« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月

2009年3月30日 (月)

寒い国から来たフォトグラファー その2

 数日が過ぎて、かなり「彼」の扱いかたが分かってきました。

 仕事の合間の会話で、彼の娘が、トライアスロンの国代表に選ばれていることを知りました。

 そして、彼が、デュッセルドルフに会社を持つ社長兼トップ・フォトグラファーで、今まで数百冊の本を出していることも(結構エラいヤツだったんだなぁ)、アメリカに豪邸を持っていることも(結構金持ちだったんだなぁ)、今回がほぼ最後の大きい仕事で、これからはリタイアに向けて仕事を減らしていこうと思っていることも。

 彼は、ポートレイトの写真家ではなく、風景の写真家でもなく、食べ物を撮るフォトグラファーでした。

 はっきりと口には出しませんが、オランダの端の島国(南の方にあるそうです)で生まれて、貧乏で苦労した経験が、彼を「食べ物」を撮る写真家にしたように思えます。

 扱い方は分かってきたものの、どこのレストランに入っても、厨房の中をのぞきたがる(そして写真を撮りたがる)癖は同じで困ります。

 さて、あと2週間、どうなりますやら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月29日 (日)

寒い国から来たフォトグラファー その1  

 先日ブログに書いた、ドイツの出班社に派遣されたフォトグラファーが、昨日、日本につきました。

 いよいよ、今日からガイド開始です。

 思ったとおり、前途多難の船出となりました。

 というのも、その男がとんでもないブットビ野郎だったからです。

 話す言葉のうち6割異常が冗談なので、どこまでまじめに聞いていたらいいかがわからない。

 その上、いいかげんイイ年をしているのに、ジャーナリストばりに、やたらと目標物に突進していくから目が離せない。

 一昨日も、訪ねた手作り醤油の工房で、深さ2メートルある、真っ黒な醤油の材料がたっぷりつまった容器の上から写真を撮りたいとゴネて、社長およびわたしが止めるのもきかず、樽のヘリを歩いて奥から写真をとったのはいいものの、戻る時、あと10センチで通路というところで、シコタマ柱にぶつけてひっくりかえってしまいました。

 彼は、すぐに自分の身長が191センチあるということを忘れて、アタマを軒にぶつけてしまうようです(スキンヘッドなので、彼は常に帽子をかぶっています)

 体重も100キロを超える大男が華奢な渡り板の上でひっくり返ったのだからたまりません。

 すさまじい大音響に、会社中の人間が集まってしまいました。

 さいわい、板も割れず、倒れたのが穴の中でなく、板側だったので大事には至りませんでしたが、ひとつ間違えて、大惨事になるところでした。

 叱りつけてもどこ吹く風といった態度で、まったく応えていないようです。

 だんだん、大型犬に引きずられながら散歩する飼い主の気分になってきました。

 これからどうなることやら……

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月28日 (土)

あんた子供ですか? 〜14歳からの世界金融危機〜




 本屋に行くと、「14歳」が大流行(おおはやり)です。

「14歳からの哲学」だの「14歳からの世界金融危機」「14歳からのお金の話」だの「14才の母」だの「14歳(フォーティーン)」だの……


 いや、最後のふたつは冗談ですが、でもなぜ14歳なのだろう?

 これらの本は明らかに14歳を対象にはしていない。大人を相手にして書かれた本だ。

 つまりなんでしょうか、よく言われる「アメリカ人の平均知能は14歳」同様、平均的日本人の知能もだいたい14歳だから、それにあわせて書いた本なら、その程度の社会人でも読めるぜコノヤロ、というカンジなのでしょうか。

 だとしたら、人をバカにした話です。


 だいたい、平均的アメリカ人の知性が14歳だなんてとんでもない。

 先日読んだ「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」町山 智浩著によると、平均的アメリカ人の知能程度はもっと低そうです。




 アメリカ在住のコラムニスト、町山 智浩が『週刊現代』の連載コラムに『論座』『サイゾー』等掲載記事、および書き下ろしを加えて出版されたこの本は、その衝撃的?なタイトル、安っぽいペーパーバック調の装丁、おちゃらけた文体から、またぞろフザケタノリのアメリカ茶化し本なのか、と思いきやそうではない。

 序章:アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない
  第一章:暴走する宗教
  第二章:デタラメな戦争
  第三章:バブル経済と格差社会
  第四章:腐った政治
  第五章:ウソだらけのメディア
  第六章:アメリカを救うのは誰か
  終章:アメリカの時代は終わるのか

 オーバーに書きすぎている点はあるものの、かなり正確にアメリカの実体を衝いている。

 まあ、それをマルママ信じ込んで、得々と友達に吹聴するのはやめたほうが良いと思うけれど、こういった側面をアメリカが持っていることを知るのは大切でしょう。


 この本によると、だいたいアメリカ人の平均的知性は8歳ぐらいですね。

 14歳じゃない。

 だから、日本人のサラリーマンを対象に「14歳からの」をタイトルにした本を出すのは、まだ日本人が上だと考えているからかもしれませんね。



 「14歳からの金融危機」(池田彰)で気に入った表現がひとつあります。

 「福袋だと思ったら闇鍋だった」

 うーん、わたしの持っているサブプライム・ローンのイメージを一言で表したら、正しくそれだな。

 感心した。

 なんだ、わたしも14歳だったんだ。


 私のおすすめ:
14歳からの世界金融危機。 サブプライムからオバマ大統領就任...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月27日 (金)

『さようなら』は別れのコトバ  


 昔のヒット曲に、さようならは別れの言葉じゃなくて…という歌詞がありました。

 でも、ありていに言えば、「さようなら」は別離の言葉です。

 世界のどこの国の表現とも違う「別れのコトバ」、それが「さようなら」なのですから。


 わたしは、昔から「さようなら」という言葉が嫌いでした。

 だから、友人に告げる別れの挨拶で「さようなら」は、使ったことがありませんでした。


 その言葉を口にすると、なんだか、もう二度と会えないような気がしていたからです。


 先日、ちくま親書『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(竹内整一著)を読みました。

 「さようなら」とは、「さようであるなら」つまり「そうであるなら」の先が省略されている言葉です。

 そうであるなら……何なのでしょう?

 筆者はいいます。

 世界には様々な別れの言葉がある、と。

1.グッドバイ(英語)=神々の加護を祈るいいかた。

2.再見:ツァイツェン(中国語)=また会うことを期待するいいかた。

3.アンニョンヒ、ゲセヨ(朝鮮語)=相手の無事を願ういいかた。


 しかし、「さようなら」には、その、どれにも属さない独特のニュアンスがある。


 筆者は、万葉集から源氏物語、現代詩までの文献をもとに、その後ろにある、死(永遠の別れ)に対する日本人の態度、死生観にまでさかのぼって考察をすすめます。

 そして「さようなら」に、日本人の「これまでの過去を踏まえて現在を総括し、そこから未来へ繋げていこうとする心の動き」を感じ取ります。

 同時に、筆者は「さようなら」に、『(不慮の死といった)不可避の状況を受け止める日本人としての諦念(ていねん:あきらめ)』をも感じ取るのです。

 かつて、米女性飛行家アン・リンドバーグをして「これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない」と言わしめた「さようなら」です。

 言葉に対して感性の豊かな者であれば、著者のように、数多くの文献に当たらずとも、「さようなら」の持つ人間的な暖かみと人知を超える厳しさ、そして生徒死の「あわい」で揺れるその両義性を自然に感じ取ることもあるのでしょう。


 もちろん、わたしには、そんな感性はありません。


 今思えば、ただ「さようなら」という音が持つ、そこはかとない寂しさに、不安を感じていただけです。



 ここまで書いて、ふと思い出しました。

 ある小学校の校長の言葉です。

「校長になって、夏休みの前の終業式で、全校生徒を前にして『休み明けに、ひとりも欠けることなく、この場に全員が顔を見せるように』という常套句を、自らが口にした時はじめて、この言葉の真の重さに震えが来ました。

 それまで、いち教師として、こういった「校長の言葉」をなんとはなしに聞いていたのですが、学校を統べる者として生徒を見た時に、数百人の生徒(今はもっと少ないでしょう)が、そろって無事に夏休みを終えることの『奇跡性』を実感したからです」


 確かに、全国レベルでみれば、残念ながら、夏休みの間に水の事故で命を落とす子供たちが必ず存在するでしょう。


 だからこそ、彼が、全校生徒に対して壇上での挨拶を終え「それでは皆さん、さようなら」と口にした時、竹内氏の述べている「さようなら」の持つ人間的な暖かみと人知を超える厳しさ、そして生徒死の「あわい」で揺れるその両義性がくっきりと姿を現したような気が、わたしにはするのです。

 元気でまた会おう、だが、もし、さようでないなら(そうでないなら)……(わたしも、そしてあなたも)静かに逝け、と。



 私のおすすめ:
日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか /竹内整一/著 [本]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月25日 (水)

ドサまわり〜

 ああ、知らない間に、何日かブログ書きが抜けている!

 言い訳をするのではありません(ちょっとしています)が、このところ、仕事がらみで用事が入って、急に忙しくなってしまったのです。

 先日、オランダの知人からの紹介で、ドイツの出版社のカメラマンが「日本の食と文化」の撮影のために来日するので、その日程のアレンジと通訳をやることになりましたたのです。

 はじめのうちは、まあ、適当に通訳しとけば良いだろう、と思っていたのですが、向こうから届いた撮影対象を見て驚きました。

 「相撲部屋の練習風景」や「力士がチャンコ鍋をつつく写真」、茶会の一挙手ごとの写真、「味噌と醤油の伝統工法」の写真、臨場感ある「黒豚農場の人々の生活」など、いったいドコをツツけば、わたしの生活にこんな接点あるのよ、というテーマが多かったからです。

 まあ、お茶会ぐらいならなんとかなるのですが……

 経費はユーロだてでもらえるのですが、この円高のご時世に、ユーロでもらっても、アシが出そうで恐ろしいですね。

 メールで送られてきた契約書には、しっかりと「アシが出たら自腹」と書かれていますし。


 そんなこんなで、てんやわんやになっている上に、朝10時からのWBCの連戦があったのですから、たまりません。

 夜行性生活のわたしにとっては、朝9時半など、真夜中に近い時間帯です。

 試合開始にに合わせて早起きを続けた上に、さきの取材のアレンジに忙殺されて、ブログの毎日更新がが保てなくなってしまったのです。

 あーやっといいわけができた。

 というわけで、いちおう「パケホーダイ」にした携帯電話とノートパソコンは持って出かけますが、月末から20日ほどは、九州四国中国地方と東京にドサをうつことになりますので、ブログの更新が滞(とどこおる)るかもしれません。


 そういえば、先日から、それをテーマにして書こうと思っていたのですが、携帯電話経由でノートパソコンのブラウザを使っていて、途方もない金額を請求される就職活動中の学生たちが何人もいたそうですね。

 それを受けて、ドコモは、4月1日から、パソコンを接続したパケットの課金上限が13650円にするそうです。

 であるなら、いっそノートパソコンにケーブルで携帯電話をつないで、普通にブログ更新しても良いですね。


 そんなわけで、申し訳ありませんが、ブログ更新回数の減少を我慢してくださいって、そんな固定の読者もほとんどいないのに、エラソーな書き方も必要ありませんね。

 まあ、出先で面白いことがあれば、一回あたりの文章量は少なくなるでしょうが、マメに書くことにします。

 あ、初めのうちは近場を案内するつもりなので、本格的なドサ回りは、4月アタマからになると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月23日 (月)

二律背反(人を守り人を殺すもの) 〜PEACE MAKER〜




「PEACE MAKER」(皆川 亮二)を読みました。

 皆川亮二といえば、スプリガン、ARMSの作者(作画)ですが、この作品はSFではありません。

 西部開拓時代のガンマンの話です。

 18世紀半ばから後半のアメリカは面白い土地です。

 わたしも、長編ミステリ「倫敦のサムライ」で、幕末の日本を脱出した主人公が英国へ流れつくまで、数年の間、アメリカで過ごさせました。
 作り手から見ると、いろいろな事ができるんですね、この時代は。



 PEACE MAKERとは、コルト社のコルト・シングルアクション・アーミーの通称で回転式拳銃です。

 コルト社は、陸軍大佐サミュエル・コルト(1814年−1862年)の興したアメリカ合衆国の銃器メーカーです。

 人殺しの武器である拳銃にPEACE MAKERの名はそぐわない感じもしますが、力こそ正義なり、の西部開拓時代(そして今も)のアメリカにとっては自然な名称なのでしょう。

