« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月30日 (日)

道具の本質

 ナイフってありますね。皆さんは、ナイフと聞くといったいどんな印象を受けます?
 刺したり、傷つけたり、やっぱり犯罪を連想してしまいますか。
 
 子供の頃からボーイスカウトに入隊させられ、ロープを切ったり、コッフェルでご飯を炊くために立ちカマドを作ったりさせられされたので、わたしはナイフを日常的に使っていました。
 
 アウトドア生活において、テントにシュラフ(寝袋)、ライトにロープとナイフは、ごくありふれたアイテムなのです。

 ですから、子供の頃のわたしは、誰もがナイフをヒップポケットに入れて持ち歩いていると思っていました。
 
 田舎なのに、いや田舎だからか、いくつかある市内のスポーツ店はアウトドア用品が充実していて、わたしは中学になると安物ながら刃渡り10センチほどのジャック・ナイフを何本も持つようになりました。
 
 自然、研ぎ方も覚えます。
 
 普段、あまり話すことのなかった父から古い肥後守(ヒゴノカミ)を譲られたのも、その頃のことです。

 あ、肥後守って知ってますよね?
 刃先固定用のスプリングも何もない、刃渡り6センチほどの折りたたみ小刀です。
 戦前の子供たちは、みんなこれを持っていて鉛筆などを削っていたそうです。
 わたしも、筆箱にいれていましたが、ロック機構もなにもない単純な構造ですから、よく筆箱の中で半開きになっていました。
 今なら、学校に小なりとはいえナイフを持っていくのは問題でしょうが、当時は別に何ともありませんでした。
 
 肥後守といえば……

 ナイフっていろんな種類がありますね。
 ランボーが持っていたゴッツイやつから、チャイルド・プレイのチャッキーが持っていたミニ・ナイフまで。あれ、チャッキーのは、クッキングナイフ、包丁だったかな?
 
 特に、ランボーが使っていたナイフ、あれって今、通称「ランボーナイフ」と呼ばれてるんですねぇ。
 
 狩の習慣がほとんどない日本では、大型のナイフは、ほとんど使い道はありませんね。法的にも申請が必要になりますし。

 だからこそ、ああいった大型ナイフのイメージは、犯罪に直結したものになってしまう。
 先日の官僚殺しの犯人も、大型のダガーナイフを使っていましたね。
 その前の秋葉原でもダガーナイフが使われ、今、あらたな法的規制が検討されているところのようです。 

 それで思い出した。
 あの事件に関して、評論家が、ダガーナイフをガダーナイフと言っているのを聞いて、ああ、この人はロールプレイング・ゲームをやってないんだな、と思いました。
 中世もののRPGをやってたら、ダガーナイフやソード、パイクやレイピアなどの武器単語はなじみのものですから。
 
 わたしは、子供の頃からナイフを使ってきましたが、刃先を人に向けたことは一度もありません。
 というか、そんなことは想像もできない。
 改めて自分に問いかけてみましたが、これは本当です。

 逆説のように聞こえますが、ナイフは切れる方が安全です。
 切れないナイフは、木を削ったりスプーンを作ったりする時、変に力が入ってかえって危ないのです。
 だから、わたしはいつも切れ味の良いナイフを持っている。
 だからこそ、何かを削る時でも、その方向に人がいると使えないのですね。
 
 ナイフを道具としてきっちり使い込めば、それをもう武器としては使えないと思うのです。
 よほどの緊急事態でないと。
 熊におそわれたりね。それでも使いたくないなぁ。
 
 だから、きっと、日本で、大型ナイフを殺傷の道具にする者は、普段ナイフを鑑賞用に持っているか、道具としてナイフを使いこなしていない輩なんじゃないかな、とわたしは思います。

 その道具本来の用途を、体に憶えこませていない。

 同じ理由で、安っぽいテレビドラマで大工が金槌で殺人を犯すのも理解できない。
 サラリーマンが、ゴルフクラブで人を殺すシーンなどもありますが、あれはあり得るかもしれません。きっと本当にゴルフを愛していない人なんでしょう。
 
 でも、プロのゴルファーが愛用のクラブで殺人を犯すのは、やはりわたしには想像できない。

 わたしのナイフが木のみを削り、大工さんの金槌が釘だけを打ち、プロゴルファーの1番ウッドがゴルフボールだけを打つのは、空中で石を離したら地面に落下するのと同じくらい確かなことです。それ以外には使えない、のです。

 同様に、毎日包丁を使う主婦が包丁で殺人を犯すシーンもなんだかしっくりこない。
 
 よくドラマなんかではありますが、本当に、普段料理をする包丁で、いくら腹が立ったとはいえ人を殺すなんてあるのでしょうか?

 まあ、料理なんて嫌いだけど仕方がないから作っていた。包丁も使っていた。でも、包丁にはなんの思い入れもない。研いだこともない。
 そんな人なら、包丁を武器にできるのかな。
 
 普段包丁を持たない男性が、何かを切る、人を威嚇する道具として包丁をつかって人を殺める、というのはわかります。
 だから、実際の包丁を使った事件ってそういうのが多いんじゃないかな。
 
 料理人が、誰かに襲われて身を守るために料理包丁を使う、なんていうのも想像できないなぁ。
 
 人を傷つけた包丁で、もう料理はできないでしょう。
 
 つまり、何がいいたいかというと、少し危険めな道具は、その正しい使い方を体が覚えるまで、使い込ませた方がよいのではないか、ということです。
 
 もちろん、例外はあります。
 それは銃です。

 わたしは、アメリカにおける殺人件数が多い理由のひとつに、アメリカが銃社会であるからだと考えています。
 
 え、何を当たり前のことを言っているんだって?
 
 違うんです。今、あなたの頭に浮かんだ理由とは。
 
 わたしは、人を殺す「大変さ」「シンドサ」のことを言っているんです。
 
 日本のように銃器が手に入りにくいと、殺人は、扼殺(やくさつ)か刺殺、殴殺するしかありません。
 
 これらは非常に重労働なんですね。
 首を思いっきり締めるのはシンドイ。
 刺殺は、血も出るし、一回で致命傷を与えられないことが多いだろうから、何度も刺さなければならない。これもシンドイ。
 殴り殺すのも力が必要だ。
 
 しかるに銃はどうでしょう。銃口を相手に向けて、指を1センチ動かすだけですね。
 こんな軽労働なら、そりゃあ人を殺しやすいでしょう。
 しかも、ナイフなどと違って殺人対象から離れたまま使える。

 加えて、銃本来の目的が対象物の破壊なのだから、ナイフと違って躊躇がない。
 
 だから、銃は安易に人に持たせてはいけないのです。
 
 ナイフの話をしようと思ったのに、銃規制の根拠の話になってしまいました。
 
 わたしはナイフが好きです。でも最近は、ビクトリノックスのクラシックやウェンガー、ヘンケルの刃渡り2センチ足らずの万能ナイフすら、持ち歩かないようにしています。
 そういった「どうやって人を傷つけるのよ」というサイズのナイフすら、警察のほんの気まぐれで逮捕する口実にされてしまうからです。
 
 あの、「ヒカルの碁」「デスノート」の作画者、小畑健が職務質問をうけて、おそらく口答えをしたのでしょうが、ミニナイフを持っていたという理由で逮捕されたのは記憶に新しいところです。

 正しい使い方を覚えこまさなければならないのは、ナイフや金槌といった具体的な道具だけでなく、権力といった観念的な武器についても同様のようです。
 
 そう考えると、突然権力を握った者が、大殺戮のような狂気の執政を行うというのも理解できますね。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月29日 (土)

お節介な宇宙人 〜地球の静止する日〜

地球の静止する日」といえば、まあ、今ならキアヌ・リーブスのリメイクがすぐに思い浮かぶでしょう。




 あるいは、今川監督のアニメ「ジャイアント・ロボ」が頭に浮かぶかも知れない。

 わたしが子供の頃は、和製2時間ドラマなど、まだ生まれておらず、夜の2時間テレビ枠を埋めていたのは、もっぱら「**ロードショー」という名の名画放送だった。(**には曜日が入るのですね。水曜ロードショーとか日曜洋画劇場とか)

 そして、それは同時に、映画の始まる前後に、作品について解説する映画評論家が、きちんとした社会的評価をうけるようになった頃でもあった。

 淀川長治、水野晴郎、荻昌弘や高島忠男もやってたなぁ。

 今も、ちょっとずつ映画放映はやってますが、なんだかリメイクの公開にあわせた広告がわりに旧作(オリジナル)をやるというパターンが多いように感じられて観る気がしません。

 もっとも、地デジの電波が強くなった影響か、我が家の地上波は、すごいノイズでうまく画像が映らないから観たくてもちゃんと見えないのですが……

 レンタルで観る映画と違って、コマーシャルが入るのも不愉快ですしね。

 NHKには昼と夜に、BS映画劇場という素晴らしい放送が残っていますが、とにかく、映画放送の絶対量が少なくなっている。

 放送が減ったのは、レンタルビデオやDVDで、気が向いた時にいつでも観ることができるようになったのが一番大きな理由でしょう。

 ケーブルテレビやスカイパー・フェクトTVといった専門チャンネルができたのも、地上波の映画放送を少なくした原因のひとつと思います。

 そういった専門放送チャンネルは、一回ぐらい観逃しても、何回も繰り返し再放送してくれるから安心です。

 逆にいえば緊張感が少なくなった

 そう、レンタルDVDが普及し専門チャンネルができ、映画放送が減ったおかげで、映画に対する緊張感を感じなくなったのです。

 公開中の映画のみ、公開終了からDVDが出るまでの間、観なおすことができないので、多少の緊張感が残っていますが……


 家庭にビデオさえ満足にない頃には、映画の放送などは一回コッキリ。
 いい加減に観てしまったら、次に目にするのは運が良くて名画座のリバイバルだったのだから、コドモながらに根性いれて観たもんです。


 そんな時代に、良きにつけ悪しきにつけ、わたしに強い印象を残した映画が何本かあります。

 良い影響を与えてくれたのが「冒険者たち」に代表されるフランス映画です。

 「ピアニストを撃て」だとか「おかしなおかしな大冒険」(これは本当に好きな映画で、ある意味、わたしの人生を変えた映画でもあります)、あるいは「ミスタァ・ロバーツ」「12人の怒れる男」なども印象深かった。

 しかし、一番わたしに強い「影響」(悪い影響といってよい)を与えたのは、SFや怪奇モノの映画でした。

 今と違って、感受性の強いコドモ時代に観た映画のインパクトは強烈です。

 たとえば「禁断の惑星」。
 今では信じられない、あの裸のガンを持つ男、レスリー・ニールセン二枚目船長を演じている50年代SFの金字塔です。

 この映画の「イドの怪物」は、何度もわたしの夢に出てきて、よくうなされました。

 元祖「蠅男の恐怖」も恐ろしかった。邦画では「妖星ゴラス」なんかも怖かったなぁ。


 さて、なぜ、こんなことを書き連ねたかといいますと、この項で書きたかった1951年版「地球が静止する日」は、それらインパクトの強かった映画と異なり、まったく何の後遺症もわたしに与えなかった映画だからです。



「地球が静止する日」
 1951年制作。ウエストサイド・ストーリーの監督、ロバート・ワイズが撮ったモノクロ映画。

 当時、宇宙人を旧ソ連に見立てて敵視するというSF全盛だった頃に、宇宙人=冷静沈着で良い人地球人=まず銃ぶっ放しの野蛮人という図式の映画を撮ったことは大したものです。

 モノクロ独特の質感のある映像、びっくりするくらい長身でスマートな宇宙人クラートゥの落ち着いた物腰、知的な会話もいい。

 彼の連れてきたロボット、ゴートが銀一色のズン銅スタイルで、ちょっとチャチいのはご愛敬でしょう

 クラートゥは、地球人に向かって、争いをやめるようにいいます。

 当然のように拒絶する地球側、というかアメリカ人

 彼は力を示すために、地球上の電力を止めます。

 これが、THE DAY THE EARTH STOOD STILLです。

 何も地球の時点を止めたり、時間を止めるわけじゃないんですね。

 でも、おそらく被害は甚大です。

 病院では多くの患者が亡くなったことでしょう。

 だから米軍はクラートゥを射殺します。あばれるゴート。

 虫の息ながら、クラートゥは宇宙船を発進させ、宇宙に帰っていきます。

 いったい、何のために来たの?って感じもしますが、しっかりと地球人の愚かさは胸に届きます。

 インパクトは弱いですが、名作といって良いでしょう。


 さて、なぜ、今日、この映画について書いたかというと、先ほど立ち寄ったビデオレンタル店で、このモノクロ映画「地球が静止する日」のDVDがずらっと並んでいるのを見かけたからです。

 もうすぐ映画が公開されるとはいえ、これはすごい。

 でも、キアヌ・リーブスの作品の前哨戦、いやアペリティフとしてあれを借りたら、みんな怒るだろうな。

 しかし、「地球が静止する日」とは題名の付け方がうまい。ハリイ・ベイツの原作どおり「主人への告別」では、だれも観ないでしょう。

 今度のリメイクがどんな映画なのか、まったく知識はありませんが、アメリカ人が本能のままに映画化すれば、今度もお節介な介入者は殺害されるでしょう。

 (先住民からムリヤリ土地を奪いとったという)建国に多少のトラウマが残る彼らの方針は「俺たちは常に正しい。だから俺のアメリカンウェイに口を出すな」ですから。


 私のおすすめ:
DVD 地球の静止する日 【ベスト・ヒット・マックス】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月28日 (金)

**は何でも知っている〜 東野圭吾、超・殺人事件

 今、わたしの机の上には、東野圭吾著「超・殺人事件」と同志社大学教授・左巻建男著「水はなんにも知らないよ」が並べて置かれている。




「超・〜」は「名探偵の掟」と並んで、東野作品では、数少ないわたしの好きな作品だ。

 この作品が書ける同じアタマで「白夜行」だの「手紙」だのを書いてしまうのが作家の不思議なところだなぁ。

 いかんいかん、自分の好悪、特に悪の部分は押しつけてはいけない。

 とにかく、「超・殺人事件」は面白い

 書庫を圧迫するので、なるべく買わないようにしているハードカバーで買ってしまったほどだ。

 この作品は、いままで売れなかった作家が、たまたまスマッシュヒットをとばして、稼いだ金を使いまくった挙げ句税金対策に追われる「超税金対策殺人事件」に始まって、コンピュータによる全自動書評マシン、ショヒョックスを全ての評論家が使うようになる「超読書機械殺人事件」までの8作を収録した、最高に面白い作品集なのだ。

 個人的にいえば、東野氏は陰気でマジメな作品より、こういったホタエタ作品の方に真価があるようなきがする。


 なかでもわたしが好きなのは「超理系殺人事件」だ。

 これは、ブンケイ頭脳しか持たない男が、それゆえに科学的な考えに憧れ理科系ぶったあげくテロ犯人にされてしまうという、まことにブンカケイ魂をコケにした快作だ。

 作者自身、電気工学科を卒業した工学士でありながら作家であるという、アンヴィヴァレンツ、二律背反を持っているために、こういった作品を思いついたに違いない。

 科学に対する好奇心を持ち、自分は理科系だと思いこんでいるものの、実際には半可通(はんかつう)の知識しか持たない文化系ビト、東野氏は中学校の理科教師をその代表にしているが、わたしも含めて世の多くの自称理科系ビトはそんなものだろう。

 作品の扉には、ご丁寧にも「この小説が肌に合わない方は飛ばし読みしてください。」と表記されているが、もちろん読み飛ばす人などいないし、内容を本気にとって怒る人もいないという、編集者側の判断が働いているわけだ。

 うがって考えれば、自称理科系ビトは、そういったカラカイを受けても、よもや自分のことだとは思わない思わない人種がエセ理系人(あ、書いてしまった)なのだという、作者の二重のカラカイがそこにあるのだ。



 というわけで、次の「水はなんにも知らないよ」である。


 多くの方はご存じだろう、これは「水は答えを知っている」「水からの伝言」に代表される、波動研究の第一人者、江本勝氏の一連の著作を皮肉ったタイトルだ。

 帯には「蔓延するニセ科学にダマされるな!」 (ほんとうは「まん延」と書かれてたけど、気持ち悪いから漢字にしました。がけっ縁とかね。ひらがな−>漢字という妙な簡易熟語作成はもう辞めて欲しい)とある。

 科学的根拠がないのに、いかにも科学的であるかのような顔をして世にはびこる「怪しい水ビジネス」を、検定外教科書のベストセラーで知られる科学教育の第一人者が徹底検証するのが「水はなんにも知らないよ」だ。


 まず、俎上(そじょう)にあがったのが、江本勝氏の「水からの伝言」だ。
 この本は、以前にわたしも大学図書館で借りたことがある。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、水は「言葉」を理解するので、容器に入った水に向けて「ありがとう」「ばかやろう」と書いた紙を貼って凍らせると、「ありがとう」には対象形の美しい結晶が、「ばかやろう」は、汚い結晶になったり、結晶にならないという、主張というか研究発表なのです。

 この時点で、少しでも科学をカジった者(科学リテラシーを持っている、といいますが)なら、言下(げんか)に否定しないまでも、ヤミクモに信じはしないでしょう。


 「リテラシー」とは本来「読み書き能力」を意味します、故に科学リテラシーとは、最低限身につけなければならない科学的知識、という意味です。


 人文の世界とは違い(御異論はおありでしょうが)、科学とは厳密なものです。

 少なくとも研究の評価においては。


 科学に「新説日本ミステリー」はありません。30年(ワンジェネレーション)過ぎれば事実がうやむやになって検証も難しい歴史の世界とは違うのです。

 野に下った民間研究家の実験も、高名な研究所でも、同じ結果になる実験でないと、つまり厳密な条件下の下での再現性のある実験でないと、否定はせずとも信じてはいけない。

 このあたりを、オカルト好きな人々のみならず、非理科系の人々は認識が甘いようです。


 否定はともかく、きちんと検証されないかぎり、そういったニセ科学、疑似科学、似而非(エセ)科学を鵜呑みにしてはなりません

 知識として信じる、信じないだけでなく、そういったマユツバ科学は、たいてい商売に利用されているからです。

 科学用語を使い、科学っぽい雰囲気で信じ込ませようとしますが、断じてそれらは本当の科学ではありません。


「水はなんにも知らないよ」で、著者は「波動」「クラスター」「磁化水」「π(パイ)ウオーター」「トルマリン」などといった、わたしたちがどこかで聞いたことをのある単語を使った商法をメッタ斬りにしています。


 個人的にいえば、われわれの科学はまだ緒についたばかり、手探りで暗闇を歩くにひとしい状況です。ほとんど何も分かっていないといってもよいでしょう。

 今、否定されていることも、後に正しいと証明されるかもしれない。

 だからこそ、わたしは、今、証明できないことすべてを否定したくはありません。

 でも、だからといって、アヤシゲな仮説を頭ごなしに信じるのは絶対イヤです。

 そういった検証のあやふやな理論を商品化して売る、というのは明らかに間違っているからです。

 おそらく、先に述べた、自称理科系ビトなら、こういった似而非(エセ)科学にとびつきはしないでしょう。

 わたしは、そう信じたい。


 こういった雰囲気科学っぽい理論、商品に飛びつくのは、人文イノチ科学リテラシー欠如の、言い換えれば科学という名のファンタシーが好きな人々が多いのでしょうか。


 あまりお薦めしませんが、わたしは、個人が個人の権利でそういった似而非(エセ)科学に飛びつくのは自由だと思います。

 でも、人に影響を与える立場にある人間がそれではいけません。

 「水はなんにも知らないよ」の著者も、憂えているのは子供を指導すべき教師に、そういったニセモノにとびつきやすい人が多いことです。


 ああ、学校教育の話はやめておきましょう。


 続けると、とても自分の頭から出てくるとは思えないほど、悪意ある言葉がどんどん出てきそうでオソロシイ。


 とにかく、われわれ一般人にできるのは、突飛でスバラシ過ぎる、世界を単純化するような原理、理論、科学が突如として現れたら、そして、それらが何らかの商品を伴っていたら、頭ごなしに否定はしなくとも、決して信じてはいけないということです。

 ゆっくりと、評価が定まるのを待ってから使っても遅くはない。

 時として、科学の検証は時間がかかるものですから。


 私のおすすめ:
超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮エンターテインメント倶楽部SS)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月27日 (木)

WALL・E/ウォーリー   〜銀河一孤独なロボット〜



 この映画については、まだ、あまり詳しく書けません

 公開が来る12月5日だからです。

 観に行く前からネタバレなんて誰もして欲しくないでしょう。

 だから、少しだけ書きます。
 公式サイトも、プロダクション・ノートも何も見ずに、ただ観た感想を少しだけ書きます。

 観に行くか行かないか、その判断に少しでも参考にしていただけたら、幸いです。


 WALL・Eはゴミ処理ロボット。

 彼は、自分のことを、ウオール・E(ウオールィー)と読んでいるので、以後、彼のことをウオーリーと呼びます。

 造形が、ディズニー映画にも関わらず(ディズニーという会社のスタンスが好きではないのです)最高にいい。
 わたしの好きなショート・サーキットのジョニー・ファイブそっくりだ。




 ショート・サーキットはとくに「2」が好きで、レーザーディスクを持っています。映画自体は駄作なのですが、それでも主人公のジョニー・ファイブのキャラクタだけで、何とかもっているのがスゴイ。

 それはさておき、映画冒頭、ジョニー・ファイブそっくりのウオーリーは、ただ一人(一体)で、ゴミだらけの地球を掃除しています。

 おそらく環境破壊が進んだ地球を人類が見捨て、清掃ロボットだけを無責任に残して去っていったのでしょう。

 ロケット発着ポートでそれらしき映像が寂しく映されています。

 彼によく似たロボットが、いたる所に壊れて転がっているところを見ると、はじめはたくさんいた仲間も、長い年月のうちに、壊れ、朽ち果ててしまったのでしょう。

 数百年という長い年月が、いつしかウオーリーに人格を与えます。

 観ていてこれが辛い

 いっそ、人格など生じなければ、ただのロボットとして、他の朽ち果てたロボット同様、壊れるまでゴミ掃除をしているだけだったでしょう。

 だが、不幸にも彼は考えることを覚えた。
 生き物は、考えれば孤独になる。

 だから、彼は孤独になった

 おそらく銀河一孤独なロボットに。

 わずかに生き残っている虫を友達に、古いミュージカルのビデオテープを心の支えとして、時折襲ってくる竜巻をかわしながら、壊れた仲間から集めた部品で自己補修しつつ、ウオーリーは、終わりのない清掃作業を続ける。

 ディスニーめ、ハラ立つけど、なんて孤独感の表現がうまいのだ。

 姿カタチがジョニー・ファイブに似ているだけでも胸が苦しくなるのに、毎日、ひとりレストハウス(倉庫)に戻った彼が、虫をかわいがり、楽しげに歌い踊るミュージカルビデオを観るその表情は、孤独そのもの。

 前にも書いた。わたしは孤独なイキモノに弱いのだ。

 そのわりに、不思議と「キャスト・アウェイ」はなんともなかった。おそらく、トム・ハンクスが頑張って演技し過ぎたからだろう。
 スピルバーグの「A.I.」も、なんともなかったなぁ。あっちは涙目のオスメントの芸がクサかったからだろうか。


 知恵の実を食べたウオーリーは孤独を知り、やがて朽ち果て全てが終わるはずだった。


 だが、ある日、空から宇宙船が降りて来て、「ひとり」の探査用ロボットを残して去っていく。

 ウオーリーとは違い、純白で流線型の、銀河一美しい(ウオーリーの印象)女性ロボット(ウオーリーの印象)イヴだ。




 彼は有頂天になる。もう自分は孤独ではないのだ。

 なにを調べているのか、調査に余念がないイヴに、さまざまにアタックを試みるウオーリー。

 やがて、二人(二体?)のロボットは、心を通わせあうようになる。
 知恵を得て、孤独を知ったウオーリーは恋も知るのだ。
 モノを考える、人格を得るってことは悪いことばかりじゃない、それを大上段にふりかざさず、子供でも自然にわかるストーリーに仕上げている。

