ気味なだけです。
 気のせいか右のヒゲも元気がなさそうで、右目に少しだけヤニがたまっています。

 後から思えば、このことにもっと早くに気がつくべきだったのですが、この時は、上の現象が持つ意味がまるでわかりませんでした。


 ふたたび病院へ連れて行って、医者に、そのことを告げると彼女は耳を調べて、

「炎症を起こしていないし、はじめに足が動かなくなったのだから、これはもう脳性の病気に違いない」といいました。

 詳しく調べるためには、大阪にある施設で動物用MRIをかけるしかない、といわれたのですが、とりあえずは、さらにステロイドを与えて様子をみることにしました。


 二日後、庭で作業をしていると、部屋の中で魂が凍るような大きな叫び声が響きました。

 あわてて部屋に入ると、ヨリ子が倒れて、体をまっすぐに伸ばしたまま大声で叫び続けています。


 どうやら体が動かないようです。

 すぐにそのまま病院に連れて行きました。

 様子を見るために、そのまま入院させて、夕方に見舞いに行くと症状は改善していました。

 採血して調べると、ショックによる血糖値増加以外には、カリウム値が低下しているとのことでした。

 カリウム値が低下したのは、ステロイドの副作用かもしれないとのことです。

 低カリウムはケイレンを引き起こすこともあるので、そのことに言及すると、「それよりも、体が動かないのは、いよいよ脳の症状が進行したからでしょう」と宣告されました。


 これまで事実を直視するのが恐ろしかったので、先延ばしにしていたMRI検査をすぐに予約しました。
 その病院は、一見(いちげん)さんお断りで、動物病院から紹介者だけを診察するところのようです。


 検査日は四日後です。

 翌日、見舞いに行くと、脳の腫れを抑えるための薬物と電解質を点滴した結果、見違えるほど元気になったということで、検査日まで家で過ごすことになりました。


 家に帰ると、ヨリ子の体は、だいたい動くようになっていました。

 相変わらず首は傾き、足はおぼつかないのですが食欲はあります。

 発病時期から考えても、旅行のストレスが原因に違いないようです。

 元気が取り柄だったヨリ子を、こんな不自由な体にしてしまったことを、胸を叩いて悔やみました。


 そして検査日(今週の月曜日)、高速にのって玉造にある病院に向かいました。

 予約は正午から。

 40分ほど前について、待っていると時間通りに名を呼ばれました。

 診察室に入り、ひと通り問診すると、医者はヨリ子の体を触診し、眼に光を当てて、顔をピンセットでつつき始めました。

 そして、少し病室を歩かせるといいました。

「今の時点でわかる問題点として、斜頸と顔面麻痺そして手足の麻痺があります」

 え、と、思いました。今にして思えば、右側のヒゲが元気なさそうなのも、目やにがたまっていたのも顔面が麻痺していたからなのです。

「最初の二つは、末梢性のもの、前庭(ぜんてい)と呼ばれる部位で三半規管が炎症を起こしている時の症状です。心配なのは手足の麻痺で、これは中枢性の脳幹の損傷によるものかもしれません。それを判定するために、全身麻酔をかけてMRIを撮ります」