 主人公は、ガンマンとして著名な父譲りのピースメーカーと、抜群の技量を持ちながら、「人は殺さない」を信条としているホープ・エマーソン。

 ホープは兄を捜して旅をしています。

 銃は人殺しの道具ではなく、ガンプレイ(曲撃ち)をして人々を喜ばせるたものものだ、という彼も、非道の行いをする早撃ち自慢には「やつらは人間じゃねぇ、叩っきってやる」と、父譲りのピースメーカーを手にとって、ワルモノ退治をしていきます。

 しかし、彼の兄こそ、悪党どもの幹部だったのです。

 巨大組織から狙われる少女を助け、同じ(ホープは自分がガンマンだとは思ってはいませんが)銃使いのピート・ガブリエルや天才賭博師のカイル・パーマーと出会いながら、徐々に彼の進む道は明確になっていきます。

 しかし、コミックの巻数が進むにつれ、「PEACE MAKER」は、徐々にSFがかった内容になってきましたねぇ。

 やはり、作者の皆川氏はSFが好きなのでしょう。

 架空の大陸名も出てきますし、夜目が異常に利く種族などもでてきます。

 この作品を正しく評価するためには、もう少し時間が必要なようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月21日 (土)

ミミック 〜なぜカタツムリの殻は汚れないのか〜




「ミミック」という映画がある。

 1997年作、ミラ・ソルヴィノ主演で、遺伝子操作によって出現した新種の巨大昆虫が、擬態(ミミック)を使って、ヒトを襲い始めるという内容で、人気があったために続編も作られている。

 一般に、モノガタリにおいて、ミミック(擬態)と表現される場合、ほとんどは、シェイプシフター(変身)を意味するが、映画では、素直に、腕を畳み外殻をひっつけると、まるでコートを着た男のように見える巨大昆虫のことを指していた。


 さて、ここからが本題である。
 
 米国で「バイオミミックリー」と呼ばれる立場がある。

 昆虫から意識的にさまざまな事象を学び、それを人類に役立てようという人々のことである。

 この分野で、日本は世界一、二の技術を持っている。

 日本人は昆虫が好きなのだ。

 その理由のひとつは、当然あの「ファーブル昆虫記」にある。

 フランス人が、当地ではほとんど無名だったファーブルの名を、日本からやってくる大量の観光客によって逆に教えられ、あわてて仏国の著名学者として扱い始めたのは、記憶に新しいところだ。




 人間が工夫した技術を「昆虫がすでに行っていた」ということが、実はよくある。

 宇宙工学の三浦公亮氏が生み出した、太陽光パネルが、ひっかかりなく一瞬でぱっと開く「三浦折り」は、実は羽化する時の蝉の羽の折り畳み方に酷似していた。

 ニレウスルリアゲハが、羽を瑠璃(ルリ)色に輝かせるのは、LEDと同じ原理であった。

 だからこそ、逆に、ヒトが昆虫を調べて新しい技術を得る立場である「バイオミミックリー」、日本において石田秀輝氏が「ネイチャー・テクノロジー」と呼ぶ、が表舞台に登場してきたのだ。





「自然に学ぶ粋なテクノロジー 〜なぜカタツムリの殻は汚れないのか」(石田秀輝著:化学同人)を読んだ。

 昆虫を利用する、という点からいえば、著者、石田氏は異端だ。

 氏は、もともと鉱物をメインとした材料化学の技術者で、陶磁器材料の開発に携わってきた。
 ありていにいえば、便器の黄ばみを押さえるための材料研究をしているうちに、鉱物を利用する技術から、昆虫の性質を利用する立場に鞍替えしたのだ。


 ゴキブリの羽は、どんなに汚れた場所に行っても、いつもピカピカだ。
 それを利用できないか、と筆者は考え、研究を始めたが、それは分泌物によるものだったので使えなかった。

 そして、たどり着いたのが、カタツムリの殻だった。

 そういえば、湿った汚れがちな場所にいるカタツムリの殻は、不思議といつも美しい。
 分泌物も無ければ、猫のように自分でなめてもいないのに。

 観察と研究の結果、氏は気づく。

 「水と素材との表面エネルギーの差」より、「汚れと素材の表面エネルギーの差」の方が大きければ、水をかけるだけで、水が素材と汚れのあいだに入り込み、汚れをはがすことができるのだ、と。

 その原理は、実用化され、便器やビルのタイルなどに使われ始めている。


 また氏は、サバンナにある蟻塚の空調システムについても言及している。

 よく知られるように、熱帯の乾燥地にありながら蟻塚の中は、常に30度に保たれている。
 チムニー効果で換気をし、地下深くから水を含んだ土を運び上げているが、ポイントは、土のミクロ的操作にあるらしい。

 土はそれ自体、小さな穴がたくさん開いている。

 いわゆる多孔質物質だ。

 氏は、その「孔の大きさを微妙に変える」ことで湿度や臭いやガスを分子レベルで出し入れし、調整することができるのだ、と結論づけている。


 昆虫から得られるテクノロジーは、同時にエコロジーに則(そく)している。

 残念ながら、ネイチャー・テクノロジーは、生まれたばかりの技術で、まだ成果は乏しい。

 2030年頃までには、成果が出そろうだろうと著者は述べているが、地球規模のエコロジーを実現するためにも、ぜひ早期の研究を望みたい。


 私のおすすめ:
自然に学ぶ粋なテクノロジー なぜカタツムリの殻は汚れないのか ...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月20日 (金)

もうみーんなネット・ジャンキー 〜グーグル誤審〜


 18日付けのニューヨーク・タイムズ紙によると、米国で、陪審員が裁判中に「規則に反して」携帯端末でグーグルなどにアクセスし、担当事件の情報を入手した結果、公判が停止されるという事態が発生したようです。

 タイムズ紙は、これを「グーグル誤審」と読んでいるそうですが、陪審員は、どういうつもりで外部の情報をほしがったのでしょうか?

 そもそも、米国においては、法廷で明らかにされた事実(事象)だけもとに評決を下すことになっているはずです。

 あの「12人の怒れる男」などを観ても、確かにそうしていましたね。

 評決は全員一致が原則で、審議中、陪審員は裁判中にホテルなどにカンヅメにされ、テレビや新聞などの、外部情報から遮断されていました。


 確かに、今までは、それで良かった。

 しかし、現実は司法が思う以上に進歩しています。

 今では、トイレに行くときなどに、こっそり携帯電話でネットに接続する人々が増えているのだそうです。

 アーカンソー州では、陪審員がネット・サービス「ツイッター」を介して外部と情報をやりとりし、ペンシルバニア州では交流サイト「フェースブック」を使って情報の授受を行ったようです。

 こうなると、陪審員用に特殊な宿泊場所を用意し、電波をジャミング(妨害)する装置を設置して、情報遮断をする必要が生じますね。


 しかし……上でも書きましたが、陪審員たちはどうして、ネットの情報を知りたがるのでしょう。

 情報が、あればあるほど正しい判断を下せると思っているのでしょうか?

 しかし、そもそも真実は一つですが、そこから発生する情報は多彩で、多面的なものです。

 そういった「多面体を吟味して、ともかく判決を下す」のが裁判なのです。

 不完全であるのは承知の上でしょう。

 それが嫌なら、人を裁かなければ良いのです。

 まあ、人が犯罪を犯し、あるいは人と人とが争っている時に、そう鷹揚な態度をとってはおれないでしょうが……


 いくら情報を集めても、ましてネットで仕入れた玉石混淆(ぎょくせきこんこう)、いや、ほとんどが石のデータを集めても、意味がないような気がしますね。


 だからこそ、法廷ではある一定の範囲をもうけて、この場合は検察と弁護側が提出する証拠物件ですが、その情報のみを基準に判断しようということになっているのです。


 余計な情報を大量に仕入れても、迷うばかりで意味はないと思うのですがねぇ。

 まして、真偽のほどもわからない情報をネットで仕入れても、おそらく無駄でしょう。
 害の方が多いと思いますがねぇ。

 まあ、大統領自らが、ブラックベリー中毒(ネット・ジャンキー)を公言してはばからない国ですから、それも宜(ムベ)成るかな、ですね。

 少なくとも、わが国の首相は、携帯端末中毒ではないような気がします。(マンガ中毒らしいですが……)




 5月から日本で始まる例のやつ(裁判員制度)は、審議が一日で終わらない場合、帰宅が可能だそうです。

 つまり、家に帰ったら、人と相談したり、テレビをみたり、ネット検索自由自在。

 なんだか、ちょっとツメが甘いような気がしますね。

 裁判員と陪審員の持つ力の大小を考慮しても、米国と違って底が抜けているカンジがします。

 もっとも、もし裁判員が、証拠以外の情報に基づく意見を述べた場合、裁判長がそれを指摘できることになっているようです。

 日本で同様の事が起こってしまったら、きっと「2ちゃんねる誤審」と呼ばれるのだろうな。


 私のおすすめ:
20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン 十二人の怒...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月18日 (水)

鉄じゃないけど 「アイアンマン」




 18日レンタル解禁になった「アイアンマン」を借りて来て観ました。

 もうとっくにないだろうな、と、半分諦めてレンタルショップに行ったのですが、意外にも、まだ数本残っていました。

 あまり人気がないのでしょうか?

 スパイダーマンに代表される、マーベルコミック発のハリウッド映画は、これまで、だいたい観ています。

 今回、主人公を演じるのが、あのアル中(失礼!)、「チャーリー」を演じたロバート・ダウニー.Jrなので、公開当時からぜひ観たい思っていたのです。

 だって、ダウニーだぜ、もうオッチャンじゃん!

 って思いませんでしたか?

 服を脱いだところも、腕や胸回りは鍛えていますが、やはりハラが……

 監督(もと役者:ジョン・ファヴロー)が当時43歳のダウニーを推薦したところ、プロデューサーたちが「老けすぎている」との理由で却下(そりゃそうだ)。
 原作コミックのファンを公言するダウニーは、見事な役作りでスクリーンテスト臨んで、主役の座をゲットした……そうです。

 内容自体は、まあ、よくあるハリウッド発コミックヒーロー映画の枠を出ないものでしたが、その分、安心して観ることができます。

 カメラワークも、昨今ハヤリの「ハンディカム振り回し」酔っちまうからヤメロバカ(WANTED、クローバーフィールド)タイプではなく、どっしりと落ち着いたカメラが気持ちの良いパンニングで撮影する観やすいものです。

 本当に、どうして最近は、あんなにハンディカムを振り回すのでしょうね。

 昔、重くてやれなかったからその反動でしょうか?

 それとも、アレが、画面に躍動感を与えているとでも思っているのでしょうか?

 まあ、どんな技術でも、使われはじめは誰でもそれに飛びついて、ヘタクソな使い方をしてしまうのですから仕方ないのでしょうが。

 はやく、ハンディカムを使った、観やすい躍動感ある撮影方法を確立する天才が現れて欲しいものです。

 今、カムぶん回しでイキがる監督は、後に、よく観客にこんな観にくい映画を観せていたな、と評価されるのでしょうね。

 ああ、本題から外れました。

 アイアンマンの原作は読んだことが無いのですが、あの主人公の胸に仕込まれたパワー源の意味がよくわかりませんでした。

 最初が、心臓近くに埋まった爆弾の破片が「心臓に突き刺さらないため」に、心臓に埋め込んだ電磁磁石(意味がわからない。磁石を心臓近くに埋め込んだらそれこそ心臓に突き刺さるだろうに)だったのが、知らない間に、アーク・リアクターに変わっているのが解せませんでした。

 原作では、アイアンマンスーツ自体が「心臓のペースメーカーの役割」を果たしていて、主人公はスーツから逃れられない、という事らしいですが、そっちの方が分かりやすいですね。

 しかし、生命維持のために埋め込んだリアクターを使って、パワードスーツを動かす、という設定は面白い。



 昔、日本の特撮シリーズで、「鉄人タイガーセブン」という作品がありました。

 テレビ版ではあまり詳しく説明されていませんでしたが、コミックの方では、主人公が砂漠で事故にあって、人工心臓を埋め込む、という設定になっていました。

 そして、後にピラミッドに眠る「英雄の精霊」が彼に憑依して鉄人タイガーセブンになるのですが、魅力的なのは、普通の人間では精霊の憑依に肉体がついていかず、死んでしまうところが、主人公は人工心臓なので、その「衝撃に耐えて変身」できる、という説明でした。

 彼しか、タイガーセブンにはなれないのです。

 こういった、ちょっとした設定が、物語に深みを与えますね。



 調べてみると、原作のキモは、どうやら、異常進化するアイアンマンスーツにあるようです。


 映画でも、洞窟で作ったマーク1は鋼鉄製でしたが、改良版のマーク2からは合金になっていました。

 主人公は、マスコミにつけられた「アイアンマン」という名称に「鉄じゃないのに……」と文句をいいますが、案外、その名前が結構気に入っている、というのもなんかくすぐられますね。



 使っている本人が天才科学者なのですから、勝つためにどんどんグレードをアップするのは当たり前なのでしょう。

 しまいには、ナノテクを用いて、自動補修までするようになるとか。


 もちろん、映画ではまだそこまではいってませんね。

 「アイアンマン」は、ダウニー主演で、三部作構想ができあがっているそうなので、今後の展開が楽しみです。

 しかし、悪党に捕まって「ミサイルを作れ」と命令され、カメラに環視されながら、パワードスーツを作るなんてできるのだろうか?

