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2008年11月18日 (火)

才能への畏怖

 仕事柄、お客さんの歌詞の添削をすることがある。

 自分で歌の作詞もする(仕事で)。
 小説も、まあ少しは書く。

 思うに、それは、おそらく、それらの分野で、わたしがほんとうに恐ろしいと思える才能に出会ったことがないからだろう。

 ブログで雑文書きをするのもそうだ。

 エッセイに関しては、東海林さだお氏が、かなり怖いが、なんとか自分を騙して書くことができる。


 だが、わたしが、ああ、これほどおそろしい才能が存在するのだから、とてもこの世界に足は踏み込めない、と畏怖する分野がひとつある。


 それは歌の世界だ。それも現代の。

 はじめて、この歌を詠んだとき、頭をなぐられたように感じた。


 いや、もっと正確にいうと、句のイメージ、爽やかさ、色、そして風の匂いまで感じつつ、同時に、頭をなぐられたようなショックを受けたのだ。これはもう致命的だ。

 そして、さらに同時に、こんな歌を詠める人物がいる(いた)世界には、とても足を踏み入れられない、と心底怖くなってしまった。


 同工異曲はできても、違う言葉で同様の歌は、とてもできそうに思えなかったからだ。


 その歌は、おそらく、みなさんもご存じだろう。




  海を知らぬ 少女の前に 麦わら帽の 我は両手を ひろげていたり




 寺山修司の作品だ。
 五七の定型なんてシバリは、この歌の前ではフッとんでしまう。


 これは「なんだ、やっぱり天才っていたんじゃないの」とあっさり分かってしまう作品だ。



 わたしは冬が好きで、夏はあまり好きではない。

 だから、夏を代表するアイテムの麦わら帽も嫌いだ。

 そのわたしが、この句を目にしたとたん、

 夏の強い日差し、その結果としての真っ黒な影、熱い風、麦わら棒で出来た少年の顔の上の影、おそらくリボンのついた日よけ帽を被って、薄手の白いワンピースを着た少女の前で、右手に昆虫網を、肩からは採集箱を斜めにかけた少年が、する必要もないのに、背伸びまでして海の大きさを語っている光景が、鮮やかに頭に突き刺さったのだから、もう脱帽するほかない。


 歌を口ずさんで泣いたのは、これが初めてだったよ。本当に。

 と、同時に、恐ろしさ同様、すばらしい可能性を歌というものに感じたのだった。

 全世界の歌を詠む人々よ。
 こういった作品を前に、まだ歌を詠むあなたたちの勇気に、わたしは頭が下がる。

 いつか、わたしがもっとトシをとり、「敵わないまでも、とにかく歌を詠みたい」という気持ちになれば、行った先々、四季の折々で歌を詠むことができるだろう。

 だが、まだまだ、そんな枯れた気持ちには、なれそうにない。


 浅学非才の身なれど、小説でこんな気持ちになったことは、残念ながら未だに一度もないなぁ。

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