 なかなかエエじゃないの。

 が、突然、イヴが機能停止し、回収ロケットにより連れ去られる。

 ロケットにしがみつき、地球を離脱するウオーリー。

 彼の、イヴを守り地球を再建する冒険が始まったのだ。

 と、まあ、これくらいなら映画の紹介文に書かれているから良いでしょう。
 
 徐々に感情に目覚め(それほど高性能なのだ)、ウオーリーを好きになるイヴも魅力的だ。

 うーん、イイトシしてアブナイかも。

 物語、中盤、CGならではの美しく楽しいダンスシーンがあるので、それも必見です。

 あえて書けば、ロボットやロケットなどの、機械以外の造形がイマイチなのが残念だ。

 まあ、それは観ていただければわかるでしょう。

 公開が一段落して、気が向いたらまたこの続きを書きます。

 ディズニーの絵柄に拒絶反応を示さず他に観に行くものが特になく男同士で観に行かないのなら、この映画はおすすめです。

 ショートサーキット2が好きなら迷わず観るべきです。

 我らのジョニー・ファイブが、ゴミ清掃人となって帰ってきて、あまつさえ最高の恋人に出会う話なのだから。


 あ、小さい声で書いておくと、この映画もカッコイイ映画です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月26日 (水)

VとOK

 景山民夫は、その江戸っ子らしい豪放な文章とテレビ出演等でのおとなしい姿のギャップが好きだった作家だが、その彼が、生前、「食わせろ!!」というエッセイ集を書いている。





 これは、毎日、エッセイに山藤章二のイラストをつけて夕刊フジに連載するという「エッセイマラソン」とでもいうべき企画で、年代わりに井上ひさしや林真理子などの筆達者が俎上(そじょう)に上がっている。

 ご存じのように、作家が山藤章二と仕事をするのはオソロシイ。

 なぜなら、文字でいくら気の利いた話をデッチあげても、その横に描かれた(そして書かれた:山藤氏のイラストは文字とのハイブリッドなのだ)毒のあるそして含蓄(がんちく)と蘊蓄(うんちく)に富んだイラスト一枚で、自分のハンパな文章など吹っ飛ばされてしまうことがママあるからだ。

 若き日の林真理子などは、随分それで泣かされた、と後書きにかいている。

 誤解のないように書いておくと、別に山藤氏が面と向かっていじめるんじゃないよ。
 それどころか、連載始めに顔合わせをしたら、あとはほとんど会わないまま一年が終わることも多いようだ。

 そんなことではなくて、作家の側からみたら、毎日必死で文書をヤッツけても、それを上回るセンスのイラストを書かれたら、とても怖くて次の日の文章を書けない、ということです。

 だが、景山民夫ほどのシャレ者になると、かえって山藤氏をからかったり、イラストレーターへの挑戦といってよい文章を書いて挑発している。さすがだ。

 まだ、文庫で出ていると思うので、読まれたことのない方は、ぜひ、ご一読を。

 個人的には直木賞をとった「クー」より好きです。

 で、その中で、景山氏は、昨今の(といっても、もう二十年近く前か)若者の、やたらVサインを出す風潮苦々しく思うと告白している。

 ダイビングの好きな氏が、タヒチかどこかで、日本の女性ダイバーたちとたまたま一緒になった。

 さんざんダイブした後で水中で写真撮影をすることになり、彼女たちがVサインを出したとたん、カメラを構えるタヒチのダイバーが浮き足立ったと、愉快そうに書いている。

 わたしは、沖縄での体験ダイビングしかしたことがないので、よく知らないのだが、ダイバーサインで、(下向きの)Vのマークは鮫の歯を意味するらしい。つまり鮫の襲来だ。



 わたしも、写真撮影のたびに、バカみたいにVサインをする風潮は好きではない。

 若者だけなら、若気のイタリというヤツで我慢はできるが、イイトシをした老人たちまで写真撮影の時にVサインをするのが理解できない。

 なんなのだ、あれは。

 その気持ちは今に始まったものではない。

 中学の時も、高校の時も、大学の時も、会社員の時も、そして自営業の今もどういうものか、と思い続けてきた。

 あのVサインはいったい何を意味しているのだろう。

 フラワー・ムーヴメントから始まる、ヒッピー・ムーヴメント「ラブ アンド ピース」の影響か?

 歴史的にみると、その発祥は、あの100年戦争時だというのだから根は深そうだ。




 Vサインを西の横綱とすれば、東の雄はOKサインだ。

 その他に、
 指をかぎ爪がたにする「盗人」サイン。
 OKサインで、手の甲を下に向ける「ゼニ(金)」のサイン。
 小指を立てる「愛人」のサイン。
 親指を立てる「パパさん」のサイン。
 手話でも、その語源になったものがたくさんあるが今は横に置いておく。


 さて、親指と人差し指を丸くくっつけるOKのサイン

 先日の「毎日の余録」に載っていたが、諸説ある語源のうちのひとつに、アメリカ第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンが使い始めた、というものがあるらしい。

 庶民出身のジャクソンは、字の読み書きが苦手で、自分の署名にすら苦労したそうだ。

 その彼が、「了承」を意味する「ALL CORRECT」を、スペル違いのOKと略したことから、この表記、サインが広まったのだという。

 上でも書いたが、小指を立てるOKサインも、手の甲を下に向けると「ゼニ」サインになる。

 OKは、「普通の人」が大統領になれる米国民主主義を代表する存在となったジャクソンが生み出した。

 だが、その後の政治家は、小指を立てるOKではなく、手の甲を下に向けるゼニ(金)サインに振り回されているように、わたしには見える。



-追記-
 同じエッセイ集で、自分には人に見えないもの(霊魂)が見える、と多少の自虐を込めて告白していた景山民夫は、のちにある宗教団体に入信し、広告塔となり、タバコの火の不始末による(とされる)不審火に巻かれて死んでしまった。
 もう少し生きて、わたしと一緒にVサインを憤って欲しかったのに、残念だ。


 私のおすすめ:
食わせろ!! (講談社文庫)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月25日 (火)

夢をあおる功罪 〜夢をかなえるゾウ〜

 クロワッサンという雑誌がある。

 何年か前、この雑誌が「結婚して幸せになる」「子育てが生き甲斐」といったテーマの特集を組んで物議をかもしたことがあった。

 クロワッサンといえば、わたしも覚えているが、二十年ばかり前に「女は仕事」「キャリアウーマンが美しい」などの特集を大ヒットさせて、「働く女性」を大量に生み出す原動力になった雑誌だ。

 もちろん、歴史的な男女同権の時代の流れもあり、さらにその後の「男女雇用機会均等法」などの制定も「働く女性」を生み出す力とはなったが、イメージとして女性の社会進出を強烈にプッシュしたのは、この雑誌の存在が大きかった。


 クロワッサンの功績は、働く女性はカッコイイという考えを広めたことだ。
 わたしも、ああいった記事があって、結果的に女性の社会進出が早くなったと思う。

 だが、功があればもある。

 それは、たかが一雑誌が、部数増刷のためのイメージ戦略として、「女性として母として、結婚をし、子供を生み育てながら社会に生きていく」という女性のマルチな可能性アタマから排除して、「恋や結婚、家庭などはうち捨てて、仕事に生きるのがキレイな女性」と洗脳に近い特集記事を組み続けたことだ。

 あげく、その頃の読者が、しっかりと仕事人間、会社人間になりきり、なかなか年齢的にも出産がかなわなくなった今になって、「育児こそが女の幸せ」などという特集を組み出したら、はやし立てられ、二階へ登らされたあげく梯子をハズされたような気持ちになった元読者たちが、文句をいうのは当然だろう。

 雑誌の記事であれ生の人の助言であれ、人をノセて引き返せない場所に向かわせるなら、それなりに責任をとらねばならない。

 「自己責任」で逃れるには、当時、大人気だった雑誌は少々重い責任を背負っていると、わたしは思う。

 もちろん、ノセられる方も悪いのだが。

 わたしも、自身、会社を辞めて自営として長くやってきたため、今の仕事が嫌だというだけで、安易なアドバイスにのって社会の荒波に乗り出すことに、かなり懐疑的なのだ。



 最近、「夢をかなえるゾウ」という本が読まれているそうな。



ガネーシャ像も売られている(\2,980)。

 初めてその本の名を耳にしたのは、今年のはじめだったか、阪神タイガースの矢野捕手がインタビューに応え、奥さんにすすめられて読んだと、この本の名を挙げた時だった。



 先日、友人の女性から、娘が「夢をかなえるゾウ」を読んで、なったばかりの介護士の仕事をやめて、スタイリストになりたいと言い出しているが、どうしたら良いだろう、という相談を受けた。

 彼女は、わたしより年上で、しっかりとした立派な女性なのだが、こと娘に関しては、まったくの別人格になってしまう。

 早くに夫を亡くし、女手一つで育てたからだろうが、普段の彼女なら、きっぱりと「バカは辞めて、まず地に足をつけた生活をしなさい」というはずなのに、おろおろと心配するばかりで、きちんとしたアドバイスもまだ行っていないという。

 いったいどんな本を読んで夢を追う気になったのか、それを知らないと何もいえないと、まず「夢をかなえるゾウ」を読んでみた。


 読み終わっておもったのは、ごくふつうの啓蒙小説だ、ということだ。
 読み物として見ても面白い。

 クロワッサンのように、結果を考えず無責任に過度に煽ることもない。
 ごく、バランスのとれた小説だ。



 ところで、

 大人、というより先達後進におこなってはいけないことが二つある。


 一つめは、若者の考えを頭ごなしに否定することだ。

 それが意外と難しいんだなぁ。これを読んでいる若い人には分からないかも知れないが、ちょっとトシとって世間を見たような気になったら、「自分の経験分」がごっそり抜け落ちている若者の意見など聞く気にもならなくなるんだよ、ホント。

 先行く者から見れば、はっきりとした能力の片鱗もみせず、ただ野心と勢いだけで世間の荒波にのりだそうとする若者は危なっかしく見えるのだ。

 だが、やってみるのは当人の権利だ。
 自分で決意し、責任をとって、何かに挑むなら、それがどれほど危なっかしく見えても、止めてはならない。
 もし、その相手が、自分の子供などの大切な者であれば、失敗した時に、出来る限り手をさしのべてやればいいのだ。



 次に、やってはならない二つめのこと、「絶対にやってはならないこと」は、コドモの甘い夢を煽ることだ。

 決断するまではコドモの話を聞いてやり、それについての厳しい意見、アドバイスを述べるべきなのだ。そして、あくまでも自分で決断させる

 いったん決断して覚悟を決めたなら、手を貸し、見守ってやればいい。
 だが、決断する前に、安っぽいアジテーションを絶対におこなってはならない。
 失敗した時に、安易に責任転嫁させる対象になってしまうからだ。
 自分で考え決めないと、つまづいた時に、どこが悪かったかを自分で考えられなくなる。


 要は、成功しても失敗しても、本人が納得できなければダメだ、ということです。


 以上の点を、「ゾウ」は上手にクリアしていると思う。

 「絶対できる」と言わず「絶対ダメだ」とも言わず、ある意味、責任を逃れたズルい書き方をしているが、先に書いたように、内容自体には問題がない。

「本書に書かれているのは、どの啓蒙書にも載っていて目新しいことではない」
「やれば、成功するかも知れないが、やってもダメかもしれない」

等々。


 相談を受けた数日後、わたしは、以上をふまえて彼女に次のことを伝えた。

 娘さんを、頭ごなしに否定するのではなく、話を聞いてやり、親の目で能力を判断して駄目だと思ったら徹底的に反対すべし、と。

 え、何が以上をふまえて、だって?

 応援してやれって?

 だって、子の安全と安定を考えるのは、親の義務であり権利でしょう(責任かどうかはわからない)。
 わたしには子供はいないが、そう思います。

 たとえ、おとなしい書き方だとしても、啓蒙書や啓蒙小説は、所詮、(若い)読み手に希望の火低温火傷させてナンボなんですよ。

 火傷してピリピリしているココロが、しばらくして落ち着くまで抑えるのも、やっぱり親のつとめだとわたしは思うのです。


 それに、本当にやりたければ、親の反対なんて何の役にも立ちませんからね。
 親の反対ゴトキで辞めるなら、それだけの決心なんですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月24日 (月)

暗唱

 昔から、気に入った文章があると、何度も声に出して暗唱する。


 日本のいわゆる純文学は、内向的すぎて好きにはなれないが、詩は好きだった。


 若い頃は、唐代の漢詩あるいは萩原朔太郎の「氷島」などをよく覚えた。

 特に好きだったのは「漂泊者の歌」で、これは今でも暗唱できる。

 最近では、少しトシもとり、好みも丸くなって、もっとカドのとれた文章が好みになった。


 その対象は、先に書いた中川一政の文などが多い。


 ここで、少し引用してみよう。

 以下は、中川一政美術館で「尾道」連作に付記されている文章だ。名文である。



 古今を流れる時間の一点に人間は生まれる。東西古今のただ一点の場所に人間は生まれる。
 そしてその時間と場所がかさなる一点に人間は生まれる。
 それが人間の運命である。
 人間はその運命を足場にして生きてくる。
 わたしはロシアでもフランスでもない、日本に生まれた。そして青森でも鹿児島でもない、東京に生まれた。室町でもない江戸でもない、明治に生まれた。そして明治の十年でもなければ三十年でもない、明治二十六年に生まれた。
 もっと微細に言えば生年月日にも及ぶかもしれない。

 例えば尾道の千光寺山に座紅碑という小さな石が建っている。これは頼山陽や田能村竹田が集まって、花を活け、お茶をたのしんだその時の花をうずめた記念だという。
 その時分の瀬戸内海は白帆が往来し、豪商が甍(いらか)を並べていたろう。眼下の向島(むかいじま)が土を削られ赤膚(あかはだ)になり、造船所が出来るとは誰の想像にもなかったろう。
 浄土寺や西国寺や京都にもってきてもひけをとらない寺がいくつもあるのは、その時代の豊かさを示すものである。
 ここに酒肴をならべ、風流を談じた光景をおもうと、私は二百年三百年前に、生まれたらと羨(うらや)む。

              (日本経済新聞社 私の履歴書より一部抜粋)

 あるいは、こういう文も良い。


 もし私に余分の金があったら、すべて自分の仕事の為に費(つか)いたい。
 画かきになるには月謝がいる。学校に何年間もゆき、洋行して勉強しなければならない。金とひまがなければ、画かきになれなかった。
 私は一文なしで画かきになった。今から月謝をはらって勉強がしたいのである。
 私は、よく生きた者が、よく死ぬことが出来るのだと思っている。
 それはよく働くものが、よく眠ると同じ事で、そこになんの理屈も神秘もない。
 私は昔、アトリエの壁に「ひねもす走りおおせたる者、夜のやすきにつくこそよけれ」と書いていた。賢者セネカの言葉である。
 私は毎日のはげみに書いていたのだが、今は一生のはげみでもある。
 さはいえ、人間には完成というものはないようだ。仕事にも完成というものはないようだ。
 一つ山を登れば、彼方にまた大きな山が控えている。それをまた登ろうとする。
 力つきるまで。

             (日本経済新聞社 私の履歴書より一部抜粋)


 一政82歳のときの文章である。


 声に出して読んで息継ぎに無駄がなく、奇をてらった言葉がなく陳腐な表現もない。

 下手な文章は、すべてこの逆をいっている。

 願わくば、こういう文章を書きたいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月23日 (日)

さあ、タクシーに乗るのよ! 〜グロリア〜



ずいぶん長く間があいたが、やっとこの映画について書くことができる。

 この映画を「カッコイイ」映画という視点で書くのはやめることにしよう。
 多くの人が、こぞってそういった視点から、この作品を評しているだろうから。


 だから、わたしは、こっちからアプローチすることにする。


 「ハリーとトント」「真夜中のカーボーイ」(今となってはカボーイでないところが逆にカッコイイ)「ドライビング・ミス・デイジー」「テルマ&ルイーズ」「ストレイト・ストーリー」「モーターサイクル・ダイアリーズ」「イージー・ライダー」そして「道」に共通する言葉は?

 そう、ロードムービーだ。「ドライビング〜」をロードムービーに分類することに異論のある向きも居られるだろうが、あれはわたしの中では、確かにロードムービーなのだね。

 主人公が「ここではないどこか」を旅することで感じる開放感、旅先の人との会話、触れあい、そして同行者がいる場合その濃厚な同室時間を通じての人間関係の変化などを通して、「主人公の内面の変化を表現する」のがロードムービーだとわたしは考えているが、上記の名作ロードムービーは、さらにいくつかに細分化される。

 おわかりでしょうか?
 そう、乗り物が違うんですね。

 「ハリーとトント」「真夜中のカーボーイ」はバス旅行。
 「ドライビング・ミス・デイジー」「テルマ&ルイーズ」は車。
 「ストレイト・ストーリー」は耕耘機?で、あとの作品はオートバイだ。

 しかし、これには重要な乗り物がふたつ抜け落ちている。
 そのうちのひとつ「列車」は、アメリカが鉄道社会でないから仕方がないとしても、もうひとつのほうが抜けているのが気に入らない。

 それは「タクシー」です。

 もちろん、日本の「夜明日出夫(よあけひでお)」(二時間ドラマ、タクシードライバーの推理日誌)みたいに、タクシーを借り切って何百キロも旅をする、なんてことはアメリカではあり得ないから仕方がないのですが。


 そのかわり、タクシーを用いた映画ならいくつかあります。

 その代表格が、そのものずばり「タクシードライバー」(スコセッシ、デニーロの秀作)ですね。

 だが、そういった、ウィノナ・ライダー出演の「ナイト・オン・ザ・プラネット」のような運転手目線で作られた映画でなく、ただ主人公たちが「タクシーに乗りまくる映画」なのが「グロリア」なのだ。あー、やっとたどり着いた。


 場所はニューヨーク・マンハッタン。
 かつてはオキャンで美しく、暗黒街でも指折りのギャングの愛人だった彼女も、今では老いて疲れを見せる中年女性になっている。

 その彼女が、突然、友人から男の子を託される。
 友人の夫が、暗黒街の金を使い込んで、ヤバイ状況になってきたからだ。

 始めは拒絶するグロリア。そんなことをするのはヤバ過ぎる。
「わたしには養っているネコもいるのよ」
 裏切り者の家族をかくまうだけで、殺される世界なのだ。

 だが、結局は引き受けさせられ、嫌がる子供を無理矢理部屋に連れて行くグロリア。

 入れ違いにやってくるギャングたち。鳴り響く銃声。悲鳴。
 暗黒街に長く身を置くグロリアは、何が起こったかを瞬時に察知した。

 すぐにスーツケースに簡単に荷物を放り込んだグロリアは、男の子を連れて部屋を出る。 

 ここからは、タクシーの乗り継ぎオンパレード
どこに行くのもタクシーだ。
 個人的には、タクシーだとアシがつきやすいのではないか、と心配になるが、彼女はそんなことは構っちゃいない。

 家族の元に帰りたい、と子供じみた(ってコドモだけど)逃走を繰り返し、泣き言をいう男の子に我慢強く接するグロリア。

えらいねぇ。わたしなら怒鳴りつけているところだ。わきまえろ、と。

 やがて、ふたりの間に信頼と愛情が芽生える。

 追いつめられるグロリア。
 彼女は、見せしめのために子供も殺されることを知っている。
 仕方なく、彼女は、かつての恋人に事情を説明するために会う。

 ここらへんがカッコいいんだよなぁ。

 いくら、かつての恋人、彼女のかわいい人、であったとしても、彼にもギャングのボスとしての顔がある。

顔にドロを塗られては、もと恋人の言葉だからといって、はいそうですか、と引き下がるはずがない。

 おそらく自分は殺されるだろう。震える手でドアを開け、彼女はボス(たち)に会う……

 そして、大の男でさえ(いまはこの表現マズイかな)逃げ出すような状況で、彼女は震える足をしっかりと床に着け、ボスたちに向かって啖呵(タンカ)を切るのだ。

子供は関係ないから、助けろ」と。

 グロリアの受け答えを見ていた他の幹部も、彼女が座を外すと「たいした女だ」と感心することしきりだ。

 結局、要求を拒絶されたグロリアは、ふたたびタクシーに乗って子供とともに逃げようとするが……

 白人女性とヒスパニックの子供が、肌の色の違いを超えて(1980制作当時)信頼しあう


 それは母性本能か?俺が、お前に子供を授けてやれなかったことが原因か?と尋ねるボスに、グロリアはきっぱり「違う」と断言する。

母性本能なんかじゃない」と。

 動機がなんであれ、グロリアは、ただ敢然とギャングの組織に立ち向かう。

 その姿は、やはりカッコイイ。


 格好良いとは、こういうことさ。


 見かけ倒しにグラサンかけて気障なセリフを吹いて、汗もかかずに(当時の特権階級たる)ヒコーキに乗って飛び回る中年ブタ男なんて、やっぱ格好悪いわな。


 ホント、「グロリア」(1980年版)は、イカス(中年)女がタクシーに乗りまくって、ギャングに立ち向かう、最高にカッコイイ映画なんです。

 わたしは好きです。

 あ、結局、カッコイイ目線で書いてしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月22日 (土)

(K-20)-1は怪人十九面相?いいえ、K-19です

 先日、K-9は警察犬課、K-20は?などというタイトルで書いたが、その後、どうも何かを書き忘れているような気がして気持ち悪かった。

 先ほど、その原因が分かった。

 K-シリーズときたら、K2K-19について書かねばならなかったのだ。

 K2は言わずと知れた山の名で、これについては別項で書くことにして、ここではk-19について、短く書いておこうと思う。

 K-19は、旧ソ連のミサイル原潜の名前だ。

 彼女?にはいくつか仇名がある。




 その一つは、2002年「k-19」としてハリソン・フォードで映画化された際に、サブタイトルにつけられた「Widow Maker」(未亡人ツクリ)だ。

 同じ仇名は、名車ながら「曲がらない止まらないマッスグ走らない」単車だった、カワサキのマッハ3(本来ローマ数字)にもつけられたが、つまり亭主を殺すマシンということだ。

 
 彼女のもうひとつ有名な仇名は、こっちはもっと笑えない「ヒロシマ」だ。

 おそらく原子力から原子爆弾を連想してのネーミングだろうが、この名前考えたヤツ、もうセンス悪すぎ。

 それが原因か、海中の「ヒロシマ」は70年代にも28人死亡の火災事故を起こしている。


 以上、強引にまとめると、K-9は警察犬課、K-20は怪人二十面相、そのひとつ前のk-19は、赤い疫病神だった、ということになるかな。


 「歴史は繰り返す」の格言通り、先日、日本海で試験航行中のロシア原潜内で、消火装置の誤作動によるガスで技師や乗組員ら20人が死亡、21人が負傷したという。

 また「赤いウィドウ・メーカーの復活か」と一瞬思ったが、かつてとは違い今は男女同権の時代だ。死者や怪我人に女性が入っている可能性もある。

 確か、宇宙空間など、肉体的にキツイ職場は、女性に向いていると聞いたこともあるから、その可能性は高そうだ。

 未来には女性ばかりの原潜というのもありえるだろう。

 おしかりを覚悟で、さらに書くと、もし女性が犠牲になっていたら、その原潜は、もはや「ウィドウ・メーカー」とは呼ばれない。

 ただ「キラー」とでも呼ばれるのだろうか。

 あるいは、えーと、妻を亡くした男、鰥夫(ヤモメ)は英語でなんといったっけ?