 ま、いいか。面白ければ。




 この項を書いていて、なんか自分で昔書いた「神鎧ヴォルガ」という作品を思い出しましたね。

 「ヴォルガ」は地底から発掘されたスーツで、適正のために10万人に1人の、思春期前の少年しか装着できず、それでも月日が経って彼が成長すれば、戦闘途中でも強制排出されてしまうという無茶な設定でしたが、個人的には気に入っていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月17日 (火)

いいカンジ 悪いカンジ

 天気予報によると明日も暖かくなるそうです。

 いよいよ、春になってきましたね。

 春といえば、春の七草。

 もちろん覚えていますよ。だって日本人のじょーしきでしょう。

 せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ

 ほーら、言えた。

 じゅーげむじゅげむごこうのすりきれ、かいじゃり……と同じで、若い頃に覚えたコトバは忘れませんよ。

 などと、胸をはったものの、さて、漢字でどう書くかとなると……ダメだ!

 まったく書けない。

 皆さんは、書けますか?

 答えはこれ↓です。



 うーむ、難しいなぁ。

 面白くなったので他にも植物などを調べてみました。




「けやき」は読める。「くぬぎ」は怪しい。「もみ」は大丈夫。でも、「こうぞ」は無理だな。ミツマタ、コウゾといえば、紙の原料として小学校で習うヤツなのに。
「プラタナス」は当て字でしょうね。
「まんてんぼし」じゃなくて「どうだんつつじ」は、ちょっと有名なので知っていました。
つぎの「あさがお」は、知らない。
「りんどう」は、自分が使うときは、カタカナだな。
「ほととぎす」ってこれだったのね。
「かぜしんこ」……じゃなくて「ヒヤシンス」。これは当て字だろうな。
「イタドリ」も書くときはカタカナが多いでしょう。
「おおばこ」は、なぜ車の前のクサなんでしょうね。
最後の「おもと」はわかりました。

 やっぱり漢字は面白いですね。

 なぜ面白いかというと、漢字が表意文字だからです。

 以前にどこかで書きましたが、今や世界で「表意文字」を使う国民は、そう多くありません。

 ほとんどの国は、アルファベットに代表される「表音文字」を使っています。

 文字が「表意」から「表音」に移行するのは必然です。

 世の事象すべて、いわゆる森羅万象を表意文字で表すなら、そのものと同数のコトバが必要になる。

 日本語を容易に話す外国人たちも、ひらがなしか読み書きできないことは、ご存じでしょう。

 我々は、子供の頃から膨大な労力を費やして、漢字を覚えてきました。

「なんて損な国に生まれたのだ!」

 と歎くことはありません。


 表意文字であるからこそ、わたしたちは「識字障害」から逃れている可能性があるからです。

 アルファベットだけを使う欧米人たちには、識字障害が多いといわれます。

 他の能力は、まったく問題がないのに、文字だけが読めない。

 トム・クルーズなどもそうらしいですね。

 その理由の一つとして、「文字自体に意味がないから判読できない」という点が挙げられています。

 車なんてそのままの形ですし、星なんてのは、生きているように瞬く日の光ってカンジですかね。

 表意文字は、意味付けが、脳で容易に行えるのです。


 そのかわり、覚えることがたくさんある。

 それに乗じて、漢字をメシノ種にするヤカラが現れたりするわけです。


 「日本漢字能力検定協会」が、ワープロの登場以来、どんどん漢字が衰退していたことに歯止めをかけ、現在の漢字学習の隆盛を導く原動力となった功績は認めます。

 しかし、最近のなんだか不明瞭なカネの使い道はいけません。

 一刻も早く、経理の透明化をしてもらいたいものです。

 そうしないと、せっかく人々が、興味をもって漢字を勉強しようとする、その気持ちに水を差すことになってしまいますから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月16日 (月)

見えない傷 〜TBI〜

 前回、モーターバイクのタンデムについて書きました。

 基本的に、わたしはタンデム乗車に反対だと。


 そのことについて、もう少し詳しく書きたいと思っています。

 ヒトの体は弱い。

 少し関節の可動域(かどういき)を超えて膝や肘が曲がると、靱帯を損傷するか、骨が折れる。

 内臓に圧迫を加えれば、容易に臓器は破裂する。


 その上、ヒトのテッペンには脳が鎮座している。

 これがまた弱い。

 ちょっと悪口を言われただけでウツ状態に……という問題ではなくて、外的衝撃に弱いのです。



 わたしの父は、合計して10年以上、入院しましたが、その間、病院内でいろいろな人と知り合いました。


 中でも一番印象に残っているのは、舌に腫瘍のできた男性です。

 彼自身は、とくに重傷ではなく、すぐに退院したのですが、息子がいました。

 年齢は、三十半ばでしょうか。

 毎日のように、父親を見舞いに来ました。

 四人部屋の病室に立つと、部屋が暗くなるような、圧迫感を感じるような巨体を、彼はしていました。

 背が高いだけでなく、横幅もある。


 その彼に、夫の付き添いをしている小柄な母親が大量にメモを渡すのです。

 夕方、やらねばならないことを、事細かく書いた紙を受け取って彼は帰っていきます。

 何気なく「用事がたくさんあるんですね」と声をかけたところ、彼女はいいました。

「十五年前にバイクの事故にあってから、記憶が30分もたないんです」

 そう、彼は高次脳機能障害者だったのです。

 頑健な体をしていたため、事故にあっても体は何ともなかったのだそうです。

 しかし、記憶が保たなくなった。

 バイクだけではないでしょうが、スキーなどのように、体をむき出しに無茶をするスポーツでは往々にして脳にダメージを負うことがあります。



 それも、「直接脳に衝撃を受けなくても」、です。



 TBIという言葉をご存じでしょうか?

 近年、USAでクローズアップされているコトバです。

 日本語では「外傷性脳損傷」と呼びます。

 なぜ、アメリカで問題になっているかというと、イラクに従軍した兵士の2万人以上がTBIだと診断されているからです。

 ご存じのように、米軍は、イラクに対して誤爆などのヘマを繰り返しました。

 しかし、戦場で、片方だけが一方的に傷つくことなどあり得ません。
 とくに、地上部隊が投入されたあとは。

 たとえば、こんな話があります。

 ジェームズ・マクドナルド(当時26才)は2007年5月、イラク南部でパトロール中、爆弾攻撃を受けた。身長180センチ、体重120キロの防具を着けた体は、爆風で大きくのけぞり、しばらく気を失った。目に見える怪我はなく、検査の結果、重度のTBIだと診断された。
 所属のテキサス州基地に帰還後、まもなく記憶障害や頭痛に悩まされるようになった。
「自分で言ったことを忘れる」「アイスピックで頭を刺されているようだ」
基地の診療所は、痛み止めをくれるだけで、診察は月に1、2度だったという。
 半年後、彼は自室で急死した。

 2004年10月バグダッド郊外で、ケビン・オスリー(47才)は爆弾による爆風を受けた。
 防具を着けた体重は100キロを超えていたが、それでも浮き上がるほどの風圧だった。
 その後、頭痛はしたが「目に見える傷」はなく、医師による診察で「異常なし」と診断された。
 2005年3月、故郷のインディアナ州に戻ると、彼の行動に以上が現れた。
 妻は言う。
 「レストランに行こうと一緒に車に乗っても10分後には『どこに行くんだ』と聞く。ひとりで出かけると道に迷う。言われたことを『聞いていない』と激怒する。記憶力が良くて、穏やかだった夫がまるで別人のようになった」
 近くの米軍病院に行ったが、検査はなく診察だけで「異常なし」と言われた。帰還から五ヶ月後、友人の紹介で、ミネソタ州退役軍人省病院で検査を受け、爆風によるTBIであると診断された。
 初めて聞く病名だったが、戦場の仲間を思いだした。
 同様の症状を訴えていた兵士の中には、充分な検査も受けないまま、「異常なし」と診断され、家族の理解を得られず、離婚し、行方不明になった者も多かった。
 ケビンは言う。
「記憶力が戻らず、役立たずだ。時々死にたくなる」

 なぜ、爆風を受けただけで、こんな症状が起こるのか、まだ確定はされていません。

 しかし、ある仮説は立てられています。

 米ジョンズ・ホプキンズ大のイボラ・セルナック医師は、その原因を突き止めようと、戦闘で負傷し、かつ頭部に損傷がない患者の脳波を調べました。

 爆風に吹き飛ばされた兵士で、脳に異常が見られたのは36パーセントで、銃創による負傷者の場合は12パーセントにとどまっています。

「爆発が脳に見えない損傷を与えているのではないか」

 そう考えたセルナックは、ひとつの仮定にたどり着きました。

『爆風が体を直撃すると、その運動エネルギーが血管を振動させながら、急激に脳に達して脳の神経細胞を破壊する』のではないのか?


 重い防護服が結果的に、症状を悪化させている可能性もあるようです。

 この見解に対し、陸軍外科医のジョン・ホルコーム大佐は、「爆風の衝撃波は瞬間的で、影響は限定される」と否定的です。


 しかし、現実的に、直接の打撃をうけていない兵士たちが、脳障害を負っているのです。

 平和ニッポンで暮らすわたしたちが、強烈な爆風を受けることは、ほとんどないでしょう。

 それでも、違う形で、体に受けた衝撃が、体液を伝って脳を破壊することは充分考えられます。

 モーターバイクで転倒した際に、何かに激突し、体の広い範囲でショックを受けると、TBIになる可能性がある。

 とくに、ニーグリップ(膝でバイクのタンクを締め付けること)ができないタンデム者は、容易にバイクから放り出されます。

 バイクにしがみついていれば、まずバイクを何かに当てて衝撃を吸収することも可能なのです。


 同じ理由で、わたしはスクーターも、あまり好きではありません。

 あれは、バイクの上に「乗っているだけ」だからです。

 とても、咄嗟(とっさ)の時に、適切にマシンをコントロールできるとは思えない。


 だからこそ、大型スクーターの普及、および高速道路における二人乗りの認可にわたしは反対なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月15日 (日)

バイクで脳若返り 〜内容OK、きっかけNG?〜





 9日付けの新聞に「バイクで脳若返り」といった記事がありました。

 これは聞き捨てなりません。

 わたしは、真冬でも週に何回かはかならずモーターバイクに乗って出かけているからです。

 記事によると、ヤマハ発動機が「あの」川島教授と組んで、昨年五月からオートバイと脳活性化の関係についての共同研究を行った結果、「バイク乗車が脳の若返りを促す」ことがわかったのだということです。

 この研究を受けて、ヤマハは、中高年の取り込みを推進し、低迷するバイク市場の活性化を促したいとしている……そうな。

 バイクで脳活性化、ありそうな感じはしますね。どちらかというと自転車の方が、脳と体に良いような気がしますが。

 しかし、「中高年の取り込み」って……もう充分、あのなんだかわからない(いや、ライディングの楽しみが少ない、という意味です)、ノークラッチ、ノーギアシフトの原付の大くなったようなスクーター型バイクで、金持ちのリピート・ライダーを取り込んでいるような気がするんですがねぇ。


 大型スクーターの広告をごらんになった事がありますか?

 最近はどうかはわかりませんが、かつては、雑誌でもテレビ放映でも、すべてコンセプトは「彼女をタンデムシートに乗せて連れて行く大人のバイク」でした。

 ちょっと値段が高い上に、スポーツタイプではないだけに、対象が「中高年向け」になる大型スクーターです。

 本当なら、「彼女」じゃなくて、「奥さん」を連れて行くべきでしょう?あるいは娘か?

