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2009年3月27日 (金)

『さようなら』は別れのコトバ  


 昔のヒット曲に、さようならは別れの言葉じゃなくて…という歌詞がありました。

 でも、ありていに言えば、「さようなら」は別離の言葉です。

 世界のどこの国の表現とも違う「別れのコトバ」、それが「さようなら」なのですから。


 わたしは、昔から「さようなら」という言葉が嫌いでした。

 だから、友人に告げる別れの挨拶で「さようなら」は、使ったことがありませんでした。


 その言葉を口にすると、なんだか、もう二度と会えないような気がしていたからです。


 先日、ちくま親書『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一著)を読みました。

 「さようなら」とは、「さようであるなら」つまり「そうであるなら」の先が省略されている言葉です。

 そうであるなら……何なのでしょう?

 筆者はいいます。

 世界には様々な別れの言葉がある、と。

1.グッドバイ(英語)=神々の加護を祈るいいかた。

2.再見:ツァイツェン(中国語)=また会うことを期待するいいかた。

3.アンニョンヒ、ゲセヨ(朝鮮語)=相手の無事を願ういいかた。


 しかし、「さようなら」には、その、どれにも属さない独特のニュアンスがある。


 筆者は、万葉集から源氏物語、現代詩までの文献をもとに、その後ろにある、死(永遠の別れ)に対する日本人の態度、死生観にまでさかのぼって考察をすすめます。

 そして「さようなら」に、日本人の「これまでの過去を踏まえて現在を総括し、そこから未来へ繋げていこうとする心の動き」を感じ取ります。

 同時に、筆者は「さようなら」に、『(不慮の死といった)不可避の状況を受け止める日本人としての諦念(ていねん:あきらめ)』をも感じ取るのです。

 かつて、米女性飛行家アン・リンドバーグをして「これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない」と言わしめた「さようなら」です。

 言葉に対して感性の豊かな者であれば、著者のように、数多くの文献に当たらずとも、「さようなら」の持つ人間的な暖かみと人知を超える厳しさ、そして生徒死の「あわい」で揺れるその両義性を自然に感じ取ることもあるのでしょう。


 もちろん、わたしには、そんな感性はありません。


 今思えば、ただ「さようなら」という音が持つ、そこはかとない寂しさに、不安を感じていただけです。



 ここまで書いて、ふと思い出しました。

 ある小学校の校長の言葉です。

「校長になって、夏休みの前の終業式で、全校生徒を前にして『休み明けに、ひとりも欠けることなく、この場に全員が顔を見せるように』という常套句を、自らが口にした時はじめて、この言葉の真の重さに震えが来ました。

 それまで、いち教師として、こういった「校長の言葉」をなんとはなしに聞いていたのですが、学校を統べる者として生徒を見た時に、数百人の生徒(今はもっと少ないでしょう)が、そろって無事に夏休みを終えることの『奇跡性』を実感したからです」


 確かに、全国レベルでみれば、残念ながら、夏休みの間に水の事故で命を落とす子供たちが必ず存在するでしょう。


 だからこそ、彼が、全校生徒に対して壇上での挨拶を終え「それでは皆さん、さようなら」と口にした時、竹内氏の述べている「さようなら」の持つ人間的な暖かみと人知を超える厳しさ、そして生徒死の「あわい」で揺れるその両義性がくっきりと姿を現したような気が、わたしにはするのです。

 元気でまた会おう、だが、もし、さようでないなら(そうでないなら)……(わたしも、そしてあなたも)静かに逝け、と。



 私のおすすめ:
日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか /竹内整一/著 [本]

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