 なんか変な呼び方だったような……ああ、widower

 なんだ、erつけただけ

 じゃあ、widower Makerか?
 なんだかな。


 ところで、ウインナ・オペレッタの名作に、フランツ・レハール の「Merry Widow」があります。

 陽気な未亡人とでも訳しましょうか。

 Merry Widowは、なんとなく、ちょっと怖く可愛い感じがするが、Merry Widowerってなんかハラ立ちますね



 でも、妻を亡くして、ガックシしょぼクレた男ヤモメは哀れで悲しいから、そっちの方がいいかも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月21日 (金)

ふたりの女にひとりの男2 〜ベクシル〜 


 もちろん、CGによる造形の美しさには好き嫌いがあるだろう。

 おそらく、わたしはこういった硬質な美しさが好きなのだ。

 前にも書いたが、わたしの考えでは、女性は可愛さ美しさ綺麗になれる。

 そして、これも私見に過ぎないが、たとえどんな者でも、特別の角度、ある一瞬には美しくなれるものだ。

 それを切り取るのが、グラビアカメラマンの腕だ。
 何百枚もカットを撮ってね。

 そういう表情を比較的多く生み出せる者を、ひとは美しいと呼ぶのだ。

 だからこそ、誤解を恐れずに書けば、100000の表情のうち、ひとつしか、そんなタイミングをとりえないモデルや山だしのネェちゃん、ニィちゃんをドラマの主人公にして、可愛い、カッコイイと持ち上げるのはもうやめて欲しい。

 もちろん、役柄を役者に投影して、理想のアニキ、理想の上司、はては理想の恋人と考えるのは視聴者の権利でもあると思うが、演技すら身に付いていないことも多い彼らの多くは表情でココロを語ることができず、セリフの多用でごまかそうとする(いや、演出家がそうせざるを得なくなるのだ)。

 それゆえか、最近のドラマ自体、怒声の応酬でうるさくてかなわない(ほとんどみないけど)。


 ベクシル、そしてこれに先立つアップルシードもそうだが、CGヒロインたちの多くは寡黙だ。静かすぎるくらい。

 本来なら、ツクリモノの画をごまかすためにこそ生声を多用すべきところを、あえて、言葉を廃し、表情でココロを現そうとしている。


 生身の人間のドラマでは、その者たちの能力もさることながら、何度もダメ出しすると、役者がスネたりエージェントが苦情をいうことがある。とくにハリウッドでは。

 CGによる造形ならそんな心配はない。何度でも、制作者の納得がいくまで、つくりなおし、演技させることができる。

 だから、彼女たちは寡黙で良い演技ができるのだ。

 そして、あたりまえだが、どの角度から見ても美しい。

 「ファイナル・ファンタジー」では、あえてヒロインに醜い部分も与えて、人間らしさを出そうとしていたが、「アップルシード」も「ベクシル」もそんなまどろっこしいことはしていない。

 全開で、美しさを前に押しだそうとしている。

 その勢いは、顔を非対称にすることすら忘れているように見える。
 ご存じのように、人の顔は絶対に非対称であるから、リアル感出したければ、CGもそうすべきなのだが、ベクシルはそうしていない(たぶん)。

 まるで(顔もスタイルも)完璧な人形が話し闘っているようだ。

 ベクシルのすこし吊り上がった驚くほど大きく青い瞳、そしてマリアの鳶色の瞳も吸い込まれるように美しく、精神的な強さすら感じる。

 これで、可愛さが出てたら綺麗な女性の造形になれたのに、残念だ。

 そう、個人的には、まだこれらの造形は、綺麗なところまではいっていない。
 美しいどまり、だ。


 しかし、間違いなく、この映画のヒロインたち、特にマリアはカッコイイ女性だ(やっとテーマにきた!)。

 すっごく恥ずかしいベタな表現をすれば、闘う博多人形。クール・ビューティの具現化がマリアだ。


 えーい。もうここで、ネタバラししてしまうと、鎖国10年で、日本民族は壊滅していたのだ。

 10年前の鎖国直後に、日本を牛耳る世界企業大和(ダイワ)が国民を騙して、全員に人の細胞をナノレベルで生体金属に変えてしまう「サイバーウイルス」を注射し、ニンゲンの日本人はいなくなった。

 民族壊滅……よくやるよ。

 むろん、マリアも同様。撃たれればオイルのように黒い血が流れる。

 だからといって、身体能力は生身のままなのだから、どうしようもない。
 ダイワは、研究データが欲しくて人体実験をしただけなのだ。

 人々は、人間性を無くしてはじめて、ものを食べる必要がなくなってはじめて、昭和30年代のような世界、屋台で焼き鳥を食べつつ口論するような生活を演じているわけだ。

 やがて、壊滅したと思われたSwordで、レオンだけが生き残り囚われていることがわかる。

 同時にマリアたちは、世界に実験を広げようとするダイワの野望を潰すべく、東京湾上に作られたダイワの巨大プラントを破壊するミッションに入る。


 彼女たちに残された時間は少ないのだ。
 マリアたちは、徐々に体を生体金属に置換され、最後に脳の重要部分が置き換えられると、感情を失いダイワの木偶(デク)、あやつり人形と化してしまうからだ。

 レオンの無事を聞いた時の、ベクシルの喜ぶ顔を見るマリアの表情がイイ!

 彼女は、ベクシルが現在のレオンの何であるかをそれで知るのだ。

 だが、彼女は気持ちを安易に言葉にはしない

 よく、「言わなければ伝わらない」という標語を、何でも発言するヨリドコロにする風潮があるが、わたしは反対だ。

 言葉は不完全だからだ。

 よしんば、その標語を使うにしても、ハラの中には、必ず「言葉にするとウソになる(あるいは変質してしまう)こともある」という裏標語をセットにもっていなければならない。

 それをしないから、昨今は、ギャアギャア自己主張ばかりする思慮浅きモノであふれてしまうようになってしまったのだ。(もちろん私見です)


 やがて、ベクシルもマリアの体の秘密と、彼女がレオンのかつての恋人であることを知る。

 その時のベクシルの表情もイイ!

 ああ、この人にはとてもかわない。ひょっとしたら、ワタシは、この人のデキの悪いミガワリでしかなかったのではないか、いやきっとそうだ……

 彼女のそんな気持ちがダイレクトに伝わってくる。

 だが、マリアはもうヒトではないのだ。

 このふたりの「本質のよく似た」イイオンナにはさまれて、イロ男レオンのなんと存在感のない薄っぺらさであることか。怪我してフラフラだし。

 二人から愛された、ボルサリーノのローラ、冒険者たちのレティシアの魅力ぶりに比べて情けないかぎりだ。

 まあ、ふたりの異性から愛されてより魅力的になるのが女性で、エネルギーを吸い取られてちょっと元気なくなってしまうのが男っていう分け方もアリかな。


 ともかく、カッコイイ女たちを観たければ、ぜひ「ベクシル」を観てください。

 ちょいヲタク視点からいえば、彼女たちが、ダイワ本部に突入するときに使うワザ、あの板野一郎も泣いて喜ぶそのワザは、アニメファンにはぜひ観てもらいたい

 観終わってちょっと悲しいのが難ですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月20日 (木)

ふたりの女にひとりの男 〜ベクシル〜

 これは「カッコイイとはこういういことさ」のちょっとした続きの話。
 

 ベクシル(Vexille)は、2007年制作の日本3Dアニメーションだ。
 分類的には、ファイナルファンタジーアップルシードと同じ場所に位置する。
 そのどちらもご存じない方には、「モンスターズ・インクのリアルSF版」と考えていただければ良いかと思う。



 名作「グロリア」より、無名?なこちらを先に書きたくなってしまった。

 が、その前に……



ボルサリーノ」と「冒険者たち」どちらも、わたしの大好きな映画だが、このふたつには共通点がある。

 なにかわかりますか?

 え、どちらもアラン・ドロンが出演している?
 どちらもフランス映画?
 いや、そんなありきたりの答えじゃなくて……


 そう、タイトルとは正反対となるが、ふたつとも、「ふたりの男にひとりの女」を描いた映画なのです。

 なんか、ちょっとヤバそうな感じがするでしょう?
 まあ、その逆である「この回のタイトル」にも同様の感じがしますけどね。


 皆さん、どちらもご存じとは思いますが一応説明すると、




「ボルサリーノ」は、1930年代のフランス、マルセイユが舞台。冒頭、ムショに入っていたチンピラ(アラン・ドロンが好演)が出所するところから話は始まる。
 さっそく、自分を売ったイタチ野郎の店に火を放って報復したドロンは、愛人ローラの居場所を見つけ出すと会いに行く。

 だが、ローラ(カトリーヌ・ルーヴェルが、人生の苦みを知りつつキュートでコケティッシュに好演)は、すでに新しい愛人(ジャン・ポール・ベルモンド)とよろしくやっていたのだ。

 当然、殴り合いになるふたり、だが、さすがフランス映画、アメリカのように、女性を単純に「俺のモノ」扱いにはしない。

 やがて二人は意気投合し、ローラ手作りのブイヤベース(だったっけ?)を、彼女の給仕で食べながら、「ローラのこの味が最高なんだ」「そうそう、スパイスが隠し味だな」などと語り合う。

 それを笑顔で見つめるローラ。

 このあたりで、わたしはもうダメなんだなぁ。ゾッコンに惚れ込んでしまう。

 あり得ないでしょう。普通、というか日本では。
 さすが、大らかな港町マルセイユ、そして、認めたくないが、恋愛に関してだけは大人の国フランス。(わたしは根本的にフランス人、というかパリジャンが大嫌いなのだ。:それはまた別項で)




 次に「冒険者たち」
 これはもう、タイトルを口にするだけで、LES AVENTURIERSと目にするだけで、もうダメ。

 批評も批判もできなくなる。
 ほんの子供の頃、おそらく8歳くらいに、テレビ放映で観た時の印象があまりに強く、物語自体に恋してしまった弱みだろうな。

 だから、簡単に、あらすじだけを紹介だけしよう。

 野心はあるが金がない青年飛行家マヌー(ドロン)と中年技術者ロラン(リノ・ヴァンチュラ)は、現代金属オブジェ・アートの個展を目指す若い女性、レティシア(ジョアンナ・シムカス)と知り合う。

 マヌーがパイロット免許を失い、ロランが開発していたエンジンを炎上させ、レティシアが個展で失敗したのを契機に、三人は宝探しにアフリカに渡る。

 どんよりとしたパリ郊外のフランスから、強烈な太陽が照りつけるアフリカの海へ。

 それだけで、観ているわたしの体温も上昇しそうになる。

 つまり、青春冒険映画なのだな(言ってて恥ずかしいが、この映画の場合はヨシとしよう)

 初めからマヌーはレティシアに惹かれていた。

 おそらくはロランも。

 だが、トシのことも考えて、レティシアはマヌーとがお似合いだ、という態度をロランはとり続ける。

 じつは、本作では、レティシアは、天下の二枚目アラン・ドロンよりも、ちょいハラが出て頭ハゲかけのロランが好きだったのだ、という中年の憧れ設定なのだ。


 やがて、宝は見つかり、大金持ちになったとたん、レティシアは宝を狙うギャングに殺される。

 パリに帰った男ふたりは、しばらくはすることもなく無為に過ごすのだが、やがて、レティシアの遺族に彼女の分け前を渡そうと考え、彼女の故郷に向かうのだった。
そうすることで、死んでしまった彼女とのつながりを保とうとした。

 だが……


 さあ、もうわかったでしょう。
 ふたつのフランス映画、そして「ふたりの男にひとりの女」という意味。

 つまり、同じ女を愛する男の本質は似ている、ということだ。
 だから、ふたりは親友になり得る。

 これは、アメリカ人のセンスじゃないわな。
 あんなオトナコドモの精神しか持たない男たちが蔓延する国ではこの考えは難しい。
嫌いだが、フランスならでは、といった感はある。

 鏡像のように、兄弟のように似たふたりだからこそ同じ女を愛する。

 だから、女を軸に、しっかりと地面に立つ屏風のように男ふたりは結びつき、軸がなくなった後ですら、その結びつきを弱めない

 これが、わたしの好きな「ふたりの男にひとりの女」だ。


 で、それとは正反対な「ふたりの女にひとりの男」が映画「ベクシル」なのだ。

 ベクシルは、米国特殊部隊SWORD所属の女性兵士である。



 彼女は、Swordのリーダーであるレオンと恋仲だ。

 2077年、日本がハイテク鎖国に入ってから10年が経とうしていた。

 鎖国と言っても、江戸時代のものとは違うハイテク鎖国のため、スパイ衛星のからの盗撮すら不可能な絶対鎖国だ。

 現在(2077年)の日本国内がどうなっているのか、世界中の誰も知らない。

 圧倒的に優れたロボット工学による、兵器・工場機械の輸出によって、世界を席巻(せっけん)している日本には、国連やアメリカといえども下手な口出しはできないのだ。

 レオンは、日本が鎖国を始める10年前までは東京にいたのだった。

 やがて、日本の不穏な動きを察知して独自捜査に乗り出すSWORD。

 彼らは、偵察部隊を絶対鎖国の日本に送り込むことにする。

 志願して隊長となるレオン。
 ベクシルも斥候(せっこう)部隊に参加志願する。

 時折、レオンが見せる表情から、彼が危険なこの任務に、正義感からだけで参加していないことを恋する女のカンで見抜いたベクシルは、自分も日本に行こうとするのだ。

 潜入後、ひとり仲間とはぐれたベクシルは、ある女性に助けられる。

 それが、レオンのかつての日本での恋人、マリア(下写真右)だった。



 レオンは、彼女が心配で日本に潜入したのだ。

 不安を感じて粗末な小屋から飛び出ると、そこは、夕陽が照りつける、横浜ラーメン博物館もとい香港の女人街のような、ハダカ電球をつるした屋台と人混みが際限なく続く雑多で活気のある、どこか懐かしい三丁目の夕陽的世界だった。

 背後から銃を突きつけられ、小屋に戻されるベクシル。

 銃を握っていたのはマリアだ。

 このマリアがイイ。実際に観ればわかるが、彼女がこの映画の真のヒロインだ。

 寡黙で冷静で毅然としていて、美しい

 あー5000字越えた。続けます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月19日 (水)

ブログを書くということ

 物を書く、ということは、概(おおむ)ね孤独な作業だ。

 雑誌などの紙媒体に書くのはもちろん、ブログを書く時でさえ書いている間は孤独だ。

 もちろん、わたしなどと違って、人気のあるブログは、書けば、すぐにコメントが書きこまれ、レスポンスがあるぶんマシではあるが、やはり書いている間は孤独だろう。


 かつて、パソコン通信(ってトシがバレるね!)の電子会議室で、人々が文章を通じて意見を交換し始めたとき、顕在化(けんざいか)、表に現れてきたことがある。

 それは、人によっては「文章を書くときに別人格になってしまう者が存在する」ということだった。

 それまでは、紙媒体で編集者などの検閲?が入っていたため、表だっていなかったのが、個人が勝手に文章を発表できるようになって、問題がはっきりしてしまったのだ。

 そういった人々は、文章を書いているうちに、どんどん自分ひとりでエキサイトしはじめ、文章が過激になり、とうとう他人の不興を買ってしまいケンカを引き起こすのが常だった。

 面白いのは、そういった人々、エキサイティング・ライターとでも呼ぼうか、がオフ会に現れると、そのほとんどが、ネットの印象とまったく違う、穏やかな人物であることだ。

 つまり、自分と向き合って孤独に文を書く、という作業は、事ほどさように、自らをさらす恐ろしい作業なのですね。

 わたしなども、自分の意見に自信が無いものだから、ことさら高飛車に〜なのだ!などという文体を多用することがあるので、常に自戒するようにしています。

 どれほど効果があるかは疑問ですが。


 いや、今回、書きたいのは、実はそんなことではありません。


 ここからが本題。

 わたしは、もっぱら本や新聞などの紙媒体を読んで、あまり他の人のブログを見ないのですが、先日、寺山修司の句の評価がどれぐらいなのか見てみようと、ネットで調べてみたところ、あるブログにいきあたりました。

 それは、ネカマでなければ、ある女性が書いているブログで、訪問者数をみる限り結構人気のあるところのようでした。

 副題には「おちゃらけ社会派」とついています。

 わたしなどと違い、現代社会について、日々、色々と考察中のようで、毎日のように、社会現象・政治について長大なブログを綴っています。

 それに、どれだけのエネルギーが必要かを、わずかながらも知っているわたしとしては、大したものだと感心しました。

 が、何かがおかしい。
 
 もちろん、仏教史観を根底に、無常とあわれみで世の中をとらえるよう努力しているわたし(え、そんなふうには見えなかった?今度ゆっくり話しましょう)と、唯物史観というか、米流プラグマティズムを根底に世相を斬る彼女とは相容れるわけはない。

 だから、彼女が、今、生きる自分と人々に対する現世利益について、不公平をブチあげるのは仕方がないことだと思う。


 わたしにとっては、権力者も弱者も、そしてわたしもあなたも、同様に哀れに思えて仕方がないのだ。

 我が尊敬する東海林さだお氏は、温泉でタオルをぶら下げて大浴場に入ろうとして、ふと入り口横の大鏡にうつった、素っ裸の自分をみて、「ああ、なんとあわれな自分よ」と嘆かれていたが、けだし名言である。

 女性の体のように美しい曲線もなく、醜い男が裸でタオルをぶら下げて立っていたら、それは哀れ以外のナニモノでもないじゃないの。

 まあ、人の哀れさについての考え方はともかくとして。


 どういえばいいのか、読んでいるうちに、なんとも嫌な気持ちになるのですね。そのブログ。

 なぜなんだろう、と、知り合い何人かに読ませると、そのうちのひとりがいいました。
「どれぐらい自分がエライと思ってるんだろうね、この人」

 いわれて気づいた。

 確かに、客観的に読むと、紋切り型の断定調で偉そうに見える!

 自分と同じような書き方なので、気がつかなかったのだ。こわいなぁ。

 つまり、始めに書いた「エキサイティング・ライター」のように、書くうちに、どんどん自分の中で煮詰まって、自己完結しながら文章を我田引水的に練り上げていってるんでしょうね。

 おそらく、会って話をすれば、おとなしい人なんだろうけど、文章は、確かに偉そうでした。改めて読むとわかった。

 あー自戒せねば。

 その昔、岸田秀という人の書いた「きまぐれ精神分析」シリーズが一世を風靡したことがあった。

 わたしも中学だったか、高校だったかで読んだが、後に、サイエンス・ライターの鹿野司氏がこの本をさして「使える本だったからあれほどヒットしたのだ」と書いているのをみて、大きく頷いた覚えがある。

 つまり、この本の中で、わかりやすく、使いやすくパッケージ化された精神分析の言葉は、友だちとの会話で、自分を大きく見せるために、ひどく「使える」文章なのですね。

 興味がおありでしたら、ぜひご一読ください。

 で、その女性のブログのコメントを読むと、多くの、おそらく若者たちが「あなたの意見を自分のモノみたいに使わせてもらってます」などと書いている訳です。

 くだんの女性も、そんなふうに使われるのは嬉しい、と答えています。

 つまり、彼女は、時事の話題のパッケージ化をおこなっているのだな。「きまぐれ〜」のように。

 それもそれでいいでしょう。

 だが、問題なのは、彼女の文章の、というか、その文章作成の根底にあるものです。

 そして、このことは、おそらく、今後、多くのコンテンツ作成の問題と議論のテーマになっていくものと思われます。

 かつて、役人が作った報告書の多くの部分が、出所真偽のほどもサダかではない、ウィキペディアの引用で占められていて問題になりました。

 ネットで検索し、ヒットしたものの中で、自分のセンスにあったものを集めて、文章を組み立てていく。

 そうすれば文章は容易に組み立てられます。自分は、触媒、フィルターなのだ、と納得しながらね。


 以前、といっても10年以上前だが、立花隆が「インターネットは素晴らしい、世界の革命だよ」と熱っぽく語り、大学教授から「そりゃあなたは、ジャーナリストだからねぇ」といなされていたことがあった。

 このあたり、うっかりすると聞き流すようなことだが、ここには重大なテーマを含んでいるようにわたしには思える。


 誤解を恐れずいえば、ジャーナリストは、いわば、バックに大きなものを持たぬ、根無し草的な思想家、理論家、告発者であることが多い。

 だから、必然的に、強固な理論武装が必要になる。

 それは、言い換えれば、とにかく知らねばならない、ということだ。

 突っ込まれて、知りませんでした、では通らない。

 だからこそ、情報の総体(知識の、じゃないよ。それが問題なのだ)である、インターネットが宝物のように見える。

 それが分かるから、学者先生は立花のはしゃぎぶりがおかしかったのだろう。

 どっちが良いとも思えないが。

閑話休題

 内容から察するに、先の女性のブログのニュース・ソースは、そのほとんどがネットから取り入れたものだ(たまにある自身の海外の体験などは中身が詰まっていて面白い)。

 先に書いたように、あるキーワードでgoogle検索をかけて、自分のベクトルにあう情報をよりわけ、自分の考えをさらに強化するといった手法で彼女は話を紡いでいく。理論武装しながら。

 まあ、そうでもしないと、連日のように、原稿用紙10〜20枚程度の話を書き続けることはできないだろうが……

 それで思い出した、かつて、あのホリエモンが、「マスコミ、とくに新聞社なんていらないよ。だってネットがあるもん」などと発言して物議をかもしたことがあった。

 多分に、彼一流の諧謔(かいぎゃく)も入っていて、愚かなマスコミウケを狙った発言でもあろうが、これはまったく正しくない。

 ニュースは、それ自体、ネットに自動登録されるものではないからだ。

 もし、ある事件があって、それを目撃した者がネットにアップしたとしても、そういった無記名、無責任なソースは信用できない。信用できない情報はクズと同じだ。

 あるいは、もっと悪く、誰かの利益を狙った、「ためにする」恣意的(しいてき)な情報であるかもしれない。知らずにそれをつかえば、悪事に荷担することになるのだ。オソロシイ。

 もし、ホリエがそんなことすら気づかぬネットジャンキーであったなら、とんだお笑いグサだが、ブログを書いている彼女にも、多分にそういった危うい点が見受けられる。

 そういえば、過去のログで、彼女はホリエモン讃歌をしていたな。


 上のことは、わたしの想像だから、はっきりとはいえないが、なにより恐ろしいと思ったのは、彼女がgoogleを全面とはいえないまでも、かなり高レベルに信頼していることだ。

 その傍証として、 たとえば彼女はこんなことを書いている。

「ひとつの事件が起きた時にそれに関するすべてのサイトをまとめて表示するようなニュースサイトを、遠くない未来にグーグルかどこかが立ち上げてくれると信じてる」

あるいは、
「そしてグーグルみたいなところが、それに関する情報を(上記に書いたニュースサイトのイメージで)集めてくる。議論サイトができあがる、みたいな」

 ネットに多少でも詳しい者ならば、いちワタクシ企業に過ぎぬ、利益追求団体のgoogleが、曲がりなりにも、公正に仕事を行っているとは思わないだろう。

 彼らの検索優先順位が、不明瞭で、何らかの恣意が含まれてる可能性が大きいことは誰でも知っていることだ。

 また、技術的にも、googleの不完全な翻訳エンジンで、簡単な英訳すらむちゃくちゃに訳されることもご存じだろう。
 (誰かが故意に間違った訳を正しいと認定すれば、以後、それが使われるためらしい)

 もう一度書くが、ただの私企業にすぎないgoogleを、自分の思想の杖にしてはいけない。

 それが、大人の判断というものだ。

 わたしは、別に、この女性を個人的に攻撃するものではない。

 こういった形態でブログを書いている者は多いだろうから、それを案じているのだ。

 考えてもみたまえ。

 他人のブログあるいはウイキペディア>自分のブログ>自分の意見として友達に話す>聞いたはなしと他人のブログあるいはウイキ>自分のブログ>自分の意見として……

 こういった無意味な無限ループができているとしたら恐ろしいことだ。


 かつて、マンガを描く者は、先輩に、「マンガだけを読んで、マンガを描くな」と教えられた。

 小説もしかり。「小説を書くのに、小説のみをソースとして書くな」である。
 少なくとも、3つ以上の資料を使って書くべきだ。

 まあ、今の若い漫画家やライトのベルの作者の中には、漫画やライトノベルだけを読んで書いている者がいるかもしれない。あるいは、ケータイショーセツしか読まずにケータイショーセツを書いている者も。


