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2008年12月16日 (火)

イマドキの子供たちとかけて「便利なチーズ」とときます。そのココロは「最初からキレてます」

 辰巳 渚という人をご存じだろうか?

 2000年に彼女が書いた「『捨てる』技術」は100万部を超えるベストセラーとなった。
 目にされた方、読まれた方も多いだろう。

 その彼女は、家庭にあって、10才の長男と4才の長女に家事の手伝いをさせているという。
 子供に手伝いをさせるのは、「家事は生きていくための読み書き能力」だと考えているからだそうだ。
 (以前別項で書いた「リテラシー」ですね。「生命リテラシー」とでもいいましょうか) 

「『捨てる』技術」のヒット以降、彼女は「本当に豊かな暮らし」を追求し始めた。

 そしてたどり着いたのが「家事力」だった。11月から「家事塾」も始めたそうだ。

 20代後半に人間関係のストレスからうつ状態になった彼女は、家事をすることで、本来の自分を取り戻したのだ。

 無心に床を磨き、食事を作るうちに「生きている実感」を取り戻した。

 「家事は落ち込んだ人をニュートラルに戻す力がある

 それこそが、彼女のいう「家事力」なのだろう。

 確かに、彼女がいうように、戦後の家事の歴史は、「手抜きとアウトソーシング」の繰り返し。
 「噴出する社会のゆがみの根底には、家事力の低下がある」

 彼女の意見は、ある意味、正鵠(せいこく)を射ていると思う。

 掃除をし、生活環境を整え、自分の食べるものを自分で用意する。

 「食べる」とはつまり「生きる」ことである。

 幼い頃から、食べる作業を人まかせにさせていては、子供の心にゆがみが生じることもあるだろう。

 わたしも、外食はあまりしないし、家には電子レンジもない。
 なにかを暖めるときは、だいたい蒸し器を使うし、そうでなければ、コールマンの折りたたみオーブンを使う。時たまダッチオーブンも。(ダッチオーブンを使った料理についてはまた別項で)

 べつに、何かイズムがあってそうしているのではない(電磁波は好きではないが)。
 アウトドアでの暮らしを日常でしているだけだ。


 ちなみにネイティブ・アメリカン(だったはず)の言葉でわたしが好きなのは「目に見えないものを信じるな」です。


 ブンガクセイネンたちの好きな形而上ではない、生物的な意味の「生きる」ことにダイレクトに接続している「家事」が、いまの世に大切だという氏の言葉には重みがある。



 次に……

 辰巳氏と同年代の教育研究者に鈴木信一氏がいる。彼は、まさしく「鈴木先生」だ(分かる人だけ笑って)


 彼の著作である、祥伝社の「800字を書く力」は、わたしの大好きな本で、まるで自分で書いているかのように「我が意を得たり」の内容が並び続けるのを、少々気味悪く思ったほどだったが、その序章で、氏は「言葉はなぜ必要か」というすばらしい論を展開している。


 そこでは、ずっとわたしが思い続けてきたことが、わかりやすく記述されている。
 鈴木氏はわたしの手帳を盗み見たんじゃないだろうね。

 氏の慧眼(けいがん)を、わたしゴトキの言葉で変形させて紹介しては申し訳ない。

 というわけで、以下、ちょっと長いけど引用します。




 意思や情報を伝達する──。言葉の働きをそう考える人は多いはずです。
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 しかし、コミュニケーションの道具という以外に、言葉にはもうひとつ重要な働きがあります。世界を認識する”窓口”としての働きです。
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 ことばという<窓>を手に入れてはじめて、世界認識が可能になる。人間とはそういう生き物です。言葉を手に入れなければ、視力がよくても世界はいっこうに見えてこないのです。
 国語を勉強し、本を読むわけはここにあります。言葉を身につけ、さまざまな言語表現に触れながら、世界をよりこまやかに見る<認識の目>を養って欲しい。
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今、「世界」と言いましたが、これは外的世界には限りません。内的世界、すなわちココロや生理をも含みます。
 たとえば、幼児にはじめてプリンを食べさせたとします。するとどうなるか。その子は落ち着かなくなります。
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 たとえそれが快感でも、人は未知の感覚には戸惑うものなのです。暴れ出す子だっているかもしれません。
 言葉という<窓>を得てはじめて世界は見えてくると言いました。そうです。プリンを与えたら「おいしいね」あるいは「甘いね」という言葉を同時に与えなくてはなりません。
「おいしいね」や「甘いね」という言葉をもらってはじめて幼児は未知の感覚の正体を知り、ひいては心の安定を取り戻すのです。

