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2009年2月

2009年2月28日 (土)

シンクロでも使える?  〜ノーズ・マスク〜

 1970年、大阪万博にやって来たアメリカ人が、街ゆく日本人の多くが、マスクをしているのを見て驚いた。

 彼は、医療関係者以外、街中でマスクをする米人を見たことがなかったのだ。

 同行の日本人に理由を聞けば「風邪の予防だ」という。

 彼は、日本人の用心深さに感銘を受けて本国に帰っていった。

 そして、自分の会社で、日本人向けの商品を作り、日本に向けて売り始めた。

 さて、それはなんでしょう?

 いや、そんなクイズをするのが、この項の本題ではありません。

 答えは「がん保険」です。彼は当時のアフラックの社長だった。


 マスクをしているのをみて「がん保険」を思いつくというのは、すごいセンスというか、こじつけっぽいとはおもうが、確かに、わたしも、ハリウッド映画やテレビドラマで、医療関係者以外の米国人がマスクをしているのを見たことはない気がする。


 そういえば、戦前には黒いカラス天狗みたいなマスクもあった。

 おそらくは、「結核に対する恐怖」が根強く日本人に染みついているからだとは思うが、日本人はマスクが好きだ。

 特に、最近は、冬になるたびに「新型インフルエンザ」の恐怖をマスコミからすり込まれ、やれ「H5N6」だの「亜種」だの「パンデミック」だのと脅かされて、人々はますますマスクを身に付けるようになって来ている。

 最近の主流は、不織布を利用した「使い切りのマスク」だ。厚生労働省も、その着用を勧めている。

 実際に、そういった廉価なマスクがウイルスを完全に防ぐことはないそうだが、それでも咽頭の保湿や雑菌の遮断という点でかなり有効だというデータもある。

 それは良いことだろう。


 が、そこにはひとつ問題がある。


 変な意味にとられると不本意なのだが、わたしは、女性の顔を見るのが好きなので、マスクで顔が隠れているのは困るのだ。

 美醜にかかわらず(まあ美しいにこしたことはないが)、女性がくるくると表情を変えて話をする、その姿を遠目にでも見ながら、街を歩き、喫茶店から街を眺めるのが好きだ。

 思えば、それがわたしの気分転換なのだろう。

 仕事柄、あまり人混みに出ることはないが、たまに外に出た時に、街行く女性の多くがマスクをしていると、なんだかがっかりする。



 ああ、男性はマスクでもサングラスでもしていてください。どうぞご勝手に。


 それに、現行のマスクは、どうもデザインが良ろしくない。

 かといって、花柄のマスク(子供用に最近売られている)は、あまり好みではないし…… 

 と、思っていたら、先日、新聞の広告でおもしろいものを見つけた。





 鼻の穴につめてつかう「鼻マスク」だ。

 ティッシュや綿で鼻をふさぐのとは違い、ちゃんと呼吸ができるそうだ。

 確かに、これをつけて口を閉じ、鼻からだけ息をしていたら、マスクと変わりないかもしれない。

 シンクロみたいに変に鼻が変形しないのもいい。
 
 調べてみると、結構ふつうに売られているようだ。

 しかし、つけ心地や、使い勝手はどうなのだろう。

 大きさは汎用とあるが、経験からいっても、人の鼻の穴の大きさは、かなり個人差があるような気がする(我々とジャッキー・チェン、いや英国貴族の鼻の穴の大きさが、同じとは思えない)。

 だれか、この鼻マスクを使った人はいないだろうか?

 もし良ければ、コメントで使用感などを教えてほしい。

 付け加えておくと、もちろん花粉症の予防にも使えるらしい。

 最近は、シンクロナイズド・スイミングでも、あまり鼻が変形しない栓を使っているようだが、これと同タイプの水を通さないタイプなのだろうか?


 私のおすすめ:
ノーズマスクピット2 ノーズマスクピット 花粉 花粉対策 花粉粒子...

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2009年2月27日 (金)

水深二尋(すいしんにひろ)の格言 マンマミーア!

「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリィ・フィン」などで有名なマーク・トウェインは、その偏屈さと「ユーモラリスト」と呼ばれる「ユーモアとモラルの融合的キャラクタ」で知られる、わたしの好きな作家です。




 特に、彼が生前に残した数々の「格言」が好きです。


 人間は
 一週間の仕事の
 いちばん後で
 創られた――
 神様が疲れておいでのときに


とか、


 人間は
 唯一の動物だ
 恥じて顔を赤らめる
 か
 その必要のある


など。あるいは、


 すべての歴史を書く
 あのインクだって
 液体の偏見に過ぎない


 また、数多くの投機にしくじっていった言葉、


 人生には、二回だけ投機をしてはいけない時期がある
 ひとつはその余裕がないとき
 ひとつはその余裕があるとき


など。
 トウェインは、ベル(電話の発明者)の電話に出資しないかと誘われて、そんなタワゴトに金は一銭も出さない、といって、その代わりに霊界ラジオ(か、それに類するモノ)に出資して大損をしたことがあるのです。


 だが、口は悪くとも、彼は愛妻家で子供好きなモラリストであることは間違いありません。


 ジョージ・ワシントンは
 ウソがつけなかった
 わたしは
 つける――ただ
 つかないだけだ


 そして、もうほとんどわたしの第二の座右の銘といってよい名作、


 当時わたしは
 若く愚かだった
 今は年も老い
 そして
 もっと愚かになった



 これはすばらしい。わたしも、こんな気の利いた言葉を残して死にたいものだ、と切に願います。


 そのトウェインの言葉に、こんなものがあります。


アメリカを訪れたある有名なフランス人が言った。
「アメリカ人は、自分の祖先が誰であるかを知らない」
マーク・トウェインはやりかえした。
「フランス人は、自分の父親がだれであるかを知らない」


 もちろん、移民国家であるアメリカ人を揶揄(やゆ)したフランス人の恋に生きる国民性をからかった言葉です。

 この格言?は、フランス人だけでなく、南ヨーロッパの人間にもあてはまることが多いようですね。

 マンマミーアもそんな映画です。

   (おわり)




 と、それじゃあ、あんまりあっさりしすぎているから、もう少し書きます。




 マンマ・ミーア(かつてはマンマ・ミアと表記されていた)は、ABBA(いうまでもなく、スウェーデンの4人組。ポップミュージックの完成者) のグレート・ヒット曲を使用するミュージカルです。

 一時期あった、既存のヒット曲を並べてる「ジュークボックス・ミュージカル」といわれるスタイルを復活させた「カタログ・ミュージカル」作品でもあります。

 それが、今回、メリル・ストリープで映画化されました。

 話は単純。

 奔放な母ゆえ、父を知らぬギリシア娘が、自分の結婚式に、父の可能性がある男3人へ手紙を書いて呼び寄せます。
 
 つまり、上記トウェインの言葉どおりのハナシです。

 あと、なんか母から見た子育ての苦労とヨロコビみたいな話もありました。おわり。





 ちなみに、ごぞんじでしょうが、マーク・トウェインとは、ミシシッピ川を行き交う船乗りが使う、蒸気船が座礁せず通航できるぎりぎりの浅さ:水深二尋=by the mark, twain(2ファゾム:約3.6m)からつけられたペンネームです。

 やっぱトム・ソーヤの作者です。

 さぞや、ポケットには、トム同様、魅力的なガラクタが詰まっていたんでしょうなぁ。

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2009年2月26日 (木)

時代が追いついた! 〜ボット・ネット〜

 もう十年ほど前になりますが、「Division by zero」という作品を書いたことがあります。

 企業に頼まれて、システムのセキュリティをチェックするプロラマが主人公のミステリ作品です。


 その作品で、彼はかつてザンパノと名乗り、ジェルソミーナと名乗るハッカーと、ハッキング競争を繰り広げていたという過去を持っていました。

 もちろん、二人はお互いの素性を知りません。性別すら不明です。

 ザンパノの強みは、数多くの一般パソコンに潜んだ「ウイルス系ソフト」を、自分のコマンドで自在に操れるという能力でした。

 ウイルスの仕込み方は、誰もが簡単に仕える総合ビジネスツールを開発し、無料で配布するという方法です。

 インストールした時点では、ウイルス動作は行いません。

 また、そういった機能もない。

 しかし、最初に起動した時点で、自分自身を再コンパイルしウイルス化、直後にセキュリティ・ソフトのコアを改竄(かいざん)してウイルス感知を不能にして、システムに潜伏する、という設定でした。


 彼は、このウイルス自体をザンパノと名付けて、ハッキングの王として君臨していたのです。

 そして、ある事件を機に、彼はハッキングの表舞台から姿をけします。

 物語は、数年ぶりに復活して悪事を行うジェルソミーナを、ザンパノが阻止するという話だったのですが、まあ、どの新人賞でもケンもホロロの扱いでした。

 個人的には好きだったのですが、コンピュータ関係のハナシは、当時の世相では完全一次落ちだったのですね。

 これが、医療系だとか浮世絵系だと、文化系の選考員と読者にも分かってもらえたのでしょうが。


 設定は、いま思うと、ブラッディ・マンディに似ていますね。


 どうも、早すぎると時代がついて来ないらしい(って、つまり時代とズレているというだけですが)。


 なぜ、今になって、こんな話を書いたかというと、ご存じの方も多いでしょうが、昨年あたりから、先の「ザンパノ」に似たウイルスソフト(個人のパソコンをネットからの外部命令でロボットのように扱うという意味で「ボット」と呼ばれています)が、実際に犯罪に使われるようになっているからです。


 具体的には、ボット・ウイルスに感染したパソコンに向けて、コマンダー(つまり犯罪者)が指示を出すと、一斉にそれら多数の感染パソコンが命令を実行します。

 その内容が、CDのトレイを開けたりするだけなら可愛いのですが、だいたいは、ある特定のサイトに向けて、集中的にアクセスを試みます。

 いわゆる「ブルートフォース・アタック」と呼ばれた、大量アクセスによるシステム停止を狙っているのです。

 かつて、人気イベントのチケット予約やソフトのネット予約で、大量アクセスの結果、システムがダウンしたことは、皆さんご存じでしょう。

 さすがに、政府系や、しっかりした企業のサーバーは、その程度ではコケなくなりましたが、今でも、アタックに弱い脆弱(ぜいじゃく)なサーバーで運用されている音楽配信会社などが多々あります。

 そういったサイトに、ボットに感染した多数のマシンからなる、パソコン・ネットワーク(ボット・ネットと呼ばれます)から、一斉にアクセスをかけると、そのサイトはアクセス不可に陥るのです。

 そうなると、企業としては死活問題です。


 ボット・ネットの問題点は、自分でネットを広げなくても、ネットワークの時間借りが可能なことです。
 つまり、ネット上に、「ボット・ネット貸します。1時間100万円」といった、広告がなされているのですね。


 具体的に書くと、ある人物が、特定のサイトを攻撃するためにボットネットを時間借りします。

 そして、そのサイトに脅迫状を出す。

 拒絶されると、レンタルした時間分、そのサイトを攻撃し使用不能にする。

 それが嫌ならカネを出せ、というのです。



 いやあ、まさか実際に、こうった犯罪が行われるようになるとは思いませんでした。


 当時は、論文などで、理論上、いろいろなウイルスが考案されていて、それからインスパイアされてDivision by zero」を書いただけだったのです。


 まったく、ネットワークの世界は想像以上の速さで変わっていますね。


 わたしたちも、たまには、ルータなどの「パケット数」を確認して、データ量が異常に多い場合には、コンピュータが、ボット・ウイルスに冒されているのではないかと、疑ってみることも必要ですね。



 ちなみに、タイトルの「Division by zero」は、かつて仕事でプログラムを組んでいた時、不完全なプログラムを仮実行して、バグによるフリーズが生じた際に表示される「エラーメッセージ」でした。

 ご存じのように「0による除算(割り算)」は「数学上あり得ない行為」、つまり致命的エラーなのです。


 ザンパノとジェルソミーナ(実は女性だったんです。だってフェリーニ監督『LA STRADA 道』のヒーロー・ヒロインですから)の二人のハッカーの間にも、やがて「Division by zero」が発生していきます。

 ハッキングのテクニックも、『道』のイメージ通り、鎖を素手で引きちぎる感のある力ワザのザンパノと、繊細にトラップをかいくぐるジェルソミーナという対比で描いていて、けっこう自分では気に入っていたんですがねぇ……

 セケンにゃ通用しませんでしたわ。

 細部が、かなり古めかしい作品なので、おそらく公開することはないでしょうが、個人的には好きな作品です。

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2009年2月25日 (水)

分かりました、流氷って壮大なアレだ……

 つい先頃、友人が北海道の紋別で流氷を見てきました。

 わたしも、流氷は一度は見てみたいと思っているので、参考のために話を聞いてみると、いろいろと今まで知らなかったことがわかりました。

 まず、流氷は、日によって、「見ることができる」時と「できない」時がある、ということ。

 これは、流氷が、赤潮のよう(って表現が悪い?)に海面を漂っているため、風向きによって港に近づいたり遠のいたりするからだそうです。

 10キロ程度なら砕氷船にのって見に行けるそうですが、あまり流氷群が離れると、その日は運行中止になるです。


 また、日本で流氷を見るポイントは、いくつかあるそうですが、友人は「紋別」と「網走」のどちらかで流氷を見ようと思い、最終的に紋別で見ることにしたそうです。

 理由は、「船がこじんまりしていたから」

 網走の砕氷船は、南極船のように、氷の上に乗り上げて自重で氷を割りながら進むタイプで、かなり大きいのです。

 紋別のガリンコ号2は、あの「マグマライザー」のように、前方に突き出た2本のドリルで氷を割りながら進むタイプで「小ぶり」なのだそうです。

 そりゃあ、わたしも同じ乗るなら「ガリンコ号2」の方にしますね。

 「ガリンコ2号」でなく、「ガリンコ号2」という名前にも何か感じるものがあります。

 いや、ここで書きたかったのは、そういったことではなくて……



 彼が、撮ってきて、見せてくれた写真の中に動画が一つ入っていました。

 デジタルカメラで撮った動画です。

 これが流氷だ、といって見せられた、その動画を見た瞬間、わたしは、なんだか激しいデジャビュに襲われました。


 この流氷の感じは、どこかで見たことがある!


 でも、なんだか思い出せない。

 なんだか胸がつっかえたまま、しばらく画像を見続けるうち気がつきました。

 ああ、アレに似てるんだ!


 さて、何に似ているのでしょう。答えは……どうかご覧になってください↓。


       



 どうです?

 お分かりでしょう。

 そう、これは、あの「芸能人スポーツ大会」というか「筋肉番付」というか「サスケ」というか、発砲スチロールの板を緩くヒモでつないだ上を、全速力で駆け抜ける競技?があるでしょう。あれに感じが似ているんですね。

 なんだか、見ているうちに、船から飛び降りて、上を走りたくなってくる!