 ブログに、上記を当てはめれば、こういうことだ。

 「ブログとネットの寄せ集め」でブログを書くな


 そこには、根底となるどっしりとした土台がない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月18日 (火)

才能への畏怖

 仕事柄、お客さんの歌詞の添削をすることがある。

 自分で歌の作詞もする(仕事で)。
 小説も、まあ少しは書く。

 思うに、それは、おそらく、それらの分野で、わたしがほんとうに恐ろしいと思える才能に出会ったことがないからだろう。

 ブログで雑文書きをするのもそうだ。

 エッセイに関しては、東海林さだお氏が、かなり怖いが、なんとか自分を騙して書くことができる。


 だが、わたしが、ああ、これほどおそろしい才能が存在するのだから、とてもこの世界に足は踏み込めない、と畏怖する分野がひとつある。


 それは歌の世界だ。それも現代の。

 はじめて、この歌を詠んだとき、頭をなぐられたように感じた。


 いや、もっと正確にいうと、句のイメージ、爽やかさ、色、そして風の匂いまで感じつつ、同時に、頭をなぐられたようなショックを受けたのだ。これはもう致命的だ。

 そして、さらに同時に、こんな歌を詠める人物がいる(いた)世界には、とても足を踏み入れられない、と心底怖くなってしまった。


 同工異曲はできても、違う言葉で同様の歌は、とてもできそうに思えなかったからだ。


 その歌は、おそらく、みなさんもご存じだろう。




  海を知らぬ 少女の前に 麦わら帽の 我は両手を ひろげていたり




 寺山修司の作品だ。
 五七の定型なんてシバリは、この歌の前ではフッとんでしまう。


 これは「なんだ、やっぱり天才っていたんじゃないの」とあっさり分かってしまう作品だ。



 わたしは冬が好きで、夏はあまり好きではない。

 だから、夏を代表するアイテムの麦わら帽も嫌いだ。

 そのわたしが、この句を目にしたとたん、

 夏の強い日差し、その結果としての真っ黒な影、熱い風、麦わら棒で出来た少年の顔の上の影、おそらくリボンのついた日よけ帽を被って、薄手の白いワンピースを着た少女の前で、右手に昆虫網を、肩からは採集箱を斜めにかけた少年が、する必要もないのに、背伸びまでして海の大きさを語っている光景が、鮮やかに頭に突き刺さったのだから、もう脱帽するほかない。


 歌を口ずさんで泣いたのは、これが初めてだったよ。本当に。

 と、同時に、恐ろしさ同様、すばらしい可能性を歌というものに感じたのだった。

 全世界の歌を詠む人々よ。
 こういった作品を前に、まだ歌を詠むあなたたちの勇気に、わたしは頭が下がる。

 いつか、わたしがもっとトシをとり、「敵わないまでも、とにかく歌を詠みたい」という気持ちになれば、行った先々、四季の折々で歌を詠むことができるだろう。

 だが、まだまだ、そんな枯れた気持ちには、なれそうにない。


 浅学非才の身なれど、小説でこんな気持ちになったことは、残念ながら未だに一度もないなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月17日 (月)

カッコイイとはこういうことさ その2

 やっぱり気持ちが悪いから、不完全版ながらさっきの話の続きを書きます。

 急いだので、誤字脱字があるかもしれませんがご勘弁を。



 俺は呆れてものがいえなかった。
 このユニットはバカばっかりだ。
 理屈で考えたら、こんな任務は投げだすのが当たり前だ。
「いくら軍といったって、俺たちに、ただ死ねとは命令できねぇだろう」
 俺は、理屈の塊、といった顔で、黙り込んでいるスイス野郎に向かって同意を求めた。 こいつなら分かるはずだ。
「いえ、わたしもやります」
 俺は耳を疑った。
「何をいってやがる。リクツで考えたらわかるだろう。お前の好きな論理だよ」
「論理で考えると、数人の犠牲で星が救えるなら、そちらをとるべきでしょうね」
「お前、死にたいのか?」
「死にたくはありません。わたしにも、結婚したばかりの妻と母親が故郷にいますからね。でも、だから、ここで食い止めないと」
「勝手にしろ、バカどもが」
 俺は、チタン・トーチカの隅に転がっているナパーム・ブラスト砲を取り上げると、出て行こうとした。
「あーすみません。ブラスト砲は置いていってもらわないと。弾もね」
 スイス野郎が、あっさりと言う。
「なんだと。アタマのネジがとんじまったか?」
 俺は鼻でわらった。相手は50億の巨大ゴキブリグモの大群だ。手ぶらで放り出されたら、どこに逃げても致命的じゃねえか。
「それは、あなたの勝手ですよ。でも、軍の備品は軍事行動に使うのが正しいのです」
「うるせぇ。お前らは勝手に死んでろ」
 その時、トーチカの入り口に巨大な影が立ちはだかった。
 白デブオヤジだ。
「どけ、怪我しねぇうちにな」
「ダーめです。ブき、置いていきなサイ」
「うるせぇ」 
 俺は、オヤジに飛びついた。
 体重があるだけに、ロシア野郎は案外よく闘った。
 俺は、振り回され、アーミー・ベストを引きちぎられながらも、何とかデブの首を地面に押しつけることに成功した。
「よし、そこまでだ」
 声と共に、カチャリと、冷たい銃のコッキングの音が響いた。
 見上げると、ジャックが俺に銃を向けている。
「おまえ……」
「俺たちは、あんたを引き留めようというんじゃない。あんたは、逃げるなり、救助を待つなり好きなようにしたらいいのさ。俺たちは、ただ闘うと言っているだけだ」
 俺は、腹の中でニヤリと笑った。
 こんな状況は、ブロンクスでも何度かあった。それを切り抜けて俺は今、生きてるんだ。

「わかったよ。俺が間違っていた。一緒に闘おう」


 ここからは、チョイ詳しメの梗概(あらすじ)で書きましょう。

 作戦トーチカから、谷間近くの迎撃トーチカに移動して戦闘が始まると、それは主人公の想像以上の激しさとなった。

 途中で、ブラスト砲を抱えて逃げだそうと考えていた彼も、生き延びるために必死で闘わざるを得なくなる。

 しばらくして、彼は致命的な失敗をしたことに気づいた。
 トーチカにナパームブラスト弾を落としてきたことに気づいたのだ。

「おい、おまえ、あと何発ブラスト弾をもってる」
 彼は、塹壕の中で忙しく動き回っているスイス人に声をかけた。
「三発ですね」
 即座に彼が答える。
「俺はあと一発だ。さっきの殴り合いで落としちまった」
 この後、スイス人とロシア人の間で、どちらが弾を取りに行くかで、言い争いになる。
「待ってください、あの人はどこですか?」
 突然、スイス人が大声を上げる。
 気がつくと日本人の姿が消えていた。
「彼は、さっき、こっそりと出て行ったよ」
 ジャックがいった。
「あの日本人、逃げやがったな」
 唸る主人公。
「お前、どうしてとめなかったんだ。あんなチビでも、銃を持てば戦力なんだぜ」
「いいかげんにアタマを働かせたらどうだ」
「なに?」
「彼が、どこに逃げる?」
「まさか、あいつ……」

 やがて、ドアを開け、日本人が倒れ込んでくる。
「ここに、ブラスト弾があります。と、取ってきました。だから、喧嘩をしないで……協力して……」

 そういって彼は気絶する。

 彼は片手と片足を失っていた。

「今で、三時間経ちました。予備の弾があればあと二時間、なんとかなるでしょう」
 そういいながら、気絶した日本人にスイス人が手早く止血処理をした。

 だが、戦局は、どんどん厳しくなってくる。

 今や、チタン・トーチカの周りはコックロニドだらけで、彼らが体当たりするたびに、重さ20トンのトーチカは小舟のように揺れ動く。

 作戦開始から、4時間50分たった。

 救助機が来るまで、あと10分だ。

 だが、それまでに、ジャックが壁を突き破ってきた角に刺されて死んでいた。




 ここから、ちょっと小説モード。

「ココ、マモらないト、ダメ。あーなた、ハやく、ここ去る」

 ロシア人は、まっすぐに俺を見つめていった。
 恐怖で、瞳孔が小さくなってやがる。
 唇の端からは涎までたらすビビリようだ。
「何をいってやがる、バカ」
「ハヤく、アナた、彼を連レテいく。ハヤク!」
 ヤツは、日本人を指さしていった。
 考えられないことに、俺は、ウスノロの白ブタ野郎に圧倒されていた。
 俺だって荒っぽい育ちだ。命知らずは何人もみた。
 だが、やつらをここに連れてきたら、全員が腰を抜かして、アタマを抱えるだろう。
 恐怖のあまり、おかしくなってしまうかも知れない。
 だが、この男は、恐怖で目が引きつり、よだれを垂らしながらでも、ここを守ろうとしている。

 俺は、何か言おうとした。
 今まで、感じたことのない感情が、俺を満たしはじめていた。
 だが、俺の気持ちは、言葉にならなかった。
 俺は、だまってロシア人を見つめた。
「アレクセイ・ユルゲイノフ」
 それが名前だと気がついて、俺も言った。
「俺はホワイト、ホワイト・ワシントン」
 ロシア人は頷く。

 俺は、日本人を担いだ。

 扉の前で、スイス人が俺を遮(さえぎ)った。
「合図で、扉を開けてください。わたしが先に出て、道を切り開きます」
「同時にでて、ブラストを打ちまくって血路を開いた方がいいぜ」
「それでは、怪我人を担いだあなたが、うまく逃げられない」
「だが……」
「いいから、はやく。あと5分しかないんです」
 また、俺の心がうずき始めた。
 だが、それは痛いんじゃない。なぜかしら、気持ちの良い、暖かい痛みだ。
「コリン、それがわたしの名前です。名字は発音が難しいから、コリンでいい」
「コリン……」
「ホワイト。さあ、開けてください」

 扉を開けると、コリンが飛び出していった。
 凄まじい音とコックロニドの悲鳴が交錯する。

 音は徐々に遠くなり、最後に、恐ろしい爆音と地鳴りがしてトーチカの外は静かになった。

 日本人を担いだまま、俺はドアを開けた。

 回収場所まで、まっすぐに道が出来ていた。

 道の終わりに、巨大なクレーターが出来ている。

 いま、起こったことは明らかだ。

 コリンは、ブラストを打ちまくって突っ走り、最後に、アニヒ爆弾を使って自爆し、コックロニドを掃討したのだ。

 俺は、もう一度、アレクセイを振り返った。
「サ、イって、ホワイト、ハヤく!」

 俺は、最後に、何か言おうとした。
 だが、言葉は出てこなかった。
 俺は、今まで自分はアタマが良いと考えていた。
 だが、実際は、なんてデキの悪いアタマだ。
 俺は唸り……なんとか言葉をひねり出そうとして、最後にひと言だけが、喉を通り抜けた。

「あばよ。アレクセイ」

 扉を開け、走り出ると、俺は叫びながら異星人の死体の上を突進した。

 胸の中に溜まった熱いかたまりが、俺の喉を通り、叫びとなってほとばしっていた。

 顔に生ぬるさを感じて手をやると、濡れていた。
 信じられないことに、俺は泣いてたのだ。

 ガキの頃、母親の指図で、変態ジジィの相手をさせられて以来、泣いたことなど無かった俺が……

 コリンが作ったクレーターにたどり着くと、俺は、座標を確認した。
 誤差無し。ぴったり合流地点だ。

 さすがコリンの作ったクレーターだけのことはある。

 俺は日本人をおろし、ブラストを構えて救助船を待った。
 1分、2分、予定の時刻を過ぎても、船はこなかった。
 クレーターの縁で蠢(うごめ)く影が見えた。コックロニドが近づいているらしい。
 さらに2分が経つ。
 もうダメかと諦めた時、漆黒の空に、フラッシュライトが光るのが見えた。
 だが、船は旋回をするだけで、こちらには気づかない。
 俺は、ビーコンを探ったが、コンバットベストは、アレクセイとのもみ合いで無くなっていた。日本人は、手当の時にベストを脱がされている。
 諦めかけた時、1キロ先のトーチカが、凄まじい閃光を放って消滅した。
「やったな、アレクセイ」
 おそらく、トーチカを攻め落とされたアレクセイが、コックロニドを道連れに自爆したのだろう。
 閃光は、クレーターの真ん中に立つ、俺の影を長く浮かびあがらせた。
 救助船のボンクラどもも、それに気づいたようだ。
 ゆっくりと降下してくる。
 俺の胸の高さでホバリングした船は、スライドドアを開けた。
 俺は、差し出された手を払って、日本人をそっと抱き上げると、船に押し込んで、叫んだ。
「足と手を失っている。そっと扱ってくれよ。友達なんだ」
 救命員は、耳に手を当てて聞き返す。
 俺は、いいんだ、と、手を振って、船のサイドバーにつかまった。
「行ってくれ」
 船は上昇を開始した。

 いきなりのショックを足に感じた。
 いつのまにか、コックロニドの群れが近づいていたのだ。
 凄まじい力で下に引かれると、俺の体は地面に落ちていった。
「いいんだ、行ってくれ」
 落下しながら、俺は、何か叫ぶ救助員に向かって言った。
「せめて、アイツだけでも助けないと、俺たちのやったことが無駄になるからな。なぁジャック、コリン、アレクセイ……」
 急速に小さくなる船を、コックロニドの間から見ていた俺は、やがて、世界が純白に輝くのを感じた。なんだか、とてもいい気分だった。


「ついてる野郎だ……」
 救助員が、床に倒れている日本人を見下ろしていった。
「この作戦で、助かったのは、こいつを含めて10名以下だろう」
 パイロットが振り返って言う。
「まあ、死んでもともとの犯罪者だからな、コイツらは」
「だが、あの大男の黒人は、いったい何を言っていたんだ」
「さあ、コイツを頼む、と言っていたような気がするが……」
「まさかな」
「国なしの日本人を、まして犯罪者の日本人を誰が助けたがるっていうんだ」

 パイロットが、そう言った瞬間、星全体が銀色の光に包まれた。

「まあ、結果的に、安い代償でこの戦争に勝つことができたな」
「地球のゴミ掃除ができて、同時に戦争に勝つとは、うまいやり方だったな」
「本当に、うまいやりかただった」

 こうして、アルバリア星系からMクラスの惑星がひとつ消滅したのだった。

             <了>

 あ、カッコイイ話じゃなくて、嫌な話になってしまったかも。

 蛇足ながら書いておくと、どうやら、わたしは勝てない戦いで、逃げても良い状況下、弱い人間が見せる一瞬の勇気、というやつと、頑なな心が溶けてその下から純な気持ちを見せる一徹モノの話が好きなんでしょう。

 おはずかしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月16日 (日)

カッコイイとはこういうことさ

「格好いいとはこうことさ」というセリフを流行らせたのは、宮崎駿の「紅の豚」だった。
 だが、わたしは、あの映画を、どうにも「カッコイイ」と思えなくて困ったものだった。
 ただの、ブタ太りのヒゲ親父が、らしくないキザな台詞を連発するだけの映画、わたしにはそう思えた。

 じゃあ、カッコいいのは、どういうこと?

 そうだなぁ。例えば、わたしにとっては、こんなのがカッコいいな。


 俺が、アルバリア星系にある、唯一のMクラスのこの星にやってきて二週間が経つ。
 到着するなり小編成に分けられ、俺たちは惑星各地にバラまかれた。
 俺たちのリーダーは、ジャックという、士官学校を出たての銃も満足に撃てない若造で、俺の顔色ばかり見てやがる。

 まあ、ヤツが怖がるのも無理はない。

 地球にいる頃、俺は、ネオ・ニューヨークの血の気の多いギャングの中でも、一目置かれるブロンクスのぺドロザ一家の幹部だった。
 赤貧の中から成り上がった叩き上げのヤクザだ。怖いものなど何もなかった。
 会合の時も、よその親分連中は、陽子シールド発生装置を持たせた用心棒を立体格子状に配置してクルマを乗り降りしていたが、俺はなんの防御もしなかった。人間、死ぬ時は死ぬのだ。

 俺たちが、今、闘っているのは、クモに似た低脳異星人どもだ。
 ただの、デカいムシケラに過ぎない奴らが、5年前から地球に向かって攻撃をかけてきやがったので、この地球から3光年離れた場所が最前線となったのだ。
 最前線だぜ。危ない戦場だ。
 俺も、ヤクザを10人殺ったついでに殺した一般人3人の特赦を餌に、この激戦地に送り込まれてきたってわけだ。
 だが、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。生きて帰って、またブロンクスでブイブイ言わせなきゃならんからな。今までもそうだった。どんなところからでも生きて帰ったんだ
 だが、自分で言うのもなんだが、さすがに最前線のこんな星に送られてくるのは、死んだって構わない奴らばかりだ。
 俺の行動部隊は、ファイブマンセル。五人でひとつの機能をもつユニットだが、使えるヤツはほとんどいない。
 リーダーは、さっき言った若造で、こいつは使い物にはならない。いつも亜空間ネットに端末をつないで、どうやって生き延びるかばかり検索してやがるオタク野郎だ。
 二人目は、体重が150キロはあろうかという、白ブタ野郎だ。アゴが首に埋まって、首も回りゃしねぇ。おそらくロシアの方から送られてきたトロい農夫だろう。翻訳機を使わないと話も満足にできないんだ。
 三人目は、ドイツ系らしい、オハジキのように青い目をした小男だ。
 少し話をしただけだが、理屈っぽいことばかり言いやがって、数字ばかり並べやがるから、ほんの冗談で、軽く口に拳を当ててやったら前歯がぶっ飛んで、それからは静かになりやがった。今、気がついたが、こいつはスイス人かもしれねぇ。
 ネオ・スイスの銀行へは、地球の金持ちの金のほとんどが集まっているんだ。人口の8割が銀行員で、数字に強いのは当たり前だ。あいつは、金を使い込んだのかも知れない。 こんど暇な時に少し脅してみよう。
 最後のひとりは、これもチビの日本人だ。
 といっても、20年前に日本は沈んじまったから、もうそんな国はないんだが、やつは自分のことを日本人だと思っているらしい。こいつのことは良く知らない。目の吊り上がった東洋人など、俺のしったこっちゃない。

「ちょっと集まってくれ」
 ハンド・メッセージボード(携帯端末)を見ていたジャックが皆を集めた。
「コックロニド(そうそう、そんな名前だった)たちの主力部隊がスタニスラフ平原に集結している」
「おあつらえ向きじゃねえか」
 俺は肩をゆすった。スタニスラフ平原は、奴らのスペース・ポートへ通じるほそい谷間の手前にある広大な平原だ。奴らは、そこに集まってから、鉄壁防備のスペースポートに流れ込み、地球へ向かうのだ。
 今まで、俺たちも何度か岩陰にかくれて、奴らをねらい打ちするミッションをこなしてきた。
「今回は、通常のミッションではないんだ」
 俺はジャックの顔をみた。声が震えていやがったからだ。
「この星は、どうやら奴らの揺籃星だったらしい。だから星内部から、奴らが際限なく湧き出てきているようだ」
「ようらんってなんだ?」
「ゆりかごってことですよ。つまり、奴らは、この星に卵を産み、幼児期をここで過ごすんです。そして大きくなってから地上に出てくる」
 スイス野郎が、珍しく真っ青な目に感情を見せていった。
「黙らないと、また歯が減るぜ」
 俺はスイス野郎を黙らせると、ジャックをにらみつけた。
「際限なくって、何匹いやがるんだ」
「50億以上」
「なんだと」
 俺の体が総毛だった。初めて感じる感情だ。言い忘れていたが、奴らは巨大で、これ以上醜くはないという姿をしてやがるんだ。それが50億。想像を超えている。
「軍は、俺たちにどうしろっていうんだ」
「谷間に陣取って、5時間だけ奴らを食い止めろ、ということだ」
「とんでもない!」
 俺は、他の四人を見回した。
「俺はいかないぜ」
「ゴ時間クイとめる、どうなる」
 白ブタ農夫が、甲高い声でたずねた。
 俺は少しおどろいた。こいつとは、翻訳機を通じてしか話をしたことがなかったので地声を知らなかったのだ。
「五時間後にリフト・レスキュー機が我々を救いに来てくれる」
「……」
「わかった。正直に言おう。軍は、俺たちが奴らを食い止めている間に、スペースポートに反陽子爆弾を打ち込んで、星ごと奴らを消すつもりだ」
「そんなことを、なぜ知っている。奴らが下っぱのお前にそんなことを教えるとは思えねぇ」
「君は、勘違いしているようだったが、俺は、士官学校を出て、ここにいるんじゃない。以前の俺はバーチャル・ネットの住人だったのさ」
「クラッカーか」
「そういう言い方もあるな」
 それでわかった。おそらく、こいつは、ネット上の政府の重要部門に入り込んで捕まったクラッカーだったのだ。そして、ここに送られてきた。
「さっき、軍のネットに潜って、その情報をつかんできた」
「俺は逃げる」
 先に俺はいった。
「五時間、どこかに隠れているぜ。救助船が来るのも怪しいが、戦ったら絶対に助からねぇからな」
「その計画は、有効なんですか?」
 スイス人が尋ねた。
「俺たちの命はともかく、50億の奴らを、この経由地で叩けば戦局は決まるだろうな」
 俺は驚いてジャック見た。こいつらは何をいってやがるんだ。
 農夫が、おどおどと口を開いた。
「わたーし、怖いケド、残ります。ここデ引き留めたら、チキュウのわたしの奥さん、コドモ助かります」
 俺は、白ブタを睨みつけた。きっとすごい形相だったのだろう。
 口を開けようとした、その機先を制して声がした。
「わたしも残りますよ。地球には、日本が沈没してから、優しくわたしたち家族を受け入れてくれた人たちがいますから」
 日本人が、驚くほど流暢に英語を操っていった。



 あー長すぎる、しまった。わたしは自分の能力を忘れていた。
 わたしには、ブログ一回分で、カッコイイ話なんかかけなかったのだ。
 もう、格好良くなるまえに、おわっちまおうかな。

 えー皆さん、こういうのがカッコ悪いことですので、これの反対がカッコイイと考えていただければ、と……あー座布団投げないで、九州場所では禁止ですよ。



 そうだ、既存のカッコイイ話をつかおう。


「グロリア」

 本当に、カッコイイとはこういうことだ、というのは、ジーナ・ローランズ演じるグロリアにトドメをさすだろう。

 もう、言い古されているから、今更わたしが付け加えることなど何もない。検索エンジンで、「グロリア ジーナ・ローランズ」をキィワードに検索すれば、いくらでもヒットするだろう。
 グロリアだけじゃ駄目だよ。最近リメイクされた、シャロン・ストーンのやつもあるからね。

 ああ、どっちつかず。グロリアについては、以下次号。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月15日 (土)

キャシャーンSins 〜滅びに向かう世界〜

 今、深夜枠で、新造人間キャシャーンのリメイク、「キャシャーンSins」放送されている。


 正直にいうと、わたしは、キャシャーンSinsのキャラクターデザインが、あまり好きではない。

 ヒロイン(ロボットだが)の目が大きすぎ、顔が逆三角形にデフォルメされすぎているからだ。

 なんというか、パワーパフガールズみたいに感じてしまうからだな。

 それがかえって、キャラクターのアンドロイドらしさを示してはいるのだが。

 一方、キャシャーンの特徴である華奢すぎるカラダのほうは、かなり、うまく表現できているように思える。

 絵柄はともかく、大切なのは内容だ。
 これが、なかなか興味深い。

 たくさんある謎が、どれも魅力的なのだ。


 リメイク版には、ほとんど人間が出てこない。

 こいつは「ヒトかな」と思っても、たいがいがアンドロイドだ。

 以前のキャシャーンは、ヒト対アンドロイドという構図だったが、今回はそう単純ではないらしい。

 公式サイトはココ

 
 ああ、そうだ。

 前作のキャシャーン(以後オリジナルと表記)ができなかったことを、今回のキャシャーンSins(以後Sinsと表記)はできるのだった。

 それはヘルメットを脱ぐことだ。

 オリジナルはヘルメットを脱がなかった、いや、脱げなかったことで、一見人間に見えるキャシャーンが、中身は本当にロボット(新造人間)で、あのヘルメットの中には髪の毛はないのだ、と子供たちに納得させる効果があった。

 オリジナルのエネルギー源は太陽エネルギーで、ヘルメットを使ってチャージしていたから、ことさらヘルメットは脱げなかったのだろう。

 ヘルメットとアタマがコードでつながっていたらちょっとシュールだものね。

(付け加えると、一度だけ、キャシャーンは上月ルナのMF銃体の中に収納して持ち運んだことがある。やはりロボットだ)


 ちなみに、当初、キャシャーンは新造人間ではなかった。
 月間テレビマガジンの予告ではネオロイダーと記載されていたのだ。
 テレビ化に際して、広告会社の人間のアイデアで「新造人間」に変更されたらしい。
 このあたり、チャンピオン連載開始時に、ミクロイドZであった作品がテレビ化でミクロイドSになったことと似ている。

 とにかく、Sinsはヘルメットを脱ぐことができる。
 おまけに、ノーヘルの顔は、まるでセイントセイヤだ!髪の毛長すぎ!


