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2008年11月19日 (水)

ブログを書くということ

 物を書く、ということは、概(おおむ)ね孤独な作業だ。

 雑誌などの紙媒体に書くのはもちろん、ブログを書く時でさえ書いている間は孤独だ。

 もちろん、わたしなどと違って、人気のあるブログは、書けば、すぐにコメントが書きこまれ、レスポンスがあるぶんマシではあるが、やはり書いている間は孤独だろう。


 かつて、パソコン通信(ってトシがバレるね!)の電子会議室で、人々が文章を通じて意見を交換し始めたとき、顕在化(けんざいか)、表に現れてきたことがある。

 それは、人によっては「文章を書くときに別人格になってしまう者が存在する」ということだった。

 それまでは、紙媒体で編集者などの検閲?が入っていたため、表だっていなかったのが、個人が勝手に文章を発表できるようになって、問題がはっきりしてしまったのだ。

 そういった人々は、文章を書いているうちに、どんどん自分ひとりでエキサイトしはじめ、文章が過激になり、とうとう他人の不興を買ってしまいケンカを引き起こすのが常だった。

 面白いのは、そういった人々、エキサイティング・ライターとでも呼ぼうか、がオフ会に現れると、そのほとんどが、ネットの印象とまったく違う、穏やかな人物であることだ。

 つまり、自分と向き合って孤独に文を書く、という作業は、事ほどさように、自らをさらす恐ろしい作業なのですね。

 わたしなども、自分の意見に自信が無いものだから、ことさら高飛車に〜なのだ!などという文体を多用することがあるので、常に自戒するようにしています。

 どれほど効果があるかは疑問ですが。


 いや、今回、書きたいのは、実はそんなことではありません。


 ここからが本題。

 わたしは、もっぱら本や新聞などの紙媒体を読んで、あまり他の人のブログを見ないのですが、先日、寺山修司の句の評価がどれぐらいなのか見てみようと、ネットで調べてみたところ、あるブログにいきあたりました。

 それは、ネカマでなければ、ある女性が書いているブログで、訪問者数をみる限り結構人気のあるところのようでした。

 副題には「おちゃらけ社会派」とついています。

 わたしなどと違い、現代社会について、日々、色々と考察中のようで、毎日のように、社会現象・政治について長大なブログを綴っています。

 それに、どれだけのエネルギーが必要かを、わずかながらも知っているわたしとしては、大したものだと感心しました。

 が、何かがおかしい。
 
 もちろん、仏教史観を根底に、無常とあわれみで世の中をとらえるよう努力しているわたし(え、そんなふうには見えなかった?今度ゆっくり話しましょう)と、唯物史観というか、米流プラグマティズムを根底に世相を斬る彼女とは相容れるわけはない。

 だから、彼女が、今、生きる自分と人々に対する現世利益について、不公平をブチあげるのは仕方がないことだと思う。


 わたしにとっては、権力者も弱者も、そしてわたしもあなたも、同様に哀れに思えて仕方がないのだ。

 我が尊敬する東海林さだお氏は、温泉でタオルをぶら下げて大浴場に入ろうとして、ふと入り口横の大鏡にうつった、素っ裸の自分をみて、「ああ、なんとあわれな自分よ」と嘆かれていたが、けだし名言である。

 女性の体のように美しい曲線もなく、醜い男が裸でタオルをぶら下げて立っていたら、それは哀れ以外のナニモノでもないじゃないの。

 まあ、人の哀れさについての考え方はともかくとして。


 どういえばいいのか、読んでいるうちに、なんとも嫌な気持ちになるのですね。そのブログ。

 なぜなんだろう、と、知り合い何人かに読ませると、そのうちのひとりがいいました。
「どれぐらい自分がエライと思ってるんだろうね、この人」

 いわれて気づいた。

 確かに、客観的に読むと、紋切り型の断定調で偉そうに見える!

 自分と同じような書き方なので、気がつかなかったのだ。こわいなぁ。

 つまり、始めに書いた「エキサイティング・ライター」のように、書くうちに、どんどん自分の中で煮詰まって、自己完結しながら文章を我田引水的に練り上げていってるんでしょうね。

 おそらく、会って話をすれば、おとなしい人なんだろうけど、文章は、確かに偉そうでした。改めて読むとわかった。

 あー自戒せねば。

 その昔、岸田秀という人の書いた「きまぐれ精神分析」シリーズが一世を風靡したことがあった。

 わたしも中学だったか、高校だったかで読んだが、後に、サイエンス・ライターの鹿野司氏がこの本をさして「使える本だったからあれほどヒットしたのだ」と書いているのをみて、大きく頷いた覚えがある。

 つまり、この本の中で、わかりやすく、使いやすくパッケージ化された精神分析の言葉は、友だちとの会話で、自分を大きく見せるために、ひどく「使える」文章なのですね。

 興味がおありでしたら、ぜひご一読ください。

 で、その女性のブログのコメントを読むと、多くの、おそらく若者たちが「あなたの意見を自分のモノみたいに使わせてもらってます」などと書いている訳です。

 くだんの女性も、そんなふうに使われるのは嬉しい、と答えています。

 つまり、彼女は、時事の話題のパッケージ化をおこなっているのだな。「きまぐれ〜」のように。

 それもそれでいいでしょう。

 だが、問題なのは、彼女の文章の、というか、その文章作成の根底にあるものです。

 そして、このことは、おそらく、今後、多くのコンテンツ作成の問題と議論のテーマになっていくものと思われます。

 かつて、役人が作った報告書の多くの部分が、出所真偽のほどもサダかではない、ウィキペディアの引用で占められていて問題になりました。

 ネットで検索し、ヒットしたものの中で、自分のセンスにあったものを集めて、文章を組み立てていく。

 そうすれば文章は容易に組み立てられます。自分は、触媒、フィルターなのだ、と納得しながらね。


 以前、といっても10年以上前だが、立花隆が「インターネットは素晴らしい、世界の革命だよ」と熱っぽく語り、大学教授から「そりゃあなたは、ジャーナリストだからねぇ」といなされていたことがあった。