 しかし、それではどうも画的に良くないと考えたのか、後ろに乗せたり、スクーターを駐めて、その横でヘルメットをもって笑っているのは、すべて、どうみても二十代の若い女性なんですよね。


 これって浮気じゃねぇの!とまでは思いませんでしたが、なんだか、男の哀しい願望を広告業界によってエグられてしまったような気になりましたよ。

 SUZUKIだけだったかな?奥さんらしき年頃の女性を乗せていたのは。


 やっぱり、男って女性をタンデムシートに乗せて走りたいんだなぁ。

 って、もちろん、わたしも女性を乗せて走ったことはあります。

 でも、今は乗せない。

 背中にあたる胸の感触を感じながら走るのは、男なら誰でも喜ばしいことでしょう(あーうー、ただでさえ、少ない女性読者がさらに減るだろうな)。

 でも、それ以上に、人を後ろに乗せて走ることは、わたしには恐ろしいのです。

 車とは違って、バイクは、レールと安全装置のないジェット・コースターのようなモノです。

 ちょっとした事故でも簡単に人は死んでしまう。ネコが飛び出して来たって、事故れば大けがです。


 そりゃあ、自分が死ぬのは仕方がないと思っています。

 個人的には、バイクに乗るのも、山に登るのも、あるいは電車で出かける時でさえも、生きて還ってこられたのは運が良かっただけだ、と考えているからです。

 若い頃は、バイクを駐めてスタンドを立てた時に、よく足が震えていました。

 今日も生きてバイクを駐めることが出来た、と。
 

 いえいえ、最近は、もっぱら安全運転で、スピードも制限を守り、無理な割り込みもしませんよ。

 特に、数年前に、スポーツタイプからオフロードタイプにバイクを替えてからは、乗りやすさと相まって、本当に安全運転になりました。

 極端な前傾姿勢をとらず、ステップ位置がバックステップでないだけでも、かなり安全です。

 それでも、あまり人は後ろに乗せたくはないですね。


 自分で事故を起こして怪我をしても、まあ自己責任でしょう。

 しかし、後ろに人を乗せていたらそうはいかない。

 事故時、タンデムシートの死亡率はライダー席の数倍です。


 だから、高速の二人乗り走行が認められた時は目を疑いました。

 メーカーもタンデム・ライドを推さずに、もっと女性ライダーを増やして、二台のバイクでツーリングをするように勧めるべきだと思いますね。


 話がそれました。

 どうして、ライディングと脳との関係を調べようと思ったか、と尋ねられて、関係者が答えています。

 かねがね、ヤマハ内に「オートバイライダーは若く見える」という意見があったので、因果関係を調べたのだそうです。


 え、ちょっと待ってくださいよ。

 「若く見える」のと、脳が若いというのは、関係あるのでしょうか?

 よく、脳が若いと見た目も若い、という、因果関係のないデキゴトをさも当たり前のように表現する風潮がありますが、あれは納得できません。

 脳が若いと、顔のヒフも若いのでしょうか?

 あるいは、脳が年をとると、あの老婦人がよく着る、藤色系の毛糸のカーディガンなどを着るようになるのでしょうか?

 違うんじゃないかなぁ。


 高齢の人々が、ちょっとこちらが引いてしまうくらい若いスタイルをしている時がありますが、彼らは、脳が若いのでしょうか?

 ファッションセンスと脳年齢は別じゃないかなぁ。


 きっかけはともかく、ヤマハが川島教授と組んで研究を行ったところ、日常的にバイクに乗る人は、運転時に言語的な情報処理を行う脳の部位が活発に働き、集中力も高まったそうです。

 さらにバイクを運転すると、記憶力が向上し、精神的ストレスが低減されることも分かったのだそうです。


 まあ、記憶力はともかく、ストレス低減というのは昔から分かってましたよね。


 だって、よく、昔のB級映画やドラマでヤングが言ってたじゃないですか。

「バイクをカッとばすと、胸のモヤモヤがすっとするぜ」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月14日 (土)

室内野球 〜市井にあふれる才〜

 「銭ゲバ」最終回について書こうと思いましたが、最後の蛇足が気に入らないのでやめました。

 かわりに、というか、今日は絶対に紹介したいと思っていた「文章」について書きます。

 昨日、海堂尊氏の文章について、エラソーに分析的なことを書きましたが、わたしに、そんな資格はありません。

 たいした文章など何も書いていないからです。


 世の中には、ブンピツで身を立てずとも、作家として世に出ずとも、すばらしい才能を持つ人々が
綺羅星(キラボシ)のように存在しています。


 今日、出先で、何気なく新聞を手にとって読み始めると鳥肌が立ってしまいました。


 日頃から「小説はエッセイのように語り、エッセイは小説のように紡ぐ」ことを、心がけていますが、なかなか思うようにはいきません。

 短い文章の中に、知識があり、ドラマがあり、感動があり、驚きがあり、読後に余韻を残す。

 わたしのエッセイとしての理想形です。


 しかし、今日手に取ったサンケイ新聞(3/13日版)の「夕焼けエッセー」に掲載されていた、神戸市東灘区の会社員、佐野 武氏(51歳)の文章には、その全てが入っていました。



 新聞を読んで泣いたのは初めてだよ。


 この文章ばかりは、「安易にスキャナで取り込んで文字認識させる」などということは到底できません。


 わたしが一字一句、間違いのないように、改行位置もそのままに、手で入力させていただきます。

 どうか、味わってお読みください。



「室内野球」

 小学校3,4年の頃の正
月休みだった。
 「『室内野球』をやろう
!」と父が古びた小箱を持
ってきた。
 「野球のゲームや。でも
な、これはいつも、いかに
も野球のスコアで試合が終
わるねんで」
 室内野球とは、戦前から
戦後にかけて売られていた
野球のカードゲームだっ
た。グラウンドの台紙を広
げ、各ポジションに小型の
カードを置く。投手の投球
ごとにサイコロを振る。打
者の駒をひっくり返すと走
者の絵柄になったが、どち
らもブカブカの古いユニホ
ーム姿が描かれていた。
 親と遊ぶことに恥じらい
を感じる年頃の上、まるで
防空壕から出してきたよう
な汚い小箱に、最初は気が
乗らなかったが、いざやっ
てみると、試合は白熱した。
 父は攻撃の時、いつも
「それっ!」と声を上げサ
イコロを振った。
 得点すると父は、球場に
響く大歓声を小声でまね
た。いつしか実在のプロ野
球選手を集めて戦うまでに
なったのだが、試合は常に
阪神対阪急であった。私が
阪神である。南海ファンの
叔父が訪れたときは野村、
杉浦などの強者が顔をそろ
えた。
 古く焼け、セロハンテー
プで波打ったグラウンド
は、黒いボードにポスター
カラーで白線が引かれた立
派なものに私が変えた。
 そのゲームも14年前の地
震の朝、父とともに姿を消
した。
 父さん、今年も野球の季
節が来たよ。でも父さん、F
Aも大型補強もない、俺た
ちだけの野球は、ほんまの
野球より面白かったよな。





 素晴らしい!

 マンガ全盛の世にあっても、文章には、まだこんなに力があるのだ。

 こういう文章に出会うと、自分の文を読み返して、穴があったら入りたくなりますね。お恥ずかしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月13日 (金)

男のルージュ 〜ジェネラル・ルージュの凱旋〜


 最近、ルージュ・テストについて書いたばかりですが、今回も、またルージュに関する話をひとつ。

 今回、とりあげるのは、前に少し書いたことのある海堂尊著「ジェネラル・ルージュの凱旋」です。

 いわずと知れた「チームバチスタの栄光」の(一つおいた)続編で、映画化もされています。

 「ジェネラル・ルージュの凱旋」(以下「凱旋」と表記)は、バチスタ・シリーズ(と呼ぶのは正確ではありません。ファンの間では、病院の建つ地方都市から命名して、「桜宮サガ」と呼ぶムキもあるのですが、ここでは便宜上バチスタと呼びます)では、第三作目にあたりますが、時間系列としては、第二作目の「ナイチンゲールの沈黙」(以下「沈黙と表記」)と、まったく同じ日時を描いています。

 つまり、第二作の「沈黙」と三作目の「凱旋」は、同時進行の話なのです。

 これは、とくに意識したものではなく、作者が、混ぜ合わせたひとつの話を作ろうとしたところ、それでは、ややこしくなるから、別冊にするように編集者からアドバイスを受けての変更だそうです。

 ファンの方には申し訳ありませんが、あいかわらず、海堂氏の(小説)文章は下手です。

 読んでいて、奇妙な表記、ずれた反応に首筋がゾクゾクするのは「ハリーポッター」の訳と同じですが、頭は痛くなりません。

 これは、海堂氏が、小説技法としての文章が下手なだけで、本来文を書ける人だからです。

 整合の取れた文章ですから、このまま、彼が大量に文章を書き続ければ、あるいは、これが彼の書き方のクセなのだ、と評価されるかもしれませんね。

 彼のクセについて、少し書いておきます。

 第一は、人の言動をあらかじめ説明してしまうこと。

 具体的に書くとこうです。


「勝手をして申し訳ありませんでした」
 素直に謝罪し、唇をかむ。

 あるいは、こんなものもありますね。

「……とんだとばっちりよ」
 翔子はため息をつく。小夜は慰める
「きっと大丈夫だよ……」

 つまり、「登場人物の表情や言葉で読者に伝えるべき事を、作者が説明してしまっている」のですね。

 これが繰り返されると、物語は甚(はなは)だ煩雑(はんざつ)な印象になってしまうのです。

 これは小説を書き始めたばかりの人に多い欠点ですね。

 「……申し訳ありませんでした」
という言葉は謝罪なので、その後の「素直に謝罪し……」は不要です。冗長になる。



 また、「慰める」と神である作者が書けば、後の『大丈夫だよ』は不要なのです。

 反対に、『大丈夫だよ』と書くなら、直前の「慰める」は邪魔です。


 二つめを、あえて書き直せばこうでしょうか?

「……とんだとばっちりよ」
 翔子はため息をつく。
「きっと大丈夫だよ……」
 小夜が言い、翔子は微笑んだ。この子の言葉は、いつもわたしを慰めてくれる……



 第二は、上の書き直しにも関係しているのですが、論文ではなく、物語を書くことになれていない人が陥りやすい間違いは、視点の固定化ができないことです。

「誰の目によって、読者にデキゴトが伝えられているのか」ということを、作者は完全にいつも把握しておかなければなりません。

 さっきまで翔子の視点から見ていた同じ現場が、次の瞬間小夜の視点で語られると、それが意図的に効果を狙ったものでないかぎり、読者は混乱し疲れてしまうのです。

 中学生や高校生の同人によくある文章ですね。


 第三は、雰囲気・イメージ先行の単語、それと同時使用の「体言止め」の多用です。
 ある意味女性っぽい文章と言えるのでしょうか。

 あと、これは、編集者が校正の時に見落としたのかもしれませんが、森野弥生という登場人物が、二度にわたって初登場然に紹介されています。
 わたしは、その部分を読んで、あれ、これってさっき出てきた人じゃなかったっけ?と前を読み返してしまいました。

 わたしのように、個人で執筆校正から印刷(PDFへ)までしていると、どうしても誤字脱字、構成ミスは生じてしまいます(わあ、こんなところで自己弁護してる!)。
 しかし、大手出版社では、なるべくこういったミスは、取り除いたほうが良いと思いますね。


 最後に、これはまあ、どうでも良いことといえばそうなのですが、「政治的に大物」つまり、何を考えているかよくわからない人物が何か言葉を口にすると、そのあとはだいたい「うっすら笑う」「うっすら微笑む」なのですね。

 もと日本シャーロックホームズ会員の身としては、甚だ気になるところです。(世に言うシャーロッキアンという人種は、ドイルのキャノン「聖典」をすり切れるほど読み返して、この作品でホームズは3回笑った、皮肉な笑いを浮かべた、などとカウントアップするサガがあるのですよ)



 とはいえ、海堂氏の文章が、一作ごとにうまくなっているのは確かです。


 それに、エンターティンメント小説家にとって大切なのは、うまい文章を書くことではなく(もちろんそれも大切ですが)、面白い話を書くことです。


 その点で、「ジェネラル・ルージュの凱旋」は、申し分ありません。

 作者の(現時点における)最高傑作と言われるの宜(むべ)なるかな、という感じです。

 映画は未見ですが、小説に関していえば、手に入れて読んで損はないと思います。

 先に書いたように、第二作の「沈黙」とは同時期の話なので、「バチスタ」だけを知っている人が、「凱旋」を読んでも大丈夫です。


 前に書いたように、この次の「イノセント・ゲリラの祝祭」は、ハズシ気味ですが、その次の作品は、面白くなるかも知れない、そういった、期待を持たせてくるのは良い作家の証です。

 どんどん書いて、どんどん文章がうまくなってもらいたいものです。


 あ、ひとつ書き忘れが……

 前に書きましたが、海堂氏の作品は全て桜宮という地方都市を中心に展開されているため(子供向けの「医学のたまご」ですらそうです)、彼の作品世界をサガと呼ぶ人もいるのですが、これは、後になって、後づけで自らの作品世界を統合したがる(別項、鬼公子閻魔でも書きました)大物マンガ家よりは、結果的にバランスがとれて良いかもしれません。

 個人的には、一作ごとに作風もプロットも変わる方が好きなのですが。


追記:

 本稿のタイトル「男のルージュ」ですが、それは読んでそのままの意味です。

 「凱旋」を読まれた方ならおわかりでしょう。

 恥ずかしながら、この年になるまで、わたしは「ルージュを引いた」ことはありません。
 (もちろん「ルージュ」が「どんな味」なのかは知っていますが……)

 だから、若者ならともかく、イイトシした男が、どういう状況下であろうと自らルージュを引くという設定が理解できなかった、というか、今も理解できていません。

 穿(うが)った考え方をすれば、それは海堂氏の密かな願望なのかもしれませんね。

 作家が、深層心理の願望を作中に投影するのは、ありがちなことですから。


 私のおすすめ:
ジェネラル・ルージュの凱旋 /海堂尊/著 [本]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月12日 (木)

科学、宗教、哲学、これすべて脳の所産 〜奇跡の脳〜





 以前、VISAの月刊誌に連載されていた池谷祐二氏の「ビジネス脳のススメ」でも紹介された脳科学者ジル・ボルト・テイラーの「奇跡の脳」翻訳版が出版された。

 著者のテイラーは、ハーバードの第一線で活躍する脳科学者であった。

 だが、先天的に脳血管に異常があった彼女は、ある日、脳卒中を起こす。

 専門家である彼女は、自分の脳が機能障害を起こしていく課程を分析しながら体験するのだ。

 「四時間という短い間に、自分の心が感覚を通して入ってくるあらゆる刺激を処理する能力を完全に失ってしまうのを見つめていました」

 侵されたのは、左脳の中央部だった。

 ご存じのように、左脳は、言葉や自分を環境から区別し、位置を把握する能力(方向定位連合野)を司っている。

 その機能が働かなくなり、右脳が優位になってくる。

 それはいったいどんな感覚なのだろうか?