 ストーリーそのものは、単なるリメイクモノとは一線を画す内容となっている。

 Sinsの世界観、キーワードはHOROBIだ。

 すべての生き物、ロボットが滅びの道を歩んでいる

 この意味が、まだよくわからないのだが、何回か観ているうちに、どうやら、ロボットのカラダが異常に早く劣化して機能停止してしまうことをいっているらしいということは分かった。

 世界全体にゆるやかにMF銃が作用しているような感じだな。

*MF銃
 オリジナルでは、上月ルナの父、上月博士がアンドロ軍団を倒すために作り出した。
 基本電子頭脳核を自動分別し、ロボットのみを攻撃する銃である。
 基本電子頭脳核は自律駆動機械には必須部品であり、『アンドロ軍団』とて例外では無い。
 MF銃は、この基本電子頭脳核を分別し、特殊磁界内爆融解させる事を可能とした超兵器だ。

 だが、キャシャーンは違う。不死身だ。

 出会うロボットすべて、旧タイプロボット型も人間そっくり(安部公房)型も、ともにボロボロとカラダが崩れ破損し続ける中にあって、キャシャーンの華奢な(しつこいって)純白ボディーは、本当に傷ひとつ、シミひとつ無い美しさだ。

 その美しさは、オリジナルと違って戦闘で傷ついても自動修復される徹底ぶりだ(ナノテク・ボディか?)。

 だが、カラダの強靱さにくらべてキャシャーンの精神は病んでいる。

 記憶を失っているのだ。

 キャシャーンは、以前の彼を知るものの口から、彼が、人間に反旗を翻したブライキング・ボスの命をうけて、上月ルナを殺したこと、それが原因で世界が滅びに向かっていることを知る。

 ルナ、一般に「月という名の太陽」と呼ばれている少女は、キャシャーンと同じ不死身の体を持っていた(ってことはロボット?)らしいが、彼女を殺してから世界が滅びへと向かい始めたのだという。

 絶望したキャシャーンは、死を望み、敵に我が身をさらす。

 滅びを免れるためには、キャシャーンを喰えば良い、という噂がひろまっているため(人魚の肉かよ!)、ロボットたちはキャシャーンに襲いかかってくる。

 だが、敵に襲われ危機に直面すると、キャシャーンの防衛本能スイッチがオンになり、すさまじいパワーを発揮して敵を粉砕してしまう。

 棺覆って定まる。

 まだ7,8話しか放送されていないので、どういうデキか評価するのは難しいが、あとしばらくは、話の展開を見守るつもりだ。

 このまま、世界観が破綻せず、謎がコケ脅かしでなければよいのだが。
 

 この作品をご存じない方のために、第7話「高い塔の女」をちょっとだけご紹介。

 タイトルは、もちろん、1962年度のP.K.ディックの中期の傑作「高い城の男」をもじったものだろうが、内容的には一切関係がない。

 ディックの方は、第二次大戦がドイツ・日本連合軍の勝利に終わり、アメリカが日独によって分割統治されている世界、いわゆるパラレル・ワールドを描いた小説だ。

 その世界に、いつしか連合国側が勝利したという小説がアングラで流行(はやり)だし、人々はその話に奇妙な現実感を感じて仕方がなくなっていく……

 例によって、ディックお得意の「自分の立っている足下が、奇妙にグラグラし始める」現実不安定化ストーリーなのだが、興味があったら、一度、読んでみてください。
 日本人が好意的に描かれていて、我々にとってはナカナカ気持ちの良い作品です。


 Sinsに話をもどして、キャシャーンがルナを殺して数百年、地上のすべてのモノが滅びに向かい、建物は崩壊し、ロボットはスクラップになっていく荒野をさすらうキャシャーンとフレンダーの前に、いびつな塔が見えてくる。まるで、大坂富田林にある平和記念塔のようだ。ちょっと違う?

168

(手元にあった写真を使ったところ、どこかのサイトの写真であったようで、警告を受けました。申し訳ありません。自分で撮ったものと混ざっていました。というわけで、さっそく、本日[2010.8.23]、富田林まで出かけて撮ってきました。↑ついでに下から見上げた写真も撮りました。やはり巨大ですね↓)

169

 不思議な気持ちで、塔を見上げるキャシャーン。
 そこへ、ナッパ服、もとい作業ツナギを来た女性(やっぱりアンドロイド)が現れ、

「この滅びの世界にも、まだ美しいものがあることを皆に示したいから、あの高い塔の上に鐘をつるして、リンゴン、リンゴンと美しい鐘の音を響かせたい」

と告げる。

 キャシャーンは、「この世界を美しいというひとに初めて会った」と、引き留められるまま、彼女が鐘を鋳造するのを見ることにする。

 だが、彼女、リズベルの目的は、美しいキャシャーンのボディを、鐘の材料にすることだった。

 工場が止まり、することもなく電子頭脳にも狂いが生じて賭けポーカーばかり続ける半スクラップの作業用ロボットを襲って手に入れた、デキの悪い材料では良い鐘ができないと、彼女は考えたのだ。

 リズベル自身、凶暴にこそなっていないものの、話し方、思考方法などから、かなり電子脳に滅びが入り込んでいるフシがある。

 キャシャーンを罠にかけ、眠らせた彼女は鐘の材料にしようとするが、実はキャシャーンは眠ってはいなかった。

 リズベルを拒絶し、高い塔を後にしたキャシャーン。

 しばらくして、彼の耳に不気味な鐘の音が聞こえてくる。

 貴金属を含まぬ作業用ロボットを材料に作り上げた鐘は、粗悪なものだったのだ。

 騒音に怒り狂ったロボットたちに、塔から突き落とされるリズベル。

 地面に落ちた彼女の上に、追い打ちをかけるように巨大な鐘が崩れ落ちてくる。

 フレンダーと共に、塔に戻ったキャシャーンは、鐘を取り除いてリズベルを助ける。

「ひどい音だったわ」と自嘲する彼女に、キャシャーンはいう。

「僕の耳には、美しい鐘の音に聞こえた」

 キャシャーンが去り、新たな旅人が塔を訪れると、リズベルが現れ、塔に登ってみませんか、と誘う。

 リズベルは、先にたって、足を引きずりつつ塔を登っていく。

 あの落下の衝撃、鐘の激突によって壊れたのか、それとも彼女にも滅びが近づきつつあるのか、それはわからない。

 塔の上からの景色に感嘆する旅人たちに、リズベルは「この塔には鐘があるから、鳴らしてみませんか」と微笑む。

 見上げる旅人。

 もちろん鐘はない。
 汚い色の鐘は塔の下に転がったままだ。

 リズベルは、鐘のひもを引く真似をして口ずさむ。
「リーン、ゴーン、リーーーン、ゴーーーーン」

「もう鐘はいらないの。心の中で、わたしの鐘は美しく鳴り響いているから」



 こういった、滅びの美を描かせると、日本人は、なんと美しく表現することができるのだろう。

 誰でも、といえば、脚本家と演出家をバカにすることになってしまうが、関西で食べるうどんほどに、当たりはずれがほとんどない。

 もう一度書くが、この調子で、Sinsが進んでくれることを望みます。

 ああ、あとひとつ。
 キャシャーンの声をやっている古谷徹氏は適役です。
 声優に年齢なんて関係ないなぁ、ということは、先日、車を運転しつつ、新「犬神家の一族」の声だけを聞いた時にも感じました。加藤武も石坂浩二も、30年前とまるで変わっていなかった。

 オープニング曲の「青い花」も、素直な歌詞と、既存の曲から離れようとするあまり、奇天烈なメロディラインになったものの、歌のうまさに救われて名曲になってしまいました。

 わたしは好きです。


私のおすすめ:
高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月14日 (金)

最後までガンバレ レッツ補助軸

 みなさんは、補助軸というものを知っていますか?

 補助軸、エクステンダー、えーっと子供の時には何といったかな。鉛筆ホルダー?

 まあ、だいたいは銀色で、お尻のところに消しゴムがついていたり、なくてツルッとしたままだったり……

 そこへ、チビて持ちにくくなった鉛筆を差し込んで、さらに短くなるまで使う道具。


 鉛筆をいれて入り口のところをねじると、しっかり固定される……はずなんだけど、きっちりと固定されたタメシがない。




 書くたびにグラグラするから最後まで使うことなく、すぐに鉛筆殿堂行きとなる。

 え、鉛筆殿堂って何かって?

 説明しよう。


 鉛筆殿堂……それは、短くなった鉛筆を捨てる気になれず、まとめて「そばぼうろ」の缶にいれておくうち、使いきれなかったボールペンと一緒になって、数え切れないくらい溜まってしまったもの。まあ、ゴミ箱みたいなモンです。




 前にも書いたが、わたしは、アンダーライン用に赤鉛筆を使う。

 三菱のバーミリオン。

 最近になって、短くなった赤鉛筆を、エクステンドする補助軸のイイやつがインターネットなどでも紹介されるようになった。

 だが、けっこう高い。

 チビた鉛筆を何とか使おうっていうセコ、いやエコロジー意識の高い人間が、高い補助軸を使ってドーするの、と思っていたら良いモノを見つけました。

 サンスターのグリップ付補助軸PRO!

 これなら、鉛筆は完全に固定されてまったくグラグラしない。

 なんたってPROですから。おまけに安い。




 後部には、回転させると伸びて出てくる消しゴム付。

 実際に鉛筆をさすとこんな感じ。




 見てみて!こんなに短くなるまで、赤鉛筆が使える! 



 皆さんも、鉛筆を使うことは少ないでしょうが、使う際には、ぜひ一度ご利用をお考えください。

 おススメします。

 今ハヤリのエコロジーに則しているような、ただ捨てられない心の弱さのような……


 私のおすすめ:
サンスター文具 グリップ付補助軸PRO GRIP WITH PENCIL HOLDER

| | コメント (0) | トラックバック (0)

もっとも安くドンドン書ける:プレピー 今、現在使っている万年筆その四

 また次の機会に書こうと思いましたが、ついでに書いておきます。

 キャップレスが、量産された「ただひとつのノック式万年筆」ならば、このプレピー(って、「プレッピー」のことだよね?そのネーミング・センス、ちょいハズカシ)は、日本で有名メーカーから市販されている「一番安い万年筆」のひとつなのです。(女子学生向けの小さいプラスティック万年筆など売られていますから、一番安い、と断言できないのがチト辛い)


 わたしが、裏紙などに、思いつきを殴り書きするような場合や、歌詞の添削(そんな仕事もしているんです)をする時に、赤インクを入れて使っているのがプラチナのプレピー210円です。




 なんといっても安い。プラチナの万年筆が210円ですよ。もちろん中国製ですがね。

 コンバータの方が高いのがスゴイ。

 わたしは、これにパーカーの赤インクを詰めて使っています。




 赤インクはパーカーの色が好みなんです。


 ペン先が、わたしの好みからすると少々太いのが難ですが、価格の安さとペン先にイリジウムチップを張り付けたタフネスさが素晴らしい一品です。

 中にいれるインクのカラーによって、ペン先、キャップの色を選べるのもなかなか良いと思います。(わたしは、黒ばっかり何本か買って、詰めるインクを変えているのですが)

 これは、セーラーやパイロットより、もっと軽い気持ちで一本もっていただいても良い万年筆だと思います。


 私のおすすめ:
プレピー万年筆 ブラツク ブラック

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世界でただひとつ:キャップレス 今、現在使っている万年筆その三

 世界でただひとつ、といってもわたしの持っているペンがそれだというわけではありません。

 量産されている世界で「たったひとつのノック式万年筆」がパイロットのキャップレスなのです。




 ペン先はこんな感じです。



 ちょっと変則的なスタイルなので書き味が心配されますが、さすが日本の万年筆メーカー。

 これが書きやすいんですね。

 さきに、セーラーのハイエースを二番目と書きましたが、これと同率二位の書きやすさ、という意味とお考えください。


 書くときは、クリップをはさむ感じでホールドしますが、まるで違和感がありません。

 かえって書きやすいくらいです。

 携帯時は、ペン先が上向きになることと、完璧な自動シャット機構とが相まって、インク漏れやペン先乾燥などを経験したことがありません。

 ペン先はF(細字)ですが、これも絶妙の細さで、わたしには書きやすい。

 文字のトメ、ハライも気持ちよくきまります。

 インクは、ペリカンのブルー・ブラックを使うことが多いですが、気分によっては、ペン先を洗って黒を使うこともあります。

 あと、パイロットには、ペン習字ペン500円と、デスクペン700円という低価格かつ名品もあります。

 わたしがセーラーを一番に推したのは、単に好みだけの問題です。

 パイロットの習字ペンは、ちょっとだけひっかっかる感じがするのです。

 しかし、それは、ペン先の「絶妙に鋭利な細字感」の結果であって、決して欠点ではありません。

 本当に好みの問題です。

 あと、殴り書きなどで、どんどん使っている廉価(れんか)万年筆がありますが、それはまた別項で。


 私のおすすめ:
キャップレス (格子柄) パイロット

| | コメント (0) | トラックバック (0)

セーラープロフィット21 今、現在使っている万年筆その二

 モンブランは合わなかったが、この万年筆は、今まで持った中で一番書きやすい一本だ。


 やっぱり、日本のメーカーだけのことはある。

 日本語の、漢字かな混じりの文章を書くのに最適なペン先のひとつではないだろうか?




 写真のように、わたしは、これにペリカンの黒インクをコンバータを利用して使っている。

 本当は、モンブランの黒が好きなのだが、ペリカン・インクの約800円に対してモンブラン・インク1600円。

 インクは、ドンドン使うだけに、この価格差はちょっと痛い。 

 と、セコさを露呈(ろてい)してしまったが、ホントに、セーラーは書きやすいんだなぁ。


 若い頃は、洋モノ志向で、日本の万年筆なんて、と思っていたがとんでもない。


 実のところ、二番目に書きやすい万年筆も、セーラーの1000円のヤツなのだ。





 これ以外に、リクルート万年筆(1000円)も捨てがたい。

 万年筆を、とりあえず持ってみようかな、と思われる方にお薦めします。
 スーパーの文具コーナーでも売っているしね。


 わたしは、ハイエースにもコンバータをつけて、ペリカンインクで書いています。


 ちなみに、コンバータとは、写真のようにカートリッジの代わりに万年筆に差し、インクボトルにペン先を突っ込んで、コンバータノブを回転させ、インクを吸い上げるものです。
 かなり大量にイロイロ書くので、インクカートリッジよりボトルインクの方が、ずっと安価になります。
 


 私のおすすめ:
セーラー万年筆 プロフィット21 銀 万年筆

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月13日 (木)

モンブラン145 今、現在使っている万年筆その一

 わたしが、持っている万年筆のなかで、一番太い軸、太いペン先の万年筆がモンブラン145です。




 ペン先からインクを吸入させるタイプで、インクはモンブランのブラックを使っていますが、なにせ軸が太く、ペン先が太い。


 ほとんどの作家が、軸が太く、手が疲れないのが良いといっていますが、わたしには少々軸が太すぎました。

 往年の作家のように、名入りの原稿用紙にガンガン太字で書くなら、このタイプが良いのでしょうが、わたしのようにメモと草稿、そして一筆箋で手紙を書く程度の使い方では、ペン先も太すぎます。

 ペン先を変えようとも思いましたが、145には、わたしの気に入った細字はないようです。

 結局、今ではインクを抜き、洗浄して引き出しの奥にしまってあります。

 いつか、再び145を使う日がくるのかなぁ。

 でも、たくさん書いても、指が疲れないのは確か。

 太いペン先を許容できる人なら、おそらく、これ以上の万年筆はないでしょう。


 私のおすすめ:
MONTBLANC モンブラン 万年筆 P145F

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いつもいつまでもトガっていたい Uni クルトガ

 わたしの筆記具の好みは、

 万年筆>水性ボールペン>鉛筆>つけペン>ボールペン(水性以外)>シャープペンシル

という順になって、シャープペンシルは一番最後にくる。

 子供の頃から、すぐに芯がつまる上に、妙に字が太いシャープが好きではなかった。

 鉛筆ならば、シャープナーやナイフをつかって、いつでも尖らせることができるのだが、シャープペンはそういうわけにもいかない。

 が、このたび、わたしはシャープペン(450円)を買いました。

 200円以上するシャープ(シャーボなどの複合ペン除く)を買うのは数十年ぶりだ。

 その名はUniのクルトガ

 クルトガ・エンジン搭載のスゴイヤツ。




 詳細はこちらで。

 ひとことだけ書いておくと、これは、書くたびに筆圧で芯が少しずつ回転して、常に芯が尖(トガ)っている状態になるシャープペンシルだ。

 ツミトガなき者を罰するのはイカンが、クルトガあるものを使うと、なんだか非常に気持ちよく文字がかける。

 なぜ、シャープペンシルを買う気になったかというと、もう最高に気に入っているノートの地?が薄くて、愛用のSignoでは透けてしまうからだ。

 その話は別項にて。

 とにかく、新規開発のクルトガ・エンジン、なかなか良いです。

 ひとつだけ心配なのは、機構が複雑そうなので耐久性がどの程度なのか、わからないことです。

 文具店で見かけたら、いちどお試しを。

 クルトガには0.3mmと0.5mmの2タイプがある。

 わたしは、今回、生まれてはじめて0.3mm芯のシャープペンシル、英語で言うと「メカニカルペンスル」英国でいう「プロペリング・ペンスル」を買いました。
(ever sharpって呼び方は商標だから、セメンダイン、ホッチキスと一緒でちょっと違うね)


 私のおすすめ:
三菱・クルトガ0.3シャープペンシル

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

赤い風車 観てしまいました。 

 トゥールーズ・ロートレックに関しては、書きたいことがたくさんあります。

 前にも書きましたが、わたしは孤独な男が好きです。
 
 その意味で、ロートレックほど孤独な男は少ないのではないかと思っています。

 もちろん、見かけ上、ロートレックは、陽気で冗談が好きで、美食家で、女好き。

 天下の勘違いオペラ「ミカド」もかくやの「公家写真」など、自らを道化にして人を楽しませよう、そして自分も楽しもうとする娯楽の権化……

 でも、彼の本質は、そうではない。

 高名な貴族であった見栄えの良い両親から生まれた、不完全な己(おのれ)の肉体を誰よりも憎んでいたのは彼自身だったでしょう。

 彼の人生を知るものであれば、誰であろうとそれは否定できない。


 今、書くのはここまでにして、ロートレックについては、また日をあらためて、書くことにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

はやくテレビをつけて、観て「赤い風車」

 急いでいるので用件だけ書きます。

 今、12日、午前0時53分です。

 ついさきほど、0時50分からNHK-BSでジョン・ヒューストン監督の「赤い風車」が始まりました。

 あの、絶対的に孤独な画家、トゥールーズ・ロートレックの生涯を描いた名作です。

 とにかく、こんなブログを読むのはやめて、はやくテレビをつけて観てください。

 はやく、はやく、とにかくはやく。

 わたしはいつも、かの画家の孤独な胸中を思うと気が遠くなってしまいます。

 それを、正しく描いた、最初の映画が「赤い風車」です。

 赤い風車=ムーラン・ルージュは、最近つくられたミュージカルのように陽気なウソ話ではありません。

 とにかくみてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月11日 (火)

K-9は警察犬だ じゃあK-20 は? そう怪人二十面相……

 かつて、ミステリ好きだった子供たちの間では、ルパンファン(三世じゃなくてホンモノ)か、ホームズファンかでグループが二分されたものだった。

 前にも書いたが、わたしは、もと日本シャーロックホームズ協会会員なので、当然、ホームズ派だった……なんてことはまるでなく、ルパンとホームズのどちらも嫌いだった。

 当時、わたしは江戸川乱歩の少年探偵団、ぼ、ぼ、ぼくらは〜のアニメじゃなくて、ジュブナイル版(江戸川乱歩による小説)の少年探偵団「青銅の魔神」などの大ファンだったのだ。

 もちろん、当時から、乱歩がホームズベーカー街イレギュラーズ(不正規連隊)を翻案して、少年探偵団を書いたのは知っていたが、昭和初期、あるいは戦後復興後の東京を舞台に、上流階級の世界で起こる事件がとても素敵に思えたのだ。

 実際に、当時の日本では、ほとんどがバラックや合板の復興住宅、ひどい場合にはバスを住宅にしていたのに、少年探偵団に出てくるのは瀟洒(しょうしゃ)な洋館と世界的に有名な博士、そしてその令嬢だったのだから。

 そして、わたしは怪人二十面相のファンだった。

 わたしにとっての明智は、天然パーマで野口英世似のサエない奴だったし(挿絵が悪かった?)、しまいには、助手の女の子に手をつけるとんでもない野郎だった。

 その点、二十面相はスマートだった。
 ミステリアスだった。

 おそらく二十面相のモデルとなったであろうルパンは、フランス人らしく妙な気取り屋で、まったくミステリアスさを感じなかったし、ホームズは、なんだか頭が良いだけの「正義の人」で面白くなかった。
 今、思うと、いくつか読んだジュブナイルがいけなかったのだなぁ。ホームズを、立派な探偵に描き過ぎていた。まあ、まさかコドモ向けの本でヤク中探偵に描くわけにもいかなかっただろうが。

 高校になって、注釈付シャーロックホームズ全集を読んで初めて、ホームズが腺病(せんびょう)質の麻薬中毒者であることを知り、大ファンになったのだった。

 それはともかく。

 子供の頃のわたしの英雄は怪人二十面相だった。

 だから、実写版「少年探偵団」は大嫌いだった。二十面相がヘボすぎて。

 いつか、わたしの手で正しい怪人二十面相を復権させてやる、じっちゃんの名にかけてぇ(会社員だったけど)、と、思ったこともあったのだが……

 先日、行きつけの映画館の前を通ると、下のようなポスターが目に入った。




 なんだか、スパルタン?な20面相にちょっと気が惹かれた。
 なんたって二十面相なんだし。

 おまけに初代シルバー仮面に似てるじゃない。
 愚かにも、わたしは実相寺監督がリメイクした「シルバー假面」(字が違うッショ)まで手に入れて、ガックシしたほどのシルバー仮面ファンなのだ。

 調べてみると、江戸川乱歩の小説に登場する、怪人二十面相の真相に迫った、北村想の「怪人二十面相・伝」を原作とする「K-20 怪人二十面相・伝」が、上の映画とのことだ。




 金城武や仲村トオル、松たかこといった出演者が名を連ねている。




 制作者のコメントを読むと、彼ら団塊の世代がノスタルジーを感じるALWAYS時代(昭和二十年代後半〜三十年代)を舞台に、ALWAYSのスタッフが作り出す冒険活劇とのこと。

 怪人二十面相に間違えられたサーカス芸人金城武に、仲村トオル演じる名探偵明智小五郎がからんで、ひょっとしたらおもしろいかも、という雰囲気の映画だ。




 まあ、公式サイトでトレーラーでも見てください。

 公開されたら(12/20)、どうしようかなぁ?

