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2009年5月18日 (月)

古代ロマン ←おやつじゃないよ

 友人に考古学者がいる。

 今、助教授(准教授っていうのだったか?)で、大学で教鞭をとっているはずだ。

 彼に限らず、わたしの周りには考古学が好きな者が多い。

 どうやら、子供の頃から、土地を掘れば、まず何かが出てくるというお国柄で育つと、人は二通りに別れるらしい。

 古代に興味を持つ者とそうでない者の。

 わたしは後者だった。

 前にどこかで書いたと思うが、掘れば掘るほど「未知のテクノロジ」がザクザク出てくるSFワールド、ならともかく、なんだかスミの塊みたいな木簡だったり、古代のトイレ跡が出てきても、あまりワクワクしない。

 かつて、松本清張や高木 彬光など、著名な作家たちが激論を闘わせた論争、邪馬台国が、九州にあろうと関西にあろうと、はては徳島周辺にあろうと個人的にはそれほど気にはならない。


 しかし「ラクしてウハウハ金儲け!」ほどに興味はなくとも、かなり多くのひとが「古代のロマン」に興味をもっているのは事実だ。


 今回、書きたいのは「それがなぜなのか」についてだ。


 このことについて、かなり以前に、わたしはひとつの結論に達している。


 これから書くことは、あくまで個人的な感想なので、あまり本気にとらないで欲しいが……



 もったいつけずに結論からいえば、人々が古代史に興味をもつ一番の理由、それは、最近こそ変わってきているようだが、初等・中等教育で「歴史を古代史から習い始める」からなのだろう、とわたしは睨んでいる。


 誰しも「知識のあるものには興味をもつことができる」からだ。

 もちろん「1000年を超えた時間の長さ」に郷愁と憧れを感じていることもあるだろうが、それだけではない。


 逆を考えてみればいい。

 たとえば、あなたの周りに、近代史=とくに昭和史に興味をもつ人が、どれだけいるだろうか。

 もちろん、現在に通じる人権運動やその他の活動を通じて昭和史を研究している人もいるだろう。

 だが、それはあくまでも「ためにする」勉強だ。

 近代史を学んで、だからこそ今変革を!と叫ぶための道具だ。


 昭和史のロマンに惹かれてただ知識を求める……などという事例を、寡聞(かぶん)にしてわたしは知らない。


 しかし、幕末、明治初期の頃となると、多くの人々が関心をもち、野に下って研究を行っている方も多くなる(わたしがここで述べているのは、専門の研究者ではなく、あくまでも個人の趣味において、だ)。



 一般に、「古代から明治期まで」の歴史に興味をもつ人が多いように思う。


 そして、まさしくこれは、今、オトナの人々が学生時代に学校で習った範囲に重なるではないか。


 かつて、多くの学校が基本的に教えず、よって入学試験にもほとんど出題されなかった近代史(戦中戦後)は、人々にとって興味の薄い時代だった。

 まあ、昭和史(戦後含む)に関しては、そもそも全国民にコンセンサスのとれた歴史的総括が行われていないことも学校で教えにくかった理由なのだろう。


 さらに、昭和史は、あまりに現在の自分たちの利害(いろいろな意味での)に直結しているから、生臭すぎて研究対象になりにくい、純粋に研究対象たりえるのは、ある程度、時間が経ってから、という理由もわかる。


 その点、日本の開祖にまつわる古代史は必ず歴史の教科書で習うものであるし、もっといえば、学生たちが、入学・進学直後の、まだ青雲の志をもって学問に取り組むほんの短い一時期に教わるものだから、印象深く記憶に残るものなのだ。

 そう考えれば、想像以上に多くの人が「木簡発見!邪馬台国はなかった」などの見出しに飛びつき、ブルーシートで覆われた作業現場しか見ることができない発掘場所に出かけてしまう理由もわかる。


 付け加えれば、「自分たちがどこから来たのか」という民族としてのアイデンティティを確かめ「どこに行こうとしているのか」を探りたいという、本能的な欲求が後押ししているのも事実だろう。

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