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2009年5月27日 (水)

雑巾から大海を……

 21日付けの新聞記事で、評論家の山形浩生氏が「少ない情報源での議論に限界」と題する評論を載せていた。

 その中で、氏は、今回のインフルエンザに関するネットの反応に対して、批判的な意見を述べている。

「インターネット(の発達)に伴う自由な言論と民主主義の高まりについては、多くの人が期待と希望を表明している。多くの人がブログで意見をいいあい、独自の分析や情報を加えてマスコミ報道などを検証修正することで、もっと民主的な世論形成が可能ではないか、というわけだ」

 だが、氏のいう「多くの人」とは、どういった層の人なのだろうか。

 少なくとも、日本におけるインターネットの黎明期から、この世界を見てきたわたしには、ネットの発達が、直接的に「民主主義の高まり」(言葉が足りなくてよくわからないが「民主主義の機運の高まり」ということなのだろう)を促すとは、考えられないのだ。
 ブログなどで、人々が、マスコミ報道などを検証修正することで、社会に何か影響を与えうるのだろうか。

 確かに、名もない個が、世界に向けて、いわゆる「意見を発信」することができるようになったのは、民主主義にとってメリットがある。

 近頃では、某大国の攻撃を受けて、街中で息を潜める人々の様子がWEBカメラで発信されるというような、マスコミの息のかからない「生の情報」が現地の人間から出てくることもよくあるからだ。



 因(ちな)みに、わたしは、いつの頃からか当たり前になってしまったWEBカメラの画素数の少ない汚い映像、そしてスループットの出ない回線でカクカク動く「現地取材者の顔を写しながらの報告映像」が、あまり好きではない。
 現地の様子を写した映像なら公共放送で写す価値はあるが、現地取材者の顔を売るための、売名行為然とした顔つき映像を、安易にWEBカメラのようなチープな機材を使って見せるべきではないと思うのだ。



 勘違いしてはいけないのは、生の情報(しかも、その正しさが何も保証されない)が安易に世界に発信されるだけでは民主主義の一助とはならない、どころか「ためにする」作為的なニセ情報、あるいは「世間が騒ぐのをおもしろ」がって作られるチープなニセ情報は、却(かえ)って民主主義に仇(あだ)なすものとなってまうことがある、ということだ。

 テレビ放送が我々に教えてくれた教訓は、緩やかな規制の下で、群衆の好みに迎合して作られる番組は、際限なく堕落する、ということだった。

 ネットにおいては、発信者の身分特定や、その規制すらままならないのが現状であるから、さらに、平均的内容は程度の低いものになる可能性がある。

 誤解して欲しくないのは、わたしは、ただ闇雲にネットの現状を非難し否定しようとしているのではない。

 ネットとは、正しく玉石混淆(ぎょくせきこんこう)、屑や危険なものさえあるが、それをより分ける目さえあれば、様々なものを掬いだせるメルティング・ポット(坩堝)なのだから。

 元が、たとえ完全にニセの情報であったとしても、それに触発(しょくはつ)されて、新しいものが生み出される可能性がある。


 ネットは、良くも悪くも人の可能性を刺激する場所なのだ。


 と、思っていたのだが、山形氏の先の意見に続く評論を読んで少し意見が変わった。


 氏は、民主的な世論形成の助けとなるはずのネットが、今回のインフルエンザ禍では、そうならなかったことに苦言を呈している。

 既存マスコミとネット論者たちが、数少ない情報源であるWHOや保健当局の発表をもとに、話を誇張して煽(あお)るという同じことを行ったというのだ。

 その原因は、情報の出所がそもそも限られていて、別の視点や情報がなかったからで、結果として、両者は同じネタをもとに、自分の不安や聞きかじり情報を足すしかできなかった。一番恐ろしげなことを言ったやつが目立ち、みんながお互いの不安を参照し合い、それが増殖したのだ、と。

 さらに氏は、こう続ける。

 本当ならマスコミなりネットなりに期待されるのは「さはさりながら、(感染は)多少は入ってくるでしょ」と冷静に指摘することだった。それができないのは、ネット論議の限界を示すものだ。一次情報源が限られている時には、ネットには何の優位性もないのだ。

 そして、こう結論づけている。

 ネット論壇の真価のひとつは、その「視点なり情報源なりの多様性」だ(カッコは筆者)。


 これは重い指摘である。


 わたしは少なくとも、その(悪意ある)揚げ足取りから単なるこき下ろしまで含めて、ネットにあふれる無名な市井(しせい)のアイデアに、僅かばかりでも、オリジナリティの光があるものだと考えていた。

 だから、よくシェイクスピアの評論を揶揄(やゆ)するときに使われる『雑巾を絞って大海を生じさせる』つまり、限りある原作から無限の評論がわき出てくるように、ネット界においては、たとえば「インフルエンザ」というひとつのテーマが放り込まれれば、それにインスパイアされた各人が、自分の知識を加えて何かを導き出すのではないかと、わたしは思っていたのだ。

 しかし、どうやら、まだネット界は、それほどに成熟していなかったらしい。

 たとえ、情報源が限られていても、それを自分の判断で料理してオリジナルな情報を発信することができなかったのだ。

 言い換えれば、これまで「情報の多様性」に胡座(あぐら)をかき、対象を掘り下げて、自分の経験と知識で評価、評論することを厭(いと)ってきたネットの怠慢が、この世界的な情報操作(パニック抑制のために、確かに行われていたはずだ)で、露呈してしまったのだ。

 たとえ冗談まじりのものであっても、「雑巾を絞って大海を生じさせる」ように、百花繚乱の様々な意見が出るべきだった。

 この際、人の生死に関わることだから自粛したのだ、などという綺麗事(キレイゴト)は通用しない。なぜなら、ネットは人の生死すら「ネタ」として平然と使って来た経緯があるのだから。

 多様な情報を飛び移りながらサーフィンしているだけでは、決してオリジナルな視点は身につかない。

 人は、ひとつのことを掘り下げて考えてみた時に初めて、多少なりとも人と違うオリジナルな視点を持つことができる。

 そして、それを発信する者が多くなれば、ネットに多様な視点が構築されるのだ。

 その意味で、制限された情報下で、多用な意見がでるようになった時こそ、ネットに真の存在意義が生じるのかもしれないとおいうのが、現時点でのわたしのネットに対する考えだ。

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