 これは、当事者にとっては悲劇であるが、脳科学にとってはまたとない好機であり、その分野に興味を持つものにとっては、すばらしく魅力的な(言葉は悪いが)そして心胆寒からしめる事件だ。


 よく、映画などには、「狂ったAIを停止させる」行為が登場する。

 印象的なのは、やはり2001年宇宙の旅のHALだろう。

 人を殺し始めたメイン・コンピュータを、ひとり生き残ったボウマン船長が、徐々に機能停止させていく。

 基盤を引き出されるたびに、コンピュータの合成音声は奇妙な発声になり、意味は不明瞭になっていく。

 テイラー女史は、この時のHALの感覚に似た経験をしたのではないか。

 作り物でない、現実の悲劇であるとは分かっているものの(その後の彼女の回復を知っているだけに)、興味は尽きない。



 奇跡の回復(8年がかりの)を遂げた彼女は、この著作の中で書いている。

 左脳が機能低下を起こし、右脳が優位になった時、彼女は「ニルヴァーナ」涅槃の境地に達したのだ、と。

 充分にあり得る話だ。

 左脳が司る、他者と自分を区別する機能が低下したのだから「自分が溶けて液体となり」、世界と、いや宇宙と一体化してしまったのだ。


 それこそが、まさに悟りの境地。


 赤ん坊は、かつて母の子宮の中で全知全能であり、完全体でありながら、その世界から引き出され母との接続を切られて泣き叫ぶ。


 だが、彼女は、科学者としての知識をひきずった大人として、再び、赤ん坊のように世界と一体化した完全体となってしまったのだ。



 これは、言葉を換えれば、ある状況下で、脳が特殊な状態に陥ることと似ている。

 はっきり言えば、何らかの衝撃で、一時的に死を体験する出来事=臨死体験に似ているのだ。


 私的見解として、わたしは、臨死体験とは、人が死に臨んだ際、脳が機能停止していく課程で、より最後まで活動する野(フィールド)に、こういった宇宙との一体感を感じさせる作用があると考えている。

 モノカキ的にもう一歩踏み込んでいえば、それは、苦しみの多い人生の最後の最後に、宇宙と一体になる至福の感覚を感じさせる、いわば福音に似たものではないだろうか。
 もちろん、それは、人の上に立つ大いなる存在(人によって呼び方は変わるだろう)から与えられたものではなく、ヒトが進化する過程で、偶然あるいは必然的に、手に入れた能力なのだろうが……



 事故(卒中)後、テイラー女史は、右脳を中心とした生活を続けながら、左脳の機能を回復し始める。

 左脳の主な機能は、先に述べた、彼我(ひが)の区別能力であり位置を把握する能力である。

 それはしばしば、無理に理屈をこね上げ、他者を批判し攻撃的になる(面白いことに、米人お得意のディベートがまさしくそれだ)という負の作用を併せ持つ。

 テイラーは、一度、そういった正負併せ持つ左脳の能力を無くした後、負の部分を「自分で避け」ながら、左脳の機能回復、リハビリを行っていくのだ。

 つまり、論理的でありながら攻撃的ではない、かつての自分とは反対の人間になろうとする。

 そのためか、「奇跡の脳」の後半は、まるで宗教について書かれた本のようだ。

 わたしは、なぜか月面上から地球をみた宇宙飛行士が宗教家になってしまった話を思い出してしまった。


 翻訳者(竹内薫氏)は、訳も文章もうまく読みやすい。

 脳科学や、脳障害のリハビリ関係者だけでなく、宗教あるいは哲学に興味がある方が読まれても本書は感銘以上のものをもたらすだろう。


 私のおすすめ:
奇跡の脳 /ジル・ボルト・テイラー/〔著〕 竹内薫/訳 [本]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月11日 (水)

「飲む打つ買う」……じゃなくて「読む打つ書く」

 その昔、わたしは、小説を紙の原稿用紙に書いていました。

 その後、ワープロを少し使い、パソコンのかな漢字変換がツカえるレベルになるとすぐに、パソコンのエディタで文章を打つようになったので、それからは文章をキーで打ち、ディスプレイで確認するようになっています。

 あ、いま、CRTと打ってから、ディスプレイに打ち直しました。
 この間まで、ノートパソコン以外はCRTを使っていたのですが、先日21インチワイド液晶に代えたからです。

 これで、ウチにあるディスプレイでCRTであるのは、地上波とスカイパーフェクTV録画用に起ちあげている二台のコンピュータに、切り替器を介してつながれた17インチだけになりました。


 理工系の人間、あるいは古くからパソコンに携わっている人なら、ディスプレイと呼ばずに、より正確にCRTと呼ぶことが多いはずです。

 CRT(カソード・レイ・チューブ)陰極官、いわゆるブラウン管というヤツです。

 家庭の最新の電子機器群にあって、唯一(といっていい)残っていた真空管がCRTだったのですが、これも、液晶(とプラズマ)ディスプレイによって、駆逐されようとしています。


 液晶になって、画面のチラつきがなくなり、文字なども随分読みやすくなりました。


 しかし、いまだに、わたしは、最終的な原稿チェックなど、紙に印刷して行うことがあります。

 なんだか、詳細で美しい液晶より、紙の方が読みやすいんですね。


 気のせいだろうか?


 いや、気のせいじゃないんです、という実験を、東海大学工学部の面谷信(おもたにまこと)教授が実験で証明しました。

 方法は、誤字脱字を混ぜた新聞コラムを読ませて、制限時間を設けずに間違いを指摘させる、というものです。

 この場合、ディスプレイよりも紙の方が16パーセント正答率が高かったようです。

 原因とされるのは、間違い探しにかけている時間の差だそうです。

 紙      =平均8分13秒
 ディスプレイ=平均7分38秒

 時間をかけた方が間違いに気づく、ということです。

 ディスプレイの時間が短いのは、紙と違って、読み飛ばしてしまう傾向があるからだそうです。

 読み飛ばす主な理由として、面谷教授は「視線の固定化」を挙げています。

 紙と違って、ディスプレイは、持ち替えたり、ずらしたりできないため、目の筋肉にずっと同じ緊張を強いることになる、それを嫌って、無意識のうちに浅く速い読みになってしまうというのです。

 同教授は、他の実験で、「手のひらサイズのデイスプレイ」なら視線が固定化されずに、紙と同様に読むことができることを示して、「読みづらさの原因を取り除けば、紙とディスプレイに差はなくなる」と結論づけていますが、どうでしょうか?

 わたしは、バックライト他で、自ら発光している表示メディア(液晶やプラズマ)は、反射光だけで読む紙と目に与える疲労感が違うと思うのです。

 皆さんもそう思われませんか?


 今回は、コンピュータで「読む」ことについて書きました。

 近いうちに、コンピュータで「書く」つまりキーボードを打つことで受ける、文章への影響について書きたいと思っています。

 このことについては、前に一度書いたことがあるのですが、文章を「ペンを押しあるいは引っ張って書く」リズムと、「キーボードを叩いて書く」リズムは大きく違うと思うのです。

 そういった、文章を記す作業からの「肉体的フィードバック」が、文章に影響を与えないわけはないと思いますので(タイプ・ライティングが主流のオウベイでは、随分前からその影響は取りざたされていたはずです)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月10日 (火)

ポリス!プリーズ!

 タイトルの言葉は、ブッソウな外国で襲われそうになった時に叫ぶ常套句ですが、今回書くのは警察のポリスについてではありません。

 もちろん、ミュージシャンの「ポリス」でもない。


 ギリシア語で「都市」を意味するポリスです。

 古代ギリシアにおける都市は、しばしば小高い丘(アクロポリスと呼ばれます)に設置された城西を中心に、一つのアゴラ(広場)、一つ以上の神殿と体育館から成っていました。

 アクロポリスとは、特定の地名ではなく、ギリシア各地に存在したのです。

 あの「300(スリーハンドレッド)」のスパルタにもアクロポリスは存在しました。

 もっとも、華美を廃し、質実をもってなるスパルタは、他のアクロポリスとは違い、低く目立たない丘に設置されていたようです。

 反対に、コリントスのアクロポリスは、「アクロコリントス」と呼ばれる巨大な丘の上に置かれました。


 しかし、我々にとって、もっとも身近?で、よく知っているのは、やはり、現アテネ市内にある古代遺跡、アテナイのアクロポリスでしょう。





 皆さんも写真でご存じでしょうし、訪れた方もおられるでしょう。

 現存するのは、パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿です。
 特に、パルテノン神殿は、大空に向けて突き立った大理石の柱46本が荘厳な雰囲気を漂わせて、観光客にも人気があります。

 確か、沢木耕太郎氏の「深夜特急」でも、旅の終わり:終着点として印象的に使われていたはずです(ウロ覚えですが)。


 ご存じのかたも多いでしょうが、そのアクロポリスが、成立2500年を経て「封鎖されてしまった」という記事が数日前に報道されました。


 5日に、アクロポリスで働く臨時職員らが、未払い給与支払いなどを求めて遺跡入り口を占拠、観光客の遺跡入場が終日できなくなってしまったのです。

 職員らは、その一週間前にも、3日にわたって遺跡入場を妨害しています。
 要求は、未支払い給与の即時支払いのほか、正規職員としての採用だそうです。

 彼らにとって、「アクロポリスは(要求を政府に認めさせるための)唯一の武器だ」ということでしょうし、ある武器を使って、自分たちの環境改善を勝ち取ろうとする態度は分からなくはありません。


 が、世紀の歴史建造物を観るのを楽しみにしていた人々、とくにアジアの旅行者にとってはいい迷惑です。

 かつて「こち亀」で高らかに宣言されたように「ヨーロッパ旅行は時間との戦い」ですから。

 往復に何日もかかる旅行では、現地の滞在時間が非常に短くなる。
 その中で、欧州数カ国を巡り、著名な場所を訪れ、美術館で名品を観なければならないのですから、そりゃ時間との戦いになるでしょう。


 あ、しかし、アクロポリスを遠くから眺めるだけにすれば日程に余裕ができるので、これを奇貨(きか)として、「慌てない欧州5カ国の旅」を実現する良い機会かもしれませんね。
 そう、それはいい。
 

 え、なんだか、ちょっと冷たい言い方?