 金よりも時間よりも、ハズした映画を観ると、自分自身にハラが立つゥ(Gロボの中将長官風)ので迷うなぁ。

 ちなみに、タイトルのK-9とは米国におけるK-9課(警察犬課)のことです。映画「K-9/友情に輝く星」(ジェームズ・ベルーシ主演)などで有名ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月10日 (月)

奇人・変人・天才ニコラ・テスラの夢 マジシャン映画〜プレステージ〜

 その男の名を、初めて知ったのは高校の授業だった。
 それは、ほんのサワリだけだった。
 頻繁に、その名に接するようになったのは大学に入ってからだ。
 
 電子工学を学ぶ上で、磁界、およびそれを束ねた磁束密度は避けて通れないのだが、その単位をテスラ(記号: T)というのだ。

 ご存じのように、学術単位のほぼすべては人名である。

 誤解を恐れず極論すれば、動植物学者の究極の夢新種己(おの)が名を冠することであり、天文学者の究極の夢はに、物理学者の究極の夢は単位オノレの名をつけることだ。

 それに比べれば、ノーベル賞など軽い軽い……のかも。

 ガウス(磁力単位)ニュートン(力の単位)ジュール(熱エネルギーあるいは仕事の単位)パスカル(圧力)も人名だ。

 あ、プランク定数とかファンデルワールス力とかもあるが、やはり単位は使われる頻度が違うからねぇ。やっぱ単位ですよ。

 では、テスラとは何者か?


 1856年7月9日、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)に生まれる。
 電気技師・発明家。交流電流、ラジオや無線トランスミッター、蛍光灯、テスラコイルなどの多数の発明をする。
 8か国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通。

 近年、研究というか、禁忌(タブー)感が薄れたための封印解除といったものが進み、様々な研究書や論文が発表されているが、わたしが、初めて、単位以外のテスラ、人としてのテスラを知ったのは荒木飛呂彦監修のコミックだった。

 たしか1989年のことだ。

 調べてみると、当時、荒木氏が忙しかったためアシスタントが作画をしている。

 その中で、テスラは、尖ったものを好み、丸いモノ、特にタマゴを見ると吐き気をもよおす一種病的な男として描かれていた。(詳細は「変人偏屈列伝」にて)

 まあ、すごくコテコテにいってしまえば、天才にありがちな変人だったわけだ。

 直流を推(お)した発明王エジソンに対して、テスラは交流の利点を強調した。
 実際には直流より交流のほうがはるかに使いやすい。
 トランスを使って電圧を容易に変えることができる上に、減衰、つまり弱めずに遠くに送電しやすいからだ。
 だから、今、公共サービスとして直流を使っている国はない(はず)。

 だが、結果的に、商業的才能というか社会的常識に勝っていたエジソンがテスラを圧倒し、世の電気は一時的に直流主体となってしまった。

 直流は安全だが、交流は危険だという、よくわからない理由も捏造(ねつぞう)されたようだ。

 発明王だったエジソンは、さすが王らしくかなり暴君的なこともやったのだ。


 さて、今回ご紹介する映画「プレステージ」にもテスラが登場する。




 公開当時には、荒木飛呂彦氏のイラスト入りステッカー5万枚がプレゼントされた。やっぱり、今のところ、テスラといえば有名なのは荒木氏なのだなぁ。






 この映画は2007年公開で、長らく観たいと思っていたが、果たせずにいた。

 このたび、近くのレンタル店が「旧作を安くレンタルするキャンペーン」をはってくれたので、まとめて借りることができたのだ。

 おかげで、(新)犬神家の一族、獄門島、マインドゲーム、ベクシルなど、書きたい作品が目白押しになってしまったが……


 それはともかく、プレステージ。

 時代背景は19世紀末。

 「Xメン」のヒュー・ジャックマンと、「バットマン・ビギンズ」および「ダークナイト」のクリスチャン・ベイルという、ふたりのマジシャントリックのさや当て(へんな言い方だが、これがなんかぴったりくるんだな)をテーマにした映画だ。

 そんなジャンルがあるかどうかは知らないが、いわばマジシャン映画

 ちなみに、ベイルは、あのスピルバーグの「太陽の帝国」で、ETのかわりに零戦と指タッチしていた子役です(観た人ならわかりますね)。




 産業革命下の19世紀末ロンドンは、同時に科学時代の幕開けでもあり、人々の「見たことがないものを見たい」という欲望が、かつてないほど高まった時代だった。

 ううむ。このあたり、もと日本シャーロックホームズ協会会員の血が騒いでテンションがあがってしまう。

 映画自体は、バットマン・ビギンズで新執事になったマイケル・ケイン演じるトリック・ギミック開発者狂言回しに語られていく。

 若き日、共にマジックの腕を競ったジャックマンとベイル、だが、ある日の事故を機にふたりは憎み合うようになる。

 その後、袂(たもと)をわかったふたりは、それぞれが成功しそうな舞台には、お互いが、かならず変装して現れ、トリックをあばき、邪魔をし、あまつさえ傷つけあった。

 当時のマジシャンの夢であった、瞬間移動マジックを実現したベイルに嫉妬し、それを盗もうとするジャックマン。

 ストーリィは、めまぐるしく時間を前後しながらも、わかりやすい形で進んでいく。このあたり演出と監督がうまい。

 やがて、ベイルの罠にかかって、ジャックマンは、はるばるアメリカまで、ニコラ・テスラに会いにでかける。

 ほら、テスラが出てきたでしょう?
 映画では、デヴィッド・ボウイが、それだと言われないと、わからないような容姿でテスラを熱演しています。実際にホンモノ(写真)にかなり似ている!。

 ベイルは、テスラの、いわゆるテスラ・コイル(下写真)をつかって放電し、それを演出に使っていただけだったのだ……が、


 ベイルのしかけた奸計(かんけい)は、結果的に、ジャックマンに、驚くべき科学の力を与えることになる。

 いや正確にいえば恐ろしい力だ。

 ロンドンに帰ったジャックマンは、とうてい考えられない瞬間移動マジックをおこない始めた。

 100回限定と回数を区切って。


 その、あまりにスゴイ瞬間移動をねたんだベイルは、密かに舞台裏に降りていくが、そこで見たのは、水槽に落ちて溺死するジャックマンの姿だった。

 殺人犯として告発され、絞首刑を宣告されるベイル。

 だが、そういった表に現れた事象は真実とはまるで違うものだった。

 あまりにもスゴイ、マジシャンの業(ごう)。罪深さ。

 ベイルもジャックマンもだ。

 二人とも、瞬間移動トリックのために、常人では考えられないほどの犠牲を払っていたのだった。

 映画の最初からそうだ。
 観終わって、ぜひ、もう一度、最初に戻って少しだけ観なおしてほしい。
 そうすれば、わたしのいっている意味がおわかりになると思う。



 ネタばれになりすぎるので、「プレステージ」のはなしは、これくらいにして、テスラについてちょっとだけ書くと、映画でも少し触れられているテスラの実験は、20世紀に入って、さらにSF的に奇抜なものになっていったらしい。

 それらは、単語だけ並べてみても「世界システム」「オートマン」「スカラー兵器」など、聞くだけで想像力をインスパイアされるものが多い、が……

 これらのブツも、もし様々な業績抜きで、能書きだけを見れば、まるでドクター中松的発想のものが多いのだった。(もちろん、ゼンゼン違いますよ。本気にしないで)



 時は下って、1943年、マンハッタン・ニューヨーカー・ホテルで、看取る者もないままテスラが死ぬと、FBIが突然あらわれ、すべての資料を持ち帰ったそうだ。

 このあたり、戦後、アメリカが、石井四郎たちへの裁判免除と引き替えに731部隊の資料を密かに持ち帰ったことに似ているな。時代的にも近いしね。


 ニコラ・テスラに関しては、今後、彼をモチーフにした小説も映画などが数多く出てくるだろう。


 言い古されているが、「神か、悪魔か」「天才か詐欺師か」

 「ホンモノか、ニセモノか」

 テスラの評価は、まだ定まってはいない


 私のおすすめ:
変人偏屈列伝 (愛蔵版コミックス)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 9日 (日)

日本棋院の苦悩…… 来たれ第二のヒカルの碁

 大きな声では言えないので、小さな声でいいますが、文字の大きさは同じだった……わたしは、ほんの少しばかり囲碁をカジってます。

 メチャクチャ弱く、YAHOOゲームの囲碁デビューも果たせないほどなので、エラそうなことなど言えないのですが、わたしは、今心配しています。

 ヘボはヘボなりに、毎週、日曜昼の「囲碁講座」を録画し、詰碁に挑戦し、名人戦の新聞を切り取ったりして、一応精進をしているのですが、最近、日本棋院のサイトに、ちょっと気になるものを見つけました。

 日本棋院のサイト右真ん中あたりを見ていただければわかりますが、「第2回囲碁マンガ原作大賞募集要項」とあります。

 中身をのぞいてみると、どうやら、昨年、週刊碁創刊1500号記念として「囲碁マンガ原作大賞」を創設したそうで、今年が第二回ということのようです。

 ご存じのように、将棋ほどにはポピュラーでなかった囲碁を、一時的にせよ輝かせたのは、「ヒカルの碁」です。




 古くは柔道一直線や巨人の星、ちょっと下ってキャプテン翼やスラムダンク、テニスの王子様、あるいはアイシールド21など、マンガによって、愛好者人口が激増することがありました。

 囲碁も例外でなく、「ヒカルの碁」のおかげで、ずいぶん脚光を浴びることができたようです。

 「ヒカルの碁」がブームの時に、棋院をたずねた人によると、玄関ホールのガラスドアにも、エレベーター扉にも、「来週のヒカルの碁は〜です、みんなで観てね」といったポスターが、登場人物の画と共に描かれていたそうです。視聴率つきで

 そこには、取材協力をしているから、という理由だけでなく、「なんとか、この人気に便乗したい」という気持ちが見え隠れしています。

 将棋と比較すると、はっきりいって囲碁は斜陽です。

 将棋には、いま「ハチワンダイバー」もありますしね。

 習い始めてから、だいたい打てるようになるまで、大人で1年以上かかるようなゲームがどこにあるのでしょう。

 オセロなら、2分で理屈がわかって打てるようになる。

 実力も、囲碁の盛んな韓国など、アジア勢には、なかなか勝てないようです。

 底辺人口が少ないから当然です。

 だからこそ、ヒカルの碁はありがたかった。

 それだから、第二のヒカルの碁を求めてマンガ原作大賞を創設したのです。

 しかし、はたして、マンガが流行れば一定の割合で愛好者の数が増えていくものでしょうか?

 認知度の不足が、囲碁普及の敵でしょうか?

 わたしは、ちょっと違うような気がします。

 さきに書いたように、わたしも囲碁を打ちますが、才能の多寡(たか)はともかく、なかなか上達しないので嫌になることがあります。

 それなのに、プロで、指導する側の人々が、たとえ事実であったとしても、公然と「一応打てるようになるまでは、一年ぐらいかかりますよ」と言っているようでは、広く愛好されるようになるのは難しいと思いうのです。

 モヨウイロといった専門用語、というか、気分や雰囲気を漠然と表現する言葉で、局面の説明をするのもどうかと思います。

 初心者には、カカリシマリといった言葉ですら、専門的でカッコイイ、ではなく、なんとなく難しそう、という印象を与えてしまうと思うのです。

 すぐに覚えられて奥が深い、のが人気のあるものの共通点でしょう。

 最近の人気ゲームはすべてそうなっています。

 とっつきにくく、その上で、説明が(見かけ上)論理的でないように見えれば、初心者は敬遠してしまうでしょう。

 もちろん、いろいろと危惧して行動を始めている方々もおられるでしょうが、日本棋院全体として、安易にマンガ人気に頼って底辺人口を増やそうとせず、もっと根本的な、あえて言いますが、不人気の原因から目を背けずに対処してほしいと思います。

 対策をたてるまでのカンフル剤としてのマンガ利用なら、仕方がないと思いますが。


 私のおすすめ:
アンバランス 最強の囲碁 2008

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どこでも音楽を クロマチック・ハーモニカ

 子供の頃からずっとキャンプが好きで、数年前までは、毎年山にも登り、毎週のように郊外に泊まりに出かけていた。

 たき火をして、真夜中まで、その火を眺めているのが好きだった。


 アウトドアに関しては、登山やスキー、わたしの生涯の趣味である自転車旅行(サイクリング、とはちょっとニュアンスが違うんだなぁ)も含めて、近々、別コーナーを作りたいと考えています。



 たき火には、音楽が似合う。

 だけど、たき火の前で歌っていうのも、子供のキャンプファイアーぽくって嫌だなぁと思っていたら、ある時、知人がアコーディオンを弾くのを聞いて、なんて良いのだろう、と自分でも、たき火の前で、何か楽器を弾きたくなってしまった。

 ギターなら、なんとか弾けるので、まずマーチンのパックギター(いずれ紹介します)も購入した。

 だが、どうもメロディーを奏でられる楽器の方が、たき火には会うように思える。

 大人になってから始めたヴァイオリンは湿気に弱そうだったし、ウマくもないので諦めるとして、小さく手軽に持ち運べて、メロディーを奏でられる楽器は何かないかと考えたら、結局、ハーモニカにたどりついた。

 オカリナも買ったのだが、音域が狭すぎて、曲のレパートリーも狭くなってしまうのでやめた。


 その後、試行錯誤しながら、いくつかハーモニカを買ったが、半音もきっちり出せるものが良いので、最終的にホーナーのクロマチック・ハーモニカ255/48C クロメッタ12になった。

 横から突き出たレバーを操作することで、半音を出すことができるハーモニカだ。





 9500円と、まあ楽器としては手頃な値段で、どこにでも音楽を持って行けるので気に入っている。

 作家の井上ひさし氏は、かなり上手なハーモニカ吹きだそうだ。

 わたしは、うまいプレイヤーではないが、たき火を前に、アイルランド民謡、アニーローリーなどを吹くたびに、クロマチックの音色は炎の色に合っているじゃないの、と、ひとり悦に入っている。

 実際、理屈抜きで、結構いろいろな曲が吹けるものです。

 近頃の小学校では、ハーモニカではなくピアニカを使うのかもしれないが、一度でもハーモニカを吹いたことがある人なら、すぐに、そうでない人でも、しばらく吹けば、馴染みの曲などは、だいたい吹けるようになるはず。
(アノ、小室氏の、往年の曲のように音域が高すぎるモノ以外は)

 なにか楽器を始めたいなぁ、と思われている方なら、手頃な価格と、特に師匠につかなくても独自習得できるハーモニカがオススメです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 8日 (土)

手帳に貼りつける道具

 少しでも気になった資料は、手帳に貼り付けることにしている。

 あまり分厚かったり、大きいものは貼りつけないが、それ以外はどんどん貼る。

 以前は、スティックのりをつかって貼っていたが、さいきんはもっぱらこれで貼っている。




 いろいろな種類が出ているようだが、わたしが愛用しているのは、100円ショップで買ったものだ。

 これは、資料を貼るという点では非常に便利な道具だ。

 まず、手が汚れない。
 ワンステップでのりを塗布できる。
 結構強力である。

 前はスキャナで取り込んで印刷していたが、もう、そんな無駄なことはやらないことにきめた。

 すべてをデジタル化しない、と決意したところから、わたしのあたらしい手帳術は始まった。

 一時的に貼って、あとではがす可能性があるものは、3Mのスプレーを使っているが、これは別項にゆずることにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一番使いやすかった手帳用筆記具 〜Uni-ball Signo〜



 鉛筆、シャープペン、ボールペン、万年筆、水性インク、油性インクなどいろいろな手帳用筆記具を試してきたが、これが一番つかいやすかった。

 三菱ボールペン Uni-ball Signo

 わたしは、これを、そのときの気分と、強調用に何種類かの色を使って筆記している。

 まず、インクがなめらかに出てくるのがいい。

 ペン先がよく滑って書きやすい。

 0.28ミリの極細さで、手帳の余白に小さく書けるのがいい。

 さいわい、まだ老眼にはなっていないから、限られたスペースにたくさん書けるのはありがたい。

「今後、年をとって小さい字が見えにくくなったらどうしよう」とも思うが、今はこの細さがベストだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カリスマ美容師のミッション・インポッシブル

「おう、おやじ!アタマをスッキリ、スパッとやってくれ」
 席につくなり、源二郎は声を張り上げた。
「オグシは耳にかかるくらいでよろしいでしょうか?」
 場違いな客にも、冷静に彼は応対した。
「ばかやろう、なに気持ち悪ぃこといってやがる。男はすっきり二分刈りだ。バリカンを使え、バリカンを。だから、こんなところに引っ越すのは嫌だっていったんでぇ」
「かしこまりました」
「そんあとは顔剃りたのむぜ。孫がよぇ、なに?ボルチーモアってアメリカから帰ってくるからよ。ジイチャン、おヒゲいたーい、なんて言われるとツライじゃねぇか、キッチリ剃ってくれよ」
「あの、お顔を剃るのはちょっと」
「何を!おめえとこはトコヤじゃねえのかよ」
「はぁ。うちは美容院でして。白金台ではけっこう有名で、なんども雑誌に……」
「じゃ、ひげ剃りしろや!」
「いえ、お顔は……うちは美容院でして」
「おめえじゃ話にならねぇ。店長を呼べ、店長を」

 源二郎さん、すっかりオカンムリですが、この店では、顔剃りは不可能なんです。

 さすがのカリスマ美容師にも不可能なことはある。

 ひとつは、もともと顔の造作がトンデモナイのに、アイドルみたいにしてくれ、という無茶な要望に応えること。

 もうひとつは、顔を剃ることだ。

●美容院
 ・厚生労働大臣認定の国家資格を持った美容師が、美妖術を施す施設。
 ・できること
  ヘアカット、パーマネントウェーブ、ヘアカラー、ヘアマニキュア、
  結髪、化粧、着付け、最近ではマッサージなど。

それに対して、昔ながらのトコヤ
●理容院
 ・理容師法によって定められた厚生労働大臣認定の国家資格である理容師資格に合格した理容師が散髪を行う施設。

 歴史的な話をすれば、1879年(明治12年)、初めて「理髪人」の営業鑑札が発行され、以後、1901年(明治34年)「理髪営業取締規則」の公布後、正式な職業と認められた。
 さらに戦後新憲法の施行にともなって、1947年(昭和22年)に、それまでの警察管理下から厚生省(当時)の管理下に移され、現在に至っている……らしい。

 美容師との決定的な違いは、理容師のみがシェービング(顔剃り)ができることだ。

 現在、理容師は美容師の20パーセント程度しかおらず、その数は減り続けている。

 やっぱり、美容師の方が、体裁いいからかなぁ。
 女性の進出も美容師が多いだろうしね。

 それはともかく、あなたの通うサンパツヤが、いかにハイカラな施設で名前がハイソ(あー、ぞっとする言い方)なものであっても、顔剃りがあれば、それはトコヤっちゅうことですよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 7日 (金)

長命な異才 〜中川一政〜

 かつて、ある日本人が大地震にあった。

 震災から逃れるうち、彼は千駄ヶ谷で暴徒に囲まれた。

 お前はコリアだろう。
 この災害に乗じて火を放ち、モノを盗もうとしているに違いない。
 さあ、正直にいえ。

 関東大震災が発生した当時、実際にあった出来事だ。

 男は、いいえ違います。わたしは日本人です。本当です。

 そういって暴徒から逃れた……が、後に彼はこれを深く恥じた。

 確かに自分は日本人だが、なぜ、あの時、それを必死になって訴えねばならなかったのか。

 よしんば、自分がコリアであったところで、何のやましい事があろうか。

 後に、彼は俳優座の代表になり、芸名を千田是也(せんだこれや[これなり])と名乗った。
 千駄ケ谷のコレヤン(コリアン)をもじってつけたのだ。

 以後の彼は、戦時中(太平洋戦争)の思想弾圧にも屈せず、終生俳優座の代表であり続けた。

 五人兄弟の彼には姉がいた。

 その姉が嫁いだのが、本稿の主人公である中川一政だ。

 歌人としてその人生を歩み出した一政は、20歳の年に「酒蔵」で岸田劉生によって見いだされ、以後、洋画、水墨画、版画、陶芸、詩作、随筆、書と数多くの分野で異才を発揮した。




 すべてが独学だった。
 (書もよくした一政は、妻の出身校である津田塾大の記念館のために筆をふるっている)

かつて、セザンヌが言った、
「第一の師は自然である。第二の師はルーブルである」
を、その背骨として中川は画家人生を歩んだのだ。

 自然を真似て人の作品を観る、それこそが師を持たぬ中川の作画修行だった。

 梅原龍三郎に似たタッチの油彩は奔放で豪快だ。
 (実際に、一政は梅原との二人展もおこなっている)

 個人的に、わたしが好きなのは、初期の作品「山川呼応」(1933)と少し視点を変えて書かれた「山川冬晴」(1934)だ。




 陶器にも一政は画を描いた。

 武者小路実篤が、常設展目録2の後書きで、素晴らしい文を献辞している。
 記憶にたよるので正確ではないが、たしかこんな文だ。

「中川一政は、よくマジョルカを描く。
 マジョルカは高いが、そのマジョルカと、そう変わらない値段で作品が売れる中川は羨望に値する。
 だが、彼がそれを生み出すために過ごした艱難辛苦の時間に羨望する者はいないだろう」




 1949年、中川は真鶴に空き家を見つけ、妻に相談することもなく購入する。

 時に56歳。

 真鶴の景色が気に入って、数多くの画を描いた。

 のちには、車をつかって湯河原を抜け、箱根へ向かい、戸外で駒ヶ岳を書いた。

 およそ20年そんな生活を続けた。

 こんな言葉を彼は残している。

「わたしは、アトリエで戸外の画を描くことはできない。家に帰ってから記憶で画を描けるという者もいるだろう。だが、わたしは対象を目にしないと画は描けない。なぜなら、一方は感動で描いている。他方は説明で描いている。その力は自(おの)ずから違うのだ……」

 いつのまにか、彼は90歳を越えていた。
 だが、彼の創作のエネルギーは底を見せない。

 97歳の時、一政は下のような書を書いた。




 枯れるどころか、今からが正念場、とくるんだからタマりませんな。


 前にも少し書いたが、歌人でもあった一政は、言葉の扱いも巧みだ。
 かなり多くの随筆を書いていて、ほとんどの作品が秀逸だ。

 文庫に収録され、比較的、現在でも手に入りやすいものを以下に示す。

 中公文庫
 ・モンマルトルの空の月
 ・うちには猛犬がゐる(トレド滞在記を含む秀作)
 ・腹の虫(これに収録されている「尾道」はすばらしい随筆だ)
 ・裸の字
ちくま文庫
 ・中川一政文選

 ぜひご一読をおすすめする。



 先日、鎌倉に行ったついでに伊豆にまわる機会を得た。

 そこで、念願だった中川一政美術館を訪ねることができた。

 以下の写真は、伊豆半島真鶴にある、中川一政美術館の近景だ。



美術館正面



美術館横の公園にある復元アトリエ(無料)



真鶴先端部(ケープ真鶴)案内図

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生き残った男の子、残された男のはなし ハリー・ポッターシリーズ読了

 いろいろと書きたいことは山積しているのに、すぐに寄り道をしたくなるのがいけない。

 先日も、行きつけの大学図書館で、これを見つけて借りてきた。




 いわずと知れたハリー・ポッター最終第7巻「HARRY POTTER AND THE DEATHLY HALLOWS」〜ハリーポッターと死の秘宝〜上下だ。

 当初、ハリー・ポッター・シリーズについては、あまり興味がなかったので、いろいろと有名になってからも接触せずに来たのだが、何年か前に第2巻を公立図書館で見かけ、立ち読み!したところ、意外におもしろかったので、1、2巻を古本で買ってきちんと読んでみたのだった。

 「恐怖の伝説をまとう、名前をいってはいけないあの人」を物語の陰影にして、生き残った男の子:ハリー・ポッターを主役に魔法学校で暴れるズッコケ三人組といった内容は痛快で、特に二巻の「秘密の部屋」は面白かった。

 だが、読み進めるうち、誰が何を言い、どう行動しているがよくわからなくなってアタマがこんがらかってきた。

 わたしも偉そうに言えた義理ではないが、どうも、訳文の「てにをは」と、文章の組み立てがおかしいような気がするのだ。

 言葉の使い方もちょっと気になる。

 たとえば、「脱兎のように」は、比較的小さなイキモノが、すごいスピードで走っている様子をあらわしている。

 だから訳者は、少女がスゴイ勢いで走り寄ってくる様子を、「脱兎のように近づいてくる」と表記している。

 その気持ちはわかる。

 しかし、わたしにとって、脱兎、つまり逃げ出したウサギは、観察者(自分)から離れていくイメージがどうしてもうかんでしまうから、個人的に、「脱兎のように」は、走り寄る際には使わない。

 どうも訳者は英語が主で日本語が堪能ではない人なのではないか?

 そう思って、あとがきを読むと、下訳を日本人に校正してもらっているとのことだった。

 ならば、もともとの英語がおかしいのかもしれない。

 それを確かめるために、アマゾンUKから英国大人版4巻入りボックスというやつを買った。

 読んでみると、原文は、P.K.ディックのような純文学かぶれの読みにくいモノではなく、英国人の文章でもあるためか、端正でわかりやすい文章だった。
 同じディックでも、読みやすいディック・フランシス(競馬シリーズ)の文章のようだ。

 以降、ポッター・シリーズは英文で読んできたが(その方が早く読める。日本語版は遅いからね)、徐々に、あまり意味を感じない大作化をして読むのが苦痛になってきたため、6巻で読むのをやめた。

 安易に登場人物を増やしすぎ、世界観を広げ過ぎているような気がする。

 ラヴクラフト、じゃなくてアーシュラ・K・ル=グウィン(ゲド戦記)やトールキン(指輪物語)を意識しすぎているのだろうか?

 確かに、世界を救う男の子の話を書くなら、それは必要かもしれないが、別な、もっと良いアプローチもあったのではないだろうか?

 要は、あの人を倒せば良いのだから、舞台を魔法学校限定にしても良かったのではないか?

 ズッコケ3人組、魔王を倒す、の方が、わかりやすくアウトラインとして美しいような気がする。

 もっとすっきりした話のほうが、イイタイコトがきちんと読者に伝わるのではないかなぁ。

 そうすれば、大人を意識しすぎたあまり、コドモたちが離れていったシリーズ後半のを避けることができたのはずだ。

 ガンバの冒険(冒険者たち)をみよ。

 ジュブナイルでありながら、大人が読んでも遜色ない内容を持っているではないか!



 などと文句をいいつつも、7月末に出た最終巻(日本語版)が二冊揃って棚にあるのを見て反射的に借りてしまった。

 大きい声では言えないが、あまり勉強に熱心でない大学の図書館は、いつもひと気がなく、一般の図書館よりもはるかに最新刊が豊富にある。

 まあ、ポッターシリーズ自体、旬を過ぎているからかもしれないが借りるのは、わたしが最初だった。


 で、以下は感想です。



 相変わらず、読むうちにアタマが痛くなってきたが、なんとか最後まで読み終えた。

 まず感じたのが、最初に第7巻を書き上げてから、過去を書き始めたというのが定説らしいが、それならば、もう少し過去6巻を使ってバラまいた伏線を、一息に引き絞る力わざをみせて欲しかった、ということだ。

 ハリー・ポッターという長編小説のアウトラインの話だ。

 正直にいうと、わたしは長編小説が好きではない。
 なぜなら、ほとんどの作品がいろいろなエピソードの寄せ集めに過ぎず、全体を通したまとまりが感じられないからだ。

 書く側からすれば、これほど書きやすいものはない。

 ただ、小さい話を思いついてエピソードを並べ、本来なら連作として発表するべきものを、一冊の長編として売り出せば良いだけなのだから。
 (作家は、長編でないと一冊の本の形として売り出ないから、是が非でも長編を書かなければならないのだ)

 しかし、わたし個人としては、長編はそんな安っぽくあって欲しくない

 短編の連作が、結果として長編めいて見えるのは良いが、一本の長編ですよ、といった体裁で、その実、中身がいくつもの脈絡がないミニ・エピソードだらけという作品が、実際によくある。

 ただ、枚数をかせぐためだけに、無意味なエピソードを書いているだけなのだ。
 そういったスカスカ、ペラッペラな小説ではなく、長い話は長いなりに、美しくまとまって良いプロポーションであって欲しい。

 長編が似たような話の並んだズン銅なのはいけません。

 その意味で、ハリー・ポッターシリーズの伏線はかなり弱く、シリーズを通して俯瞰(ふかん)すれば、プロポーションに乱れが多い。
 つまりムダ話が多いのだな。

 グリンゴッツ(銀行)の小鬼や第二巻の日記など、ある程度は繋がっているのだがイマイチ弱い。

 それなのに、結果的に、例のあのひとを倒す一番のキモとなった、あのニワトコの杖の話は7巻で唐突に出てくるのだ。

 正しく杖を使うことのできる条件、杖の入手方法も、わたしの知るかぎり、最終巻まで、まったく触れられなかったはずだ。

 唐突すぎる。それはつまり、作者の構成力のなさの証明だ。



 ストーリーに関しては……

 こっちは、なかなか良かった

 全面戦争の中、重要な人々が傷つき、あるいは死んでいき、最後に彼の心の中の真実が語られ、やはり彼は勇気の人であったのだ、とわかる。

 これまでのシリーズを読んでいれば、薄々、そうじゃないかな、という伏線が、彼に関しては何本もひかれているのだ。

 このあたりの話が、本当に、すごく良い

 こうあって欲しい、というヒロイズム期待したとおりの形で語られる。

 読まれた人はわかるでしょうが、わたしがいっているのは、主人公のヒロイズムじゃないよ。主人公は、泣き言ばかりの(一見いじめられているように見える)甘やかされたガキンチョに過ぎない。


 本当のヒーローは、ずっと前の巻から、いや、物語が始まる前から彼だったのだ。

 最終巻のラストでそれが判明する。

 彼女が持つ魔女の資質に最初に気づいたのも彼、彼女に魔法学校の存在を教えたのも彼、
 最初に彼女とホグワーツ行きの列車に乗っていたのも彼だった。
 そして、自分を馬鹿にし、、目の敵にした、もっとも憎むべき軽薄な男彼女が結婚するのを、ただ見ていたのも彼だった。
 彼女の身が危うい事を知り、なんとか助けようと奔走したのも彼だった。

 だが、彼女の命を救えずに、彼はひとり残される。

 後に、憎い男と愛した女性との間に生まれた子供、目がその女性に似ている子供を、愛憎半(なか)ばする気持ちに揺れながら守り続けたのも彼だった。
 そして、彼は、誰にも顧みられず犬死にする。

 あ、そういえば、映画彼の役をやっているのはあの人だった。
 おそらく、映画の登場人物の中で一番芸達者なはずの彼なら、すばらしい演技を見せるに違いない。

 だから、最初から、あの人に、この役をさせていたのか。

 うーん。第7巻が映画化されたら、とにかく観に行こう……


 と、思わせるほど、本当に、このあたり、すごくイイんだけどなぁ。


 残念なのは、ストーリーを作る上で、やってはならないことのひとつを、作者がやってしまっていることだ。

 以前にもどこかで書いたが、小説技法には、金科玉条といってもよいことが、いくつかある。
 その一番目は、よほど奇抜な話でないかぎり、最大のライバルには決してヘマをさせてはならない、ということだ。
 敵にヘマをさせて主人公が勝つ。そんなストーリーなら簡単だ。
 2分で10本ぐらい作ることができる。

 敵が決して安易なヘマをしないスゴイヤツで、そいつをなんとか主人公が打ち負かすから、物語が生きるのだ。

 敵のすごさは、それに打ち勝つ主人公のすごさだ。

 敵の愚かさは、主人公の、物語を考える作者の愚かさだ。

 その意味で、ハリー・ポッターの誰もが恐れる「あのお方」はヘマ過ぎた

 愚か過ぎた。

 まるで恐ろしくない。

 大変な失敗をしてしまったものだ。

 ラスト近く、黙って死んでいった彼の人生を鮮やかに甦らせ、さらに19年後のラスト・シーンが切なく美しいから、なおさら最大の敵無知とヘマ自滅するような展開が残念でならなかった。
 
 もし、うわさどおり、最初に書いたのが7巻であるなら、およそ10年かけて1〜6まで書くうちに、作家として成長した自分の筆で、もっと7巻に手をいれるべきだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 6日 (木)

香水とオーデコロンとオードトワレ

 アロマ・テラピーというほどのものではないが、昔から気分転換には、香りを利用するようにしている。

 部屋に香を焚くのだ。

 アジアの香りきつめのインセンスではなく、白檀(びゃくだん)や伽羅(きゃら)などの日本の香を。


 祖母が健在の頃は、朝、目覚めて居間にいくと、ほのかに香のかおりが漂っていたものだった。
 京都で下宿する友人を訪ねると、玄関を入ったとたん、伽羅の香りがして清々しい気分になった。

 少し前まで、個人の家で香(線香)を焚くことは、ごく軽い宗教行事として残っていた。

 だが、大都市や、その衛星都市では、朝起きて仏壇に香を焚くということが少なくなったようだ。

 化学薬品の効果絶大な消臭剤を、長期間下駄箱の上に置くのも良いが、毎朝、あるいは気が向いた時に香を立て火をつける、という行為が、わたしには好ましいものに思える。

 さらいいうと、日本人の遺伝子が強いためか、部屋の香りはローズ・エッセンスなどのオイル系よりもお香系の方が好きだ。




 珈琲を炒ったり、点てたりする香りも気分転換にはよさそうだ。

 実際に珈琲のアロマは、体に良いらしい。
 セコくて恐縮だが、インスタント・コーヒー(概[おおむ]ねわたしはゴールドブレンド派だ)の封を切る時は、小さく開けた穴からあふれ出る珈琲の香りをしばらく楽しむようにしている。




 身につける方の香り、香水やオーデコロンに関しては、学生時代から資生堂のタクティクスを使っていたが、販売終了してしまってからは、金のある時ならばアラミス、ないときは使わないようになった。


 と、ここまで書いて、水とオーデコロンオードトワレの違いをはっきりと知らないことに気づいた。

 気になったので調べてみた。、


 日本では、ひとくくりで「香水」と呼ばれているが、正しく分類すると、香水はパルファンと呼ばれ、香料をアルコールに溶かした割合、いわゆる調合濃度が、もっとも高いものをいうそうだ。濃いだけに値段も高い。

 正式には5段階に分類されるそうだが、よく使われる3つを示すと、

●純度90度のアルコール溶液に対して、約15〜30パーセントの香料である香水(パルファン)

●85度のアルコール溶液に対して、5〜10パーセントがオードトワレ

●70〜80度のアルコールおよび蒸留水に対して3,7パーセントなのがオーデコロン。


 つまり、濃度の違いから、香水(パルファン)>オードトワレ>オーデコロンと分類されるそうだ。

 濃度の違いによって、残り香の変化の仕方などが微妙に変わってくるらしい。

 この香りの感覚って難しいね。
 本人が良い香りだと思って「香水」をたっぷり使っていても、他の人には、それがアロマ・バリアとでもいうべき、匂いの暴力であったりもする。


 そういえば、「フランスのパリは臭かった……」というトレーラー(予告)が印象的だった「パフューム」という映画がありましたね。

 ダスティン・ホフマンが犬死にする場面がやたら記憶に残っている映画だ。
 あれは、香りによって神になろうとした男の話だった。

 「パフューム」については、あらためて銀幕コーナーでとりあげます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 5日 (水)

わたしの手帳史6 〜こんな手帳を使ってきました〜

 書き込むスペースが小さいのをガマンして書き続けているうちに、その反動でA5サイズの2穴バインダーを使うようになりました。




 2穴バインダーなら、A4の紙を半分に切って、通常のパンチ一発でリフィル化できる上、A4の書類なら、まったく切らずにテッペンにパンチ穴をあけて半分に折って、そのまま横とじできるから便利。




 厚紙にパンチし、滑り止めのベルクロを裏にはって、ペンホルダーも自作しました。



 軽量化しようとした挙げ句、書けなかった反動ですごく重くなってしまったわが手帳遍歴ですが、このA5手帳も、やはり重いことと、なにより前に書いた、使い終わったレフィルを、なくさずに再利用できる形で保存する方法を見つけることができないために、使い続けることが難しくなってきました。




 ここまで、わたしが辿ってきた手帳の変遷を見ていただきました。

 次回から、そもそも、我々はなぜ手帳を持つのかという原点に戻って、それぞれの人にとっての、理想の手帳を考えていきたいと思います。


 その前に、ひとつ前フリを……


 年の瀬が近づき、あるいは年度がわりになると、本屋や文房具店に手帳術について書いた本がずらっと並びます。

 それらの、最近の傾向を見ると、手帳術の著者たちには、大きく分けて二通りの派があるように思います。

 ●ひとつは、従来通り、記憶を留め、仕事を効率化するための手帳利用法。
 ●もうひとつは、夢をかなえる魔法の道具としての手帳利用。

 さて、あなたはどちらの手帳術をとりますか?

[以下次号]


(一番上の写真左ページは、三重県二見にあるアフリカ芸術ミュージアム「マコンデ美術館」案内です。それについては。また別項で)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

わたしの手帳史5 〜こんな手帳を使ってきました〜

 ミニ6穴サイズのシステムノートです。

 やはり、リヒトの軽量バインダーを使っています。




 携帯パンチを買って、いろいろなものに穴をあけて閉じました。



 さらに、文庫本カバー付ミニ6レフィル手帳も手に入れました。




 これは、なかなか使い勝手がよかったものの、やはり分厚く重いという呪縛から逃れることができず、やがて使わなくなりました。

 それに、なんといっても、一枚あたりの文字を書く面積が小さすぎた。

 個人的な好みでは、あと、もう少し大きくないと使い勝手が悪過ぎる。

[以下次号]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

しばし時間を忘れる魔法

 わたしは何でも耽(ふけ)るほうである。

 モノゴトに耽溺(たんでき)してしまう。

 たとえば、家の中はもちろん、外出先、たとえば駅のホームなどでも本を読み出すと電車が来るのに気づかない時がある。


 集中力がある、といえば聞こえがいいが、単に注意力が多チャンネルでないだけなのだ。

 だから、誰かに教えて欲しい。次の行動に移る時間だと。


 そこで、わたしはコレを使っています。

 100円ショップで手に入れた、カウントダウン・タイマー。




 携帯電話をアラームに使う人もいるかもしれないが、これは設定のしやすさ、使いやすさがハンパじゃない。

 ヤッパ、専用に特化されてるだけのことはある。

 100分までなら分単位で簡単に設定でき、小型軽量、安価で無くしても惜しくない、という申し分のないマシンだ。

 音も大きいから、相当の雑音がある場所でも大丈夫。

 喫茶店など、静かな場所では、横に貼り付けたメンディングテープで裏にある穴をふさげば、20デシベル静音化する、ってそれは言い過ぎだが、ホント、静かなビープ音になる。


 昔、AMEXかVISAだったかのコマーシャルで、男35歳、趣味=仕事、恋人=妻、週末、仕事を忘れる、とかなんとか、あったじゃないですか。

 恋人=妻ぁ?もう、キザったらし過ぎるんだよ、ウマくネんだよ、と思うが、まあまあ落ち着いて、上記マシンさえあれば、そのCMで言うところの、「作業時、時間を忘れる」が可能になるんです。

 オススメしますよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 4日 (火)

わたしの手帳史4 〜こんな手帳を使ってきました〜

 中に入れる紙の重さは、コストの面から普通紙に印刷をしているために、これ以上軽くはできません。

 軽量強靱なもっと質の良い紙を使えば良いのでしょうか、手帳のための手帳ではないので、そんなにコストをかけたくはないのです。
 
 と、なると、リフィルを入れるガワ、つまりバインダーを軽くすることになります。


 


 リヒトのプラスティック製薄型バインダーは、比較的長く使いました。

 システム手帳の特徴のひとつに、中に入れる特殊リフィル、というか、パーツがあります。

 それは、ルーラー、モノサシであったり、付箋を貼っておくプラ版であったり、下敷きであったり、名刺入れであったり、チャック式のモノイレであったりします。



 

 そういったものの追加で、だんだん中にいれるリフィルが増えてくると、上のように、巻き込んで閉じることのできるタイプもつかいました。


 

 ロックがホック式で使いづらかったので、ベルクロ(マジックテープ)に変えてあります。



 しかし、いくらバインダーを薄くしても、中の紙自体の重さは如何ともしがたいので、とうとう紙自体を小さくしてしまいました。

[以下次号]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

わたしの手帳史3 〜こんな手帳を使ってきました〜

 これが、前回書いた、食事記録レフィルです。




 一枚を二段にわけて、それをさらに朝、昼、夜と区切り、それ以外を左側のサークルに書くことにしていました。


 毎回の食事を記録することが健康へつながる、と、どこかに書いてあったので、こういうものを作って、ほぼ毎日記録したのです。


 レフィルはあとで利用するために、下のような、BINDEXのフォルダに保管していました。




 しかし、食事記録を何年か続けたあとで、ある時、まったく見返すことが無いという事実に気づいて辞めてしまいました。

 突然、体重が減ったり増えたりすれば、その原因特定などにも有効なのでしょうが、大学以来、まったく変化がないので、記録する意味がないのです。

 こうして、何年間かは、人の意見になるほどとガテンして、作ったり工夫したリフィルを使うのですが、やがては使わなくなるのがほとんどでした。

 その原因が、システム手帳という紙を抜き差しできるというシステム自体にあったことに、後に気づくことになります。

 それに、システム手帳は、その構造から重くなることが多く、持ち運びが苦痛になってくるのです。

 そのあたりも、いろいろと試行錯誤をしました

[以下次号]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 2日 (日)

割安メモリー・スティックProDuo制作

 つまりは価格の下がった(1,000円程度)マイクロSDメモリを2枚使って、未だ値下がりの少ないメモリースティックProDuo4Gを作ろうということです。




 わたしは、毎日のようにPSPを使っている。

 しかし、ゲーム機としてではない。

 ゲームは、たまに友人からお呼びがかかったときに、xlink kaiで繋ぎつつ、スカイプで会話しながらモンスターハンターポータブル2Gをする程度だ。

 わたしは、PSPをビデオ鑑賞マシンとして使っているのだ。

 スカイパーフェクTVで録った映画や海外ドラマ、ヒストリーチャンネルのドキュメントなどを、片っ端から変換し、PSPに転送して、様々な場所で観る。

 わたしにとっては、ちょっとした空き時間に意味もなくメールを打っているよりは、はるかに有効な時間利用法だ。

 しかし、問題なのは、先に書いたように、メモリースティックがなかなか値下がりしないことだ。

 そこで、今回紹介するPhotoFast CR5400の出番となる。

 これは、携帯電話などに使われて値段がこなれてきた、マイクロSDメモリ、あるいは4Gバイト以上のマイクロSD(HD)メモリを二枚刺しして、PSP、だけではないが、メモリースティック Pro Duoにするコンバータだ。

 1ギガ1,000円ほどのマイクロSDメモリを2枚使えば、2,000円で4ギガのマイクロSDができるから、なかなかリーズナブルだ。

 ただ、注意しなければならないのは、メモリに相性があるようで、モノによってはPSPでうまく認識しない場合があるということだが、わたしが使っている分には、まったく問題がなかった。

 先日、高速を使って横浜まで移動した時には、12時間を超える動画をこのメモリにいれていったため、孤独で眠気をさそうドライブがまるで苦にならなかった。

 あ、もちろん、画面など観ていませんよ。

 音声のみ聴きながら、高速をすっとばしていたんです。

 オモシロかったのは、新バージョンの「犬神家の一族」だった。

 主役クラスを同じキャストで作りなおした市川昆監督の作品です。

 見かけはフケた石坂浩二も、声は若い頃そのままなので、声だけ聞いていると、数十年前の「悪魔の手鞠唄」や「獄門島」を聞いているみたいで不思議な気持ちになりました。

 この作品については、また別項で。


 いずれは、メモリースティックも値下がりするでしょうが、それまでは、こういったキワモノアダプターは、なかなか有効だと思います。

 そうそう、もうひとつ気をつけないといけないのは、このアダプターを使って作ったメモリースティックは、MagicGateには対応していないことです。

 携帯電話で試してみようとしたら音楽を聴くことはできませんでした。

 あと、個別にフォーマットしたメモリを二枚刺しても、ファーストディスクしか認識しません。
 もういちど、PSPでフォーマットをしなければ、合成メモリとしては機能しませんので、ご注意を。


追記:
 昨日、microSD(HC)メモリ4ギガ(1,980円)を2枚手に入れた。
 これで、4,000円たらずで8ギガのメモリー・スティックProDuoを作ることができる。
 先ほど試したところ、問題なく作動しているようだった。
 ああ、これで手持ちのグレンラガン全話と映画を常に持ち歩くことが、ってそんなモノのために、メモリ欲しかったんかい!


 私のおすすめ:
PhotoFast CR-5400

| | コメント (0) | トラックバック (0)

時間を戻して! USBからバックアップソフト起動


 誰もが知っている事だとは思うが、コンピュータを使っているとOSは重くなってくる。

 不完全きわまりないOSであるウインドウズは、使い続けるにつけ、不用なレジストリをふやし、知らぬ間に更新し、自壊していっているのだ。

 で、我々にできることはただ一つ、まっさらにクリーン・インストールしたばかりのOS、あるいは、それに必要最低限必要なFEPやソフトをインストールしサービスパックをアテた、生まれたてのシステムを保存し、システムがおかしくなった時に、まるで時間を戻すかのように、その状態に戻すことだ。

 そのために、バックアップ・ソフトが存在する。

 わたしが愛用しているのは、アクロニス、トゥルーイメージ・パーソナル2だ。

 2,000円程度という低価格ながら高性能。

 XPまでしか対応していないが、バリバリ仕事をしている人のほとんどはXPを使っているはずだから問題はないだろう。

 実際、このソフトはつかいでがいい。

 外付けのUSBハードディスクなどに、システムをバックアップしておけば、マシンにどんな障害が発生しても安心だ。

 しかも、単なる保険として使う以外に、メイン・マシンを様々な用途に特化することにも使える。

 たとえば、わたしは、友人とMHP2G(モンスターハンター)をXlink Kai経由で対戦するときなど、普段使用するソフトがいっぱい詰まったOSから、システムとスカイプ、Xlink Kaiのみの軽いシステムに変更する。

 そうすることで、少し処理が重いXlinkを、ごく軽いシステムで快適に使うことができるのだ。


 デスクトップ・マシンなら、CDから起動するように設定すれば、製品ディスクで立ち上げて、外付けHDにバックアップしたデータからCドライブを復活できる。

 ただ、欠点は、メディアがCDのみであることだ。


 わたしが何台か持っているノート・パソコンは、ほとんどが軽量小型ノートなので、1スピンドル、つまりHDしか積んでいない

 だから、バックアップはできるものの、システムがおかしくなった時などに、レ(リ)ストア復旧)ができないのだ。

 しかし、捨てる神あれば拾うソフトがあるのがコンピュータの世界。

 今や、1Gバイトが1,000円を切る価格になったUSBメモリにバックアップソフトをパッケージできる方法を先日見つけた。



 以下に、その方法を示します。便利ですよ。

1.まず、「HP ドライブ キー ブート ユーティリティ」を使ってブート可能なUSBメモリを作成する。(オプションは全部デフォルトでOK)

2.WindowsにインストールしたTrueImageの「ブータブル メディア ビルダ」で保存先をUSBメモリに指定。

 PCにUSBメモリを接続して電源を入れる。

 ロゴが現れたら成功。

 うまくいかなかったらPCのBIOS設定でUSBメモリ(リムーバブルメディア)ブートをブート順序1番にする。


 以上、たった2ステップで、CDドライブのないノート・パソコンで、簡単にUSB復活ができるようになるのでるから、うれしいですね。

 先日、こういった、さまざまなツールがUSBメディアで販売されるようになったことを知りました。

 やっぱり需要があるんだなぁ。

 でも、こっちの方法が、安くてメモリの流用もきくから便利ですよ。


 私のおすすめ:
ソースネクスト Acronis True Image Personal 2 [Win/日本語] (72...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イイクニつくったか? 鎌倉探訪5(Last) さらば江ノ島

 もうちょっと見ていたい、と、後ろ髪をひかれる気持ちで大仏をあとにして、江ノ電長谷駅に向かった。

 あたりは、まだ明るいが、秋の陽はつるべ落とし暮れていくものなので油断はできない。

 なんとか、陽の沈む前に江ノ島に戻って夕景を撮りたかった。

 その一念で、つい早足になる。
 
 下り坂でもあったため、思ったより早く長谷駅につくことができた。

 平日、夕方の江ノ電の本数は多く、すぐに江ノ島行きがやって来る。

 市電に似た狭い車内で、つり革につかまり、景色を眺めていると、稲村ヶ崎あたりで海が見えた。

 暗くなりつつあるカワタレドキ、海の中に何か黒いものが、幾つも突き立っている。

 何かと思ったらサーファーだった。

 そういえば、江ノ島駅に行く途中に何人もの熟年サーファーを見かけた。

 日本も、白髪を茶髪に染めてサーフィンにうち興じる熟年セダイが、多く現れるようになったのだなぁ。

 思えば、稲村ヶ崎とはあのクワタケイスケ監督稲村ジェーンの舞台であったか。

 夕刻の海、三々五々と並んで立つ黒い人影、といった構図を、どこかで見たことがあると思ったら、東宝の「海底軍艦」に出てくる、ムー帝国人(今と違って、当時はムゥと下がる発音をするのだ)が海底から現れるシーンに似ているのだった。




 江ノ島駅につき、海辺を目指す。

 行く時はあまり感じなかったが、駅から海辺まではけっこうある。

 半分駆け足になって、海辺と富士山が見えた瞬間にシャッターを切った。

 アングルが悪かった。

 しかし、もっと画角の良いところに着くまで残光があるかわからないのだ。



 やっと海辺に出て、富士山を撮ったが、光量不足は否めなかった。



 まあ、撮れただけでもヨシとしましょうか。

 だいたい、身軽さを優先して、メインの一眼レフも、サブのコンタックスも持たず、デジタル・スナップカメラだけ尻ポケットに突っ込んでの散策なのだ。

 贅沢はいうまい。いえまい。



 ネコに餌をやり、自作LEDライトを手に江ノ島へ向かう。

 出来れば明るいうちに行きたかったが、仕方がない。

 ヒトは何もかも手に入れることはできないのだ。

 江ノ島からは、数多くの帰り客とすれちがった。ほとんどが男女のアヴェックだ(えーと、今はカップルっていうんだったっけ?)。

 江ノ島着、午後5時25分。延々と続く坂を見上げて6時閉園の展望台はあきらめる。

 ともかく、行けるところまで行ってみようと、青銅の鳥居(せいどうのとりい)をくぐり、海の幸の焼かれる参道を登っていく。

 日帰り入浴できる温泉などもいくつかあり、やはり、もう少し早くくるべきだったカモ、とちょっと後悔する。

 江ノ島神社の入り口あたりには、もはや人影はなく、明かりもすくない。

 右手をみると、真っ暗な中に、「エスカー乗り場」の文字が……

 これが有名な江ノ島エスカー(レーター)なのだ。

 初めてエスカーというコトバを聞いた時には、なにか流線型かつ楕円形の未来的な乗り物をイメージしてしまった。だって、カーってでしょう、フツー

 ま、じっさいは上の通りのレーターをとっただけのものだったわけだが、それでも、ゲンブツを見てみたかったなぁ。

 もちろん、今は動いていない。中も見えない。人もいない。


 仕方がないので、PSPみんなの地図3+GPSを頼りに、サムエル・コッキング苑を目指す。

 何人かすれ違う帰り客は、やはりカップルばかりだ。

 かなり長い階段を上って、やっと公園の入り口が見えた。

 当然ながら、閉園されている。

 仕方がないので、しばらく椅子に腰掛けて休んだあと階段を下った。

 帰る道すがら、数多くのネコをみかけた。

 皆、一様にのんびりと落ち着いた顔をしている。

 声をかけると、返事するノンキ者もいた。

 どうやら江ノ島は、良い島らしい。




 ところで、江ノ島には、江ノ島、江の島、江島の3表記が併用されているが、いったい、どれが本物なのだろう。

 時代物で使う時は江ノ島にするが……と思って調べてみると、ここに説明がありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イイクニつくったか? 鎌倉探訪4 いまそこにいる鉄人(銅人)

 徒歩用地図として重宝しているPSPみんなの地図3+GPSによると、観光地図に載っているように、一度、由比ヶ浜駅に戻って、ひと駅となりの長谷駅で降り、鎌倉大仏へ向かうより、文学館から直接歩いた方が早そうなので歩くことにした。

 大仏へ向かうまでの、文学館近くの住宅地は、おそらく我々がもつ鎌倉というイメージにもっとも近い閑静な場所だ。

 軒先で飼い殺しにされている血統書付きの犬はおらず、町並みには、今でこそコンクリートの塀で囲まれてはいるが、数年前までは、きっと、あのなつかしい板塀で囲まれていたに違いないと思わせる雰囲気が残っている。

 もちろん通りすがりの視線と、そこに住む者の視線は違う。

 安易にわれわれが憧れる生活も、そこに住む人々にとっては、それなりの苦労があるに違いない。

 それにしても、静かで気持ちの良い住宅地だった。


 歩くうちに、ほどなく鎌倉大仏に到着した。

 拝観料200円を払って中に入ると、目の前に国宝銅造阿弥陀如来座像、いわゆる鎌倉大仏がそびえていた。

 奈良の大仏は見慣れているが、それとはまた違った迫力がある。

 なにより、背後に山を背負っているのがイイ。




 なんというか、ウルトラマンなどの巨大ヒーローに通じる何かを感じる。
 おそらく大仏が戸外にすっくと立っている(実際は座っているが)からだろう。

 いや、違う、違うな。実のところ……

 造形自体がうまいのだ。一流の芸術家の手になったもののように。

 このアングルだと、本当に生き生きとした表情で、何かを説法し始めそうに見えるほどだ。



 鎌倉大仏には、左腰のあたりから地下におりる階段が伸びている。

 そこには係員がつめていて、20円支払えば階段を降りる許可をくれる。

 もちろん入りましたよ。

 大仏内部に入って、さらに感銘をうけました。


 わたしは、はじめ、それを体内巡りだと思ったのだった。

 長野善光寺のように、中に入ったら真っ暗で、その中でヘソ、というか鍵を捜しあてたら福を授かるというあれだ。


 だが、実際は違った。

 中にはなにもなかったのだ。
 まさしく中身は空洞で、内側から仏像の凹凸が分かるだけだった。

 足下には、仏像建立の方法がパネルで示されている。

 見上げるとこんな感じだ。
 


 へこんでいるのは首の部分だ。

 以前に、同じものを、どこかでみたと思ったら、自由の女神だった。
 今では自由の女神のカンムリ部分に登ることは禁じられているはずだが、わたしがニューヨークへ行った当時、同時多発テロ以前は登ることができたのだ。

 自由の女神も、内側から外部の凹凸が見て取れた。


 しばらく見ているうちに、なんだか妙な気分になってきた。
 ところどころをリベットどめされている巨大なヒトガタ。
 どこかで見たような……

 なんだ、鉄人28号じゃないの。ジャイアントロボといってもいい。

 スペックによると、座高11.3メートル、重量121トン。
 まさしく、駆動部分のない、モックアップ鉄人(銅人)が鎌倉大仏なのだ、ってさっきから、オソロシク罰当たりなことを書いているな、わたしは。
 おそらく、今は左脳しか機能してないんだよ今は、たぶん。


 原作者も含めて、鎌倉大仏創建に関わる事情もナゾに包まれているというのも良い感じだ。
 おそらく、鎌倉大仏の原型制作者は天才だよ。

 かつて仏を納めていた大仏殿は、1369年に台風によって損壊したといわれているが、間近で大仏の表情を見ていると、大仏自体が、覆いを嫌って破壊したのではないか、という気がしてくる。

 崖を利用して切り出した磨崖仏(まがいぶつ)などではない、いちから人が作り上げた巨大なヒトガタには何か尋常でない力を感じる。

 自分たちの祖先である、技術不足で小型化できなかった巨人アダムに似ているからだろうか?
                       (「ふしぎの海のナディア」より)

 神は自らに似せてヒトを作り出したそうだ。
 ならば、ヒトが自らに似せて作り出したヒトガタは、ナニモノなのだろうか。
 おそらくデキが悪ければ、ロボット、あるいは人形と呼ぶものになるだろう。
 では、デキが異常に良ければ?
 コトバの遊びだけで考えれば、ヒトガタがモデルにしたヒトを越え、大きく、美しく、力強くなれば……自身をモデルにヒトを作り出したあのヒトになってしまうリクツだ。

 だから、ヒトは、ヒト以上のヒトガタを作りだしたいと願うのだろう。

 それを恐れて偶像崇拝を禁止する宗教も多い。




 世の中には、実際に行って目にしないとわからないものがたくさんある。
 わたしにとって、鎌倉大仏がそうだった。

 見飽きた奈良の大仏が外に出ただけの仏像だろうと思ったら大間違いだ。

 まさしく、ネコは飼ってみよ、妻は添うてみよ、仏(ブツ)は見てみよ、であった。

[まだ、つづく]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 1日 (土)

イイクニつくったか? 鎌倉探訪3 文学館 吉田秀和

 再び江ノ電にのって、由比ヶ浜駅で降りる。鎌倉文学館に行くためだ。

 由比ヶ浜駅は無人駅だった。



 しばらく住宅地を歩くと坂になり、その先に少し大きめの門が見えてくる。

 その雰囲気はミュージアムといったモノではなく、金持ちの門扉といったカンジだ。

 この印象は間違っておらず、もともとは旧前田侯爵の別邸であったものを、市が寄贈され、鎌倉在住の文学者記念館にしたのだった。

 門をくぐると、鬱蒼(うっそう)とした森林のトンネルが続いている。しかし、それは人を不安にさせる暗さではなく、静謐(せいひつ)さを感じさせる落ち着いた静けさだ。



 しばらく行くと、無愛想なオヤジが切符を販売する小屋があった。
 パーク&レールライドチケットを見せると一割引になる。

 その先、さらに石畳の道が曲がりながら続いており、個人の家の庭なのにトンネルまである。さすが旧華族別邸だ。



 トンネルを過ぎ、しばらく歩くと、やっと建物が見えてきた。
 所々和風を取り込んだ洋館だ。
 建物のところどことにはめ込まれたステンドグラスが美しい。



 大きく弧をえがく石畳を上って玄関にむかう。かつてはここに馬車がついたのだろうか?


 時刻も夕方近かったためか、混雑はしていなかったが、それでも何人もの観光客が行き来していた。
 文学館という性質のためか、女性がほとんどだ。

 玄関に入ると、赤いカーペットが敷き詰められていた。

 靴を脱ぎ、荷物をロッカーに預けて第1展示室に入る。

 中には、川端康成をはじめとした鎌倉在住の作家の紹介と、直筆原稿などが品良く展示されている。

 ほとんどの作家は悪筆で、それをみて少し安心した。

 原稿の筆跡が美しく、手に入れて飾っておきたいと感じたのは島崎藤村だけだった(個人的な感想です)。




 企画展として「吉田秀和 音楽を言葉に」をやっていた。

 音楽評論家として著名だという吉田秀和だが、恥ずかしながら、わたしはよく知らなかった。

 わずかに「新聞などでたまに音楽評論をしていたなぁ」くらいの印象しかない。

 だいたい、企画展のタイトルではないが、音楽をコトバで批評する、ことは難しいのではないか、というのが、わたしの考えなのだ。

 もっとも、音楽評論で、きちんと読んだものといえば、ヨマネバナラヌ、と学生のころに無理して読んだ小林秀雄の「モオツアルト」だけだから、エラそうなことは言えない。

 「モオツアルト」は面白くなかった。
 逆説を多用する高飛車な小林の文体は今でも好きではない。



 1913年生まれの吉田秀和は、ドイツ語を阿部六郎にならい、フランス語をあの中原中也に学んだという。しかもいまだに健在!

 東京帝国大学文学部フランス文学科を卒業し内務省情報部に勤務するが、やりたいことをやって死にたいとの思いに突き動かされ辞職。

 以後、しばらくは、発表するあてのない音楽評論を書きまくっていたという。

 中原中也の名が出れば、当然、小林秀雄の名も出てくる。
(コバヤシハチュウヤノコイビトヲリャクダツシタノダカラ)

 小林秀雄は吉田秀和をライバル視して、さきの「モオツアルト」を書き上げた時には、これ見よがしに自著を吉田に見せつけたという逸話が残っている。

 吉田秀和が幼い女の子と手をつないで写っているモノクロ写真が展示されている。
 キャプションには中村紘子と、とある。
 小澤征爾との写真もある。
 彼が初代室長となった「子供のための音楽教室(1948年)」の第一期生が彼らなのだ。


 少し年をとってから吉田はきれいな女性と結婚した。

 その女性、バルバラ・クラフトは可愛く美しい女性だった。
(イヤホント、写真でみても驚くほどきれいな女性なのだ。ここに写真があったら見せたいよ)

 可愛さと美しさ、その双方を、この順番で兼ね備えている女性がきれいな女性なのだ(かぶらや独断)。

 何枚か展示されている、その全ての写真で、彼女は可愛く美しく写っている。
 つまり、本当にきれいな人だったということだ。

 吉田は妻を愛し続け、2003年11月に彼女が死ぬと失意のあまり筆を折った

 背を丸め、下を向いて死に至る道を探し始めた。


 しかし、数年後、彼は再び立ち上がり、背筋を伸ばし、音楽評論を再開した。

 おそらく、彼を愛した妻が、彼に何を求めていたかを思い出したのだろう。



 人の人生は、漫画家の描く線に似ている(書家の文字っていわないところがイイ?)。

 細く入り太く描き細く払う

 その長さには長短があり、太さにも差がある。

 吉田秀和の人生は、太く入り、太く走って、太く払われる一本の線なのだろう。

 ひとことで言えば、太い人生を歩んできた男だ。

 ともかく、今度、大学図書館で吉田秀和全集を借りてみるつもりだ。

[つづく]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イイクニつくったか? 鎌倉探訪2

 円覚寺(エンガクジ)を出て、線路沿いの道を鶴岡八幡宮まで歩くことにする。

 歩道は狭く交通量は多い


 途中、立派な門を持つ建長寺の横を通った。



 そのすぐ横に鎌倉学園があった。寺のすぐ横に学校とは珍しい……と思ったが、京都でも、南禅寺の横に東山高校がある(レッドソックスの岡島の母校のはず)のを思い出した。

 寺と教育とは親和性が高いのだ。



 そこからさらに少し歩くと、変わったつくりの落石防止柵?があった。

 まるで、ナディアで言及されていた、人類のプロトタイプ、巨大アダムの肋骨のような形をしている。

 わたしの前をいく老人もエビぞって感心しているようだ。歩道は、やはり狭い


 
 さらに坂を下っていくと、瀟洒(しょうしゃ)な建物があって「鎌倉欧林堂サロン」という看板がかかっていた。


 おそらくは喫茶店だろうが、前知識がないからわからない。有名な場所なのだろうか?

 その先は、すぐに鶴ヶ丘八幡宮だ。
 駅ひとつぶん歩くだけだからあまり距離はない。


 個人的には、鶴岡八幡宮よりこっちの方が気にかかる。


 もう少し歩くと、リサとガスパールっていうストーン・ショップがあるかもしれない、と思わせるところがイイじゃないの。

 で、鶴ヶ丘八幡宮
 


 サラリーマン風の人物が、外国人に絵馬の説明をしていた。
 ジスイズエマ。アカインドオブウイッシュボードってな具合だろうか。

 宮内は、さすがに人は多かった。

 遠足や修学旅行の生徒も多い。

 ここで、社内の休憩所に立ち寄った。
 子供の頃から、大社に行くとかならず無料休憩所に行くことにしている。
 なんだか、こういったところが一番、そのヤシロの特徴、雰囲気が出ている気がするからだ。
 大げさにいうと、休憩所で働く人が、その大社の質を決めている。
 親切な人、横柄な人、気の利かない人、優しい人。
 働く人それぞれが、その大社気質だ。

 結論からいうと、鶴ヶ丘の休憩所はヒジョーによかった
 雰囲気も態度も申し分なし。
 あんまり気分がよかったので、調子にのって、チャーハンとユズビールソフトクリームを食べた、って、単に歩いてハラが減っただけだったかも。

 チャーハンはうまかった。
 ユズビールは、初モノだったので寿命が延びそうだ。
 なんせ、ユズとビールが入ったアイスですよ。
 実際に食すと、柚の味、香り、そして時折歯にあたる柚の皮がなかなか結構。
 しかし、肝心のビールの存在は、どこにも感じられなかった。
 残念。(個人的に、わたしにとっての銀河イチうまいソフトクリームは、長野善光寺前の味噌ソフトクリームです)

 腹もくちくなり、満ち足りた気分で参道を下っていくとタイコ橋が見えてきた。


 しかし、残念なことに、「このはし、わたるべからず」と柵で囲まれてしまっている。
 大阪の住吉大社のタイコバシはいつでも往来自由なのに……
 記念に渡っておきたいのに残念だ。
 いっそ、サクを越え、橋の真ん中をさっと渡ってしまえば良かったかも?
 しかられたら、「はしわたるべからずだから、真ん中を歩きました」って、一休さんかい!


 門を出て、しばらく行くと、鳩サブレ本店があった。
 鳩サブレは、土産にもらったことが何度かあるが、鎌倉名物だったんだな。
 そういや、小学生たちがみんな鳩サブレのフクロをお土産に持っていた。
 鳩サブレは好きです。


 サブレはともかく、ひとこと苦情をいわせてもらえれば、この参道もまた歩道が狭い

 おまけに、車の交通量が多く、トラックがどんどん歩行者のすぐ脇を、かなりのスピードで走っている。

 車椅子を押したグループと何度かすれ違ったが、彼らが歩道ぎりぎりで対向するのをみていると、鶴ヶ丘八幡宮とその周辺は、'''障害者に対する配慮がまっ
たくない'''のではないかと思ってしまう。

 おそらく、わたしが今までいった参道のなかで、一番場危なく狭い道だろう。

 考えてみれば、道の真ん中に参道を通し、その両側に車道、さらにその外側に歩道をとれば、それぞれの道は小さくなってしまうのは当たり前だ。

 いっそ、道を統廃合?して広い車道と広い参道だけを作った方が良いのではないだろうか?

[つづく]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イイクニつくったか? 鎌倉探訪1 〜円覚寺舎利殿〜

 インフォメーションにも書きましたが、今朝まで、横浜、鎌倉、東京方面に出かけてきました。

 以下はその覚え書きです。




 27日未明、車にネコ3匹とを積んで出発。

 富士見SAに着くころに明け方を迎えたので、お約束のフジ&夜明け撮影を行う。

 日本の誇るフジヤマ(登ったことはないけれど)



 太平洋からのご来光。



 その日は、横浜で仕事をすませ宿泊。




 翌朝、江ノ島へ向けて出発する。

 ずっと前から、江ノ電にのって江ノ島へ行きたかった。

 たまに、江戸を中心とした時代モノを書くことがあるが、よく江戸庶民の江ノ島参詣が話題になるので、行ったことがないのは、いかにもマズイし、なにより島のカタチがフランスのモン・サン・ミシェルや英国西端のマラザイアンみたいなのが良くて一度見てみたかったのだ。

 海から突き立った島、城は、それだけで行く価値がある(ハズ)。

 しかし、横浜生まれの知人(複数)にそういうと、

エノシマですか?あそこ、そんなにイイものですかね

 と、かなりケイベツの混じった目で見られてしまった。

 そこで、今回は、彼らを誘わず、パーク&レールライドを使って、江ノ島と鎌倉、江ノ電を全部経験してしまおうと考えたのだ。

 江ノ島パーク&レールライドとは、エコロジーと交通渋滞緩和を目的に、江ノ電沿いにある「七里ヶ浜」「稲村ヶ崎」「江ノ島」パーキングに車をとめ、江ノ電を乗り降りして鎌倉各地を巡る観光システムのことだ。

 駐車時間5時間と、乗り降り自由フリーパスがついて1500円。あといくつか、パスを見せることで施設の割引が使えるという特典もある。

 というわけで、横浜・管内から江ノ島にめざして車を走らせる。

 噂には聞いていたものの、横浜−藤沢の国道渋滞のひどさは相当なものだ。
 わずか数キロ進むのに、小一時間かかってしまった。

 まあ、駐車時間は5時間だし、あまり急いでも、早く駐車場に戻らなければならないだけなのだから、あわてる必要はないのだ。

 午前11時、江ノ島着。

 うーむ。この写真ではわかりにくいが、本当に突き立っているな。 空はすっかり秋の雲だ。



 江ノ島の橋のつけ根?のパーキングに車を停める。
 部分的に、立体駐車場になっているのがありがたかった。
 涼しくなったとはいえ、露天に置いておくと、車内が高温になってネコの健康に悪いのだ。

 駐車場から15分ほど歩いて江ノ電、江ノ島駅に着く。
 平日ではあるが、行楽シーズンのためか観光客は多い。



 鎌倉駅着。

 途中、前の席に、びっくりするくらい短いスカートをはいてマスクをした女子高生が座った。
 ずっと軽い咳をしていたようだから、他人にうつさないようするためのマスクなのだろう。
 小顔にゴツイマスクと、ミニスカートというアンバランスさに驚いていると、彼女はメールを何本か打って、さっさと降りていってしまった。
 駅の名前は鎌倉高校前だ。

 鎌倉駅で乗り換えてひと駅、北鎌倉まで行く。
 これは江ノ電フリーパスは使えないから実費だった。

 わざわざ北鎌倉まで足を伸ばしたのは、ここに円覚寺舎利殿(エンガクジシャリデン)があるからだ。

 すこしの差で、公開期間ではなかったが、「なんせ、アノ有名な建物なのだから一度は見ておかねば」、と思ったので、拝観料300円を払って中にはいった。
 外国人と小学生の姿が目につく。

 階段を上り、坂を歩くと舎利殿だ。

 現在は公開されていないので、竹柵のずっと手前から遠くに拝むだけ。

 が……その瞬間、まるでモナリザを前にしたアメリカ人が一応に言コトバ、そして、かつてわたしが、ダリの「溶けた時間」ゲンブツを目にした時に叫んだコトバをふたたび発してしまった。

「But It's so small!」

 そりゃ、デカけりゃイイってもんじゃないけどさ、屋根は萱葺きで、遠目に見るだけでは造りの特徴すらわからない。

 せめて夢殿の小さいヤツみたいなのが建っているのかな、なんて勝手に思いこんでいた自分の無知さがうらめしい。しかし、そういや、教科書にはこんなのが載ってたなぁ。

 おまけに、舎利殿の前庭では、近々公開の準備のためか、寺男たちがせっせと木の剪定(せんてい)や掃除に余念がなく、はっきりいうとじゃまだった。



 まだ帰りに見た、寺左手の小高い丘にある梵鐘のほうが見る値打ちがあったような気がする。

 寺の鐘は、機能と造形がきっちりと一致している良い道具だからだ。

 鐘が置いてあるのは、かなり高台で、急な階段は運動にもなる。
        (個人の感想です。商品の効能を保証するものではありません)



[続く]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »