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2009年2月13日 (金)

放浪猫の終の棲家(ついのすみか)

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 ワシが初めて、その子に会うたんは、ひょうたん池近くにある甘味処の店先やった。

 その前の日に、腹減らして歩いとるワシを見かけて、気のよさそうなオバはんが舌を鳴らして呼びよったから、ワシ、メシをもろうたったんや。

 自分で言うのも何やけど、ワシはプライドの高い猫やし、人間となれ合うて暮らすのはマッピラやったから、その店もすぐに出て行くつもりやった。

 それに、長い間、ひとつ所に居れへんことは、ワシかてよう分かっとる。

 若い頃のワシの武勇伝は、どこに行っても轟きわたっとるから、その日のうちに、何匹か、ワシを倒して名を上げようとゆう無謀な奴らが挑戦してきたけど、いつも通り適当にあしらって通りに蹴り出しといたんや。それを見て、店のオバはんは、えろう驚いとったしな。

 ここもそろそろ潮時やなぁ、と思うとったんや。

 そこへ、あの子が母親らしき、きれえな人と一緒に店へ入って来たんや。

 それから、女の人の方が、なんかシンコクそうな話をしてたわ。ワシ聞かんかったけど。

 店のオバはんとその子は知り合いみたいで、帰り際に、勝手にワシをその子に譲ってしもうたんや。

 その子(チエちゃんていうらしいけど)は、ワシの顔見て「うちでは強うないとやっていけへんで」なんて言うもんやから、思わず腕の力コブ見せてしもた。

 それで、イッパツ合格や。

 初めに見た時から、なんかあの子のことが気にかかってな。

 子供のくせに、こう、妙に迫力があって、でも、その下にはなんか寂しそうな感じが透けてるっちゅうか、まあ、そうゆう恥ずかしいことは言わんとくけど、ともかくワシは、その子が気に入って家までついていったんや。

 でも、いざ、一緒に住んでみたら驚いたで。

 食堂で一緒に居ったんは、お母はんらしいけど、別々に暮らしてるんやな。

 おまけに、まだ子供やいうのに、夜になったら、酔っぱらいの相手をしてホルモン焼いて生活しとるんや。




 すぐに、ワシも、ひとりで頑張ってるチエちゃんのために、棒持ってボディーガードを始めたんや。

 そしたら、今までで一番ガラの悪いヒゲの男が入って来よったから、こいつはシメとかんなアカンと思うて、殴ろうとしたらチエちゃんに止められた。

 そいつ、テツいうて、チエちゃんの父親やったんや。

 そら、びっくりしたで。

 ワシも、猫としてけっこうエエ年しとるし、いろンなモンを見てきた。

 せやけど、嫁ハン追い出して、10歳の子供働かせて、自分はバクチばっかりしとる奴は初めて見たわ。

 結局、ワシはチエちゃんを守るために、この家に棲み着くことにしたんや。

 チエちゃんは、優しい子やけど、結構シビアに猫と人間の境界線を引くから、たまに悲しなる時があるんやけど、それでもワシは、明るぅて元気で、強ぉてガンバリ屋で、寂しがり屋の女の子の大ファンなんや。

 それ以来、どーしようもないテツと、まわりのおかしなヤツら、それに奇妙な因縁から友達になったジュニアと、たまにワシを狙ってやってくる猫どもと闘いつつ、ワシは毎日を過ごしてる。

 今思うたら、何でワシは、日本中のいろいろな所を流れとったんやろな。
 どこにも行く当てが無いから、流れ続けてたんやろか。

 ああ、思い出した。
 ワシが、本当にチエちゃんと家族になったんは、アントニオの息子が「親の仇や」言うて墓場でワシをボコボコにしよった時や。

 あの時、ワシ、自分でも思う所あったし、チエちゃんにも止められたから手ぇ出さんかったけど、アバラのホネ折れるし大変やったんやで。

 でも、最後にチエちゃんがワシを抱き上げて、「お前、エラいやっちゃなぁ」言うて、泣いてくれたんや。

 ワシな、人間の涙が温かいの、あの時初めて知ったんやで。

 せやからワシはココに居る。

 チエちゃんが出て行け言うか、ワシが死ぬまでなぁ。
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 先日、スカイパーフェクTVのANIMAXで、「じゃりン子チエ」が始まりました。

