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2008年11月21日 (金)

ふたりの女にひとりの男2 〜ベクシル〜 


 もちろん、CGによる造形の美しさには好き嫌いがあるだろう。

 おそらく、わたしはこういった硬質な美しさが好きなのだ。

 前にも書いたが、わたしの考えでは、女性は可愛さ美しさ綺麗になれる。

 そして、これも私見に過ぎないが、たとえどんな者でも、特別の角度、ある一瞬には美しくなれるものだ。

 それを切り取るのが、グラビアカメラマンの腕だ。
 何百枚もカットを撮ってね。

 そういう表情を比較的多く生み出せる者を、ひとは美しいと呼ぶのだ。

 だからこそ、誤解を恐れずに書けば、100000の表情のうち、ひとつしか、そんなタイミングをとりえないモデルや山だしのネェちゃん、ニィちゃんをドラマの主人公にして、可愛い、カッコイイと持ち上げるのはもうやめて欲しい。

 もちろん、役柄を役者に投影して、理想のアニキ、理想の上司、はては理想の恋人と考えるのは視聴者の権利でもあると思うが、演技すら身に付いていないことも多い彼らの多くは表情でココロを語ることができず、セリフの多用でごまかそうとする(いや、演出家がそうせざるを得なくなるのだ)。

 それゆえか、最近のドラマ自体、怒声の応酬でうるさくてかなわない(ほとんどみないけど)。


 ベクシル、そしてこれに先立つアップルシードもそうだが、CGヒロインたちの多くは寡黙だ。静かすぎるくらい。

 本来なら、ツクリモノの画をごまかすためにこそ生声を多用すべきところを、あえて、言葉を廃し、表情でココロを現そうとしている。


 生身の人間のドラマでは、その者たちの能力もさることながら、何度もダメ出しすると、役者がスネたりエージェントが苦情をいうことがある。とくにハリウッドでは。

 CGによる造形ならそんな心配はない。何度でも、制作者の納得がいくまで、つくりなおし、演技させることができる。

 だから、彼女たちは寡黙で良い演技ができるのだ。

 そして、あたりまえだが、どの角度から見ても美しい。

 「ファイナル・ファンタジー」では、あえてヒロインに醜い部分も与えて、人間らしさを出そうとしていたが、「アップルシード」も「ベクシル」もそんなまどろっこしいことはしていない。

 全開で、美しさを前に押しだそうとしている。

 その勢いは、顔を非対称にすることすら忘れているように見える。
 ご存じのように、人の顔は絶対に非対称であるから、リアル感出したければ、CGもそうすべきなのだが、ベクシルはそうしていない(たぶん)。

 まるで(顔もスタイルも)完璧な人形が話し闘っているようだ。

 ベクシルのすこし吊り上がった驚くほど大きく青い瞳、そしてマリアの鳶色の瞳も吸い込まれるように美しく、精神的な強さすら感じる。

 これで、可愛さが出てたら綺麗な女性の造形になれたのに、残念だ。

 そう、個人的には、まだこれらの造形は、綺麗なところまではいっていない。
 美しいどまり、だ。


 しかし、間違いなく、この映画のヒロインたち、特にマリアはカッコイイ女性だ(やっとテーマにきた!)。

 すっごく恥ずかしいベタな表現をすれば、闘う博多人形。クール・ビューティの具現化がマリアだ。


 えーい。もうここで、ネタバラししてしまうと、鎖国10年で、日本民族は壊滅していたのだ。

 10年前の鎖国直後に、日本を牛耳る世界企業大和(ダイワ)が国民を騙して、全員に人の細胞をナノレベルで生体金属に変えてしまう「サイバーウイルス」を注射し、ニンゲンの日本人はいなくなった。

 民族壊滅……よくやるよ。

 むろん、マリアも同様。撃たれればオイルのように黒い血が流れる。

 だからといって、身体能力は生身のままなのだから、どうしようもない。
 ダイワは、研究データが欲しくて人体実験をしただけなのだ。

 人々は、人間性を無くしてはじめて、ものを食べる必要がなくなってはじめて、昭和30年代のような世界、屋台で焼き鳥を食べつつ口論するような生活を演じているわけだ。

 やがて、壊滅したと思われたSwordで、レオンだけが生き残り囚われていることがわかる。

 同時にマリアたちは、世界に実験を広げようとするダイワの野望を潰すべく、東京湾上に作られたダイワの巨大プラントを破壊するミッションに入る。


 彼女たちに残された時間は少ないのだ。
 マリアたちは、徐々に体を生体金属に置換され、最後に脳の重要部分が置き換えられると、感情を失いダイワの木偶(デク)、あやつり人形と化してしまうからだ。

 レオンの無事を聞いた時の、ベクシルの喜ぶ顔を見るマリアの表情がイイ!

 彼女は、ベクシルが現在のレオンの何であるかをそれで知るのだ。

 だが、彼女は気持ちを安易に言葉にはしない

 よく、「言わなければ伝わらない」という標語を、何でも発言するヨリドコロにする風潮があるが、わたしは反対だ。

 言葉は不完全だからだ。

 よしんば、その標語を使うにしても、ハラの中には、必ず「言葉にするとウソになる(あるいは変質してしまう)こともある」という裏標語をセットにもっていなければならない。

 それをしないから、昨今は、ギャアギャア自己主張ばかりする思慮浅きモノであふれてしまうようになってしまったのだ。(もちろん私見です)


 やがて、ベクシルもマリアの体の秘密と、彼女がレオンのかつての恋人であることを知る。

 その時のベクシルの表情もイイ!

 ああ、この人にはとてもかわない。ひょっとしたら、ワタシは、この人のデキの悪いミガワリでしかなかったのではないか、いやきっとそうだ……

 彼女のそんな気持ちがダイレクトに伝わってくる。

 だが、マリアはもうヒトではないのだ。

 このふたりの「本質のよく似た」イイオンナにはさまれて、イロ男レオンのなんと存在感のない薄っぺらさであることか。怪我してフラフラだし。

 二人から愛された、ボルサリーノのローラ、冒険者たちのレティシアの魅力ぶりに比べて情けないかぎりだ。

 まあ、ふたりの異性から愛されてより魅力的になるのが女性で、エネルギーを吸い取られてちょっと元気なくなってしまうのが男っていう分け方もアリかな。


 ともかく、カッコイイ女たちを観たければ、ぜひ「ベクシル」を観てください。

 ちょいヲタク視点からいえば、彼女たちが、ダイワ本部に突入するときに使うワザ、あの板野一郎も泣いて喜ぶそのワザは、アニメファンにはぜひ観てもらいたい

 観終わってちょっと悲しいのが難ですけどね。

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