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2009年1月11日 (日)

「チームバチスタの崩壊」

 先日、小説「チームバチスタの崩壊」(受賞時タイトル、出版にあたり崩壊→栄光に変更された)を読了しました

 わたしが、最初にこの作品に触れたのはコミック喫茶でした。
 コミック化された同作(全一巻)が「話題書のコーナー」に置かれていたので、それを読んだのです。
コミックチームバチスタの栄光


 もう、かなり前のことです。

 それ以前に、書評で、原作が不定愁訴外来の講師が調査をする医療ミステリの雰囲気を持つ前半パートと、厚生労働省の役人白鳥が登場して一気に劇画化する後半パート(文庫では、その部分で上下二冊に分冊されているはず)に別れていて、「このミステリーがすごい」大賞を受賞するだけのことはある、というのも目にしていました。

 次に、友人に頼まれて録っていたテレビ・ドラマ版を観ました。
 最終回が終わるのを待って、年末イッキ観したのです。




 テレビ・ドラマ版に関しては、たしか最終回のひとつ前だった思いますが、某新聞系サイトで、ひどくけなされているのを読みました。

 評者は、一話のほとんどを会議室の会話に終始し、仲村トオル演じる白鳥がキレまくり、無意味なバラの予告が行われたことに立腹していたのです。

 確かに、視聴者の多くが女性であることも考えてか、脚本家に女性を配して書かれた脚本は「Dr.コトー」もかくやというほど、なみだ、ナミダのオンパレードでした。

 しかし、わたしは、なんとか整合をつけてよく書ききったと思っています。

 だいたい、原作とも映画とも違う犯人を、脚本の段階でイキナリ作り出せというのが無理なのです。
 詳細を調べていないので、原作者の海堂尊(かいどうたける)氏が絡んでいるかどうかは知らないのですが……

 ただ、最後の殺害方法は、残念ながらお粗末過ぎました。

 万年講師が、吊り上げた心臓を、メスが入る瞬間に少し持ち上げる?

 プロフェッショナルなら、術野がビデオ録りされていることは知っているはずですから、通常あり得ない行為です。

 しかも、アメリカで心臓移植した自分の娘を術死させたのではないかと、疑った挙げ句、それが目の異常によるものかどうか試すため手術中の患者を使って確かめるなんてあんまりです。

 前後の彼の言動から考えて、そういった突発的な異常行動に出ることは考えにくい。

 まして、彼の娘は術中死ではなく、拒絶反応による予後不良によって死んだのですから、素人でも、恨むべきは内科医であることは自明です。

 彼は医者なのですから、この点でもあり得ない。

 疑問を持てば、いくらでも他に検証する方法はあったはずなのですから。

 最近のライトノベルやその亜流のように、ジェットコースター展開のみを追いかけるハナシなら、登場人物がその性格を豹変させることはあり得ます。

 しかし、それではストーリーのしっかりした土台、モーメントの中心が失われライト過ぎるハナシになって、重みと深みが失われてしまいます。

「あービックリした。でも、ありえねーよな」ですね。

 録画され、ビデオ販売はあるものの、基本的に繰り返し観られないテレビには、常にそういった、大量生産・大量消費、タレ流しの「なしくずし」展開に陥る危険性があります。

 
 文芸評論家の川村湊氏がかつて書いた、「『物語の起伏』だけが身上のような物語を延々と展開する若手作家たちに『作家』としての苦行を見ているようで、痛ましく思える」という言葉を思い出します。

 ストーリーに起伏を持たせるために、手術室に置かれたバラというのもキツい。
 原作でも言及されていましたが、どんなに小さなものでも、何か異物がオペルームに入るということは、部屋に雑菌が増えるということです。

 ワケの分からない異物を患者のすぐそばに置くなんて考えられない。

 テレビだからいいんじゃない?という甘えがミエミエです。

 おそらく、時間もなく、予備調査もできず、少しだけタレ流しに対する甘えもあったのでしょう。

 そもそも、原作が売れ、映画化され、その後でテレビ化という流れに無理があったのでしょうね。

 キャスト等、豪華さでは映画にかなわない。(実はわたしは映画よりテレビのほうがキャストに好感が持てました)
 
 だから、キャッチフレーズが「誰も見たことのない犯人」になってしまい、脚本に無理が出たのです。



 次に映画版を観ました。



 最近は、ガリレオに影響された、いえ、実際はそれ以前からそうなのでしょうが、原作を無視して、ヒーローを長身・イケメンにする傾向が強いように思えます。

 そして重要人物のうち、どちらかを女性にする

 バチスタでも、原作の白鳥は、小太り・短躯ですが、映画では 長身痩躯の阿部寛ですし、主人公、狂言回しの田口講師は女性化しました。

 そのことに関して、文句はありません。

 かえって新鮮で良いと思います。

 きちんと物語を知りたければ、原作を読めば良いのですから。

 ただ、なんだか無意味なプロローグ(白鳥登場の)とエピローグのソフトボールのシーンに納得がいきませんでした。


 原作がラストで鮮やかに立ち上がるのは、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)だった、白鳥が残す手紙が端正で礼儀正しいものだからです。