 このあたり、うっかりすると聞き流すようなことだが、ここには重大なテーマを含んでいるようにわたしには思える。


 誤解を恐れずいえば、ジャーナリストは、いわば、バックに大きなものを持たぬ、根無し草的な思想家、理論家、告発者であることが多い。

 だから、必然的に、強固な理論武装が必要になる。

 それは、言い換えれば、とにかく知らねばならない、ということだ。

 突っ込まれて、知りませんでした、では通らない。

 だからこそ、情報の総体(知識の、じゃないよ。それが問題なのだ)である、インターネットが宝物のように見える。

 それが分かるから、学者先生は立花のはしゃぎぶりがおかしかったのだろう。

 どっちが良いとも思えないが。

閑話休題

 内容から察するに、先の女性のブログのニュース・ソースは、そのほとんどがネットから取り入れたものだ(たまにある自身の海外の体験などは中身が詰まっていて面白い)。

 先に書いたように、あるキーワードでgoogle検索をかけて、自分のベクトルにあう情報をよりわけ、自分の考えをさらに強化するといった手法で彼女は話を紡いでいく。理論武装しながら。

 まあ、そうでもしないと、連日のように、原稿用紙10〜20枚程度の話を書き続けることはできないだろうが……

 それで思い出した、かつて、あのホリエモンが、「マスコミ、とくに新聞社なんていらないよ。だってネットがあるもん」などと発言して物議をかもしたことがあった。

 多分に、彼一流の諧謔(かいぎゃく)も入っていて、愚かなマスコミウケを狙った発言でもあろうが、これはまったく正しくない。

 ニュースは、それ自体、ネットに自動登録されるものではないからだ。

 もし、ある事件があって、それを目撃した者がネットにアップしたとしても、そういった無記名、無責任なソースは信用できない。信用できない情報はクズと同じだ。

 あるいは、もっと悪く、誰かの利益を狙った、「ためにする」恣意的(しいてき)な情報であるかもしれない。知らずにそれをつかえば、悪事に荷担することになるのだ。オソロシイ。

 もし、ホリエがそんなことすら気づかぬネットジャンキーであったなら、とんだお笑いグサだが、ブログを書いている彼女にも、多分にそういった危うい点が見受けられる。

 そういえば、過去のログで、彼女はホリエモン讃歌をしていたな。


 上のことは、わたしの想像だから、はっきりとはいえないが、なにより恐ろしいと思ったのは、彼女がgoogleを全面とはいえないまでも、かなり高レベルに信頼していることだ。

 その傍証として、 たとえば彼女はこんなことを書いている。

「ひとつの事件が起きた時にそれに関するすべてのサイトをまとめて表示するようなニュースサイトを、遠くない未来にグーグルかどこかが立ち上げてくれると信じてる」

あるいは、
「そしてグーグルみたいなところが、それに関する情報を(上記に書いたニュースサイトのイメージで)集めてくる。議論サイトができあがる、みたいな」

 ネットに多少でも詳しい者ならば、いちワタクシ企業に過ぎぬ、利益追求団体のgoogleが、曲がりなりにも、公正に仕事を行っているとは思わないだろう。

 彼らの検索優先順位が、不明瞭で、何らかの恣意が含まれてる可能性が大きいことは誰でも知っていることだ。

 また、技術的にも、googleの不完全な翻訳エンジンで、簡単な英訳すらむちゃくちゃに訳されることもご存じだろう。
 (誰かが故意に間違った訳を正しいと認定すれば、以後、それが使われるためらしい)

 もう一度書くが、ただの私企業にすぎないgoogleを、自分の思想の杖にしてはいけない。

 それが、大人の判断というものだ。

 わたしは、別に、この女性を個人的に攻撃するものではない。

 こういった形態でブログを書いている者は多いだろうから、それを案じているのだ。

 考えてもみたまえ。

 他人のブログあるいはウイキペディア>自分のブログ>自分の意見として友達に話す>聞いたはなしと他人のブログあるいはウイキ>自分のブログ>自分の意見として……

 こういった無意味な無限ループができているとしたら恐ろしいことだ。


 かつて、マンガを描く者は、先輩に、「マンガだけを読んで、マンガを描くな」と教えられた。

 小説もしかり。「小説を書くのに、小説のみをソースとして書くな」である。
 少なくとも、3つ以上の資料を使って書くべきだ。

 まあ、今の若い漫画家やライトのベルの作者の中には、漫画やライトノベルだけを読んで書いている者がいるかもしれない。あるいは、ケータイショーセツしか読まずにケータイショーセツを書いている者も。


 ブログに、上記を当てはめれば、こういうことだ。

 「ブログとネットの寄せ集め」でブログを書くな


 そこには、根底となるどっしりとした土台がない。

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