 流氷がアレに似てるなんて、ちょっと不思議ですね。

 でも、考えてみれば当たり前です。

 本来、堅い物体が、水に浮かんで緩やかに波打ちながら、集団で移動しているのですから。

 ただ、流氷の場合は、かなり向こうまで、そういった版が続いているんですね。

 とても「人のわざ」ではこうはいきません。

 競技用の発泡スチロールは、ほんの小さな面積しかありませんから。

 もっと気温が低く、一つひとつの氷の塊が大きければ印象も変わってくるのでしょうが、この動画で見る限り、これはもう正しく「筋肉番付」ですよ。

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2009年2月24日 (火)

見ているだけでマンプク……かな

 随分前になりますが、大学浪人をした時に、ひとり暮らしをしたことがあります。

 京都の下鴨神社裏の下宿屋だったのですが、風呂なし、トイレ、キッチン共同という環境から、朝は、部屋で前日買っておいたパンを食べ、昼は予備校の学食で定食、夜は近くの風呂に行きがてら、学生向けの大衆食堂で夜食を食べる、という判で押したような単調な生活を繰り返していました。

 友人も知人もおらず、毎日勉強だけをする生活にあって、唯一の楽しみは、丸元淑夫氏の「システム料理学」などの、栄養学からみた料理理論とそのレシピ集でした。

 栄養学のほうはともかく、冷蔵庫すらない部屋であり、パンなど少し油断すればカビだらけになるような劣悪な環境で寝起きし、実際の食事は学食と定食屋の「きまりきったもの」であったため、そこに書かれているレシピは、思い浮かべるだけで幸せな気分になれるものでした。

 料理法をみるだけで食べたような気分になれたのですね。

 その丸元氏も、昨年、鬼籍に入られました。

 子供の頃から、アウトドアに慣れ親しんだためか、もって生まれた性癖か、あまり食べ物には頓着(とんじゃく)しないほうなので、それほど、「あれが食べたい」「これが食べたい」ということはありません。

 ですから、昨今の老人たちの、餓鬼のように(はいいすぎか?)とにかく美味しいものが食べたい、と日帰りバス旅行をし、次は自分も行く、とばかり「いい旅夢気分」にかじりついている姿は、わたしの目には異様にうつります。

 前にも書いたように、わたしは、そういった本能に直結する「一次欲求」を露骨にあらわすのは、ひどく恥ずかしいことのように思うのです。


 まあ、それはそれとして、ともかく、わたしは食べ物にあまり執着はありません。

 そうでないと、ほぼ毎日、酢卵を飲んで、玄米ごはん(三分づきとかじゃないよ、そのまんま玄米)を食べてなんていられませんよ。

 昔から、「銀シャリ」には、人々がありがたがる理由があるんです。

 なんといっても美味しい!本当に美味。もう塩をかけるだけでいくらでも食べられる。

 味オンチのわたしですら、たまに白飯を食べると、なんだか涙が出そうになるのですから。

 しかし、玄米は完全栄養食。

 免疫学者の安保徹氏は、
「私は、ガンになった方から相談を受けると、必ず玄米菜食をすすめています。というのは、免疫力を上げる食べ物で、玄米以上のものはないと思っているからです。(中略)玄米がいいのは、食物繊維が多いことと、生命体として過不足がないことです」
と書いておられます。

 「もちづきの〜かけたることもなしと思へば〜」 by道長 という感じなほどに、玄米は栄養素が高いのですね。

 ちょっと、随分、かなりクセのある味と香りがしますがね。


 まあ、基本は「医食同源」ですよ。

 毎日、体を維持するために採るべき食事に、過度な美味を要求するほうがどうかしています。
 
 そりゃあ、食べ物は、美味しいに越したことはありませんが、美味しく調理したものは、どうしても、食材本来が持つ栄養価が損なわれたり、余計な油が追加されて良くないように、わたしには思えます。

 NHKなどの「バラエティ知識番組(名前は分かりますね)」を見ていると、ある時は、健康の側から食の栄養の大切さを説きながら、別の回では、水に長時間さらして栄養素を流し去って「これぞ美味しい食べ方」などと、美食な視聴者の好みに合わせるあまり、完全なダブルスタンダードっぷりを露呈していることが多いため、観ていて笑ってしまいますね。

 基本的に、わたしは、栄養さえあれば良い方なので、美食にあまり執着はないのですが、それでも学生時代の名残か、今でも料理のレシピを見るのは好きです。

 「ミスター味っ子」や「鉄鍋のジャン」などの料理マンガも好きですね。
 どちらかというと、パンよりご飯の方が好きですが、「焼きたて!ジャぱん」は楽しく読んでいました。
 「美味しんぼ」は雁屋哲氏の、ちょっとスノッブかつ権力志向的な部分が鼻について好きにはなれませんでしたが……


 それはともかく、先日、行きつけの本屋で、こんな本を見つけてきました。




 長寿コミック「クッキングパパ」から、レシピ部分のみを取り出してまとめた本です。

 「クッキングパパ」という作品は知っていましたが、絵柄が好みにあわず、料理のレシピも見にくかったので敬遠していたのですが、この本をパラパラと流し読みするうちに、思わず引き込まれてしまいました。

 まるで、学生時代、寒く狭い下宿で、食パンにタマネギを輪切りにしたものを載せマヨネーズをかけたブローチェをかじりながら読んでいた丸元氏の本のように、観ていると楽しくなってきたのですね。

 気がつけば、手に何冊かクッキングパパ・レシピ本を持ってレジに並んでいました。

 それ以来、仕事に疲れると、ソファに寝ころんで、このレシピマンガを読むのが日課になりました。




 見たとおり、見開きページにすごい情報量です。

 実際に作ったことはないので、本当に美味しいかどうかはわかりませんが、オーソドックスな料理法(わたしもひと通りは料理をするので、調理法は知っています。アウトドア流ですけどね)から、少し外れたレシピは観ていて楽しくなるものばかりです。

 こんど、少し暇ができたら何かひとつ作ってもいいな。


 あ、これなんかどう?

 生クリームと牛乳とビアゼリーでつくる、特製「ナンテコッタ」!


 私のおすすめ:
クッキングパパの絶品ひとり暮らしレシピ /うえやまとち/〔著...

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2009年2月23日 (月)

豪快な弥次喜多道中 〜素浪人 花山大吉〜




 先月よりCS時代劇専門チャンネルにて、「素浪人 花山大吉」が始まりました。

 近衛十四郎演じる花山大吉は、子供の頃からわたしのヒーローでした。

 オリジナル小説を読んでいただいた方にはお分かりのように、ある事情から、推理モノを書かねばならなかったため、わたしの時代物は、どうしても岡っ引き中心になってしまっていますが、本当に書きたいもののひとつは、この「素浪人〜」のように風任せに各地を放浪しつつ、行く先々で事件に巻き込まれるロードムービー時代劇なのです。


 もともとは、前作の「月影兵庫」の続編として作られた作品ですが、なぜか、わたしは、こちらの方が好きです。

 おそらく、回を重ねることで「予定調和」が練れて、ストーリー展開が、日本人にとって心地よいものになっていったからでしょう。

「月影兵庫」は、昔からある「マタタビもの」と、頭のキレる風来坊が主役の世界のクロサワ作「椿三十郎」あたりからテレビの制作サイドがインスパイアされ、ついでに弥次喜多道中のような凸凹(デコボコ)コンビの珍道中を描くようになってしまったあげく、原作者、南條範夫(あの「シグルイ」の原作者です)が、思い描いていた「渋い浪人の放浪話」という設定から逸脱しすぎたため、ついに作者からクレームがついて、放送終了になってしまったといいます。

 その設定をほぼ引き継いだ「花山大吉」は、最初から、そういった「作者の思惑」から解放されて、全開でコメディ時代劇道を疾走します。

 その結果、ホンペン(映画)からやってきたスタッフと芸達者な脇役をふんだんに用いて作られたこの作品は、最高にポップでキッチュ?な名作に仕上がりました。


 子供の頃は「どうしてオヤジにまったく似ていないのだろう?」と不思議に思っていた兄の松方弘樹や弟の目黒祐樹が、今みるとすごく近衛十四郎に似てきているのも嬉しい発見です(実のところ松方は、一時、花山大吉を演じたことがありますが)。


 いまだ健在(77歳)の、ハンサムな三枚目お人好しの旅ガラス「焼津の半次」を演じた品川隆二氏が、シリーズ放送を記念したインタビューに答えて、「コメディーの形で(近衛さんと)むき出しの闘争をしていた。NGは出した方が負け。その緊張感があったから続いたと思う」と語っておられますが、まさしくその通り、マンザイでもわかるように、二人の掛け合いで作られる、良いコメディは、抜き身の刀をつばぜり合いしつつ鎬(しのぎ)を削る真剣勝負の感があります。


 森田 新の脚本も良い。


 オープニング・テーマを歌う、若き日の北島三郎の伸びのある高音もすばらしい。


 時代劇専門チャンネルを視聴できる方は、ぜひ、ご覧になってください。

 確かにレトロで、ステレオタイプで、パターンで予定調和的ではあるのもの、ある意味「完成された時代劇」がここには存在していますから。

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2009年2月22日 (日)

無限に続く疑似現実スパイラル 〜バスジャック〜 三崎亜記




 いかにも現代的、というのだろうか。

 三崎亜記という作家の紡ぎ出す作品は、つねに「確固たる現実」に対する不信感に満ちている。


 それぞれの登場人物の「語る言葉」に奇異なものは何もない。

 だが、普通の言葉で普通の出来事を語る登場人物たちのとる行動は、徐々に「我々の知っている普通」から離れていく。

 そこには、日常が、明るい笑顔を振りまきながら、普段わたしたちに向けているのとは別の、裏側に隠した闇の部分を持っているに違いない、という確信が充ち満ちている。

 彼は考えているのだ。

 そういった闇の部分は、やがて、小さなほころびから裏返っていくように、我々の現実を浸食していくかもしれない、と。


 だが、三崎亜記の作風が特異なのは、そういった現実不信にあるのではない。

 SFにおけるディックや、それに影響を受けた神林長平や多くの作家のように、世の中が目に見えているままではないのではないか、という不安は、中身の見えぬブラックボックス化した現代に生きるほとんどの者、とくに精神不安気味の者やディックのように薬物依存のものにとっては、日常茶飯の不安に過ぎない。

 そういう性癖をもつ者、あるいは内省的な性癖をもつ多くの者が、今、自分が立って存在している現実が、ホンモノであるかどうか不安に思っているのだ。

 もう十年近く前に、わたしがインド・ネパールの国境で出会った日本人青年は、何も確かなものが感じられない現実喪失感の毎日の中で、ドラッグをキメている瞬間だけは、しっかりとした現実の中で「そこになぜコップがあるのかすら理解できる」のだ、と語っていた。


 三崎亜記が、そういった不安を持つ多くの作家の作品群と一線を画すのは、裏返っていくほころびが無限拡大せずに、いつのまにか、より大きな疑似現実によって包まれ、見かけ上、元通りになってしまうことだ。

 いかに異常が起こっても日常生活が決して崩壊せず、やがてはもっと大きな疑似日常生活によって包含されるという、疑似現実化のインフレ・スパイラルが延々と続くのが三崎世界だ。

 三崎亜記が、「となり町戦争」で衝撃的にデビューしたとき、そんな印象を持った。

 彼を選んだ選考委員の多くも、そのような感想を述べていると記憶している。

 だが、今になって、その考え方を一部訂正したくなった。


 バスジャックには、7つの作品が収められている。

 超短編である、「しあわせな光」「雨降る夜に」は、プロット、展開ともに少々ありきたりの感がぬぐえなかった。

 短編をあなどってはいけない。

 短編を書くなら、もっと勢いよく走り出して一気に読者を驚かさないとね。



 だが、ちょっと長めの「二人の記憶」はいい。

 恋人同士の記憶が、どんどんズレていく。記憶がズレていくのではない。

 現実がズレていくのだ。

 まったく見知らぬ思い出の品を、彼女は僕に贈られた宝ものだと語り、僕の机の上に置かれた彼女の微笑む写真を『僕は撮った覚えたまるでない』のだ。

 僕がわざと話しかける「架空の旅行記憶」に、彼女は、まるでそれが現実にあったかのようにリアルな返事を返してくる。

 やがて、ズレは拡大し、彼は最後の決断を下す。


 文章のうまい人である。

 とくに、中編「送りの夏」がいい。

 冒頭、一両編成の列車から降りた主人公の少女が目にする、鄙びた景色の描写から、一気に惹きつけられる。

 少女の母は、突然失踪した。
 どうやら、本当の蒸発ではなく、彼女の父は居場所を知っているようだ。
 少女は父の手帳を盗み見て、母の住所を知り、ひとり訪ねてきたのだ。
 生きているのか死んでいるのか分からない、マネキンのような人々を世話しながら田舎町で暮らす人々に混じって、母は初老の「マネキン」と暮らしていた。

 少女は、部屋を一つ与えられ、そこで暮らし始める……のだが、最後に至るまで、その生きているようなマネキンが何なのか、母と初老の男性の関係が何のかが語られることはない。

 例によって、ラストに至るも、話に決着がつけられることはない。

 それが、この作者のアジなのだ、と言われればそうなのだが、曲がりなりにも物語を作る者としていわせてもられば、それはひとつの「逃げ」だ。

 結論を出さずに余韻を残して逃げる。

「となり町戦争」ではそれが評価されたが、それを作風として続けることの是非は問われねばならないだろう。

 結論を出さず、「さあ、あとは考えてください」としておけば、自己の矮小な作品を、はっきりと固定せずに、大きい「かもしれない」作品に保っておける。

 袋の端を縫わずにおけば、どんなに大量のものでの入れ続けることができる。

 つまり、容量は無限大だ。
 端を縫ってしまえば、大きさは決まる。25リットル。
 だから、作者は話のゲタを読者に預けたがる。

 かつて、「書きさえすれば、オレは、すばらしい作品を書くことができる」といい続けた男がいた。
 彼は作品を書き、そしてこういった。
「なぜだ!俺は、本当はもっとスゴイ作品をかけるはずなのに」


 『棺を覆って定まる』という表現がある。

 小説も、袋を閉じてこそ、その評価が定まることもあるのではないだろうか。

 多くの作品が、「袋の底を閉じられないまま世に出される」ことには理由がある。

 そして、その理由のほとんどは、作者の側の都合によるものだ。


 私のおすすめ:
バスジャック /三崎亜記/著 [本]

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2009年2月21日 (土)

今さらですが、ウチのストーブはフジカ・ハイペットです

 石油を買いに行くのがおっくうな上、去年の石油高騰もあって、今年はずっとガスファンヒーターを使っていましたが、年を越してから灯油価格も下がったため、石油ストーブを復活させました。


 個人的に、石油ストーブは前だけ暖かい反射式より、全方位的に暖かい対流式が好きです。

 石油ストーブといえば「アラジン・ブルーフレーム」と子供の頃からずっと思っていたのですが、値段も高い上に、なんだかもうひとつ購入に踏み切れない敷居の高さを感じていました。


 しかし、数年前に、フジカ・ハイペットを見かけて、即断で購入してしまいました。


 ハイペットは、知らぬ間にアウトドア好きな方のブログでは定番ストーブ化していますね。

 昔は赤色だったようですが、わたしが買った時は白でした↓。

 その後黒色になっているようです。





 このストーブは良いですよ。

 いろいろな意味で「特異なストーブ」です。

 まず、日本製ストーブのほぼ全てに貼られている「JIS規格の認可」を得ていません。

 なぜなら、天板がとれる上に耐震自動消火装置がついていないからです(現行の黒製品にはついています。ちょっと妥協したかな?)。

 じゃあ、危ないんじゃないの?