 いまの若者は「むかつく」という言葉でしか内面を表現できない、とは昨今よく言われます。これのどこが問題か、もうおわかりでしょう。言葉が不足していれば、渦巻く感情を理解し処理することを、その本人が十分な形でできなくなるのです。本当は「せつない」のに「むかつく」と言ってしまう。本当は「けだるい」のに「むかつく」で済ましてしまう。複雑で繊細な心を、これでは自分の中にうまく組み込むことができません。心は居場所を失い、不安定になります。結果、どうなるのか。その子は暴力に走ります。心の不調や生理の不調を訴えるようにもなるのです。



 以上、鈴木信一著「800字を書く力」序文より抜粋です。-------------は、申し訳ありませんが、わたしの独断で中略させてもらった箇所です。



 上で、氏の言わんとすることはひとつ。

 語彙の不足が気持ちを鬱屈させ、心中に溜まり、暴力を生むこともあるのだ、ということです。



 職人さんっていますね。飾り職人は「仕事人」のヒデですが、下駄職人とか漆塗りの職人とか。

 江戸時代、彼らは日がな一日、仕事場にこもって寡黙(かもく)に仕事をしていました。

 好きな仕事、あるいは得意な作業を、人との煩わしい関わりもなく、自分の能力と向き合っての仕事です。

 これはある種、家事力に通じるところがあるのではないでしょうか。無心に仕事をする、という点で。


 ですが、現在は知らず、江戸時代のそういった居職(いじょく:働きに出ず、家で仕事をする)の職人は、そもそも親や親方から学問を否定され勉強を許されず、ボキャブラリが不足するものが多かったことでしょう。


 やがて彼らが結婚し家庭を持つ。必然的に妻との会話が必要になります。

 だが、彼らは自分の心中を、言葉にする語彙を持たない。

 作業をしている間は、動く指先、滑る刷毛が饒舌に気持ちを表している。

 だが、いったん、妻と向かい合うと、気持ちが言葉にならない。言いたいことは心中に渦巻いている。

 だから、つい手が出てしまう。いわゆるDV状態になる。


 ああ、いや、もちろん、わたしは職人を否定しているわけではありません。
 誤解の無いようにお願いします。
 つい、自分が描く、時代物の職人キャラクタのような気になって話を作ってしまいました。



 ところで、鈴木氏のいう、語彙の不足しがちな現代の若者は、自分たちの気持ちをどう処理しているのでしょう。


 個人的な意見として聞いて欲しいのですが、わたしは彼らの多くが、若者むけの音楽、とくに歌に気持ちを同化させ、感情を発散させているような気がします。

 簡単で、ありがちな歌詞と、気分にあったメロディライン。

 それが、鈴木氏のいう「ボキャブラリの不足している子供たち」の感情表現ではないか、と。


 そう考えると、ずっと音楽を聴き続ける子供たちの姿にも納得がいきます。


 恥ずかしながら、わたしは、自分が音楽でメシを食っているのに、普段、音楽をあまり聴きません。

 昔は四六時中、語学テープを聴いていましたが、いまはイヤフォンは嫌フォン状態って、完全にオヤジギャグだなこりゃ。


 だから、外出すると、皆が一様に耳にイヤフォンをつけているのが少々異常に見えます。

 車に乗るときも、わたしが聴くのはエンジン音と排気音のみです。

 電車の中などで、精神的バリアを音楽によって作るのはわかるのですが、自転車に乗りながらでさえ、音楽を聴く神経がわからない。

 だいたい危ないじゃないの。耳の穴をあけろ!


 しかし、彼らの聴く音楽を、少ない語彙を補完しつつ内在するキモチの代弁者としてのリスニング、と考えれば納得がいきます。

 歌によって、自分の中の形にならない感情を固定化している、とでもいえばよいのでしょうか。

(さっき書き足したら5000字超えました。次回に続けます)


 私のおすすめ:
800字を書く力 (祥伝社新書) (祥伝社新書 102)

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