 それから二時間半の間、祈るような気持ちで(祈る対象はもっていないのですが)待ちました。

 再び名を呼ばれ、診察室にいくと、医者が、コンピュータのディスプレイにヨリの頭のスライス写真を連続で表示しながら説明してくれました。

 結論からいえば、脳の病気でなく、前庭に炎症がおこって、三半規管を含む鼓室(こしつ)に液体が溜まっているための症状だということです。

 最初に足が麻痺しているように見えたのは、バランスを崩して、体がふらついたためでした。

 これまでの症状(と医者のオドカシ)から考えて、脳幹に問題があるものだと覚悟していたので、ほっと安心しました。

 奇跡というものは、たまに起こるようです。


 治療は、投薬によるものと、耳の後ろから穴を開けて液体を排出するものとの二通りがあるとのことですが、ヨリ子には前者の治療法を施すことにしました。


 現在、投薬をはじめて三日になりますが、症状は改善してきました。

 捻転斜頸は、少し残っていますが、上れなかった椅子にも登り、足のふらつきもましになりました。

 あとは、日にち薬で、後遺症が残らないよう、温治療なども併用して養生させようと考えています。




 というわけで、心配ゴトも解消されたため、またブログを書こうと考えていますのでよろしくお願いします。 

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2009年6月 6日 (土)

ばかざんす

 これは単純に気になることなのですが、ここ数日、妙に政治家たちが、麻生総理について「ガバナンス」がない、という言葉を多用しています。


 まあ、簡単な英語ですから使うのは勝手ですが、誰が始めにいい始めたのでしょう?


 そういった無意味な英語を使うより、「統治力」や「統制力」といった日本語を使うほうが自然だと思うのですがねぇ。

 まさか、そんな英単語を使うことで、自分をエラく見せようなんて思ってないでしょうね。

 だいたい英語ぐらいじゃエラそうに見えないし……

 それとも、諸外国(うち98パーセントぐらい米国)に通じているワタシは、つい英語をつかっちまいましたという体を装いたかった?


 どうも、政治家で日本未定着の英語を多用するヒトはバカに見えますねぇ。



 個人的には、ガバなんすという「ガバ」も「なんす」も好きな音ではありませんし。


 「統治力」の方がはるかに美しい響きで、政治家の口から発せられるべき言葉のように思います。


 前回の「ハゲタカ」ではありませんが、政治家があまり米語を多用するのは、米国の尖兵(せんぺい)っぽく見えて、政治戦略的にもよくないと思うのですが、どうでしょうか?



 まさか、(親の)金の力で留学して米国で数年遊びくらしたのを自慢したいわけではないでしょうに。

 確かに、かつては、米語さえできれば「オエライヒト」として社会的に通用したという経緯はあります。


 わたしの知る、ある教授(音楽関係)は、自身何の業績もないのに、ただ米語で書かれた論文を訳すだけで、かなりの社会的地位を保っていました。

 やはりというか、案の定というか、末路は憐れでしたが……まあ、そう考えたら、人生、収支はつくようですね。



 閑話休題、政治家として、少子化を歎き、昨今の言葉の乱れを憂うなら、マズカイヨリハジメヨ(間違った使い方のほうですが)、正しい日本語による発言をして欲しいと思います。

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この腐った日本を……〜本日公開「ハゲタカ」〜

 昨日深夜、何気なくニュースを見ようとテレビをつけると経済番組をやっていました。
 電気自動車についての特集のあと、今日を最後に番組を降りるというキャスターがこういいました。

「二年間、この番組を担当させていただきました。最後にひと言だけ言っておきたいことがあります。明日、公開の映画『ハゲタカ』の中で、ひとつ間違っていると思うことがあるのです」

 明日から公開される映画について、どんなケチをつけるつもりなのだろうと注目していると、彼はこう続けました。

「外資系ファンド側の人間が劇中、こう言います。

『この腐った日本を買いたたいてやる!』

 これは明らかに間違っています。

 『日本は腐って』いません。

 二年間、この番組をやってきて、零細企業のもつ日本の高い技術力、そして、その技術を保持するべく、死にものぐるいの企業努力をしながら社員と会社を守ろうとしている小さな町工場をたくさん見てきましたから」