 それが大丈夫。

 火のついたまま、横に転がしても、まわりに引火しないのです。

 そのまま自然に火が消えてしまう。

 だから、あの妙に複雑で、ちょっとでも足があたると、これ見よがしに「ガチャーン」と大音声をあげたりしない。

 ちょっとだけなら、点火したままの移動も簡単。

 公式サイトを見ていただければ、おわかりでしょうが、「本製品は日本国内でのみ通用するJIS規格に適合しない点もございます〜JIS規格は日本国内に限っての常識ですが……」と、鼻息も荒く意気軒昂で、そういう点も、わたしは好きです。

 ぜひ公式サイトをご覧下さい。本気なだけに、ちょっと滑稽なコピーもいいですよ。

「昭和35年以降、中近東諸国を中心に世界中に輸出され、サウジアラビアではベンツの乗用車の屋根上に「フジカ・ペット」を載せるのがステイタスシンボルとなったほどで……」

 え、マジ?

 ベンツの屋根の上に石油ストーブを載せるのがステイタス・シンボルっていうのがスゴイ。
 ヒモでくくってあるのかな?


「現在でも日本2社、韓国2社、中国3社、台湾2社、エジプト1社、ヨルダン1社、その他と、許可無く、性能の劣る『ペットそっくりさん』が世界中で安売りされています」

 いやぁ、怒ってますね。

 それだけ自社製品に愛着があるということでしょうし、実際使ってみると、その矜持(きょうじ)の高さも納得できる仕上がりです。


 ハイペットの特徴として、天板の真ん中に、針金をひっかけると簡単にとれるのも良いです↓。




 これは、煮炊きをするためです。

 実際、ハイペットは、上記のように、中東などに輸出され、向こうでは調理器具として使われているのです。

 大きさも絶妙。

 大きすぎず、小さすぎず、ちょうど良い大きさですし、火を絞れば省エネモード。

 寒いときには全開にすると、たちまち部屋があたたまる。

 グランドピアノがある音楽部屋では使えないのですが、それ以外の部屋なら、天板をとって、4リットル薬缶を置いておくか、寝るとき使う直火かけ湯たんぽを置いておけば、適度に水蒸気も出て気持ち良いですしね。

 なんだか最近は人気で品薄になっているようですが、新しくストーブを探されていて、これを見かけられたらぜひ購入をご検討ください。

 オススメしますよ。

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2009年2月20日 (金)

 あー書いちゃった。恥ずかしい〜 −メイちゃんの執事−

 うーん、うーん、う〜〜〜ん……

 うなされているんじゃありませんよ。

 このことについて書くかどうか、迷っているんです。

 でも、書き始めたからには、もう書いてしまいます。

 そのまえに、準備運動を。

 この間まで(ってちょっと古いけど)、「夜王」に代表される、ホストが主人公のコミックって流行ってましたよね。

 この際、テレビドラマは考慮にいれないことにします。(わたしの知るかぎり駄作が多いようだったので)

 あれをコミック喫茶で一気読みした時には、ちょっとしたショックを受けましたね。

 ああ、このやり方があったんだ、と。

 たとえば、戦国もので、あるいは極道の覇権(はけん)争いモノで、あるいはスポーツもの、政治モノ、会社出世モノ、麻雀ギャンブルモノといったジャンルで、階級動物の権化である「男」は頂点を目指します。

 彼らの行動に際して、たいていの場合、話の核になるのは、彼らの能力の競い合いです。

 戦国ものなら勇気と知略、極道モノなら胆力と運、スポーツものなら親の遺伝、政治モノなら策略と謀略といった具合に、主人公たちは、それぞれのフィールドで、彼らの力を競い、その分野で勝ち上って行く。

 しかし、しょせん闘いは闘い、そこには、どうしても血なまぐささがついてまわります。

 だから、そういった作品は、もともと潜在的に「あからさまな闘い」の苦手な女性たち(例外はあります。もちろん)からは決して支持されません。

 とくに、謀略策略の世界についてはダメでしょう。

 つまり、それら戦闘系の作品は、性の半分、「世の中の半分の支持」を最初から放棄しているわけですね。

 しかし、ちょっと目線を変えて闘いを「ホストの成り上がり物語」にすれば、話は変わってきます。

 彼らは、女性に尽くす(見せかけでも)度合いと成功率で、その世界で成り上がっていくわけですから。

 おまけに、作品の立ち位置としても悪くない。
 男目線で見れば、モテ男のバイブルとなりますし(個人的には疑問視してますが)、女目線で見れば、「あれもイイカナ」なんて憧れの対象になりますからね。

 ドラマの制作者サイドから見ても、いわゆるイケメンを大量投入して、華やかな映像で夜のドラマのメイン視聴者である女性を引きつけ、視聴率を確保することができる。

 うーん、三方一両損ならぬ、三方みなメデタシじゃないの。


 んが……やはり、ちょっと気に入らないんですね。いや、わたしはね。

 そう思っている人って結構いたんじゃないかな。

「いくらキレイ事いっても、ホストってやっぱり心は相手の女性に捧げていないジャン」みたいな感じがするんですね。

 男の側から見ても、なんか女性を使って成り上がるって、ちょっと方向性が違うなぁ、と思ってしまう。

 そりゃあ、男だったら女性にモテるストーリーはうれしいでしょう。

 わたしが敬愛するショージ君(東海林さだお氏)も、若い頃からそういっておられる。

 もてないと「グヤジィ〜」ってね。

 しかし、同時に、そこには「この女を守ってやりたい」という燃えるような高揚感がない。

 女性には分からないかもしれませんが、男には、「支配したい」という欲求と、仕えるに値する対象に「無私に仕えたい」という相反する欲望があるんですね。

 なんせ「階級型生物」ですから。

 ストーリーを作る側も、そういったことは機敏に感じ取っている。

 だから、「愛妻家のホスト」(ギラギラ:しかも土田世紀「俺節」カヨ)なんてピンボケ(失敬!)な発想をしてしまうんですね。

 それだったら、オーソドックスに「悲劇の女王に仕える誇り高き騎士」を描いた方がいい。
 メアリ・スチュアートと黒騎士ブラッドフォードみたいにね。

 しかし、それは、ちょっと殺伐としすぎる。

 ならば執事ですよ!

 日本人でありながら、まったく日本語を話せない英国在住カズオ・イシグロ原作の名作「日の名残り」(アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの映画も良かった!)で示される誇り高き執事の生き方。

 女主人に仕える美男執事、これでキマリ!


 というわけで、現在放送中の「メイちゃんの執事」です。(公式サイトのFLASHのハデになり過ぎない美しさは特筆モノですね)






 タイトルは「メリーさんの羊」からきたんでしょう。(ドラマでも羊のアニメキャラクタが走り回っています)

 これもドラマが始まる前に二巻ほど、コミック喫茶で呼んだのですが(すべて、友人のために何を録画するべきか判断するためにしているんですよ!)、絵柄も好みではなかったし、あまり感銘を受けないまま、とりあえず録画はしておいたのです。

 例によって、きちんと録画されているか調べるために、飛ばし観したのですが、まず最初の「聖ルチア学園なんたら〜」でもうダメだった。

 月謝が1億円とか、東京都の何分の一の敷地面積だとか、移動はヘリコプターだとか、ちゃちなCGくさい建物もXだったし……


 しかぁし!違うんですよ。

 はっきり断言しましょう。「メイちゃんの執事」は面白い。すばらしい。


 第4回だったかなぁ。これも録画チェックのために、流しておいて、他の作業をしていたら、なんかコツコツとひっかかるんですね。

 登場人物の台詞に。

 それがつまり、先ほどからクドいほど書いてきた「真に仕えるもののために仕える男の喜び」に関係するハナシだったからです。


 わたしの小説を読まれた方なら、わたしの嗜好がそういったものであるということはお分かりでしょう。とくに「ルナティック・ドール」あたりなんかはね。


 「メイちゃん〜」では、「瞳」のおかげですっかり女を落としてしまった榮倉奈々(わたしはほとんど観てなかったのですがね)が、ナカナカ頑張っています。

 昨今のはやりは、カラダの大きな(つまりスタイルがよく背が高く男に見下ろされない)女の子に主役をさせることですが、「瞳」では見事にそれが的外れになっていました。

 だいたい、ひとりだけ火の見櫓(ヒノミヤグラ=むやみに背が高い)の女の子が、シンクロが必須のダンス・ユニットに入って踊るのって絶対おかしいっしょ!

 大きな女の子は、それに向いた使い方をしなければダメです。

 モデルとか、女優とか、スタイル抜群のお金持ちのオジョーサマとかね……

 と、思っていました。今までは。

 しかし、それは間違いでした。わたしが間違っていました。

 だって、原作のメイチャンは本当に小さい女の子なのに、ドラマで榮倉奈々がやっていても(さすがに最初は違和感がありましたが)だんだん気にならなくなって来るんですから。

 やっぱ、「瞳」で、ひとりデカい榮倉奈々に、ずっと違和感が続いていた(たまに観るたびにそう感じていました)のは演出と脚本のせいだったんだなぁ。


 その意味で、「メイちゃんの執事」は、原作にある、いかにも女性のセンスで書かれた(それも悪くはないのですが、万人向けとはいえない)ストーリーと演出が、男性の脚本家と演出家によって、すばらしい作品に仕上がっているのです

(あー、書いてしまった。恥ずかしい。穴があったら入りたい。でも本当です)。


 甘やかされて育ってきた、デキの悪いお嬢様たちが、学園内で必ず一人はつけられる執事の存在によって「主(あるじ)として誰に恥じることのない毅然たる態度、尊厳」の大切さに気づいていくストーリーは、観ていて本当に気持ちがいい。


 これは、ドラマのテーマ、つまり原作と当たるため、無理な願いであるとはわかっているのですが、できれば男女の愛でない、主人と執事の信頼をメインに描いて欲しいものですねぇ。



 今日の毎日新聞の夕刊でしたか、脚本家(ご存じ「ハケンの品格」「OLにっぽん」)の中園ミホ氏がコラムを書いていました。

 彼女は、だいたい毎週「売れっ子脚本家として、今どんなドラマが気になるか」を書いているのですが、先週は山田太一氏の「ありふれた奇跡」を持ち上げ、今週は、ジョージ秋山原作「銭ゲバ」の岡田恵和氏をベタ褒めしていました。


 いーよなぁ。

 わたしも、そういった、ほとんどの人が頷く作品を持ち上げて褒めたいよ。


 でも、自分の心に嘘はつけない。「ありふれた奇跡」や「銭ゲバ」では、わたしのハートには届かないのです。

 中園氏は「銭ゲバ」は、音楽も演出もすばらしいと書いています。

 確かに、哀愁を帯びた音楽はなかなか良いですし演出も悪くはない。

 しかし、音楽とCGを交えた演出のすばらしさでは、どう考えても「メイちゃん」の方が上です。

 会話と行動のテンポ、カメラアングル、音楽の入り方、すべて一級品です。
 あ、付け足しみたいですが、役者もがんばっています。

 タイトルとオープニングで拒絶反応を示した方も、ぜひ一度ごらんになってください。

 もちろん、「銭ゲバ」の松山ケンイチは個人的に好きですし、椎名桔平が本当に気持ちよさそうにワルモノを演じている姿はすばらしい。
 彼のワルモノ演技は「嗤う伊右衛門」でも際だっていました。

 しかし、今になって、「銭ゲバ」はないでしょう。

 いくら格差社会っていったって、イマドキ生活保護も受けずに病死するというのは感覚的にちょっと合わない気がする。その感覚はやはり昭和40年頃のセンスだなぁ。

 岡田氏にとって「銭ゲバ」は、絶対脚色したいふたつの原作のうちのひとつ、ということらしいが、まさか残りのひとつは、同じジョージ秋山原作の、あの連載中止になった「アシュラ」じゃないだろうね。
 人肉(死肉)喰らい(カニバリズム)をテーマにしたあの作品はドラマじゃ無理だ。


 映画「20世紀少年」で、ハリボテ・ロボットの映画をつくるくらいなら、わたしは、いっそジョージ秋山の「ザ・ムーン」を作りたい。

 孤児の子供たちに渡された、善悪の区別なく思い通りに動く巨大ロボット「ザ・ムーン」!

「善を為すも悪を為すも、君たちの好きにすれば良いのだよ」

 やっぱり、若い頃のジョージ秋山は天才だなぁ。


 特撮でなければ、わたしは個人的にジョージ秋山の最高傑作だと思っている「ラブリン・モンロー」をホン(脚本)にしますね。

 まあ、500パーセント映像化は不可能でしょうが(内容をご存じの方ならおわかりでしょう。あれはテレビ化出来ない)。

 再販はされず、今や、オークションでも手に入りにくくなった幻の名作ですが、機会があれば、ぜひお読みください。


 閑話休題

 何について書いていたかも忘れるほど、長くなってしまいましたが、とにかく「メイちゃんの執事」ぜひ一度ご覧になってください。

 面白いですよ。

 動画配信で最初から観ることも出来ます。

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2009年2月19日 (木)

買いました!コクヨ・カバーノート・システミック

 以前に、紹介したコクヨのカバーノートが手に入りました。

 すでにお使いのかたも多いと思いますが、実際使ってみると、なかなか良いですね。

 わたしの買ったのはA5サイズです。

 外観はこんな感じ↓。勝手に開かないようにゴムバンドがついています。



外のポケットにペンやルーラー(さし)、名刺なんてのも収納できます



 見開き両側にある、差し込み口にノートを差し込んで使います↓。



 わたしは、無地のノートが好きなので無印の無地ノートを二冊差し込んでいます↓。



 ちょっと太めのブックマーク用ヒモが二本ついています。
 いま書きかけているマインドマップのようなものは、近々このブログ用に書き下ろす?ための小説のプロット・相関図です。



 実際使ってみて、軽いし、美しいし、使いやすいので、皆さんにもぜひオススメします。

 このカバーを何冊か買って、用途の違う二冊のノートを組み合わせる妙、といったものを感じてみてください。


 私のおすすめ:
コクヨ カバーノート[SYSTEMIC](システミック)(2冊収容タイプ) セ...

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2009年2月18日 (水)

便利は不便、不便は…… 〜過ぎたるは危険〜

 皆さん、デンパドケイを知っていますね。

 腕時計のほうです。

 もうすでに、一つぐらいお持ちなのではないでしょうか?

