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2009年5月21日 (木)

コトバノチカラ

 よくいわれる言葉に「音楽で世界を変えることができる」あるは「音楽で世界は変わらない」というものがあります。

 私見では、前の言葉は、音楽を愛しその力を信じる若者が不満に思う現実世界へと理想を発信しようとするものであり、後ろの言葉は、それが思ったほどの成果を上げず挫折感を味わった時の言葉であろうと理解しています。

 個人的には、音楽で世界を変えることはできないと思うからです。
 いや、誤解を覚悟でいわせてもらえば、メッセージソングで軽々に変わるような世の中では、アブナっかしくて仕方がない。

 でも、間接的な影響なら与えることはできると思います。

 つまり、ある個人に対しては、その人生観が変わるような影響を与えることもできるだろうし、彼が世に出て社会を動かせば、その歌は世界に影響を与えたことになる。

 ただ、自分の歌でトランス状態になった聴衆が、その勢いで世の中を変えてくれる、と考えるのは少々浅薄(せんぱく)の感があります。

 数万もの観衆が、自分の歌に酔いしれる姿を見ていれば、そう考えるのは無理もないでしょうが……


 その点、同様に見えて「演説」は時として国を動かす力を持つことがあります。

 第二次大戦前のドイツや、さきのオバマ氏(並べるとマズいかな)などを見ていると、前例があることがわかりますね。

 時として、言葉には鈍い重みが加わって、強烈な影響力をもつことがあるのです。

 だから、使いドコロが難しい。

 千年の昔から吟遊詩人がやっていたように、広めたいメッセージを歌にのせて伝えれば、人の耳には優しく届きます。音楽というオブラートに包まれたメッセージとして。だから多数の人に聞いてもらいやすく広めやすかった。

 しかし、多少のレトリックはあるにせよ、言葉はむき出しの刃(ヤイバ)であり、特に若者に対しては、あたりどころが悪ければ思想を変えてしまうような危険な面さえある。

 先日、BS世界のドキュメンタリー「子どもたちは見た〜パレスチナ・ガザの悲劇〜」を、偶然観ることができました。

 タイトルこそ「家政婦は〜」っぽい感じなのですが、中身は、オトナたちの戦争に巻き込まれて、家族や兄弟を目の前で殺された子供たちの証言集です。

 彼らの言葉のひとつひとつは限りなく重い。

 ひどく泣くわけではなく、激昂するわけでもなく、ただ淡々と無抵抗な父が、兄が、弟が銃弾をうけて死んでいった様子を語り続ける。

 それを観ながら、かつて自転車で回った沖縄で訪れた「ひめゆり記念館」の一室を思い出しました。

 ご存じの方も多いでしょうが、そこでは、生き残った女の子たちの証言が、大きく引き延ばされた本のかたちで残されています。

 子供らしい可愛い文章でつづられるのは、銃声と爆音と血と仲の良い友だちの突然の死がほとんどです。

 引用したいのですが、今はやめておきます。

 その時、わたしは気づいたのです。政治家のウソっぽい、ペラペラな「重い発言」などではなく、世の中には本当に「巨大な質量の言葉」が存在するということを。


 と、ここまで書いて、これからが本題です。

 長らくわたしは、日本には、国として誇らしく高らかに世に向かって放つ「大きな質量の言葉」などないと思っていました。

 アメリカには独立宣言が、フランスには景気のいい戦争国歌(ラ・マルセイエーズ:歌詞を知ってますか?)が、誇らしげに自国をアピールしています。

 しかし、日本にはそんなものは見あたらない。

 さきの戦争で徹底的に叩かれ、萎縮してしまって、言葉を発する気力すら無くしてしまったように思えます。

 しかし、あったのですね。

 警察官や消防署員、看護師や果てはボーイスカウト、ガールスカウトの宣誓といった特殊な人々のための言葉ではなく、日本国民すべてのために存在する宣言文が。


 お分かりの方もおられるでしょうが、それは「日本国憲法 前文」です。

 改憲の是非、あるいはアレはアメリカから押しつけられたモノに過ぎないじゃないか、といった議論はともかく、この前文をすぐに口にできる方がどれぐらいおられるでしょうか?

 実は、わたしは始めの部分だけなら暗唱できるのです。もうずっと前に入学試験のために覚えたからです。

 しかし、当時、この前文については、特に何の感想も持ちませんでした。


「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、
われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢(ケイタク)を確保し……」


 そりゃあ「国民によって選ばれた代表者」によって自由のもたらす恵沢(ケイタク)を確保し……ってことは大切でしょう。これが発布される直前まで、国家総動員法という人権無視の政治をやっていたのですから。

 でも、ケイタクってなによ。んなムツカシイ言葉を使って、また我ら愚民をケムにまこうとしているのだな、などとハスに構えていたのですね。


 数年前、改憲の是非はともかく、この前文を、日本各地の方言で朗読させる運動をしている方の話を耳にしました。

 その時も、あんなケータク文を地方の言葉で読ませて何になるのだろう、と思っていたのですが……

 何気なく、前文の後半部を読んで驚きました。

 というか、改めて気づいたのです。

 今まで、前文前半の、教師が「ここ大切だからぁ。テストでるからね」といっていた「主権在民」のところだけを読み、アクビをこらえて覚えていたことに。


「日本国憲法 前文」の後半部は、まるで美しい詩のようでした。


 そこでは、現実的であるかどうかはともかくとして、世界が願っている恒久平和を素晴らしく具体的に述べられています。

 アメリカによる理想主義のおしつけ、そして日本の戦争に対する過度の反省などといった成立過程はともかく、ここには日本が高らかに世界に誇りえる宣言があります。


 それの維持と実現には多くの矛盾と限界はあるでしょうが……


 最後にそれを引用しておきます。



日本国憲法 −前文(後半)

日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制(せんせい)と隷従(れいじゅう)、圧迫(あっぱく)と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努(つと)めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに 生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従(したが)ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高(すうこう)な理想と目的を達成することを誓ふ。




……ゼンリョクあげなきゃ。

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