 経済ニュース番組で、久しぶりに大きく頷ける発言でした。

 もちろん、安易に自国を誇り、持ち上げることは危険です。

 しかし、同じ意味で、簡単に自国を卑下(ひげ)し、コキおろすことはもっと危険です。


 小説や脚本を書く時に、社会をシニカルに見る、いわゆる斜(はす)に構えた登場人物を出すのはドラマツルギーの基本です。

 なんせ、そういった人間はカッコよく映るものですから。

 しかし、個人的には、登場人物に、たとえそういわせたとしても、物語の内容には「世の中、そう捨てたもんじゃないんだぜ」というエッセンスを入れるべきだと思っています。

 「ハゲタカ」については、映画予告でしか知らないので、これ以上は書けないのですが、それでも、そういった安易に強い言葉で、人々の日常の不満を強化するようなドラマは、薄っぺらい感じがして好きではありません。
 
 特に、テレビドラマや映画のように、不特定多数の、少年少女を含む視聴者が対象のメディアではそうあってはならないような気がします。

 実のところ、わたしも「日本は腐っていない」と思っているからです。

 恥ずかしいたとえで恐縮ですが、『カラスは黒いという命題を否定するためには、たった一羽の白いカラスがいればよい』のですから。

 長く生きていると、世の中に絶望する時も多々ありますが、悪くないと思うこともあります。

 だからこそ、安易なピカレスク・ロマン(悪漢小説)で、浅薄(せんぱく)な『斜に構えた格好良さ』を前面に押し出すのはいかがなモノか、と考えてしまいます(自戒をこめて)。

 まあ「乗っ取り屋の拝金経済ドラマ」に、そういうものを望むのは無理かもしれませんが。


 わたしたちは、乗っ取りを「システム化」したアメリカ拝金経済の体たらくから何かを学ばなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

 三十年くらい前頃から、ドルが自由化され渡航しやすくなったアメリカに留学して、彼らのダイナミックさ(おおざっぱさでもある)に長く触れて精神が低温火傷(ていおんやけど)をし、すっかりアメリカ式拝金主義・競争主義に毒されて日本に帰国、それを吹聴しつづける米国お先棒担ぎ経済学者たちのいうことを鵜呑(うの)みにしてはいけません。


 「儲けが全て」を体現していたGM(ジェネラル・マッカーサーじゃないほうね)の放言、

「お父さん(GM)にとって良いことは、家庭(USA)にとって良いこと」

が、間違っているのは、直感的にも歴史的にも明らかなのですから。

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2009年6月 5日 (金)

神がウソつかはるわけあらへんし……

 しばらく前に「方言で読む日本国憲法前文」の話をしましたが、法律文に限らず、世にある様々な文章の多くは標準語で書かれています。

 海外で著(あらわ)された古今の名著も然り。

 古(いにしえ)の賢人によって語られる人生の真理も、主に東京という一地方の方言である「標準語」で語られると、地方に住む我々にとっては少し遠く感じてしまいます(現在の「標準語」は江戸本来の言葉である「てやんでぇ」とも違うわけですが)。