 まあ、最近は、携帯電話が時計がわりの方も多いようですから、腕時計そのものを持っていないかもしれませんが、個人的にいわせていただければ、ああいった美しい「機能のついたアクセサリー」は、ひとつ身に付けておかれた方が良いと思います。

 別項で述べた「拡張自我」にも関係してきますしね。

 それに、女性が携帯電話を引っ張り出して時間を確認する姿はイケナイ。

 なんか美しさを感じないんですね。

 その点、ちょっとした仕草で時計で時間を確認する女性には美しい色香がある。

 主観ですが。


 いずれにせよ、携帯電話の時計も電波時計も、時刻の自動調整がついているので、面倒な時刻会わせなんて、やっている人の方が少ないでしょう。

 朝のデジタル表示や定時ニュースの大時計、あるいは時報ダイアル(って知ってますか?)に電話をかけて時計を合わせていたのとは隔世の感があります。


 しかし、便利なものには落とし穴がある。


 先日、知人が台湾に行って参りました。

 帰って来て言うには、

「あやうく帰りの飛行機に遅れるところでした!」


 どうしたのか尋ねたところ教えてくれました。



 経緯はこうです。

 普段から、彼女は電波腕時計を使っています。

 携帯電話はDOCOMOの海外対応のタイプで、前回、海外に行った時に、メールや電話などがそのまま使えて非常に便利だったため、今回も持って行ったそうです。

 台湾と日本の時差は1時間。

 あとで考えたら、この時差が微妙でした。いっそインドのように4時間ぐらいなら、まだ良かったのですが……


 台湾についた彼女は、時計をわざわざ遅らせずに、頭の中で1時間引いた時間で行動を始めました。

 往復のチケットだけを持って向こうにいったので、自分で建てた計画通りに観光を始めたのです。

 腕時計も携帯電話も同じ時刻を示し、問題なく行動することができました。


 二泊三日の観光で、二日目の夜に彼女はメールを書きました。


 そして最終日、念のため、当初の予定より1時間早く、彼女はホテルを出て空港に向かいました。

 しかし、余裕たっぷりに空港について時計を見ると、搭乗手続きのタイムリミットぎりぎりの時刻だったのです。

 もう、おわかりでしょう。


 いつの間にやら、彼女の電波時計は、時刻を台湾時間に修正していたのです(前日までは、そんなそぶりを見せなかったのに)。

 おまけに、携帯電話も、前夜メールを打った際、ネットにつながったためか(このあたりよく分からないそうですが)、台湾時刻に「修正」されてしまっていました。

 それを、日本時間の表示だと考えた彼女は、一時間引いて行動したために実際の時刻より一時間遅い行動となってしまったのです。


 これから得られる教訓は何か。

「海外に行く時は、外部から時刻修正を受けない、ロレックスなど、スタンドアロンのねじ巻きウオッチを持って行け!」

 とまではいいませんが、はっきりと「どの国の時刻」を示しているか分かる電波時計でないクオーツを持って行った方が安全なようです。

 日本にいるのと同様、携帯電話を時計代わりに使うと、とんでもない失敗をする可能性がある……

 と、ここまで書いて気づいた。


 そもそも、常に携帯電話頼みの生活をしている人たちなら、海外に行っても、すぐにメールをチェックし、電話をかけ、そのまま電話の時刻を信じて生活するだろうから、何の問題も起こらないのではないか?


 なまじ、時差を考えて行動をしたために、彼女は遅刻しそうになったのです。


 これから、さらに得られる教訓は「時差も何も考えずに携帯電話を信じていろ」でしょうか?


 うーん。

 シェークスピアが、「きれいは汚い、汚いはきれい」といわせたのは、マクベスの魔女でしたか……

 いまは、なんだか「便利は不便、不便は便利」という感じですね。

 どっちが良いか分からないという、中途半端な感じです。

 いずれにせよ、自分の持っている道具の性能と限界を正確に掴んでおく、ということが大切なのでしょうね。

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2009年2月17日 (火)

腫瘍マーカーp53抗体

 皆さんも「腫瘍マーカー」という言葉をご存じでしょう。

 ご存じのように、ヒトの体は細胞でできています。

 その数多い細胞は、体中を流れる血液から栄養を与えられ、老廃物を持ち去られています。

 ですから、細胞に異変があれば血液に変化が現れる。

 ふつうは、血液の構成物質を調べれば異変がわかるのですが、先に紹介したPET検査は、栄養の流れを調べて、悪性腫瘍つまりガンを発見しようという「逆転の発想」の検査方法でした。


 腫瘍マーカーは、血液の組成を調べて体内の異常を発見するという、ごくオーソドックスなガンの検査方法です。


 ターゲットにするのは「血液中のタンパク質」です。


 ガン細胞は、一般的なタンパクのほかに、健康的な人体にはあまり存在しない特異的なタンパクをもっていることがあります。

 腫瘍マーカーはこの特異的なタンパクを調べる血液検査で、CEA、BFP、TPA、IAPなど、数多くの種類が発見されていて、診断の補助や術後の経過観察に有効な手段になっています。

 この辺は、ネットで検索されてもすぐに一覧が表示されると思いますので興味があればお調べください。

 マーカーには「特定の臓器」のガン細胞に陽性を示すものと、臓器に対する特異性が低いものがあります。


 腫瘍マーカーには、ガンが「ある程度の大きさになるまで陽性を示さない」という性質があり、陰性であるからといってガンを否定できるものではなく、他の要因によって陽性を示すこともありました。

 このあたりもPET検査に似たところがありますね。


 「不正確さ」と「進行したものでないと判断できない発見の遅さ」が腫瘍マーカーの欠点なのですが、最近、「食道ガン」「大腸ガン」「乳ガン」に対して保険が適用されるようになった「p53抗体」という新しい腫瘍マーカーが注目されています。

 別項でふれた「ガン抑制遺伝子」として知られる「p53遺伝子」が作り出すp53タンパク質は、DNAに傷を受けた細胞の増殖を止め、DNAの修復を促進したり、修復不可能な細胞を自殺させたりするなどの働きをします。

 もし、p53遺伝子が「突然変異」を起こしp53遺伝子タンパク質の機能がなくなると、さまざまなガンが発生するようになります。


 p53遺伝子は、変異すると「自己抗体」を作ります。

 つまり、

「p53遺伝子が変異しているとガン細胞が発生しやすい」→

「p53遺伝子が変異すると自己抗体が生み出される」→

「血液中に、p53抗体があれば、ガンの可能性が高い」

 ということになります。

 p53抗体検査は血液1ミリリットル程度で検査できます。

 今までの腫瘍マーカーは、上記のように「増殖するガン細胞が作り出すタンパク質」や「分泌されるホルモン」などの物質を調べてきました。

 そのため、「ガン細胞があまり増殖していない初期の段階」では精度が落ちることがあります。

 しかし、ガン細胞自身が作り出すタンパク質ではなく、ガン細胞を抑制する遺伝子の変異によって作り出される抗体ならば、かなり早い時期に血液組成に現れるのです。

 つまり、p53抗体の特徴は「早期ガンの検出率が比較的高く」、腫瘍マーカーと組み合わせて検査すると検出率があがるということです。

 また、治療経過の観察や再発、転移の指標としても有効です。


 もちろん、p53抗体検査は万能ではありません。

 検査を行っても、初期ガンがすべて発見されるわけではありません。

 陰性の場合でも100%ガンを否定することはできませんし、p53抗体検査だけで、ガンの種類がわかるわけではありません。

 これまで通り、様々な検査を組み合わせて総合的に判断する必要があります。

 それでも、以前よりはるかに早くガンの兆しを知ることができる点で、かなり有効な検査方法だといえるのです。

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2009年2月16日 (月)

もうすぐCSでやるぞ 〜パプリカ〜




 この22日に、CSアニマックスで「パプリカ」を放送します。

 筒井康隆の原作も好きですが、映画も大好きです。

 今敏の作品は「千年女優」も「東京ゴッドファーザーズ」も苦手だったのですが、この「パプリカ」は、原作がしっかりしているためか、過去の作品の「何を言いたいのかワカラン」といった感じがまるでなく、すばらしい内容に仕上がっています。

 音楽はP-MODELの(って古いか)平沢進。

 これもいい!

 個人的に平沢進の無国籍音楽(という評価じゃもちろん足りないけど)は大好きだし、その幻想性は、「パプリカ」にベストマッチしていると思います。

 アニメ「パプリカ」については……分析的な評価はやめます。

 このブログの長期的読者なら(いるのか?)ご存じなように、わたしは本当に好きだと分析できなくなるのです。

 だから、ウチのケツ子(黒猫♀)も分析しません!

 というわけで、アニマックスがご覧になれるかたは22日夜9時をお見逃しなく。

 CSをご覧になっていない方はDVDレンタルに走りましょう。 

 いいや、この作品は買ったっていいや(主観に基づく感想です。感動には個人差があります)。

 とにかく、ご覧になってください。

 そして、美しく冷静で知的な主人公が、夢の中で変身する第二の人格、おきゃんでコケティッシュで元気いっぱいの探偵パプリカが体験する幻想的な夢世界の冒険を経験してください。

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2009年2月15日 (日)

もうひとつのホロビ 〜ハチはなぜ大量死したのか〜

 人は人と接することで、「何らかのストレス」を感じます。

 (ある程度思い通りになる)自分自身ではないのですから、それは当然の事なのですが、ストレスが過度になると、別項で述べたように、ガンを取り除くNK(ナチュラル・キラー)細胞を少なくして病気の危険が増します。

 霊長類としてみたヒトは「ヒエラルキー的」生物です。

 本能的にピラミッド社会を好んで、他者と自分を比較し、あいつよりは上、あるいは下、と上下関係を確認しつつ社会生活を営んでいかざるを得ない。

 動物の世界でも、階級社会であればストレスがあるんだろうなぁ、なんて思いますが、きっとヒトほど酷くはないのでしょう。


 しかし、ヒトは他の動物を圧して自然界にのさばり過ぎました。

 自分たちの都合で、他の生き物に過度のストレスを与えるようになってしまった。

 たとえば、盲導犬(あるいは介助犬)の平均余命が、一般の犬より短いというのはご存じでしょうか。
 常に飼い主に気を配り、まわりのヒト中心の環境に耐え、吠えず、鳴かず、「良き犬」を演じ続けるために、過度のストレスにさらされる結果だと考えられています。


 アメリカで、一昨年あたりから奇妙な出来事が続きました。

 働き蜂が巣に帰ってこなくなったのです。

 メタファーではありません。

 稼ぎ頭のお父さんが「家庭が嫌になって突然蒸発しちゃった」のではないのです。

 本当に、昆虫の働き蜂が巣を出たきり戻って来なくなったのです。

 巣に残されるのは女王蜂と幼虫ばかり。

 まるで、部下に見放された王がひとり城にたたずんでいるようで、少しばかり滑稽で憐れなのですが、それが全米に広がる現象となれば、笑っては居られません。

 働き蜂がどこかに行ってしまった。でも大量に死骸が見つかったというわけでもない。
 先に「蒸発するお父さん」という比喩を使いましたが、本当に、働き蜂が働くことに疲れて、巣を捨て、仕事を放擲(ほうてき)し、野に去っていったように見えるのです。

 ある人はこの現象をさして「イナイイナイ病」と呼んだそうです。

 さて、何が原因だったのでしょうか?




 この事件について書かれたのがローワン・ジェイコブセン著「ハチはなぜ大量死したのか」(文藝春秋刊)です。



 話の流れでおわかりと思いますが……答えは、あなたが考えられたこととはちょっと違います、おそらく。

 原因はひとつでは無いのです。

 ただ、上記現象(ムツカシイ言葉で「蜂群(ほうぐん)崩壊症候群」と呼ばれています)の大きな原因が、ヒトが昆虫たちに与える「ストレス」であったと推測されています。

 本来、ナチュラルであるべき農業が過度に工業化された結果、蜂たちに強いストレスを与え、彼らの免疫を低下させ、ダニやウイルスに対する抵抗力を弱めた。

 さらに大量に用いられた農薬の複合汚染と相まって、時計仕掛けのように精密に機能していたミツバチを「アルツハイマー状態」に陥らせる。

 餌をもとめて野に出た働き蜂は、そこで行うべきことを忘れ、道に迷い、巣に戻ることなく死んでいった、そう考えられているのです。


 ここで、農業の「工業化」について説明をしなければなりません。


 まず、ミツバチの「ナチュラル・自然な状態」を考えてみます。

 働き蜂は、野に出て、本能の命じるまま、さまざまな植物から蜜を採取し巣に持ち帰ります。多様な植物から採取した蜜には、多様な栄養素が含まれており、我々がありがたがる「ロイヤルゼリー」なども、そういった複雑な栄養素から、完全なものが生み出されるのでしょう。

 しかし、今や蜂は、単に野に出て勝手に蜜を集める昆虫ではないのです。

 特にアメリカにおいては。


 近代アメリカ農業において、ミツバチは、コンバインや耕耘機と同じ費用対効果の率を上げるための道具になっているのです。

 なんとなれば、アメリカに代表される大規模果樹園において、本来自然の営みであるはずの「受粉」という行為は、100パーセント完全に行われ、確実に果実として収穫するためのルーティーンでなければならないからです。

 そのために、ミツバチは必要不可欠です。

 彼らが、果樹園内を飛び回って、確実に受粉をさせてくれるわけですから。


 そこで、近年、まず「経済的観点」から養蜂業をとらえるようになったアメリカ人はどう考えたか?

「蜂に蜂蜜を作らせて販売するより、求めに応じてアメリカ全土の果樹園に蜂を連れ歩いて受粉作業をせる」方がカネになる。

 日本の養蜂で考えてはいけません。

 カリフォルニアのアーモンド畑など見渡すかぎり延々とアーモンドの木しかない。

 カリフォルニアのアーモンド畑の総面積は3,000平方キロ。

 多様な植生がないと、絶対に多様な虫は生育できません。

 だから、アーモンドの木しかない大地には、アーモンドを受粉させるべき虫がほとんどいないのです。

 一見緑豊かに見える、延々とアーモンド畑が続く大地は、実は、砂漠の荒れ地のように不毛です。

 いや、皆さんご存知のように、砂漠には、その環境の適応した、多種多様な生命が存在する。

 なれば、カリフォルニアのアーモンド畑は、宇宙空間と同じくらい不毛な土地なのです。


 だからこそ、「経済的」に業者が食い込める余地がある。

 開花期には「一箱いくらの契約」で養蜂業者が蜜蜂をつれて各地を回ります。

 大きな間違いは、蜜蜂をあたかも「受粉のキカイ」として扱ったことでした。

 かれらも生き物であり、先のロイヤルゼリーで分かるように、多様で複雑な栄養を必要とする。

 見渡す限りアーモンドの花しかない土地で、アーモンドの蜜だけを集めて、ナチュラルな栄養を採ることができるものでしょうか。

 さらに、畑に農薬が散布されていることが問題を加速します。

 蜜蜂は「仕事をするため」に様々な土地を連れ回される。

 その土地とちでは、微量ではあるものの、様々な種類の農薬が撒かれているのです。

 蜜蜂はそういった、様々な毒物(農薬は毒だ)を体内に蓄積していきます。

 科学者の調べでは、十数種類の農薬を体内に濃縮していた蜂もいたようです。

 それらは、ヒトヘの農薬への影響と同様、即座に蜂を殺すほど強力ではなくても、(対象が蜂ではないものの)虫に効果的な毒を長期間体内にため込んだ蜂が、時計仕掛けのように「正確緻密」な蜂社会を維持できるものでしょうか。

 むしろ(これが適当な表現かどうかは別として)アルツハイマー状態になって当然なのではないでしょうか。

 そういった状態になった蜂は、蜜を採ることを忘れ、巣に帰る道を失念し、路頭?にまよって荒野で死んでいきます。

 集団ではなく、三々五々と。

 人間よ、もうよせ、生き物を自分たちの欲望のために使うのは

 と、つい、高村光太郎気分になってしまいますが、こういった感想は、あながち間違ってはいないでしょう。

 つまり、生き物を何かの「ための道具」に使ってはならないということです。

 機械の発達していなかった時代ならともかく、どうしても使わねばならない時、たとえば水牛に鋤(すき)を引かせて畑を耕す時などには、充分手をかけて可愛がり、「ちょっとだけ頼むよ」と言葉で話しかけて「やってもらう」という気持ちが必要なのですよ。

 無理矢理ひきまわし、サア働け、では虫といえども納得はしない。

 やがて、彼らはアカラサマにヒトを攻撃をせずに、黙って姿を消すという抗議手段に出るかもしれません。

 そういった無抵抗主義的絶滅という抗議は、結果的にもっともヒトに対して厳しい結果をもたらすものなのではないでしょうか。


 人間よ、もうよせ。

 このまま王様然とした態度で他の生物を圧迫し続けたら、やがてはあの女王蜂のように、他の全ての生き物たちに別れを告げられ、最後は地上に自分だけぽつねんと残された裸の王様になるだろうから。


 私のおすすめ:
ハチはなぜ大量死したのか /ローワン・ジェイコブセン/著 中...