 関西圏にお住まいの方なら、もう何度も再放送されていて、また始まったの?ぐらいに思われるでしょうが、関西以外では、案外再放送がなされていないようですね。

 これを機会に、日本中に新たなファンができることを祈っています。

「じゃりン子チエ」という作品については、井上ひさし氏の、これ以上言い得たものなどない評が、当時の朝日新聞・文芸時評に載っていたので(コミックの広告部にも掲載されています)、ここに引用させていただきましょう。

●見晴らしよい叙事詩
 徹底的な大阪弁と登場人物が常用する独白に笑わされ、大人より子供が大人らしく、猫が人間より人間らしく、猫の目のように移り変わる視点が物語世界に奥行きを与えている。
 この作品は近来、出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽小説のひとつと言い得よう。

 さらに、一巻の後書きに記された小池一夫氏の文。
 その最初に、「はるき悦巳は、なまけ者である。なまけてごろごろしているから猫を描くのがうまいし、世の中の哀しみがよく見える……」というのがあるが、これも言い得ている。

 しかしながら、子供の頃、というか学生の頃、わたしはこの「世の中の哀しみ」の部分がよくわからなかった。

 だが、今なら分かる。

 そして、なぜ、関西の、高級料理店ではない、あらゆる場末の安食堂のコミックコーナーにジャリン子チエのコミックスが置かれていたのかも。

 若過ぎると人の世の哀しみは分からないし、ましてや書くことはできない。

 だが、同時に才能がなければ、年老いても人の哀しみを描くことはできないのだ。


 これは自戒をこめて書くのだが、昨今の小説世界の主人公たちは、性格に深み(陰影と言い換えても良い)を持たせるために過去にミョーなトラウマを持たせすぎているようだ。

 なんか、みんなココロが傷つきすぎている。

 自分から傷ついたぁ!と叫ぶヤツが、本当に傷ついていた試しなどないのに。

 そんなことで哀しみは表現できない。

 いや、火傷するように痛い悲しみは表現できるかもしれない。

 だが、単なる悲しみより数段格上のペーソス(ギリシア語パトスの英語読み:悲哀、哀感)は、ぜったいに表せない。

 いつもと同じ生活、いつもと同じ仕事、いつもと同じ会話、でも何かもの悲しい。

 理由がわからないから、余計に苦しい。激しい哀しみではないが、もの悲しいのだ。

 若い女の子なら、メランコリィの一言で片付けられるのだろうが、中年すぎの男たち、つまりホルモンチエちゃんに集まるような男たちには、その単語はそぐわない。

 そういった「生きるって、なんか悲しいな」という、生き物すべてにたいする「哀惜の感情」、それを一見ギャグのオンパレードに見える作品の中で見事に表現しているのが「ジャリン子チエ」なのだ。


 前にどこかで書いたと思うが、もう一度書かせてもらうと、わたしには、タイムワープをする道具がいくつかある。

 タイム・ワープといっても、一瞬で二時間ほど先に進むことができるだけなのだが。

 そのひとつが、映画版「じゃりン子チエ」だ。

 DVDをつけて、オープニングタイトルが始まったと思ったら、次の瞬間にエンディングテーマが流れている。

 時間の経過をまったく感じない。

 うーむ、これって、老い先短い人生を無駄遣いしているだけなのでは?

 まあいいか、生活に追われ、仕事に追われ、なにか分からないものにまで追われて生活している我々には、こういった時間の無駄遣いもまた必要なのでしょう。


 私のおすすめ:
じゃりン子チエ 小鉄・アントニオJr. Tシャツ/黒-M《発売済・取...

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