 そこで、タイトルです。

 今、大阪で「神がウソつかはるわけあらへんし…」と始まる「ソクラテスの弁明 関西弁訳」(北口裕泰訳・PARCO出版)が売れているそうです。




 この文章を読んで、かつて、大塩平八郎や浅野内匠頭・大石内蔵助といった歴史的大物たちの話し言葉について考えていたことを思い出しました。


 歴史モノに限らず、小説を書くときに迷うのは、「方言で書くべきか、標準語にするべきか」です。

 大塩平八郎は大阪の人間ですから、

「このままやったら、世の中が駄目になるんや。せやからワシらがなんとかせなならん」

と、反乱を起こしているはずでし、同じく関西の人間である大石内蔵助は、

「浅野家再興の成り行きを見るまでは、焦った行いをしたらあかんのや。仇を討つのは、その後でええ」

と、家臣を抑えていたことでしょうが、世のドラマを観ると、もう判で押したように、皆標準語で話していますね。


 基本的に、関西言語は役者にとってイントネーションが難しいからでしょうが、小説においても、彼らが標準語で話していると妙な気持ちがします。


 何かの文学賞に応募する時なども、「方言を使うか否か」は難しい判断となります。

 あまり方言を激しく使うと、下読みの段階で選者に弾かれることがあるからですね。

 標準語に慣れた選考人は、同じレベルの作品が並んでいたら、読みやすい文章を選んでしまいますからね。

 その方言がうまく文章と内容にマッチするように使うなら有効だと思いますが。

 しかし、憲法前文方言化でも少し書きましたが、おらが言葉で語られると、自分たちの血肉と化して文章が入ってくるような気がするのですね。


『ソクラテスの弁明 関西弁訳』

 訳者の北口氏は、わたしが学生の頃熱中し、大学図書館で何度も全集七巻を借り、CD全集も揃え、幾度となく独演会に出かけた、桂米朝の語り口を手本に『無知の知』をソクラテスに語らせています。

 結果として、非常に魅力的で分かりやすい訳本に仕上がりました。

 関西地方の方は哲学知識を増やすために、それ以外の地方の方は岩波の標準語版と読み比べるのも面白いかもしれません。


 私のおすすめ:
ソクラテスの弁明 関西弁訳

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2009年6月 2日 (火)

ニーニョ・セロをぶっ建てろ! 〜お国柄それとも深謀?〜

 もうかなり昔のように感じますが、豚由来インフルエンザが流行しはじめて、しばらくしてから「最初の感染者」として子供が紹介されたことがあります。

 その時、一緒にそのニュースを見ていた姪が「可愛そうに、いじめられるんじゃないかな、この子」というのを聞いて、イマドキの若者は最初にそう考えるのか、と目から鱗が落ちた気持ちになりました。

 そういわれれば、実際に、日本では関西で感染者を出した学校の校長たちが、涙を流していた記憶もあります。

 彼女がそう思うのも無理ないのかも知れません。

「感染者第一号」と聞いて、「ほう、記念碑的」と思わずに「イジメの対象になるのではないか」と心配するのは、いかにもネット世代的な反応に思われます。

 すっかり回復して元気に走り回る少年の映像を見ながら、おそらく日本ほどにネット社会になっていないメキシコでは、わたしと同じように考える人が多いのだろうなぁと考えていたのですが、先日、新聞に「ニーニョ・セロを銅像に」という記事を読んで、その感を新たにしました。

 ニーニョ・セロ(ゼロ番目の子供)とは、上で紹介された、最初に感染したメキシコの東部ベラクルス州ラグロリア村に住むエドガル・エルナンデス君(4歳)のことで、同州は、すっかり回復したエドガル君を「新型インフルエンザの流行を克服した人類の希望の象徴にしたい」と、鼻息も荒く(これはわたしの勝手な表現ですが)少年の銅像を建てる計画を進めているそうです。

 これには二通りの解釈があります。

 ひとつは、

「さすが太陽の国メキシコ!細かいことは気にしないラテン系。最初に感染しようが、そんなのはただの運。それより最初に感染していながら無事回復したのがエラい。銅像を建ててやろうじゃないの」

 もうひとつは、

「大人じゃなくて、子供が第一感染者なら画になる。これを機に銅像でも建てて名物にしようじゃないの by 州観光課」

 さて、どちらでしょう。

 おそらく、どちらか一方ではなくて、上のふたつが入り交じった動機なのでしょう。


 しかしながら、ご存じの方も多いでしょうが、その後、正式な第一感染者はエドガル君ではなく、メキシコ市の成人男性であることが確認されています。

 当然、ベラクルス州もそれを知っているわけですから、おそらく今回のインフルエンザ禍で大打撃を受けた観光のテコ入れに使おうという思惑(おもわく)が、「ニーニョ・セロ」銅像計画の推進力になっているのでしょうね。

 いずれにせよ、イジメの気配も見せず走り回っているエドガル君の姿は、日本の陰湿な感染者(関係者含ム)対応に慣れた目には新鮮にうつります。

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