 小説を書く者にとって、あの一文は「やられたぁ」と思うのですね。

 そして、白鳥という人物の深さを改めて知ることになる。


 まあ、原作では、その後の「ナイチンゲール〜」「ジェネラル〜」「イノセントゲリラ〜」で、白鳥があまり深くない人物だと露呈(ろてい)されてしまうのですが(実は、調子にのって、4冊イッキに読んでしまいました)。


 原作に関しては、特に書くことはありません。

 ただ、ああいった、象牙の塔(って死語?)における、権謀術数(けんぼうじゅっすう:あー、あの首相に読ませたい)にまみれたハナシは、いまひとつ、わたしには合いませんでした。

 いま、世は未曾有(みぞう)の不況と、空前の健康ブームとも言われていますから、医学小説から某(なにがし)かの情報をくみ取りたい、と、人々が医者の書いた小説を読みたがるのはわかります。

 「読者にわかりやすく知識を与える」のも小説の役目だと思いますから。

 ならば、上記「権謀術数小説」も、人々へ権力闘争における身の処し方を教えているのでしょうか?

 その点では、海堂氏は少し人の動かし方に慣れていないように感じました。

 まあ、医者なんですからあたりまえでしょうが。

 おそらく、みなさん感じておられるように、現実社会に、3をインプットすれば、常に2をかけて6になって出てくるような単純な人は少なくはありませんが、そうでない人の方が多いのです。

 だから、人生に悩みはつきず、おかしみも面白みもダイゴミもある。

 ですが、作家は、そういった人間関係を小説にする時、どうしてもわかりやすくするために、単純化した配役を多くしてしまうのです。

 つまり、ステレオタイプの人物を増やしてしまう。

 上昇志向が強く、口が軽く、保守的で、オロカモノといった人物です。
 あるいは、自己中心的で、妬みそねみが強く、感情的。

 そうすることで「人間関係に起伏ができる」という側面はあるのですが、全体に新鮮さと、しまりがなくなる危険があります。

 書く方からいえば、そういった、口の軽い愚か者を使って、物語を語らせ(つまりハナシを簡単に先に進めさせ)、もっと嫌らしく書けば、ページをかせぐことができる。

 怖ろしいのは(書く側からみて)、ストーリーをどんどんススメるために、人を我田引水(がでんいんすい)に、都合よく動かしてしまうことです。

 前にどこかで書きましたが、敵、あるいは周りの人物の愚かさによって、主人公に勝利させてはいけません。

 犯人もスゴイ、周りもスゴイ、その中であがいて、流れ星をつかむような僥倖(ぎょうこう)に救われて、やっと主人公が勝つ。

 物語は、そうあって欲しいのですね。

 自分にはできないことなので、つい、他の作家たちに期待してしまいます。


 「特にない」といいながら、もうひとつ書いてしまいますが、主人公田口の性格が良く見えないのも気になります。

 どうして、ああいった、人生を斜(はす)に構え、研究を嫌がり出世を拒む、しかしながら医学(大学病院)に執着する性格ができたのか。

 その説明が為されていません。

 伏線なのか、とも思いましたが、続編を読んでも、はっきりした説明がないので、そうではなさそうです。

 が、書き手として分析すれば簡単です。

 主人公は作者の分身。まして処女作ならば、まったく作家の身替わりといっていい。

 つまり、海堂氏の経歴と経験が田口公平の生い立ちです。

 願わくば、それを少し脚色して、小説中に書き出して欲しいものです。

 主人公のよりどころがわからないと読者は安定しませんから。



 あと、これは好みの問題でしょうが、海堂氏の文章は少し読みにくい。

 体言止めと逆接を多用(って、小林秀雄じゃないでしょうに)し、ちょっと女性的なメタファー(隠喩)が多いので、ちょっとわたしのセンスとは合わないのですね。

 こういった表現上のクセは、「このミス」選評でも書かれていましたが、今後、書き続けることで、改善はされていくでしょう。
 
 と思ったのですが、その傾向は、続編、続続編と続くにしたがって、ひどくなっています。

 おそらく、書くために費やした時間が短くなっているのでしょうが、やはり無名の新人が受賞を目指して練った「バチスタ」と、他の続編群では密度が違うような気がします。

 もともと 海堂氏は、院内における死亡時病理解剖を推進させるのが目的で、「バチスタ」を書いたのだと聞いています。

 だからなのか、続編の「ナイチンゲールの沈黙」では焦点でもブレを感じました。


 犯行方法とそのアリバイ、そして犯行後の犯人の心理状態にも、かなり疑問が残ります。

 長くなり過ぎました。続きはまた別項で書きます。

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