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2009年2月14日 (土)

己だけが消え去る恐怖 〜キャシャーンSins〜

 以前にキャシャーンSinsについて書きましたが、さらに追記を。

 キャシャーンSinsも二十話近くになって、佳境に近づいてきた。

 この数話ではっきりとしてきたことは、キャシャーンSinsが、加速度的に恋愛物語の様相を呈してきたということだ。

 姉の死の原因を作ったキャシャーンをねらい続ける女性型ロボット・リューズと、キャシャーンの恋物語。





 しかし、かつてすべてのロボットがそうであったように、無限の再生能力を持つキャシャーンとは違い、リューズの体は確実に滅びに向かっている。

 自らを復讐の刃として、キャシャーンに憎しみをぶつける敵として登場したリューズは、記憶を失い、そのために他人から教えられる自らの行いを後悔し、滅びを止めようとあがくキャシャーンの姿に、徐々にココロを開いていく。

 
 下世話な言い方を許してもらえば惚れてしまうのだ。



 第18話「生きた時これからの時間」(脚本:大和屋暁 絵コンテ:山内重保 演出:山内重保 作画監督:丸 加奈子)は、なかなか画期的な回だった。

 まるまる30分を、実写合成を交えながら、リューズの内的葛藤を描くことに使ってしまったのだから。

 よっぽどコアなファンでないかぎり、離れていってしまうんじゃないかなぁ。

 この回の終わりに、リューズは姉の死を乗り越えて、キャシャーンについていく決意をする。

 詳しくは、下のトラックバック↓を観てください。よくまとまってます。


 そして、第19話「心に棲む花を信じて」(脚本:吉田玲子 絵コンテ:中山奈緒美 演出:中山奈緒美 作画監督:奥田佳子 )

 この回は、観ていて痛かった。


 そして、この回を観ながら、わたしは、「滅びを描いたSF作品におけるエポックメイクな作品を、今、リアルタイムで目の当たりにしているのではないか」と思うようになったのだった。

 かつて、地上の生物、あるいは宇宙の生物、そしてロボットを主役にして、それらが滅びに向かいつつある姿を描いたSFは多くつくられてきた。

 しかし、こういった形で「滅び」を描いたSFはなかった。


 19話で、いよいよリューズの体にも滅びが近づいていることが描かれ始めるのだ。

 18話で彼女はキャシャーンへの憎しみに決別した。

 そして19話で彼女はキャシャーンへの愛に気づく。

 同時にそれは、滅びの無い体を持つキャシャーンと、崩れつつある体をもつリューズとの、そう遠くない永遠の別れの痛みをリューズに負わせることになる。

 おわかりだろうか?

 これまでの、「滅び」を描いたSF作品は、ほぼ全てが、皆一様に滅んでいく姿を描いていた。

 ある時はウイルスで、ある時は太陽のバクハツで、またある時は核戦争で。

 しかし、「恋人同士の一人が永遠の命を持って、もう一方が他の全ての生き物とともに滅んでいく」なんて設定は、少なくともわたしは観たことがない。

 単に長命な男と普通の女の恋ではないのだ。

 遠からず、彼はたったひとりで世界に残されるのだから。


 キャシャーンを愛することで、リューズは死に対する恐怖を実感するようになる。

 リューズは戦闘ロボット=戦士だ。死を恐れはしないだろう。

 だが、自分だけが死に、他の者一切が死滅した後に愛する者だけが生き残るという必然に彼女は慄然とするのだ。


 死の恐怖、何もなさずに死ぬ恐ろしさから逃れようとして、また愛するものにすがろうとして、そして同時に、いっそ自分と同じように愛する者を滅ぼそうとして、リューズはキャシャーンに刃(やいば)を向ける。

 だが、結局は殺さない。

 殺せるはずがない。

 ならば、彼女に残るのは、滅び=死への恐怖だけだ。


 おびえる彼女に、キャシャーンはロクな言葉をかけられない。

 そりゃあそうだ。

 自分が原因で「世界」が滅びに向かっているのだ。

 リューズの苦悩は、キャシャーンをさらに後悔に駆り立てることになる。

 もし、自分が滅びの原因を作ったのでなければ、キャシャーンは「自らリューズとともに滅ぶ」という選択が出来ただろう。

 アシモフのBICENTENNIAL MAN(ロビン・ウイリアムズによる映画化あり「アンドリューNDR114」↓クドさを押さえたR・ウイリアムズの演技が秀逸)のように、愛する女性の老化とともに、自分のパーツも老朽化させ、彼女の死とともに、この世を去っていったロボットがごとく……

 だが、キャシャーンには、滅びに身をゆだね、死ぬことすら許されていないのだ。

 それこそが彼のSin。


 さて、皆さん。

 展開はトロいが、このキャシャーンSinsは、そんじょそこらにあるような、ペラペラな作品ではありません。どっしりとした質量のある作品です。

 構成の悪さ、および玉石混淆(ぎょくせきこんこう)なストーリーのせいで、絶対に視聴率は上がらないだろうが、そんなこととは関係なく、この作品は、紛れもなく、SF滅びカテゴリの金字塔になる可能性がある作品です。




 リンゴと称する人間の女の子をキーとして、なんとなく先の展開は読めてしまいますが、そういった大枠はともかく、キャシャーンとリューズ、イモータルな男とモータルな女の恋物語として観れば、この作品は他のアニメ作品を圧してひときわ輝いています。

 今からでもおそくありません。

 まだ観たことのない方はぜひ一度ごらんください。

 そして、最初の頃は観ていたけれど、タイクツで観るのを辞めた人も、我慢してもう一度アタックしてみてください。

 「キャシャーンSins」

 今のところ観る価値のある作品だと、わたしは思います。


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アンドリューNDR114(期間限定)(DVD) ◆22%OFF!

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2009年2月13日 (金)

放浪猫の終の棲家(ついのすみか)

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 ワシが初めて、その子に会うたんは、ひょうたん池近くにある甘味処の店先やった。

 その前の日に、腹減らして歩いとるワシを見かけて、気のよさそうなオバはんが舌を鳴らして呼びよったから、ワシ、メシをもろうたったんや。

 自分で言うのも何やけど、ワシはプライドの高い猫やし、人間となれ合うて暮らすのはマッピラやったから、その店もすぐに出て行くつもりやった。

 それに、長い間、ひとつ所に居れへんことは、ワシかてよう分かっとる。

 若い頃のワシの武勇伝は、どこに行っても轟きわたっとるから、その日のうちに、何匹か、ワシを倒して名を上げようとゆう無謀な奴らが挑戦してきたけど、いつも通り適当にあしらって通りに蹴り出しといたんや。それを見て、店のオバはんは、えろう驚いとったしな。

 ここもそろそろ潮時やなぁ、と思うとったんや。

 そこへ、あの子が母親らしき、きれえな人と一緒に店へ入って来たんや。

 それから、女の人の方が、なんかシンコクそうな話をしてたわ。ワシ聞かんかったけど。

 店のオバはんとその子は知り合いみたいで、帰り際に、勝手にワシをその子に譲ってしもうたんや。

 その子(チエちゃんていうらしいけど)は、ワシの顔見て「うちでは強うないとやっていけへんで」なんて言うもんやから、思わず腕の力コブ見せてしもた。

 それで、イッパツ合格や。

 初めに見た時から、なんかあの子のことが気にかかってな。

 子供のくせに、こう、妙に迫力があって、でも、その下にはなんか寂しそうな感じが透けてるっちゅうか、まあ、そうゆう恥ずかしいことは言わんとくけど、ともかくワシは、その子が気に入って家までついていったんや。

 でも、いざ、一緒に住んでみたら驚いたで。

 食堂で一緒に居ったんは、お母はんらしいけど、別々に暮らしてるんやな。

 おまけに、まだ子供やいうのに、夜になったら、酔っぱらいの相手をしてホルモン焼いて生活しとるんや。




 すぐに、ワシも、ひとりで頑張ってるチエちゃんのために、棒持ってボディーガードを始めたんや。

 そしたら、今までで一番ガラの悪いヒゲの男が入って来よったから、こいつはシメとかんなアカンと思うて、殴ろうとしたらチエちゃんに止められた。

 そいつ、テツいうて、チエちゃんの父親やったんや。

 そら、びっくりしたで。

 ワシも、猫としてけっこうエエ年しとるし、いろンなモンを見てきた。

 せやけど、嫁ハン追い出して、10歳の子供働かせて、自分はバクチばっかりしとる奴は初めて見たわ。

 結局、ワシはチエちゃんを守るために、この家に棲み着くことにしたんや。

 チエちゃんは、優しい子やけど、結構シビアに猫と人間の境界線を引くから、たまに悲しなる時があるんやけど、それでもワシは、明るぅて元気で、強ぉてガンバリ屋で、寂しがり屋の女の子の大ファンなんや。

 それ以来、どーしようもないテツと、まわりのおかしなヤツら、それに奇妙な因縁から友達になったジュニアと、たまにワシを狙ってやってくる猫どもと闘いつつ、ワシは毎日を過ごしてる。

 今思うたら、何でワシは、日本中のいろいろな所を流れとったんやろな。
 どこにも行く当てが無いから、流れ続けてたんやろか。

 ああ、思い出した。
 ワシが、本当にチエちゃんと家族になったんは、アントニオの息子が「親の仇や」言うて墓場でワシをボコボコにしよった時や。

 あの時、ワシ、自分でも思う所あったし、チエちゃんにも止められたから手ぇ出さんかったけど、アバラのホネ折れるし大変やったんやで。

 でも、最後にチエちゃんがワシを抱き上げて、「お前、エラいやっちゃなぁ」言うて、泣いてくれたんや。

 ワシな、人間の涙が温かいの、あの時初めて知ったんやで。

 せやからワシはココに居る。

 チエちゃんが出て行け言うか、ワシが死ぬまでなぁ。
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 先日、スカイパーフェクTVのANIMAXで、「じゃりン子チエ」が始まりました。

 関西圏にお住まいの方なら、もう何度も再放送されていて、また始まったの?ぐらいに思われるでしょうが、関西以外では、案外再放送がなされていないようですね。

 これを機会に、日本中に新たなファンができることを祈っています。

「じゃりン子チエ」という作品については、井上ひさし氏の、これ以上言い得たものなどない評が、当時の朝日新聞・文芸時評に載っていたので(コミックの広告部にも掲載されています)、ここに引用させていただきましょう。

●見晴らしよい叙事詩
 徹底的な大阪弁と登場人物が常用する独白に笑わされ、大人より子供が大人らしく、猫が人間より人間らしく、猫の目のように移り変わる視点が物語世界に奥行きを与えている。
 この作品は近来、出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽小説のひとつと言い得よう。

 さらに、一巻の後書きに記された小池一夫氏の文。
 その最初に、「はるき悦巳は、なまけ者である。なまけてごろごろしているから猫を描くのがうまいし、世の中の哀しみがよく見える……」というのがあるが、これも言い得ている。

 しかしながら、子供の頃、というか学生の頃、わたしはこの「世の中の哀しみ」の部分がよくわからなかった。

 だが、今なら分かる。

 そして、なぜ、関西の、高級料理店ではない、あらゆる場末の安食堂のコミックコーナーにジャリン子チエのコミックスが置かれていたのかも。

 若過ぎると人の世の哀しみは分からないし、ましてや書くことはできない。

 だが、同時に才能がなければ、年老いても人の哀しみを描くことはできないのだ。


 これは自戒をこめて書くのだが、昨今の小説世界の主人公たちは、性格に深み(陰影と言い換えても良い)を持たせるために過去にミョーなトラウマを持たせすぎているようだ。

 なんか、みんなココロが傷つきすぎている。

 自分から傷ついたぁ!と叫ぶヤツが、本当に傷ついていた試しなどないのに。

 そんなことで哀しみは表現できない。

 いや、火傷するように痛い悲しみは表現できるかもしれない。

 だが、単なる悲しみより数段格上のペーソス(ギリシア語パトスの英語読み:悲哀、哀感)は、ぜったいに表せない。

 いつもと同じ生活、いつもと同じ仕事、いつもと同じ会話、でも何かもの悲しい。

 理由がわからないから、余計に苦しい。激しい哀しみではないが、もの悲しいのだ。

 若い女の子なら、メランコリィの一言で片付けられるのだろうが、中年すぎの男たち、つまりホルモンチエちゃんに集まるような男たちには、その単語はそぐわない。

 そういった「生きるって、なんか悲しいな」という、生き物すべてにたいする「哀惜の感情」、それを一見ギャグのオンパレードに見える作品の中で見事に表現しているのが「ジャリン子チエ」なのだ。


 前にどこかで書いたと思うが、もう一度書かせてもらうと、わたしには、タイムワープをする道具がいくつかある。

 タイム・ワープといっても、一瞬で二時間ほど先に進むことができるだけなのだが。

 そのひとつが、映画版「じゃりン子チエ」だ。

 DVDをつけて、オープニングタイトルが始まったと思ったら、次の瞬間にエンディングテーマが流れている。

 時間の経過をまったく感じない。

 うーむ、これって、老い先短い人生を無駄遣いしているだけなのでは?

 まあいいか、生活に追われ、仕事に追われ、なにか分からないものにまで追われて生活している我々には、こういった時間の無駄遣いもまた必要なのでしょう。


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2009年2月12日 (木)

火輪〜かりん〜(推理時代小説)

 今回アップするのは時代小説です。

 何年か前に、「小説推理新人賞」の最終選考に残った作品です。

 選考委員は、森村誠一、乃南アサ、花村萬月の三氏でした。


 応募した当時のままの梗概を載せておきます。


梗概:あらすじ

  秋も深まった江戸、大川の河岸で娘、お芳の死体が見つかり、神田長兵衛長屋、通称からくり長屋に住む岡っ引き源七が捜査に乗り出した。

 やがて、お芳は仏具の大店、京津屋の娘で、父親が火事から家を守ることで有名になった火除菩薩(ひよけぼさつ)の仏師であったが、五年前に行方知れずとなっている総五郎であることが知れた。

 その頃、江戸市中には、付け火をして騒ぎを起こしてから、別の場所に押し込みに入る、蟷螂(かまきり)の居造を首領とする盗賊が跋扈していた。

 やがて、


 あ、これはいけません。

 当時、梗概は、ミステリのネタバレまで含めて全部書け、と言われていたので、簡単に最後まで説明してしまっています。

 ですから、梗概はここまでにしておきます。

 興味のある方は、本編を以下からダウンロードしてください。


 ちなみに、「からくり源七」には続編「魔毒」もあります。

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2009年2月11日 (水)

ペットじゃないよPETだよ

 生前、父は珍しいタイプのガンになったため、それが本当にガンであるかどうかを調べるためにPET検査を受けました。

 PET検査(陽電子放射断層撮影)をご存じでしょうか?

 これは、原理としては単純ながら面白い検査方法です。


 前に、このコーナーで書きましたが、ガン細胞とは「死なない細胞」です。

 そして、猛烈な勢いで増殖をするために多くのエネルギーを必要とします。

 そのため、最近の研究では、ガン細胞が近くの血管から栄養をとるため、毛細血管を引っ張ってくることが分かっています。

 ならば、その性質を利用して、即時エネルギー物質であるブドウ糖を血管から注入して観察、ブドウ糖が急激に集められる場所にガンがあると考えられるのではないか?

 そう考えて実用化されたのがPET(ペット)検査です。

 実際には、ブドウ糖に放射性物質を化合させた薬剤を注射し、体から出てくる放射線を検出します。

 そうすることで、ガンの有無がわかるというわけです。

 PET検査以外には、CT(コンピュータ断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像化装置)などもよく使われますが、これらは、病巣の形を見てガンの有無状態を判断する装置です。

 しかし、PETは、ガン細胞がブドウ糖を必要とするという、ガン細胞自身の行為をもとに、ガンの有無を直接知ることのできる検査方法なのです。


 分かりやすい原理と、機械さえあれば比較的容易な検査の上、患者に負担を与えないということで、一時期ひそかなブームとなったPET検査ですが、欠点もあります。


 それはガン病巣があっても見つからないことが多いということです。

 胃、腎臓、膀胱、肝臓、胆道、前立腺など、多くのガンでは、ガンの病巣が存在してもPET検査だけでは見つけにくいのです。


 つまり、検査結果が「陰性」でもガンの可能性がある。

 そんな検査、何の役にも立たないのでは?と思いますが、そうではありません。

 一度、他の検査を併用して「ガン病巣がある」ということが分かると、PETは俄然有効になってきます。

 腫瘍の悪性・良性の判断、治療による効果の判定、治療後の再発の有無や転移評価など、さまざまな用途にPETは使えます。


 しかしながら、上で書いたように病巣の判定が不確かであるという理由で、欧米でPET検査はほとんど行われていません。

 さいわい、日本では、かなり普及していますので、ガンと診断されたら一度PET検査をうけることをオススメします。

 大まかな料金は、父の検査の時には、ガンが見つからなければ保険適用なしで検査費用10万円以上、見つかれば数万円程度でしたが、今はもっと値下がっているでしょう。

 実際に悪い結果が出れば支払う料金が安くなるのは、胃ガンの原因といわれているピロリ菌検査と似ていますね。

 つまり、金銭面からいっても、明らかにガンと分かってからPET検査をしたほうが有効なのです。

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2009年2月10日 (火)

勉強、仕事、あらゆるデスクワークへの最終兵器

 今回、お話しする方法(正確にいうと道具)は、今まで書いてきた、そして今後書いていくであろう、勉強法や読書法の中で最高位に位置するものです。

 他の全ての仕事法を忘れ、道具をなくしても、これだけは残しておきたい。

 いや、これさえあれば何とかなる。

 よく、「無人島に持っていく一冊」なんて話がでますが、わたしが、もしユークリッド世界の向こう、ディラックの海へ追放されるとしても、必ず持って行くのが、これ↓です。




 そう、耳栓です。イヤープラグ。

 なに、安いモノで良いんです。わたしは、100円ショップで売っているシリコンのものを使っています。(写真のものは、予備に鞄にいつもいれている新品)

 ちなみに、わたしの「無人島にもっていく一冊」は、人生の師、東海林さだお氏の文春文庫愛蔵版『何たって「ショージ君」(1340ページ:もう文庫型漬け物石)』↓です。





 誤解しないでいただきたいのは、外界の音を遮断するために耳栓を使うのではない、ということです。

 それなら、昨今はやりの、外界の音を取り込んで位相を反転させ、元音にぶつけて相殺(そうさい)させるノイズキャンセラーの方がずっと有効です。


 仕事や勉強の時に耳栓をするのは、自分の内なる音、自分の声や骨の音、心音、血管を流れる血液の拍動、つまりフィジカル・インナーサウンド(かぶらや命名)を聞きつつモノを考えるためです。

 自分の内部の音を聞くと、不思議と落ち着くものです。

 それこそ、どこに行こうとも一緒についてきてくれる仲間、まさに身内の信頼感のある音だから。

 さらに、暗記する際に音読すると、骨伝導で少し低くなった自分の声が、気持ちよく脳内に響く。

 付けはじめは、あまり効果がわかりませんが、装着して10分も経つと、冷静でありながら、脳の一部が活性化されてくるのを感じはじめます。

 さらに内部の音を聞き続けると、だんだんトランス状態になってきて、脳のクロック数がアップするような気がしてくる。

 そう、耳栓をすると、脳のベースクロックがアップされるのです。

 個人的な感想ですが、耳栓をして仕事をすると二倍以上の能率になるように思います。

 実際、わたしは、以前、耳栓をして1日で180枚の小説を書いたことがある。

 耳栓は良いですよ。

 軽いし、安いし、歩きながら使わないかぎりほぼ安全。

 副作用はまったくないでしょう。

 経過時間が気になるときは、携帯電話のバイブレーション・アラームを使えば良い。

 仕事でせっぱ詰まったり、デッドラインが近づいた時、最後の頼みは耳栓です。

 100円で手に入る、脳内クロック・アクセラレーター、イヤープラグの使用をぜひオススメします。


追記:
 ちなみに体内音ですが、わたしは他の生き物の音も聞くのが好きで、よくウチのケツ子(♀黒ネコ)やロボ太(プロフィール写真♂ネコ:ケツ子の息子)のお腹に耳を当てて音を聞きます。
 ポコポコなんて消化音をじっと聞いていると、水中にいるような不思議な気持ちになって気持ちが落ち着くのです。変ですかね?

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2009年2月 9日 (月)

学習前に前屈と体反らしをする

 これは、ある本で知って実行したところ、予想以上の効果があった方法です。

 ある学習塾の講師が数十年にわたって生徒を観察して気づいたのは、前屈ブリッジができる生徒は例外なく集中力の続く生徒だということでした。

 勉強のできる子供が「前屈だけでなく背中を反らせるブリッジもできる」というのがポイントです。

 どちらか片方ではいけません。

 これも、毎日ストレッチをして、前屈もブリッジも完全にできるようになるのが理想ですが、なかなか一朝一夕にはできないでしょう。

 そこで、これから仕事や学習をするという時には、軽い前屈と、腰に手をあてて軽く体を反らせるストレッチを交互に5回行うのです。

 これだけで、仕事に対する集中力が増します。

 あと、マリナーズのイチローがよくやる股割り、四股(しこ)ふみも効果的です。

 これも、3〜5回行うと効果的です。

 ぜひ、お試しあれ。

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立って勉強する

 最近の研究で明らかになったように「筋力をつけると学力はアップ」します。

 つまり、何かを学習するのに、筋力トレーニングをするのは有効だということです。


 しかしながら、そんなに一朝一夕には筋肉はつきません。

 一週間後、あるいは三日後に必要な勉強に、付け焼き刃の筋トレは間に合わないのです。

 こんな時は「シンクロ・マッスル学習」を行うようにします。

 これは、何かを暗記したり学習したりする際に、機械的単純運動をする、という方法です。

 たとえば、部屋を歩き回りながら、あるいは軽くスクワットをしながら暗記を行うわけです。

 特に、暗記の際は、声に出して自分の声を骨伝導で耳にしながら行うと効果的です。


 また、何かについて考える時、歩くのはかなり有効です。

 さすがに、暗記をする時は危ないので室内で行うべきだと思いますが、それ以外なら、散歩することは非常に効果的なのです。

 カントや西田幾多郎だって、だてに散歩しつつ瞑想していたわけではありません。
(時間に正確なカントが毎日散歩に行くのをみて人々は時計を合わせ、西田幾多郎が歩いた京都南禅寺→銀閣寺間の道は、哲学者の小径と呼ばれるようになりました)

 わたしの経験でも、小説のプロットやブログの内容を考えるために、行きつけの本屋まで早足で20分の距離を往復すると、驚くほどいろいろな考えが浮かぶのは確かです。


 そういった運動が面倒であれば、立って学習するだけでも効果的です。

 わたしも、よくグランドピアノの上にノートパソコンを置いて、立ったままブログを書いています。

 経験的に、立ったまま文章を打つと、座って行う作業の1.5倍ほどの効率があるようです。

 ぜひ、お試しください。

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2009年2月 8日 (日)

奇異なキイナ 〜おんな一休さん〜

 今日の休みを利用して録画ビデオをチェックしました。

 前から気にはなっていましたが、なぜか観る気になれなかった「キイナ 不可能犯罪捜査官」を(第一回だけですが)観ることができました。




 観始めて数秒で、なぜ観る気になれなかったかが分かりました。

 オープニングはじめ、内容も含めて、これはイカニモ「トリック」の延長線上のストーリーっぽいからです。

 「この男は実在する」は空手バカ一代オープニングにおける梶原一騎の名セリフですが、「トリック」同様「キイナ」でも「この話は実話である」といった体でストーリーは始まります。

 また、これもトリックや爆学のように、セリフの合いの手に、人を小馬鹿にしたような「カーン」といった鳴り物が入るのかと、ヒヤヒヤしながら観ていましたが、「キイナ」ではそのような奇をてらった演出はなく、ストーリー展開、そしてトリックまでもがオーソドックスなミステリとなっていました。

 その点、わたしには好感が持てました。

 ただ、キーワードとなる「記憶する心臓」だけが、奇異な出来事だったのです。


 作中で気になったのは、「モンスターペアレント」同様、例によって何をいっているか何を考えているかよくわからない草刈正雄の演技……ではなくて、ヒロイン、キイナが、瞬間記憶能力と称する能力を備えていて、本をぱらぱらとめくって記憶するところでした。

 眼球を素早く動かさないという点で、いわゆる「速読術」ではなく、最近はやりの勝間和代氏(というか神田昌典氏)ご推薦の「フォトリーディング」に近いものといった印象をうけました。

 右脳読みってヤツですね。

 これについては、わたしも以前から使っていて結構有用だと感じていますが、それは置いておくとして、速読したあとのキイナは、その書物の知識すべてを記憶し有効活用できるようになる。


 うーん、これはどこかで観たことがあるぞ……そうだ「ジョー90」だ。

 サンダーバードのG・アンダーソン制作のSFスーパーマリオネーション。

 主役のジョー90を太田淑子さんが吹き替えていた。

 凡庸な少年ジョーは、天才科学者である父親の発明のビッグラット(BIGRAT:Brain Impulse Galvanoscope Record And Transfer)を使って、専門家の知識を吸収し、電子メガネで活性化してスーパー・エスピオナージュに変身する。いわゆる少年スパイですな。

 つまり、キイナはフォトリーディングを使用して、その方面の専門家になる、現代のジョー90というわけです。

 能力を吸収するという点で、HEROESのピーター・ペトレリにも似ていますね。

 HEROESについては、この書庫の別項で書くつもりです。


 あと、こめかみを指で押さえてクルクル回す、あからさまな一休さんの模倣はご愛敬ですね。

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「カツラギのオカーサン」誰あんた? 〜トライアングル〜





 しばらく前に、TVドラマ「トライアングル」の江口洋介の怪演について書きましたが、また気になることが出てきたので、備忘録としてここに書いておきます。

 ドラマをごらんになっている方はご存知でしょう。

 江口洋介演じる郷田亮二は、かつて自分の初恋の人であり、25年前に殺害された葛城佐智絵の母、風吹ジュン演じる葛城清子のことを「葛城のお母さん」と呼び、父均を演じる大杉蓮を「葛城のお父さん」と呼んでいます。

 まあ、これはいい。

 だって初恋の女の子の両親だし、おそらく家庭参観などで二人の姿を見たこともあるだろうから。

 郷田が彼らのことを、もしかしたらボクの義理のお父さん、お母さんだっカモしれなかった人たち、という意味で「葛城のお父さん」と呼ぶのは、ありえるでしょう。

 同様に、佐智絵のことを好きだった同級生たち、笠原章介演じる富岡康志などがそう呼ぶのも理解はできる。


 だが、佐智絵に会ったこともない、稲垣吾郎演じる黒木舜や小日向文世演じる丸山慶太までもが、「カツラギのオカーサン」「カツラギのオトーサン」と呼ぶのが合点がいかない。

 「知り合いカヨ」って、そりゃあ知ってはいるでしょうが、そんなに親近感ある呼び方をするのはおかしいでしょう。


 考えてもみてください。皆さんが、「友人の」知り合いの女性、たとえば親友の知り合いである山田さんという60年配の女性を呼ぶ時に「山田のお母さん」って呼びますか?

 そりゃ、その山田君だか山田さんという子供を、じかに知っていたら呼びますよ。

 でも、山田君に会ったこともないゴローちゃんや小日向氏が「山田君のお母さん」はないでしょう。

 気の強い女性だったら、「アンタだれ?慣れなれしいんだよっ」って真っ二つにされてしまいますよね。
 

 演出が、言葉遣いに注意せず、役者に言わせているとしたら、とんでもない間違いです。


 しかし、もし……もしわざとそう呼ばせているなら、とんでもないドンデン返しがその言葉の裏に潜んでいるのではないかとワクワクしてきますね。


 って、そんなことはないだろうなぁ。いくら関西テレビ放送開局50周年記だからってね。

 個人的に宅麻伸のファンだった(NHKの「悪意」でエエ味出してましたから)ので、彼があっさり殺されたのは残念だったのですが、ドラマ「トライアングル」まだまだキテレツな演出で楽しませてくれるにちがいありません。

 何をもってのタイトル「トライアングル」かも、まだ明かされていませんしね。

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2009年2月 7日 (土)

クオド・エラト・デモンストランダム かく証明せり

 今回はテレビドラマの話です。


 いま、わたしには毎週楽しみにしている番組があります。

 その名は「Q.E.D.」です。

 意味は、ラテン語の、Quad Erat Demonstrandum(かく証明せり)の略語ですが、そのコトバをタイトルにもつコミックを原作とするドラマです。





 例によって、とりあえず数話分、録画だけしておいて、先日、きちんと録画できているか確認するためにざっと流し観してみたところ……

 これが結構いいんですねえ。恥ずかしながら、すっかりファンになってしまいました。

 こういったドラマの好悪は主観によるところが大きいので、自分が気に入ったからといって、あまりヒトサマには勧められないとは思いますが、ホント、なかなか面白いですよ、コレ。

 実をいうと、以前、コミック喫茶でざっと原作に目を通してみたのですが、その時は、特に印象を受けませんでした。

 名探偵コナン、金田一少年、探偵学園Qなどと同列の「勢いにのって作っちゃいましたタイプの少年探偵」という感じの作品に過ぎないように思えたのです。


 主人公、燈馬 想(とうまそう)も、飛び級MIT卒天才児、といういかにもなステロタイプな設定で、魅力を感じませんでした。

 その実写ドラマ化、しかもNHK!

 朝の連続テレビ小説の体たらく、および金曜時代劇における駄作の連発、そして土曜日の「緒方洪庵なんたら」の壊滅ぶり……最近のNHKドラマはとんでもないことになっていますから(アツヒメだけは人気はありましたね。一回も観ませんでしたが)、Q.E.D.にも、まったく期待はしていませんでした。

 実際、第1話「青の密室」は駄作でした。
 スカイダイビング中の殺人をあつかったものですが、謎も謎解きもつまらない。

 しかし、第2話「銀の瞳」で、少し趣が変わります。
 謎と謎解きは相変わらず面白くないのですが、人間の描き方が良くなって来たのです。
 たとえば……

 活発で「おきゃん」な設定のヒロイン水原可奈が、人形作家の母によって大切に守られる女性をみて「わたしもあんなふうに守られたい」とつぶやきます。
 母のいない彼女は、父の警察官(警部)水原幸太郎によって、幼い頃から剣道を叩き込まれていてスポーツ万能なのです。
 番組のラストで、謎解きをし、Q.E.D.宣言をした燈馬がヒロインにつぶやきます。
「お父さんが君を鍛えたのも、きっと同じなんじゃないかな。君を守るためなんだよ」

 そして、彼女は父親の愛情に気づく。

 つまり、原作はともかく、演出と脚本の力のおかげで、Q.E.D.はさわやかな青春ドラマになっている。
 これがいい。

 あたかも、「宇宙の戦士」映画化としては失敗作だった「スターシップトゥルーパーズ」が、若者の青春友情物語として、長く語り継がれるようになったように……

 この作品を低く扱う人たちは、謎解き演出の下手さをけなしていますが、このドラマの眼目はそこではありません。

 演出には、確かな力を(ミステリ方面への力でないのが欠点ですが)感じます。

 特に第3話の「学園祭狂騒曲」では、ほんとうに学芸会レベルに話が落ちてしまいそうになるのを、その一歩手前で踏みとどまって、天かける孤高の天才:燈馬 想の気持ちが徐々に地上の一般人に寄り添っていく姿を描くことに成功しました。

 そう、Q.E.D.は、金*一少年に代表される凡百な謎解きドラマではなく、純粋に「アメリカで傷つき、日本に舞い戻った天才少年の人間再生ドラマ」として異彩を放っているのです。

 可奈を演じる高橋愛もなかなかいい(今まで見たこともなかった)。
 口元が在りし日?のマコーレ・カルキンに似てるし。
 声のよく通る、元気の良い原田知世といった感じで好感がもてる。

 ああ、それで気づいた。NHK版Q.E.D.は、実写版「時をかける少女」に感じが似ているのだな(大林版、NHK少年ドラマシリーズ版のどちらにも)。

 大人びて、人生を達観した感のある少年とまっすぐな少女の恋

 その意味で、原作と違ってヒーローとヒロインの身長が逆転しているのが良かった。

 原作では、燈馬の方が可奈より小柄なのだが、ドラマでは、演じる役者の体格ために、燈馬が可奈より随分背が高いのだ。まるで、ケン・ソゴルと芳山和子のように。

 実年齢において、少年の方が少女よりかなり年下である点も(高橋愛は「モー娘。」で最年長の22歳。対する中村蒼は17歳)時をかける少女に似ています。

 欠点は可奈を演じる高橋愛が華奢すぎて、どうみても強く見えないということですが、この際、そんな些末なことには目をつぶりましょう。


 第4話「ブレイクスルー」では、ついに、なぜ燈馬がMITから日本に帰って来たかが明らかになる。

 この回も、凡庸な謎解きはともかく、選ばれた天才のみが感じる孤独と、彼らが持つ「自分を理解できる能力を持つ者」の渇望(かつぼう)がうまく描かれていた。

 日本の主要キャラ以上に日本語が流暢(りゅうちょう)過ぎるガイジンがゲスト出演というアンバランスさも面白かったし……

 ここで燈馬は、自分をMITに連れ戻しに来た、同じ天才のシド・グリーン(ロキ)へきっぱりと宣言するのだ。
「自分は、(才能にあかせて早くから論理の世界で暮らしていたが)今は、日本の『もしかしたら楽しいかもしれない』世界で生きていきたいのだ」と。

 つまり燈馬は、置き忘れてきた青春を取り戻そうとしているのだ。

 まっすぐで元気な可奈を水先案内人として。

 第5話「サスペンス刑事/狙われた美人女優/迫りくるストーカー/断崖にこだまする銃声/可奈と想は全部見ていた」という長いタイトルは、現在放映された中での最高傑作となった。
 これは、おそらく原作なしのオリジナルストーリーだと思うが、サスペンスヲタクの刑事のスラップスティック(ドタバタ)を描いた秀作だ。

 次回、第6話はタイムスリップをからめた「賢者の遺産」で、あの役者バカ、藤岡弘も出演するので今から期待しています。

 観たことが無い方は、ぜひ一度ごらんになってください。

 ああそうだ、Q.E.D.の笑いドコロをもうひとつ。
 可奈の父親、水原幸太郎を演じる石黒賢が、今まで聞いたことのないドスの効いた(というか、変に声をつぶした)、妙な声で話すのを、おかしいおかしいと思っていたら、その理由に、さっき気がつきました。
 名探偵コナンで、眠りの小五郎を演じる神谷明が、フケた声を出すためにやっていた、妙なふうに声をつぶす話し方を石黒賢が真似ているのです。

 これも、ぜひ聞いてみてください。下手な物まねみたいで笑えますから。


 あと、エンディングの、青山テルマの歌をバックに流れる映像は「切り絵的ストップモーション」による大林宣彦ばりの表現手法をとっています。

 以上より、制作者側が「Q.E.D.」を「時をかける少女」に見立てて作っているのは明らか。

 Q.E.D. 証明終了です。


 私のおすすめ:
Q.E.D.証明終了   1 /加藤 元浩 著 [本]

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2009年2月 6日 (金)

押井守版 舞台「鉄人28号」

 もう遅きに失するといった感がありますが、とりあえず書いておきます。

 東京公演を終え、昨日2月5日から8日まで、大阪・梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ(06-6377-3888)にて、押井守の手になる舞台「鉄人28号」が上演されています。




 本来、彼の表現は舞台向きのもので、その長々とした独白大げさな身振りなど、アニメというより、映画というより、ラジオドラマというより、舞台にこそその本領があるようにわたしは感じていました。

 上記写真をごらんください。高さ5.8メートル、重さ約500キロの片膝をついた、赤く目を光らせる鉄人を前に物語が繰り広げられるそうです。

 ヅカ(宝塚)を意識した歌あり踊りありのレビュー仕立ての舞台(って大丈夫なのかな、押井演出で……)ながら、「舞台をやる以上は大きな鉄人を造って動かしてみたい」とイラストレーターの末弥純がデザインし、埼玉の工房で一ヶ月をかけて造られた鉄人は、かなりの迫力がある(らしい)。

 どのように動くかは「観に行って確かめよ」とのことらしいが、「鉄人は物神性の高い、象徴的な存在。お祭りやる時にご神体がなくてどうする、みたいなものです」という押井の言葉どおりとするならば、キングコングの彫像を前に、贄(にえ)を捧げて歌い踊る南海の孤島の原住民(って、今使うとヤバイスカ?)のような舞台なのかも、と思ってしまいますね。

 前回の「スカイクロラ」には、かなり苦言を呈してしまいました、今回の舞台はどうなのでしょう。

 ぜひ観に行って感想を書きたいのですが、様子を見るためだけに1万1000円を支払うのはチト辛い。

 東京の方ですでに観られた方。
 あるいは、大阪に近辺にお住まいで、観に行かれた方。

 だれか感想を教えてくれないかなぁ。


 押井氏もいってますよ、

「(映画と違って)舞台が開いている間しか見られない。舞台はぜいたくな世界だなってしみじみ思います。ぜひ目撃してほしい」

と。

 とりあえずの詳細は、以下のトラックバックをごらんになってください。

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ガンは遺伝病? 追記(例外もあります)

 先日書いた「ガンは遺伝病?」に少し付け加えておきます。

 前回書いたように、ガンは基本的に遺伝はしません

 しかし、他のすべての事象同様、生命活動にも「例外の無いルールは無い」という格言があてはまります。

 5%程度、ガンになりやすい家系というものが存在するのです。

 そういった、家系による特異なガンを「家族性腫瘍」と呼びます。

 前回書いたように、ガンはDNAのコピーミスによって遺伝子が傷つくことで発生します。

 ガンに関連した遺伝子に「ガン抑制遺伝子」というものがありますが、これは、その名の通り細胞がガン化するのを防ぐ働きをもつ遺伝子です。

 ご存じのように、ヒトは両親から半分ずつDNAを受け継ぐので、原理的にガン抑制遺伝子を二つもっていることになります。

 どちらかひとつでも、ガン抑制遺伝子が機能していればガンにはなりません。

 しかし、細胞分裂の際にコピーミスされ、ガン抑制遺伝子が二つとも傷つくとガンが発生しやすくなります。

 通常だと、ガン抑制遺伝子が二つとも傷つくまでには長い年月がかかるため、おもにガンは高齢者の病気です。

 しかし、家族性腫瘍の患者の遺伝子を調べると、片方のガン抑制遺伝子に生まれつき突然変異があることが分かりました。

 この突然変異は全ての細胞にあるため、残る一つのガン抑制遺伝子が傷つくと、ガン抑制遺伝子が二つとも働かなくなってガンが発生します。

 もともと二つあるガン予防の武器の一つが、あらかじめ使用不能であるために、ガンになりやすいということです。

 そのために、家族性腫瘍の場合、若いうちにガンができ、多くの臓器にガンが発症する傾向があります。

 変異したガン抑制遺伝子は、親から子へと受け継がれます。

 父母どちらかに突然変異がある場合、次の世代に受け継がれる可能性は50%なので、子供が二人だと、どちらか一方が変異したガン抑制遺伝子を持って生まれる可能性があります。

 ただし、変異したガン抑制遺伝子を持っていてもガンにならないこともある上、ガン抑制遺伝子が二つとも正常でもガンが発生することがあるので、家系の特定困難かつ無意味でもあります。

 こうした家族性腫瘍は、大腸ガン、乳ガン、卵巣ガンなどに見られます。


以上述べたように、ガン発生には遺伝的な要素が絡むことはありますが、その場合は若い時期から多くの臓器に発生するのが特徴です。

 ですから、祖父母がガンで、両親がガンであっても、それらのガンが、彼らの若い時期にしかも様々な場所に多発したものでなければ家族性腫瘍ではないと考えられます。
 
 要するに、よくいわれるように遺伝的に「母親が乳ガンであれば娘も乳ガンになりやすい」などということはほとんど無いということです。

 やはり、ガンは生活習慣病なのです。

(参考:東京大付属病院准教授 中川恵一氏)

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2009年2月 5日 (木)

復権したパッチ、といってもアレじゃないよ

 パッチってありますよね。

 ほら、寒いときにはく……じゃなくて、わたしがここで書きたいのは経皮(けいひ)吸収パッチ剤、つまり貼り薬のことです。

 落語なんかでは、よく裏長屋のタケやんのオカミさんあたりが、こめかみに一辺1センチぐらいの正方形のパッチを貼っていますね。あれですよ。

 今でこそ洋風にパッチなんていいますが、ついこの間までは、膏薬(こうやく)と呼ばれていました。

 有名なところでは、サロンパスやパテックスなどという肩こり用の貼り薬が今でも売られています。

 肌を露出することが多い若者ファッションのためか、あるいは肌荒れを避けるためか、最近では肩こりや打ち身の改善には、抗炎症・鎮痛効果のあるローションを使うことが多くなっていますが、膏薬、パッチには塗り薬にはない長所があります。

 長く皮膚の上にとどまって、ゆっくりと長時間にわたって、有効成分を体内に送り込むことができるのです。

 そういった経皮吸収パッチ剤は、狭心症の治療や、女性ホルモンによる更年期障害の症状の改善、気管支拡張、ガンなどによる疼痛(とうつう)の緩和に用いられます。

 禁煙用のニコチン・パッチも有名ですね。

 わたしの母は、ニコチンパッチの助けを借りて、40年来吸ってきたタバコをやめることができました。

 ここだけの話ですが、彼女は、悪阻(つわり)の苦しさを緩和するために喫煙を始めたのだそうです。(オーマイゴッド!無知とは恐ろしい、というか「あんた何しはりますの」ですよ。もう遅いけど……子供に悪影響が出てるよコレ)

 また、パッチ剤は、使い方によって有効成分を素早くピンポイントに標的とする患部に送り込むこともできます。まるで、インジェクション(注射)を用いたように。

 その上で、注射や経口投与より、効き目を長引かせることもできる。

 別項で書きましたが、皮膚から浸透した薬は体を駆けめぐり、必要な受容体に影響を与えたあとで、最終的に肝臓で分解されます。

 つまり、経口薬と違って、胃に負担を与えないのもパッチ剤の優れた特徴です。

 今後、飲み薬からパッチ剤へ服用形態のかわるものが多く出てくると考えられます。

 そのためには、皮膚を傷つけることなく、有効成分を浸透させるための技術開発が必要です。

 また、「簡単にははがれないが、はがすときには容易に取ることができる」という、相反する機能も求められるため、現在、粘着テープの技術力を持つ会社が経皮吸収パッチ剤の開発を進めています。


 余談ながら、患部によってパッチ剤の貼る場所が決められている場合があります。

 狭心症のための冠拡張剤は胸部や上腕部。女性ホルモン剤は下腹部や臀部となっていますが、いずれにしても、使い続けるうちに、かぶれが出る場合もあるので注意が必要です。

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2009年2月 4日 (水)

神の雫=(エイトマン+やきたてジャぱん)*ゼロ



 実写でテレビ放映が始まり、使用するワインの銘柄などで物議(ぶつぎ)をかもしている「神の雫」ですが、わたしにとって「神の雫」は……

 絵柄は平成風に洗練された「桑田次郎」ですし(もちろん、そこへ流れる画風の系譜はあるでしょうが)、食べ物を口にした瞬間の「リアクション」は「焼きたてジャぱん」の流れをくんでいます。

 そして、コミックを読んだ読者(モーニング連載ですからもちろん男)が必死に覚えて、カノジョに披露できる蘊蓄(ウンチク)の多さは、「レモンハート」というより「ゼロ」あるいは「ギャラリー・フェイク」といった感じですね。

 それらを簡単に数式化すると、上記タイトルになります。

 主人公が、ほぼ女性に興味を示さない(通常の男目線という意味で)のも、「やきたてジャぱん」と共通ですね。

 しかしながら、ただ酒を題材にした「ウンチクマンガ」に妥協せず、血を分けた兄弟(おそらく)に残す遺産、ワインコレクションなどといった表層的なモノではなく、偉大な父親の最後の教育としての「使徒」ワインの探求という形に持って行ったのはすばらしい着想だと思います。

 ただ、心配なのは「やきたてジャぱん」のように、食べ物(この場合はワインですが)を口にした時のリアクションが、使徒ナンバーがあがるにつれて、どんどんインフレ化していき、ついには物語を破綻させるのではないかということです。

 コミックにして19巻ほどの経緯をみれば、おそらく、そのような先人の轍(てつ)を踏むことはないとは思いますが、くれぐれも、この先登場する、さらにグレイトなワインへのリアクション、というかインスパイア(起想)されるビジョン(イメージ)を、いたずらに大げさなものとせず、あくまでその前後で描かれる「人間模様」に添える華として描いて欲しいものだと思います。

 今までのところ、そういった手法が功を奏していますから。

 つまり、わたしはこの作品が好きなのですよ。


 個人的に、「ワインこそ至高、ワインこそすべて」と断言できる主人公(のひとり)は、ひとつのものに没頭できない世知辛く塩辛い人生を生きねばならないわれわれ、いやわたしのような凡夫からすれば、幸せであり、また同時に不幸であるような気がします。

 親によって道をつけられたゴルファー、野球選手、体操選手、投資家(なんたらファンドね)、音楽家たちが、その道の途上で挫折した時、あるいは年老いてから来し方行く先を思って「俺は自分の人生を生きた」と思えるのだろうか……なんて、わたしはお節介にもつい心配してしまいますから。

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2009年2月 3日 (火)

ガンは遺伝病?

 突然ですが……

 昨年、わたしの父はガンで死にました。

 祖父母もガンでした。

 叔父もガンで死にました。

 まあ、つまり、わたしはガン体質の家系に生まれているわけです。

 特に、父は若い頃から様々なガンを発病させ(ということは、逆にガンになるたびに治っていたのですが)、晩年は、いくつも臓器を取られ、最終的にかなり苦しんで死にました。

 だからこそ、わたしは、最近、よく口にされる術後のQ.O.L.(Quality of Life)の確保が非常に大切だと考えます。

 体の器官を切り取って、延命だけをはかるのは間違いです。


 まあ、その辺については、また別に書くとして、この項では別な話を。

 上で述べたように、わたしは、長らく自分を「ガンで死ぬべき運命の人間」だと考えていました。


 もちろん、いみじくも誰かがいったように

「人間、とどのつまり死ぬときはみんなガン。マス・オーヤマさえも肺ガンで死んだ」

なのですが、年老いて、免疫系が弱った結果の発ガンではなく、若いウチに死んでしまうと考えていたわけです。

 もっとも数年前、とにもかくにも、父が最初にガンを発病した年齢は越えてしまいました。

 最近の医学界の見解では、ガンは「遺伝病」ではなく「生活習慣病」ということになりつつあります。


 今回はそれについてのお話です。

 有り体(ありてい)にいうと、ガンはDNAの複製の失敗が原因で発生します。

 遺伝子の複製ミスによるキズが積み重なって「死なない細胞」つまりガンが生まれるのです。

 通常はNK(ナチュラルキラー)細胞などが小さなガン細胞を除去しますが、そういった免疫機能が取り逃がして生き残った1個のガン細胞が、10年以上の時を経て、検査で確認できる大きさの「ガン」になるのです。

 これは、考えてみると恐ろしいことですね。

 健康そのものに見える、自分や愛するものたち、ヒトやネコや大切な友人の体の中に、すでにガン細胞が生まれて(いや、実のところガン細胞事態は日々数千単位で生まれているのですが)育っているかも知れないのですから。

 上の説明は、ざっくりと簡単すぎて遺伝子のためにガン細胞ができてしまうような印象を与えますが、実際、ガンは「遺伝病」ではありません

 DNAの複製ミス免疫の取りこぼしミス、という不幸な出来事が重なった結果生じる病気だからです。

 この「不幸な出来事」の生じる確率を左右するのが、喫煙、食生活、運動などの生活習慣です。

 特に、タバコは、もっともミスを誘発する要因となります。

 タバコを吸わず、野菜中心の食事を心がけ、酒や塩分を控えて定期的に運動をすれば、発ガンのリスクを半分にできます。

 だから、ガンは「遺伝病」ではなく「生活習慣病」といえるのです。

 しかしながら、最近までのわたしを含め、日本には「ガンは遺伝する」という誤解が蔓延(まんえん)しています。

 現役の医者ですら、勉強不足の者であれば、単純に今までの経験則から判断して、親がガンなら子供もガンの可能性大と考えがちです(そう考えて予防を心がけるのは良いのですが)。

 もちろん、一家そろってガンになる例は珍しくありませんが、父親が家の中でタバコを吸えば、まわりの者も受動喫煙を余儀なくされるために、本人だけでなく家族もガンになる可能性が高くなるのです。

 食事の嗜好も、父親の好みが塩分過多の味付けであれば、自然、家族で食べる食事も塩辛くなり発ガンの危険性は増します。

 また、戦前は皆無であった乳製品を現在ほど多量に摂取すれば、ホルモンバランスが崩れて親子そろって乳ガンになることは充分に考えられます。

 そもそも、日本人の2人にひとりはガンになるので、3人家族の全員がガンになるのは1/8で珍しくはありません。

 面白いのは、ハワイに移民した日本人の子孫が、二世、三世になるにしたがって、胃ガンが減って、乳ガンや前立腺ガンといった欧米型のガンが増えることです。

 ところが、ブラジルに移民すると、胃ガンは減らず、乳ガンや前立腺ガンも、さほど増えません。

 これはブラジルの食生活が欧米より日本に近いためだと考えられます。

 つまり、人種や遺伝より食生活の方が、ガンの発症に影響を与えるということです。

 家族が同じガンに罹るのは、子供の頃、身に馴染んだ食生活を、オトナになってからも続けている場合が多いからと考えられます。

 もうひとつ、ご存じのように、一卵性双生児は、理論上、まったく同じ遺伝子を持って生まれますが、同じガンになる確率は10%程度であることが分かっています。

 もし、ガンが遺伝病で、親から受けついだ遺伝子によって、どんなガンになるか決まっているのであれば、一卵性双生児には同じガンができるはずですが、そうではないのです。

 このようなことから、ガンは遺伝病でなく、生活習慣病であるといえるのです(肝臓ガンのようにウイルスによって発生する例外もあります)。


 あとひとつ、大きなガンの要因に、精神的なストレスによるものがあります。

 これについては、別項で書きますのでサワリだけを。

 ストレスを感じると、脳下垂体(のうかすいたい)の上の視床下部(ししょうかぶ)からCRH(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)というホルモンが出ます。

 これが脳下垂体からACTH(副腎皮質刺激ホルモン)を出させます。

 さらにACTHが副腎皮質に刺激を与えコルチゾールというホルモンを出します。

 簡単に書くと

ストレス→CRH→ACTH→コルチゾール

という順番にホルモンが出るのですね。

 コルチゾールは、もともとブドウ糖を作り出すきっかけになるホルモンですが、量が多いと血圧を高めて動脈硬化を促進させてしまいます。

 しかし、なによりいけないのは、コルチゾールが、NK細胞(上記)のはたらきを無効化してしまうことです。

 NK細胞にはコルチゾールの受容体があって、コルチゾールを受け止めることで、NK細胞が死んでしまうのです。

 さきに述べたように、NK細胞はガン細胞を小さいうちに除去する、最初にしてもっとも有効なガン予防の武器です。

 それが、ストレスで死んでしまうのですから大変です。

 われわれ日本人の多くは、神経質とされているA型血液なのですから、せめてストレス・フリーな生活を心がけて生きていきたいものですね。

 みなさんは大丈夫ですか?

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2009年2月 2日 (月)

左手だけのピアニスト

 ジストニアという病気をご存じだろうか?

 神経系の病気で、指などが、うまく動かなくなる疾患だ。

 一般の人が罹(かか)っても、非常に不自由な病気だと思うが、もし、指の動きが何より大切な人が罹患(りかん)したら、どうだろう。

 たとえば、ピアニストが指の動きを失ったら……

 音楽の発生に直接関係のない場所、たとえば目が不自由でも歌は歌えるしピアノを弾くことはできる。

 現実に盲目の歌手もピアニストも存在する。


 しかし、声帯が麻痺した声楽家、指の動かぬピアニストとなれば話はちがう。


 問題が発生した時点で音楽を続けることは難しくなるだろう。

 音楽評論あるいは理論へと転身しなければならないかも知れない。

 と、素人考えにおもっていた。


 ついこの間までは……


 しかしながら、新聞で、京都在住の女性が「左手だけのピアニスト」としてデビューするという記事を読んでその考えが変わった。

 彼女は、3年前にジストニアで右手中指がうまく動かなくなったのだという。

 そして、左手だけで演奏ができるように編曲されたバッハやショパンの曲に出会って、ピアニストとしての道を続けることを決意し、2007年にドイツ留学も経験したのだそうだ。


 片手で演奏するピアニストとしては、戦争で右腕を失ったオーストリアのパウル・ウイトゲンシュタインや脳梗塞で半身が不自由になった館野泉氏らが有名とのことだ。




 そういえば、横溝正史の「悪魔が来りて笛を吹く」では、フルートの演奏家が、戦争で欠損した指をもつ犯人を密かに指し示すために、その指を使わずに演奏できる「悪魔が来りて笛を吹く」というフルート曲を作曲していた。


 残念ながら、モノ知らずのため、わたしはプロのピアニストが片手で弾くピアノ曲というものを聴いたことがなかった。

 いちど聴いてみたいものだ……と思って探したらありました。

 amazonで視聴もできる↓。


 これを、ぜひ聴いて欲しい。

 そして、人間の潜在的な能力のすごさに、あらためて驚いて欲しい。


 日々起こる政治問題、刑事事件、独善的な行動などから、確かにヒトは愚かだと思ってしまうが、こうした個人の努力の結晶を目にすると(耳にすると)、それでも案外捨てたもんじゃないな、と希望を持たせてくれるから。


 私のおすすめ:
風のしるし-左手のためのピアノ作品集

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2009年2月 1日 (日)

デジタル化……え、全部代わるんですか?by 鳩山総務大臣



                      (銭ゲバ 第二回 オープニングより)

 立教大学の服部孝章(たかあき)教授が、このところ、テレビ画面の右上隅の「アナログ」常時表示↑に立腹していると新聞に書いていた。

 確かに、いつ始まったかは知らないが、あの表示は気になる。

 わたしが、ごく子供のころは、テレビがカラーに移行している時期で、テレビの隅に「カラー」と表示が出ることが多かった。

 時間の経過とともに、カラーの表示は、いつしか白黒放送時の時に表示される「白黒」にとって代わられていったが、今でもわたしの脳裏には、立体的に描かれた(というか、単に長方形の真ん中が内側にへこんだ)四角の枠の中、あまり上品とはいえないフォントで大きく書かれた「カラー」の文字がはっきりと残っている。

 「カラー」表示は、カラーテレビの普及とともに、自然に「白黒」へとバトンを渡し、消え去っていった。

 近頃では、モノクロ放送など皆無にひとしいので、古い映画作品などを放映するときは、番組の最初に「この作品は白黒作品です」と一時的に出るだけだ。


 そして、今、まったくの政府主導で、アナログからデジタルへと放送は無理やり移行しようとしている……

 と、ここまで書いて気づいた。

 以前の、モノクロからカラーへの移行期では、「カラー」表示は、番組の最初に表示されるだけだった。

 だが、今は、もう、嫌になるほど長く右隅に「アナログ」の文字が光り続けるのだ。
 (というか、ずっと見え続けていることも多い)

 時に番組録画の邪魔になるほどに。

 それほどまでに一般市民を急かせ、あせらせたいのか?


 前回のカラー化の時は、明らかに視聴者にとってメリットがあった。

 今回は、デジタル化して、何が便利になるかもはっきりと示さずに、好感度をあげるためか、女性アナウンサーに統一の服を着せて、笑止なパフォーマンスで、ただアナログ波の停止時期だけを繰り返しアナウンスさせている。

 皆さんはお気づきか?

 民放では、コマーシャル放送時に、決して「アナログ」が表示されないことを。


 ここで、わたしはみなさんに、以前、別項で書いた事柄をもう一度いっておきたい。

 民放の放送が「本当に流したい」のは、コマーシャルなのだ、と。

 一見、社会を啓蒙(けいもう)することが目的のように見える旅行番組も、クイズ番組も、連続ドラマも、すべては、コマーシャルを見せるための撒き餌に過ぎない。

 ほら、釣りの時に、あらかじめ、ざっと餌を捲いて魚を集めてから糸を垂れるでしょう。

 あれですよ。

 だから、大事なコマーシャルに傷をつける「アナログ」なんて言葉をいれるはずがない。


 でも、2011年完全デジタル化って本当にやるつもりだろうか?

 現実的に、あまりにデジタルテレビの普及が遅いので、政府主導で、メーカーに対して5000円程度の受信機を作るように指導されたのは昨年だったか?

 だが、いまだに、そういった廉価(れんか)なチューナーは出てこない。

 その理由として、デジタル著作権を守るためと称し、チューナーにB-CASと呼ばれるカード↓を挿さねばならないことがあげられる。





 カードは、暗号化されたデータを解読するのに必要だそうだが、その暗号を解くための回路を組み込まねばならないために、どうしても値段を安くできないのだ。

 B-CASについては、以前、友人がメールで情報を送ってくれたので、ちょっと古いが、ここに記載しておく。

 一度は廃止寸前だったのに↓

 さすがお役人のお声掛かり、現在では不死鳥のようによみがえっているようです。

 B−CASの基本を、ウイッキでもおさえておきましょう(ぐっもーにんみすたトクミツゥ!)。 
  http://ja.wikipedia.org/wiki/B-CAS

 こちらは、ちょっと面白いルポ↓。
  http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080625_bcas/



 とにかく、デジタル化したとたん、ハード的に録画も満足にできなくなる(そもそも金をかけないと普通に視聴できなくなるのが問題なのだが)。

 録画できたとしても、コンテンツの画質を落としてDVD−Rに記録しようとすると、メディアが「著作権保護対応の値段の高い、しかもDVD−RW(さらに高い)」でなければできない。

 まったく「視聴者の使いで」ではなく、放送側の都合だけで行われるのが、今回のデジタル化だ。


 うわさどおり、未曾有の経済恐慌を受けて、アメリカでは、来る2月17日の完全デジタル化が延期された(って、やっぱりアメリカの真似だったのね)。

 全米では、今なおアナログ放送しか受信できない世帯が15%あるといわれている。


 日本はどうするのかなぁ。

 まあ、あの首相じゃ、決断なんか無理だろうし。


 ここに、面白いコメントがあるので、最後に載せておきます。

(2008年12月9日衆議院総務会での鳩山邦夫総務大臣の発言)

「(デジタル放送移行が2011年)7月24日ということは知りませんでした。アナログが完全に停波するということも知りませんでした。何か一部残るんじゃないかと思っておったわけですね」

 こりゃだめだわ。

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