 うーん。たぶん、個人的に、わたしが、そういった遺跡、遺物にはあまり思い入れがないからでしょう。
 たぶんサイコメトリー能力(想像力、共感力ともいいますが)が欠落しているのですね。
 だって、パルテノンの大理石も、そこらのアンザン岩も、ここ数年で生み出されてものではないでしょう?
 工事現場に転がっている石ですら、太古の昔、熱く燃えていた地球が冷えて固まって出来た物質に違いはありません。
 その意味で、隕石や月の石には感銘を受けます。ココでない場所から「やって来た」物質ですから。



 その後の経緯が分からないのでよく分からないのですが、臨時職員たちは「要求が通るまで続ける」と言い、政府側は「続ければ強制的に排除する」と互いに強硬な姿勢を崩してはいなかったので、展開が心配です。

 はっきり言って、ギリシアは経済的に豊かな国ではありません。
 この「アメリカ発〜」ってヤツの影響も受けているでしょうし、だから、おそらく臨時職員の給与も払えないのでしょう。

 貧しい国で、おもな資源が観光資源なのですから、その大動脈たるアクロポリス観光が止まってしまえば困るのは想像に難くありません。

 くれぐれも、あせった国側が、強硬に武力を使った解決を試みないことを祈っています。

 「アクロポリスにポリスが突入」なんてジョークにもなりませんから。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 9日 (月)

欲しいような、欲しくないような 〜遺伝子検査キット〜

 ご存じの方も多いでしょうが、「2008年 TIMEが選んだ世界の発明品BEST 20」が発表されていますね。

 そこで、一位に輝いたのが「個人向けDNA検査キット(The Retail DNA Test)」↓です。




 紹介文によると、

“Courtesy 23andMe「23アンド・ミー」社が開発した遺伝情報を唾液で検査するキット。60万の遺伝子マーカーを解析することができ、90以上もの遺伝情報を知ることができる。価格も手ごろな399ドル”


だそうです。


 400ドルで、90以上もの遺伝子情報が分かるんですよ。


 でも、個人的には、知りたくないなぁ。

 みなさんはどうですか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 8日 (日)

大人になったら……




「子供は小さい大人ではなく、子供という異人種なのだ」という認識は、近代になってからの共通認識に近いものだと思いますが、身近な子供について、現在の彼らが異人種で、突然「オトナ」に変身するとなどとは、到底、わたしには思えません。

 やはり、彼らは、今の面影、考え方を保ちながら、大きくなっていくと思うのです。

 もちろん、人生を変えるような衝撃的経験をすれば、オトナになって、「昔の面影がないなぁ」ということになるでしょうが、そうでなければ、オトナはあくまでコドモの延長線上の生き物です。


 だからこそ、しばらくあっていない子供と何年か経って会うのは、楽しみでもあり不安でもあるのですね。


 そこいらに居る子供(失礼!)ですらそうなのです。


 まして、その子供が「独特の人物」であれば、期待と不安はいや増してしまうに違いありません。


 昨日、2007年制作のOVA「鬼公子閻魔」を借りてきました。

 「ドロロンえん魔くん」のアダルトバージョンです。

 確か、初版コミックの最終話にも、大人になった閻魔がでてきていたと思いますが、設定はそれとだいたい同じです。


 ドロロンにあった「コミカルさ」を廃して、妙にワルっぽいえん魔と意地の悪そうな雪子姫、悪党面のカパエルが登場します。画像↑参照


 出てくる事件も陰惨なものばかり。

 なんというか、リメイクされた「妖怪人間ベム」っぽい作りなのですね。

 全四巻、観てみましたが、あまり面白くはありませんでした。



 わたしが個人的に期待しているのは、荒木飛呂彦氏の「魔少年BT(ビーティー)」です。

 ご存じの方も多いでしょうが、荒木氏は、コミックに、大人BTのラフ・スケッチを書いているのです。

 それが、どことなく、あのディオ・ブランドーに似ていて、ひどく魅力的に見えるのですね。

 荒木氏はもう、過去の「波紋」や「手品トリック」(これは今も作中に使っていますが)とは決別して、あらゆることをネタにできる「スタンド」能力に夢中のようですから、バオー来訪者(スミレ大人版)もBT(大人版)も、書かれることはないでしょう。


 ただ……多くのキョショーたちが陥った、自分が生み出した全てのキャラを「連環」させたくなる衝動に荒木氏がとりつかれてしまえば、ひょっとしたら、そういったキャラクタを見ることができるかもしれません。


 自分が、別々の作品で作り出したキャラクタが、実は、一つの世界で一緒に活動していたことにする、アレです。

 そういった、オールスター作品が、本当の意味で面白いかどうかはわかりませんが。

 やっぱり、作家生活の最後に、「オレが作った世界はひとつだったんだ。スゴイぜオレ」と、自分の作り出した世界全てを肯定したくなるんだろうなぁ。



 その昔、友人がいった「至言」をわたしははっきり覚えています。

「バイオレンス・ジャック、終わって見ればデビルマン〜終わって見ればデビルマン〜」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふたりの男とひとりの女  〜エクス・マキナ〜

 今日は、WBC対韓国戦を観た後で、近くのGEOにDVDをレンタルに行ってきました。

 気になっていた映画(旧作ばかりですが)をいくつか借りてきて、一息に観てしまったところ、いつの間にか日付が変わっていて、ついに「一日一項目書く」というオキテを破ってしまいました。

 まあ、まだ寝ていないし、「0時を回っても今日のウチだろう」と気を取り直して、映画感想を書きます。


 今回のタイトルは、かつて書いた「ベクシル」と対になっています。

 タイトルは「エクス・マキナ」
 名作「アップルシード」の続編です。
 「ベクシル」同様、CGアニメーションです。





 ジョン・ウーが制作総指揮をつとめました。

 おそらく、彼は、前作の「アップル・シード」に深く感銘を受けたのでしょう。

 

 しかし……口にするのは辛いことですが、格言「続編に佳編なし」は、この映画でも有効でした。


 続編で面白い映画を作れるのは、ジェームズ・キャメロンだけなのでしょうか?


 実のトコロ、あまり良い評判を聞かなかったために、今まで観るのを控えていたのです。


 実際に観てみると、評判通りでした。


 言葉にするのは、本当に辛いのですが、これはもう、続編の設定、脚本、演出の甘さという他はありません。


 「アップルシード」における、設定の雄大さ、ツブの細かさ、伏線の鮮やかさ、そして愛情のこまやかさ、どれをとっても、続編には受け継がれていないのです。


 あー辛い、こんなことを書くのは。

 わたしは、よっぽどの事がない限り、否定的なことはこのブログでは書きたくないのです。


 でも、仕方がない。


 映画を観ながら、「今回の脚本家は、アップルシード原作を読んでいるのだろうか?」と、なんども自問しました。


 映画が公開された時、公式サイトで、原作者の士郎正宗が、ヒロインの恋人であるサイボーグ、ブリアレオスのクローンが登場するという話に触れて、「僕の中では、彼は、大男の黒人というイメージなんですが……」と言っているというのを聞いて、我が意を得たり、と膝をたたいてしまいました。


 そのとおり、天才戦闘マシンのヒロインデュナン・ナッツが恋する男が、「エクスマキナ」に出てくる彼のクローンのように、すらりとした二枚目の東洋系なんてあり得ないでしょう。


 いろいろな意味で、前作の設定はすばらしかった。


 戦いで生き別れになった恋人と再会したら、彼はサイボーグになっていた。

 上半身は、まるでロボットだけれど、下半身には男性機能が残っていて、子供を作ることもできる。

 ヒロインは、彼のサイボーグ化をなんとも思っていないけれど、彼の方が妙に屈折していまっていて、なんかギクシャクする……という美女と野獣タイプのストーリーなんですね。


 二人の関係を縦軸に、新しい世界を作る、人間からデザインされたバイオロイドと、彼らを拒絶する人間たちとの闘いを横軸に、アップルシードと呼ばれるふたつの種族の行く末を決める鍵となるデータを探す、というのが前作の大筋でした。

 ざっと書いただけでも、内容が入れ子になっていて単純でなく、人間関係が魅力的であることは一目瞭然です。


 サイボーグ化した恋人が「まだ男である」というのも鮮やかな驚きですし、また、だからこそ、この映画のコピー「戦いが終われば、母になろうと思う」は秀抜なのです。

 そりゃ、サイボーグ009と003も、未来で子供を作ってますがね。



 もちろん、「エクス・マキナ」にも観るべきところはあります。


 それが、この項のタイトル「ふたりの男とひとりの女」です。

 サイボーグ化して顔がロボットのようになった恋人と、彼の遺伝子から作られた、人間である時の彼の顔と体を持つクローンの二人から、ヒロイン、デュナンは愛されるのです。



 もともとは、同じ人間だから、結局、同じ女を好きになる。

 おまけに、咄嗟にでるふたりの男の行動、しぐさは、まったく同じ……


 初めは、とまどうデュナンですが、彼女の愛はブレません。

 このあたり、もう少し突っ込めば良い話にできたのに残念です。



 物語の骨子となる、敵役ハルコンなるものも、まるでダメです。

 たしいた謎でもないし、そいつを生み出した武器製造都市「ポセイドン」が、あっさりとその破壊に協力するのもなんだかなぁ。

 そして、細かい内容たるや、中学二年生が「これがカッコいいんダゼ」とばかりに、手垢のつきまくった設定をつなぎ合わせて、あげく、アメリカ式O型性格まるだしの、「細かいことは気にすんなよ」式のハッピーエンド!とは酷すぎる。


 劇中で交わされる、彼らの言葉を書いてみますので、脚本が、どのくらい酷いかを分かってください。


「彼女にも、まだ人間の心が残っているはずだ。彼女に話しかけろ」
「私を壊してください。私に人間の心が残っているうちに……」


 あーやだ。もうカンベンしてよ。想像力ってもんがないのかなぁ。



 絵柄が第一作とは変わってしまっているのも、なんだかな、でした。

 いや、画風が少し変わるのは良いんです。

 でもねぇ……


 前作で、未来都市の執政官であるアテナは、もともとは美しい女性でありながら、結構年をとった感じで書かれていて好感が持てました。


 それが、今回の彼女は、顔に張りはもどるわ、髪型は若くなるわ、服の趣味は変わるわで、最初、違う役の人が出てきたのかと思ったほどでした。

 前作のサブ・キャラ、ヒトミも、印象からして全然違うから、誰か分かりませんでした。

 もちろん、前の方が、技術が未熟なため、人形みたいで違和感はあったのですが、それがバイオロイドという「ヒトでないもの」みたいな雰囲気をよく表していたような気がするんですね。


 今回のヒトミは、まるで人間だからなぁ。

 と、がっかりしているうちに、0時を回ってしまったのですよ(まだ言い訳を……)。



 しかし、収穫もありました。

 同時に借りてきた、これもずっと気になっていた、1993年にタツノコプロ創立30周年記念作品として制作されたOVA版キャシャーン(全4話)が、なかなか良かったのです。

 これは、今の「キャシャーンSins」ではなく、オリジナルのキャシャーンの世界観をそのままリメイクした作品です。


 上月ルナは、オリジナルもびっくりの「セクシースタイル」ですし、キャシャーンはなんだかデカい!

 それに、ちょっとロボットっぽい。

 愛犬ロボット、フレンダーは、まるでロボット犬みたいだし(当たり前だけど)……

 そして、わずかに世界観がシビアになっているんですね。

 これはなかなかいいですよ。

 DVD一枚に全四話が入っているのもお借り徳ですし。


 キャシャーンのパラレルワールドとして、一度ご覧になっても良いかと思います。


 本当のことをいうと、キャシャーンを夢中で観ている間に0時を回って……(もう良いって!)



 あと、怪作「カイバ」(あのマインド・ゲームの湯浅政明監督作品)の最終話と、なんか気になっていた、『ドロロンえん魔くん』のコミック色を廃した大人版「鬼公子炎魔」も借りて来ました。

 これも、観てみて書くに値するものであれば感想を書くつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 6日 (金)

遺伝子にルージュ・テストを……「寿命の起源」

 「ルージュ」と聞くと何を思い浮かべますか?

 フランス映画っぽく、フィルム・ノワールっぽい、ちょっと艶(なま)めかしい感じがしますか?

 あるいは荒井由美の「ルージュの伝言」(古ッ、てか松任谷由実だって)?

 いえいえ、そうじゃなくて……

 わたしが、今、書こうと思っているのは「テスト」についてです。

 そう、いわゆる「ルージュ・テスト」

 ご存じ方のもおられるでしょうが、「鏡に映る自らの姿を自分とわかって」いるかどうかを試す方法が「ルージュ・テスト」と呼ばれるものです。

 ルージュ=口紅。


1.被験者、たとえば子供におもちゃを与えて遊ばせ、夢中になっているスキに、頬にルージュを塗りつける。

2.しばらくして鏡を見せる。


 以上が、ルージュ・テストです。

 もし、被験者(この場合は子供)が、鏡に映る物体を「自分」だと『認識』すれば、手で汚れをこすろうとします。


 人間の場合、二歳頃から判断できるようになるそうです。


 同様のテストを動物にすると、チンパンジーは自分を認識できるようになるけれども、ニホンザルは、目をそらせたり威嚇したりし続けるそうです。

 つまり、ニホンザルは、鏡に映る自分自身を他者だと思うのですね。


 言い換えれば、ルージュ・テストとは、「鏡」という存在を認めることのできる能力であるといえます。

 チンパンジーたちは、鏡の原理を知りませんが、「とにかく、ここに見えているのは自分自身なのだ」と理解できるのです。



 鏡に映っているのは自分自身、つまり、アイデンティティ(自己同一性)を自覚していることを試すテストが「ルージュ・テスト」です。





 先日、NHKブックスの「寿命論」(高木由臣著)を読みました。

 生と死、哲学的に考えなければ、誕生し寿命があるうちが「生」で、寿命が切れれば?「死」ということになります。


 ここに、簡単で、しかも、答えられない質問があります。


「生物は、なぜ死なねばならないか?」


「そういうものだから」では答えになりません。


 また、これも不思議なことに、「生物によって寿命の長さはほぼ決まって」います。


 犬の平均余命が人より長いことは、まあ、あり得ないでしょうし、大型のオウムは平均50年以上、種類によっては100年以上生きるものも存在します。ある程度年をとってからオウムを飼うと、自分の死後の、ペットの行く末を案じなければならなくなるのです。



 種子のままであれば、1000年生き続ける蓮と、いかに科学力を使っても、たかだか100年前後のヒトの寿命の差はどこにあるのでしょう?


 ヒトは、一個の独立した生命体ではあるけれど、その各部には莫大な細胞が生き、個別の寿命にしたがって死んでいきます。


 体細胞の分裂回数には限界があって、ヒトの皮膚細胞の分裂は50回までです。


 個々の細胞の寿命はどうして決まるのでしょう。
 そして、細胞の寿命と、それからなる生命体の寿命には関係があるのでしょうか?


 長らく「寿命」の研究をしてきた著者は宣言します。

 『自己同一性』が継続される期間を『寿命』と呼ぼう。

 これは分かります。たとえば、死ぬ間際に、遺伝子的に同じクローンを生み出して後を引き継がせても、寿命が延びたとはいえません。

 筆者は、寿命を考えるに、まず、その定義から始めたのですね。


 彼は動物実験を繰り返し、寿命が環境に左右され、長寿の系統を作り出すことも可能だということに気づきます。

 そして、やがて「大事なのは寿命の長短ではなく、寿命のありかただ」という結論に到達したのです。


 なんだそりゃ?よく、坊さんあたりが説教で説くコトバじゃないですか。相田みつおか?

 などと早合点してはいけません。


 筆者は、「人生について」ではなく、「個別の細胞レベル」についていっているのです。


 面白いと思いませんか?

 人の一生についてなら、ありきたりで面白みのない言葉、だけど、細胞レベルについての言及だと、突然、深淵な意味になる。


「寿命のあり方」とは、個の生命体の中で、その内在する資源やエネルギーを、次世代につながる生殖に関わる細胞=ジャームと、身体細胞など一代限りの細胞=ソーマへいかに振り分けるか、ということだそうです。


 ここからの論の展開が面白い。


 筆者は、まず、太古の海で生み出された、原始的形態をとどめる小型の細胞=原核細胞は、100%完全な複製を行い、自己同一性が保たれるために寿命はないと主張します。

 しかし、原核細胞から進化して大型になった真核細胞は、分裂増殖でなく、有性生殖(オス、メスによる)を始めてしまった。

 オスとメスで子孫を作るということは、自己同一性が保たれなくなるということです。

 つまり、自己の連続性が断ち切られる。

 これにより、寿命が生まれたのです。

 では、なぜ寿命という犠牲を払ってまで、有性生殖を始めたのでしょうか?


 ひところ、生命科学者の間で、ヒトの寿命を決定づける寿命遺伝子の発見に躍起となることがはやりました。

 しかし、死ぬ、とは、本来無限に分裂できる細胞に抑制がかかることです。

 抑制=死のメカニズムは、多様な遺伝子が関係したネットワークとして張り巡らされていることに気づいた筆者は、自戒を込めて、「寿命遺伝子といったものはあり得ず、特定の寿命遺伝子を求め、その機能を解明することが寿命を理解することだというような考えは、もはや成り立たない」と明言します。

 寿命は、生物が、進化の過程で自ら作り上げたシステムなのです。

 では、なぜ、そんなシステムを作り上げたのでしょうか?

 筆者は、真核細胞が大型化したことに原因があるのではないかと考えています。

 細胞が大型化すると、遺伝子も大型化するために、転写に時間がかかってミスコピーによる劣化が増え、リセットしないと子孫が残せないのだ、と。

 リセットするために、有性生殖が導入されたのだと。

 これも面白いのは、筆者の主張が、有性生殖の導入が、「第一に細胞劣化を防ぐためのリセット機能のため」であり、よくいわれる「両性生殖による遺伝子の多様化」は、二次的な副産物だということです。


 この主張に、わたしは「やられた」と思いました。
 キレの良い左ストレートを食らったように鮮やかな印象を受けたのです。


 多くの生命科学愛好者(ってどんな人種?)同様、わたしも、生命の多様化のためにこそ、二種類の遺伝子混合=有性生殖がハツメイされたのだと思っていました。

 ヒトを含めた多細胞生物は、生き残るために必要な機能=身体組織が、細胞の分化で発達しました。

 しかし、同時に、いえ、そのために細胞の巨大化が起こり、寿命が発生したというのが、現時点での、筆者の最終的な結論なのです。



 高等化するために、リセット機能が必要となり寿命が発生した。


 もし、それが真実ならば、ヒトの命の永遠化は、まだまだ先のことになるでしょう。



 もうすぐ大団円を迎える「キャシャーンSins」では、ナノテク技術を応用した滅びない体を持つロボットたちが、死を求め死を与えてくれる「月という名の太陽」ルナに群がっていました。

 後に、キャシャーンによってルナは殺され(破壊され)、滅びをもたらすモノ(おそらくは、分解ナノロボット)がばらまかれ、世界が滅びに向かって進んでいきました……(という設定のはずです。まだはっきりとはしませんが)



 しかし、ヒトは、まだ当分の間、わずか100年(人によっては長い期間しょうが)の寿命に縛られ、少しでも長生きしようとあがくことでしょう。

 ホロビを求めて死を望むようになるためには、複雑化しながらも完全なコピー、自己同一性(アイデンティティ)を保存したまま複製し続ける技術を見つけ出すことが必要なようです。



 つまり、遺伝子自身が「ルージュ・テスト」を受けた時に、自分の頬についた紅をこすることができるかどうかがポイントということですね(意味不明?)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 5日 (木)

復讐者としてのゴウレム 「銭ゲバ」




 先頃、「メイちゃんの執事」で銭ゲバについて触れましたが、誤解を招いてはいけないので、この際、ついでではなく、きちんとこの作品について書いておきます。

 その前に……

 わたしは「復讐」に関しては少し過激な意見を持っています。
 今回、勢いで書いてしまいますので、これがわたしの本性だなんて思わないで欲しいのですが……無理でしょうね?



 ともあれ、「銭ゲバ」の現時点における感想です。



 「銭ゲバ」は良いドラマです。

 しかし、それは当たり前。

 まずジョージ秋山の原作が良いし、出演者が某50周年記念番組と違って、演技のできる役者をそろえているのですから。


 加えて、テーマが「復讐」。セケンに対する復讐。

 これで面白くならないワケがない。



 誤解を恐れずにいえば「復讐はすばらしい」。

 かつて、わたしは思っていました。

 スベカラク、男の人生は「復讐に満ちたもの」でなければならない。

 
 対象者がいる場合はソイツに復讐し、もしいなければタイクツな「人生そのもの」に復讐する。

 「それが漢(オトコ)の生き様だ」



 なんてね。そう思っていたのです。

 もうずっと前のことですが。

 今は、そんなふうには思っていません。


 なぜなら、そんな生き方は「正しく」ないからです。




 でも、復讐譚(ふくしゅうたん)は、今でも好きです。

 史上最高の復讐劇「モンテ・クリスト伯」、そして日本で描かれたダントツの復讐コミック「KILLA」(大和和紀)、そして、あのアルフレッド・ベスターの「虎よ!虎よ!」、片目片腕を無くし恋人を犯され血の涙を流して超越者(神)に復讐を誓う「ベルセルク」(三浦健太郎)、高潔にして清廉な父を世紀の犯罪者にした世界を破滅させるため、若き復讐鬼となったエマニュエル・フォン・フォーグラー(ジャイアント・ロボ)……

 繰り返しますが、復讐のストーリーが面白くないわけがない。


 握りしめた拳で地面をたたき、血の涙を流しながら声のかぎりに呪詛(じゅそ)の言葉を叫び続ける。

 そう、恨みに色をつけるとすれば、おそらくは血の色をしているのです。

 その瞬間、漠然と過ごされてきた人生は一変し、ただひとつ、復讐という目的に向かって走り出す。

 おそらく人は、裏切りや激しい絶望感で一度死んでから、復讐者としてよみがえるのでしょう。

 だから、復讐者は、もはや生きている人間ではないのです。



 泥でつくられたゴウレムに似たヒトガタに過ぎない。

 だから、ゴウレム同様、額に貼られた羊皮紙の上のemeth(真理)という文字から、後悔や逡巡(しゅんじゅん)や諦めの涙でeの文字が消えてしまうと、meth(死)を迎えて崩れてしまう。


 復讐とは、裏切られた者の中で滾(たぎ)る怒りと憎しみと無念を混ぜ合わせて爆鳴気(ばくめいき)に近い状態にし、復讐鬼というエンジンに送り込み、回転数を無視してオーバーレヴさせる、地獄への片道切符を貼り付けたレースカーのようなものです。

 ニトロを混ぜたような強力な燃料は、すさまじいエネルギーを捻り出すと同時に、エンジン内部をも傷つけていく……

 やがて、酷使されたエンジンは平均的な寿命より遙かに短く、シリンダヘッドを吹っ飛ばして寿命を迎える。

 燃料が強力で、まわりに与える影響も大きい分、自分の命を削りながら突っ走るのが復讐者の人生なのです。



 その意味で、わたしは、銭ゲバの「脆弱さ」が気になります。

 復讐者たるもの、安易に泣いてはいけません。

 ガッツ(ベルセルク)やキラ・クイーン(KILLA)は決して涙を見せない。

 「地獄にあっては鬼を殺し、天国にあっては仏を殺す」

 自分を愛するものの気持ちを利用し、赦(ゆる)しを与えるものを踏み台にして、復讐を目指し、さらなる高みに上っていく。

 決して、後ろは振り返らない。

 ただ復讐のために。

 それこそが、まっすぐな復讐なのですから。



 余談ながら、わたしが大藪晴彦氏の作品が好きなのは、彼の造る主人公たちが、振り返らず、彼らに不遇を強いた人生に復讐するために、あらゆるものを利用して前に進んでいくからです。

 その意味で、今に至るまでの「大藪賞」受賞作には、すべてがっかりしました。
 それらには、本当の大藪マインドが入った作品がひとつもなかった。

 大藪の主人公は、自分を信じ、愛してくれる者さえも目的のためには斬り捨てていきます。

 伊達邦彦は、犯行後、友人で共犯の真田を眠らせたまま殺害し、朝倉哲也は、物語のラスト近く、日本を出て海外に向かう前に、自分を愛してくれた、どこか自分と似たところのある恋人京子を殴り殺し、その体温が消えていく間、ずっと抱きしめて髪に顔をうずめて離さなかった。

 だが涙は流さない。

 彼らが生きてきた、そして生きていく復讐の闘いの苛烈さが、それを許さないのです。

 彼らの挑む、偽善にみちた既得権力の支配する世の中は、あまりにも強大で冷酷なので、泣いている暇はない。


 その意味で、先に書いたように「銭ゲバ」の蒲郡風太郎は脆弱すぎます。

 泣きすぎる。精神の動揺を安易に顔に出しすぎる。

 そうしないと視聴者が分かってくれない、という事情は分かりますが、復讐者の描き方としては、もう少し頑張って欲しいと思うのです。


 復讐者が泣くのは、額に貼られた羊皮紙の文字からeが消える瞬間、元通りの泥人形に還る最後の時だけで良いのです。そして静かに人生の舞台から去って行けばいい。

 あるいは、復讐を果たした後も、さらなる悪行を続け、自分が滅ぼした相手によって、逆に復讐されるまで突っ走り続ける、それこそが真の復讐劇なのではないでしょうか。




 あとひとつ、原作にあったかどうか定かではないのですが、風太郎が、彼を追い詰める刑事に、妻の手術費を得るために風太郎に頭を下げ「金が全てだ」といわせる場面がありましたね。



 あれなどは、昨今ハヤリの拝金主義、現金至上主義を象徴するエピソードでした。


 わたしも、若い頃なら、あれは仕方ないかなぁと思ったでしょうが、今ならはっきり、刑事のあの行動は間違いだと断言できます。


 「世の中銭ズラ」といいながら、どこか、そうではないことを証明してくれるのではないかと、自分を追い詰める刑事に期待しながら、逆に彼を金で追い詰める主人公、という図式はすばらしいとは思うのですが……


 理由は簡単。

 彼は、妻の命の代償として、頭を下げて金を受け取ったあの瞬間に、刑事として、人として、男としての魂をなくしてしまうからです。

 体は生きているが、本当の意味で、彼はもう生きてはいない。死んでしまっているのですね。

 ああいうタイプの男は、ただ肉体が生きているだけではダメなのです。

 さきのゴウレム同様、彼も額の羊皮紙のeが消えかけた状態で生きている亡霊になる。


 そんな、自分のために「死んだ」夫を間近に見て生きる妻は幸せでしょうか。
 母のために「死んだ」父を見て育つ息子は幸せでしょうか。

 もちろん、これは、わたし個人的見解です。

 違う意見の方も多いでしょう。



 それでも、わたしがホン(脚本)を書くなら、彼には金を断らせ妻を死なせてしまいます。

 そして、事情を知った息子に父を怨ませる。


 風太郎は、馬鹿な男だと刑事を馬鹿にしながら、どこか嬉しそうな顔をする。

 なぜなら、彼はもう大金を手に入れてしまったからです。

 復讐は終わってしまった。

 もう彼の額のeの文字は消えかけているのです。

 空転する高出力のエンジンは、心に負荷をかけます。

 はやく、この一幕劇を終わらせて欲しい。

 だからこそ、刑事の拒絶が、彼には腹立たしく嬉しかったのだ……なんてね。

 でも、それじゃあ、一般の人々の共感を得られないんだろうな。



 ああ、そうです。

 あとひとつ。このことについては、ぜひ書いておかねばなりません。

 それは、蒲郡風太郎が、復讐を決意するのが「幼少時」であるということです。

 エドモン・ダンテスも、ガリィ・フォイルも、ガッツも、大人になってから裏切られ復讐を誓います。

 人格が定まっていない時期に、貧乏ゆえ母を亡くし、「金が全てである」と信じた風太郎の決意が、大人になってからブレだすのは仕方がないのかも知れません。



 長く人生を生きれば分かって来ますが(いや、そのはずです。その割に、分かっていない老人が多すぎる気がしますが)、本当の話、「金は全て」「金は万能」ではないのですから。

(現代社会を生きていく上で、絶対に必要で、大切で、あれば女性にもモテる[らしい]し、無くなれば次の瞬間から困るほど重要なものであるのは確かですが、万能でも全てでもなく、あればレストランに入った時にメニューの値段表を見ずに注文できる程度のモノに過ぎなく、ありすぎれば妙なものをいっぱい連れてくるヤッカイなモノであるのが「カネ」です)


 「世の中銭ズラ!」

 蒲郡風太郎は、その価値観を再確認するために、あからさまに金で人を試し、釣ろうとしているのです。


 子供の頃の「狭い世界観での決意」というのが、風太郎の不幸でもあるのですね。

 ほとんどの人間は、育つにつれて、その価値観からブレていくでしょうから。(あの、多くの人が持ち上げてヒーロー視した「ホリエモン」も、ブレていないフリをしていただけです)


 生きたまま、母の死体とともに埋葬され、森羅万象すべてを憎んでいるキラ・クイーンは別格としても。



 ともかく、まだドラマは終わっていません。

 この刑事のエピソードが、なにかの伏線で、最後の打ち上げ花火となってすばらしい大団円を迎えないとも限らない。

 それを見届けるためにも、「銭ゲバ」、あと少し見守りたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 4日 (水)

ドギマギせずに、「ドギーバッグ」

 「ドギーバッグ」という言葉をご存じでしょうか?

 その名の通り、犬(子犬)のためのバッグです。

 もともとは、「外食をした際に、残り物を家で留守番をしている子犬に持ち帰るための入れ物」だそうで、転じて、食べ残しを持ち帰るための入れ物を意味する言葉になったそうです。

 食と環境への意識が高まるにつれて、日本でも残り物を持ち帰る試みが始まっています。

 もちろん、犬のために持ち帰るのではありません。

 そういう人もいるかもしれませんが、少しでもペットの健康に気を遣う人なら、人間用の濃い味の食べ物をペットには食べさせないでしょう。


 自分たちの食べ残しを店でもらった入れ物(ドギーバッグ)に詰めて持ち帰って食べるのです。


 一部外国では一般的な風習であるものの、日本では普及していない……え、ほんと?


 おかしいなぁ。わたしは日本人では無いのかな?

 少なくとも、わたしのまわりでは、子供の頃から今にいたるまで、残り物はかならず店の人に言って持ち帰るようにしています。

 もちろん、イヌブクロなんて妙なものではなく人間用の容器にいれて――いや冗談です。たいていの店なら無料で、店によっては100円程度で、プラスティック・パックか折り詰めを渡してくれるので、それに入れて持って帰るのです。


 お持ち帰りは昔からある。

 だから、わざわざ「ドギーなんたら」なんて変な名前を使って、オーベイの真似しなくても、「モッタイナイから、自分たちの食べ残しは持って帰りましょう」と呼びかけるだけではダメなのかな。

 なにせ、国内の外食産業で1年間に出る食べ残しなどの「食品廃棄物」(こんな呼び方したくないよ)は2006年で、約304万トン、日本人約5千万人分の1年間の米の消費量に相当するそうですから。

 食中毒などの衛生面が不安だから持ち帰らないという人もいるそうですが、そんな考えの人は、車で売りに来るオリジナル豆腐をボウルで買いに行くこともできないのでしょう。

 あげく、清潔すぎる生活のおかげで、アレルギーに悩まされるようになるのです。


 以前、別項で紹介した藤田紘一郎教授がその著作で書かれているように、清潔すぎるのは、アレルギーにとって良くありません。
 
 それはさておき……

 より根深い問題は、レストランで食べたものを家で続けて食べたくない、という気持ちから持ち帰らない人がいることでしょう。

 あるいは、持ち帰った食べものを暑い場所に放置して食中毒でも起こされ、苦情が来たら困るという店側の事情があるのかもしれません。

 たしかに、持ち帰った食べ物を常温で放置するような、一般常識に欠ける人も、まれにいるでしょう。

 ですから、今後の方針としては、残りものが出た場合は、店側が「ドギーバッグはいりませんか」と声をかけて、その後に、持ち帰る際の注意を書いたシールなどをバッグに貼るようにすべきでしょう。

 子供に言うようで失礼な気もしますが、最近は、それぐらいやってもちょうど良いぐらいだと思いますから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 3日 (火)

標準世帯の真実

 先頃、発表された「年金給付水準の将来見通し(平成21年度)」に関して、面白い話を聞いたので、ここに書いておきます。

 あの給付見通しは、例によって、よくわからない御用コンサル(タント)によって、政府に都合のよいよう捏造(ねつぞう)されたデータの羅列で国民をダマそうとする程度の低いものでした。

 その中で、このデータは、「標準モデル家庭」を基(もと)に算出されています、と書いてあります。


 さて、皆さん。

 皆さんは、「標準家庭」と聞いて、どんな家庭を思い浮かべますか?

 まさか、サザエさんの磯野家のような大家族を思い浮かべはしないでしょう。



 まず、政府の考える標準モデル家庭を書いておきます。

 1.父と母がそれぞれ20歳で結婚
 2.父は20歳から40年間勤続し、60歳で定年
 3.母は20歳から40年間ずっと専業主婦
 4.子供は二人

 うーむ。すでに子供が二人、という時点で無理がありますが、20歳で結婚、離婚もせずに40年間専業主婦ってのもあり得ない気がしますね。

 だいたい、20歳で結婚って、早すぎなくネ?

 確かにこういった家庭もあるようです。日本の全家庭の10パーセントほどですが。


 しかし、年金の算出に、わずか10パーセントしか該当しない家庭を「標準モデル」とするのはどうしてでしょう?


 答えは簡単です。

 例によって、お役人サマは、実際に運用する金から、理想値を「逆算」しているからです。

 この10パーセントの家庭を標準としないことには、小泉−竹中路線で決定し、国民にかなりの高負担と減益を強いた「100年あんしん年金」が破綻(はたん)してしまうのです。



 だいたい、我々の周りを見渡しても、専業主婦だけで生活している女性がどのくらいいますか?

 この試算は、あきらかに現実と齟齬(そご)を来しています。


 先の「標準モデル家庭」は、1985年なら20パーセントありました。
 これなら、少ないながら、まだ何とか標準といえるかも知れません。


 しかし、今や10パーセント。
 とても標準とはいえない。


 2008年の今、ひとり暮らしの家庭が30パーセントなのですから。


 現在、一家庭の「平均人数」が何人かご存じでしょうか?


 その前に、NHKで、長きにわたって放映されている「家庭の料理」について、書いておきましょう。

 その番組で、先頃、大きな変化が起こりました。

 番組内で紹介される料理の分量が、4人分から2人分に変わったのです。


 1957年の放送開始以来、当初は5人分(父、母、子供二人と戦争未亡人!の5人)、60年代に4人分になってから40年以上それが続いてきたのですが、ついに2人分になってしまったのです。

 こういった番組は「現実に忠実」です。
 政府の公報と違って、ウソがつけない。


 すでになりつつあるようですが、今後、全ての料理番組の材料は、2人前になっていくはずです。


 それでも、政府は一家族4人に執着するでしょう。「逆算」して整合させなければならないのですから。

 こういったメクラマシは、見ていて憐れになってきますね。

 ちなみに、2008年現在の一世帯平均は、2.6人です。

 おそらく、この数字は、皆さんの感覚に近いものだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 2日 (月)

クラーケン (自作小説:PDF SFショートショート)

 何ヶ月か前に、YAHOOのトップページに「YAHOO JAPAN文学賞」という文字を見つけ、内容を見てみたところ、知らない間にYAHOOが「文学賞」を設置していることを知りました。

 枚数は20枚(原稿用紙)と手頃で、締め切りが3日後だったので、構想1日、タイピング半日で仕上げてメールで応募しました。

 普段は、こういったネットの文学賞というものには興味がないのですが、選考委員が、わたしの好きな鈴木光司氏で、その上テーマが「サプライズ」、さらに鈴木氏が「このぐらいの長さの小説は、星新一さんのショートショートみたいに意外な話が良いですね」と書かれているのをみて応募する気になりました。

 星新一の作品なら、子供の頃から数限りなく読みましたから。

 ああいったテイストの作品がお望みなら書いてみましょう、と思って、星新一のような、あるいは彼がお手本にしたブラウンのような、ちょっと黎明期っぽいSF色の強いものを書いたのですが、結果はまったくダメでした。

 最終候補作を読むとSFじゃダメだったみたいです。

 ですが、せっかく書いたものなので、ここに公開しておきます。

 フレドリック・ブラウンというか、ラリィ・ニーブンあるいはクラークというか、まあそういったレトロな感じのするSFショートショートです。

 本来、わたしはショートショートが好きなのです(50年代SFも……そりゃ時代からズレてるわけだ)。

 テーマの「サプライズ」は、「サプライズ・プレゼント」的に解釈するものだったのでしょう。

 でも、まず、頭の中に浮かんだ「銀色に輝くロケットにからみつく大ダコ」(←これそのものがサプライズ!)というイメージを、どうしても具体化したくなってしまったのです。

 原稿用紙20枚、執筆時間、実質2時間の作品ですので、すぐに読めると思います。


                          wikiよりクラーケン図
クラーケン PDF(250k)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

Division by zero(現代推理)

 少し前に、「時代が追いついた! 〜ボット・ネット〜」というタイトルで、この小説に触れたところ、何人かの方から、読みたいというメールをいただきましたので、探してみましたが、オリジナルは紛失していました。

「Division by zero」をもとに、加筆訂正したものは残っていましたが、かなりオリジナルとは変わっています。

 おもに、コンピュータ技術の進歩にあわせて変更を加えていました。


 お読みになればお分かりでしょうが、ハリウッド映画の引用もオリジナルにはなかったものです。


 それでも、もとの作品の雰囲気は色濃く残っていますし、わたし自身、読み返して、かなり面白く読むことができました。


 今から思うと、少しレトロ(コンピュータ関係が)な作品ですが、お読みになっても損はないのではないか、と勝手に判断し、ここに掲載することにしました。


 自分で書いていながら内容をほとんど忘れて楽しめるなんて、筒井康隆氏(いや、小松左京氏だったかな?)が、長寿世界を描いた作品に自身を登場させ、ボケを自覚して「やった、これで自分の作品を楽しめるぞ」と叫んだ気持ちが分かりますね。

「Division by zero」は、ミステリで、恋愛モノで、ちょっと哀しいお話です。


 よろしければお読みください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »